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Kamishibai・イズ・コミュニケーション・13

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  いないいないばあの「間」を遊ぶ




演じ手が演じている最中というのは、たいてい緊張するものです。
ふだんより時間が速くゆき過ぎるような感覚がある。
そのため、自分ではたっぷりすぎるほどの「間」をとったつもりでも、
実際には、存外に短いということが多いようです。
しかしながら、「間」をただ長くすればいいというものでもない。
「文章を読む(語る)間」でもそうですが、あまりに長いと、「間」がもてなくなる。

それでは、どのくらいの長さの「間」をとればいいか?
それは、観客との呼吸の見極めということになるのではないでしょうか。

……なーんてエラそうに書いちゃいましたが、
要するに、
「ほおら、行くよ行くよ。いや、じらしちゃおうかな? どう? もっと間をとっちゃおうか?」
と、相手の呼吸をはかるように遊ぶ感覚。
これがないままに、ただ機械的に「間」をあけるだけでは、「間延び」がする。
相手が飽きて、興味がなくなったことに気づかないままに「間」を延ばし続けたとしたら、
意味も緊張も失せ、「間」であったはずの時間は単なる「空白」に変わってしまうでしょう。

この、演じ手と観客が戯れて遊ぶという感覚。
これは「いないいないばあ」遊びにつながるのではないかと、筆者は考えます。

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「いないいないばあ」で遊んだことのない人はいないのではないのでしょうか。
すっかり忘れてしまったおとなは多いかもしれませんが、赤ちゃんの頃には、きっと誰もが遊んだ遊び。
おそらく、世界中のどの赤ちゃんにインタビューしても、
「ああ、あれね。あの遊びなら知ってるよ」と答えてくれるのではないかと思われます。
(参照:当ブログ「『いないいないばあ』in the world」

「いないいない……」(チェコでは「budliky budliky……」)
と言いながら、おとなの側が、両手で顔を隠す。
あるいは、ハンカチやタオルや柱やテーブルや何かの物陰に顔だけ隠す。
あるいは全身を隠す。
その後、
「ばあ!」(英米では「peekaboo!」、フランスでは「coucou!」など)
と言って、顔や全身を現して驚かす。
──というのが基本的なパターンですね。

この動作を赤ちゃん側がやるパターンもあります。
その場合には、顔や全身を隠すというよりも、目だけを隠したりうつ伏せになったりして、
自分の視界をさえぎるだけのことも多いようです。

同じパターンの遊びが、自然発生的に、これだけ世界的に分布し浸透しているというのは、
やはり赤ちゃんの生理──つまりは人間の生理に合っているのでしょう。

教育心理学者のブルーナーは、この遊びに相手(養育者であるおとな、主に母親)の顔の
「消失」「再現」という深層構造があることを指摘しています。

子どもがよくやる(おとなも時々やる)イタズラに、曲がり角やドアの後ろなど、
物陰に身を隠しておいて、いきなり飛び出してビックリさせるというのがあります。

が、「いないいないばあ」では、そういったサプライズはありません。
これから飛び出して現れることを予告してから隠れます。

遊び始めるとき、たいてい二人はまずアイ・コンタクトをとります。
視線を交わして、お互いを確認する。
おとな側が、赤ちゃんの名前を呼んだり、言葉をかけて注意を促すことも多いですね。
遊びをしかける側にとっては、
このアイ・コンタクトが「これから遊びを始めるよ」という合図になり、
「これから隠れるからね」という予告となります。

そして、おとなが「いないいない……」と、両手や物陰に顔を隠す時、
子どもは一時的に「消失」感を味わいます。

でも、ものが隠されたとしても、そこに存在しているということは理解出来る。
発達心理学者ピアジェが説いた「対象物の永続性」というやつです。
やはり発達心理学者のスペルケによれば、
生後4ヶ月の乳児であれば、物理的な理解ができるのだそうです(1)

あ、隠れてる、と頭ではわかる。
しかし、心理的には「消失」です。
なれていなければ、後追いしようとすることもあるかもしれません。
しかしそこで、「ばあ!」と登場。
おとなの顔の「再現」です。
ここで再び視線を交わしあい、二人のつながりを再確認することになるんですね。

赤ちゃん側からしかけるパターンでも同じです。
目を閉じたり、顔をそむけたり、自分で毛布にもぐったりする。
それはもちろん対象(母親などのおとな)が失われるわけでなく、
単に自分の視界から外れるだけのことですが、
一時的な「消失」がつくり出される。

そして「再現」がなされ、再び視線を交わし合った瞬間、
おとなから「ばあ!」と声をかけられることで、
その「再現」がよりドラマチックな楽しい遊びとなります。

そもそも、赤ちゃんは、
「人の顔、とくに表情のある顔や、動く顔を見せられるといった刺激に対しては
強い反応を示して笑ったりする」

のだそうです(2)

