「行って帰ってくる」物語・11

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バスチアン・バルタザール・ブックスは、
行って帰ってくる・その2




「はてしない物語」(1)は、
多くの昔話やよくできた作品と同じように、
“通りいっぺんの寓意を読み取ろうとするような解釈”を拒むところがあります。
“解釈のための解釈 ”ではとらえきれない豊饒さがある。

たとえば、物語には、その果てしなさを表すような二匹のへび
──相手の尾をそれぞれかみながら輪になってつながるへびが登場します。
それはこの「はてしない物語」という本の表紙にも描かれているものでした。
これは、昔から錬金術などに伝えられる“ウロボロス”で、
ユング派の精神分析では、未分化なカオス状態という象徴の意味が与えられているものです。

が、そうした解釈を無理矢理にあてはめようとしても、あまり意味はないのではないでしょうか。

しかし、“アイゥオーラおばさま”という登場人物に出会うとき、
わたしたちは、あの母なるもの──グレートマザーのひとつの姿を見ることになります。

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「アイゥオーラ」という名前は、イタリア語で「花壇」のことなのだそうです。
彼女の体からは葉や花が咲き乱れ果実が成長し、
それが帽子の飾りとなり、花柄の模様となって服を彩ります。
そして彼女が「特別に骨をおって用意した」そのみずみずしい果実が、
バスチアンの望むままに彼の飢えと渇きを癒してくれます。

いわば「いい母親」としてのお菓子の家。
とびきりの理想的なお菓子の家ですね。

母親の体の血液が実は母乳であり、赤ん坊の糧(かて)となるように、
バスチアンは、アイゥオーラおばさまの体──つまりお菓子の家を食べる。
そして、食べることで、癒される。

彼女は、バスチアンのこれまでの道のりを肯定し……、というより、
彼の存在自体を肯定し、受けとめてくれる。
すべての価値観を見失い、傷ついたバスチアンには、
その存在をあるがままに受けいれてくれる「絶対的信頼感」を得ること、
その母なるものの抱擁を確かめることが必要だったんですね。

バスチアンは、幼児の頃に退行するようにして、アイゥオーラおばさまのもとで過ごします。
それは、バスチアンの今は亡き母親の面影をたどり、その与えてくれた愛情を、
そして彼の中にある母性を今一度確かめることでもあったでしょう。

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その家は「変わる家」
家自体も形を変えるのですが、そこで過ごす人間も「変わる」
──変容させるというのがおもしろいと思います。

ヘンゼルとグレーテルが訪ねた魔女のお菓子の家は、
彼らをその甘さの中に閉じ込めようとするものです。
つまり、成長や変容を拒む。
いわば「変わらせない家」。
もっとも、そうして魔女が彼らに与えた攻撃と試練が、実は彼らを結果的に
「変えて」いくことになるのですが。

一方、アイゥオーラおばさまの「変わる家」(=変わらせる家)は、
倉橋惣三が説いた通りの甘み──子を思う母親のこころそのものをバスチアンに与えます。
そうして彼が愛に満たされたとき、バスチアンは自分の“ほんとうの望み”が何であるかに
思い至ります。

彼の“ほんとうの望み”とは、自分が誰かから愛されることではなく、
自分から誰かを愛するということ。
それはアイゥオーラおばさまから愛を受け取らなければ、気づけなかったことかもしれません。
そうして彼は、自ら進んでお菓子の家──母なるものの元から旅立っていく。

実際、子どもたちは愛情の欠けた不安定な状態ではなかなか自立に踏み切れません。
けれど、じゅうぶんな愛情に満たされたとき、
ごく自然に自立へのステップへと足を踏み出していくものなのでしょう。
安全安心な港が築かれてはじめて、荒れる外海をも目指して船が出航出来るように。
成長する果実が、時が熟した時、ごく自然に木の枝から離れ落ちていくように。

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バスチアンのその旅立ちの朝、アイゥオーラおばさまは、
実や花だけでなく葉っぱすらもすっかり落として、枯れ木のように見えたと語られます。
その時、彼女は目を閉じたまま、無言であったところを見ると、
もしかしたらほんとうに枯れていた──死んでいたのかもしれません。
献身的なその愛情は感動的です。
もしかしたら彼女は命を賭してバスチアンに愛を与えた。

しかし、“母なるもの”──死と再生のはたらきを持つグレートマザーである彼女は、
またいつか、かたちを変えてよみがえり、バスチアンの前に現れるのではないでしょうか。

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ファンタージエン国へと「行った」バスチアンが人間世界に「帰る」ためには、
最後の、そしてほんとうの望みをみつけなければなりませんでした。
それは、誰かを愛すること。
言うことは簡単ですが、
しかしそれは、一般的に愛するというような抽象的、空想的なことではなく、
現実として具体的に実践する愛でなくてはならない。

