Kamishibai・イズ・コミュニケーション・06

f0223055_14425076.gif緊張と緩和と「間」のカンケイ・その1


落語家・古今亭志ん生師は「間」の使い方がうまかったと聞きます。
時々、絶句したような「間」をおく。
が、その後に意表をつくギャグでもって笑わせる。

弟子や関係者のはなしによると、実は噺の途中で次に何を喋るか、
本当に忘れて絶句したという「間」が七、八割ではなかったかということで、
そのあたりも、何だかいかにも、らしくて笑ってしまいます。
残された録音には、そうした絶句のような「間」はあんまりないように思いますが、
それでも「間」のうまさがわかる気がします。

柳家小三治師もまた、実にどうも「間」の使い方がうまいなあと思ってしまいます。

たいていは高座の前半、そのとっかかりのところ。
小三治師は、スロースターター。
ゆっくり、たっぷり「間」をとって話し始めます。
すると、それほどに可笑(おか)しくないようなところでも、その「間」でもって笑いが起こる。

「毎度、この、商売ってものは、やさしいものがないなんてことを言いますが、
確かにそうで、
えー、
なかなか商売と名がつくもので、やさしい商売……
『あれァ、やさしいよ。ありゃァ、やれば誰だって食えるよ。楽なもんだ』
なんてね、
人からそう見える商売もありますが……。
われわれも、ま、そうですけれどね。
えー、なかなかね、これでね、ええ。
ここへ上がってきて、なんか気楽に話してるようですがね、
ほんとはね、

【間】
……気楽なんですよ、これが。」
(十代目柳家小三治「出来心」~NHK「日本の話芸」1995年11月10日放送)

「落語家は、他人から見れば気楽な商売に見えますが、実は……」
と言われて「間」が開けられれば、そのあいだに観客は、
「ああ、そうだろうな。楽じゃないだろうな。気疲れもするだろうしな」
などと考え、想像し、そうした言葉を待つことになります。

ところが案に反して、
「気楽なんです」
と言われ、肩すかしを食う。
「おいおい、気楽なのかよ」とツッコミを入れたくなる気持ちと相まって、
観客は思わず笑ってしまうわけです。

……なーんて、いやいや、笑いを理屈で説明しようとするくらい、野暮なことはありませんよね。
まあ、しかし、その野暮天を、ここでちょっとやらかしてみようと思います。

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笑いは、緊張の緩和。
「オチ(サゲ)」を言うことは、緊張度を緩和の方向へ「落とす(下げる)」ことになります。
これをおおまかにイメージとして図式化してみると、次のようになります。

▼図1
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落語で「オチ(落ち)」「サゲ(下げ)」と言えば、本来は、噺の結末にくるギャグのことです。
落として終わるという“落語=落としばなし”という名の由来でもありますね。
が、ここでは便宜上、結末ではなく、噺の途中に入るクスグリであっても、
笑わせるギャグの言葉を「オチ(サゲ)」と呼ぶことにします。

上の小三治師のように「オチ」の前に「間」を入れる場合、次の図になります。

▼図2
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「ほんとはね」の後、「間」が入る。
そのあいだ、観客は想像し、若干、緊張度が持ち上がります。
そうして「気楽なんですよ、これが」のすかし技で一気に緩和され、その落差が笑いを生むわけです。

この場合、「間」を入れなくても図1のように笑いは成立しそうです。
が、「間」が入ることによって緊張と緩和の落差は大きくなり、
笑いがいっそう効果的に引き出されます。
こうした、オチの前に「間」をためるパターンは典型的だと思います。

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たとえば、「粗忽の釘」(上方では「宿替え」)の一節。

そそっかしい男。
引っ越しをすることになり、女房に大きな風呂敷を持って来させる。
箪笥(たんす)を風呂敷に包んで持って行くという。
箪笥を包んで背中を向け、その風呂敷の端をつかむと女房に、
ついでだから火鉢もいっしょに載せろという。
「重いから持ち上がらなくなるよ」
という女房の言葉にも耳貸さず。
ついでに針箱を載せろと、載せさせる。
瓢箪(ひょうたん)を載せろと、載せさせる。
そうして載っけさせると、
「持ち上げる最初だけちょっと手伝え、弾みで持ち上げるんだから」と女房に頼み、
「一(ひ)の二(ふ)の三(み)!」
と気張るが、びくともしない。

