「行って帰ってくる」物語・03

f0223055_11593843.gif「意地悪な継母」は、どこからやって来たか


筆者が以前、「ヘンゼルとグレーテル」を手作り紙芝居にしたとき、
二人を森へ捨てるのは“継母”にするか、“実母”にするか、迷ったことがありました。

筆者の子どもの頃の記憶では、継母だったのですが、
グリム童話の初版では、実のお母さんなんですね。
グリム兄弟が採集した原話が、実母だそうです。
しかし、それは残酷だというんで、兄弟が第四版以降、継母ということに変えたらしい。
「白雪姫」を殺そうとするお后も、
もともとは実母だったのが、第ニ版から継母に変えられています。

そこで、筆者が演じたとき、実母の設定でやってみたことがありました。
子どもたちにとっては、これはショックだろうかと案じていたのですが、
特に反応はありませんでした。
しかしまあ、作品も演じ手も出来がよくなかったので、
反応がわからなかっただけなのかもしれません。


昔話が成立したと思われる時代のヨーロッパ社会では、
お産や産後に母親が命を落とす危険が高く、代わって子どもの面倒をみる継母が多かったそうです。
統計的に、たとえば18世紀のフランスでは、
子どもが成人する前に両親のどちらかが死亡することが多かったため、
継母が至るところに見られらたのだとか(1)

昔話に継母の登場が多いのには、そうした社会的、歴史的な背景も影響したのでしょうか。
しかし、“意地悪なまま母”というキャラクターは洋の東西を問わず登場し、
日本でも「継子譚」として、昔話の一ジャンルを成しています。

これはたとえば、グリム兄弟が行ったように、
後世の語り手が手を加えて“実母”を“継母”に変えるようなことがあって、
まま母という設定が広まったのでしょうか?

しかし、古さや頻度を調べていっても、
「まま母ばなし」は、ずいぶん昔からあちこちに伝わっていて、
最初からまま母という設定の話も多いのだそうです。

これはもともとのはなしであるにしろ、改訂されたにしろ、
まま母を登場させたい心理が語り手と聞き手の中に、
そしてわたしたちの中にあるということなのでしょう。

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マックス・リューティは、「昔話の解釈」の中で、
昔話に「まま母ばなし」の多い理由のひとつを、
人間がもつおおもとの感情をたどって説明しています(2)

それは「わたしは誰なのか?」という疑問。
「自分の正体を疑う気持ち」です。

たしかに、「自分はほんとうは何者なのだろうか?」というような問題は、
昔話によく見られるテーマです。
もしかしたら、自分は両親のほんとうの子ではないのではないか? 
親は何も言わないけれど、拾い子や、まま子なのではないだろうか?
子どもの頃、そんな思い込みをする子が多いことがよく知られているとリューティは書いています。

筆者も、幼い昔、そんな思いにふけっていたような記憶があります。
心理学的にはいわゆる“継子妄想”といわれるものですね。

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未知の世界は、おそれに満ちたもの。
小さな子どもにとって、この世界はすべてが未知です。
この世界に自分の居場所はあるのか?
自分は何者なのか? 
何のために自分は生まれたのか?
言葉になることもなく、意識にのぼることもないけれど、
こうした問いかけを子どもたちは心の奥底に抱えているのではないでしょうか。

それに対して、生存を保証してくれる満足感や安らぎ、ふれあいや、ぬくもり、
言葉かけや微笑みをもらうことは、
「おまえが好きだよ。おまえがいてくれてうれしい。おまえは、この世界に生きてっていいんだよ」
というメッセージをもらうことでもあるでしょう。

そのメッセージは、一生を生きていく上でのよりどころとなるのかもしれません。
メッセージをくれるのは
家族であったり、保育者であったり、周りのおとなであったりするわけですが、
母親はそのいちばん最初に出会う代表的な、そして象徴的な存在です。


しかし、現実の母親は、始終何もかも受け入れてくれる「いい母親」であるわけではありません。
悪さをすれば叱る。
無理なわがままをいえば、たしなめる。
感情だってあります。
野放図な子どもの欲求にどこまでも応えるわけではありません。
けれど、小さな子どもにとっては、これが理解できないことでもある。

リューティは、
哲学者ウィトゲンシュタインがその著書で語っている、こんなエピソードを紹介しています。
ウィトゲンシュタインが、自分の子どもの頃のことを回想して書いています。

