「行って帰ってくる」物語・10

f0223055_1334694.gifバスチアン・バルタザール・ブックスは、
行って帰ってくる・その1



「はてしない物語」(1)は、
主人公バスチアンが、古本屋で「はてしない物語」という本を盗むところから始まります。
彼は、その不思議な本を読みはじめます。
そして主人公アトレーユという少年の活躍に胸を躍らせ、
読者として、彼とともに冒険の旅をすることになります。

アトレーユは、本の中にある異界──「ファンタージエン国」というファンタジーの世界の住人です。
その世界は、国の王女様的存在である「幼ごころの君」にこんなふうに説明されています。

──人間の子どもたちは、人間界とファンタージエン国の境を越えてやってくる。
彼らは、この国でしかできないような体験をする。
そうして、まるで生まれ変わるようにして、人間界へと帰っていく。

つまり、人間の子どもは、ファンタージエン国という異界へ「行って帰ってくる」わけです。
すると彼らは、それまでとは違ったような目で世界や周りの人々をながめることになる。
平凡でつまらないと思っていた人間界の現実に驚きをみたり、
神秘を感じるようになる──というのです。

「指輪物語」の作者J・R・R・トールキンが、
ファンタジーの世界(彼の言葉でいえば「第二世界」)を説明した文章に、
「ムーリーフォック」ということばが出てきます(2)

「ムーリー・フォック(mooreeffoc)」
だなんて、何の呪文かと思えば、何のことはない、それはつまり
「coffee room(コーヒー・ルーム)」
のこと。
そう書かれた喫茶店のガラス扉を、反対から、店の内側から見たときに、そう読むことが出来ます。
(ただし鏡文字ですが。)
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作家のディケンズが 、 ロンドンの喫茶店にぶらり立ち寄ったときにたまたまそれに気付いて、
「はっ」としたんだそうです。
ごく当たり前の見慣れた日常的な看板も、新しい視点、いつもとは違う視点でながめるときに、
新鮮な驚きがある。

そうしたはたらきが、文学というものにもあるのではないか。
そのはたらきを言い表すのに、「チャールズ・ディケンズ伝」でチェスタトンが
このエピソードを取り上げているのだそうです。

そしてトールキンは、そのはたらきはファンタジーにもあるもので、
ディケンズがロンドンの街角で発見したそんな新鮮な驚きを、ファンタジーの読者も感じるのだと
いうのです。
それはまさしく、「幼ごころの君」が語っていたことに通じるものでしょう。


そういえば、この「はてしない物語」の冒頭にも、不思議な看板が掲げられていました。

古本屋のドアのガラスに書かれていた
「古本屋 カール・コンラート・コレアンダー」という主人の名を掲げた看板を店の中から見ると、
こう見えるのでした。
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物語は、古本屋のこの看板から始まります。
それは、つまり、「ムーリーフォック(mooreeffoc)」の世界の始まりを暗示しているのかもしれません。

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さて、バスチアンは“本を読む”という行為によって、
そんな本の中の異界、ファンタージエン国へと踏み入ります。
本の中の主人公アトレーユに付き添い、冒険の旅を続けて行くうちに、
やがて呼びかけられ、バスチアン自身が物語に参加するようにと招じ入れられる。
そうして「幼ごころの君」の名をバスチアンが名付けることによって、物語が彼のものとなる。
彼が、物語の“読者”から物語の“主人公”へと変わるその瞬間は、
思わずワクワクしてしまう前半のクライマックスです。
そうして彼が、彼自身の物語を生きていくことになる。

虚無に侵食され、消失の危機に瀕していた国を救い、救世主となった彼が最初にしたことは、
ジャングルを暴れ回って獰猛なライオンと遊ぶことでした。
ちょうど、「かいじゅうたちのいるところ」へ行ったマックスが、
彼らと森を暴れ回って踊り遊んだように、
ジャングルでwildness(ワイルドネス=野性性)を発散させるんですね。

そうしてマックスがかいじゅうたちを征服して王様になったように、
バスチアンもまた力を持ち、王様=帝王への道を歩みます。
何しろバスチアンの思いのまま。
この世界では、彼の望み通りのことが実現するのです。
が、それゆえに彼のほんとうの望みがなんであるか、試されることにもなります。

