Kamishibai・イズ・コミュニケーション・04

f0223055_15101819.gif「間」抜けな話


筆者は、以前、ヒップホップのラップのような紙芝居が出来ないかと思い、
作ってみたことがありました。
韻は踏みませんでしたが、リズミカルな調子のよい台詞を並べて、
テンポもスピードをつけてやってみたのでした。
まあ、結果的には、ラップというより、ヘンな七五調というか、
得体の知れない香具師(やし)の下手な口上みたいになっちゃいましたが。

で、勉強会で演じてみたところが、これが大失敗なのでした。
いや、演じ手の筆者は、自分では調子よくスラスラとやったつもりでした。
ところが、言葉はみんなの右の耳から左の耳へ、スラスラと通り過ぎただけだったのです。

つまり、そこに「間」がなかった。

「間」がないと、言葉のイメージも印象もふくらまないまま、
ただ言葉が聞き手の頭を通りすぎるだけ。
胸には届かなかったのです。

“アニメーション”という言葉の語源「アニマ」は、
「いきいきとさせる」という意味だそうです。
けれど、紙芝居の動かない絵は、語りによって想像をふくらませることで、
アニメーション以上に「いきいきとさせる」ことができるものなのだと思います。

言葉によるイマジネーションがはたらくことで、子どもたちの心の中で動かない絵が動き出す。
いきいきと呼吸をしはじめる。
逆に言うと、
アニメと違って紙芝居の絵は動かないからこそ、子どもたちのイマジネーションを導き、
想像を広げ、養うための材料となるわけです。

そこに「間」がなければ、絵も物語も楽しめない。

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もっとも、語るということには、音楽的な要素があって、
その言葉の音の響きやリズムを楽しむというところがあります。
筆者がラップの紙芝居を試みたのには、そうした動機もありました。

講談や落語などの話芸では、とうとうとよどみなく語ってみせたり、
とんとんとリズムよく語り継いで、その言葉の響きを楽しむようなくだりもありますよね。

たとえば講談で、
武将など登場人物の描写や、戦いのようすを立て板に水で語ってみせる「修羅場読み」。
またたとえば説経や落語で、
旅して移動する場所の地名を次々と並べて、長々と語ってみせる「道行(みちゆき)」など。
昔語りにも、“早物語(テンポ物語)”といって、語り口の達者さを楽しむようなものがあります。

以前、TV番組の影響で、子どもたちが落語「寿限無」のあの長い名前を
すらすらとそらんじておもしろがっていたことがありました。
これはひとつには、テンポとリズム──音楽的な声の響きを楽しんでいたのだと思います。

しかし、物語の語りでは、はじめからおしまいまで、それをやるわけではありません。

たとえば、イギリスの昔話「おばあさんとぶた」などにも、
そうしたテンポと舌のなめらかさを楽しむようなくだりがあります。
この話しの語り聞かせ方について、東京子ども図書館編「お話のリスト(たのしいお話1)」(1)では、
こんなアドバイスをしています。

「おばあさんのせりふの部分は、ころころところがるようにはやく、その他の部分は、じゅうぶんまをとって、ゆっくりと話すこと。」

じゅうぶん「間」をとって物語る中に、
ころころと転がる音楽的なところを部分的に盛り込むからこそ、生きてくるんですね。
また、全編、音楽的であったとしても、
ゆっくりとその言葉を胸にしみこませる余裕のあるテンポだったりするのでしょう。

筆者がやった似非(えせ)ラップ紙芝居では、そうした「間」も余裕もなく、
ただ矢継ぎ早に言葉をたれ流す一方通行で、物語が伝わらないのは当然なのでした。
そして伝わらないまま、演じ手だけがノリノリで、観客をおいてけぼりにして、
どんどん先へ進んでしまった。
観客がたとえ声を出してあいづちを打たなかったとしても、
その声なきあいづちを聞こうとしなかったんです。
越後の子どもたちだったら、
「さんすけばさ、へーこいた、へーこいた」
と囃したてて、途中でダメ出しをしてくれるところでした。

まったく「間」の抜けた話しです。

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昔、映画「インディ・ジョーンズ」のシリーズ1作目がヒットした頃、
“ジェットコースター・ムービー”ということばが使われたことがありました。

ジェットコースターのように“息もつかせぬまま”、敵やトラップや困難が襲いかかってくる。
サスペンスに次ぐサスペンスで盛り上げる。
それはそれでおもしろいのですが、
これがあまりに極端になると、文字通り、息をつく「間」がなくなります。

「間」がないと、観客が咀嚼したり、味わい、考えをめぐらすことも出来にくくなるのです。
心の上っ面のところで、感覚的、刺激的、刹那的に反応するだけになる。

しかし、現在、あの映画を観てみると、
ジェットコースターと言われたほどにはスピーディと感じないのではないでしょうか。
それほど、今の映画やドラマは“ジェットコースター”な展開が一般化しちゃってる。

