Kamishibai・イズ・コミュニケーション・05
2010年 12月 07日
6秒の「間」か、6秒の空白か
「空白」と「間」とは違います。
物理的、現象的には、同じかもしれません。
語る(読む)という点だけでみると、しゃべっていない時間、
声が何も発せられていないあいだのことです。
この二つが決定的に違うのは、観客が意味を感じるか、感じないかということでしょうか。
脚本を暗記して紙芝居をするときに、途中で、はたと台詞がとんでしまう。
練習のときには楽に語れていたような場面で、ふいに頭が真っ白になる。
物語の展開さえわからなくなる。
観客のみんなの視線が、絵ではなく自分に向けられているのに気づく。
その目が自分を責めるようにも見えて、やがて心配するような同情するような目にも見えてきて、
「ああっ、何とかしなければっ!」
と思えば思うほどパニックで、頭がぐるぐる、ぐるぐる!
……というときに生じた時間、物語がストップしたあいだというのは、
「間」ではなく、「空白」ですね。
こうした失敗をすると、「空白」がこわくなり、ついつい急いでしゃべりたくなります。
裏書きの脚本を読んで演じるときでも、
なぜか、そうした「空白」がこわいという本能的なものがあって、
急いで読み語る必要はないのに、なんだか追われているようにあせっちゃうことが……。
そう、よくあるんです。
そうして、肝心の「間」まで抜かして間抜けなことになっちゃうんですよね。
だから、紙芝居を演じている最中、
何十秒もずっと黙ったまま、「間」をとっているなんて話しを聞くと、
もう、スゴイと思うわけです。
──紙芝居作家であり、演じ手としても百戦錬磨のときわひろみさんから聞いた話しです。
それはたとえば、踏み切りがカンカン鳴っているところで電車を待つという場面。
これから電車が来るぞというところで、ときわさんは
「カンカンカンカン……」
と言いながらフェードアウトするように声を小さくして、やがて黙ってしまう。
そうして何秒も、何十秒も「間」をとったりするのだそうです。
その腕もさることながら、これはときわさん自身のキャラクターもあるかもしれません。
電車がいつ来るかと固唾をのんでいる(?)子どもたちの前で、
「あ、電車が来たかな」というようなアクションをして、トボケたように目を泳がせたりする。
と思ったら、突然反対の方向に目を泳がせたりする。
そんなふうに「間」を遊ぶ、ときわさんのお茶目な姿が目に浮かんでくるようです。
その時間は、「空白」ではない。
子どもたちにとっては、なんともおもしろい、意味のある時間なんですね。
みのもんたさんが司会をつとめる「クイズ$ミリオネア」というテレビのクイズ番組がありました。
出場者が、考え迷った末にクイズに答える。
そして、それが正解であるか、結果の前に、
司会進行のみのさんが、異常に長い「間」をとることがありました。
みのさんは何も言わない。黙ったまま。
音楽や照明の効果と相まって緊張はたかまり、果して「正解」なのか「不正解」なのか、
出場者と観客は、 その審判 をジリジリと気をもんで待つことになります。
このとき、正解かどうかがわかりきったような場合であれば、
みのさんは「間」をとらずに、さっさと結果を告げます。
観客(視聴者)の興味を引っ張ることが出来るかどうかを見ながら、
「間」を測ってじらすんですね。
そしてこのとき、単に「正解」「不正解」の興味だけでなく、
その画面からは回答者の感情や人間性がほの見えてくる。
視聴者はいろいろ想像する。
こうして意味や興味が持続していれば、どんなに「間」が長くても苦になりません。
「間」を楽しむことになります。
みのもんたさんのインタビュー(「朝日新聞」2005年3月23日付)によると、
彼は徳川夢声さんの「間」に学んだのだといいます。
ラジオでの朗読(吉川英治・原作「宮本武蔵」)で徳川夢声さんは、
「そのとき」
と言ってから口をつぐむ。
そうして放送事故となるギリギリまで「間」をためてから
「武蔵は……」
などと続けた。
その沈黙の「間」をストップウォッチで計ったら6秒だったとか。
筆者は徳川夢声さんの声をラジオでも残された録音でも聞いたことがないのですが、
映像のないラジオで6秒黙るというのは、スゴイと思います。
みのもんたさんは、それをテレビに生かしているというのです。
こうした“じらし作戦”のような「間」は、
テレビの例で言うと、「トリビアの泉」という番組のナレーションにも見られました。
たとえば、中江真司さんのナレーションがあの落ち着いた声で、
「ザリガニのオシッコは顔から出る。」
と語る。
このとき、「ザリガニのオシッコは」の後で、ほんの少し「間」を入れるのです。
「ザリガニのオシッコは…[間]…顔から出る。」
すると、視聴者はその「間」の先に惹かれ、興味をもって「間」を待つことになります。
気をもたされ、じらされる。
もしも、この「間」がないまま、よどみなくスラスラと語られたとしたら、
それがどんなに驚愕の事実であっても「へえー」と感心することはないでしょう。
「あ、そう」と、軽く流してしまうかもしれません。
その「間」の時間は、たとえ短かったとしても効果的です。
「顔から出る」という意外な事実が、いっそう劇的、衝撃的に「意外な事実」として、
「へえー」という聞き手の感嘆を誘うことになります。
演劇においての「間」について、演出家の平田オリザさんは、
「間をとるということは、すなわち、観客が想像力の翼を広げる時間帯なのです。」
と、言及しています(1)。
「間」があることで、意識的であれ、無意識的であれ、観客に想像を促すことになる。
クイズの正解の前に「間」があることで、視聴者は、
答えが合っているのか、違っているのか、
回答者は大金をつかむことが出来るのか、一文無しで帰ることになるのか、
という分かれ道を、あれこれ想像することになります。
ナレーションの途中に「間」が入ることで、視聴者は、
「え? ザリガニ? オシッコがどうしたの?
