Kamishibai・イズ・コミュニケーション・07
2010年 12月 09日
緊張と緩和と「間」のカンケイ・その2
笑いは、緊張の緩和。
緊張から緩和へ至る、その落差をいかに際立たせるか。
そのためには、オチ(サゲ)の切れ味も必要です。
三遊亭円生師はこう言います。
「いざサゲへ来ましたら、むだなことはもう、ひと言もいわず、そのサゲをさッと言わなくちゃいけない。
あれは競技でいう決勝線だと思うんです。
泳ぎでもマラソンでも、最後の決勝点が見えてきて、ばッとはいる時ですね。
その、ラストスパートてんですか、それが利(き)かなくちゃいけない。
あすこでよたよたとゴールインしたんでは……やはり最後に、ばッとゴールインする、
その勢いで競技がいっそうあざやかなものに見えるわけでしょう。」(1)
そのために円生師は、たとえば「三年目」という演目のサゲの言葉を刈り込んだそうです。
先達の師たちから習い覚えた言葉を詰められるだけ詰め、字数にして10幾字を詰めて演じた。
「電報うつんじゃないけれども、サゲへ来たら本当に一字でも少なくして、さッとすべり込まなくちゃいけない。
もたもたしていてサゲを悟られてはいけないんです。」(1)
同様の工夫、努力は、各師それぞれされているようで、
たとえば、「夢金」という噺。
これは、いわゆる“夢オチ”というやつで、
せしめた小判を「百両、二百両……」と数えていたら、それは寝言で夢だったというはなしです。
三遊亭遊三師(二代目)は、「痛い」と言って夢から目を覚ましたら、
自分の急所を握っていたというオチ。
円生師や古今亭志ん朝師もこの系統で落としていましたね。
これを三遊亭金馬師(三代目)は、
「『百両、二百両ォー』
『(階下にいる親方が、寝言の大声なのをたしなめて)オイ、熊ァ静かにしねえな』」
という短い言葉で、ポーンと切って落としたそうです。
立川談志師はこれを継承しつつも、しまいには、
「『百両、二百両ォー』
『……(階下にいる親方が、うるさいぞという顔で上を見上げる。)』」
と、オチの言葉さえカットして、無言の仕草で落とすようになったのだとか(2)。
オチの言葉が短いほど、それだけ切れ味鋭いオチとなり、急転直下で落ちることになるのでしょう。
もっとも、その逆をいって成功した例もあるようです。
無駄な言葉を省いて追い込むように落とすのが、正攻法。
が、柳家三語楼師(初代)は、オチのところでわざともたもたと延ばし、
長々と演じることがあったそうで、
それがまた可笑しかったのだそうです。
ただこれは、三語楼師の力があるから出来ることで、他の人がやったらこうはいかないと、
円生師は言っています(1)。
落差をいかに際立たせるか。
そのためには、また、オチの直前までに、いかに緊張を盛り上げるかもカギになります。
最後のオチへ向かってテンション(緊張度)を上げていく。
そうした緊張や興奮を高めるための話術のひとつとして、
テンポ(スピード)を高めるということがあります。
話す速度は、文化や時代によっても感じ方が違ってきます。
が、一般に、遅い速度は、神経を落ち着かせる。
緩和の方向にはたらきます。
ゆっくりの速度で「間」を頻繁に、また長くとるほど、気分を下降させます。
逆に、「間」をあけずにスピーディに話すほど、気分を高揚させる。
それが喜びであれ、不安であれ、興奮を高めることになります。
つまり、緊張を盛り上げる。
このテンポをうまく使って人々を奮い立たせた例が、たとえば、
アメリカの公民権運動で知られるマーティン・ルーサー・キング牧師の演説です。
1963年8月28日。
ワシントンD.C.のリンカーン記念館にて。
「I have a dream(私には夢がある)」と題された有名なスピーチです。
もちろん、聴衆の琴線に訴えかけたのは、語られた内容自体だったでしょう。
が、どういうように語ったか、その語り方も、聴衆の琴線をふるわせるのに
一役買ったと思われます。
最初はゆっくり。
演説には、聴衆の拍手を促し、その拍手がおさまるのを待つ「間」がありますが、
その「間」もたっぷりです。
それが話していくにつれてだんだんペースを上げていき、声もしだいに大きく、
そして若干、高くなっていく。
感情の昂(たかぶ)りとともに、声の抑揚も緊張感を高めていく。
時に歌うような心地よいリズムで、尻上がりに加速していき、クライマックスの結語へ向けて盛り上げています。
このときの話す速度は、
始まりが、1分間に92語の言葉を話す速さ。
それがしだいに速くなり、