彼は自由。
それゆえに不安です。
かくて物語は「不安の連続」の始まりとなる。

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彼の望みは、たとえば勇気ある名誉。
また、物語詩人になること。
善を施すこと。
知恵ある賢者となること、などなどでした。

しかし、思いとは裏腹に、彼のつくる世界はきしみ、ちぐはぐになっていきます。
そして権力を手に入れたと思ったとき、
甘言を弄する者しか信じられなくなり、彼を諌める友だちアトレーユをさえ疑い、嫉妬し、
いよいよ彼の孤独があらわになっていきます。

ちょうど歴史の中で、多くの権力者がたどってきた道すじの戯画(カリカチュア)のように。
そうして最期には、破滅し、いっさいを失うのです。

その間、この国に、「自分を最も愛してくれるだれかさん」の作ったであろう、
マックスの鼻をくすぐったような夕食の匂いが漂ってくることはありません。
どころか、その「自分を最も愛してくれる」父親は、
「ぼくがいなくなってよろこんでいるかもしれないくらいだ」
と、バスチアンは言います。

そう。
この国も、やはり「現実に十フィートも根をおろして」いるのです。

バスチアンの現実は、父親とのディスコミュニケーションであり、
クラス仲間のいじめであり、
容姿や臆病な性格へのコンプレックスです。

色とりどりに彩られたファンタジーの世界に比べれば、なんと味気なく無彩色な世界でしょう。
しかし、わたしたちや子どもたちが住んでいる世界にあるのは、
大なり小なり、こうした現実ですよね。
生きるということは、「灰色でおもしろみがなく、神秘なことも驚くこともない」

そうした現実を招いたのは、実は、ファンタージエン国が虚無におかされ、
崩壊しているせいなのだと物語では語られます。
ファンタジーという精神世界のいきいきとしたエネルギーの枯渇が、現実世界を貧しいものにする。
ファンタージエン国へと「行って」、その虚無から世界を救ったのが、
他でもないバスチアンでした。

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トールキンは、「第二世界」(ファンタジーの世界)のはたらきのひとつとして、
「逃避」ということをあげています(2)

ここでトールキンが言うところの「逃避」は、現実や時代を批判したり、
理想や望みに満足を与え、育てるといったはたらきを含んだ積極的な意味でも使われています。

バスチアンは、灰色の過酷な現実の中で希望もいきいきしさも失ったとき、
ファンタジーの世界へいったん避難することで、生きるエネルギー、元気を取り戻す。

しかし「逃避」は文字通り、過酷な現実から逃げるという意味でもあります。

バスチアンは、ファンタージエン国の救世主であると同時に、現実からの逃亡者でもあるわけです。
だから、「行っ」たきりで、現実の世界へ「帰ってくる」ことができない。
帰る道すら見失ってしまうんですね。

そんなバスチアンのようにファンタージエン国へ行ったきりで、
人間界へと帰らない、あるいは帰ることのできない者たちが暮らす「元帝王たちの都」は、象徴的です。

マックスがかいじゅうたちの王様になったように、誰もがその空想(ファンタジー)の中で、
思うがまま、わがまま放題の王様、帝王になることができる。

しかし、幻想の中で望みをかなえたとしても、現実の記憶にはならない。
まったく現実から離れてしまえば、生きること自体がストップして、
自分自身が変わることができなくなるというんですね。
だから、都に住む元帝王たちは、年も取らず、成長もできずに、そこに留まっている。

無気力で、「狂気そのもの」
つまり、病気です。

その病気の危険性は、本にもあるものだし、また絵本や紙芝居にもあるものだと思います。
そしてTVやゲームや、いろいろなメディアによるヴァーチャルが氾濫し、増殖している現代では、
病人である“現役の”帝王や、“元”帝王たちが続々と増えているといえるかもしれません。

空想の世界に「逃避」ではなく、「逃亡」することで、
現実に立ち向かうこと、現実に生きることをストップしてしまう。

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「ナルニア国ものがたり」の作者、C・S・ルイスは、
ファンタジーの望みには二種類あると言います(3)

