Kamishibai・イズ・コミュニケーション・09

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 緊張と緩和と「間」のカンケイ・その4




前回の図6では、オチを言われてから、現実に引き戻され、
おかしさに気づくまでのあいだを「間」として書き入れています。
わずかでもそこに「間」の時間があれば、これはつまり「考えオチ」と同じパターンです。

▼前回の図6:「ヘン」オチ・その1
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オチを言われてから、考える「間」があり、そこで現実に返って気づき納得し、一気に緩和する。
あるいはツッコミ、あるいはムスビの言葉や、頭を下げておじぎをするなど、
終了を告げられることによって、
現実に引き戻され、気づき納得し、一気に緩和する。

しかし、「間」の時間がないということもあります。
緊張と緩和が同時にやってくるというパターンです。
実際には、こちらのパターンの方が多いかもしれません。

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たとえば、「首提灯」という噺。

江戸の昔には、辻斬りやら、追い剥ぎやらで、
お侍が刀を振り回しての殺傷事件などということがありました。

町人の男、酔っぱらった勢いで通りがかりのお侍につっかかってからみ、
挙げ句には紋服にタンを吐きかける。
大切な御紋を汚され、堪忍ならぬとお侍、男の首をまっ二つ。
が、腕がいいと、斬り口も鮮やか、本人も斬られたことにさえ気づかないというやつで。

都々逸なぞを鼻歌に夜道を歩いているうちに、どうも首ががたついて納まりが悪い。
襟元に手をやって、やっと斬られたことに気づき、両手で頭をおさえる。
と、そこへ、半鐘が鳴り、「火事だ、火事だァ」の声。
そこで男、

「自分の首をひょいと差し上げて……、
『(はずした首を左手に載せ、右手で上を押えて、前方高めへかざしながら)
はいごめんよ…はいごめんよ……』」

(八代目林家正藏「首提灯」(1)

首を斬られる事態というのは、もう緊張度の針を振り切るのではないかと思うのですが、
それすら笑いに変える落語のすごさ。
もっとも、大きな緊張があるからこそ、笑いが生きるのかもしれません。

本人にしてみれば、まあ、つまりは生命を喪うわけですから、大いなる緊張。
描き方によっては、ホラーやサスペンスとなるところです。
が、それに気づかず、女のノロケ話などを一人ブツブツ言い、のんきに都々逸を口ずさむ姿は、
客観的に見れば、大いなる緩和です。

斬られた後、首の位置を何度も直すあたりから、
そうした緊張と背中合わせの緩和がないまぜになって笑いを誘います。
観客はすでにこの時点で、現実にはあり得ない「うそ話」として物語を受け入れつつ、
話術によって巧みに描き出された、
ひょっとしたらあり得るかもしれない光景を目の当たりに見て(実際には思い浮かべて)、
その「ヘン」さを楽しみます。

そうして、自分の首を提灯代わりに走り出すというナンセンスの極地で、
緊張と緩和の盛り上がりがさらに押し上げられ、オチとなるわけです。

▼図7:「ヘン」オチ・その2
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(この図はデータをどうこうして数学的に作成したものではなく、あくまでもイメージです。)

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さて、結末のオチで「間」を入れることは少ないと再三書きましたが、
「間」が入ることももちろんあります。

この稿でも触れた三笑亭可楽師の「二番煎じ」、桂枝雀師の「愛宕山」がそうでした。
「拍子オチ」のように「序破急」と盛り上がってトントンと追い込んでストーンと落とすパターンではない噺。
──穏やかに結末を迎えるような噺には、特に多いと思います。


たとえば、「芝浜」という噺。
これは人情噺の趣(おもむ)きのある噺です。

天秤棒をかついで売って歩く、いわゆる棒手売(ぼてふり)の魚屋さん。
酒に溺れて商売に身が入らず。
「明日から働く」「明日から働く」と言って、商いに行こうとしない。
とうとう女房にたたき起こされ、魚河岸へ。
が、時間を間違え、問屋はまだ始まっておらず。
そこで、夜明け前の浜へ出て一服していたところ、
波に打ち寄せられた大金の入った財布を見つけます。
男は大喜びで家に持って帰って近所の連中を集めて大酒盛り。そのままグウスカ寝てしまう。