しまいには、1分間に145語を話す速さへと高まっているそうです(3)。
これは、技法として意識的に行われたというよりも、
もしかしたら、気持ちの高まりに伴って自然にスピードも高まっていった。
あるいは、それだけスピーチに熟達していたのかもしれませんが、そう思わせられてしまいます。
筆者は英語がチンプンカンプン。
内容は、日本語訳のテキストを読んで初めてわかったという状態ですが、
声のニュアンスだけを聞いても、人々が心を動かされ万雷の拍手を送った気持ちが
わかる気がします。
「You Tube」~「Martin Luther King - I Have A Dream Speech - August 28, 1963 (Full Speech)」
このように速度をはやめることで緊張を盛り上げるやり方は、落語でも使われます。
もちろん落語の演目(ネタ)にもよりますが、
たとえば、柳家小三治師もよくやるやり方です。
最初はゆっくりと語り始め、前半の特にとっかかりは「間」を多用する。
やがて、物語の展開とともにペースを速め、
後半、最後近くは、「間」をとりません。
むしろ「間」を排除して、とんとんとたたみ込んで結末へ盛り上げる。
まあ、お米の炊き方を伝える言葉になぞらえると、
「はじめチョロチョロ、中パッパ。ブツブツ、トントン、火をくべて、
(ラストは)赤児泣くとも『間』をとるな」
というような具合でしょうか。
そして、緊張が盛り上がったクライマックスで、オチとなり、ストーンと落とす。
だからこそ落差が際立って、笑いが効果的に引き出されるんですね。
小三治師の師匠である柳家小さん師(五代目)は対談で、
「三分の二まで持ってきて、あとの三分の一が、勝負どころです。
そこのところがいちばん肝心で、だんだんとたたみ込んで持ち込む呼吸ですね。
そして咄(はなし)のテンポを速めて、客に隙を見せずに、ひと息にサゲまで持っていくこと。」
と語り、聞き手の暉峻康隆さんは、
「能の序破急だね。」
と応じています(4)。
「序破急」のように、だんだん緊張を盛り上げていくという、こうしたはなしの骨組みは、
落語の多くの噺に共通するものです。
いわゆる「拍子オチ」といわれるパターンに典型的です。
「拍子オチ」は、
「とんとんと調子よくはこんでいき、さっとおとすもの。」
と説明されます(5)。
そのため、別名、「とんとんオチ」とも呼ばれます。
▼図4:拍子オチ
たとえば、「愛宕山」という噺。
この噺では、最後のオチがメインであり、後半は、そのクライマクックスへ向かって、
とんとんとはなしを盛り上げていきます。
昔から、土器(かわらけ)投げという遊びがあります。
酒の席の座興から広まったとされるゲームで、
高台などから、日干しや素焼きなどの安価な土器の皿を、フリスビーのように投げ落とし、
しつらえた的の仕切りの中へ通したりして遊ぶ。
その昔、京都の愛宕山には、崖の上からこの土器投げをするところがあったのだとか。
とある旦那、芸妓や舞妓や幇間(たいこ=太鼓持ち)たちを引き連れて、
愛宕山へと野駆け(ハイキング)にやって来る。
そうして座興で、土器の皿の代わりに、なんと二十枚もの小判を谷底へ投げ入れます。
それを見た幇間の一八(いっぱち)、小判を拾えば「拾た者のもんや」と言われて、
大きな傘をパラシュート代わりに崖を飛び降りる。
無事に着地し夢中で小判を拾い集めたはいいが、上ることができない。
そこで苦し紛れの知恵、自分の長襦袢を裂いて縄を綯(な)う。
その端に石を結びつけ、投げる。
近くの竹へキリリと巻きつける。
縄を引っ張り、竹を満月のようにたわめて、地面を蹴ると、飛んでツツツツツツー。
「『へい、旦那、ただいま』
『上がってきよった。えらい奴やな。ようお前上がってきたなァ、ほいで金は』
『ああ、忘れてきた』」
(三代目桂米朝「愛宕山」(6))
番傘を持って崖から飛び降りてもケガがない。
竹をしならせて80尋(約150メートル)を飛び上がって来る。
などなど、これはまるっきり非現実的です。
あり得ません。
が、このナンセンスなくだりはしかし大真面目に、拍子にのって、
「とんとんとーーん」とテンポよく語られます。
「間」は取り払われる。
息をもつかせずたたみかけられることによって、
「現実にあるわけないじゃん」などと考える余裕も与えられない。
最後のオチへ向かって、緊張がどんどん、どんどん盛り上げられます。
桂枝雀師ヴァージョンの「愛宕山」では、
長襦袢をシューッと引き裂くところ。
その布切れで縄をなうところ。
ビュンビュン振り回すところ。
