「行って帰ってくる」物語・06

f0223055_1425109.gif小僧さんは、行って帰ってくる


ところでわが身を振り返ると、筆者の場合、
“母親殺し”のような熾烈な葛藤を経てこなかったよなあという感じがします。
もっとも、これは無意識の問題で、意識することがなかったということなのでしょうか。
いえ、あるいは、それだけ精神的な自立という成長を
いまだに出来ていないということでもあるかもしれません。

ただ、こうした“母親殺し”のテーマは、西洋的な自我の中に多くあらわれるもので、
われわれ日本人の自我のあり方はまた違うのではないかと河合隼雄さんは述べています(1)

しかし、だからといって「ヘンゼルとグレーテル」の物語が、
日本人に理解できないということではないでしょう。
やっぱり共通の心性を揺さぶるものがあるからこそ、
日本人のわたしたちや子どもたちも、この物語にひきつけられるのだと思います。

日本 の昔話には“母親殺し”が見られるものは多くないと、河合隼雄さんはいいます(1)
やまんばを殺すはなしは多いのですが、
典型的に“母親殺し”と呼べるような“退治”にふさわしいようなものは割合と少ない。
蓬(よもぎ)や菖蒲で追い払ったりなど、“厄払い”に近いものも多く、
根絶しがたいものから一時的に逃れたり、
むしろ調和的に共存するようなテーマにつながるようなものもある。

そこに、無意識からはっきり分離して、意識化し、葛藤を経験するというのではなく、
意識・無意識があいまいなまま、葛藤も目立たないまま、
場の全体として調和的に解決しようとする日本の昔話らしさ、
つまり日本人らしさがあるのではないかというわけです。

ただ、やまんばを殺すにしろ、追い払うにしろ、
その結果、日本の昔話の主人公たちは物語のラストに、もとのもくあみの地点に戻ってくる。
主人公は、何も起こらないような始まりの地点にまた「帰ってくる」わけです。

そのとき、ドラゴン退治のような英雄的な「母親殺し」をなしとげたり、
ヘンゼルたちのように宝物を持ち帰ってきたりということは、
確かにどうやらそう多くはないようです。
やまんば退治が、小判や薬をもたらす類話もあるのですが。

彼らの多くは、ただ、「帰ってくる」。
しかし、母なるものの否定的、破壊的な側面を知った彼らは、
葛藤の経験こそしませんが、やはり変容しているのでしょう。

再び家の中の一体感に住まうにしても、それは単純素朴な一体感ではありません。
“自立”というはっきりしたかたちにはならなくても、否定的な面に気づき、
知った上で、なお母なるものとともに暮らしていくようです。
ここでも、「行って帰ってくる」とき、母なるものはやはり変容しているように思えます。

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筆者が手作りの紙芝居にしてよく演じているだしものに、「三枚のお札」というよく知られている昔話があります。
これは、「食べられたやまんば」という題でも知られているように、
本来は呑み込み、食べる存在である母なるもの=やまんばを、逆に食べてしまうはなしです。

栗拾いに山へ出かけた小僧さんは、「いい母親」像と思われる親切な山のおばあさんに誘われ、
彼女の家を訪ねる。
そこに用意されているのは甘い“お菓子の家”ではなく、甘い“栗”です。

※類話によっては、小僧さんは、花摘みや楢の実拾い、
あるいはタケノコ採りをしているときにおばあさんと出くわすなど、
栗は出てこないこともあります。
また、おばあさんが、「自分はおまえの乳母だ」とか「親戚のおばだ」とか詐欺をはたらいて
小僧さんを誘う類話もあります(3)

ヘンゼルたちと同様、栗のご馳走を腹いっぱい食べた小僧さんを待っているのは、
正体をあらわした、やはり人喰い魔女のようなやまんば。
しかし、ヘンゼルたちと大きく違うのは、
小僧さんは、やまんばと対峙し葛藤し、対決することもなく、
何もやりとげないままに、ただ、ただ、ひたすら逃げるのです。
グレーテルに比べると、ちと情けなくもあります。

……いえ、しかし、何かに出くわしたら、
生き物はトウソウ(闘争)かトウソウ(逃走)かを選ばなければいけないわけで、
やまんばなどというとんでもないものにぶつかったら、尻をからげて逃げ出さなければなりません。
グレーテルたちだって、魔女につかまって閉じこめられさえしなければ、
やはり逃げ出していたことでしょう。