ザリガニのオシッコにいったい、どんな驚きが隠されているの?」
と、あれこれ想像することになります。
ときわひろみさんがつくった「間」の中で、子どもたちは、
電車がどこから来るのだろう、いつ来るのだろうと、あれこれ想像を楽しんでいたわけです。
そして想像するとともに、緊張感がもたらされます。
「間」を作ることで、緊張が高められる。
映画監督ヒッチコックは、やはり映画監督のトリュフォーとの対話の中でこう言っています。
「観客の不安をかきたてるようなシチュエーションのサスペンスにしろ、あるいは、観客がドキドキしながら『つぎは何が起こるんだろう』と自問自答せずにはいられないようなサスペンスにしろ、サスペンスは観客の注意をひきとめる最も強力な手段だからね。」(2)
「不安をかきたてるようなシチュエーション」というのは、ヒッチコック映画でおなじみですね。
たとえば、断崖絶壁の上。高い塔の上。
そんな高所で繰り広げられるアクション・シーンがあります。
必ずしも落下するシーンは描かれない。
けれど、「もしかしたら落下するのではないか」という想像が、
不安をかきたてることになるんですね。
またたとえば、爆弾が仕掛けられるというような古典的なシチュエーション。
これには、爆弾がいつ爆発するかという「恐怖」があります。
しかし、その恐怖の描き方でも、ヒッチコックは2種類を混同してはいけないと言います。
ひとつは、「サプライズ」。
テーブルで登場人物が、穏やかに会話をしている。
それが突如、爆発するとしたら、これはショックです。
まさかテーブルに爆弾が仕掛けられていたとは知らない観客はビックリさせられる。
「サプライズ(不意打ち=びっくり仕掛け)」の恐怖に驚かされるわけです。
もうひとつは、「サスペンス」。
「サスペンス」では、最初からネタバレです。
テーブルに爆弾が仕掛けられていることは、最初から観客に明かされます。
たとえば、あと15分もすれば爆発することを観客は知らされる。
すると、テーブル席で何かありふれた、つまらないような会話をしていても、
その何の変哲もないシーンがたちまち生きて来る。
サスペンスになるわけです。
「サプライズ」のとき、観客はただ受け身で驚かされるだけでした。
しかし「サスペンス」では、観客はシーンに参加するのだとヒッチコックは言います。
観客はヤキモキして、
「そんなオシャベリなんかしてる場合じゃないだろ。
わあ、もうすぐ爆発してしまうぞ、早く気がつけよ、早く、早く」
と、スクリーンの中の登場人物に声をかけたくなってしまう。
「この後、どうなってしまうんだろう?」と想像することによって、
恐怖がかきたてられ、時には登場人物に同化し、物語に参加することになるのです。
物語の展開においても、
「次は何が起こるんだろう」「どうなるんだろう」
という想像が「サスペンス」を呼びます。
無事にたどり着けるか。
危機を突破出来るか。
いつ敵に襲われるか。
──聞き手(観客や視聴者)は、そうした選択肢をあれこれと想像する。
その想像が不安、緊張を生み、「サスペンス」を生む。
トリュフォーはこうも言っています。
「サスペンスとは、要するに、期待や予想を引き伸ばすことだと言えないでしょうか。」(2)
いや、まさしくそうなのだと思います。
聞き手(観客や視聴者)は注意をひきとめられ、興味を引かれ、それを引き伸ばされると、
そのあいだに、いっそう想像をめぐらせることになる。
その「引き伸ばす」手段のひとつが「間」であると言えます。
「注意」を引き付けられ「期待や予想」をかきたてられようとする、まさにその瞬間に、
「間」が入れられる。
すると、引き伸ばされる。
その「間」のあいだに、聞き手(観客や視聴者)は、
「これからどうなるか」「何が起こるか」と意識的または無意識的に自問自答し、
固唾をのみ、想像をめぐらせる。
つまり、徳川夢声さんが「そのとき」と言って言葉を切り、「間」を作る。
その6秒のあいだ、物語の聞き手は手に汗握り、
主人公・宮本武蔵の行く手を待つ運命に想像をめぐらせることになるわけです。
かくて、緊張が効果的に高められていく。
さて、そうした「間」の後で、武蔵はこうした、どうしたと語られたとき。
たとえピンチの状況は変わらなかったとしても、一時的であれ、
このとき、聞き手に緩和が訪れます。
ほっとひと息つく。
あれこれ想像をめぐらせていた行く末の展開の結果がもたらされるわけです。
それが想像通りであっても、想像を裏切るものであっても、ひとつの決着が得られるんですね。
この緊張は、「不安」や「サスペンス」に限りません。
クイズの答えが正解か、不正解か、決着が着く。
「ザリガニのオシッコ」に、どんな事実があるかが明かされ、決着が着く。
このとき、「間」によって高められた緊張が、緩和されることになります。
「人を笑わせるコツ」とは何か?