フングフングと竹を引っ張るところ……。
などなど、漫画チックなオノマトペと言葉の繰り返し、そして大熱演のアクションによって、
緊張がさらにさらに盛り上げられていました。
そうして、崖の上へと着地し無事に生還してきたものの、その安堵にため息つく暇もなく、
クライマックスで、「ああ、忘れてきた」という間抜けなオチ。
ストーンと真っ逆さまに「落ち」て緩和することになります。
とんとん拍子で緊張を盛り上げ、急転直下に落とす。
「拍子オチ」の代表例といわれる由縁です。
こうしたオチの場合には特に、「間」はいけません。
「間」を入れると、盛り上げたスピードを殺しかねないからです。
(もっとも後述のように、枝雀師は、安堵にため息をつくところで、
若干の「間」を入れたやり方をしています。)
古今亭志ん朝師は、このような盛り上げ方の実にうまい方でした。
始まりや中盤は、だいたい普通な速度。
古今亭志ん生師や柳家小三治師のようにスタートをスローにして
「間」をたっぷりとることはありません。
しかしそれが後半のたたみ込む場面となると、
切れのいい、いかにも江戸っ子な、いなせな語り口で、
「とんとんとぉーーーん」と拍子にのってクライマックスへ加速する。
たとえば、「火焔太鼓」という噺。
ある古道具屋。
汚くて値打ちがないと思っていた太鼓の音を、たまたま通りがかりの武士が聞きつけて、
買いたいという。
実はこの太鼓、「『火焔太鼓』とか申して、世に二つというような銘器」。
それを大金で売って大もうけして帰ってきた亭主に、女房、
「『まあー、よかったね、お前さん、よくあんな汚いものが三百両なんぞで売れたね、ええ?
音がしたからだよ。今度っからお前さん、音のする物(もん)に限るね』
『そうよ、音だよ。おれ、今度ァな、半鐘買ってきて鳴らすよ』
『半鐘はいけないよ、おじゃんになるから』」(7)
半鐘の「ジャン」という鳴り音に引っ掛けた地口(駄ジャレ)オチです。
もしも、この駄ジャレが噺の途中のギャグであったなら、
「半鐘はいけないよ」の後で、ちょっとした「間」を入れると効果的だと思います。
「え? なんで半鐘がいけないの? どうしてさ?」と観客に考えさせ、想像させ、
心持ち緊張を高める。
ほんの短い時間でも、ひと呼吸止めるその「間」の後で、
「おじゃんになるから」とオチを言う。
つまり、前回の図2のパターン。
が、これは、噺の結末のオチです。
口述筆記の文章ではわからないのですが、
志ん朝師の高座では、このオチへ来るまで、
大金を手にした亭主の驚きよう、喜びよう、
さらにそれを聞いた女房の興奮が、ギャグをまじえつつ、
「とんとんとぉーーーん」と調子よく鮮やかに語られます。
まさに「笑わせるのは体力です」という師の言葉どおりの熱演。
そうして観客の興奮もグングン盛り上げられたところで、ストーンと切って落とされる。
つまり、テンション(緊張度)としては、図4のパターンですね。
このやり方で、この結末に「間」を入れてしまったら、
せっかくの噺が「おじゃん」になるでしょう。
さてしかし、結末で「間」を入れずに、
けれど「間」と同じようなはたらきを効かせることがあります。
会話を相手にふるというやつです。
上の例だと、
「半鐘はいけないよ」
「どうしてさ?」
「おじゃんになるから」
というように、疑問を投げかける言葉や、鸚鵡(おうむ)返しのように繰り返す言葉などを、
会話の相手の台詞として、ワンクッションはさみ込むのです。
たとえば「馬のす」(上方では「馬の尾」)という噺。
これは、多くの落語と同様に、江戸時代の小咄が元ネタになっているそうです。
ある男、釣りをしようと道具を取り出したが、糸が切れている。
そこへ田舎馬が通りかかり、これ幸い、釣り糸に使おうと馬の尻尾の毛を抜き取る。
それを目撃した友だち、
「おい、馬の尻尾をぬくなんて、とんでもないことをするな」
「え? 尻尾をぬくと、どうなるんだ?」
「どうなるどころか、とんでもないことだ」
男は、祟りでもあるのかと心配になり、聞き出そうとする。
すると、友だちは「酒をおごってくれるなら話してやろう」。
そうして酒を一升おごり、さんざん待たされた挙げ句、
友だちが言うには、
「そんなら言おう。馬の尻尾を抜くと、馬が痛がる」
(烏亭焉馬「詞葉の花」(8))
この小咄に肉付けをしたのが、落語の「馬のす」です。
が、骨格は変わりません。
友だちは、最後の一言を出し惜しみしてじらしにじらし、酒をおごらせ、
肴の枝豆をおごらせ、飲み食いします。
馬の尾を抜くといったいどんなことになってしまうのか?