さらにそれが親しい顔や、愛着のある顔であれば、この「再現」の喜びと笑いは、
倍にも十倍にもなるのでしょう。

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そしてまた、その喜びと笑いには、
「予期」したことが当たるという楽しさも関与するのではないかと思われます。

保育所の保育活動に参加するかたちで調査された友定啓子さんが、
6ヶ月の赤ちゃんについての観察を書きとめておられます(3)

赤ちゃんのベッドの上でおもちゃがメリーゴーランドのようにくるくる回る玩具、メリー。
ベッドで目覚め、そのメリーの回るのを見た彼は、口を開け、あごを出し、
「楽しそうに長い間声を出し」
「今にもよだれを流さんばかりにして」
熱心に見つめていたのだそうです。
そのメリーは、つり下げられた四つの動物がゆっくりと回転をくりかえすだけの単純なもの。
けれどたとえばウサギならウサギが、向こうへ行ってしまったかと思うと、
やがてまたやって来る。
あるいはもしかしたら、彼の視界から「消えてはあらわれる」動きをする。

そのくりかえしの中で、
「そおら、また耳の長いアイツがやって来るゾ、やって来るゾ」
と予期出来るようになり、
そうしてしばらく待っていると、やっぱりやって来て
「ほら、来たア!」
と心の中で快哉を叫ぶことになる。

つまり、彼の中で
「くりかえしの中に含まれる予期と合致という知的な活動」
が繰り広げられており、それは乳児にとって「この上ない喜び」であるというんですね。

「いないいないばあ」遊びもまた、「予期と合致」の喜びを味わえる体験です。
くりかえし遊ぶ中で(おとなは、子どもが喜んでくれるのでついくりかえしてしまうのですが)、
お母さんがカーテンの裏に隠れたとしても、
「また出て来るゾ、出て来るゾ」
と「予期」します。
そして予期した通りに、
「ばあ!」
とお母さんの顔が飛び出て来る。
「ほおらね、お母さん、やっぱり出て来た」
と予想が当たる喜びというのは、「いないいないばあ」の醍醐味のひとつでしょう。

赤ちゃんにとっては、わかるということ自体が大きな「快」であり、
それは、脳内のドーパミンや報酬系神経系とも関係するのではないかとも筆者には思われます。

この「いないいないばあ」遊びの中に、「間」があります。

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「いないいないばあ」を言って遊ぶときに、
ただ続けて「イナイイナイバーッ」といっきに言うことはありません。
「いないいない」と「ばあ!」のあいだに若干の「間」をつくります。

「いないいない」と言いながら、お母さんの顔が消失したときの不安。サスペンス。
そして、ここでちょっとした「間」。
くりかえし遊ぶ赤ちゃんは、
お母さんの顔が、やがて「ばあ!」と飛び出してくることを知っています。「予期」しています。
「予期」していながら、この「間」のあいだ、
「さあ、これから出て来るゾ、もうそろそろ出て来るゾ」
と、ドキドキ、スリルを味わいつつ、期待しつつ、待つわけです。

こうした「緊張」の引き延ばしの「間」というのは、前回までの稿で触れてきた通りです。
その後で、「ばあ!」と出て来る。
それは驚きというさらなる「緊張」ではありますが、あらかじめ予期されていた驚きであり、
予想通りという意味では「緩和」であるでしょう。

「間」の時間をとらずに、機械的に「隠れる」と「飛び出す」をくりかえすだけなら、
おもしろさは半減します。
かといって、あまりに「間」を取り過ぎて長引いても、集中力が失せる。
間延びがしてつまらなくなります。

そのちょうど良い「間」のとり方、その呼吸は、
赤ちゃんとおとなの両者がくりかえして遊ぶ中でつちかっていくものなのかもしれません。
それは、ほんとに数秒、もしかしたらコンマ何秒ほどの違いかもしれない。
が、相手の集中力をはかりながら、呼吸をはかりながら、
無意識的、意識的に決めていくのだと思います。

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そしてくりかえしていくうちに、ヴァリエーションが生まれます。
何事もくりかえしが好きな赤ちゃんは、
もしかしたら同じことのくりかえしでも満足かもしれませんが、
おとなは、赤ちゃんが飽きないように、
くりかえしの中にいろいろと付け加えていくことになります。

下の動画では、おそらくお父さんであろう男性が、
ぬいぐるみの人形を使って「いないいないばあ」をしています。

「Peek-a-boo baby」~「You Tube」より~


遊び慣れているのか、男性の工夫によるのか、いろいろなヴァリエーション。
ぬいぐるみが「Peekaboo(ばあ)!」と飛び出す場所も一定ではありません。
隠れているおもちゃのトラックの上から飛び出してみたり、横から飛び出したり。
しまいには、ぬいぐるみの代わりに手を出したり、
ぬいぐるみを隠しておいて赤ちゃんの背後から姿を現す……。

