「行って帰ってくる」物語・09

f0223055_7511210.gifマックスは、行って帰ってくる



絵本のモーリス・センダック「かいじゅうたちのいるところ」(1)には、
異界としてのファンタジーの典型的な構造がわかりやすく、
また、いきいきと描かれていると思います。

この物語の主人公マックスもまた、母親から叱られます。
というのも、
「あるばん、マックスは おおかみの ぬいぐるみを きると、いたずらを はじめて おおあばれ…」
したからです。

そうして、絵には、その「おおあばれ」が繰り広げられています。
ハンカチを結んだロープを部屋に張り渡そうと、
トンカチを振りかざして壁に大きな釘を、ドンドンドン。
かと思うと、フォークを振りかざして小犬を追いかけ回し、ドッタン、バッタン……。
これから夕げを迎えようとする静かな夜にこの騒ぎでは、
なるほど、お母さんが怒るのも無理はない。

彼は、「お前はうちの子ではない。橋の下から拾って来た子だ」とは言われませんでした。
が、
「この かいじゅう!」
と怒鳴られます。
英語の原文では、「WILD THING!」

「wild thing」は、直訳すると「野生のもの」。
この言葉には、
「手に負えないやつ」とか「荒くれ者」「暴れん坊」という意味もあるんだそうです。

映画「メジャーリーグ」で、リッキー投手(チャーリー・シーン)が登場すると、彼のテーマ曲が流れ、
立ち上がった観客が「Wild thing!!」と歌い叫ぶのも、
あれは「いよっ! 暴れん坊!」と声援を送っていたんですね。
コントロール不能のワイルド・ピッチで知られた彼についたあだ名が「Wild thing」でした。

ネットの辞書を見ると、
grow up to be a wild thing(成長して手に負えなくなる)
という例文が載っていました。
「英辞郎 on the WEB」

もちろんマックスは、お母さんから声援を送られたわけではありません。
「He grew up to be a wild thing(彼は成長して手に負えなくなった)」ために、叱られたのです。
そう。
彼は成長したのかもしれません。
「ぼくにげちゃうよ」(2)と逃げ出しては
母うさぎにつかまえてもらいたがっていた子うさぎよりも、ちょっとだけ。

彼は、もう子うさぎではありません。
なにしろ、荒々しい「wild」な動物である“オオカミ”のぬいぐるみを着ているのです。
マックスは、オオカミになろうとする子うさぎでした。

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自我を主張し、自分で何かをやりたいというエネルギーにあふれている。

カーテンやトンカチを持ち出して、彼は何かをしようとしていました。
カーテンをつり下げるためとも思われるような、ハンカチを結んだロープ。
インディアンのテントを作ろうとしたのでしょうか?
それともお芝居を始める幕を設(しつら)えようとしたのでしょうか?

ロープにつり下げられたぬいぐるみのクマの人形は、被害を被ったのか、成り行きが不安なのか、
怒ったマックスの顔つきとは対照的に、なぜか悲しげです。
ひょっとしたら、クマの表情の中に、マックスの本心があるのでしょうか?
いったいマックスは何をしようとしているのだろうと、読者は想像力を刺激される場面です。

が、おとなの読者も、まわりのおとなも見当がつきません。
そこでおとなは、「いたずら」という一言でかたづけてしまう。
(子どもの読者だったら、彼の気持ちはじゅうぶん過ぎるくらい見当がつくかもしれませんね。)

そこでおとなは、とにかくやめさせるよう、圧力をかけることになります。
けれどマックス本人は、たぶん、何かとってもステキなことを思いついて、
何かを始めようとしていたようにも見えます。

しかし、こういう思いつきは、うまくいかなかったりするもの。
ロープを張ろうと釘を打ってもうまく打てないのかもしれません。
かんしゃくを起こして、小犬に八つ当たりなのかもしれません。
あるいは、すべてに反発して、“悪い”と言われることをしてみたいのかもしれない。

そしてこれは、いわゆる「第一反抗期」というやつとも重なるところがあるでしょう。
自分を主張して、人の言うことは何でも否定したくなる。
自分を主張して、駄々をこねる。ぐずる。周りを困らせる。
自分を主張して、けれど自分自身をコントロールできない。
暴れる。散らかす。ものを壊す。
なるほど、「wild thing」。
──これを「かいじゅう」と訳したのは、名訳だと思います。

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食事中におもちゃで遊ぼうとして止められたウィトゲンシュタインは、
お母さんを「継母」と呼びました。
けれど、「継母」と呼ばれようと、
わたしたちおとなは、社会で暮らしていくためのルールとマナーを教えていかなければなりません。

