「行って帰ってくる」物語・04

f0223055_15182391.gifヘンゼルとグレーテルは、行って帰ってくる・その1


「ヘンゼルとグレーテル」は、「行って帰ってくる」物語です。
冒険……というより、これは“子捨て”の憂き目にあって家を出るはなしですね。
そういう成り行きになって、兄妹は行って帰ってくることになります。

“子捨て”は、昔の日本でもありました。
後で触れようと思いますが、日本には、儀礼的な形だけの“子捨て”の風習があります。
が、昔は、実際に子どもを捨てる“子捨て”も少なくありませんでした。

17、18世紀頃のヨーロッパ社会などでも、それほど珍しいことではなかった。
しかも、貧困などのためにやむなく子捨てに至るというのでなく、
さして理由もないのに子捨てをするケースも多かったそうです(1)
飢饉で食べものがないために、
仕方なくヘンゼルとグレーテルを手放そうとする両親は、まだましということでしょうか。

昔話が、こうした歴史的な現実の社会を反映していることも、じゅうぶん考えられます。
が、しかし、ここでは、
「ヘンゼルとグレーテル」は、「母親と直接結びついた内的な経験を、象徴的に表現」している
と説くベッテルハイムの声にも耳を傾けたいと思います(「昔話の魔力」(2))。
昔話のそういうあたりが、どうやら時代を超えて現代の子どもたちをも惹きつけるのではないかと、
紙芝居をやっていても思えるからです。

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さて、そのベッテルハイムによると、ヘンゼルたちの「食べものがなくなった」という状況は、
赤ちゃん時代、離乳の時期が来たからと母親がお乳をくれなくなったのに似ているといいます。
精神的な乳離れのときといえるでしょうか。
アナグマの母親が、母親から卒業する時期を迎えた子どもらに威嚇し、
「おまえたちの餌はもうここにはないんだよ」と、かみついて追い出そうとするかのようです。

そうして、ヘンゼルたちは「行く」ことになります。
が、すぐに「帰ってくる」。

これは、森へ捨てられに行くとき、道にばらまいておいた白い石をたどって帰ってくるという、
ヘンゼルの知恵によるものです。
が、ただ帰ってくるだけでは状況は何も変わらないんですね。

何か体験したり、感じたり、何かひと仕事しないと、
物語では「行って帰ってくる」ことにはならない。
不安にかられて、家の安心感にまだしがみつきたいというだけであれば、
これは、「帰ってくる」のではなく、途中で引き返してくることなのでしょう。
ちょうど2〜4歳の子どもたちが、
ポーズだけの「行って帰ってくる」遊びをくりかえすのにも似ています。

でも、このくりかえしが大事なんですよね。
くりかえしの中で、ほんとうに「行って帰ってくる」旅立ちの準備をしてる。
そうしてまたヘンゼルたちは、くりかえし森の中へ捨てられることになります。

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カール=ハインツ・マレ「首をはねろ!」(3)という本に、こんなエピソードが書かれています。
マレ自身の著書の講読会で、「ヘンゼルとグレーテル」の残酷性が話題になったのだそうです。
そこで、ある女性が笑いながら、子どものときの思い出を話し始めた。

「わたしが母に腹を立てたり、母がわたしに小言を言ったり、これこれのことはしてはいけないと言ったり、わたしの意志がとおらなかったりすると、わたしは勝手に、母は魔女で、自分はグレーテルなんだと思いました。
ほんとなんです。
その後、わたしはこの悪い魔女をうまいこと熱いパン焼きがまの中へ押し込んでやりました。」


すると、しーんと静まりかえった会場で、女性のかたわらの老婦人がぽつりと言ったそうです。

「なんていう娘でしょう、あのころ、お前はそんなことを考えていたのかね。」

当時はパン焼きがまに入れられてしまったその女性、今は年齢を重ねた母親の言葉に、
会場は大爆笑となったそうです。

この女性の空想は、まったく当を得たものであるでしょう。
これほどクリアーではないにしろ、わたしたちや子どもたちは、
心のどこかで魔女の正体に気づいているのではないでしょうか。
象徴として見たとき、実母、継母の区別はなくなります。
そして、その存在は、魔女とカブってくる。