この男性の遊ぶ動きはスピーディーですが、
ヴァリエーションの中で「間」を変えていることがわかります。

赤ちゃんが「ああ、もう出てくるな」と思うような瞬間に出ていかない。
ちょっとじらして、気をもたせる。
あるいは、「Peekaboo」の「Pe」まで言ってフェイントをかけるようにじらす。
そうして「間」をはぐらかして、「あれ? どうしたんだろ?」と思うような瞬間に
いきなり「ばあ!」と飛び出して驚かせるようなことをしたりします。
かと思うと、逆にタイミングを前へずらす。
「間」をじゅうぶんにとらず、すかさず「ばあ!」と飛び出して驚かせる。

「間」のとり方、呼吸の合わせ方を遊んでいるのです。

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予想通り、予期していた通りに顔が飛び出してくると、
「ほおら、やっぱり出てきた」と、それが楽しい。
そして、予期がはぐらかされ、
「わあ、そう来るか」と予想を裏切られる展開もまた楽しいんですね。

こうした「いないいないばあ」遊びのかけ引きの中に、西村清和さんは、
「遊び」というものの原初的な「祖型」(=おおもとのかたち)を見いだしています(4)
すべての遊び、エンターテイメントの中に、この「いないいないばあ」の原理があるというのです。

たとえば、歌舞伎。
歌舞伎には、徹底した遊戯性がある。
そこには、

「舞台に用意されるその場その場の趣向を介して、役者と観客とのあいだをゆききする一種の呼吸、
一方が目あてのものをまちかまえ、これにあてこんで期待どおりのものを見せ、
あるいは目先をかえてはぐらかし、予想外の目あたらしさで大当たりをとるといった、
おしたりひいたりする関係」


があるのだといいます(5)

歌舞伎の見せ場で、役者が大見得を切ったりする。
すると、すかさず客席の大向こうから「いよっ! ○○屋!」などと掛け声がとんで盛り上がる。

そうした客席とのやりとりの中で、役者は、今度はどう演じて観客をうならせてやろうとか、
スタッフは、 たとえば、
よーし、立ち回りのときの血のりを増やしてビックリさせてやろうなどと工夫していく。

こうした“受けねらい”の芸を、嫌がる方、否定する方もいます。
しかし、もともとは、いかに趣向や見せ場を楽しむかという茶屋遊びから発生した歌舞伎は、
そうしたエンターテイメント性が強い。
むしろ、そのけれんみを洗練させていったのが歌舞伎の歴史だともいえます。

その、役者と観客が「おしたりひいたりする関係」──、
一方が興味を持って待ちかまえ、そこに予想どおりに登場してよろこばせる。
あるいは、はぐらかして、予想外の登場で驚かせてよろこばせたりする。
それは「いないいないばあ」に通じると、西村清和さんは言うわけです。

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こうした演者と観客とのやりとりは、歌舞伎以前の能にも見られます。
世阿弥の著作には、
「見る人」「見物衆」「見所」などといわれる観客とのかけ引きについて述べた文章が数多くあります。
たとえば、世阿弥の講釈を息子が聞き書きしたという「世子六十以後申楽談儀」のこんなくだり。

観客には、「気を詰めて(息をこらして)見る時」もあり、
あるいは、「あら面白やと見る時」もあるといいます。

その観客に対して、たとえば演じ手が「止むる」という場合。
(この「止むる」は、演技の所作などを止めるということだと思います。)

観客が息をこらして、
「ああ、もうすぐ止める、もうすぐ止めるぞ」
と緊張して固唾を呑んでいるようなときには、そっと止める。

逆に、観客が「面白いよねえ」とのんびりと構えているようなときには、
気合いをしっかり入れて、きっと止める。
観客の気の入れ方の裏をかいてわざと力強く止めれば、それが「面白し」というのです。

「これ、人の心を化かすなり」と、述べられています(6)

つまり、観客の予想や期待をはぐらかす。
世阿弥の他の著作では、「予想外の目あたらしさで大当たりをとる」といったエンターテイメントの工夫が、
「面白さ」「花」というような美学にまで高められ、論じられています。

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昔話にもまた、語り手と聞き手のあいだに、
「おしたり、ひいたり、はぐらかしたり」という呼吸の楽しさがあります。
昔話では、聞き手に予期させ、予想させるような仕掛けがあります。

たとえば、先述したような「くりかえし」。
桃太郎は、犬に出会い、猿に出会い、そしてキジに出会います。
はぶらしちゃんは、カラスに出会い、カバに出会い、そしてワニに出会います。
同様のストーリーがくりかえされることで、
次も同じようなことが起こるだろうという展開の見通しが出来るようになる。

