Kamishibai・イズ・コミュニケーション・11

f0223055_20321284.gifほんの少しのこと



暉峻康隆「落語藝談」(1)には、
名人といわれた噺家たちが、「間」と格闘した苦労が語られています。

芸は生き物であり、ナマモノである。
演じ手のコンディションによっても違ってくるし、観客によっても違ってくる。
観客の反応、感じ方は、男女によっても、年齢によっても、
またその土地によっても違うといいます。

桂文楽師は、会場のそうした客層や空気感をみて、演じ方を変えたのだとか。
だから、同じ演題(ネタ)でも、東京で演(や)るときと、大阪で演るときとでは変わってくる。

「世の中に、いくら評判がよくてもなんでも、お客にわからないくらいつまらないものはないんですから。
それじゃ、わからせるように間のびでやったら、から、だらしがなくなっちゃうんですよ。
数(かず)出向いておりますと、その“間”を覚えますな。その土地柄のね。」
(1)

たとえば、東京の「間」と、大阪の「間」とは違うのだそうです。
文楽師は、それを演じ分けた。

文楽師といえば、噺が何分かかったかを弟子に時計で計らせたなどのエピソードでも知られます。
寸分もゆるがせにしない、カッチリと緻密に計算された、職人芸的な完璧主義者。
というイメージが筆者にはありました。
だから観客に関係なく、自分の完璧な芸をカッチリと披露することに腐心した方ではないかと、
筆者は勝手に思い込んでおりました。
ところがトンデモナイ、噺はカッチリとはいかないナマモノであるということを、
実は知り抜いていた方だったんですね。

師はこう言います。

「(聴衆と)息が合わないと、どんなにいい咄(はなし)をしても、盛り上がりませんね。」(1)

そこで息を合わせるため、「間」を使い分けるというような工夫も積み重ねていたのでしょう。

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柳家小さん師もまた、高座という実践で噺をみがいたといいます。
そうして重ねていく実践の中で、いつも受ける場所が受けなくなったり、
どういうわけか全体の呼吸が変わってくるようになることがある。

小さん『それで受けなくなったのを受けさせなくちゃいけないと工夫する。
ここのところで客が笑ったのに、どうして今度は受けないのかと。
そうすると、つまり間(ま)とか声の出し方、強弱、そんなところで違ってくるんです。』

 暉峻 『ほんの少しのことで……。』

 小さん『弱く出すと受けるやつを、強く出しちゃってるな、とそういうことに気がついてくるわけです。』

 暉峻 『だから聞き手の呼吸のわからないテレビやラジオばかりでやっていると、
それがわからない、どう受けているか。』

 小さん『だからやっぱり直接客にぶつからなくちゃいけない。客と勝負ですよ。』」
(1)

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三遊亭円生師の言葉。

暉峻『やっぱり、咄ってものは、生きた聞き手が目の前にいて、反応を見ながら育っていくんですからね。』

 円生『われわれが何十年やっていても、てめえ一人で壁へ向かってしゃべってるときと、お客さまのまえへ出て
しゃべったときとは、思ったことがくいちがうんですよ。』」
(1)

三遊亭円生師はまた、ご自分の著書で、「間」は人によって違うと言っています。

「その人の息の長さ、声の性質などによって独特の口調というものが出来てくる。
だから人のまねでなく自分の噺をしなきゃァいけないということは、
間の問題でも言えることです。」
(2)

なるほど、たとえば古今亭志ん生・金原亭馬生・古今亭志ん朝の三師は、親子兄弟です。
が、「口調」というものはまるっきり違います。
親子とはいえ、体格も違い、個性が違うのだから当たり前ですね。
先人からバトンを手渡されるように、馬生・志ん朝兄弟は、
父親・志ん生師の演目(ネタ)を演ることも多かったようです。
が、その「間」は、三者三様に違うものでした。

ものまねで、「間」のポイントを定め、コンマ何秒の単位で長さを測り、
そのコピーを演じたとしても、その「間」を再現することはできない。
名人であろうが、凡人であろうが、どんな人にもそれぞれに個性があり、天性があり、
どうやらそのあたりに「間」は関係するのでしょう。

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すると、天性持って生まれてくる「間」は「魔」と書き、
人に教えることが出来ないと言った九代目市川団十郎おぢさんの言葉が思い出されてきます。
理屈ではない。

この稿では、何とか理屈めいたことを並べ立てて、
その捉えどころのない「間」というやつの輪郭を描こうとして来ました。
が、結局、試行錯誤の七転八倒、なかなかに捉えにくいという結論に落ち着きそうです。

では、われわれ凡人はどうすればいいか。

やはり先人と同じく、「てめえ一人で壁へ向かって」ではなく、
観客へと向かって演じることを重ねていくしかないのかもしれません。
そうした中で、「間(ま)とか声の出し方、強弱」とか、
そういう「ほんの少しのこと」を工夫し続けていくしかないのかもしれません。

そういう「ほんの少しのこと」が、
もしかしたら笑いを生み、あるいは共感を生み、あるいは感動を生む。

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ロシアのブラロフという画家が、教師として、
生徒の描いた絵に手を入れて直したことがあったそうです。
すると、直された絵を見て生徒は、ビックリ。
「ほんのちょっと手を加えてもらっただけなのに、
まったく別の絵のように見違えてしまいました」。