甘〜い甘いお菓子で、やすらぎの“家”をつくる。
男の子のヘンゼルを自分の腕の中に閉じ込めて、ご馳走責めで太らせる。
女の子のグレーテルには家事を次々に命じて、厳しく躾けようとする……。
まさしく魔女=母なわけです。

その証拠に、魔女を殺して家に帰ると、
母親(継母)はいつのまにか亡くなったことになっています。
これを偶然とするには、あまりにもできすぎています。
そんな不自然なストーリー展開をわれわれ聞き手が納得して聞いてしまうのも、
魔女は殺したんだから、「悪い母親」が家にいるわけはないとひそかに感じているからでしょう。

この物語には、母なるものがいろいろ姿を変えて登場するんですね。

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ベッテルハイムは、鳥の果たす役割に触れています(2)

ヘンゼルは、最初、森へ行くとき、道に白い石をまくために立ち止まる。
その立ち止まる理由をヘンゼルは、
家の屋根にいる猫がさよならをするのでそれを見ていたと言い訳します。

そして二度目の言い訳で、屋根でさよならをしていると言ったのは、小鳩でした。
母親(継母)は、「あれはえんとつを照らす朝日だよ、ばかだね」と言うのですが、
聞き手(読み手)には、そのキラキラしている屋根のところで、
小鳩がさよならをしている光景がちらっと想像できたりするかもしれません。

道にまいたパンくずを食べて、二人を森へ迷わせたのは、数千羽の小鳥たちです。
その二人をお菓子の家に誘導して案内したのは、雪のように白い小鳥です。

また、魔女を殺して森を出ようとした二人が、川を渡れずに困っていたとき、
背中に乗せてそれぞれひとりずつ渡してくれたのは、白い鴨でした。

河合隼雄さんは、こうした鳥たちと母なるもの(グレートマザー)との結びつきを指摘しています。
いろいろな物語や、あるいはわたしたち現代人の夢の中でも、
グレートマザーと小鳥が結びついて登場することがよく見られるというのです(4)

たとえばグリム童話の「灰かぶり」(ペローの「シンデレラ(サンドリヨン)」)では、
まま母から意地悪をされたときに灰かぶりを助けたのは、小鳩やきじ鳩、そして小鳥たちでした。

日本の継子譚である「米ぶくろ粟ぶくろ」でも、
米ぶくろの実の母親が、白い小鳥として登場して、彼女を助けたりしていました。

継子譚には、他にもスズメやウグイスなどが登場する一連のはなしがあって、
柳田國男がこれらを「継子と小鳥」として分類しています(5)
これらは、まま母にいじめられたまま子が小鳥となるはなしも多いのですが、
悪いまま母が小鳥となるケースもあります。
母親像と小鳥のイメージは結びついているのでしょう。

(※継子譚の中には、まま母にいじめられて殺された我が子を探しまわった父親が鳥になって
「ワコウワコウ(吾子、吾子)」と鳴き続ける、というものもあります。
ここでは、父親も、母親的なはたらきをしているように見えます。)

そう言われてこの「ヘンゼルとグレーテル」を見直してみると、
たしかに鳥は、母親のイメージのプラスとマイナスの両方のはたらきを担っているようです。

最初、母親は人間として登場する。
そして、子どものこれ以上の養育を拒否するものとして、“意地悪なまま母”の顔を見せる。
小鳩は訣別を匂わせ、数千羽の小鳥はその退路を絶って、困難な旅へ向かわせる。
そして白い小鳥は、無意識のより深いところのイメージのモンスターとしての
母──魔女のもとへと導きます。

これは、母なるものが変化しているというより、子どもの心の中の母なるものが変わっている。
子ども側から見た母親“像”が変わっているということなんでしょうね。

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ベッテルハイムは、お菓子の家自体も、母親そのもののシンボルであるといっています。

しかし、それにしても、ヘンゼルたちがそのお菓子の家を食べるシーンはなんとも魅力的です。
食い意地のはった筆者にとっては、限りなく食欲をそそり、
限りなく食欲を満たしてくれるパラダイスにも映るのですが、どうもそれだけではないようです。