しかし現実を生きることを忘れ、現実の記憶をなくし、
とうとう両親の記憶さえ失った彼には、誰を愛するかさえ答えることができなくなります。

ファンタージエンという国土は、人間が眠っている最中に見て、
けれど忘れてしまった夢が積み重なったその基盤の上にあるのだといいます。
なるほど、ファンタジーというのは、そういうものなのかもしれません。

無意識の中に堆積した夢のかけらの上に築かれる物語。
バスチアンは、その堆積層の地中深く、穴を穿った採掘場で、
自分の失った記憶の手がかりとなる絵を探し、掘り起こすことになります。

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「空想は現実に十フィート(=約3m)も根をおろしてこそ、はじめて意味をもつ」
と、絵本作家センダックは語っていました(2)

バスチアンが降りた坑道は、10フィートよりもはるかに深かったかもしれませんね。
けれど、確かにそこは現実の地下10フィートの根っことつながっている。
光の届かない坑道の真っ暗闇の中での手探りの作業は、
自分のこころの深層の奥底を探る作業であったのでしょう。

わずかな物音でも、繊細な夢の絵の雲母は壊れてしまう。
そのため、バスチアンの採掘の師となる坑夫ヨルは、大きな声を出しません。
むしろ沈黙によって、バスチアンを教え導く。

永遠の冬であるその場所はしんと静かで、その作業は、内的な瞑想に似ているようにも思われます。
来る日も来る日も、地道で、辛抱強さを必要とする、孤独な作業。
そこで飲むスープは身体をあたためてくれましたが、
その塩からさは、涙と汗に似ていたと語られます。


そうしてとうとうバスチアンは、1枚の絵を発掘する。
それは、「自分を最も愛してくれる」父親の絵でした。
ちょうどマックスが、「自分を最も愛してくれるだれかさん」──母親の作った夕食の匂いに導かれ、現実へと帰ってきたように(「かいじゅうたちがいるところ」(3))、
バスチアンにとっては、その絵が、現実の世界へ「帰ってくる」ための道しるべとなったわけです。

これでやっと帰ることが出来る。
そう思われたとき、バスチアンが作り出した不幸な生きものが、絵をこなごなにしてしまいます。
すべてが無に帰す。
自分の名の記憶さえ、失ってしまう。
絶対的な絶望。
そのとき、現われ、彼を救ったのは、かつての友。
──バスチアンが不信と嫉妬のために剣で胸を貫いた、アトレーユでした。

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そこでバスチアンが、「アウリン」というメダルを手放したとき、
帰るための道が開かれることになります。

「アウリン」は、バスチアンが幼ごころの君から託された、
この国を統べるための名代のしるしとも言うべき宝物で、その裏には
「汝の 欲する ことを なせ」
と刻まれていたものでした。

灰色の現実の中で絶望にこころを縮ませ、こわばらせていたバスチアンにとって、
自分には「欲することを為す」自由があること、
その可能性を信じることは大きなよろこびであり、大きな救いとなりました。

ファンタージエン国では、すべてが可能でした。
灰色の現実の中で自分の可能性を信じられず、可能性の枯渇の中で絶望に陥っていた彼に、
アウリンは可能性をもたらし、気づかせ、生気を与えてくれる。
可能性を得た彼は、しかし今度は、その大きな可能性の中で自己を見失ってしまったのです。

拡大された可能性の中でさまよっていたバスチアンは、自己自身を振り返り、
自己自身へと戻らなければなりませんでした。
そして自己の深層を掘り起こすことで、“ほんとうの”具体的な望みにたどりつく。

(※このあたりのバスチアンの心理的な状況は、
哲学者キルケゴールが、その著書「死にいたる病」(4)の中で
「可能性」と「必然性」について説いた箇所によく言い表されていると思います。)

帰る道への扉が、実は最初からバスチアンの胸にぶら下がっていたというのも、
おもしろいところですね。
最初から、自分自身が持っていた。

「内面に向かって(道を)求めるべきで、外面に向かって散漫になってはいけない」
と説いたブッダの言葉に通じるところがあるかもしれません(5)
あるいは、
「照顧脚下(しょうこきゃっか)」(足元をよく見よ)
という禅の言葉。
道は、遠く外に求めてもあるものではなく、自分のすぐ足元にあるよ、
ということなのだそうです(6)

しかし、その気づきに至るためには、失敗を重ねて試行錯誤する、
遠く外をさまよう「アスケシス」の旅が必要だったのでしょう。

この世界の根源的なパワーをもつ、“命の綱”ともいえるお宝、アウリン。
けっして失うまいと大事に持っていたその宝を手放すことこそ、
実は道を開く鍵だったというあたりも、どこか禅問答を思わせるところがある気がします。

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そしてさらに、アトレーユの友情に救われ、
バスチアンは「生命(いのち)の水」を飲むことができます。
旅は孤独でもありましたが、一人ではなかった。
人々に教えられ、導かれ、そして助けられて「生命の水」にたどり着いたわけです。

