「行って帰ってくる」物語・08

f0223055_14324628.gifあの世へ、行って帰ってくる


「お前はうちの子ではない。橋の下から拾って来た子だ」

幼児の頃、母親からそう言われた体験のことを、
作家の佐伯一麦さんが書かれていました(朝日新聞・2003年11月30日付)。
悪さをすると、そんなふうによく叱られたのだそうです。

筆者は、こうした言葉で叱られたことはありませんが、
冗談に言われたような記憶がうっすらぼんやりとあるような気がします。
これは、私たちの心の底に意外と根強く残っている言葉であるのでしょう。

精神科医の武内徹さんが、この言葉について行ったアンケート調査を、
タイトル名もズバリ、
「お前はうちの子ではない橋の下から拾って来た子だ」(1)という本にまとめています。
富山県での調査によると、男性約3割、女性約5割がこんなことばを言われた体験をしているそうで、
日本全国の調査でも同様の結果なのだとか。

飯島吉晴「子供の民俗学」(2)では、各地のそんなことばの例が集められています。

「泣いてみろ、泣くならわしが子でないぞ、お前は五島(長崎県五島列島)から塩俵にのって、
ここの浜辺に流れついたのを、拾ってやったのだぞ」
[鹿児島県甑島・瀬々野浦](3)
「お前は広島の橋の下から大きな鍋にのって流れてきたんだぞ」[山口県大島郡周防大島](3)
「川を流れてきた納豆の苞(つと)に入っていたのを拾われた」[山形県西置賜郡飯豊町](4)
「お前は川を流れてきた瓢箪から拾われて育った」[新潟県南蒲原郡下田村](4)


子どもたちは、こうして脅されることで、おとなしく言うことをきくようになったのでしょうか?
しかし、小さな子ならともかく、いたずら盛りともなれば、
少々の脅し文句ではカエルの面にションベンだったような気もします。

また、脅す側のおとなの方でも、むろん、もしもほんとうに拾い子であれば
言えるものではありません。
むしろ、この言葉の背後に、堅固な親と子のきずなを感じる気がします。
安定したつながりがあるからこそ、言えるのかもしれない。
そしてそれが“慣用句”とはいえないまでも、ちょっと定型的な言葉となって残ったりしている。

これが虐待のケースだったり、親子関係が不安定な場合には、
どんなに軽口のつもりであっても、破壊的な言葉となるのではないでしょうか。

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昔から、しつけのために脅し文句ということが使われてきました。
たとえば、アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」のエンディングで、吉幾三さんが歌っていた歌の一節。

「お化けの世界はナ あるさ、おまえの家のそば
言うこときかない悪い子は 夜中迎えに来るんだヨ」

「おばけがイクゾー」作詞:吉幾三)

こうした脅し文句は定番だったかもしれません。
前回触れた妖怪「子取り」も、
「言うことをきかないと、子取りがさらいに来るよ」
などという使い方をされたようです。

妖精ブッカ・ブーも、イギリスのお母さんたちから、
「わめくのはやめて静かになさい。でないと、ブッカ・ブーに連れていかれますよ」
という言われ方をされているのだそうです(5)

同じように、
「いい子にしないと、施設に入れてしまうよ」
「おまわりさんに怒られるよ」
などという言い方がある。

映画監督ヒッチコックが、4〜5歳の頃のこと。
彼の父親は、警察署長と知り合いでした。
あるとき、父親は、その警察署長宛てに書いた手紙をヒッチコックに持たせて、
警察署へおつかいに行かせたのだそうです。
それを読んだ署長は、彼を5〜10分ほど、留置場へ閉じ込める。
「悪いことをしたら、こうなるぞ」という、厳格な父親のしつけのひとつでした。

しかし、これがトラウマとなり、後年、彼が“恐怖”をテーマにした映画を作り続けたのも、
このときの恐怖体験があるのではないかという説があります。

からかい半分であったとしても、こうしたしつけの脅しは、
おとなが考える以上の影響を及ぼすことを、ボウルビィが論じています(6)
とくに「子どもを捨てる」「親が家出する」というような離別の脅しは、
不安を増大させるはたらきが大きい。

「お前はうちの子ではない。橋の下から拾って来た子だ」
というのも、脅しの延長にある言葉で、これは親子のきずな自体を否定しています。
影響力はかなり大きいと言えるでしょう。
たとえ、安定した親子関係は揺るがないと思っていたとしても、
わたしたちおとなは、この言葉の扱いに気をつける必要があると思います。

そして、この言葉は、“継子幻想”と同じく、
「自分は何者だろう?」というアイデンティティの問題にも関わるものですね。
そうした問題の次元へ子どもを導くものでもあるかもしれません。
感じやすい子どもならなおさら。

