右か左か、明日はどっちだ・01

f0223055_11565730.gif人はムーンウォークでは歩かない



紙芝居の舞台は、一般的には右利きの人用に出来ています。
画面を右手でぬくように出来ている。

舞台を使わないのであれば、物理的には、右へぬいても、左へぬいても、
あるいは上へぬいても、下へぬいたってかまわない。
……とは思うんですが、観客に向かって右の方向へぬくのが一般的なやり方で、
やはりこれが基本となります。

演じ手から、観客に向かって右の方向へぬく。
これはつまり、観客側から見れば、画面に向かって左(←)、下手の方向ですね。
そのため、ぬくとき、舞台上に見える画面は、上手から下手へスライドしながら
舞台外へとハケて行くことになります。
映画などの映像でいえば、左方向へのワイプアウトという画面転換。

紙芝居の絵では、このことを頭に置いておかなければなりません。

▼図01
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たとえば、人が歩いている場面を横向きで描くとき。
これが右向き(上手向き)だと、
画面をぬく場合、後ろ向きに歩くように見えてしまいます (図02) 。
ダンスのムーン・ウォークだったら別ですが、通常では不自然です。

それが左向き(下手向き)なら、
無理なく、自然に歩いている感じを出すことができるのです(図03)。

▼図02
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▼図03
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歩く場面に限りません。
走る。
とぶ。
ひっぱる。
ものが転がる。
すべる。
などなど、横へ移動するような場面を描くときには特に、
左(下手)向きにした方がよいということになります。

そうしてまた、どんな場面でも、画面の全体的な流れとしては、
右から左へという下手向き(←)。
観客の視点も右から左へ(←)。
紙芝居の絵を描くときには、たえずこの流れを意識しておく必要があります。

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進行方向が、左向き(←)。
これは、たまたま画面を裏から右手でぬくという動作が、
左向きへ進行させることになっただけなのかもしれません。
が、しかし、この「左向き」ということは、いかにも日本の文化らしいようにも思われます。

一般に、西洋の文化では、反対です。
進行方向は「右向き(→)」が多い。
西洋の影響を受けている現代では、右へ進む感覚が日常に浸透しているようです。

たとえば、カセット、CD、MD、ビデオ、DVDなどなどの録音・録画機器。
前へ進む再生ボタンのマークは▶。早送りのマーク(▶▶)も右向きですね。
進行方向は、左から右へ。
逆に後退する巻き戻し(◀◀)は左向き。

こうしたテクノロジーを生んだ科学や数学の分野はみんな右向き(→)。
数式や化学式の表記も、左から右へ。
グラフなども、起点を左にとり、右へ展開するように作図することが多い。
一般的には、右がプラスの方向で、左がマイナスの方向です。
折れ線グラフや棒グラフも、時間などの経過とともに、
たいてい右の方向へ進んで展開していきます。

そのため、「右上がり」や「右肩下がり」などの言葉が
わかりやすいイメージとして、経済や日常のいろいろな場面でも使われます。

ウェブの世界でも、進行方向は右向き(→)ですね。
ネットの画面は、右向きに進行する。
ボタンの▷印は「NEXT」を意味し、◁印は「BACK」を意味します。

これには、文字を横書きにする影響も大きいでしょう。
現在の日本では、横書きをするとき、文字送りは基本的には、左から右へ。
そして行送りは上から下へと進み、上下にスクロール。
今書いているこの文章も左から右へと綴り、このブログも左から右へと進みます。

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西洋で生まれた心理学でも、“進む”のは、やはり左から右への方向(→)とされるようです。

ドイツの心理学者、ミヒャエル・グリュンワルドによれば、空間を象徴的に見ると、
画面の左側は「内面」「過去」「母性」
それに対して右側は「外界」「未来」「父性」
をあらわすことになります。

彼が行った実験テストはたとえばこんな具合です。
被験者に小さな円盤を渡して、長方形の紙を示す。
「この紙の領域があなたの人生だとすると、現在のあなたはどこの位置にいますか?」
と尋ねる。
さらに質問を重ねると、大部分の人々が次のように考えていたことがわかったといいます。