すると、ブラロフは言ったそうです。
「芸術は、そのほんのちょっとが始まるところから始まるのだよ」

デール・カーネギーが「心を動かす話し方」(3)という著書で紹介しているエピソードです。

カーネギーは、それは絵を描くことに限らず、「話し方」にもあてはまると述べていますが、
それはもちろん、紙芝居にもあてはまるのでしょう。

「ほんのちょっと」のこと。
その工夫に、柳家小さん師は、骨身を削っていました。

紙芝居の場合、いろいろなテーマがあり、
「笑い」という目に見える反応だけを求めるわけではありません。
何か感じてもらえたか、どうかという反応は、わかりにくかったりする。

が、子どもたちの場合、おもしがっているか、どうかという態度は正直です。
また、定期的な公演や、保育や教育の現場では、気心の知れた子たちが観客であることが多く、
その点では「間」もつかみやすいと言えるでしょうか。

結局、「直接客にぶつか」るしかない。
「客と勝負」ということが、紙芝居でも言えるのかもしれません。

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物語は、みんなで呼吸を合わせながら歩く山登りにたとえられます。
ゆっくり歩きはじめる。
途中で何かを追い求め、あるいは何かに追いかけられて早歩きしたり、駆けたり、
ひと休みをしたり。
時には全力疾走をしながら、山を登る。

ずっと駆け足だったら疲れてしまう。
ずっとノロノロ歩きだったら、だれてしまう。
そうした、緩急のリズム、テンポがあります。

また、緊張の度合いも、ゆるやかな坂を登ったり降りたり、時には急に段を飛び上がったり、
がけをよじ登ったり。
あるいは、ストーンと直滑降で飛び降りたり。
そうした緊張と緩和を繰り返しながら、大きなヤマ場へと向かいます。

歩調も呼吸も、みんなバラバラだったりするのですが、緊張と緩和を繰り返すうちに、
だんだんそろっていく。
さらに要所要所にある「間」によって、呼吸を調え、そろえるんですね。
それぞれバラバラにしていた呼吸が、その息をのむ「間」、あるいは息を吐きだす瞬間に
一致するわけです。

その「間」は意図的につくるというよりも、物語に沿って、物語を楽しみ、
物語の山を歩いていく呼吸によって、自然に生まれてくるものでもあるかもしれません。

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絵本や本、テレビなどと違って、
物語を直接語り伝える昔語りやストーリーテリング、落語、そして紙芝居には、
みんなで同じテンションと呼吸を共有する“場”の楽しさがあります。

それは、演じ手(語り手)と観客(聞き手)、また、観客同士で感じ合うことでもあるでしょう。
その空気感の中に、共感のよろこびもあると思います。

「あ、今、同じ呼吸してる」
と思う瞬間、その一体感というのは、
いやあー、下手くそなバンド演奏をしていても、実に気持ちのいいものです。
邦楽のセッションのような絶妙さはなくても、楽しいものです。

引っ越しのときなど、重いタンスやピアノをみんなで運ぶ際、「いっせいの、せ!」の合図で、
みんなの呼吸を合わせますよね。
呼吸を合わせることで力を合わせる。
綱引きのときの「オーエス、オーエス」という掛け声も、呼吸を合わせるもの。
みんなの呼吸を合わせることで、みんなの力や気を合わせる。
それは作業として効果的なばかりでなく、楽しいことでもあるんですね。

カラオケでも、コーラスやみんなで歌を歌うとき、たとえばそれが知らない同士だったとしても、
なぜか場が盛り上がってしまうのは、呼吸を共にしている楽しさがあるのかもしれません。

音楽でも芝居でも、舞台やライブの大きな楽しみのひとつは、
演じ手と観客、演じ手同士、観客同士……つまり同じ空間を共有する者同士が
呼吸を合わせるこの瞬間ではないでしょうか。

それは、とりたてて意識することがないかもしれませんが、紙芝居を演じている方も、
見ている子どもたちも、なにげに感じていたりすることだと思います。
そのときに、「間」が大事な役割を果しているんですね。

そうしてひとつの紙芝居が終わったとき、ひとつの物語が結末を迎えたとき、
ひとつの山を、演じ手や観客のみんなといっしょに登ったような、そんな満足感があると思います。
そんなコミュニケーションのかたちにも、「間」が働いているのでしょう。

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小さん師は、「客と勝負」とおっしゃっていましたが、
剣道の達人でもある師らしい言葉であると思います。
もちろん勝負は「真剣」勝負ですが、その勝負の駆け引きは、実は、
遊ぶということにもつながるのではないでしょうか。
「間」を遊ぶ。
それは「いないいないばあ」遊びにつながるものではないか。
……ということについて、次に考えてみようと思います。

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《引用・参考文献》
(1)暉峻康隆「落語藝談」小学館ライブラリー
(2)六代目三遊亭円生「寄席育ち」青蛙房
(3)デール・カーネギー、山本悠紀子監修、田中融二訳「心を動かす話し方」ダイヤモンド社
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by kamishibaiya | 2010-12-10 21:03 | 紙芝居/演じるとき | Comments(0)