そう聞かれたとき、柳家金語楼師匠はインタビューでこう答えたそうです。
松岡亨子さんが、「たのしいお話・お話を語る」(3)で紹介しています。
いわく、
「人が息を吐く寸前におかしなことをいうことです」
「人間というものは、息を吸いながら笑えないものなんですよ」
言われてみれば、なるほどです。
息を吸いながら“引き笑い”をするのは、明石家さんまさんぐらいなものでしょう。
たいていは息を吐いて笑います。
しかし、いざ具体的に実践に結びつけるとなると、これはなかなか難しい。
けれど、笑いのプロの方たちは舞台の現場で、こうした呼吸を敏感に感じ取っているのでしょう。
春風亭昇太師が、座談会の中で、こう語っています(4)。
「時々ね、
お客さんの呼吸が全部わかって、
指揮者みたいな気持ちになる時があるんですよ。」
昇太師匠は観客の呼吸に対してコントロールに近いこともするらしい。
やはりプロの極意は、凡人素人の手の届かないものなのかもしれないと思ってしまいますが、
しかしこれは「笑い」に限らず、「間」を考えるときのヒントになりそうです。
たとえば引っ越しなどで、冷蔵庫や何か重いものを持ち上げようとするとき。
わたしたちは力を入れる際、息を「ふんっ!」と吐いて止めてしまうか、
あるいは「ふーっ!」と吐きます。
「よいしょ」とか「どっこらせ」とか声を出すこともありますね。
また、スポーツで力を入れるときに声を出すこともあります。
ハンマー投げ・室伏広治選手の雄叫びというか、咆哮。
女子テニス・シャラポワ選手のうなり声というか、叫び声。
格闘技や剣道などでは、「えいっ!」「やあーっ!」「チェストーッ!」など、
声を出すことが慣習のようになっています。
これらの声は気合いを高めると同時に、声を出すことで息を吐くということでもあるでしょう。
気を集中して何か動作をしたり、力を込めようとするとき。
特に、興奮しやすい状況に置かれたり、戦闘態勢をとるなどの場合。
そのとき人には、次のような呼吸と集中(緊張)の関係があるといいます。
「息を吐くときにエネルギーがより集中する。
とくに少しずつ長く息を吐くか、息を止めている状態だとより強く集中する。」(5)
腹に力を入れて、腹から押し出すような息の吐き方ですね。
この場合には、息を吐くとき、下腹部がへこむことになるそうです。
宮本武蔵はその著「五輪書」で、剣術で声を発することの効果を説いています。
大声で相手をビビらせたり、フェイントをかけるためにタイミングをずらせて声を掛けたりする。
が、しかし、
「太刀と一度に大きに声を掛くることなし。もし戦ひの中に掛くるは、拍子に乗る声低(ひき)く掛くるなり」(6)
と言っています。
いざ太刀を打ち出すときに掛けるのは大きな声ではない。
戦いの最中に掛けるのであれば、むしろ、拍子にのる低い声。
この低い声での発声は、
下腹部(丹田)に力を入れて息を吐く呼吸の仕方で発すると考えられるそうです。
そうして声を出し、つまり息を吐くことで、力を集中させるんですね。
ところが、戦闘状態や試合中など、興奮状態ではない、ふつうの日常時の呼吸は、
反対だといいます。
つまり、
「吸うときに体は緊張し、吐くときにゆるむ」(5)
のです。
通常の状態では、基本的に次のようになるのでしょう。
息を吸う(吸気)……交感神経が優位となる ……身体を緊張させる。
息を吐く(呼気)……副交感神経が優位となる……身体をリラックスさせる。緊張を緩和する。
興奮状態のときには、腹に力を入れて息を吐くことで、緊張を高め、集中を高めていましたが、
こちらは反対です。
このときの呼気は、腹に力を入れない息の吐き方。
ピリピリした緊張が解かれたとき、無意識的・反射的に、
「ホッ」と安堵のため息がもれることがあります。
腹に力を入れない息をついて、リラックスな状態に入るわけです。
また、不安にさらされたり、閉塞感や嫌悪感がずっと続くときに
思わずついて出る「はぁ〜っ」というため息は、
ストレスの緊張度をいくらかでも和らげようとする身体的な反応とも言えるでしょう。
逆に、「ホオッ」と一息つくことで、リラックスをはかり、緊張を取り除こうとする。
ちなみにこの場合、意識的に緊張を緩和させようとするときには、
「お腹を風船をふくらますような感じにふくらませながら息を吐く」
といいそうです(5)。
宮本武蔵が「声」に言及していたように、剣道では、呼吸が重要視されています。
呼気から吸気への変わり目。
吸気から呼気への変わり目。
その変わり目の一瞬間、人間の身体は、
力を入れたり敏速な行動が出来ない無防備な状態になるのだそうです。
