Kamishibai・イズ・コミュニケーション・02

f0223055_12111115.gif目と目が通じ合うところから


紙芝居というかたちをとっていても、ときどき、
必要以上のオーバー・アクションや派手な表情を作って演じる演じ方を目にすることがあります。
子どもたちが楽しみさえすれば、それはそれで、パフォーマンスとしては大成功だと思います。
とは思うのですが、最初から最後まで絵なんかそっちのけであるとしたら、
紙芝居としては失敗なのかもしれません。

紙芝居としては、観客の視線は、絵に集める必要がある。

じゃあ、紙芝居としては、演じ手の表情なんか、どうでもいいのではないか。
絵に隠れて、寝転び、頬づえをついて声を出していたって、声さえ完璧ならいいのではないか。
と思うんですが、どうやらそうではない。

観客は、画面に視点を集めながらも、
その視界の端っこで、演じ手の顔や姿を確認しているようなのです。

だから、観客が「演じ手の表情」を見るといっても、
芝居やドラマのように、まじまじと注視するわけではありません。
表情から何かを読み取ろうとしたり、表情の演技を鑑賞するわけではない。
けれど、視界の隅っこで顔は見ている。
時折、ちらり、ちらりと演じ手と目線を合わせたりする。
そうして、 表情を「感じている」のです。

f0223055_12125513.gif


この視線の交わし合い、通わせ合いというのは大切だと思います。
アイ・コンタクトというやつですね。

詩人の谷川俊太郎さんは、
このアイ・コンタクトということをアメリカの詩人たちから学んだといいます。

自作の詩を暗唱するという、とあるパフォーマンスの会場。
ここで、アメリカの詩人たちは聴衆を前に、
たっぷりとアイ・コンタクトをとりながら語っていた。

そこで、いっしょに参加した谷川さんも、自作の詩の朗読で真似てみる。
朗読では 、 暗唱と違って本から目が離せないわけですが、
朗読のその切れ目切れ目で、聴衆とアイ・コンタクトをとるようにした。
すると、その伝わり方はまるっきり違ったのだそうです(1)

それは、かたちだけでも違うのでしょう。
演説でも、原稿から目を離さずに語りながら、時折チラッと聴衆に視線を送るような場合。
反対に、時折チラリ原稿に目を走らせながらも、しっかり聴衆に視線を据えて語る場合。
──両者は、印象がまったく違います。
その違いは、
視聴者と生のアイ・コンタクトをとることがないテレビというメディアでもあらわれる。

アメリカの大統領のテレビ演説などで始まったテレビ撮影のシステムがあります。
撮影しているカメラのすぐ横に、原稿のテロップを画面表示してスクロールさせるシステム。
すると演説者は、机の原稿の方へ目を泳がせることなく、
視線をTVカメラの方向に向けたまま、
つまり、その向こうの視聴者へ視線を向けたまま話すことができるという仕掛けです。
実際には、テレビをながめている視聴者の姿が演説者に見えているはずはなく、
アイ・コンタクトは一方通行の擬似的なかたちです。
しかし、視聴者への好印象の効果、説得力は確実にあらわれる。

f0223055_12125513.gif


話しを聞くだけならば、耳だけ傾ければよさそうなものです。
が、目を合わせながら話したり、聞いたりすると、なぜか伝わり方が違う。
それは、視線を交わし合うことが、コミュニケーションの基本であるからでしょう。

生まれたばかりの赤ちゃんは、人間の顔に関心を示します。
顔の中でも、特に目を見る。
母乳を飲んでいるときには母親の目を。
また、まわりで話しているおとなの目を。
7週以上の乳児は、起きているときの90%以上の時間を費やして、
人の目を見つめているのだそうです(2)

小さい頃から他人の目を見てその感情を読み取り、共感したり、反応したり。
人間は、そうやって自分の感情や心を育てていくんですね。


心理学者のナップによると、
ふつう、人がアイ・コンタクトをとろうとする場合、4つのパターンがあるそうです(3)