「生命の水」たちは、大きな泉として高く低く噴き出しながら、声を上げてこう言います。

「われら、生命の水!
己(おの)が内より ほとばしり出る泉…」
(1)

アト・ド・フリース著「イメージ・シンボル事典」(7)によると、
「泉(fountain)」は、異界から湧き出るものとされ、
そのイメージは、「死」「誕生」「再生」などと関連をもつとされます。

そんな生命の水を、バスチアンは全身に浴び、浸かる。
その描写は、「流」という漢字そのままに、橋のたもとから流された川の水の中で、
あるいは羊水の中で、「あの世」に行った魂が、死と再生を経験するさまに似ています。

頭部に水を降り注いで行われる「洗礼」というキリスト教の儀式は、
全身で水に浸かるのがもともとのやり方で、
これは「再生」を意味するともいわれます。

生命の水に洗われて魂は「この世」によみがえる。
生まれ変わる。
そうしてバスチアンは「帰って」きます。

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さて、すると、現実の世界が一変します。
具体的には何も変わってないのですが、生まれ変わったバスチアンの目からは、
すべてがいきいきとしているように見えてくる。

それは「ムーリーフォック(mooreeffoc)」効果でもあるでしょう。
何がいちばん大切なのかを知り、現実に立ち向かう勇気を知った彼にとって、
この世界は奥深く豊かに見えてくる。
「アスケシス」をやりとげた彼は、無彩色に、灰色に見えていた現実が、
実は豊かな彩りを持っていたことを知るわけです。

バスチアンは「生命の水」を浴びたとき、父親にも飲ませてあげようと両手にすくいました。
が、途中でこぼしてしまいます。

そういえばグリム童話に「命の水」(8)という一編があります。
瀕死の病気に苦しむ王様である父親に飲ませるために、末っ子の王子が苦労を重ねて
「命の水」を持ち帰るという物語です。

バスチアンは父親と再会を果たします。
バスチアンは、自分がいなくなって父親はよろこんでいるかもしれないくらいだと
言っていましたが、とんでもない。

バスチアンが行方不明となったあいだ(現実では一晩)じゅう、
彼は血眼になって捜し歩いていたのでした。
彼は、バスチアンの母親である妻と死別したことで、その悲嘆から抜け出せずに、
息子への関心をじゅうぶんに注げなかったのでした。
息子を失ったらと思う彼の気持ちは、いかばかりだったでしょう。

そしてバスチアンは、たぶん生まれて初めて、父親の目に涙が宿っているのを目にします。
そのときです。
途中でこぼしてしまったと思っていた「生命の水」を実は持ち帰っていたこと、
実は飲ませることが出来たんだということを確信するのです。

確かに彼は、「生命の水」を持って帰っていた。
グリム童話の父親王は、結局、息子が持ち帰った「命の水」を飲んで元気になりました。
バスチアンの父親もまた、生きる元気を取り戻すんですね。

そう。
異界へ「行って帰ってくる」こと。
「死」と「再生」を体験することは、おとなに成長するための試練であり、
それは時に、自分の中にある「生命の水」に気づくこと。
その日常の現実では見えにくい生命の“いきいきしさ”を、
こちら側の世界へ持ち帰ることであるのかもしれません。

それが、この世界をいきいきとさせる。
それは、現実に硬直したこの世界や、あるいは父親、あるいは自分自身を解きほぐし、
救うことでもあるのだと思います。

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《引用・参考文献》
(1)ミヒャエル・エンデ、上田真而子・佐藤真理子訳「はてしない物語」岩波書店
(2)ナット・ヘントフ「かいじゅうたちにかこまれて」~イーゴフ・スタブス・アシュレイ編、猪熊葉子・清水真砂子・渡辺茂男訳「オンリー・コネクト」岩波書店・所収
(3)モーリス・センダック、神宮輝夫訳「かいじゅうたちのいるところ」冨山房
(4)キルケゴール、桝田啓三郎訳「死にいたる病」〜桝田啓三郎編「キルケゴール」(「世界の名著40」)中央公論社・所収
(5)長尾雅人・荒牧典俊訳「宝積経」〜長尾雅人編「大乗仏典」(「世界の名著2」)中央公論社・所収
(6)久須本文雄「禅語入門」大法輪閣
(7)アト・ド・フリース、山下主一郎主幹、荒このみ・上坪正徳・川口紘明・喜多尾道冬・栗山啓一・竹中昌宏・深沢俊・福士久夫・山下主一郎・湯原剛共訳「イメージ・シンボル事典」大修館書店
(8)グリム「命の水」~高橋健二訳「完訳グリム童話集・3」小学館・所収



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by kamishibaiya | 2011-01-03 12:52 | 紙芝居/脚本を書く | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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