「行って帰ってくる」物語・07

f0223055_7362093.gifちさと少年は、行って帰ってくる


かくれんぼで。

とびきり上等な隠れ場所を見つけて、身をひそめ、ほくそ笑えむ。
最初はワクワク、ドキドキ待っているけれど、
ふと、鬼がやって来るのがなんだか遅いような気がする。
ふと、近くで息をひそめて隠れているはずのみんながいなくなってしまったような気がする。

耳をすましても誰の声もしない。
空がちょっと暗くなってきたような。
まわりのやぶの木立がざわざわするような。
みんなかくれんぼをやめて、自分だけを置いて帰ってしまったのではないだろうか。
いや、そんなことない。
と思いなおして息をひそめていると、いよいよ、あたりがしんと静まりかえってくる。

このまま見つからないのではないか。
自分だけこの世界にひとりぼっちになっちゃったのではないか。

……なーんてことを、子どもの頃に感じた経験って、ないでしょうか。

そうして不安にかられて、おずおずと首を出し、あたりを見回したとたん、
「○○ちゃん、みーっけ」などと鬼に見つかったりするんですよね。
みんなと遊んでいるのだけれど、孤独を意識したりする。
“かくれんぼ”という遊びは、どこか不思議なところがあります。

だからでしょうか、昔は、日が暮れ、暗くなってくる頃にかくれんぼをすると、
隠し神さんに隠される。
隠し婆さんに連れていかれるといって、夜のかくれんぼを禁じる家が多かったんだそうです。

たしかに、夕暮れる中でひとり息をひそめるときの感覚は、昼間のときとまた違います。
世界は一変し、そのほの暗く、
だんだん闇におおわれる世界に自分だけが取り残されたような気持ちになってくる。
もっとも、夕過ぎに外をほっつき歩いて遊ぶこと自体禁じられていたのかもしれませんが、
特ににかくれんぼという遊びは不安な要素をもっていたのでしょう。

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柳田國男は、そんなかくれんぼの「不安心」さに触れています(1)
麦畑の麦の背が高く伸びて、そこで遊ぶ小さな子どもたちの姿が見えにくくなる──
そんな“高麦”の季節にかくれんぼをすると、狸に化かされると、
豊後地方(現・大分県のあたり)で伝えられていたそうです。

昔は、中世の頃から、人身売買を目的とするような
“子取り”といわれる人さらいがあったといいます(2)
そうした犯罪への怖れから、
高麦の頃のかくれんぼや夜のかくれんぼが禁じられていたという事情があったのかもしれません。

また、これらの事件を恐怖する人々の気持ちが、
子どもをさらう妖怪の存在を生んだのかもしれません。
「子取り」という犯罪を意味する言葉そのまんまの、「子とり」という名前の妖怪。
妖怪「子とり」は、人の家をのぞいては子どもを物色して連れ去るのだといいます。

そのため、「子留守」と書かれたお札を貼って、
この家には子どもなんていませんよとだまそうとしたり、
無双の英雄・源為朝にあやかって「鎮西八郎為朝御宿」といったお札を貼って、
「子とり」に対する魔除けにしたのだとか(3)

イギリスでは、妖精が子どもを盗む習癖のあることが伝えられています。
盗んでおいて、その代わりに丸太ん棒や、いつまでも成長しない妖精の子ども、
あるいは年老いた妖精を置いていく(4)
つまり、「取り換え子(Changelings)」されるわけですが、
子どもを取られることには変わりませんね。

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かくれんぼの「不安心」は、“神隠し”にも通じるものがあります。
“神隠し”といっても、ホントに神さまに隠される。──隠し神さんや隠し婆さんが
実在して暗躍していたとは考えにくい。

その実態は、誘拐や迷子や家出だったりという失踪事件であったのかもしれません。
しかし、周囲の人々が“神隠し”と呼ぶことでミステリアスなヴェールでおおわれる。

神隠しから戻ってきた子があると、中には、
「神(あるいは、天狗、仙人、鬼など)に連れ去られた」
「幽界(あるいは地獄、霊界、深い山の中など)に行ってきた」
などと証言する例もあり、その虚実はおくとしても、
不可思議なこととして社会に受け止めれられていたようです。