「『そらっ、よぉ。一(ひ)の二(ふ)の、三(み)っ…一の二の、三っ…。みぃい。みぃ」
『だから、言わないこっちゃない』
『うるせぇな。いいか、おい。一の二の…おまえねえ、『三』っつうときに押さえてんじゃねえの、おまえ。びくともしねえじゃねえかよぅ。『三』っつったら持ち上げんだよ、おい。いいか、おい。一の二の、みぃぃん、んがぁぁっと。ほぅぅ』
『うるさいね、この人は。おまえさんみたいな人のこと言うんだよ、菜っ葉の肥やしってぇの』
『何だい、その菜っ葉の肥やしってぇのは」
『かけごえばかりてんだよぅ。んなものぁ、持ち上がんないのかね』
『うるせぇな、おれがやってんだよ。おめえが、がたがた言うこたねえんだ。おい、ちょっと、あの、あぁ、そうだ。あのよ、ちょっとあの、瓢箪下ろしてみてくんねぇかな』」

(十代目柳家小三治「粗忽の釘」1987年5月29日口演(1)

この同じ演目を、同じ小三治師が、数年後(たぶん)に演じた高座がテレビで放映されました。
すいません。
録画したとき、メモを怠ったため、収録日や番組名、放送日も不明です。
が、内容は次の通り。

「いいか。さ、持ち上げるぞ。
一(ひ)の二(ふ)の三(み)っつったらな、三(み)っつたら、
ホイッとおれもな、下っ腹(ぱら)に力を入れるから、
おめえもグッと持ち上げるんだ。いいか。
いくぞ。
一の二のみっ!
……一の二の、みぃーっ!
みいぃーーーッ!!
……何してんだよ、おまえ。押さえてんじゃないのか? 
持ち上げんだよ。
いいか。
一の、二の、みいぃぃぃーーーッ!
[持ち上がらないため、ちょっと吐息をついて背中にいる女房をチラ見する。]

【間】
ちょっと、瓢箪を下ろすかな。」
(十代目柳家小三治「粗忽の釘」

前者の高座はDVDにもなっているそうなので確認すればいいのですが(スイマセン)、
文章をみた限りでは、後者のように「間」をとっているとは思えません。
後者では、「掛け声=かけ肥え」というクスグリもなく、全体に言葉も短くなっています。
それが、テレビ用に短くしたものなのか、
工夫して言葉を削った結果のものなのかどうかは、筆者には、はっきりとはわかりません。

が、しかし、後者の、短い言葉の中にポーンと放り込まれた「間」が抜群だと思います。

瓢箪を下ろしたくらいではもちろん持ち上がる訳はない。
それでも強がる男の可笑しさが、「間」でもってくっきり浮かび上がる。
女房に強がりを言い、頑固で我を通そうとする男の、裏腹の情けなさというか、
可愛さみたいなものも見える気がします。

もちろん、「間」を入れない前者のような演じ方もアリでしょう、
が、「間」を入れることによって、可笑しさや味わいがグッと引き立つことも確かだと思うのです。

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ちなみに、この「粗忽の釘」の上方版である「宿替え」を桂枝雀師が演じています。

細部のディティールは違っていて、男が風呂敷で一度に運ぼうとするのは、
櫓炬燵(やぐらごたつ)、漬け物の重石(おもし)、布地の端切れを入れたボテ箱、オマル、
稲荷さんと金神(こんじん)さんの道具、針刺し……瓢箪。
そして、竹とんぼ。
これらを風呂敷でまとめたところへ、バラけて崩れないよう、細帯で胴ぐくりを掛ける。
さあ、そうして持ち上げようと力を入れるが、びくともせず。
そこで女房に、竹とんぼを取ってくれと言って下ろさせる。
針刺しやらオマルやらも取れと言って下ろさせる。
が、微動だにもせず、男、ついには、なんと泣き出してしまいます。
するとその大騒動をながめていた女房、