食事中におもちゃで遊ぶのはいけない。
トンカチと釘で壁に穴を開けて壊すのはいけない。
小犬をいじめて追いかけ回すのはいけない。
お母さんは、たしなめます。
人間は誰でも、自分の感情と欲求のままに、したい放題、
わがまま放題の王様ではないことを教えます。

しかし、自分を主張し、遊ぼうとするのを止められたマックスにとって、
その邪魔をする存在は、「継母」であり、もしかしたら「やまんば」にも見えるかもしれません。

が、オオカミのぬいぐるみを着ている今の彼は、
相手がお母さんだろうが、やまんばだろうが、逃げ出しはしない。
ひるまずに、
「I'LL EAT YOU UP!(おまえを たべちゃうぞ!)」
と言い返します。
自分を食べてしまうかもしれないやまんばに対して、
反対に「食べてしまうぞ」とやり返すわけです。

しかし、その当然の帰結として、まあ、夕食ぬきを宣告され、
寝室へ追いやられるという現実が待っています。
怒りさめやらず、ドアの向こうのお母さんをにらみつけているマックス。
けれど、次のぺージでは、意気消沈。

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すると、不思議なことが起こります。
寝室は彼の“ホーム・グラウンド”ですが、そのいつもと同じ日常的な場所が、
だんだん変わっていく。
木が「にょきり にょきり」とはえだして、
生い茂り、育ち、やがてルソーの描くジャングルのような森になる。
寝室が異界となるのです。

それは、日頃、子どもたちが行っている想像の世界の再現ともいえるでしょうか。
マックスは「ウッシッシ」とでもいうように笑い出し、しまいには踊り出しています。
こうして身近に作られた異界は、子どもたちにとっては親しみのあるところに違いありません。

その時点で彼はもう冒険に「行って」いるのかもしれませんが、
さらに船に乗って「1年と1日」をかけて航海しなければなりません。
そうして、「かいじゅうたちのいるところ(where the wild things are)」へ出かける。

そこへ着いたマックスは、かいじゅうの仲間たち(wild things)の王様になって、
まさにwildness(ワイルドネス=野性性)を解き放つように暴れ回って遊びます。
その数ページにわたって描かれる「かいじゅう踊り」は、
痛快な、なんとも楽しさにあふれる場面です。

この場面といい、お母さんへの「食べちゃうぞ」発言といい、この時期の子どもたちはマックスに共感し、惜しみない喝采を送るのではないでしょうか。
胸のすくようなカタルシスがある。

王冠をかぶったマックスは、大得意。
……ですが、絵の中にはどこか「不安」なニュアンスが忍びこんでいるようです。

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「空想は現実に十フィート(=約3m)も根をおろしてこそ、はじめて意味をもつ」

と、これは、作者のセンダックの言葉です(3)

ここでのマックスの現実は、
彼がやった「悪さであり、受けたお仕置きであり、そのお仕置きに対する彼の怒り」なんですね。
マックスは、母親に対する怒り(そして、もしかしたら自分自身に対しての怒り)を
かいじゅうたちにぶつける。
そこに「カタルシス」があります。
またそれは、「成長しようともがいて」の怒りでもある。
マックスは、かいじゅうたちを退治はしませんが、
“母親殺し”である昔ながらのドラゴン退治の、正統的な継承者であるでしょう。

母親に叱られ、一体感から切り離された佐伯一麦さんが、
浜田広介の「かなしみ」の世界へ向かったのに対し、
このマックスは、「怒り」をぶつけるようにして遊びまわる。

ここには、西洋と日本の違いもあるでしょうか。
しかし、佐伯さんの気持ちも、マックスの気持ちも、
日本人である筆者には両方わかるような気がします。

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センダックは言います。

「もしもマックスがいつまでもかいじゅうたちのいる島にい続けたら、この本を読む子どもはこわくなってしまったことでしょう」(3)

筆者は、ずっとい続けるのも楽しいような気が、半分します。
かいじゅうたちはどれも獰猛な顔をしていますが、どことなくいいヤツそうで、
いっしょに暮らしていくのも悪くないなと思わせます。

マックスがかいじゅうたちを征服したとき、「怒り」はおさまります。
しかし、彼らの王様に就任して、彼らに夕食ぬきを宣告できる身分になったとしても、
彼の「不安」は消えない。
どころか、「不安」は大きくなる。
というのは、つまり「かいじゅうたちのいるところ」は、
マックスの現実に十フィートも根をおろしている場所にあるということであるでしょう。