また、物語の中に「予言」が使われることもあります。
グリム童話の中から例を挙げると、たとえば、
14年後、この赤ちゃんは、王様のお姫さまと結婚するだろうなどと予言が語られる
「金の毛が、三本あるおに」(7))。
予言の通りになるのか、ならないのか、聞き手は期待してストーリーの展開を待つことになります。

あるいはまた、アドバイスによる予告。
「この道をまっすぐに行くとお城があるから、そこにお入りなさい……」
などと、主人公はきつねにアドバイスされ、その通りそのままに行動します。
そんなストーリーにも、物語の展開を先回りする仕掛けがはたらいています(グリム童話「金の鳥」(8))。

また、
「この小さい部屋だけはけっして開けてはいけない」
などという「禁止」も、禁止されればされるほど、聞き手にとっては、心惹かれてしまう仕掛けです
(グリム童話「青ひげ」(9))。
「部屋を開けたらどうなってしまうのだろう?」という好奇心を刺激され、
「開けてはいけない」と思う一方で、
主人公が開けてしまうことをひそかに期待し、想像してしまう。

昔話のこうした仕掛けを、松岡享子さんは「話の先取り」といい(10)
百々祐利子さんは「アンティシペイション」と呼んでいます(11)
「アンティシペイション(anticipation)」とは、
「予想。予測。期待。先回りすること。見越すこと」などと訳される言葉なのですが、
こうした訳語全体を意味する日本語がないため、英語をそのまま使ったということです。

聞き手が、物語の展開を予想し、先取りし、想像して考える。
期待してワクワクする。
それに対して語り手は、予想通りの展開を語ります。
あるいはまた、予想外の、意表をつく展開を語って、聞き手にアッと言わせる。

つまり、予想の通りになるにしろ、予想を裏切るにしろ、
その予想を投げかけられる道すじがあること。
それが物語を遊ぶ楽しさを生むんですね。

ここにも、
「一方が目あてのものをまちかまえ、これにあてこんで期待どおりのものを見せ、
あるいは目先をかえてはぐらかし、予想外の目あたらしさで大当たりをとるといった、
おしたりひいたりする関係」
(5)
があるわけです。

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現代でもまわりを見わたしてみれば、こうした関係は、いろいろなエンターテイメントの中に、
ほとんどと言っていいくらい、見つけられるのではないでしょうか。

予想通りの時刻に、予想通りの登場をして
「この紋所が目に入らぬか」と “印籠 ”をかざすドラマ。

ヒロインは必ずと言っていいほど恋に勝利し、仕事でも勝利し、
ハッピーエンドとなるハーレクインの小説。

ラストはたいてい、波が打ち寄せる崖の上に真犯人が追いつめられ、謎が明かされ、
罪を認めることになるサスペンス・ドラマ。

──“定番”や“お約束”といわれる物語は、観客・視聴者・読者の予想の通りに展開し、
その期待に応えます。

一方、サスペンスやホラーなどは、いかに観客(視聴者・読者)が抱く予期の裏をかいて
ビックリさせるかが主眼となります。
推理小説などは、読者の予想をいかに超えるかがミソですね。

一般的に物語は、観客・視聴者・読者にこれからどう展開していくかの予想を喚起し、想像させ、
そして期待通りに展開する。
あるいは逆にその予想を裏切ります。
そのかけひきが、物語をおもしろくするのだと思います。

それはストーリーとして、紙芝居の物語の中にもあります。
そして生のライブの中で、演じ手と観客の呼吸のやりとりとしても、ヴィヴィッドに存在します。
「いないいないばあ」に通じるかけひき、遊びが、紙芝居の物語をさらにおもしろくするのです。
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《引用・参考文献》
(1)無藤隆「赤ん坊から見た世界」講談社現代新書
(2)小林登「こどもは未来である」岩波書店・同時代ライブラリー
(3)友定啓子「幼児の笑いと発達」勁草書房
(4)西村清和「遊びの現象学」勁草書房
(5)西村清和「電脳遊戯の少年少女たち」講談社現代新書
(6)観世七郎元能「世子六十以後申楽談儀」~世阿弥、田中裕校注「世阿弥芸術論集」新潮社・所収
(7)グリム「金の毛が、三本あるおに」~高橋健二訳「完訳グリム童話集・1」小学館・所収
(8)グリム「金の鳥」~高橋健二訳「完訳グリム童話集・2」小学館・所収
(9)グリム「青ひげ」~高橋健二訳「完訳グリム童話集・5」小学館・所収
(10)松岡享子「語るためのテキストをととのえる――長い話を短くする」東京子ども図書館
(11)百々祐利子「昔話の聴き手がもつアンティシペイション」~「飛ぶ教室・第9号・1983年冬号」光村図書
















by kamishibaiya | 2010-12-11 07:23 | 紙芝居/演じるとき

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


by kamishibaiya