つまり、左下を「始まり」「始源」と考え、
そこにいた自分は幼く、若かった。
そして右上を、実りある人生の「目標」「終わり」「成果」と考えていた。
左下から始まり、時間の経過とともに成長するに従って、右上へと伸びていく。

そこからグリュンワルドは、左下から右上へと伸びる対角線を「生命のライン(生命線)」と呼びます。

▼図04:生命のライン(生命線)
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こうしたテストを細かく積み重ねた結果、作り上げたのが下図のような空間象徴の図式です。

▼図05:グリュンワルドの空間図式
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スイスの心理学者、カール・コッホは、筆跡心理学(文字の書き方で性格や心理を分析する)と、
このグリュンワルドの空間図式をもとに
「バウム・テスト」を体系化し、提唱しました(1)

バウム・テストは「樹木画テスト」とも呼ばれ、
被験者に、ただ「1本の実のなる木」を描いてもらい、
その絵に投影された心理状態を読み取るという心理テストです。
たとえば、画面の右側に枝や葉が豊かに繁っているような特徴の木を描けば、
外向的なのではないかなどと分析・推理することになるわけです。

「バウム・テスト」は、現在、広く臨床の場で応用され成果を得ているもので、
それはつまり、その理論背景となっているグリュンワルドの象徴図式が実証されているといえます。

横軸だけを取り出してみれば、意識的・無意識的に、“進む”のは右方向(→)で、
反対に“戻る”のは左方向(←)という感覚。
時間軸でみても、進む未来は、右方向(上手)の先にあることになります。
つまり、“明日”は右にある。

▼図06(グリュンワルドの空間図式をもとに、横軸だけを取り出して作成)
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ユング派の分析家であり、
生死にかかわるような重篤な病気と闘う多くの子どもたちと接してきたスーザン・バッハは、
絵の中の向きの重要性について述べています(2)
彼女は臨床の場で、重病の子どもたちが描いた絵を通して子どもたちの心と向き合ってきました。

子どもたちが自由に描く絵の中で、たとえば人物や動物、車などの動的なモチーフが
左方向へ向かったり、左へ曲がるような場面が描かれるとき。
このとき、その子の病態や生活は、
文字通り「シニスター」な局面へ入っていくことを暗示しているといいます。

「シニスター(sinister)」。
──これは「左」を意味するラテン語「シニステル(sinister)」が英語となった言葉で、
同じく「左の」を意味する形容詞です。
と同時に、「不吉な」「縁起の悪い」「邪悪な」「気味の悪い」「非業の」という意味を
併せ持つ言葉です。

後述しますが、特にヨーロッパでは昔から「左」は、不吉なことを意味しました。
つまり左へと向かうことは、
「疑わしいものへ、暗いものへ、無意識へ、
知らないもの(今はまだ知られていない、も含む)へと進んでいることを示す。」
(2)
というのです。

対して、モチーフが右方向へ向かったり右へ曲がる場面を描く場合。
このとき、子どもは、手術や薬物治療が功を奏して、一時的であれ持続的であれ回復に向かい、
「生への帰還」へ、肯定的な状況へと進むことが多いといいます。
つまり、左方向(←)は否定的なマイナスであり、右方向(→)は肯定的なプラスである。

たとえば、当時7歳の急性リンパ芽球性白血病の男の子が描いた黄色い郵便バスの絵。
バスの客席の窓は白く塗られ、乗客は誰もいないのか、空っぽに見えます。
運転手が、ただひとり。
そのバスは左に向かって、坂を下っているところ。
ストップの標識のある坂の途中で停まり、
運転手は、自転車に乗った、赤く塗られた人物と何やら話し合っている。そんな絵です。

それがやがて、化学療法を行うことで病状が改善されていく。
そうした後に描かれた絵では、
黄色い郵便バスは今度は右を向いて坂を上っているところです。
客席の窓には人々が描かれていて、本人によれば、遠足で農場に行くところなのだそうです。

