Kamishibai・イズ・コミュニケーション・08

f0223055_7224359.gif緊張と緩和と「間」のカンケイ・その3


ところで、桂枝雀師は、オチ(サゲ)の分類を独自に考えておられました。
その4分類をここで説明する余裕はありませんが、なるほどと思わず膝を打つおもしろさです。
興味のある方は、ぜひ「らくごDE枝雀」(1)をご覧下さい。

また、こちらのブログ(小言幸兵衛さんによる「噺の話」)が、わかりやすく要点をまとめておられます。
http://kogotokoub.exblog.jp/22988765/

さて、その分類によれば、先に取り上げた「愛宕山」という噺は、
「ドンデン」オチということになります。
結末のシーンを細かくみると、突然、オチになるわけではありません。
幇間(たいこ)の一八(いっぱち)は、谷底から崖の上へと何とか無事に生還してくる。
旦那から「えらい」とほめられる。
ここでいったん安心があるというのです。
通常の物語であれば、無事に帰って来たこの時点で、
「めでたし、めでたし」のハッピーエンドで終わってもおかしくありません。

ところが、この後、肝心の金を忘れてきたというドンデン返しで、安心がひっくり返る。
ただ単に「アホやなあ」と思うよりも、
いったん「うまいこといったなあ」と安心した後で、「アホ」な状況が露呈されると、
「アホ」さ加減が鮮やかに強調されるんですね。

図にすると、次のようになります。

▼図5:「ドンデン」オチ
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無事に戻って旦那にほめられ、「ドン」。
ほっと安心し、緊張度はいったん緩和へと傾きます。
それが実は金を忘れたで、「デン」。
「ありゃあ、何ということをしてるんだい、もう」と、緊張が高められ、
それを「まったくアホやなあ」と客観視して得心したところで笑いとなり、
一気に緩和へ下降します。
このときの時間は、物理的な時間というよりは、心理的な時間の流れで、
ほとんど瞬間的であったりするかもしれません。

(※枝雀師は、特に理論を発表し始めた最初の頃、
「ドン」で緊張し「デン」で緩和すると発言したりもしています。
が、筆者は、「ドン」で緩和し「デン」で緊張するという、
師が後年語っていたような前述の方がわかりやすいと思います。)

枝雀師自身の実演では、縄をなって竹をしならせ飛ぶまでを大熱演で演じた後、
「だんさん、ただいま」
と、気のぬけた軽い言い方(無我夢中の後の呆然とした心持ち)で肩すかしを食わせて笑いをとり、
いったん緩和して、「ドン」。

これは拍子オチのパターンの噺ですが、ここで枝雀師は、ちょっと「間」を入れています。
この「間」は、これまで見てきた「緊張を持ち上げる」はたらきではなく、
笑いが引くのを待つかのような「緩和を受け入れさせる」はたらきであるかもしれません。
(これについては、また後述したいと思います。)

「ドンデン」オチでは、いったん緩和するときに、こうした「間」もアリかなと思われます。
ただ、この小さな「間」のすぐ後、枝雀師はスピード感を失わない短い言葉で続けます。
「上がって来よったぁ。金は?」
「忘れて来たぁー」

で「デン」。
そして体ごとズッコケて落としていました。
(二代目桂枝雀「愛宕山」~ABC「枝雀寄席」1981年5月17日放送/
DVD「枝雀の十八番」EMIミュージックジャパン・第九集に収録)

また、別の高座では、この結末を、「忘れて来た」の言葉も言わずに、
「あああああ~~~~~」と、
見台(=上方落語で使われる小型の机)を抱えながらひっくり返るという、
ダイナミックなアクションで落とす、いわば「仕草オチ」をすることもあったようです。
(1994年6月2日口演(2)

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「千両みかん」という噺があります。
これもやはり、江戸小咄が元になっています(木室卯雲「鹿の子餅」(3))。

大金持ちの息子が病気で床につく。
昔話の「梨とりの兄弟」では、病気の母親は梨を食べたいといい、
中国の「二十四孝」では、病気の母親は筍を食べたいといいましたが、
この病気の息子はみかんを食べたいという。

ところが、頃は6月、夏のこと。
ハウス栽培も冷蔵庫もない当時でしたから、季節外れのものがあるわけがない。
それでも、神田須田町の問屋で腐らずに残った一個をやっと見つける。
なにせ激レアな品。千両の値がつけられる。
が、さすが金持ち。一個千両のみかんを買ってきて、息子に食べさせる。