「わたしがまだ子どもだったころ、わたしの母親がわたしの大好きなおもちゃを取り上げたことがあった。
このとき──ただし、このときだけだが──母親はわたしにとってまま母となった。
わたしは母親をそうは呼ばなかった。法律的な意味でまま母というものがあることを、わたしはまだ知らなかった。わたしはただそう感じただけで、それを言いあらわすことはできなかった。
わたしはそのとき母親にこう聞いた。
『いったいあなたはわたしの本当のお母さんなの?』」
(2)

おもちゃを取り上げたくらいで“ニセもの”呼ばわりされるお母さんもいい迷惑ですが、
小さな子どもの目から見ると、こうした気持ちになることがあるのだと思います。

自分の存在を認め、受け入れてくれる母親と、それを阻害する母親。
そのプラスとマイナスのイメージのあいだで揺れ動く。
そうした矛盾が生まれてくる。
そこで物語の中では、

「悪い継母を空想すれば、良い母親のイメージをそのままとっておけるだけではなく、その継母にたいして怒ったり悪いことを願ったりしても、罪の意識を感じなくてすむ」(ブルーノ・ベッテルハイム「昔話の魔力」(3)

ということになるのでしょう。

矛盾をまだ受け入れきれない小さな子どもたちの成長過程にとっては、
やさしい母親のイメージが必要なのかもしれません。
冒険に行って「帰ってくる」そのホームには、
自分を待ってくれる、いい母親がいてほしい気持ちがあるんですね。
そうした気持ちが、「いい母親」と「悪い母親」を分離させて空想させる。

つまり、「悪い母親=意地悪な継母」を登場させることになる。

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新潟にこんな伝説があるそうです。

名を京子という娘が継母に毎日折檻され、いじめられる。
そうして悲しみにひしがれ歩いていると、池に自分の姿が映っている。
京子は、その姿を母だと思い込み、その姿を追い求めて、池の中へ入って死んでしまう。
すると、池には美しい紅水仙が咲くようになり、
人々はその花を京子の生まれ変わりだと言うようになったということです。

司修「紅水仙」(4)に取り上げられているはなしです。

この伝説では、継母ということになっていますが、
実母に虐待されるということも現実にはありうるのでしょう。
実母が子どもに対して殺意を抱くことさえありうる。

そんな 「白雪姫」初版のような“子殺し”の現実があることは、
現代のわたしたちが常日頃、事件の報道やニュースを通じて見知っていることでもあります。
しかも、保険金目当てといった金・モノ至上主義や、利己的な生き方という動機によって。

ささいなストレスがきっかけで、虐待死させることもある。
ネグレクト(育児放棄)は、母親であることさえやめてしまい、時に子どもを死に至らせます。
それがけっして他人事ではなく、自分自身や身の回りでも起こりうる。
そのことに、わたしたちも気づいているのかもしれません。
また、“虐待”という直接的な行為でなくても、
無視や罵倒、嘲笑などといった圧力が、子どもを傷つけることもあるでしょう。

そうした場合でも、子どもは、母親の中にある「いい母親」を信じたいと願う。
実際には憎しみ怖れる文字通りの「悪い母親」で、「いい母親」が幻想であったとしても、
子どもはそれを求め続ける。
池にはまるという死を賭けてさえも、母親に抱かれたいと願うものなのかもしれません。

その痛切な想いは、
昔話の悪辣な実母を継母に変えて伝えたグリム兄弟や、多くの語り手たちの気持ちと
通じるものがあるのではないかと思います。

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それにしても、“意地悪な継母 ”というイメージの濡れ衣を背負わされる、
現実の継母の方には迷惑な話しですよね。

けれどほんとうは、実母であれ、継母であれ、そして父親や家族や保育者の中にも
「いい母親」と「悪い母親」が共存するのであって、
物語のそうした事情を、子どもたちは言葉にできなくても、
心の奥底の方では、じゅうぶんに理解しているのではないでしょうか。

“継母”という法律上のことばを知らぬままに、
母親の中にそれを見出した幼い日のウィトゲンシュタインちゃんに似たような経験は、
誰でも心当たりがあるのではないかと思います。
昔話の物語は、そうした気持ちを拡大して、強調して見せてくれるのです。