ひとつは、「病気」
病的な現実逃避。
今ある自分の現実から逃げて、
ファンタジーの中で自分の望み、欲望を代償的にとげようとするもの。

これはまさしく、ファンタジーの中で望み通りの王となった「元帝王たち」の症状です。
彼らは、この病気と診断出来るでしょう。

この種のフィクションの物語は、装いがリアルになる傾向があるといいます。
それは、
「現実に起こりうる話、起こってしかるべき話、運さえよければ自分にも起こったであろう話」
であるわけです。
しかし、
「こうした願望が想像の次元で達せられる場合、それはじつは、まったく代償的なものであって、私たちは、この世での失望や屈辱から逃れるため、そこに走るのです。
そしてそのあと、私たちは、またまた、いかんともしがたい不満足な状態のまま現実の世界にもどります。
それというのも、こうしたことはすべて、エゴへのへつらいにすぎなかったのですから。
なぜ楽しかったか、ほかの人たちの称賛の的になっている自分を心に描くことができたからです」
(3)
ということになります。

この種のファンタジーでは、お菓子の家をまるごと食べ尽くし、味わったとしても、
いざ現実に戻れば、何の腹の足しにもなっていない。
どころか、空腹感と飢餓感はますます増すばかりということになるでしょう。
ファンタジーの中で欲望を満足させるけれど、魔女との対決は避けられ、葛藤も避けられる。
すると、家に戻っても意地悪な母親は意地悪な顔をしたまま、ご健在ということになります。

一方、C・S・ルイスがあげるもうひとつが、「アスケシス」
これは、“精神訓練”と訳されたりする言葉だそうで、「一種の精神活動」であるといいます。

C・S・ルイスの「ナルニア国ものがたり」(4)に親しんだ読者には、
このアスケシス(精神訓練)という言葉の意味するところがよくわかるのではないでしょうか。

いつ陸地にたどり着くともわからない航海。
果てしのない砂漠の道行き。
地下の迷路。
そんな苦難の連続である冒険を、飢えや渇きに悩まされながら、物語の子どもたちは体験します。

そうして、へそまがりの皮肉屋の子も、偏った進歩主義の意気地なしの子も、
他人に責任を負わせるだけのいじめられっ子も、その冒険を通じて人格を成長させていきます。
冒険自体が、アスケシスであるわけです。

ここに、キリスト教の信仰篤い宗教学者でもあった
C・S・ルイスの教訓めいた隠喩を読み取ることは簡単でしょう。
しかし、そんな理屈が気にならないほどに、苦難も含めて冒険はおもしろい。
読者である子どもたち(おとなも含めた)は、そのおもしろさを楽しみます。

主人公たちが挑戦し立ち向かうそのファンタジーを楽しむことは、
つまり、いっしょに体験を共有すること、読者自身もアスケシスを体験するということなんですね。

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さて、バスチアンの望みは、「病気」だったのでしょうか? 
「アスケシス」だったのでしょうか?

彼の望んだ物語は、彼をいじめるクラスの仲間に仕返しをするといったような
リアルなものではありませんでした。
勇士たちと競技をしたり、涙の湖の由来を語ったりと、
それは昔話の伝統的なかたちにのっとったものです。

しかし、彼の望んだものは、勇気ある名誉。
──であっても、それを得て人々から称賛を得ること。
物語詩人になること。
──ではなく、その才能を評価され、名声を勝ち得ること。
善を施すこと。
──よりも、「いい人」として尊敬されること。
知恵を身につけること。
──よりも、知恵ある賢者として敬われることだったんですね。
すべて自分の「エゴへのへつらい」だった。

しかしながら、「エゴへのへつらい」から逃れ得る人というのは少ないかもしれません。
昔話でも、宝物を持ち帰ったり、大金持ちや長者や王様になったり、
絶世の美女のお姫様と結婚したりという成功が語られます。
それは人々の望みの反映であり、
「エゴイズムへのへつらい」の大いなる成就であるといえるでしょう。

昔話は、エゴイズムや欲望を否定するわけではありません。
筆者などは、おとなになった今でも、
もしかしたらホントに宝物や美女を手に入れられるのではないだろうかなどと、
秘かに欲望している人間です。
まあ、聞き手は筆者ほどに単純なアホではないとしても、
昔話は聞き手にそうした夢を見せてくれるものだと思います。