──こうした例が、彼女の著書(2)にいろいろと報告されています。

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ただ、スーザン・バッハは、何千枚という子どもたちの絵と向き合い、
観察する経験から知り得たこうした傾向を、そのまま一般の絵に適用させて考えることには
警告を発しています。
絵は、病いの苦しみを背負った子どもたちが、治療者との信頼の中で、
たとえそれが何気ない戯れであったとしても、生命(いのち)を込めるようにして描かれたもの。

たとえば、ふつうに子どもが気まぐれに左向きに歩く人物を描いたからといって、
それを不幸の兆しだなどと即断することはもちろん出来ないでしょう。

しかし、左右の向きの問題に関して言えば、スーザン・バッハの指摘する傾向は、
グリュンワルドの提示した象徴の図式と大体において一致していることは事実です。

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さて、ところがです。

これらに対して、抽象画で知られるロシア出身の画家、カンディンスキーは、
ニュアンスは異なりますが、ほぼ逆の感覚を述べています。
彼はその著作「点・線・面ー抽象芸術の基礎」(3)で、
画面の《左》は、「稀薄といった観念、軽やかさとか解放といった感じ、さらには自由の感じ」のイメージを
呼びさますというのです。
《右》はその逆、つまり重く、密度が高く、束縛的であるといいます。

そして文学的比喩をまじえ、こう語ります。

「《左》に近づく──自由を求めて出る──のは、遠方をめざす運動。
人間は、自分の住み慣れた環境から遠ざかってゆく。
彼は、自分の上に重くのしかかり、自分の運動をまるで石のように重苦しい雰囲気によって
妨げている慣習形式から解放されて、
しだいに胸一杯に大気を呼吸するようになる。
彼は、《冒険》をめざしてでかけるのだ。」

「《右》に近づく──束縛を求めてゆく──のは、家へ戻る運動。
この運動には、一種の疲労が伴う。それがめざすのは休息だ。
《右辺》に近づけば、それだけ、この運動は生気を失い、緩慢になる。
──と同時に、右の方へ近づいてゆく形態の緊張はだんだんと弱まり、
運動の可能性もしだいに制約されてくる。」
(3)

こうした感覚を持つに至った過程や理由は述べられていません。
また、それまではっきりと意識したことはなかったと言います。
つまり、無意識。
が、しかし、彼自身が作品を描くときには、おおいに影響があったと思われます。

▼図07:カンディンスキー「馬上の二人」1907年
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カンディンスキー初期の頃の作品。
左へ向かう二人は、確かに重苦しい空気から逃れて、
ロマンティックな解放感に満ちた空気を胸一杯に吸い込んでいるように思われます。

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ユング派の分析家であるイングリット・リーデルはその著「絵画と象徴ーイメージ・セラピー」(4)で、
上述のグリュンワルドやコッホ、スーザン・バッハらの空間象徴の理論を紹介し、
一般の人や患者が描いた絵画に限らず、歴史的な絵画を取り上げ、分析しています。

そこで取り上げられている一例が、デューラーの有名な版画「騎士と死と悪魔」です。

▼図08:アルブレヒト・デューラー「騎士と死と悪魔」1513年
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これは、キリスト教信者の救済を寓意のテーマとして、
その信仰者の姿が騎士として描かれているのだといいます。

人生には必ず終わりがあり、日々、刻々とそのリミットに向かっていることを示す砂時計。
それを手に、
「メメント・モリ(死を想えよ)、おまえの残り時間はたったこれだけさ」
とでもいうように嘲笑いつつ並走する「死」神。
ヤギに似た異形の「悪魔」。
道半ばで倒れた先人の遺したものか、道に転がる髑髏(どくろ)。