観客は、男といっしょになって、何とか答えを知りたい気持ちにさせられ、
ジリジリと気をもみます。
その答えこそがオチとなるわけで、そこへ至るまで、友だちは、時に気をそらせたり、
「間」をとりながら、興味を引き延ばしに引き延ばす。
こちらの落語では、男が、友だちの口車にまんまと乗せられるように、
緊張から緩和へ至る、その落差をいかに際立たせるか。
そのためには、オチ(サゲ)の切れ味も必要です。
三遊亭円生師はこう言います。
「いざサゲへ来ましたら、むだなことはもう、ひと言もいわず、そのサゲをさッと言わなくちゃいけない。
あれは競技でいう決勝線だと思うんです。
泳ぎでもマラソンでも、最後の決勝点が見えてきて、ばッとはいる時ですね。
その、ラストスパートてんですか、それが利(き)かなくちゃいけない。
あすこでよたよたとゴールインしたんでは……やはり最後に、ばッとゴールインする、
その勢いで競技がいっそうあざやかなものに見えるわけでしょう。」(1)
そのために円生師は、たとえば「三年目」という演目のサゲの言葉を刈り込んだそうです。
先達の師たちから習い覚えた言葉を詰められるだけ詰め、字数にして10幾字を詰めて演じた。
「電報うつんじゃないけれども、サゲへ来たら本当に一字でも少なくして、さッとすべり込まなくちゃいけない。
もたもたしていてサゲを悟られてはいけないんです。」(1)
同様の工夫、努力は、各師それぞれされているようで、
たとえば、「夢金」という噺。
これは、いわゆる“夢オチ”というやつで、
せしめた小判を「百両、二百両……」と数えていたら、それは寝言で夢だったというはなしです。
三遊亭遊三師(二代目)は、「痛い」と言って夢から目を覚ましたら、
自分の急所を握っていたというオチ。
円生師や古今亭志ん朝師もこの系統で落としていましたね。
これを三遊亭金馬師(三代目)は、
「『百両、二百両ォー』
『(階下にいる親方が、寝言の大声なのをたしなめて)オイ、熊ァ静かにしねえな』」
という短い言葉で、ポーンと切って落としたそうです。
立川談志師はこれを継承しつつも、しまいには、
「『百両、二百両ォー』
『……(階下にいる親方が、うるさいぞという顔で上を見上げる。)』」
と、オチの言葉さえカットして、無言の仕草で落とすようになったのだとか(2)。
オチの言葉が短いほど、それだけ切れ味鋭いオチとなり、急転直下で落ちることになるのでしょう。
もっとも、その逆をいって成功した例もあるようです。
無駄な言葉を省いて追い込むように落とすのが、正攻法。
が、柳家三語楼師(初代)は、オチのところでわざともたもたと延ばし、
長々と演じることがあったそうで、
それがまた可笑しかったのだそうです。
ただこれは、三語楼師の力があるから出来ることで、他の人がやったらこうはいかないと、
円生師は言っています(1)。
落差をいかに際立たせるか。
そのためには、また、オチの直前までに、いかに緊張を盛り上げるかもカギになります。
最後のオチへ向かってテンション(緊張度)を上げていく。
そうした緊張や興奮を高めるための話術のひとつとして、
テンポ(スピード)を高めるということがあります。
話す速度は、文化や時代によっても感じ方が違ってきます。
が、一般に、遅い速度は、神経を落ち着かせる。
緩和の方向にはたらきます。
ゆっくりの速度で「間」を頻繁に、また長くとるほど、気分を下降させます。
逆に、「間」をあけずにスピーディに話すほど、気分を高揚させる。
それが喜びであれ、不安であれ、興奮を高めることになります。
つまり、緊張を盛り上げる。
このテンポをうまく使って人々を奮い立たせた例が、たとえば、
アメリカの公民権運動で知られるマーティン・ルーサー・キング牧師の演説です。
1963年8月28日。
ワシントンD.C.のリンカーン記念館にて。
「I have a dream(私には夢がある)」と題された有名なスピーチです。
もちろん、聴衆の琴線に訴えかけたのは、語られた内容自体だったでしょう。
が、どういうように語ったか、その語り方も、聴衆の琴線をふるわせるのに
一役買ったと思われます。
最初はゆっくり。
演説には、聴衆の拍手を促し、その拍手がおさまるのを待つ「間」がありますが、
その「間」もたっぷりです。
それが話していくにつれてだんだんペースを上げていき、声もしだいに大きく、
そして若干、高くなっていく。
感情の昂(たかぶ)りとともに、声の抑揚も緊張感を高めていく。
時に歌うような心地よいリズムで、尻上がりに加速していき、クライマックスの結語へ向けて盛り上げています。
このときの話す速度は、