子どもたちは甘いものに目がない。それはもう胎児の頃から目がないのだとか。
もうじき出産を控えた妊婦さん。
そのお腹の羊水の中に、甘い甘いサッカリンを入れると、
胎児が羊水をガブガブ飲むようになった……という研究報告があるそうです(6)

“甘い水”を欲しがるのはホタルだけじゃないんですね。
糖分は、生きていく上に必要なエネルギーへとすぐに変わる栄養素。
その糖分を好む性質、甘いものを好む性質は、生き物に本能的なもの。
胎児にとっても、子どもたちにとっても、不可欠な欲求だということです。

いや、しかし、どうもそれだけでもない。

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「子どもは、口でばかり菓子を味わっているのではない。」
と、幼児教育の先駆者、倉橋惣三は書いています(7)

「子どもたちはなぜ甘いお菓子が好きか」
「お菓子はなぜ甘いか」
というその理由を、「我が子を思う母の心と同じ味のするもの」だからというのです。

三度の食事の機能的な栄養素を考える。一日30品目。
……というような現代の食教育からすれば、
食事以外のおやつ、そのお菓子の甘味に、親の心を見ようとするのは的外れでしょう。
しかし、これは“日本のフレーベル”といわれる倉橋惣三の
いかにも保育者らしい指摘のように思えます。

これが書かれたのは、昭和11年。
復刊されたのが、昭和20年の終戦直後。
食糧不足の当時、口に入れるものにも事欠く中で、
それでもあめ玉ひとつ、駄菓子ひとつの甘みをおとなは子どもたちに与えようとした。
そこに倉橋惣三は、子を思う母親の心を見ていたんですね。

そんな当時の母親たち、そして倉橋惣三は、
飽食の時代といわれる今日を想像することができなかったかもしれません。
日本は、残飯として捨ててしまうカロリー量が世界一を誇るという国になってしまいました。

合成甘味料と、過剰な砂糖にあふれ、
あるいは虫歯予防やダイエットに効果ありとうたわれる甘味がたっぷりのお菓子の氾濫。
それは母親の手から手渡されるのではなく、
TVのコマーシャルから、スーパーやコンビニの店先から、
直接子どもたちの胃袋へ運搬されるかのようです。
そこには、子を想う母の心が入り込む余地がないようにも思えてきます。

お菓子の氾濫の中に住む今の子どもたちにとって、
お菓子の家はそれほど魅力的には映らないでしょうか?
いいえ。
それでもやはり魅力的なのだと思います。

赤ちゃんの頃には、母親のお乳が食べもののすべて。
母乳はもともと血液ですから、文字通り、母親が「心血を注いで」子どもを養い育てるわけです。
人口哺乳であっても、離乳後でも、
母親が食べものを与えてくれる存在であることには変わりません。

摂食・過食障害は、母親との関係にその心理的な原因を持つケースが多いというのもうなづけます。
母親と食べものが結びつき、そこに甘さという味覚が結びついている。

「甘ゆ」という言葉が昔から、食べものの甘さと、精神的に甘えることの両方を意味してきたのは
けっして偶然ではないように思えます。
倉橋惣三が、お菓子の甘さの中に、甘えさせてくれる存在である母親の心を重ねたのも
やはり偶然ではないでしょう。

食べものがないと母親から拒否されたヘンゼルたちが、迷った末に見つけたお菓子の家は、
だから、ベッテルハイムが言うように、母親そのもの。
とめどなく甘えさせてくれる、超「いい母親」なんですね。

少々の甘いお菓子には食指を伸ばそうとしない今の子どもたちにとっても、
その存在はやはり魅力なのではないでしょうか。
むしろ母親の心に飢える現代の子どもたちは、
それを求めて甘いお菓子の氾濫の中に身を投げようとしているところもあるかもしれません。

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ところでこれは余談ですが、
お腹のポケットでなんでも望みをかなえて世話を焼く「ドラえもん」にしろ、
お腹がすいた子どもに自分の顔を食べさせる「アンパンマン」にしろ、
日本のヒーローは、母性的な性格のニュアンスが大きいような気がします。