これら邪魔をしようと狙うものたちに動ぜず、騎士はただ独り(忠実な馬と犬を友としつつも)、
ひたすら行く道の先を見つめて敢然と歩を進める……。

ここでは騎士が左へと歩を進めています。
グリュンワルドらによれば、左への方向は過去への退行だったり、
内的な世界への深い沈潜を意味する。

そこでイングリット・リーデルは、
「騎士の駆ける方向は左の集合的無意識のなかへといたる線に、内向性へと、イニシエーションへと、
死へといたる線に従っている」

というわけです(4)

意識の内奥へと進む。
そして、割礼や抜歯、バンジー・ジャンプなど、古来からの通過儀礼(イニシエーション)が
苦痛や危険を伴う死を体験し、そこからの再生を意味したように、内的な死へと至る。

その地点に至ることではじめて、上方に険しくそびえ立つ岩山の向こう、
騎士の生の目標である「天上の城」、キリスト教信仰の目標である「天上のエルサレム」への道を
たどることが出来るというんですね。
そう考えると、粛々と歩く騎士の峻厳な表情もわかるような気がしてきます。

一方、カンディンスキーは、「馬上の二人」で、左に進む馬の歩みを
ロマンティックな筆致で描いていました。
そんな彼であれば、左へ行く騎士を違う解釈でながめることになるでしょう。

あの「憂い顔の騎士」ドン・キホーテが一途の想いから、
「遠方の」理想を目指す 「冒険」へと旅立ったように、
「石のように重苦しい雰囲気によって妨げ」ようと
右方向へ引っ張る「死」や「悪魔」をふりはらい、
騎士は独り荒野を進み、はるか「遠方」に見える天上の城を目指す。

そう考えると、影ができて右半面が暗く重い
──つまり、光は左、騎士の前方にあって騎士を照らし導いているという
明暗の対比の効果も自然に思えてきます。

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おそらくデューラーの作品に想を得て、390年後、
クリムトが「人生は戦いなり」という作品を描いています。

▼図09:グスタフ・クリムト「人生は戦いなり(黄金の騎士)」1903年
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こちらの騎士も左方向を向いている。
騎士は直立不動で、歩く馬の脚づかいも不自然のように見えますが、
スタイリッシュなシルエットがデザインとして効果的に際立っていて、強い印象があります。

こちらの左向きは、カンディンスキーの論の通り、
自由と理想を求めて前向きに「遠方をめざす」孤高の騎士の姿を描いているように
筆者には思われるのですが、さて、どうでしょう?

が、逆に、イングリット・リーデルの論のように、いかにもクリムトらしく、
タナトス(死)へ向かっていると解することも出来るかもしれません。

左方向(←)へ向かうのは、内へ向かい、過去へ向かうことなのか?
それとも反対に、左方向(←)へ向かうのは、外へ向かい、未来へ向かうことなのか?

すると、たとえば、左右を反転させた次のような作品は、どう感じられることになるでしょう?
あなたはどのように感じますか?

▼図10:アルブレヒト・デューラー「騎士と死と悪魔」を左右反転させたもの
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たとえばまた、ビートルズのアルバム「アビーロード」の有名なジャケット。
オリジナルではもちろん、ビートルズの4人は右へ向かって横断歩道を渡っています。

がしかし、もしも逆向きに、左へ向かっていたとしたらどうでしょう?
印象はどう変わるでしょう?

▼図11:The Beatles「ABBY ROAD」ジャケット
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▼図12:The Beatles「ABBY ROAD」ジャケットを左右反転させたもの
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右へ向かって歩いていた4人は、“明日”へ向かっていたのでしょうか?
“昨日(yesterday)”へ向かっていたのでしょうか?

あるいはまた、発表当時は解散寸前のバンド・グループとして
「The End(アルバムの中の曲)」へ向かっていたということなのでしょうか?