 (A)好意を示すとき
 お互いに目が合ったアイ・コンタクトから、恋も始まったりしますよね。

 (B)敵意を示すとき
 いわゆる「ガンをつけた」つけないでモメたりするのが、これです。

 (C)連絡をとりたいとき。
 たとえば、どこか会場のホールなどで離れた相手と話そうとするとき、
まずその相手に視線を送って話すきっかけをつかもうとします。
 そんなときにも、アイ・コンタクト。
 見ず知らずの相手でも、視線を送られれば、何か連絡を取りたがっているのかと理解し、
「何か御用でしょうか?」と応じたりすることになります。

そして、
 (D)フィードバックを求めるとき。
話し終えたり、話しの一区切りで、
「わかった? どう?」と相手の反応をみるために目を見るわけです。

自分が相手に伝えたことのフィードバックを、アイ・コンタクトで確かめる。
そうして相手が理解しているか、話しについてきているかを確認します。
また、その話しに納得しているのか、あるいは反発しているのかを見たり、
相手にどんな感情や反応を呼び起こしているかを確認しながら、会話を進める。

話しを聞く側も、 「うん、うん、わかった、なるほど」と共感したり、
興味をひかれるときほど、相手を見つめる時間が増えます。
話を聴こうという態度が目にあらわれる。

逆に、気の合わない相手や、関心のない場合には視線を合わせないようにします。
アイ・コンタクトをしないようにする。

たとえば、筆者は学生時代、しょっちゅうだったのですが、
授業中、先生の質問に答えられないとき──先生と話したくないときには、
目を伏せて先生と目を合わさないようにしていました。
授業の話がつまらなく思えるとき──話しを聞きたくないときにも、目を合わせない。

反対に、話が脱線して、たとえば先生の失恋談義などに話題が及ぶと、
たぶん、しきりに目を合わせようとしていた。
アイ・コンタクトが増えていたのではないかと思います。

知らない人同士の会話でも、親しみが増すと、アイ・コンタクトが増えるのだとか。
日常会話では、アイ・コンタクトがないと、
話しの内容も、心も、通いにくいということがあるのでしょう。

f0223055_12125513.gif


さてしかし、アイ・コンタクトというと、一対一の関係でこそ出来るもので、
パフォーマーひとりに何十人の観客が相手となると、
いちいちアイ・コンタクトなど出来ないのではないかと思われます。

けれど、先生1人が40人の生徒と相対しても、アイ・コンタクトは成り立つんですね。
話し手ひとりと、それを聞く観客が何万人であっても、
もしかしたらアイ・コンタクトというのは伝わるものではないでしょうか。

落語では、よく“目ではなす”みたいなことをします。
たとえば、噺しの中で視線や顔の向きを左右に変え、2人以上の登場人物を演じる。
──これは「上下(かみしも)にふる」というそうです。
また、目の表情でもって、言葉で語る以上に、その人物の位置関係や感情を伝えたりもします。
が、そればかりではありません。

基本的に客席とまっすぐ相対するのを「正面をきる」といいますが、
このとき、視線はたいてい、いちばん奥のお客の頭よりこぶし1つ分上あたりを見て話すといい
と聞いたことがあります。
すると、うつむいたり、あらぬ方に目を向けているようには見えない。

そして、枕をはなすときなどに特に多いのですが、目線を客席にふる。
客席の右側や左側、前や奥などへ、視線を送りながらはなすということをします。
これは、「眼(がん)を配る」などと言うそうです。

すると、客は客席のどこにいても、自分が話しかけられたと思って、噺しにつりこまれていく。
ホールに何百人とつめかけている高座でも、
単純な筆者などは「あっ、目が合ったぞ」などと喜んで、
その師匠が自分ひとりのために噺してくれているような気になってしまいます。
事実、 相手が何百人何千人いようが、 落語家は 視線をふり「眼を配る」ことによって、
客の一人ひとりに語りかけているのでしょう。


紙芝居作家の三好富美子さんにこんなことを聞いたことがあります。
三好さんは、幼稚園の先生でもあります。
その幼稚園の現場では、「Sの字に見る」ということをしているのだそうです。