また、その逃げっぷりは、
「古事記」の昔から日本ではおなじみの伝統でもあります。
イザナギノミコトも、
黄泉の国で死の女王となった“母なるもの”イザナミノミコトのもとから逃げ出す。

彼は、「見てはいけない」というイザナミの禁止を破り、その姿を見てしまう。
蛆虫がうごめき、膿があふれ、雷神(イカヅチガミ)たちが生まれ出ようとする 腐った体。
それは死体の描写でもありますが、グレートマザー(母なるもの)の一面の姿であるでしょう。

そのグロテスクさは、ちょうど「食わず女房」の主人公の男が、
女房となった女をのぞく場面を思わせます。
女は、髪をざわわっとふりほどき、あらわにした頭の口へ、五升飯やら鯖やらを放り込み、
やまんばの正体を現す。
そうして 女のグロテスクを「知った」男は逃げ出します。
イザナギもまた逃げ出します。
いわゆる“呪的逃走”とか“魔法的逃走”といわれるものですね。

逃げるときに鬘(かずら)を投げると野葡萄がはえ、
イザナミの追っ手たち(ヨモツシコメ)がそれを食べているすきに遠く逃げる。
さらに櫛(くし)の歯を投げると竹の子がはえ、
追っ手たちがそれを食べているすきに遠くへ逃げる。
さらにさらに「日本書紀」の一書によれば、
イザナギが巨木に放尿すると、それがなんと大川になって追っ手を引き止めることになります。
オシッコの川なんて、ヨモツシコメでなくとも敬遠したいところですが。

「三枚のお札」の小僧さんもまた同じように逃げます。
お札を投げると砂の山(類話によっては火の山など)があらわれ、
追っ手のやまんばの行くてを阻み、そのすきに遠くへと逃げる。
次にお札を投げると大川(など)があらわれ、そのすきにまた遠くへ。

ロシアでも、やまんばのような存在であるババ・ヤガーに追われる主人公の娘が、
やはりタオルを投げます。
するとタオルが大川になる。
次にくしを投げると、おそろしいくらいに茂った森があらわれ、ババ・ヤガーの行くてを阻みます(8)

いずれのはなしも“呪的逃走”が、母なるものと結びつけられているのがおもしろいですね。
“呪的逃走”のモティーフ自体は、古今東西に伝わるもので
(アールネによれば、特にアジアに源流があるのではないかということです)、
特に母なるものと関連するものではないようなのですが。

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ところで実は、小泉保さんが「ヘンゼルとグレーテル」の中にも“呪的逃走”のモティーフを見ています。
魔女をパン焼きがまで殺害した後、逃げる兄妹二人が出くわす大きな川が、
“呪的逃走”を語っていた昔の名残りだというのです。

つまり、もともとの話では、ヘンゼルとグレーテルは魔女を殺さないままに森を逃げ、
むしろ魔女の追跡を受けていた。
そこで、イザナギが放尿して、あるいは小僧さんがお札を投げて、
あるいはロシアの娘がタオルを投げて大川を作りだし、それぞれ追っ手の追跡を阻んだように、
二人の兄妹は最後に大川を作りだす。
そうして最後には逃げ切るという物語だったというのです。

ところが、語り継がれるうちに、いつしか呪的逃走の部分が忘れ去られて、
魔女を阻むはずの大川が、兄妹を阻むことになってしまった。
そうして、本来ならば、兄妹が変身するはずだった鴨も、
兄妹を乗せて運ぶ役目になったりするという取り違えが生じたのだといいます(4)

この説の通りであるとするなら、ヘンゼルやグレーテルは“母親殺し”をせずに、
小僧さん同様、尻をからげて逃げたことになりますね。

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イザナギは、黄泉比良坂(よもつひらさか)という坂まで逃げ帰ります。
そうして、黄泉の国(あの世)とこの世との境に大岩をおいて分断することに成功し、
そのためにイザナミはこの世へやってくることができなくなります。

「日本書紀」では、イザナギは岩ではなく、杖(木の枝)を投げて分断します。
これは岐神(フナトノカミ)、
もしくは久名戸祖神(クナトノサエノカミ)と呼ばれる神さまとなり、
“境の神”として村々の境などに祀られる賽(さえ)の神、道祖神の起源とされています。

「三枚のお札」の類話でも、小僧さんがわが家であるお寺の中へ逃げ帰った後、
やまんばが侵入しようとするところを、
和尚さんがピシャリと戸ではさんでつぶすというのがあります。