神隠しは、異界に連れて行かれることと思われていた(5)

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北米インディアンのズニ族では、山が、死者のすみかと考えられていたそうです。
その山の湖には、カチーナ(カチナ)という精霊が住んでいる。
そのカチーナが、祭りのときにこちらの世界へやって来る。
そこで人々は儀式をとり行い、カチナ・ダンスに興じます。

日本で、死者が帰ってくるお盆のときに“盆踊り”を踊るのに似ているでしょうか。
この儀式が、世界に雨や穀物など自然の恵みをもたらし、健康や平安を運んでくるのだといいます。

そして踊りが終わると、精霊カチーナは山の湖へと帰っていく。
このとき、カチーナに魅惑された人々があとをついていき、
湖のある山へ行って、行方不明になることがあるのだそうです。

これも、“神隠し”のひとつと言えるかもしれません。

精霊や神々や鬼などにつかまって、異界へさらわれる。
魅入られて、異界へついて行ってしまう。
こうした構造に、多田道太郎さんは、
子どもたちの「かくれんぼ」や「鬼ごっこ」、「子とり」遊びの原型をみています(3)

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特に子どもは、魅惑されやすい。
たしかに子どもは、まるで神さまに魅入られたように迷子になってしまうことがありますよね。

柳田國男は、ふらりと我知らず遠くまで歩いていってしまうような、
子ども特有の無意識的な衝動をそこに見て、
自身が「神隠しに遇いやすき気質」の子どもであったと告白しています(1)
全体に子どもたちは、そうした気質を多かれ少なかれ持っているものではないでしょうか。

なんとはなしに知らない町へ行ってしまい、
帰り道がわからなくなったといった子どもの頃の記憶が筆者にもあります。
(知らない町といっても、今考えてみると、目と鼻の先の近所だったりするのですが。)

子どもたちは、どこかしら存在が不安定で、いつのまにか“どこか”へ行ってしまいやすい。
その“どこか”は、もちろん「幽界や地獄や霊界や深い山の中」ではないにしても、
現実の世界とは、どこかしら違うような場所。

子どもたちは、その「この世界ではないどこか」
──異界という場所に近しい存在であるのかもしれません。

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ところで、たわいのない遊びなのですが(遊びといっていいかどうかもわかりませんが)、
子どもの頃、たとえば商店街の道路などにはめこまれたタイルの
色が違うところだけを踏んで歩いたことはないでしょうか。
その色以外のタイルを踏んだら、落ちて死んでしまうとまで思ったりする。

何かルールを決めることによって、現実の世界が異質な世界に一変するのです。
石けりやSけんや、サッカー、野球など、ルールのある遊びや競技もそうですよね。
ルールを決めたそれが始まったとき、ただの路地や空き地や原っぱや校庭にすぎない場所が
別の世界の空間となる。
石けりの線を描いた路地が世界のすべてになり、
野球ベースの置かれたエリアが世界のすべてになります。
子どもたちは、「やーめた」と言わない限り、その世界の住人となります。

またたとえば、公園が一面の海だと想像したりして遊んだ経験はないでしょうか。
滑り台やうんていなど、遊具の高い場所が島になる。
「島につかまっていないと海で溺れてしまうんだよ」などと誰かが言いだす。
すると、みんな、そんな気になって、低い地面を歩くときは、泳ぐ真似をしたりして遊ぶ。

何か“ふり”をすることによって、世界を一変させる。
ごっこ遊びに典型的ですね。
ごっこ遊びが始まると、園庭のすみっこが宇宙になったり、島や要塞になったり、
草むらがままごとの舞台となる邸宅になったりする。