子どもたちがおおぜい集まったところで先生がおはなしをするとき。
もしも前列の子ばかり見ながら話すとしたら、うつむく角度になって、
後ろの列の子たちは先生の顔がよく見えません。
もしも後列の子どもたちばかりを見たとしたら、
今度は前列の子どもたちは、視線が自分の頭を通り越しているのがわかります。
おはなしから取り残された気持ちになるかもしれません。
また、右ばかり向いていては、左側の子どもたちからブーイングが起こりそうですね。

そこで、前後を見渡しながら、かつ左右を見渡しながら話す。
つまり、子どもたちの集まりを「Sの字を描くように」視線を移動させて、
全体を見渡しながら話すんですね。

もちろん、そのかたちだけをただ猿真似しても、だめなのかもしれません。
けれど、そうやって集団全体に視線を送りながら話すことによって、
子どもたち一人ひとりとアイ・コンタクトをとるわけです。

相手が自分に向かって話しているか、それとも他の誰々さんに向かって話しているか。
──という“感じ”“感覚”は、それとなくわかるものです。
視線の果たす役割は大きいでしょう。
先生とチラッと目を合わせる瞬間が、それこそ0.001秒だったとしても、
子どもたちの気持ちの中でアイ・コンタクトは成り立っているのだと思います。

f0223055_12125513.gif


紙芝居でも、アイ・コンタクトは大切です。
演じ手と観客が双方向的にやりとりする「参加型紙芝居」のタイプでは、確実に必要ですよね。
そして、「物語紙芝居」でも必要だと思われます。

それは、物語を始める前に観客の前に立って、あいさつや前置きをするときばかりに限りません。
物語に入ってから、その最中となってからもずっと必要なのではないでしょうか。

演じ手は、一般的には、裏書きの脚本を読む。
だから、そちらの方に目がいきがちです。
観客は、画面の絵の方に目がいっている。
絵に集中していれば、演じ手をことさらに見ようとは思いません。

けれど、時折、合間のようなときに、両者の視線が交わされます。
アイ・コンタクトが生じる。
たとえはっきり交わされないとしても、観客は、演じ手の視線を感じ、その表情を感じています。

そして視線だけでなく、紙芝居では、演じ手と観客の間にキャッチボールが交わされます。
演じ手は、物語を語りつつ、言葉を投げかけ、視線を投げかけ、表情を投げかける。
それは、単に口で伝えるというのではなく、からだまるごとで語りかける、
からだまるごとで想いや言葉を観客に投げかけるということだと思います。

それに対して、観客も返球してくる。
その返球は、まばたきやためいきかもしれません。
あるいは、あくびかもしれない。
うなずいたり、 首をかしげたり、時に前に身を乗り出したり、といった仕草かもしれません。
驚いたり、笑ったり、泣きそうになったりという感情、その微妙な表情かもしれません。
あいづちや、笑い声や、拍手。
ヤジや、ツッコミだったり、まぜっかえしだったり。
あるいは、“つまらないぞ”という気持ちを表す悪ふざけだったり。

そうした、言葉になったり、ならないボールのやりとりこそ、生ライブの楽しさ。
紙芝居というメディアのおもしろさだと思うのです。


演じ手が姿を見せない紙芝居を観たときに筆者が感じた違和感というのは、
つまり、キャッチボールの相手が見えないさびしさだったのではないかと思います。
単に、絵が替わるテレビやビデオを見せられた感じ。

テレビやビデオが、どんなに芸術性あふれる上質の絵や名人級の演技を伝えたとしても、
そこには、生のコミュニケーションの感覚、そうしたおもしろみはありません。
テレビやビデオは、“モノ”です。
“モノ”ではなく、“ヒト”が“ヒト”に物語を手渡し、物語をいっしょに遊ぶ。
そうした紙芝居の楽しさの感覚は、演じ手の顔、視線、表情が見えないと、
どうやら薄れてしまうようなのです。

関西の方でよく見られるような立ち位置
──演じ手が前に出てきて、その表情をたっぷり見せてくれるようなスタイル──
がいきいきと感じられるのは、演じ手と観客との間のやりとり、
つまり紙芝居というコミュニケーションの醍醐味を感じさせてくれるからではないでしょうか。