その間隙をついて、打突を仕掛ける。
相手は息を吐くとき、腹に力を入れて集中している。
その最中に攻め込んでも、集中している相手にはすぐに防御され、かわされやすい。
そこで、とくに息を吐いてから息を吸うその無防備な変わり目の瞬間に、
こちらは息を吐いて打ち込むといいのだそうです。
もっとも、人によって、あるいは意識のしかたや動作の違いによって、
必ずしもその通りにはいかないそうなのですが(7)。
相手が息を吸い終わるその瞬間にギャグを仕掛ける、という金語楼師匠の言葉は、
なにやらこうした剣道の極意と通ずるものがあるのかもしれません。
笑いは、時として発作的な興奮をもたらします。
「腹をかかえて」笑う。
そのとき、お腹の中の横隔膜がふるえ、エネルギーを発散させながらも、興奮が高まっていく。
あまりに笑い過ぎると、「お腹がよじれる」「腹が痛い」「お腹が苦しい」。
つまり、横隔膜を使い過ぎてしまう。
そうして「涙が出るほど」に笑ってしまうときの涙は、
その興奮を鎮静化するはたらきがあるといいます。
しかし、笑いそのものは、一気に息を吐く行為。
つまり、ある種の興奮を促しながらも、基本的には「緩和」です。
第二次大戦下、
ナチスのアウシュビッツの強制収容所の囚人として日々を送っていた精神科医V・E・フランクルは、
1日にひとつはジョークを言いあうよう、 友人と取り決めをしていたそうです(8)。
飢えと病気と死という極限の緊張にさらされる中で、
たとえわずかにでもクスリと笑うことは、
精神を支える「緩和」剤というクスリ(薬)になったことでしょう。
わたしたちの日常でも、
たとえば、仕事場で何かトラブって重苦しい緊張にピリピリ包まれたとき、
冗談好きの仲間がいると救いになることがあります。
それほどにおかしくない冗談であっても、フッとみんなでひと笑いする。
すると空気が変わって「緩和」される。
そんなとき、なぜか打開策が見つかるような気がしてくるから不思議です。
「笑いは、緊張の緩和」と喝破したのは、落語家・桂枝雀師でした。
笑いは、脱力させ、緩和させる。
その緩和を効果的にするには、
まず緊張があって、そこから緩和へと至ることで落差を生じさせる。
その落差から笑いが生まれるというのです。
「すなわち『緊張の緩和』がすべての根本なんですわ。
はじめグーッと息を詰めてパーッとはき出す。
グーッが『緊張』でパーッが『緩和』です。
『笑い』の元祖ちゅうことンなると、我々の祖先が大昔にマンモスと戦うてそれを仕留める。
戦うてる時はエラ緊張でっさかい息を詰めてる。
けど、マンモスがドターッと倒れたら息をワーッとはき出して、
それが喜びの『笑い』になったんや……とねェ。」(9)
人は緊張すると、基本的には呼吸が速くなります。
それが盛り上がってクライマックスになったり、
あるいは驚いて急な緊張にさらされると、瞬間的に呼吸を止めたり、ハッと息を吸う。
つまり、「息を詰め」る。
「息が止まる」。
「息をのむ」。
また、重苦しい緊張で「息がつまりそう」というのは、呼吸がじゅうぶんに出来にくい状態ですね。
そうした後で緊張が緩和されると、「ほっとする」。
ほおっと息を吐き出す。
金語楼師匠は、この「息をのむ」緊張から、「息をつく」緩和へとうつる変わり目、
この瞬間にギャグを仕掛けるんですね。
あるいは、「息をのむ」緊張のマックスでギャグを仕掛けて、緊張を解放する。
すると、一気に緩和されて、どっと息を吐き出します。
息を吐き出したときにちょうど口を閉じていれば、プッと「吹き出す」ことになる。
そして横隔膜をふるわせ、断続的に息を吐き出し、ハッハッハッという笑いになるわけです。
呼吸と密接に関わる「緊張と緩和」が、「サスペンス」を演出し、「笑い」を演出します。
その「緊張と緩和」に、「間」が大きなはたらきをします。
物理的、現象的には、同じかもしれません。
語る(読む)という点だけでみると、しゃべっていない時間、
声が何も発せられていないあいだのことです。
この二つが決定的に違うのは、観客が意味を感じるか、感じないかということでしょうか。
脚本を暗記して紙芝居をするときに、途中で、はたと台詞がとんでしまう。
練習のときには楽に語れていたような場面で、ふいに頭が真っ白になる。
物語の展開さえわからなくなる。
観客のみんなの視線が、絵ではなく自分に向けられているのに気づく。
その目が自分を責めるようにも見えて、やがて心配するような同情するような目にも見えてきて、
「ああっ、何とかしなければっ!」
と思えば思うほどパニックで、頭がぐるぐる、ぐるぐる!