「戸」というのは、あの世(山奥)とこの世(お寺)の境目。
ちょうど黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)のような場所ですね。
そうした境で、意識をはっきりと分ける。
「分ける」というのは、象徴的には、男性的な行為でもあります。
そうして毅然と分けることで、異界の住人であるやまんばの侵入を拒むわけです。

しかし別の類話では、小僧さんは、お寺へ逃げ帰ることはできるのですが、
やまんばは、こちらの世界の家の中にまで踏み込んできます。
そういえば、お寺は山の中に建っているのであって、
そこはもともとやまんばのテリトリーであるのでしょう。
そこでようやく和尚さんに助けてもらう。
だから“母親殺し”とは言えませんが、やまんばは退治されることになります。

(※小僧さんの逃げるはなしと、やまんば退治のはなしは、
もともと別々の二つをくっつけたという説もあるようです。
柳田國男も、もともとは逃げるだけのはなし(逃竄説話)だったのが、
近世に改作されたらしいと述べています(5)。)

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その退治のしかたは、化けくらべ。
和尚さんはやまんばを挑発し、最初は巨大な大入道に化けさせる。
しかし、大きなものに化けられたとしても、小さなものには化けられないだろう、
となおも挑発する。
するとやまんばは得意顔で豆粒(類話によっては納豆や芥子粒)に化け、和尚さんはごびっと、
あるいはぺろりとそれを呑んで(あるいはもちにはさんで)、食べてしまいます。

この戦略パターンは、他のはなしにもよく見られるのでしょうか、
くわしく当たってないのでわかりませんが、
ペロー「長靴をはいた猫」も同じ手口を使ってましたよね。
猫は人喰いに、ライオンなんかには化けられないだろうと挑発してライオンに化けさせる。
次に、ネズミには化けられまいといって、ネズミに化けさせたところをつかまえて、
やはりぺろりと食べてしまいます。
こうしたやり口は、「おれは何でも出来るぞ」と驕るモンスターの急所をつく
お決まりの方法であるのかもしれません。

筆者は、この場面になると、「易経」の中の一くだりを思い出してしまいます(「火澤睽(けい)」の項)。

何かがやってくる。
その対象が遠くにいて、正体がよくわからないとき。
それは、孤独で疑い深い目で見ると、泥だらけのきたならしいブタのようだ。
あるいは、ワンサと化けものが乗っかった一台の車のようでもある。
そこで討とうと弓を張って構えるが、近づいてみて、構えをといてながめてみると、
それはあだなす敵ではなく、
かえって道をともにする結婚の相手であることがわかる場合があるというんですね(6)

つまり、同じものでも見る側の気持ちによって、
あるいは距離感、理解のし方によって、
実はたのもしい味方である存在がブタに見えたり、
化けもの搭載の車に見えたりする。

同じ怪物でも、おそれおののくときには猛々しいライオンに見え、
気を落ち着けて、文字通り「呑んで」かかると、ちっぽけなネズミに見えることがある。
そんなふうにやまんばも、大入道に見えたり、豆粒に見えたりするのかもしれません。

ただ、豆粒だからといって、もちろん見くびってもいけない。
類話によっては、豆粒となって食べられたやまんばは、
和尚さんのばば(糞)から蝿となってよみがえり、
全国に飛んで散らばっていくことになっています。

※別の類話では、天井に隠れた小僧さんが井戸に映りこみ、
その姿を追ってやまんばが井戸に飛び込んで溺れ死ぬことになっています。
これは、グレーテルにだまされてパン焼きがまへ飛び込んだ、
あのお菓子の家の魔女の自滅にも似たところがあるように思えます。



「行って帰って」きた 小僧さんは、帰ってきたところで救われ、
そうしてまた、前と変わらぬお寺での暮らしに「帰り」ます。

しかし、小僧さんは、母なるものの恐ろしさをその身に刻んで「知った」。
知って体験したことで、無邪気なままの以前とは変わっているのでしょう。
別の類話では、それまで和尚さんの言うことをきかなかった小僧さんは改心して成長し、
立派なお坊さんになったことになっています。

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筆者は、このはなしを手作り紙芝居にして演じたとき、
実は、後味にもの足らなさを感じてしまいました。
最後にやまんばをやっつけるくだりには爽快感があると思うんですが、
それがいまいちで、子どもたちの反応もいまいちのように思えたのです。