佐伯一麦さんは、母親からそう言って叱られると、
「親なんかいらない」と強がりをいって外へ飛び出すものの、
泣きながら橋の下で小石を投げたりしたそうです。

しかしもしかしたら、そのときに味わった孤独というのは、
親のもとから分離し、自立の旅への一歩を踏みだそうとする準備をするものだった。
それは、たとえ「冗談に決まってるじゃん」と受け流すような、
カエルの面にションベンの子どもの心の奥底にも、ぼんやりと築かれるものではないでしょうか。

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ところで佐伯一麦さんや武内徹さんは、 この言葉は、
“拾い親”の風習がかたちを変えて残ったのではないかという説に触れています。

“拾い親 ”というのは、“もらい親”ともいわれる風習で、
たとえば新潟県岩船郡粟島では、子どもが病弱だったり、誰かが死んだ日に子どもが生まれたとき、
道端にいったん子どもを捨てる。
そしてすぐに、それをまた拾ってくる。

またたとえば、埼玉県地方では、男親が42歳の厄年のときに生まれた子は、道端に捨てて、
隣りの人に拾ってもらう。
そんな風習が各地にあったのだそうです(7)

今では、そうした風習も一般的にはあまり行われていないようですが、
明治8年生まれの柳田國男は子どもの頃、
故郷の播磨(兵庫県)でこうした子捨ての儀式を目撃したことを記しています(8)

簡単な例では、子どもを柳行李などに入れて、
3分間ほど外へ置いておくだけということもあったようです。

捨てる場所は、たいてい近所。
拾ってもらう家の屋敷やその周辺。
また、道端でも四つ辻(十字路)や三つ辻(T字路)、神社の境内、箕の中などなど。
そして橋の上に捨てたり、たらいに入れていったん川に流したりする地方もありました。

これは、乳幼児の死亡率が非常に高かった時代、
育ちの悪いおそれがある子を、いったん捨てることによって生まれ変わらせ、
じょうぶに育つように祈る意味があるのだといいます。

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こうした風習は日本に限らず古代社会によく見られるものだそうで、
古代の中国でも行われていたという説があります。
生まれた子を、いったん捨てたり、川に流したりして、それを拾って育てる。

こうした儀式的な慣習は、漢字の成り立ちにも見ることができるのだそうです(9)

廃棄する、棄てる(捨てる)ことを意味する「棄」。
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この漢字は、「子」を逆さまにして(=𠫓)、
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下のチリトリ状の容れ物(わらなどを編んで作った「ふご」だという説もあります)に
入れるところをかたどって出来たものなのだそうです。
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チリトリの中に捨てるというのは、箕の中に捨てる日本の風習を連想させますね。
白川静さんも同様の説をとり、一度捨てられ「棄」と名付けられた周王朝の始祖・后稷(こうしょく)の伝説を紹介しています(10)


また、「流」という漢字。
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これも、川の水(=氵)に、子どもを流すところが描かれています。
逆さまにした「子」(=𠫓)の下の三本線は、頭の髪の毛が伸びたところをかたどったもの。
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これは、上下逆さまの子どもの頭から髪の毛がだらんとぶら下がっているようにも見えて、
羊水から胎児が流れ出て生まれるところをかたどったものという説があります。
が、川へ棄てられ流された子どもの髪が、水の流れにそよいでいるようにも見えます。
洪水で氾濫した川に子どもの死体が流されている様(さま)をかたどった
という説もあるそうなのですが、
いったん川に子どもを流し、再び拾うという当時の慣習をあらわしたものだという説も
説得力があるように思われます。

子棄て(子捨て)、子流しの風習が、
実はわたしたちに身近な漢字として残っていたりするんですね。

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川に流すというこの風習はまた、飢饉やいろいろな事情で生まれたばかりの子を殺す、
日本の“間引き”にも見られたものでした。
儀礼的に捨てるのではなく、これはホントに捨ててしまうものです。
殺した子の死体を、水葬にしたりする。
むしろや菰(こも)に包んで川や海に捨てることもあった。

16世紀の日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスは、
大阪・堺のお濠端を歩いていると、そうやって投げ捨てられた子どもを頻繁に見かける、
と、その著「日本史」に記録しています(11)

そう言えば、「古事記」でも、
イザナミが産んだ水子を思わせるような水蛭子(ヒルコ)を
葦の船にのせて流す場面がありましたね。

間引くことは殺人に違いないのですが、
しかし昔は、「オカエシする」「モドス」という言葉が使われていたように、
あの世(異界)からこの世にやってきた──
つまり生まれてきた子どもを、再び異界へ返すという意識があったのではないかと、
飯島吉晴さんは述べています(2)