……というときに生じた時間、物語がストップしたあいだというのは、
「間」ではなく、「空白」ですね。
こうした失敗をすると、「空白」がこわくなり、ついつい急いでしゃべりたくなります。
裏書きの脚本を読んで演じるときでも、
なぜか、そうした「空白」がこわいという本能的なものがあって、
急いで読み語る必要はないのに、なんだか追われているようにあせっちゃうことが……。
そう、よくあるんです。
そうして、肝心の「間」まで抜かして間抜けなことになっちゃうんですよね。
だから、紙芝居を演じている最中、
何十秒もずっと黙ったまま、「間」をとっているなんて話しを聞くと、
もう、スゴイと思うわけです。
──紙芝居作家であり、演じ手としても百戦錬磨のときわひろみさんから聞いた話しです。
それはたとえば、踏み切りがカンカン鳴っているところで電車を待つという場面。
これから電車が来るぞというところで、ときわさんは
「カンカンカンカン……」
と言いながらフェードアウトするように声を小さくして、やがて黙ってしまう。
そうして何秒も、何十秒も「間」をとったりするのだそうです。
その腕もさることながら、これはときわさん自身のキャラクターもあるかもしれません。
電車がいつ来るかと固唾をのんでいる(?)子どもたちの前で、
「あ、電車が来たかな」というようなアクションをして、トボケたように目を泳がせたりする。
と思ったら、突然反対の方向に目を泳がせたりする。
そんなふうに「間」を遊ぶ、ときわさんのお茶目な姿が目に浮かんでくるようです。
その時間は、「空白」ではない。
子どもたちにとっては、なんともおもしろい、意味のある時間なんですね。
みのもんたさんが司会をつとめる「クイズ$ミリオネア」というテレビのクイズ番組がありました。
出場者が、考え迷った末にクイズに答える。
そして、それが正解であるか、結果の前に、
司会進行のみのさんが、異常に長い「間」をとることがありました。
みのさんは何も言わない。黙ったまま。
音楽や照明の効果と相まって緊張はたかまり、果して「正解」なのか「不正解」なのか、
出場者と観客は、 その審判 をジリジリと気をもんで待つことになります。
このとき、正解かどうかがわかりきったような場合であれば、
みのさんは「間」をとらずに、さっさと結果を告げます。
観客(視聴者)の興味を引っ張ることが出来るかどうかを見ながら、
「間」を測ってじらすんですね。
そしてこのとき、単に「正解」「不正解」の興味だけでなく、
その画面からは回答者の感情や人間性がほの見えてくる。
視聴者はいろいろ想像する。
こうして意味や興味が持続していれば、どんなに「間」が長くても苦になりません。
「間」を楽しむことになります。
みのもんたさんのインタビュー(「朝日新聞」2005年3月23日付)によると、
彼は徳川夢声さんの「間」に学んだのだといいます。
ラジオでの朗読(吉川英治・原作「宮本武蔵」)で徳川夢声さんは、
「そのとき」
と言ってから口をつぐむ。
そうして放送事故となるギリギリまで「間」をためてから
「武蔵は……」
などと続けた。
その沈黙の「間」をストップウォッチで計ったら6秒だったとか。
筆者は徳川夢声さんの声をラジオでも残された録音でも聞いたことがないのですが、
映像のないラジオで6秒黙るというのは、スゴイと思います。
みのもんたさんは、それをテレビに生かしているというのです。
こうした“じらし作戦”のような「間」は、
テレビの例で言うと、「トリビアの泉」という番組のナレーションにも見られました。
たとえば、中江真司さんのナレーションがあの落ち着いた声で、
「ザリガニのオシッコは顔から出る。」
と語る。
このとき、「ザリガニのオシッコは」の後で、ほんの少し「間」を入れるのです。
「ザリガニのオシッコは…[間]…顔から出る。」
すると、視聴者はその「間」の先に惹かれ、興味をもって「間」を待つことになります。
気をもたされ、じらされる。
もしも、この「間」がないまま、よどみなくスラスラと語られたとしたら、
それがどんなに驚愕の事実であっても「へえー」と感心することはないでしょう。
「あ、そう」と、軽く流してしまうかもしれません。
その「間」の時間は、たとえ短かったとしても効果的です。
「顔から出る」という意外な事実が、いっそう劇的、衝撃的に「意外な事実」として、
「へえー」という聞き手の感嘆を誘うことになります。
演劇においての「間」について、演出家の平田オリザさんは、
「間をとるということは、すなわち、観客が想像力の翼を広げる時間帯なのです。」
と、言及しています(1)。
「間」があることで、意識的であれ、無意識的であれ、観客に想像を促すことになる。
クイズの正解の前に「間」があることで、視聴者は、
答えが合っているのか、違っているのか、
回答者は大金をつかむことが出来るのか、一文無しで帰ることになるのか、
という分かれ道を、あれこれ想像することになります。
ナレーションの途中に「間」が入ることで、視聴者は、
「え? ザリガニ? オシッコがどうしたの?