一個に十袋あったうちの七袋まで食べた息子、
残りの三袋を、おふくろ様に食べさせてほしいと、手代に手渡す。

一個千両の十袋だから、一袋百両、三袋で三百両の計算。
そこで落語版では、次のようになります。
(落語では、「手代」が「番頭」に変わっています。)

「『……三百両だ。
私はこの家に十三のときにお世話になって、もうそろそろ頭がはげ上がるという来年、
暖簾(のれん)分けをしてくださると言う。
そのときにいただけるお金が、たかだか二十両か、三十両。まさか五十両はいただけないだろう。
三百両。
これから一生、汗水を垂らして働いたところで、
三百両なんてえお金がこの手の上に載るもんじゃない。
三百両…三百両…三百両っ』
番頭、みかん三袋持って、いなくなりました。」

(十代目柳家小三治「千両みかん」(4)

物語は、うその世界です。
うその世界と知りつつ、わたしたちはほんとうの現実であるかのように、物語世界を遊びます。
そのために噺家は、心理的なリアル感や、日常的によくあるというようなアルアル感、
あるいは現実のモチーフなどを混ぜ込んで、いかにもほんとうらしさを演出します。

先の「愛宕山」では、山登りのしんどさの描写、投げた土器(かわらけ)を追う目の動き、
人物描写や感情の動きなどなど、
綿密に積み重ねられたリアル感があるからこそ、
たわいのないナンセンスさを本気で楽しめるわけです。

この「千両みかん」でも、番頭(手代)の心の動きが、いかにもというリアルさで語られ、
観客は番頭の心情を理解し、同情することになります。
が、最後、「三百両」という金額につられて持ち逃げする。
現実的な常識の枠から、一歩、踏み越える。
つまり、日常感覚から外れた、ヘンな、おかしいことをするわけです。
それが、可笑しい。
そこでこの噺のオチは、枝雀師の分類では、「ヘン」オチということになります。

また、この噺は「考えオチ」ともいわれます。
渦中の番頭には、自分がおかしな、ヘンなことをしているという意識はなかったでしょう。
本人は必死です。
「三百両」しか見えず、近視眼的に視野が狭くなっている。

番頭の主観的な心情に寄り添っている観客もまた、ヘンだとは思わずに聞きます。
ですから、ポオーンとオチを言われても、一瞬、どこがおかしいのかわかりません。
しかし次の瞬間、我に返って、現実の常識感覚に戻ったとき、これはおかしいと気づきます。
「みかん3房=300両」という主観にとらわれていたのが、
視点がポーンと現実に切り替わったとき、客観的にその姿をながめることになるのです。

たとえ「三百両」に値がついたとはいえ、たかがみかんの三袋。
二~三日のあいだにはカビるかパサパサになるであろう、
そんなものを後生大事に抱えて人生を踏みあやまる滑稽さ。
お金の価値ということについて考えさせられつつ、
「何をアホなことをやっているんだろう」と吹き出してしまいます。

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枝雀師の師匠である桂米朝師は、サゲ(=オチ)についてこう述べています。

「サゲ……というものは一種のぶちこわし作業なのです。
さまざまなテクニックをつかって本当らしくしゃべり、サゲでどんでん返しをくらわせて
『これは嘘ですよ、おどけ話ですよ』という形をとるのが落語なのです。
落語は、物語の世界に遊ばせ、笑わせたりハラハラさせたりしていたお客を、
サゲによって一瞬に現実にひきもどす。」
(5)

現実の常識からずれたり、離れたりする笑いの要素を、桂枝雀師は「離れ」と呼んでいます。
現実から「離れ」てヘンテコなことをするから、おかしい。つまり、可笑しい。
「離れ」の典型的なオチが「ヘン」オチです。

しかし、この「離れ」は、緊張をもたらします。
日常的な常識から外れることは、不安定な緊張を呼び起こすことでもあります。

持ち逃げという犯罪に手を染め、逃亡する番頭は、これからどこへ行くのか?
これまでの長年の奉公も台無しにして、彼の行く末はどうなるのか?
そう考えると、これは不安であり、緊張です。

ところが、そのサゲ(オチ)自体によって観客は現実に引き戻される。
がらりと視点が変わる。
そうして、主観にとらわれていた見方がぶちこわされ、第三者的に、客観的にながめると、
その姿が漫画的に見えてきて、その緊張さ加減が、アホさ加減に変わる。
一気に緩和へと落下することになります。
つまり、笑いとなる。