ところが目をさますと、また女房に「商いに行け」とたたき起こされる。
女房の話によれば、財布を拾ったのは夢。
夢を見てその気になって、酒盛りしたのは現実だったという。
そこで思い知らされた男、料簡を改め、酒を断ち、商売に精を出す。
そうして三年。一生懸命働きに働いて、表通りへ小さいながらも店を構えるようになる。

その大晦日。
女房が改まって告げるには、あの日、財布を拾ったのは夢じゃなかった。
が、拾い物をネコババすればお上に咎められかねない。
男が一寝入りしたあいだに大家さんへ相談に行き、財布をお上に届け、
拾ったのは夢にすることにしたのだと言う。
結局落とし主は見つからず、お上から財布はお下げ渡しになっていたが、
嘘をついていたと言い出せないままだったと女房が謝ります。

いったんは気色ばんだ男、しかし、いや、よくだましてくれたと両手をついて女房に感謝する。
そうして久しぶりに酒を飲もうということになり、
女房に湯吞みへ酒をついでもらったところで、次の台詞になります。

「おい、え? 飲んでもいいのかい? 
(女房に)おい……あァ、ありがてえなァ、ど……(しばし考えて、すらりと湯吞を下へ置き)
よそう、また、夢になるといけねえ。」

(三代目桂三木助「芝浜」(1)

「ありがてえなァ、ど……」の次に(しばし考えて)と入れられたこの「間」を、野村雅昭さんは、
「心中の複雑な経緯をあらわす間」
であると述べています(2)
「三年のあいだすきな酒をたって商売に一心にはげんだ男の思いと女房への感謝の気持ち」が、
この「間」の中に込められているというわけです。

この稿ではくわしく触れませんが、
このような心理的な表現の「間」というのは頻繁に見られると思います。

逡巡。驚き。喜び。感極まる。悲しみ。気まずさ。恥じらい。怒りをこらえる。
思案。回顧。たくらみ。退屈……。
などなどによって、「間」ができる。
また、感情や気分の変わり目や、話しの接ぎ穂を失って自然に生じる「間」というのは、
わたしたちが日頃、日常会話で身近に体験し、見知っているものです。

演劇や口承文芸では、そうした「間」を加減したり誇張することで、登場人物の心理をより明確に、
より豊かに表現しようとします。
割合で言えば、このような種類の「間」が大半であるかもしれません。

が、この稿では、
語り手(演じ手)と聞き手(観客)のあいだでやりとりされる「間」について考えてきました。
その観点で、オチということを重要視すると、また違った「間」の入れどころが考えられます。


枝雀師の分類によれば、この「芝浜」の噺は「謎解き」オチのパターンとされます。
米朝師の言葉で言えば、

「一つの疑問が続いている、あれは何なのかという緊張がおこる、それがサゲの言葉ではっきりする。
『アッソウカ』と緩和の状態がおこって笑いが生まれる。」

「落語と私」(3)

というやつです。
図にすると、こうなります。

図8:「謎解き」オチ
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この噺では、「よそう」のところで、疑問がおこる。
夫婦の情愛、懸命に働いて手に入れた充実感、さらに新しい年を前にしたすがすがしさの中で、
もう酒でしくじることはないだろう、余裕として酒を楽しめるだろうというところ。
なのに、
「え? よそうってどういうこと? なんで?」
という疑問がおこります。つまり「謎」です。

それが、
「夢になるといけねえ」
という解答がもたらされ、つまり「解き」を得ることで、「アッソウカ」と得心し、緩和するわけです。

このとき、「謎」と「解き」のあいだに「間」があると、よりはっきりします。
「謎」による緊張が、「間」によって観客の想像を呼び、さらに高められる。
つまり、「よそう」の後で「間」をためる演り方もアリだと思います。

またここで、その「間」の代わりに、相手の会話をはさみ込む演り方もあります。

「『おれ、飲むのよすよ』
『どうしてさァッ?』
『また夢ンなるといけねェや』」

(三代目古今亭志ん朝「芝浜」(4)