ザリガニのオシッコにいったい、どんな驚きが隠されているの?」
と、あれこれ想像することになります。
ときわひろみさんがつくった「間」の中で、子どもたちは、
電車がどこから来るのだろう、いつ来るのだろうと、あれこれ想像を楽しんでいたわけです。
そして想像するとともに、緊張感がもたらされます。
「間」を作ることで、緊張が高められる。
映画監督ヒッチコックは、やはり映画監督のトリュフォーとの対話の中でこう言っています。
「観客の不安をかきたてるようなシチュエーションのサスペンスにしろ、あるいは、観客がドキドキしながら『つぎは何が起こるんだろう』と自問自答せずにはいられないようなサスペンスにしろ、サスペンスは観客の注意をひきとめる最も強力な手段だからね。」(2)
「不安をかきたてるようなシチュエーション」というのは、ヒッチコック映画でおなじみですね。
たとえば、断崖絶壁の上。高い塔の上。
そんな高所で繰り広げられるアクション・シーンがあります。
必ずしも落下するシーンは描かれない。
けれど、「もしかしたら落下するのではないか」という想像が、
不安をかきたてることになるんですね。
またたとえば、爆弾が仕掛けられるというような古典的なシチュエーション。
これには、爆弾がいつ爆発するかという「恐怖」があります。
しかし、その恐怖の描き方でも、ヒッチコックは2種類を混同してはいけないと言います。
ひとつは、「サプライズ」。
テーブルで登場人物が、穏やかに会話をしている。
それが突如、爆発するとしたら、これはショックです。
まさかテーブルに爆弾が仕掛けられていたとは知らない観客はビックリさせられる。
「サプライズ(不意打ち=びっくり仕掛け)」の恐怖に驚かされるわけです。
もうひとつは、「サスペンス」。
「サスペンス」では、最初からネタバレです。
テーブルに爆弾が仕掛けられていることは、最初から観客に明かされます。
たとえば、あと15分もすれば爆発することを観客は知らされる。
すると、テーブル席で何かありふれた、つまらないような会話をしていても、
その何の変哲もないシーンがたちまち生きて来る。
サスペンスになるわけです。
「サプライズ」のとき、観客はただ受け身で驚かされるだけでした。
しかし「サスペンス」では、観客はシーンに参加するのだとヒッチコックは言います。
観客はヤキモキして、
「そんなオシャベリなんかしてる場合じゃないだろ。
わあ、もうすぐ爆発してしまうぞ、早く気がつけよ、早く、早く」
と、スクリーンの中の登場人物に声をかけたくなってしまう。
「この後、どうなってしまうんだろう?」と想像することによって、
恐怖がかきたてられ、時には登場人物に同化し、物語に参加することになるのです。
物語の展開においても、
「次は何が起こるんだろう」「どうなるんだろう」
という想像が「サスペンス」を呼びます。
無事にたどり着けるか。
危機を突破出来るか。
いつ敵に襲われるか。
──聞き手(観客や視聴者)は、そうした選択肢をあれこれと想像する。
その想像が不安、緊張を生み、「サスペンス」を生む。
トリュフォーはこうも言っています。
「サスペンスとは、要するに、期待や予想を引き伸ばすことだと言えないでしょうか。」(2)
いや、まさしくそうなのだと思います。
聞き手(観客や視聴者)は注意をひきとめられ、興味を引かれ、それを引き伸ばされると、
そのあいだに、いっそう想像をめぐらせることになる。
その「引き伸ばす」手段のひとつが「間」であると言えます。
「注意」を引き付けられ「期待や予想」をかきたてられようとする、まさにその瞬間に、
「間」が入れられる。
すると、引き伸ばされる。
その「間」のあいだに、聞き手(観客や視聴者)は、
「これからどうなるか」「何が起こるか」と意識的または無意識的に自問自答し、
固唾をのみ、想像をめぐらせる。
つまり、徳川夢声さんが「そのとき」と言って言葉を切り、「間」を作る。
その6秒のあいだ、物語の聞き手は手に汗握り、
主人公・宮本武蔵の行く手を待つ運命に想像をめぐらせることになるわけです。
かくて、緊張が効果的に高められていく。
さて、そうした「間」の後で、武蔵はこうした、どうしたと語られたとき。
たとえピンチの状況は変わらなかったとしても、一時的であれ、
このとき、聞き手に緩和が訪れます。
ほっとひと息つく。
あれこれ想像をめぐらせていた行く末の展開の結果がもたらされるわけです。
それが想像通りであっても、想像を裏切るものであっても、ひとつの決着が得られるんですね。
この緊張は、「不安」や「サスペンス」に限りません。
クイズの答えが正解か、不正解か、決着が着く。
「ザリガニのオシッコ」に、どんな事実があるかが明かされ、決着が着く。
このとき、「間」によって高められた緊張が、緩和されることになります。
「人を笑わせるコツ」とは何か?