主観にとらわれていた番頭も、もしも自分の姿を客観的に写してみせる鏡があったとしたら、
自分で自分を笑ってしまったかもしれません。
「離れ」そのものは緊張ですが、
それを改めて現実の視点から客観視することによって緩和し、笑いとなるわけです。

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サゲ(オチ)によって、観客が現実(常識)に戻され、おかしさ=可笑しさに気づく。
このとき、おかしさ=可笑しさに気づくのは、観客自身です。
が、こうしたはたらきを、演じ手側が用意する場合があります。

いわゆる「ツッコミ」というやつもそのひとつです。

「ボケ」が、ボケる。
──つまり、現実の常識からずれた、おかしな、ヘンなことを言う。
あるいは行う。
そのボケを、他の者が常識的な、ごく普通な視点から、「そんなアホな」と、
そのおかしさを指摘するのが「ツッコミ」です。
そうした「ツッコミ」によって現実の視点に引き戻され、観客はおかしさに気づき、
可笑しくなるわけです。

もちろん観客自身でもヘンだと気づくでしょう。
が、「ツッコミ」によってきちんと指摘されることで、
現実の常識とのずれ具合、離れ具合をわかりやすく、鮮明に感じとることができます。

「ボケ」と「ツッコミ」は、2人で行う漫才で用いられるパターンですが、
1人の落語でも、「アホなことを言いなさんな」などと
登場人物同士の会話の中で語られることによって使われます。

「ボケ」担当は、たいてい非常識的な人物であり、独特の世界観を持っていて、
どこか変わっている。
どこか「ヘン」。どこか「おかしい」。
それが常識的で普通な「ツッコミ」担当から指摘を受けることで、「可笑しい」に変わるわけです。

コント・グループ、ネプチューンの堀内健さんは「ボケ」担当です。
彼の「ボケ」は、あまりに日常の意味と「離れ」ることが多い。
もしも日常の場で、彼が突然
「パラグライダー!」と意味不明の雄叫びをあげたとしたら(彼の一発ネタのひとつです)、
これは緊張します。
ヘンだからです。
ヤバい人なのではないかと、周囲は緊張し、引くでしょう。

しかしそのとき、
「何、ふざけとんのや」
と、「ツッコミ」担当の名倉潤さんが、一般常識的にツッコミを入れることで、
「ああ、ふざけてるのか。これはおどけ話なんだ」
と周囲は納得し、緩和することになります。

まあ、しかし、あまりに現実の常識的な意味からかけ「離れ」過ぎると、
つまり緊張が勝ちすぎて、普通のツッコミでは収拾がつかなくなります。
笑いの緩和が消化不良となり、場に緊張が残るということにもなるようです。

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また、現実に引き戻すはたらきとして、オチだけでなく、
オチの後で噺が終わりましたよときちんと告げることがあります。
野村雅昭さんが「ムスビ」と呼んだものです(6)

たとえば、

「毎度ばかばかしいお笑いでございます」
「おなじみ、○○というお噺でございます」
「○○という一席でございます」

などの、終わりを告げるあいさつの言葉。

一般的には、オチというものが基本的にはない人情噺や、
講談ネタが落語化された噺などに使われます。

長い噺を上・下の二回、または上・中・下の三回に分けて演じたり、
あるいは途中で打ち切るような場合には、

「『品川心中』の上(じょ)でございます」(五代目古今亭志ん生「品川心中」
「これから鶴屋へ宿りをもとめます、『三人旅』のなかばでございます」(五代目柳家小さん「三人旅」

などと、その回での口演が終わったことを告げる言葉も、一種のムスビと言っていいでしょう。

寄席では、共演者やいろいろの都合で、
噺を長く延ばしたり、短く縮めたりすることがあるそうです。
短くする場合、途中のギャグをオチ(サゲ)として、そこで打ち切る。
「二十四孝」などは、落としどころのギャグの箇所(=切れ場)が五、六カ所あって、
そのうちのどこで切るかによって、5分にもなったり1時間にもなるという
融通の利く演題(ネタ)です。
そのため、次の出演者の噺へのつなぎとして演じられることも多く、
「つなぎ噺」と言われたりもします。