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アーサー・ランサム「ツバメ号とアマゾン号」(6)は、作品全体がごっこ遊びの魅力にあふれています。
夏休み。
子どもたち兄妹4人が、小さな、けれど本格的な帆船「ツバメ号」に乗り込んで、
湖の湖畔に子どもたちだけでキャンプをします。
4人はそれぞれ“船長”“航海士”“AB船員”“ボーイ”となって、互いにそう呼び合い、
ほんとうに船長や乗組員となる。

すると、湖は海に、キャンプ場は無人島に変わる。
近所の場所を、「ダリエン岬」とか「リオ湾」とか「ウの島」などと勝手に名付け、
遠くで見守るお母さんやご近所さんは、みんな原住民となります。
ふつうのキャンプ場が、冒険の舞台に変わる。

筆者が小学生のとき、友だちと近所の小さな山へ出かけたことがありました。
まあ、子どもだけで行く、いわゆるハイキングなのですが、
当時の筆者たちにとっては、ちょっとした探検。
途中通った場所を、「ララミー草原」とか
(再放送でやっていた西部劇『ララミー牧場』というTV番組のイメージの記憶があったのです)、
「カラス峡谷」とか、「オニギリ広場」とか、勝手に名付けて遊んだものでした。

そして山頂からの帰り、道に迷って、人の姿も気配も何もない所をさまよったとき。
当時SF小説に凝っていた友だちのひとりが
「タイム・スリップか何かで異次元に入り込んじゃったんじゃねえの?」
などと言い出すものだから、
「そんなバカな」
などと言いながらも、みんなでドキドキ。
結局、原始人にも、武士にも逢うことはありませんでした。
途中、現代文明の所産である空き缶のゴミを見つけて、
ああ、タイム・スリップはしてないんだと、ホッと胸をなで下ろしたことを覚えています。

そんなふうに子どもたちは、日常に生活している場所を、
いとも簡単に「ここではない世界」に変えてしまったりすることが出来るのではないでしょうか。
異界は、子どもたちのごく身近なところにあるのかもしれません。

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飯島吉晴さんは、子どもたちの遊びの中に異界を見ています(7)(8)
「かごめかごめ」 や 「鬼ごっこ」、「子とり」遊びなどに夢中になる中で、
日常に生活している世界とは別の非日常的な時間と空間
──この世界とは違う異界を子どもたちは体験しているというんですね。

「鬼ごっこ」のヴァリエーションでもある 「かくれんぼ」の“鬼”もまた、
異界からやってきた存在。
その鬼に見つかることは、異界へ連れ去られる恐怖でもあるわけです。

しかし、別な見方をしてみると、鬼から隠れ、
仲間からひとり離れて身をひそめたときの孤独な世界。
──これもひとつの異界であるのかもしれません。
すると、鬼に見つかることは、社会から切り離され、ひとり異界にいた者が
再び社会へと戻ってくる、その安心感を取り戻すことでもあるわけです。

鬼に見つからないようにと思う。
でも、見つけてほしいとも思う。
そんな矛盾した両方の気持ちを抱えながら、子どもたちは隠れるのでしょう。

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そんなかくれんぼの複雑な心理について、高田宏さんは
泉鏡花の「龍潭譚(りゅうたんだん)」(9)をたどりながら語っています(10)

この泉鏡花の物語の主人公ちさとは、母を亡くし、年長の姉にかわいがられている少年。
彼は、その母親代わりの姉から
「一人にては行くことなかれ」
と言い聞かされていたにも関わらず、姉のもとから離れたくなり、
その目を盗んで外へ遊びに出ます。

そうして怖いくらいに美しい深紅のツツジの咲く中、虫を殺して遊んだりする。
やがて心細くなって泣きながら走って帰ろうとする。
彼はおそらく「神隠しに遇いやすき気質」で感受性が豊かなのかもしれませんが、
まあ、泣いちゃうくらいに、年齢が幼いということでもあります。
「ぼくにげちゃうよ」といって“母なるもの”(現実には姉)のもとから飛び出すけれど、
不安になってつかまえに来てもらいたいと願うわけです。