彼は、母親との一体感から旅立った勇敢な、そして孤独な冒険者です。
かいじゅうを支配して自由感を味わう。
しかし、自由とは、誰の指図も受けず──
ということは誰の保護も受けず、自分自身の行動や存在の責任を自分で負うということです。

自由は、半面、不安を伴う。
そこへ、「自分を最も愛してくれるだれかさん」の作ったであろう、夕食の匂いが漂ってくる。

そうして彼が、また航海に「1年と1日」という物語の時間を費やして帰ったとき、
寝室に置かれた夕食はほかほかと、まだあたたかでした。
こうした矛盾を、子どもたちは実によく理解し、納得し、満足すると思います。

「さて、ここが肝腎なところなんですが、」
と、センダックは続けます。

「彼は「もう二度とあんなところへなんかいかない」とは言いません。
マックスは、きっとまた空想にふけりますよ。
しかし、他の子どもたちと同じように、いつもきまって、母親のもとに帰ってくるというのがいいところなんです。
ですからこの本は、人生は不安の連続だなどとは言っていません。
ただ、人生には不安な時もあると言っているのです。」
(3)

マックスのこの段階では、「行って帰ってくる」空想をくりかえす。
このくりかえしが大切なのでしょう。
2~4歳の子どもたちは、まるで練習をするかのように
「行って帰ってくる」ごっこをくりかえしていました。

そうして、どんなに孤独で、不安の連続である異界へ迷い込んだとしても、
彼は最後に「自分を最も愛してくれるだれかさん」のもとへ帰ってくる。
あの子うさぎが、必ず母うさぎにつかまえられて家の中へ帰ったように。

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夕食の置かれたラストの寝室の絵では、
マックスはオオカミのぬいぐるみのフードを半分脱いで、眠そうな、安心したような表情。
オオカミというよりも、子うさぎの横顔を見せているようです。

室内のようすは冒険する前と変わっていないのですが、色づかいが微妙に中間色に変わっていて、
それがゆったりと温かそうな雰囲気を醸し出しています。
この絵本では、全編を通して、お母さんは姿も顔も見せません。
読者の想像に委ねられています。
しかし、この寝室の絵の雰囲気には、お母さんもしっかり登場していて、
お母さんも物語で重要な役割を担っていることがわかります。

もしも、安心のできるこうした“ホーム”がなければ、
マックスは冒険の航海へ乗り出すことはなかったでしょう。
お母さんがあたたかな食事を作って待っていてくれるこうした“ホーム”があるからこそ、
次なる冒険──つまり、次なる成長へと踏み出すこともできる。

「かいじゅうたちのいる」場所(異界)へ、行って「帰ってくる」そのホームが描かれることで、
この冒険の物語は、子どもたちのこころをとらえて離さないのだと思います。

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が、しかし。
もしもこのとき、行ったきりで戻れなくなってしまったら……。
神隠しのように向こうの世界へ連れていかれたまんま、
つまり、マックスがかいじゅうたちのいるところから帰れなくなってしまったとしたら……。
ヘンゼルとグレーテルが魔女の森から抜け出せなくなったとしたら……。
小僧さんが、やまんばの棲む山から戻ってくることができなくなったとしたら……。

もちろん「行って」しまうことは、たえずそういうリスクを抱えているものなのですが、
「行って」しまったきり「帰ってくる」ことができない片道切符というのは、大変なことです。
不安というのは、時として“スリル”や“サスペンス”という言葉に言い換えることのできる、
冒険を彩る薬味(スパイス)です。
が、ここにはそれらを超える、存在的な不安があるような気がします。
 
そんな不安が、ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」(4)に描かれています。

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《引用・参考文献》
(1)モーリス・センダック、神宮輝夫訳「かいじゅうたちのいるところ」冨山房
(2)マーガレット・W・ブラウン文、クレメント・ハード絵、いわたみみ訳「ぼくにげちゃうよ」ほるぷ出版
(3)ナット・ヘントフ「かいじゅうたちにかこまれて」~イーゴフ・スタブス・アシュレイ編、猪熊葉子・清水真砂子・渡辺茂男訳「オンリー・コネクト」岩波書店・所収
(4)ミヒャエル・エンデ、上田真而子・佐藤真理子訳「はてしない物語」岩波書店
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by kamishibaiya | 2010-12-28 09:48 | 紙芝居/脚本を書く | Comments(0)