ことに「アンパンマン」のあんパンの甘みは、
「我が子を思う母の心」と通じるものがあるかもしれません。
やられるたびに顔を焼いてもらい、「パン焼きがま」で生まれ変わるのも、
“母なるもの”を思わせます。
彼とセットで活躍する意地悪なバイキンマンは、
“母なるもの”のもう一方の面を担っているかのようです。

アンパンマンは、もちろん男の子ですが、彼のそうした母性的なところが、
子どもたちにとっては魅力のひとつともなっているのではないでしょうか。

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しかし、もしも現実にお菓子の家があったなら、
これを食べるには甘党を任じる筆者にとってもつらいものがあるに違いありません。
たぶん、甘すぎる。
甘さはあくまでもひかえめで、渋めのお茶か、苦いコーヒー付きにしてもらいたいところ。

子どもたちにとっても、これは難儀なものだと思います。
倉橋惣三の時代のように、1日にわずかのお菓子であれば心のうるおいともなるでしょうが、
のべつまくなしの大量の甘いお菓子では、味覚も食生活も狂ってしまいます。
狂った食習慣は将来の成人病にもつながりかねないと、
警告のイエローカードを受けてしまうところです。

それと同じように、超「いい母親」と背中合わせには、
危険な落とし穴である「悪い母親」=魔女がいて、罠をはっている。

母親側に悪意がないとしても、過保護まではいかないとしても、
そのいっしょうけんめいな愛情は、甘い快感漬けにして、居心地のいい一体感に留まらせる
──呑み込んでしまおうとするものです。

ここで、“母なるもの”は、
限りない甘えを欲し貪ろうとする子どもの心の中では“お菓子の家”となり、
成長しようとする心の中では“人喰い魔女”となる。
それはまったく同じものでもあるわけです。

そして子どもは成長するときには、マレのエピソードの女性が空想したように、
魔女=母親をパン焼きがまに入れて殺さなければならないんですね。

それは、現実的には、母親の価値観に反抗したり、
時には親子ゲンカや言い合いをすることでもあるでしょう。

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そうしてヘンゼルとグレーテルは、
あんなにも魅力的だったお菓子の家の裏側──「悪い母親」の部分を知ります。
というよりは、思い知らされます。

ヘンゼルは、行き過ぎた過保護の母親に扱われるように、
朝から晩まで、栄養、栄養と、ご馳走責めで太らせられます。
グレーテルは、言いつけに従い、
朝から晩まで水をくみ、洗濯し、料理、掃除と、きつい家事に追われることになる。

その後、彼女は魔女をパン焼きがまへ入れるのですが、
これは魔女がグレーテルを焼き殺そうと企んだ中に自らが入ってしまう──
魔女は自滅するようにも見えます。
グレーテルは、魔女が自滅するその時まで、勤勉を学びながら耐え忍んで待ち続けるかのようです。

「母親殺し」のためには、
母なるもの(グレートマザー)の荒ぶる攻撃性を自分のものにすることが求められるのですが、
しかしそれを抑制し、コントロールすることも知らなければいけない。
というノイマンの指摘が、ここでもあてはまるのでしょう(8)

そうして彼女は、“母親殺し”をやりとげるわけです。

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《引用・参考文献》
(1)E・バダンテール、鈴木晶訳「母性という神話」ちくま学芸文庫
(2)ブルーノ・ベッテルハイム、波多野完治・乾侑美子訳「昔話の魔力」評論社
(3)カール=ハインツ・マレ、小川真一訳「首をはねろ!」みすず書房
(4)河合隼雄「昔話の深層」福音館書店
(5)柳田國男「昔話覚書」〜「柳田國男全集8」ちくま文庫・所収
(6)小林登「こどもは未来である」岩波書店・同時代ライブラリー
(7)倉橋惣三「育ての心」フレーベル館
(8)E・ノイマン、林道義訳「意識の起源史」紀伊國屋書店
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by kamishibaiya | 2010-12-18 15:53 | 紙芝居/脚本を書く | Comments(0)