始まりが、1分間に92語の言葉を話す速さ。
それがしだいに速くなり、
しまいには、1分間に145語を話す速さへと高まっているそうです(3)。
これは、技法として意識的に行われたというよりも、
もしかしたら、気持ちの高まりに伴って自然にスピードも高まっていった。
あるいは、それだけスピーチに熟達していたのかもしれませんが、そう思わせられてしまいます。
筆者は英語がチンプンカンプン。
内容は、日本語訳のテキストを読んで初めてわかったという状態ですが、
声のニュアンスだけを聞いても、人々が心を動かされ万雷の拍手を送った気持ちが
わかる気がします。
「You Tube」~「Martin Luther King - I Have A Dream Speech - August 28, 1963 (Full Speech)」
このように速度をはやめることで緊張を盛り上げるやり方は、落語でも使われます。
もちろん落語の演目(ネタ)にもよりますが、
たとえば、柳家小三治師もよくやるやり方です。
最初はゆっくりと語り始め、前半の特にとっかかりは「間」を多用する。
やがて、物語の展開とともにペースを速め、
後半、最後近くは、「間」をとりません。
むしろ「間」を排除して、とんとんとたたみ込んで結末へ盛り上げる。
まあ、お米の炊き方を伝える言葉になぞらえると、
「はじめチョロチョロ、中パッパ。ブツブツ、トントン、火をくべて、
(ラストは)赤児泣くとも『間』をとるな」
というような具合でしょうか。
そして、緊張が盛り上がったクライマックスで、オチとなり、ストーンと落とす。
だからこそ落差が際立って、笑いが効果的に引き出されるんですね。
小三治師の師匠である柳家小さん師(五代目)は対談で、
「三分の二まで持ってきて、あとの三分の一が、勝負どころです。
そこのところがいちばん肝心で、だんだんとたたみ込んで持ち込む呼吸ですね。
そして咄(はなし)のテンポを速めて、客に隙を見せずに、ひと息にサゲまで持っていくこと。」
と語り、聞き手の暉峻康隆さんは、
「能の序破急だね。」
と応じています(4)。
「序破急」のように、だんだん緊張を盛り上げていくという、こうしたはなしの骨組みは、
落語の多くの噺に共通するものです。
いわゆる「拍子オチ」といわれるパターンに典型的です。
「拍子オチ」は、
「とんとんと調子よくはこんでいき、さっとおとすもの。」
と説明されます(5)。
そのため、別名、「とんとんオチ」とも呼ばれます。
▼図4:拍子オチ
たとえば、「愛宕山」という噺。
この噺では、最後のオチがメインであり、後半は、そのクライマクックスへ向かって、
とんとんとはなしを盛り上げていきます。
昔から、土器(かわらけ)投げという遊びがあります。
酒の席の座興から広まったとされるゲームで、
高台などから、日干しや素焼きなどの安価な土器の皿を、フリスビーのように投げ落とし、
しつらえた的の仕切りの中へ通したりして遊ぶ。
その昔、京都の愛宕山には、崖の上からこの土器投げをするところがあったのだとか。
とある旦那、芸妓や舞妓や幇間(たいこ=太鼓持ち)たちを引き連れて、
愛宕山へと野駆け(ハイキング)にやって来る。
そうして座興で、土器の皿の代わりに、なんと二十枚もの小判を谷底へ投げ入れます。
それを見た幇間の一八(いっぱち)、小判を拾えば「拾た者のもんや」と言われて、
大きな傘をパラシュート代わりに崖を飛び降りる。
無事に着地し夢中で小判を拾い集めたはいいが、上ることができない。
そこで苦し紛れの知恵、自分の長襦袢を裂いて縄を綯(な)う。
その端に石を結びつけ、投げる。
近くの竹へキリリと巻きつける。
縄を引っ張り、竹を満月のようにたわめて、地面を蹴ると、飛んでツツツツツツー。
「『へい、旦那、ただいま』
『上がってきよった。えらい奴やな。ようお前上がってきたなァ、ほいで金は』
『ああ、忘れてきた』」
(三代目桂米朝「愛宕山」(6))
番傘を持って崖から飛び降りてもケガがない。
竹をしならせて80尋(約150メートル)を飛び上がって来る。
などなど、これはまるっきり非現実的です。
あり得ません。
が、このナンセンスなくだりはしかし大真面目に、拍子にのって、
「とんとんとーーん」とテンポよく語られます。
「間」は取り払われる。
息をもつかせずたたみかけられることによって、
「現実にあるわけないじゃん」などと考える余裕も与えられない。
最後のオチへ向かって、緊張がどんどん、どんどん盛り上げられます。
桂枝雀師ヴァージョンの「愛宕山」では、
長襦袢をシューッと引き裂くところ。
その布切れで縄をなうところ。