そう聞かれたとき、柳家金語楼師匠はインタビューでこう答えたそうです。
松岡亨子さんが、「たのしいお話・お話を語る」(3)で紹介しています。
いわく、
「人が息を吐く寸前におかしなことをいうことです」
「人間というものは、息を吸いながら笑えないものなんですよ」
言われてみれば、なるほどです。
息を吸いながら“引き笑い”をするのは、明石家さんまさんぐらいなものでしょう。
たいていは息を吐いて笑います。
しかし、いざ具体的に実践に結びつけるとなると、これはなかなか難しい。
けれど、笑いのプロの方たちは舞台の現場で、こうした呼吸を敏感に感じ取っているのでしょう。
春風亭昇太師が、座談会の中で、こう語っています(4)。
「時々ね、
お客さんの呼吸が全部わかって、
指揮者みたいな気持ちになる時があるんですよ。」
昇太師匠は観客の呼吸に対してコントロールに近いこともするらしい。
やはりプロの極意は、凡人素人の手の届かないものなのかもしれないと思ってしまいますが、
しかしこれは「笑い」に限らず、「間」を考えるときのヒントになりそうです。
たとえば引っ越しなどで、冷蔵庫や何か重いものを持ち上げようとするとき。
わたしたちは力を入れる際、息を「ふんっ!」と吐いて止めてしまうか、
あるいは「ふーっ!」と吐きます。
「よいしょ」とか「どっこらせ」とか声を出すこともありますね。
また、スポーツで力を入れるときに声を出すこともあります。
ハンマー投げ・室伏広治選手の雄叫びというか、咆哮。
女子テニス・シャラポワ選手のうなり声というか、叫び声。
格闘技や剣道などでは、「えいっ!」「やあーっ!」「チェストーッ!」など、
声を出すことが慣習のようになっています。
これらの声は気合いを高めると同時に、声を出すことで息を吐くということでもあるでしょう。
気を集中して何か動作をしたり、力を込めようとするとき。
特に、興奮しやすい状況に置かれたり、戦闘態勢をとるなどの場合。
そのとき人には、次のような呼吸と集中(緊張)の関係があるといいます。
「息を吐くときにエネルギーがより集中する。
とくに少しずつ長く息を吐くか、息を止めている状態だとより強く集中する。」(5)
腹に力を入れて、腹から押し出すような息の吐き方ですね。
この場合には、息を吐くとき、下腹部がへこむことになるそうです。
宮本武蔵はその著「五輪書」で、剣術で声を発することの効果を説いています。
大声で相手をビビらせたり、フェイントをかけるためにタイミングをずらせて声を掛けたりする。
が、しかし、
「太刀と一度に大きに声を掛くることなし。もし戦ひの中に掛くるは、拍子に乗る声低(ひき)く掛くるなり」(6)
と言っています。
いざ太刀を打ち出すときに掛けるのは大きな声ではない。
戦いの最中に掛けるのであれば、むしろ、拍子にのる低い声。
この低い声での発声は、
下腹部(丹田)に力を入れて息を吐く呼吸の仕方で発すると考えられるそうです。
そうして声を出し、つまり息を吐くことで、力を集中させるんですね。
ところが、戦闘状態や試合中など、興奮状態ではない、ふつうの日常時の呼吸は、
反対だといいます。
つまり、
「吸うときに体は緊張し、吐くときにゆるむ」(5)
のです。
通常の状態では、基本的に次のようになるのでしょう。
息を吸う(吸気)……交感神経が優位となる ……身体を緊張させる。
息を吐く(呼気)……副交感神経が優位となる……身体をリラックスさせる。緊張を緩和する。
興奮状態のときには、腹に力を入れて息を吐くことで、緊張を高め、集中を高めていましたが、
こちらは反対です。
このときの呼気は、腹に力を入れない息の吐き方。
ピリピリした緊張が解かれたとき、無意識的・反射的に、
「ホッ」と安堵のため息がもれることがあります。
腹に力を入れない息をついて、リラックスな状態に入るわけです。
また、不安にさらされたり、閉塞感や嫌悪感がずっと続くときに
思わずついて出る「はぁ〜っ」というため息は、
ストレスの緊張度をいくらかでも和らげようとする身体的な反応とも言えるでしょう。
逆に、「ホオッ」と一息つくことで、リラックスをはかり、緊張を取り除こうとする。
ちなみにこの場合、意識的に緊張を緩和させようとするときには、
「お腹を風船をふくらますような感じにふくらませながら息を吐く」
といいそうです(5)。
宮本武蔵が「声」に言及していたように、剣道では、呼吸が重要視されています。
呼気から吸気への変わり目。
吸気から呼気への変わり目。
その変わり目の一瞬間、人間の身体は、
力を入れたり敏速な行動が出来ない無防備な状態になるのだそうです。
その間隙をついて、打突を仕掛ける。
相手は息を吐くとき、腹に力を入れて集中している。
その最中に攻め込んでも、集中している相手にはすぐに防御され、かわされやすい。
そこで、とくに息を吐いてから息を吸うその無防備な変わり目の瞬間に、
こちらは息を吐いて打ち込むといいのだそうです。
もっとも、人によって、あるいは意識のしかたや動作の違いによって、
必ずしもその通りにはいかないそうなのですが(7)。