「待ちなはれ、これ。あんた最前、『胴ぐくりを掛ける』ちゅうて、後ろの柱、いっしょにくくってるやないかい。そんなもんが担(かた)げていけんのか?」
(二代目桂枝雀「宿替え」~ABC「枝雀寄席」1980年8月24日放送/DVD「枝雀の十八番」EMIミュージックジャパン・第一集に収録)

この箇所は、「間」をとらずに語られています。
同じ80年代の高座の口述筆記(1984年3月5日口演(2))でも、「間」をとっていません。

ところが、90年代に演じられた高座(TBS「落語特選会」1997年1月13日放送)では、
男の騒ぎを横でながめる女房を描写しつつ、「間」をじっくり、たっぷりとった後で、上述の台詞。
大爆笑でした。
枝雀師が工夫し、進化させて獲得した「間」だと思います。

どこに「間」を入れるか。
どのくらい「間」を入れるか。
入れどころを違えても受けなかったりする。
時間が長過ぎても、ダレたりする。
はなしの流れや、その場の雰囲気によっても、効果は違います。
おそらくは永遠のテーマとも言えるこの課題は、
笑いの現場で、日々工夫され続けているのでしょう。

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古今亭志ん生師の小咄にこういうのがあります。

「えー、むかしはてえと、どこの橋にも橋番というのがいて、その橋から間違いが起こると、橋番の責任でございまして、
『あー、このように、毎晩身投げがあっては困るではないか。そのほうはそこにいてわからんのかァ』
『へえッ、どうも相すみませんでございます』
上役に叱られて、その晩、こう見ていると、一人バタバタと駆け出して行って、えー、欄干につかまって、とび込もうとしていた奴がいる。そいつの襟ッ首ィつかまえて、
『え、てめえだろう、毎晩こっから身を投げるのはッ!』
自然にはなしになってくるンでございまして……。」

(五代目古今亭志ん生「小咄春夏秋冬」(3)

この場合、ヒョイとオチを言われても、即笑いとはならないように思います。
「え? どういうこと?」と考えてしまう。
そして、考える時間が一瞬、二瞬あってから、
「身を投げて死ぬのを毎晩くり返すなんて、出来ない、出来ない。
身投げにやって来たのは、毎晩別の人に決まってるじゃん」
とやっと合点し、そして橋番の強引な決めつけが可笑しくなって笑ってしまいます。

いわゆる「考えオチ」と呼ばれるパターン。
これは、
「なかなか考えんとわからんてな噺」(by 桂米朝師)
などと説明されますが、
野村雅昭「落語の言語学」(4)では、次のように定義されています。

「オチだけをきいた瞬間にはわかりにくいが、伏線がはってあったり、隠喩がきいていたりするので、
よくかんがえれば、納得され、笑えるもの。」


筆者は、上の小咄を生でも録音でも聴いたことはありませんが、志ん生師はおそらく、
「え、てめえだろう、毎晩こっから身を投げるのはッ!」
というオチを「間」をとらずに言い、言った後で「間」をとったのだと思います。

その「間」のあいだで、観客は考え、想像をめぐらせ、緊張を高める。
そうして理解納得し腑に落ちたとき、笑いが起こり、一気に緩和する。

その後で、落ち着いてから、あるいはやや笑いにかぶせ気味に、
「自然にはなしになってくるン……」
と、続けたのではないでしょうか。

▼図3:考えオチ
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このパターンは、欧米のジョークなどにも多いような気がします。
たとえば、こんなはなし。

「精神病院で。
医師が患者にたずねた。
『こんにちは、あんたは何になっているのだね?』
『法皇だ』
と、彼(※)はいった。
『ほう。誰がそういった?』
『神様がそういわれた』
するとちょうどとおりかかった、白いひげを胸までたらした老人の患者が、口をはさんだ。
『そんなことはない。わしはこの男に話しかけたことはないぞ……』」
(5)
(※引用した原文の言葉を一部変えました。)

これが会話の中で話されたとしたら、やはり、オチの後で「間」がおかれ、
その一瞬か二瞬の後で聞き手がニヤリ、ということになると思います。

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さて、しかしながら、「落としばなし」である落語のそのおしまいのオチで
「間」が長々と入れられることはそう多くはないようです。
特に、オチの前に「間」をためる図1のパターンは、噺の結末には多くはありません。