ビュンビュン振り回すところ。
フングフングと竹を引っ張るところ……。
などなど、漫画チックなオノマトペと言葉の繰り返し、そして大熱演のアクションによって、
緊張がさらにさらに盛り上げられていました。
そうして、崖の上へと着地し無事に生還してきたものの、その安堵にため息つく暇もなく、
クライマックスで、「ああ、忘れてきた」という間抜けなオチ。
ストーンと真っ逆さまに「落ち」て緩和することになります。
とんとん拍子で緊張を盛り上げ、急転直下に落とす。
「拍子オチ」の代表例といわれる由縁です。
こうしたオチの場合には特に、「間」はいけません。
「間」を入れると、盛り上げたスピードを殺しかねないからです。
(もっとも後述のように、枝雀師は、安堵にため息をつくところで、
若干の「間」を入れたやり方をしています。)
古今亭志ん朝師は、このような盛り上げ方の実にうまい方でした。
始まりや中盤は、だいたい普通な速度。
古今亭志ん生師や柳家小三治師のようにスタートをスローにして
「間」をたっぷりとることはありません。
しかしそれが後半のたたみ込む場面となると、
切れのいい、いかにも江戸っ子な、いなせな語り口で、
「とんとんとぉーーーん」と拍子にのってクライマックスへ加速する。
たとえば、「火焔太鼓」という噺。
ある古道具屋。
汚くて値打ちがないと思っていた太鼓の音を、たまたま通りがかりの武士が聞きつけて、
買いたいという。
実はこの太鼓、「『火焔太鼓』とか申して、世に二つというような銘器」。
それを大金で売って大もうけして帰ってきた亭主に、女房、
「『まあー、よかったね、お前さん、よくあんな汚いものが三百両なんぞで売れたね、ええ?
音がしたからだよ。今度っからお前さん、音のする物(もん)に限るね』
『そうよ、音だよ。おれ、今度ァな、半鐘買ってきて鳴らすよ』
『半鐘はいけないよ、おじゃんになるから』」(7)
半鐘の「ジャン」という鳴り音に引っ掛けた地口(駄ジャレ)オチです。
もしも、この駄ジャレが噺の途中のギャグであったなら、
「半鐘はいけないよ」の後で、ちょっとした「間」を入れると効果的だと思います。
「え? なんで半鐘がいけないの? どうしてさ?」と観客に考えさせ、想像させ、
心持ち緊張を高める。
ほんの短い時間でも、ひと呼吸止めるその「間」の後で、
「おじゃんになるから」とオチを言う。
つまり、前回の図2のパターン。
が、これは、噺の結末のオチです。
口述筆記の文章ではわからないのですが、
志ん朝師の高座では、このオチへ来るまで、
大金を手にした亭主の驚きよう、喜びよう、
さらにそれを聞いた女房の興奮が、ギャグをまじえつつ、
「とんとんとぉーーーん」と調子よく鮮やかに語られます。
まさに「笑わせるのは体力です」という師の言葉どおりの熱演。
そうして観客の興奮もグングン盛り上げられたところで、ストーンと切って落とされる。
つまり、テンション(緊張度)としては、図4のパターンですね。
このやり方で、この結末に「間」を入れてしまったら、
せっかくの噺が「おじゃん」になるでしょう。
さてしかし、結末で「間」を入れずに、
けれど「間」と同じようなはたらきを効かせることがあります。
会話を相手にふるというやつです。
上の例だと、
「半鐘はいけないよ」
「どうしてさ?」
「おじゃんになるから」
というように、疑問を投げかける言葉や、鸚鵡(おうむ)返しのように繰り返す言葉などを、
会話の相手の台詞として、ワンクッションはさみ込むのです。
たとえば「馬のす」(上方では「馬の尾」)という噺。
これは、多くの落語と同様に、江戸時代の小咄が元ネタになっているそうです。
ある男、釣りをしようと道具を取り出したが、糸が切れている。
そこへ田舎馬が通りかかり、これ幸い、釣り糸に使おうと馬の尻尾の毛を抜き取る。
それを目撃した友だち、
「おい、馬の尻尾をぬくなんて、とんでもないことをするな」
「え? 尻尾をぬくと、どうなるんだ?」
「どうなるどころか、とんでもないことだ」
男は、祟りでもあるのかと心配になり、聞き出そうとする。
すると、友だちは「酒をおごってくれるなら話してやろう」。
そうして酒を一升おごり、さんざん待たされた挙げ句、
友だちが言うには、
「そんなら言おう。馬の尻尾を抜くと、馬が痛がる」
(烏亭焉馬「詞葉の花」(8))
この小咄に肉付けをしたのが、落語の「馬のす」です。
が、骨格は変わりません。
友だちは、最後の一言を出し惜しみしてじらしにじらし、酒をおごらせ、
肴の枝豆をおごらせ、飲み食いします。
馬の尾を抜くといったいどんなことになってしまうのか?