たとえば、自分の後へあがる出演者がまだ楽屋に到着していないとき。
そんな場合には、延々と噺をつなげる。
が、はなしの半ばであっても、出演者が到着すると(脱いだ羽織を引くのが合図)、
途中の切れ場でオチを言った後、

「おなじみ、『二十四孝』という一席でございます」

などとムスビの言葉を加えて、自分の噺の終了を告げることになります。

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ところが、これらとは違って、噺の最後まで演(や)って、その結末のオチ(サゲ)を言った後、
ムスビの言葉を付け加えることがあります。

たとえば、桂枝雀師が「池田の猪(しし)買い」という噺で、
「どうじゃ、客人。あの通り、新しい」
というオチの後へ、
「…という、『猪買い』というお噺でございます」
と、続けたことがありました。

師自身の解説によれば、これは「ヘン」オチの“ヘン”さ加減が弱く、
噺の結末としての収まり感がいまいちのために、
こうした言葉を付け足したのだということでした。
(TV「EXテレビ」、上岡龍太郎氏との対談にて)

「これは嘘ですよ、おどけ話ですよ」と説明し、
そのうその世界が終了したことを告げ、現実世界へと引き戻す。
非常にわかりやすいです。

しかし、「サゲによって一瞬に現実に引き戻す」という、オチ(サゲ)の本質である役割効果を考えれば、
これはわかりやすいけれど、本来的ではない、念に念を押すような蛇足にも思われます。

そのため立川談志師は、
このように噺のもともとのオチ(サゲ)の後でムスビを付け加えるのはやめた方がいい
と述べています(7)
枝雀師も、上の例では、キッパリと自信をもってムスビを付け加えたという体(てい)ではなく、
付け加えざるを得なかったという雰囲気で、
どこか照れたような、言葉を濁しているようにも見えます。

オチの後へムスビを加えることは、そう多くはないようです。

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けれど、枝雀師の例のように、“ヘン”さが弱いような場合には、
こうしたムスビ言葉で終了であることを強調し、締めくくるのもアリだと思います。

また、逆に緊張が強すぎるような場合にも、
わかりやすい言葉で終わった方が、現実感へと引き戻しやすく、
つまりは笑いを引き出しやすいのではないでしょうか。

以上を図にすると次のようになります。

▼図6:「ヘン」オチ・その1
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先日、新宿で紙芝居の催しがあり、みる機会がありました。
出演者のひとり、とどすずき(とど鈴木)さんは
「間」の使い方が実にうまいなと感心させられる方です。
その日演じられた中に、ご自身が作られた「プラグ」という作品がありました。
ネタばれで申し訳ないのですが、ちょっとご紹介します。

男の子が、地面に何か落ちているのに気づく。
拾おうとすると、それは地面に埋もれていたものの一部で、男の子は何だろうと引っ張り出す。
引っ張り始めると、これが実は、東京タワーかスカイツリーかと見まがうほどの長いもので、
男の子はとうとう、それを引っこ抜いてしまう。
すると地球は、栓(プラグ)を抜かれた風船状態となり、
シュルルル……と空気を漏らしながら宇宙を飛び回り、
最後にボンッ!と、破裂してしまうのでした。

突然あっけなく訪れた“地球滅亡”という壮大なラストシーンに、観客はあっけにとられたまま。
そうしてしばらくの「間」の後で、とどすずきさんが、
「というおはなしでした」
と、いわばムスビの言葉を言って終了を告げ、場面を切り替えたところで、
観客はハッとして我に返りました。
つまり、現実に引き戻されたのです。

地球破裂という、緊張が強すぎる事態のためか、爆笑とはなりませんでしたが、
あまりのナンセンスさに、おおいに緩和してしまいました。
落語のオチとは違いますが、ちょうど図6のような状況であったと思います。

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《引用・参考文献》
(1)二代目桂枝雀「らくごDE枝雀」ちくま文庫
(2)二代目桂枝雀「桂枝雀爆笑コレクション5」ちくま文庫
(3)興津要編「江戸小咄」講談社文庫
(4)十代目柳家小三治「柳家小三治の落語・3」小学館文庫
(5)三代目桂米朝「落語と私」文春文庫
(6)野村雅昭「落語の言語学」平凡社/平凡社ライブラリー
(7)七代目立川談志「現代落語論」三一新書
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by kamishibaiya | 2010-12-09 11:10 | 紙芝居/演じるとき | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


by kamishibaiya