相手が息を吸い終わるその瞬間にギャグを仕掛ける、という金語楼師匠の言葉は、
なにやらこうした剣道の極意と通ずるものがあるのかもしれません。
笑いは、時として発作的な興奮をもたらします。
「腹をかかえて」笑う。
そのとき、お腹の中の横隔膜がふるえ、エネルギーを発散させながらも、興奮が高まっていく。
あまりに笑い過ぎると、「お腹がよじれる」「腹が痛い」「お腹が苦しい」。
つまり、横隔膜を使い過ぎてしまう。
そうして「涙が出るほど」に笑ってしまうときの涙は、
その興奮を鎮静化するはたらきがあるといいます。
しかし、笑いそのものは、一気に息を吐く行為。
つまり、ある種の興奮を促しながらも、基本的には「緩和」です。
第二次大戦下、
ナチスのアウシュビッツの強制収容所の囚人として日々を送っていた精神科医V・E・フランクルは、
1日にひとつはジョークを言いあうよう、 友人と取り決めをしていたそうです(8)。
飢えと病気と死という極限の緊張にさらされる中で、
たとえわずかにでもクスリと笑うことは、
精神を支える「緩和」剤というクスリ(薬)になったことでしょう。
わたしたちの日常でも、
たとえば、仕事場で何かトラブって重苦しい緊張にピリピリ包まれたとき、
冗談好きの仲間がいると救いになることがあります。
それほどにおかしくない冗談であっても、フッとみんなでひと笑いする。
すると空気が変わって「緩和」される。
そんなとき、なぜか打開策が見つかるような気がしてくるから不思議です。
「笑いは、緊張の緩和」と喝破したのは、落語家・桂枝雀師でした。
笑いは、脱力させ、緩和させる。
その緩和を効果的にするには、
まず緊張があって、そこから緩和へと至ることで落差を生じさせる。
その落差から笑いが生まれるというのです。
「すなわち『緊張の緩和』がすべての根本なんですわ。
はじめグーッと息を詰めてパーッとはき出す。
グーッが『緊張』でパーッが『緩和』です。
『笑い』の元祖ちゅうことンなると、我々の祖先が大昔にマンモスと戦うてそれを仕留める。
戦うてる時はエラ緊張でっさかい息を詰めてる。
けど、マンモスがドターッと倒れたら息をワーッとはき出して、
それが喜びの『笑い』になったんや……とねェ。」(9)
人は緊張すると、基本的には呼吸が速くなります。
それが盛り上がってクライマックスになったり、
あるいは驚いて急な緊張にさらされると、瞬間的に呼吸を止めたり、ハッと息を吸う。
つまり、「息を詰め」る。
「息が止まる」。
「息をのむ」。
また、重苦しい緊張で「息がつまりそう」というのは、呼吸がじゅうぶんに出来にくい状態ですね。
そうした後で緊張が緩和されると、「ほっとする」。
ほおっと息を吐き出す。
金語楼師匠は、この「息をのむ」緊張から、「息をつく」緩和へとうつる変わり目、
この瞬間にギャグを仕掛けるんですね。
あるいは、「息をのむ」緊張のマックスでギャグを仕掛けて、緊張を解放する。
すると、一気に緩和されて、どっと息を吐き出します。
息を吐き出したときにちょうど口を閉じていれば、プッと「吹き出す」ことになる。
そして横隔膜をふるわせ、断続的に息を吐き出し、ハッハッハッという笑いになるわけです。
呼吸と密接に関わる「緊張と緩和」が、「サスペンス」を演出し、「笑い」を演出します。
その「緊張と緩和」に、「間」が大きなはたらきをします。
《引用・参考文献》
(1)平田オリザ「演技と演出」講談社現代新書
(2)アルフレッド・ヒッチコック、フランソワ・トリュフォー、山田宏一・蓮實重彦訳「定本・映画術」晶文社
(3)松岡亨子「たのしいお話・お話を語る」日本エディタースクール出版部
(4)座談会「落語の入口へご案内いたします」ゲスト:春風亭昇太・橘蓮二、司会:糸井重里〜ほぼ日刊イトイ新聞「婦人公論・井戸端会議」に掲載。=「婦人公論」2004年9月22日号から転載されたもの。
(5)片山洋次郎「整体。共鳴から始まる」ちくま文庫
(6)宮本武蔵、佐藤正英校注・訳「五輪書」ちくま学芸文庫
(7)惠土孝吉「剣道の科学的上達法」スキージャーナル社
(8)ヴィクトル・E・フランクル、霜山徳爾訳「夜と霧」みすず書房
(9)桂枝雀「らくごDE枝雀」ちくま文庫
(1)平田オリザ「演技と演出」講談社現代新書
(2)アルフレッド・ヒッチコック、フランソワ・トリュフォー、山田宏一・蓮實重彦訳「定本・映画術」晶文社
(3)松岡亨子「たのしいお話・お話を語る」日本エディタースクール出版部
(4)座談会「落語の入口へご案内いたします」ゲスト:春風亭昇太・橘蓮二、司会:糸井重里〜ほぼ日刊イトイ新聞「婦人公論・井戸端会議」に掲載。=「婦人公論」2004年9月22日号から転載されたもの。
(5)片山洋次郎「整体。共鳴から始まる」ちくま文庫
(6)宮本武蔵、佐藤正英校注・訳「五輪書」ちくま学芸文庫
(7)惠土孝吉「剣道の科学的上達法」スキージャーナル社
(8)ヴィクトル・E・フランクル、霜山徳爾訳「夜と霧」みすず書房
(9)桂枝雀「らくごDE枝雀」ちくま文庫
by kamishibaiya
| 2010-12-07 16:23
| 紙芝居/演じるとき