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子どもたちに対するとき、わたしたちおとなは「いい母親」であり、
それゆえに「悪い母親」でもあります。

また、「悪い母親」にもならなければなりませんね。
場合によっては、たとえば食事中に遊びをはじめようとするおもちゃを取り上げなければ。
小さなウィトゲンシュタインちゃんを泣かせようとも。

そしてもっと深いところでは、旅立とうとする子どもに対して、別れを告げなければならない。
実際に別れて暮らすということではもちろんなく、自立する子どもに対しての別れです。

「かわいい子には旅をさせよ」と昔からいいますが、
時には死別さえ覚悟しなければならないような旅へと送り出すことは、
実際にはつらくさびしいものです。

だから、危険がいっぱいの鬼退治へと出かける桃太郎を見守り、見送るおばあさんはえらい。
きびだんごさえ持たせてあげる。

以前、アナグマの生活を追ったTV番組を見たことがありました。
母アナグマは子育ての期間を終え、子どもが自分で捕食できるようになると、
子を威嚇し攻撃し、巣から追い出します。
それはもう激しい攻撃で、しかし子どもは、その母親の手痛い仕打ちをきっかけに、巣から離れ、自立していきます。

こうした子別れの儀式のような行動は、他の動物でも多く見られるのだそうです。
この行動を人間にあてはめることなんてもちろんできませんし、
だから過保護はダメなんだといって、ただ突き放すのではダメなのでしょう。

しかし、何かに挑戦したり、ひとりで何かしようとする──旅立とうとするときには、
突き放して見守ることも必要となります。

桃太郎をほんとうに信じているからこそ、おばあさんも送り出すことができた。
もしかしたら鬼が島の土と成り果て、
もう二度と帰ってこないかもしれないという冒険へ送り出すその信頼と覚悟は
たいへんなものだったのではないかと思います。

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これを、子どもの側から見たとき、心の中では激しい葛藤が起こることになります。
ノイマンは、そのようすを、人間の自我が発達していく過程の中で説明しています(5)

その著「意識の起源史」によると、
混沌(カオス)の中で最初に自我が芽を出すとき、世界は母なるものの姿となる。
その世界は、まだ弱々しい芽にとっては、自我を受けいれ、養って育ててくれる
「いい母親」像 ──プラスの母なるものです。

が、その一方で、一体感の中へ呑み込み、自我の成長を阻んで離そうとしない。
元のカオスへと逆行させる「悪い母親」像──マイナスの母なるものとして映ることにもなります。

そこから成長するとき自我の意識は、無意識の母なるものから分離しようとする。
その旅立とうとする行動は、
英雄神話として昔から語られてきたような冒険に旅立つことでもあるわけです。

そうしてその冒険の過程では、“母親殺し”がひとつのテーマになるといいます。
実際の殺人事件だったらエライことですが、
これは、心の中の象徴としての“母なるもの”、
自我を飲み込もうとする無意識との対決ということ。

しかし、エライことには変わりなく、ほんとうに自立するためには、
母なるもの(グレートマザー)との凄まじい対決を乗り越えることが求められるというんですね。

筆者は、なんでもかんでも冒険は“母親殺し”に結びつけられるのだろうかというところが
いまいちわからないのですが、
母なるものとの葛藤というのはよくわかる気がします。
母アナグマの攻撃に、子どものアナグマは為すすべもなく巣を追い出されるのですが、
心の中では、母親と対決し、戦い、乗り越えなければならない。


この「母親殺し」ということ。
これは、昔話によく登場するテーマでもあるんですね。

「ヘンゼルとグレーテル」は、まさにその「母親殺し」が行われる物語のひとつです。
そして、「行って帰ってくる」物語でもあります。

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《引用・参考文献》
(1)ロバート・ダーントン「農民は民話を通して告げ口する」~ロバート・ダーントン、海保真夫・鷲見洋一訳「猫の大虐殺」岩波書店・所収
(2)マックス・リューティ、野村泫訳「昔話の解釈」ちくま学芸文庫
(3)ブルーノ・ベッテルハイム、波多野完治・乾侑美子訳「昔話の魔力」評論社
(4)司修「紅水仙」講談社
(5)E・ノイマン、林道義訳「意識の起源史」紀伊國屋書店
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by kamishibaiya | 2010-12-18 12:04 | 紙芝居/脚本を書く | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


by kamishibaiya