もちろん、舞台の後ろの立ち位置でもそれはできますし、
どこに立って演じてもいいのだと思います。
ただ、奥の方に引っ込んだ位置で、視線を避けるように顔を隠したり、
裏書きの脚本ばかりに目をやって一度も顔を上げないとしたら──。
つまり、「演じ手の表情」を見せないとしたら、アイ・コンタクトもできません。
演じ手側からも、観客の表情を受け取ることができません。
紙芝居というコミュニケーションのおもしろさが半減してしまうでしょう。

だから、「演じ手の表情」というのは、ことさらに演技をつくる表情ではないのだと思います。
ただ物語を語る、自然なその表情でいいのでしょう。
物語に入り込んで語るとき、
感情のたかまりや起伏、そうした気持ちは自然に表情に表われるものです。

かつて、俳優・タレントの竹中直人さんのお笑いパフォーマンスの持ちネタの一つに、
「笑いながら怒るひと」というのがありました。
表情は笑いながら、声では怒るという人を演じるのですが、そのチグハグさが可笑しかった。

しかし、芸のないわれわれにはそんな真似はできません。
笑う台詞を言うときは笑う表情に、怒る台詞を言うときは怒る表情になってしまうものです。
だから、ことさらには意識する必要はない。

つまりここで観客の目に入るのは、演じ手の「表情」というより、
語って演じているただそのまんまの演じ手の「顔」ということなのでしょう。
それで伝わるものは大きいのだと思います。

f0223055_12125513.gif


もっとも、馴れないうちは、裏書きの台詞を読むのにイッパイ、イッパイで、
とても顔なんか上げられない。
前に出るなんてとんでもないということがあるかもしれません。
緊張がつのり、観客の視線がこわかったりもする。
筆者も最初はそうでした。

けれど、台詞を読みながらも、観客の子どもたちの顔を見るようにすると、楽しさが違ってくる。
それはもう確かです。

筆者が、北海道に行って、函館の保育園で紙芝居をさせてもらったときのこと。
そこで、障害を持った子も混ざっていっしょに見てもらったことがありました。
すると、その子の反応が実にいいのです。
奇声をあげるという反応だったりするのですが、驚いたり、よろこんだり、
ストーリーをおもしろがっているのがストレートに伝わってきました。
そうなると、こちらもノリノリです。
その子の反応にあおられて、
いやあー、あのときは、いつもよりうまくできたような気がしたものです。

キャッチボールの返球をもらうことで、演じ手はたすけられ、手をひっぱってもらいます。
子どもたちの中に、ひとりでも元気に返球してくれる子がいると、
それがうるさいくらいのヤジであっても、こちらは元気100倍になったりします。

もっとも、こちらの出来が悪く、子どもたちの反応がイマイチという場合もありますね。
「なんだか、ツマンナイ」「あきちゃった」といった視線や表情、
悪フザケだったりすることもある。
しかし、そんな正直な表情が教えてくれるものは大きいのでしょう。

それでも、表情を見つつ、見せつつ、お互いの視線を交わし合う。
それも、紙芝居の魅力のひとつだと思います。

ずっと無表情で観ていた子の顔がほころんだ瞬間、
「あ、ボールを投げ返してくれた」と思うその瞬間というのは、
何ものにもかえがたいよろこびです。
そうなると、舞台よりも前に身を乗りだしたくなってくる。
関西流の立ち位置に立つ気持ちもわかるような気がしてきます。

f0223055_12125513.gif


ストーリーテラーの E・コルウェルが、「子どもたちをお話の世界へ」という本で、
『読む』と『語る』の違いについて書いています。

『読む』は、「朗読」ですね。
絵本の「読み聞かせ」なども入るでしょうか。

一方、『語る』は、 「ストーリーテリング」「 昔語り」「素話し」「おはなし」などなど。
谷川俊太郎さんが述べていたアメリカの詩人たちのように、暗記して語る「暗唱」もそうですね。

コルウェルは、両者、まあ、どっちにもいいところがあるとした上で、
しかし、この2つの方法には大きな違いがあるといいます。

「本を読むとき、読み手は、目の前にある活字にたえず気を配っていなくてはならないので、
ほんのときたましか聞き手を見ることができません。
一方、語るときには、本にしばられず、直接聞き手に語りかけて、その反応を見ることができます。