が、そこで近所の子の「かくれあそび」の声を聞きつけ、
遊びに誘われるままに、かくれんぼをします。
そして鬼となってひとり心細くなる。

近所の子は、自分を置いて帰ってしまったのではないか。
すでに陽は落ち、ほの暗い夕方。
「あふ魔が時(逢う魔が時)といわれる時間帯。
そんな時刻に、色白の美しい女性が出現します。
「こちらへおいで」と手招きをする。
が、女性の姿は消える。
その稲荷の社(やしろ)の裏へ、今度は少年が隠れる側となります。

そのうちに、行方不明となった少年を捜して家人がやって来る。
やがて姉もやって来る。
しかし、少年はその姿を「恐ろしきもの」が化けたのではないかと疑い、やり過ごす。
自分の目がおかしくなったのではないか。そう思い、目を清めようと御手洗(みたらし)の石鉢の水をのぞく。

ところが、驚くべきことに、自分の顔が自分の顔ではない。
と、そこへ、彼を見つけた姉が「やっと見つけた」とばかりに肩をつかんで振り向かせる。
姉は、弟とは似ても似つかぬその顔に「あれ!」と悲鳴をあげて駆け去ります。

これは後に、殺した虫の毒で顔がはれていたため、見間違えられたのだと説明されます。
(毒虫は「班猫(ハンミョウ)」と書かれていますが、ハンミョウには毒はなく、
マメハンミョウか、あるいは羽蟻のかたちだとすると、アオバアリガタハネカクシかもしれません。
あるいは、虫の毒さえ、幻であったのか。)

隠れた自分を探しに来てくれた姉を「恐ろしきもの」と感じる。
ここには、“母なるもの”の二面性を感じる心理もあるでしょう。
つかまえに来るやさしい「母うさぎ」も、やまんばに見える。

そして妖精の「取り換え子」にあったように自分が別人となって、母代わりの姉から切り離される。
ここには、自分のアイデンティティを疑う気持ち、
「継子妄想」に通じるような不安定さがあるように思います。

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ちさと少年は、意識を失います。
そして気づくと、山中の一軒家。

そこにはかくれんぼで出逢った女性がいて、少年は添い寝をされ、一夜を過ごすことになります。
その女性は亡き母親なのか。
守り刀を胸に抱いて葬られた亡き母と同じように、
彼女は少年を守るためといって、守り刀を手にして添い寝するのです。

つかまえに来てほしくない。
しかし、やはりつかまえに来てほしいと願った姉。
けれど姉は来ずに、“母なるもの”は、
黄泉の国の女王となったイザナミ、あるいは冥府の国の后となったペルセポネーのように、
死の世界の住人として彼をつかまえに来たわけです。
添い寝をするやり口は、やまんば的でもあります。

もしかしたら彼女は、少年の亡き母だったかもしれない。
いえ、もしかしたら、そうではなかったかもしれない。
けれど、わたしたちは誰でも彼女のような“母なるもの”を心の中に持っているのであって、
それが亡き母をしのばせる存在として出現したのかもしれません。

やまんばに呑み込まれたような、“母なるもの”の無意識に取り込まれたようなその一夜は、
いわば死の世界の出来事。
しかしその“死”は、甘美に描かれます。
添い寝する女性の胸に顔をうづめ、乳房を吸う。
それは、母を喪った少年にとっては面影をしのぶことでもありますが、
母親の胎内に帰ってその羊水に包まれるように、母親との一体感に浸ることでもあります。
そしてその乳を吸うように、お菓子の家のその甘さを貪り続けるとしたら、
それはつまり、ほんとうの“死”を意味するでしょう。

しかしながらこの物語では、女性は、やまんばであり人喰い魔女であり夜叉である、
そのもうひとつの顔を明かすことなく、ただその恐ろしさを匂わせるにとどめます。
一夜だけ少年をとどめて後は、少年を現実世界へ帰し、家へ送り届ける。

ところが、無事に「行って帰って」きた彼は、夢うつつのまま“狐つき”状態となり、
社会に適応することが難しくなります。
そしてもう一度、あの山の中へ隠れたいと願う気持ちが起こってくる。