昔話──特に日本のものに多いように思われるのですが、主人公は受け身一方。
逃げたり助けられたり翻弄されるだけで、ちっとも活躍しない。
(受け身ということは、これはこれで大きな意味があると思うんですが。)

この小僧さんも、和尚さんにオンブにダッコで、
最後の最後までずっと頼りっぱなしのように思えました。

それで、ラストの何場面かを描き直して、
和尚さんがやまんば退治するところを小僧さんにさせてみたのでした。
やまんばが大入道になったところで和尚さんが尻にひかれてつぶされる。
(類話には、やまんばが和尚さんを食べてしまうというものもあります。)
隠れていた小僧さんは見つかって、いよいよ食べられることになる。
ここで、泣き虫で弱虫で逃げてばかりいた小僧さんが、 勇気をふりしぼってやまんばに向かい、
「いくらお前でも豆には化けられないだろう」と挑発する。
そこで豆になったやまんばを、和尚さんのアドバイスで呑み込む。

昔話のつくりかえはいけないと思うんですが、
グレーテルのように立ち向かうところが欲しかったんです。
まあ、演じ手が演じ手なもんで、
子どもたちの反応のいまいちさはあまり変わらなかったりするんですが。

こう描きかえて演じてみると、スリル度、緊張度は増した気がします。
が、その分、不安定感も増しました。

和尚さんは、父性の象徴であり、
やまんばの正体を最初から見抜いている賢者であり、
お札という不思議な力を操る魔術師でもあり、
ちょっとトボけたトリックスターのところもあり、
やまんばが現われても少しもあわてることのない、絶対的に頼れる存在であります。
恐ろしく強大な母なるものや恐怖を前にしてもだいじょうぶという、どっしりかんとした安心感を、
この物語に与えている。

その彼が、やまんばの尻にひかれるのは、絶対感が崩れてしまう。
大きな不安をもたらすことになります。

聞き手である子どもたちは、主人公の小僧さんの視点で物語を体験します。
しかし、和尚さんの存在自体は子どもたちの心の中に生きているのであって、
その和尚さんがやまんば退治をすることは、主人公の小僧さんが手を下さないとしても、
やまんばを克服することには変わりないかもしれません。

また、この物語が必ずしも“母親殺し”となっていないことは、前にも述べた通りです。
もしもそれがテーマにあるなら、物語の中の小僧さんの行動も状況も違ってくるでしょう。
それを最後だけ小僧さんに中途半端に“母親殺し”をさせるのは、
木に竹を継ぐことかもしれません。

……と、まあ、いろいろ問題点はあると思うのですが、
子どもたちの反応や演じるときの気持ちとしては、
やはり小僧さんには立ち向かってほしい気がして、
今のところはとりあえず、書きかえたままで演じています。
また、これから書きかえるかもしれませんが。

しかし、「行って帰ってくる」ことで、小僧さんは変容する。
小僧さんをやまんばに立ち向かわせることで、その変容の度を強調したいとも思うのです。

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ところで、ヘンゼルとグレーテルの家は、大きな森の手前にありました。
森は、子どもだけで入ったら、
迷い込んで出てくることのできないおそろしいところとされています。
二人は、その大きな森に行って、帰ってきます。

小僧さんと和尚さんが住んでいる寺は山(あるいは山のふもと)にあって、
小僧さんはその山の奥に行って、帰ってきます。
日本の山は、昔から、死者の魂が行くところとされている場所でもありました。

魔女ややまんばの棲む森や山は、
精神分析の考えからすれば迷路のような無意識の象徴ということになるでしょうか、
主人公たちは、そうしたこの世ではない世界──“異界”へ「行って帰って」くるのです。

そんな異界へ「行って帰ってくる」物語について、次にちょっと考えてみたいと思います。

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《引用・参考文献》
(1)河合隼雄「昔話と日本人の心」岩波書店
(2)「山姥ババ・ヤガー」〜山室静編著「新編世界むかし話集〜ソ連・西スラブ編〜」社会思想社・教養文庫・所収)
(3)関敬吾「日本昔話集成・第二部本格昔話」角川書店
(4)小泉保「カレワラ神話と日本神話」日本放送出版協会
(5)柳田國男「口承文芸史考」〜「柳田國男全集8」ちくま文庫・所収
(6)高田真治、後藤基巳訳「易経」岩波文庫

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by kamishibaiya | 2010-12-19 15:17 | 紙芝居/脚本を書く | Comments(0)