(中略)
語ることは、直接的であるため、語り手と聞き手双方にとって個人的な体験となり、おたがいのあいだに親密な関係を築きます」(4)

紙芝居では、こうした『読む』 『語る』に対して、『演じる』ということばが使われる通り、
これらとはまた違ったニュアンスがあります。

しかし、紙芝居でも、この『読む』と『語る』の違いは大きいのではないかと思われます。
裏書きの脚本をそのまま『読む』か、
あるいはそこそこ頭に入れておいて『語る』かでは、
演じ手観客双方の「個人的な体験」「親密な関係」の度合いも違ってくるでしょう。
キャッチボールのボールの届き方が違ってくる。

『読む』ときは、演じ手の注意も視線も、その心の何割かは、脚本の方に向いています。
しかし『語る』とき、心はまるごと観客の方に向かうのです。

そして、他人が書いた脚本であったとしても、演じ手が『語る』とき、
それは演じ手自身の胸の中から生まれたオリジナルな言葉となって観客に届きます。
演じ手の味が加わる。
それだけ楽しみも深くなる。

f0223055_12125513.gif


では、紙芝居は、何でもかんでも、脚本をまるまる暗記するべきなのでしょうか?
というと、筆者は必ずしもそうは思いません。
紙芝居は、どこでも、いつでも、誰でもできる簡単素朴な便利さがいいところでもある。

もちろん、暗記できるくらいまで練習してから、みんなに観てもらうというやり方も素敵だし、
効果的です。
理想的かもしれません。

繰り返し練習するうちに、解釈や理解も深まり、物語が演じ手の身になっていく
──物語が演じ手の中でいきいきと生きはじめるということもあるでしょう。
いくつか 自分の好きな作品を暗記して、自分のものにすることに挑戦するのも、
これは大きな楽しみのひとつでもあるかと思います。
同じ作品を何度も演じているうちに、いつのまにか暗記してしまう場合もありますね。

しかし、 すべてを完璧に暗記する、綿密周到な用意と万端な準備を極めずとも、
気軽に楽しめるというのがまた紙芝居であるように思うのです。

ただ、便利だからといって、事前に目も通さないようなぶっつけでは、
ほんとにただ声を出して読むだけの『棒読み』になってしまうでしょう。
下読みをするというような最低限の準備は必要。
しかし、プロでもなければ、「上手に演じよう」とか、
「間違えないように」といったことにはあまりこだわらなくてもいいのではないでしょうか。

下手でも、間違えてもいい。
それよりも、観客、子どもたちに物語を語りかける。いっしょに物語を楽しむ。
キャッチボールができればいいんじゃないかなあと筆者は思います。

すると、どんな位置であれ、語りかけやすい自分の立ち位置がきまってくる。
すると、完璧に暗記をしなかったとしても、
谷川俊太郎さんのように、読んでいく「切れ目」「切れ目」でアイ・コンタクトをとる
といったこと──観客の表情を受け取って「演じ手の表情」を投げかけるということが、
自然に出来ていく。

そうして、「目と目が通じ合う♪」ところから、
“紙芝居”というコミュニケーションのかたちが生まれるのではないかと、
……なーんて、どこかの歌の歌詞みたいなことを思ったりするのでした。

f0223055_12125513.gif


では、その「切れ目」「切れ目」のタイミングをどうするか。
──ということは、つまり「間」の問題でもありますね。
その「文章を読む(語る)間」について、次に考えてみようと思います。

f0223055_743881.gif





《引用・参考文献》
(1)河合隼雄・阪田寛夫・谷川俊太郎・池田直樹「声の力」岩波書店
(2)小林登「こどもは未来である」岩波書店同時代ライブラリー
(3)齋藤勇「対人心理の分解図」誠信書房
(4)アイリーン・コルウェル、松岡享子・太田典子・中井登志子・石川晴子・柴田晴美訳「子どもたちをお話の世界へ」こぐま社
[PR]
by kamishibaiya | 2010-12-06 11:52 | 紙芝居/演じるとき | Comments(0)