「どうしてさァッ?」とはさまれた女房の疑問の言葉が、観客の気持ちを代弁して、
「謎解き」オチの「謎」を強調することになります。

小三治師はその疑問に、夫婦のあいだの情を加味して次のように演っていました。

「『…おっかあ、やっぱりおれは、よすぜ』
『あたしのお酌じゃ気に入らない?』
『また夢になるといけねぇ』」

(十代目柳家小三治「芝浜(5)

しかしながら、オチによる笑いは二次的、副次的なこととし、
人情噺風な物語の結末として男や女房の心情の方へ主眼を置けば、
三木助師のように「間」を置き、オチはさらりと付け加える程度ということにもなるでしょう。

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この「謎解き」のパターンは、笑いではないところでもよく使われますね。

たとえば、クイズ番組。
「謎(問題)」が出題されてから、「間」が置かれる。
視聴者はそのあいだ、あれこれ考え想像して緊張が高まる。
そして「解き(解答)」がもたらされると、「アッソウカ」などと納得し、緩和する。

みのもんたさんの「クイズ$ミリオネア」ではしかし、
クイズの問題そのものの「謎」はあまり大きく取り扱われません。
出場者が答えたその解答が、
果たして「正しいのか、正しくないのか?」という点が「謎」だったわけです。

出場者が「成功するか、失敗するか」という「謎」がスリリングに強調される。
だから出場者が最終的に決断し、「これがファイナルアンサーだ」と認める解答を出した後に、
じっくり、たっぷり、「間」が置かれていました。
「サスペンス」の要素が加味され、引き延ばされていたわけです。
そうして視聴者は想像し、さんざんジラされ、つまり緊張が盛り上がったところで、「正解」か「不正解」かが告げられ、ほっと緩和する。

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この「謎」の答え(解き)が、たわいなかったり、馬鹿馬鹿しかったり、
あるいは思わぬ意外性があったりというときには笑いになります。
いわゆる“頓知(とんち)”の利いた「なぞなぞ」などが典型的ですね。

ただ、「謎」自体は、基本的にはエモーショナルなものではないので、
何か情動的な演出が伴わないと、大きな笑いにはならないような気がします。

ちなみに、最近、漫才のWコロンのねずっちさんが注目され、
改めてスポットライトが当たるかたちとなった「謎かけ」という伝統的な演芸の形式も、
この「謎解き」オチのパターンです。

たとえば「『紙芝居』と掛けて何と解く?」などとお題が出される。
そのお題に対して考えがまとまると、演者は「調いました」と言い、
「『すじ模様が入った傘』と解きます」
などと答えます。

観客にはこのとき、「謎解き」の「謎」が投げかけられることになります。
「紙芝居」と「すじ模様の傘」という、一見するとまったくかけ離れた両者に、
いったい何のつながりがあるのだろうか、という「謎」です。

そこで出題者は、今一度、
「『紙芝居』と掛けて『すじ模様の傘』と解く」
と、繰り返します。
繰り返すことで「間」の代わりに引き延ばし、改めて観客に考えさせ、緊張を若干高める。

そして出題者が「その心は?」と問うたところで、
「えを開くと、すじが広がります」
と、答える。

つまり、「謎解き」の「解き」です。
何の関係もなさそうな両者に、
「絵の場面を開くと物語の筋が広がる」
「傘の柄(え)を開くとすじ模様が広がる」
という共通項があったというわけです。

……いや、確かに大きな笑いにはならないと思います。
……あ、いえ、うぅぅ……これは例が悪かったですね。
あの……。小さな笑いにもならなくて、スイマセン。

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《引用・参考文献》
(1)八代目林屋正蔵・三代目桂三木助、飯島友治編「古典落語~正蔵・三木助集」ちくま文庫
(2)野村雅昭「落語の話術」平凡社
(3)三代目桂米朝「落語と私」文春文庫
(4)三代目古今亭志ん朝、京須偕充編「志ん朝の落語・5」ちくま文庫
(5)十代目柳家小三治「柳家小三治の落語・3」小学館文庫

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by kamishibaiya | 2010-12-10 13:34 | 紙芝居/演じるとき | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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