母親代わりの姉(現実世界の母親)から隠れたい。
でも、一方で見つけられたいと願う。
母親かもしれない女性のいる異界へもう一度行きたい。
でも、一方で帰ってきたいと願う。
ここでは、生と死、現実と異界を行き来しながら、
かくれんぼの矛盾する心理が二重三重に入り組んで描かれていると、高田宏さんはいいます(10)

こうしたかくれんぼの矛盾する気持ちは、
母なるもののもとから「行って帰ってくる」冒険の構造と似たものがあるのだと思います。

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泉鏡花の物語では、かくれんぼ遊びが、
一夜のかくれんぼ──死者の国かもしれない山で一夜を過ごすという体験につながったわけですが、
藤田省三さんは、「かくれんぼ」の遊び自体の中に、“死”と“再生”を見ています(11)

隠れる側が、このままずっと見つからず、一人だけ取り残されるのではないかと感じる。
また、鬼になった子が目をつぶって、50とか100などの数を数え、目をあけたとき。
その瞬間、誰の姿も見当たらない。
自分だけが取り残されたと感じる。
そうした空白は、一時的に現実社会から切り離された比喩的な“死”であるというんですね。

そして、鬼に見つかったり、
または鬼が仲間の姿を見つけ出すことは、“再生”である。

子どもたちが何気なく夢中になって遊ぶ「かくれんぼ」遊びは、
実はそうした深刻な死と再生の「劇的過程をぼんやりと経験する」場でもあるというわけです。

藤田省三さんは、社会から離れて孤独を体験するその過程は、昔話が飽きることなく語るテーマ
──「孤独な森の旅」「迷い子」「追放された彷徨」といった試練や冒険と同じものであるといいます。

昔話の多くの主人公が、社会から切り離され、母なるものから旅立ち、さすらうという冒険
──その“死”を体験する試練は、生まれ変わっておとなに成長する、“再生”するための物語。
これは、かくれんぼ遊びの中の原初的な死と再生の体験に通じるものであり、
藤田省三さんは、ここに、古来からの成年式
──社会の中で一人前の成人となるための通過儀礼を見ています。

そういえば、多田道太郎さんもまた、
「鬼ごっこ」や「かくれんぼ」遊びの起源には、
通過儀礼があったのではないかと推論していました(3)

子どもの頃、かくれんぼで感じた、あのさびしいようなせつないような感じ。
──あれは、ほんとに「ぼんやりと」感じたことですが、一種の人生経験だったんですね。
子どもたちは遊びの中で、我とは知らず、
そんな体験をぼんやりとくりかえしているのだと思います。
それは、異界体験でもあるのでしょう。

時に、そこは、孤独な体験をする場所だったりする。
子どもたちは、そこへ行って帰ってくる。
行ったり来たりをするのでしょう。

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《引用・参考文献》
(1)柳田國男「山の人生」〜「柳田國男全集4」ちくま文庫・所収
(2)斉藤研一「子どもの中世史」吉川弘文館
(3)多田道太郎「遊びと日本人」筑摩書房/角川文庫
(4)キャサリン・ブリッグズ、井村君江訳「妖精Who's Who」筑摩書房/ちくま文庫
(5)小松和彦「神隠し──異界からのいざない」弘文堂
(※同書は、小松和彦「神隠しと日本人」角川ソフィア文庫として文庫化されています。)
(6)アーサー・ランサム、神宮輝夫・岩田欣三訳「ツバメ号とアマゾン号」岩波書店
(7)飯島吉晴「子供の発見と児童遊戯の世界」〜「日本民俗文化大系・10『家と女性』」小学館・所収
(8)飯島吉晴「子供の民俗学」新曜社
(9)泉鏡花「龍潭譚」〜川村二郎編「鏡花短編集」岩波文庫/「泉鏡花集成3」ちくま文庫・所収
(10)高田宏「子供誌」新潮社/平凡社ライブラリー
(11)藤田省三「精神史的考察」平凡社ライブラリー
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by kamishibaiya | 2010-12-20 08:32 | 紙芝居/脚本を書く | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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