観客は、男といっしょになって、何とか答えを知りたい気持ちにさせられ、
ジリジリと気をもみます。
その答えこそがオチとなるわけで、そこへ至るまで、友だちは、時に気をそらせたり、
「間」をとりながら、興味を引き延ばしに引き延ばす。
ちなみに、こうした引き延ばしのテクニックの小説でのやり方を、
筒井康隆さんは、「遅延」(または『妨害』)と呼んでいます(9)。
クライマックスや、答えを明かす寸前に、
それとは関係のないような文章を書き連ねて、答えを遅らせ、
読者を焦(じ)らすのです。
そうした末にやっともたらされた答えは、読者にカタルシスを与えることになる。
主に、ミステリーなどで効果のある技巧とされます。
こちらの落語では、男が、友だちの口車にまんまと乗せられるように、
観客は、演者の話芸の技に乗せられることになります。
そうして友だちは酒を飲み干し、枝豆もきれいに食べ終わり、
「『……ごちそさんッ! …さあ、馬の尻尾の訳、教えてやろう』
『(嬉しそうに)ありがと。馬の尻尾ォ抜くとどうなるんだい?』
『馬の尻尾ォ…抜くとね』
『うん』
『馬が痛がるんだよ』」
(八代目桂文楽「馬のす」(10))
これまでさんざん引き延ばされ、緊張が盛り上げられ、やっとこさ、
「さあ、いよいよ答えがわかるぞ」という最後の段になって、
さらにダメ押しで緊張が引き延ばされ、心持ちアップするわけです。
もしもこれが、
「……ごちそさんッ! さあ、馬の尻尾の訳、教えてやろう。馬の尻尾ォ抜くと馬が痛がるんだよ」
と、平板にただ単にスラスラと語られたとしたら、オチの効果は半減するでしょう。
そこで、次のように「間」を入れると効果的だと思います。
「……ごちそさんッ! …さあ、馬の尻尾の訳、教えてやろう。馬の尻尾ォ…抜くとね……。
【間】
……馬が痛がるんだよ」
しかし、噺の最後で「間」を使ってモタモタするのは良策ではないかもしれません。
また、ここに来てさらにもったいつけるように「間」をためるのは、わざとらしく、
ちょっといやらしさが残る気もします。
そのため、劇中の相手に会話をふり、改めて疑問を投げかけたり、
同じ言葉を繰り返したりして、ワンクッションをおくわけです。
そうすることで、流れの自然さを損なわずに、
緊張を引き延ばし、緊張を若干高める「間」と同様のはたらきをさせることができます。
上の例を、もっとしつこく引き延ばすとこうなるでしょうか。
「……ごちそさんッ! …さあ、馬の尻尾の訳、教えてやろう」
「ありがと。馬の尻尾ォ抜くとどうなるんだい?」
「馬の尻尾ォ…抜くとね」
「うん、どうなるんだい?」
「抜くとね」
「うん」
「抜くとね」
「だから、どうなるんだよッ!」
「馬が痛がるんだよ」
しかし、まあ、これではくどすぎますね。
やはり、文楽師の引き延ばし具合がちょうどいいようです。
こうした例では、たとえば「三人絵師」という噺。
上方へ旅に出た江戸っ子が、泊まった宿で京都の絵師と大阪の絵師と隣り合わせになる。
江戸っ子は自分も絵師だと嘘をつき、
三人で一両ずつ出し合って絵を描いて、いちばん上手いのが三両を取るという賭けをもちかける。
そこで二人の絵師が絵を描くと、江戸っ子は難クセのつけ放題。
とうとう「あんたも描いてみろ」と言われ、江戸っ子は、なんと紙を真っ黒に塗りたくる。
「『……さァ、どうだ、うめえだろ』
『なんやこれ、真っ黒や。真っ黒に塗っちゃって、なんで、これが絵や?』
『これか、真っ黒だろう。この絵はな……』
『なんの絵やね?』
『暗闇から、牛を引きずり出すとこだい』」
(五代目古今亭志ん生「三人絵師」(11))
ここでは、「なんの絵やね?」とはさみ込まれた会話の台詞がワンクッションとなり、
「間」と同じ役割を果たしています。
こうした台詞は、「間」の最中に観客の心の中に生じる言葉を
代弁するものでもあるかもしれません。
そうして友だちは酒を飲み干し、枝豆もきれいに食べ終わり、
「『……ごちそさんッ! …さあ、馬の尻尾の訳、教えてやろう』
『(嬉しそうに)ありがと。馬の尻尾ォ抜くとどうなるんだい?』
『馬の尻尾ォ…抜くとね』
『うん』
『馬が痛がるんだよ』」