その対極にあるのが、小津映画です。

スクリプターの中尾壽美子さんが
小津安二郎監督との仕事について回想しておられました(2)
それによると、小津安二郎監督は、
先行ショットと後続ショットのあいだに、必ず16コマ(2/3秒)の間(ま)を入れる
というスタイルを徹底させていたそうです。

それだけのんびりと、ゆる~い展開になるわけですが、もっと上手(うわて)がいて、
衣笠貞之助監督では20コマ(5/6秒)の「間」を入れていた。

あるとき、衣笠監督が編集の現場に来て言ったそうです。
「この間がいいんや。人間のひと呼吸はフィルム上では20コマなんや」
そして、
「台詞と台詞の間は20コマや」
と言いながら作業をされていたんだそうです(2)

正常な成人の脈拍が1回打つ間隔がちょうど20コマ分くらいだそうで、
中尾壽美子さんは、こうした人間の生理と何か関係があるのではないかと述べています。

筆者は衣笠監督の映画は観たことがないのですが、小津監督の作品を観るとわかる気がします。

小津映画には、今のわれわれには間延びがすると思えるほど、たっぷりとした「間」があります。
しかし観客は、その「間」の中で、あれこれ考え、味わうわけです。
だから、なにげない平凡な言葉でも表情でも、ありふれた情景でも、
その中にいろんなニュアンスや陰影を読み取ることができる。
そうして、自分自身を重ねたりするような想像も生まれ、ふくらんでくる。

「インディ・ジョーンズ」の文字通り「息もつかせぬ」展開とは正反対。
深呼吸を促す展開であるわけです。

一方通行の映像メディアである映画でさえ、「間」のとり方で、観客との呼吸のやりとりをする。
ライブ、生のやりとりをする紙芝居ではなおさら、
この「間」が、観客との呼吸、コミュニケーションをひきおこすカギになるのだと思います。

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さてところで、今の紙芝居では一般的に、脚本の文章を読んで演じます。
文章をどう読むかということになるわけです。

書き手は、文章を書く場合、センテンスの長さや句読点、行替えなどで
「間」のニュアンスを表そうとします。
黙読であっても、どこに点をうつか、どこで行を替えるかで、
文章のリズムや読む感じが違ってきますよね。
ただ、それだけでは表せないことも多く、
文章を読むとき、その「間」の扱いは読み手にまかされているといっていいでしょう。

基本的には、句読点のところ。
文と文の間の句点「。」=まるのところと、読点「、」=てんのところで息を切る。
そこにちょっとした「間」を設けることになります。
そしてたいていは、読点(=てん)より、
句点(=まる)のところで「間」を長くとることが多いでしょう。
それは、物語をかたちづくるレンガの一区切りであることが多いからです。

たとえば、
「あるところに、ひとりのおばあさんが住んでいました。」
という文には、物語をイメージさせるレンガがひとつあります。
そして句点(=まる)にきて「間」をあけたところで、レンガをひとつ手渡す。
その「間」のあいだに聞き手はレンガを心の中にひとつ置くわけです。
だから、だらだらと長い文章は、読むときには適さない場合が多い。

たとえば、

「二人の若い紳士が、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついで、白熊のような犬を二匹つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを云いながら、あるいてをりました。」
(宮沢賢治「注文の多い料理店」(3)

という物語の冒頭の文章。
黙読の場合はじゅうぶん伝わるのですが、読み語るときには注意が必要でしょう。
この長文を、途中で「間」を作らずに、最後まで一息にまくしたてるとしたら、語り手は疲れます。
疲れるどころか息ができない。
“循環呼吸”や黒柳徹子さんだったら可能かもしれませんが、
それでも「間」がないままに言われると、聞き手は混乱してしまいますね。

おしまいの句点(=まる)のところにきてやっと手渡されるレンガが、三つも四つもあるからです。
一度にドサドサッとたくさんのレンガを手渡されるとなると、
心にイメージを構築しようにも、
「え? 紳士? イギリスの? え? 白熊って北極の?」
などと、とまどうことになりかねません。

これがたとえば紙芝居で、二人の紳士の絵が場面に描いてあったとしても混乱は必至です。
物語がたどりにくくなります。物語が味わいにくくなります。

だから、語るための文章は、原則的には、短く簡潔な方がいい。
その方が伝えやすくわかりやすい、「語り手にも聞き手にも負担をかけない」と、松岡さんは書かれています(4)

これは、紙芝居などで脚本を書いたりするときにも、言えることでしょう。

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さて、それでも長ったらしい文章を読み語るというときには、
だから、途中の読点(=てん)のところで「間」を入れることになります。
読点(=てん)のところで息つぎをする。
と言っても、てんのあるところ全部でいちいち立ち止まって「間」をつくり、
ぷつんぷつんと短く切ってしまっては流れもリズムもおかしなことになりますね。