が、しかし、宝物を得るまでの過程や試練を見落とすとしたら、片手落ちでしょう。
たまたま偶然に宝物を得たとしても、得た者の人間性やその過程が語られているはずです。
愚か者が何もせずに宝物を得る「棚からボタもち」物語も数多くありますが、
そこには宝物をもたらす援助者の存在や、
彼をいかに信じるか、また、主人公の世界観や、
あるいは愚かさのほんとうの価値などが語られているはずです。

ヘンゼルとグレーテルが持ち帰った宝物だけしか目に入らず、
彼らの冒険に心動かされない読者(聞き手や観客)はいませんよね。
おもしろさは、むしろそこにある。

その試練や過程に焦点を合わせると(それが物語というものなのですが)、
金銀やエメラルドといった物質的な宝物の輝きが、何かちがうものに見えてくる。
エゴや欲望を満足させるだけではないものが見えてくる。

そこに「アスケシス」といわれる精神活動があるのだと思います。
試練や冒険に立ち向かうことで、発見したり気づいたり、味わったり、感じたり、考えたり、する。
つまり遊ぶ。
つまり体験する。

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藤田省三さんは、先に見たように、
昔話が飽きることなく語るテーマ
──「孤独な森の旅」「迷い子」「追放された彷徨」といった試練や冒険について触れていました(5)
これは、かくれんぼ遊びの中の原初的な死と再生の体験に通じるものであり、
藤田省三さんは、ここに、古来からの成年式──社会の中で一人前の成人となるための
通過儀礼としての「骨格」を見ていました。

社会から切り離され、母なるものから旅立ち、さすらうという冒険
──その“死”を体験する試練は、再生し、生まれ変わっておとなに成長するために必要な訓練。
まさしく「アスケシス」です。

川に捨てられ流されて、桃から生まれた男の子。
森に捨てられた兄妹。
彼らが鬼や魔女を倒して宝物を得るのも、これは「アスケシス」の結果であると言えます。

バスチアンは、ファンタージエン国に来てから、望みをかなえる度ごとに、
現実世界の記憶をなくしていきました。
現実世界で生きることを放棄していった。
その度に、現実世界にはっていた根っこをひとつひとつ失っていくかのようでした。

しかし、地面の表層1フィートくらいの深さの根っこは失われても、
その10フィート先の根は、なおバスチアンの現実──心の奥の現実と通いあっていたんですね。

彼がいっさいを失い、元帝王たちが陥る「病気」に気づいたとき、
そこから、正真正銘ホントの、自分の“ほんとうの望み”は何か、を探す旅が始まります。
それは、「アスケシス」という試練の旅。

またそれは、彼が自分の心の奥底を掘り起こし、
なお深く掘り起こして自分の根っこを探す旅でした。

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作者ミヒャエル・エンデによると、執筆中、
バスチアンがなぜファンタージエン国から帰って来なければいけないか、どこに出口があるのか、
作者自身にもわからなかったそうです。

そうして苦悶のうちに1年が過ぎ、出版社から催促の電話がかかってきます。
しかし彼は、こう答える他はなかった。

「バスチアンが、ファンタージエンから戻るのが嫌だと言ってきかないんだ。ぼくも帰らせることはできない」(6)

作者も主人公とともに「アスケシス」の旅を旅して苦しんでいたんですね。
バスチアンは「行って」、そしていかに「帰ってくる」か。
その「帰ってくる」道筋には、作者エンデの苦労の軌跡もたどれるような気がします。

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《引用・参考文献》
(1)ミヒャエル・エンデ、上田真而子・佐藤真理子訳「はてしない物語」岩波書店
(2)J・R・R・トールキン「妖精物語について」~J・R・R・トールキン、杉山洋子訳「妖精物語の国へ」ちくま文庫・所収
(3)C・S・ルイス「子どもの本書き方三つ」~イーゴフ・スタブス・アシュレイ編、猪熊葉子・清水真砂子・渡辺茂男訳「オンリー・コネクト」岩波書店・所収
(4)C・S・ルイス、瀬田貞二訳「ナルニア国ものがたり」「ライオンと魔女」以下全7冊)岩波書店
(5)藤田省三「或る喪失の経験」「精神史的考察」平凡社/平凡社ライブラリー・所収
(6)ミヒャエル・エンデ、田村都志夫[聞き手・編訳]「ものがたりの余白」岩波現代文庫

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by kamishibaiya | 2010-12-29 15:07 | 紙芝居/脚本を書く | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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