(八代目桂文楽「馬のす」(10))
これまでさんざん引き延ばされ、緊張が盛り上げられ、やっとこさ、
「さあ、いよいよ答えがわかるぞ」という最後の段になって、
さらにダメ押しで緊張が引き延ばされ、心持ちアップするわけです。
もしもこれが、
「……ごちそさんッ! さあ、馬の尻尾の訳、教えてやろう。馬の尻尾ォ抜くと馬が痛がるんだよ」
と、平板にただ単にスラスラと語られたとしたら、オチの効果は半減するでしょう。
そこで、次のように「間」を入れると効果的だと思います。
「……ごちそさんッ! …さあ、馬の尻尾の訳、教えてやろう。馬の尻尾ォ…抜くとね……。
【間】
……馬が痛がるんだよ」
しかし、噺の最後で「間」を使ってモタモタするのは良策ではないかもしれません。
また、ここに来てさらにもったいつけるように「間」をためるのは、わざとらしく、
ちょっといやらしさが残る気もします。
そのため、劇中の相手に会話をふり、改めて疑問を投げかけたり、
同じ言葉を繰り返したりして、ワンクッションをおくわけです。
そうすることで、流れの自然さを損なわずに、
緊張を引き延ばし、緊張を若干高める「間」と同様のはたらきをさせることができます。
上の例を、もっとしつこく引き延ばすとこうなるでしょうか。
「……ごちそさんッ! …さあ、馬の尻尾の訳、教えてやろう」
「ありがと。馬の尻尾ォ抜くとどうなるんだい?」
「馬の尻尾ォ…抜くとね」
「うん、どうなるんだい?」
「抜くとね」
「うん」
「抜くとね」
「だから、どうなるんだよッ!」
「馬が痛がるんだよ」
しかし、まあ、これではくどすぎますね。
やはり、文楽師の引き延ばし具合がちょうどいいようです。
こうした例では、たとえば「三人絵師」という噺。
上方へ旅に出た江戸っ子が、泊まった宿で京都の絵師と大阪の絵師と隣り合わせになる。
江戸っ子は自分も絵師だと嘘をつき、
三人で一両ずつ出し合って絵を描いて、いちばん上手いのが三両を取るという賭けをもちかける。
そこで二人の絵師が絵を描くと、江戸っ子は難クセのつけ放題。
とうとう「あんたも描いてみろ」と言われ、江戸っ子は、なんと紙を真っ黒に塗りたくる。
「『……さァ、どうだ、うめえだろ』
『なんやこれ、真っ黒や。真っ黒に塗っちゃって、なんで、これが絵や?』
『これか、真っ黒だろう。この絵はな……』
『なんの絵やね?』
『暗闇から、牛を引きずり出すとこだい』」
(五代目古今亭志ん生「三人絵師」(11))
ここでは、「なんの絵やね?」とはさみ込まれた会話の台詞がワンクッションとなり、
「間」と同じ役割を果たしています。
こうした台詞は、「間」の最中に観客の心の中に生じる言葉を
代弁するものでもあるかもしれません。
《引用・参考文献》
(1)六代目三遊亭円生「寄席育ち」青蛙房
(2)七代目立川談志「談志の落語・一」静山社文庫
(3)アン・カープ、梶山あゆみ訳「『声』の秘密」草思社
(4)暉峻康隆「落語藝談」小学館ライブラリー
(5)野村雅昭「落語の言語学」平凡社/平凡社ライブラリー
(6)三代目桂米朝「桂米朝コレクション・1」ちくま文庫
(7)三代目古今亭志ん朝、京須偕充編「志ん朝の落語・5」ちくま文庫
(8)興津要編「江戸小咄」講談社文庫
(1)六代目三遊亭円生「寄席育ち」青蛙房
(2)七代目立川談志「談志の落語・一」静山社文庫
(3)アン・カープ、梶山あゆみ訳「『声』の秘密」草思社
(4)暉峻康隆「落語藝談」小学館ライブラリー
(5)野村雅昭「落語の言語学」平凡社/平凡社ライブラリー
(6)三代目桂米朝「桂米朝コレクション・1」ちくま文庫
(7)三代目古今亭志ん朝、京須偕充編「志ん朝の落語・5」ちくま文庫
(8)興津要編「江戸小咄」講談社文庫
(9)筒井康隆「創作の極意と掟」講談社
(10)八代目桂文楽、飯島友治編「古典落語~文楽集」ちくま文庫
(11)五代目古今亭志ん生「志ん生滑稽ばなし・志ん生の噺1」ちくま文庫
(11)五代目古今亭志ん生「志ん生滑稽ばなし・志ん生の噺1」ちくま文庫
by kamishibaiya
| 2010-12-09 09:58
| 紙芝居/演じるとき