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絵本作家の長谷川集平さんは、「絵本作りトレーニング」(5)の中で
やっぱり空間象徴に触れています。

カンディンスキーが、左が「外」で、右が「家(うち)」という感覚を持っていたのに対し、
長谷川さん自身は、反対に、左が「家(うち)」で、右が「外」という感覚を持っているそうです。

もしも、図11のビートルズが右へ向かって歩いているところをカンディンスキーが見たとしたら、
「彼らは休息を求めて、終息に向かっている」
「彼らは家へ帰ろうとしている」
などと感じたかもしれません。

もしも、同じジャケットを長谷川集平さんが見たとしたなら、
「彼らはそれでもやはり明日へ踏み出そうとしている」
と感じるかもしれません。

長谷川集平さんの感じ方はつまり心理学者たちの論の通りです。
長谷川さんは、一般的にもそうした傾向があり、
カンディンスキーの感覚はむしろ例外ではないかといいます。

つまり、左への方向は消極的、内向的。
右への方向は積極的、外向的。
であるから、

「……ということは絵本の中では左から右の動きがとっても生きるわけ。
ということは左開きの絵本のほうが、
心理的には積極的な動きのあるものになっていくんではないかと、ぼくは仮説をだしてます。
証明のしようがないですけど(笑)。」


というわけです(5)

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絵本に限らず、本には「右開き(右綴じ)」と「左開き(左綴じ)」があります。

文字を縦書きにすると、行送りは右から左へと進む(←)。
本文が縦書きの「縦組み」だと、ページを右にめくって左方向へと進む(←)ことになり、
「右開き」の本となります。

中国の漢字にならって表記するようになった日本の文字は縦書きが基本。
だから教科書の中でも、「国語」の教科書は右開きですね。
伝統的な絵草紙などの冊子や、新聞も右開き。日本のマンガも右開きです。

対して、文字を横書きにすると、文字送りは左から右へ(→)。
本文が横書きの「横組み」だと、ページを左にめくって右方向へと進む(→)ことになり、
「左開き」の本となります。

ヘブライ語やアラビア語などを除けば、
西洋の文字は、英語や仏語、ギリシア語などなど、左から右へと綴る(→)横書きです。
数字や化学式などの表記も同様。
そのため、教科書の中でも、「算数」「理科」や「英語」の教科書は左開き。
洋書は一般的に左開きで、欧米のコミックも左開きです。

▼図13
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日本の文字は縦書きにも横書きにも出来るので、本や絵本は、どちらかを選んで作る。

このとき、右方向(→)へ進む「左開き」の方が、心理的・生理的には、
より勢いのある積極的な展開に合っているかもしれないと長谷川集平さんは言うわけです。

もしもこの仮説通りだとすれば、右開きの本や絵本、マンガなど、
左向き(←)に進む物語の進行は、
ダイナミクスなアクティブさに欠けた、消極的、内向的な傾向があるということになりますね。

この左向き(←)に進むというのは日本の伝統でもあります。
絵草紙や絵巻物、そして紙芝居もまた、物語は左方向(←)へと展開していきます。

これらの物語もまた、消極的、内向的な傾向を持っているのでしょうか?
これは、母性的ともいわれる日本文化を反映しているということなのでしょうか?

が、しかし。
どうなんでしょう?
この仮説は右脳・左脳など、ヒトの生理的な性向に基づくものなのでしょうか?
社会や文化を異にしても、人類に共通するものなのでしょうか?
証明のしようのない問題かもしれませんが(笑)、考えてみたいと思います。

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《引用・参考文献》
(1)C.コッホ、林勝造訳「バウム・テストー樹木画による人格診断法」日本文化科学社
(2)スーザン・バッハ、老松克博・角野善宏訳「生命はその生涯を描くー重病の子どもが描く自由画の意味」誠信書房
(3)カンディンスキー「点・線・面ー抽象芸術の基礎」~西田秀穂訳「カンディンスキー著作集2」美術出版社
(4)イングリット・リーデル、城眞一訳「絵画と象徴ーイメージ・セラピー」青土社
(5)長谷川集平「絵本作りトレーニング」筑摩書房
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by kamishibaiya | 2010-12-11 12:07 | 紙芝居/絵を描く | Comments(0)