「間」を入れる例がないわけではありません。
たとえば、三笑亭可楽師の「二番煎じ」という噺。

拍子木なぞをカチカチとたたきながら「火の用心!」と声をかけて町内を回る、夜回り。
その夜回りを、町内の旦那衆が回ることになります。
そうして寒さのつのる冬の晩。
一回りして番小屋へ戻る。
と、体の中からあったまろうと酒を持ってきているやつがある。
夜回りの仕事の最中に酒はいけないが、いや、これは煎じ薬だといって、
土瓶で燗をしてみんなでやり始めた。

ところへ、番小屋を回る見廻り役人。
その土瓶は何だと問われ、「煎じ薬です」と差し出せば、
役人、煎じ薬を飲み放題。
全部飲み干しそうな勢いに、旦那衆、

「『せっかくでございますが、煎じ薬はそれだけになったんでございます。もう、一滴もございません』
『ない? ないとあればしかたがない。拙者、もうひとまわり、まわってくるあいだに、

【間】
二番を煎じておけ』
(八代目三笑亭可楽「二番煎じ」(4)

筆者はこの噺を柳家小三治師でききましたが、
師は「二番を煎じておけ」というオチを、そのまま登場人物である役人の台詞として、
ややトーンを落としめにして、ごく自然に語っていました。

ところが、可楽師は、
「ない? ないとあればしかたがない。拙者、もうひとまわり、まわってくるあいだに、」
までを、役人の台詞として語る。
そこでたっぷりと「間」を入れて、それから地に返って、
「二番を煎じておけ」
とオチを言ったそうです。

「地」とは、登場人物の会話の台詞ではなく、演者自身が観客に向かって語る言葉。
いわゆる、叙述。
いわばナレーションでもあり、説明や描写をするト書きのはたらきもする、
講談でいえば本文のところ。
地に返り調子を変えることで、オチ(サゲ)であるということが非常にわかりやすくなります。

はっきりと地に返ってオチ(サゲ)を言うこうした演り方は、
三遊亭円生師の述懐によれば、「扇派のサゲ」と言うのだそうです。
昔、船遊亭扇橋を祖とする、都々逸坊扇歌といった「扇派」といわれる人たちが
行った演(や)り方なのだとか。(6)
野村雅昭さんは、「地口オチ」と呼んでいます(4)

しかし三遊派(初代三遊亭円生や三遊亭円朝をはじめとする一派)は、地に返らず、
登場人物としての心持ちで下げるのだそうで、
円生師は、こちらが噺の本道ではないかと言っています。

確かに、地に返って落とす演出は、形式的で、
いかにも“つくりもの”めいていて不自然かもしれません。
小三治師が演(や)ったように、現在では、三遊派の演出が主流のようです。
可楽師も、いつもこうした演出をしたわけではなかったそうです。

しかし素人目にもわかりやすいのは事実で、
「可楽ほどではなくても、オチを普通よりゆっくりしゃべったり、声を一調子はりあげたりするなどのくふうは、
多少の差はあれ、他の演者にも共通にみられる」

と、野村雅昭さんは指摘しています(4)

また、オチ(サゲ)の前に、「間」を入れるということは、図2のように、
緊張と緩和の落差が際立ちやすい。
「間」には、「間」の次にくる言葉に注意を促し、強調するはたらきがあるのですが、
そのため、ここでは「間」を入れることで、オチの言葉を目立たせ、印象づける
という効果も加わります。

にも関わらず、結末のオチ(サゲ)で「間」が入れられることは、多くありません。
それには、長々と「間」をとってもたつくと、
クライマックスでストーンと小気味よく落とす効果が半減するということがあるのでしょう。

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《引用・参考文献》
(1)十代目柳家小三治「柳家小三治の落語2」小学館文庫
(2)二代目桂枝雀「桂枝雀爆笑コレクション3」ちくま文庫
(3)五代目古今亭志ん生「志ん生艶ばなし・志ん生の噺2」ちくま文庫
(4)野村雅昭「落語の言語学」平凡社/平凡社ライブラリー
(5)磯村尚徳編著、荻野弘巳訳「フランスジョーク集」実業之日本社
(6)六代目三遊亭円生「寄席育ち」青蛙房
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by kamishibaiya | 2010-12-08 15:08 | 紙芝居/演じるとき | Comments(0)