「行って帰ってくる」物語・12

f0223055_13311464.gifフロド・バギンズは、行って帰ってきて、そして…


さて、「行って帰ってくる」物語を追ってきたこの稿も、
初めの物語に「帰って」筆を置くことにしましょう。

「指輪物語」(1)です。

主人公フロド・バギンズは、旅に「行って」、
そうして世界を救うというとてつもない大仕事をやりとげた後、
仲間とともに故郷のホビット庄(村)に「帰って」きます。

しかし、彼らを待っていたのは、故郷の変わり果てた姿でした。
木は切り倒され、田園はつぶされ、煙突の煙が空を汚し、工場の排水が川を濁らせる。
温和で人のいい住人たちが、功利的な権力と暴力で支配され、
言われるがままに不幸な暮らしを強いられている。

結末を言ってしまえば(スイマセン、ネタバレです)、
彼ら自身の力で、その一派を黒幕ごと一掃して平和を取り戻すことになります。

f0223055_1011534.gif


ですが、冒険から「帰って」きてからもなぜ、わざわざ、
この一挿話が付け加えられたのでしょうか?

黒幕は、かつては高名な魔法使いとして知られたサルマン。
彼は悪へ寝返って、フロドやその友人ガンダルフたちを窮地に陥れますが、
結局破れ、堕落し、零落し、今はせいぜいゴロツキどもを手なずけることしか出来ません。
全世界を震撼させたボスキャラ・冥王サウロンにくらべれば、チンピラです。

フロドたちは、大敵・サウロンを相手に渡り合い、世界を救ったのです。
そんな大きな山場を乗り越えて「帰って」きたところへ、
チンピラ相手のエピソードを、小さなコブのようにくっつけるのは蛇足にも思われます。


作者トールキンは、「著者ことわりがき」の中で、物語は「寓意」を意図しているわけではなく、
読者に自由な読み方をしてほしいと述べています。
そしてこの一挿話「ホビット庄の掃蕩」の章もまた、
20世紀執筆当時のイギリスの状況を皮肉った寓話でも何でもないと釘を刺し、
「これは話の構想の中では重要な部分であり、最初から見通しが立てられていた。」
と、わざわざ「ことわりがき」しているのです(1)

筆者は、ここにトールキンのファンタジーに対する想いが見えるような気がしてなりません。
フロドが故郷の日常から、冒険という旅へ「行って帰ってくる」ことは、
ちょうど読者が彼とともに、現実世界からファンタジーの世界へ「行って帰ってくる」ことと
重ねられているのではないでしょうか。

f0223055_14441645.gif


読者とともに冒険から「帰って」きたフロドたちにとっての現実世界は、故郷のホビット庄です。
彼らは、そのホビット庄の現実問題に直面することになる。
そして目の前のそこに今ある現実に立ち向かい、現実世界をよりよいものに変えようとする。
もしも、冒険へと旅立つ以前の彼らだったら、他の住人と同じように、
チンピラの支配にただ忍従するだけだったかもしれません。

彼らにとって友人であり導き手であり、そして大いなる援助者であるガンダルフは、このとき、手を貸そうとしませんでした。
彼は、一行とともに「帰って」きます。
が、途中で道を分ち、ホビット庄に顔を見せなかったのです。
しかし、彼はホビット庄の惨状を予見していたのでしょう、
別れ際にサルマンの名を出して注意を促してから、こう言います。
「ホビット庄のことはお前さんたちが自分で解決しなければならぬ。それこそお前さんたちが今まで仕込まれてきたことなのじゃ。」
そしてフロドたちは、成長した、実に大きくなったと言い、
「お前さんたちはだいじょうぶうまくやってのけるじゃろう。」
そう言葉を言い置いて、馬を駆って風のように立ち去ります(1)
そしてその言葉の通り、フロドたちはやってのけたのでした。

f0223055_1011534.gif


「帰って」きたフロドたちは、別に魔法を使えるようになったというわけではありません。
技を体得したとか、何か目に見えるようなパワーを得たというわけでもありません。
からだは小さいホビット族のまんまです。
幾多の戦いの場数を経て、戦いに対する経験値は上がったかもしれませんが、
戦闘力がアップしたというわけではなさそうです。

けれど、彼らは「仕込まれ」た。
「アスケシス」の旅を乗り越えることで、まさしく彼らは「仕込まれ」たのだと思います。

脅かしや暴力にひるまず、屈することなく、知恵を使い、仲間に呼びかけ、仲間の力を結集させ、
そうしてゴロツキどもを一掃する。

その胆力。その思慮深さ。その意志の強さ、大きさ。
それらは、もしかしたら彼らの生来の資質であったのかもしれません。
しかし、何度もこころ折られ、嘆息し、くじけそうになった「アスケシス(精神訓練)」を通じて
「仕込まれ」、資質を大きく成長させた。
彼らはガンダルフの言っていた通り、成長し、大きくなったのです。