その「間」の区切りの目安は、
せいぜい一つか二つほどのレンガを手渡すところと言えるのではないでしょうか。

昔語りや日常の会話の場合、この「間」の区切りのところで語尾がやや強くなったり、
また、
「あの犬が」とか
「先週の日曜日に」というように、
言葉のおしまいに短い言葉がくっつくことがよくあります。

「間投助詞」の「……ね」「……さ 」「……な」「……よ」とか、
方言では「……の」「……のう」といった言葉。

これが、前述のように「でしょう? ね?」とあいづちを促す呼び水になったり、
「間」のポイントになったりする。

もっとも当世、巷(ちまた)でよく見かけるように、
「あたしサー、このあいだァー、まじビビっちゃってェー、それがサー、おっかしーの」
と、語尾をやたらに上げたり、やたらに間投助詞をつけまくると聞き苦しくなります。
適切な場所で、適切に使われることが望ましい。

この“間投助詞”を使って、先の文章を読み語ると、たとえばこうなります。
物語の冒頭の部分なので、ゆっくりになります。

読み手「二人の若い紳士がな」
聞き手「ふん、ふん」
読み手「すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついでな」
聞き手「ふうん、イギリスの兵隊って……、ああ、あんな感じだったんだ」
読み手「白熊のような犬を二匹つれてな」
聞き手「わあ、ずいぶん強そうなのをつれてったねえ」
読み手「だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを云いながら、あるいてをりました。」
聞き手「へえー、何て言ってたの? それで、それで?」

これが、昔語りのトラッドなスタイルだと、聞き手の台詞のところが、
「ふんとこさ」「さんすけ」といったあいづちになります。

読み手「二人の若い紳士がな」
聞き手「ふんとこさ」
読み手「すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついでな」
聞き手「ふんとこさ」
読み手「白熊のような犬を二匹つれてな」
聞き手「ふんとこさ」
読み手「だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを云いながら、あるいてをりました。」
聞き手「ふんとこさ」

が、あいづちもない場合、それがちょっとした「間」になります。
そうした文章の読み語りを、実際に耳に聞こえる音を録音した実況中継にすると、
次のようになるでしょう。

読み手「二人の若い紳士が」
聞き手「……」
読み手「すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついで」
聞き手「……」
読み手「白熊のような犬を二匹つれて」
聞き手「……」
読み手「だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを云いながら、あるいてをりました。」
聞き手「……」

聞き手の「……」のところは無言ですが、実は先の例のように会話をし、
聞き手は心の中で「ふん、ふん」とあいづちを打ったりしているわけです。
ここで、ひとつかふたつ 、物語のレンガが手渡される。
そして聞き手は、その言葉を味わい、広げて、レンガを置いていく。
すると、宮沢賢治が心の中に描いていた情景が、
聞き手の心の中にも、混乱なくスムーズに描き出されることになります。

この「間」をつくることで、演じ手と観客がキャッチボールをする。
そんな中で、時々、アイ・コンタクトを交わしたりもするのだと思います。
そうして、演じ手と聞き手が、言葉とイメージを共有しあいながら、
お互いに物語をふくらませていく。
物語の楽しみを分かちあう。

もしも、こうした「間」がなかったら……。
すると、筆者の失敗のように、観客がおいてけぼりをくわせられ、
物語にノレなかったり、イメージをかたちづくれず味わえないまま、
興味を失うなんてことになるわけです。

いやあー、“間抜け”なことにならないよう、気をつけようと思います。

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……と、ここまで書いてみたんですが、
実は、こうした「間」のやりとりって、おはなし上手の人が、
ふだんの会話やおはなしの中でふつうにやっていることなんでしょうね。

そのタイミングや、「間」をとる時間の長さは、はなす相手や、
そのときの相手の状態、場の雰囲気によっても違ってくるのだと思います。

それは、はなす経験を重ねるうちに、聞き手との呼吸の中で身につけていくものなのでしょう。
だから、紙芝居の「文章を読む間」を教えてくれる先生は、実は、観客である子どもたち。
「間」のタイミングや長さをどうするかは、
その小さな先生たちが教えてくれるものなのかもしれません。

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次に、別なはたらきの「間」について、考えてみます。

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《引用・参考文献》
(1)東京子ども図書館編「お話のリスト(たのしいお話1)」東京子ども図書館
(2)中尾壽美子「『間』はスタイルを作る道具ではない。生理の反応では?」〜日本映画・テレビ編集協会編「映像編集の秘訣」玄光社MOOK・所収
(3)宮沢賢治「注文の多い料理店」「宮沢賢治全集8」ちくま文庫・所収
(4)松岡享子「たのしいお話・お話を子どもに」日本エディタースクール出版部
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by kamishibaiya | 2010-12-06 16:09 | 紙芝居/演じるとき | Comments(0)