そうしてまたこの世に生まれ変わってくることを祈る。
橋の下や川というのは、そうした異界と関係の深い場所なんですね。

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桃太郎や瓜子姫といった昔話の主人公は、川を流れてきた桃や瓜から生まれ出ます。
花咲か爺さんの類話では、「ここ掘れワンワン」と知らせるポチ(白犬)もまた、
川を流れてやってくる木の根っこから生まれ出る。
舌切り雀の類話では、雀も鳥かごに入れられて川を流れてやってくる。

新潟・下田村では、
「お前はうちの子ではない、瓢箪から拾われたんだ」
という言葉があったそうですが、
朝鮮では、文字通り「瓢(ひさご)=ひょうたん」に乗って海から流れ着いた子どもが、
伝説の主人公となり、新羅の朴氏のルーツとされているそうです(12)

昔話のヒーロー、ヒロインたちは、いわば親から捨てられて川に流された子ども
ということもできるでしょうか。
親の庇護から切り離され、母なるものから離れて天涯孤独となったその身を、
桃や瓜や瓢箪や木の根っこに乗せられ、あるいは押し込められ、
川をドンブラコと流れきて、かくて物語の始まり始まり、ということになるわけです。

柳田國男は、こうした川との関わりに水神信仰との脈絡も見ています。
山城・賀茂や出雲・加賀神崎などの伝説では、川上から弓箭(や)が流れてきて、
それに感じ入った少女が身籠ります。
水の清い川上には、そんな霊力をもった男神がおわします異界があると考えられていたようです。

また、浦島太郎の類話や、ハナタレ小僧さまなどのはなしでは、
竜宮は海の底ばかりではなく、川の底にもあります。
そうしてその異界からの使いの美女は、川淵や橋のたもとに現われる。

川は不思議なアチラの世界と通じている。
だから、不思議な力を発揮するような桃太郎や白犬たち、もともとアチラの世界の住人たちは、
川を流れてコチラの世界へやってくるのでしょう。
川のほとりや橋の下は、異界へと通じる通り道でした。
子捨て(拾い親)の儀式では、子どもたちをそんな場所へいったん捨てて、また拾うわけです。

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「お前はうちの子ではない。橋の下から拾って来た子だ」というのが、
この拾い親の風習の名残りであるのかどうか、筆者にはわかりません。
が、そのはたらきには似たところがあるかもしれないと思います。

捨てられた子どもは異界へ「行って」、そして拾われ「帰ってくる」とき、生まれ変わる。
「お前はうちの子ではない」と親から叱られるとき、子どもは、親との一体感から切り離され、
異界のような地点へ導かれるのではないでしょうか。

佐伯一麦さんが、涙をこらえつつひとりで小石を投げ続けた川のほとりの地点。
それは、あのウィトゲンシュタインが叱られらたときに、母親は継母なのではないかと疑い、
「あなたはほんとうにお母さんなの?」と問い返した場面に通じる地点でもあるでしょう。

つまり、ヘンゼルとグレーテルたちが、両親から捨てられて迷いこんだ地点である森。
小僧さんが、やまんばの正体に気づいた地点である山奥。

子どもたちは、そんな場所へ「行って帰ってくる」ことになります。

佐伯一麦さんは、先の文章の中で、
「お前はうちの子ではない…」といった言葉で叱られたときの孤独の体験が、
浜田広介の童話の世界と出会うきっかけとなったと続けています。
「泣いた赤鬼」「りゅうの目のなみだ」といった作品に描かれた「孤独のきびしさ、孤独にたえるかなしみ」が、
子どもだった佐伯さんを惹きつけたのだそうです。

そう。
ファンタジーというのもまた、ひとつの異界です。

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《引用・参考文献》
(1)武内徹「お前はうちの子ではない橋の下から拾って来た子だ」星和書店
(2)飯島吉晴「子供の民俗学」新曜社
(3)桜田勝徳「海の宗教」淡交社
(4)北見俊夫「川と文化」日本書籍
(5)キャサリン・ブリッグズ、井村君江訳「妖精Who's Who」筑摩書房/ちくま文庫
(6)ジョン・ボウルビィ、黒田実郎・岡田洋子・吉田恒子訳「母子関係の理論」岩崎学術出版社
(7)大藤ゆき「児やらい」民俗民芸双書・岩崎美術社
(8)柳田國男「神を助けた話」〜「柳田國男全集7」ちくま文庫・所収
(9)阿辻哲次「漢字の字源」講談社現代新書
(10)白川静「常用字解」平凡社
(11)ルイス・フロイス、松田毅一・川崎桃太訳「完訳フロイス日本史」中公文庫
(12)柳田國男「桃太郎の誕生」〜「柳田國男全集10」ちくま文庫
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by kamishibaiya | 2010-12-25 14:44 | 紙芝居/脚本を書く | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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