これから先、彼らの現実に災難や困難がふりかかって来たとしても、
それらは道を照らす灯となるに違いありません。

ちょうどバスチアンが「生命(いのち)の水」を浴びたときに感じた「生きる悦び、自分自身であることの悦び」が、
その後年老いてからも、人生で最も困難な時期にさえ、彼をほほえませ、
そして周囲の人々を慰めた、と語られていたように(2)

そして彼らといっしょに旅を経験した読者もまた、現実に立ち向かおうとする彼らの勇気の一粒をもらうのではないでしょうか。

f0223055_1011534.gif


仲間のサムが、旅の途中でエルフ(妖精)の奥方からプレゼントにもらった土(粉末)は
印象的です。
中には、種子(たね)がひとつ入っていました。

木を切り倒され、荒れはてたホビット庄に、サムはその土をまき、種子をまきます。
すると後に、緑は豊かに育ち、「マルローン樹」といわれるファンタジーの森にしか生えない樹が、
美しく神秘的な枝を茂らせることになったといいます。

もしかしたらトールキンは、「マルローン樹」の種子が、
読者の(そしてもしかしたら作者自身の)現実世界にもまかれ、
葉を繁らせることをひそかに願ったのではないでしょうか。

その実は食べられるものではないらしく、腹の足しになったわけではないらしい。
しかつめらしい教訓や知識や情報や何かの役に立つものでもないらしい。
ましてや、経済や産業の利益につながるわけでもないらしい。
しかし、その美しさを愛でるために、近隣の村や、遠くの方からも人々がやってきたといいます。

その木陰は時に、畑の耕作に疲れた人々が腰を下ろして安らぐ憩いの場所となったかもしれません。
激しい雨のときには雨宿りの場となり、
酷暑のときには、厳しい陽射しから身を守るための日陰を提供してくれたかもしれません。
村にそびえ立つその姿は、道に迷う旅人にとっての目印しとなったかもしれません。

ひょっとしたら、宮沢賢治が遺した「 虔十公園林」(3)のように、
その根元で子どもたちが夢中で遊んだかもしれません。

そしてたぶん、
……いえ、きっと、その木陰は緑の風を運び、
バスチアンがファンタージエン国から持ち帰った「生命の水」のように、
この世界をいきいきとさせた。
「人生って悪くないかもしれない」と思わせてくれるような、
そんなふうな木陰だったのではないかと思うのです。

f0223055_1011534.gif


紙芝居の扉を開けて絵が見えたとき。
演じ手が口を開いて物語が始まるとき。
そこに現出する世界も、ここではない世界──異界です。

それは、「ファンタージエン国」、「ナルニア国」、「第二世界」と、呼び名はさまざまですが、
魔女ややまんばやかいじゅうたちがすんでいる世界。
つまりは、わたしたちや子どもたちの心の現実のずっと奥底、
10フィート以上も深く根っこをもつ世界。

時に恐ろしく不安に満ちていて、時には死の世界にさえ通じていたりする。
楽しいだけでなく、怒りやかなしみにも満ちている。
そして、だからこそおもしろく魅力的な世界です。

物語の主人公は、成長する子どもたちが母のもとから旅立ち「行って帰ってくる」ように、
母なるものから切り離され、旅立ち、その異世界へ「行って帰ってくる」。

紙芝居を作るとき、わたしたちもまた、その世界へ「行って帰ってくる」のでしょう。
そして、紙芝居を演じたり、みたりするとき、
演じ手や観客の子どもたちは、主人公といっしょに、そこへ「行って」、そうして「帰ってくる」。

それは、ただ、遊ぶだけです。
が、しかし、そうしてただ遊び興じて帰ってきたとき、子どもたちの手には、
サムが持ち帰ったような樹の種子が──
どんなにつまらない小さなものでも、何かの種子が、握られているのだと思います。
また、そうであればいいなあと思います。




《引用・参考文献》
(1)J・R・R・トールキン、瀬田貞二・田中明子訳「指輪物語」評論社
(2)ミヒャエル・エンデ、上田真而子・佐藤真理子訳「はてしない物語」岩波書店
(3)宮沢賢治「虔十公園林」〜「宮沢賢治全集6」ちくま文庫・所収
[PR]
by kamishibaiya | 2011-01-05 10:29 | 紙芝居/脚本を書く | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


by kamishibaiya