右か左か、明日はどっちだ?・02

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右へ進めば天国、
 左へ進めば地獄という文化



右と左。
そのイメージについては、社会人類学の立場から、
ロベール・エルツがひとつの答えを提出しています。
右側が○(よい)で、左側を×(悪い)とする文化が世界的に見られるというのです。

世界の諸民族では、宗教的、社会的、文化的に、

=「聖」「正」「強」「美」

などとして上位に置き、反対に

=「俗」「邪」「弱」「醜」

とすることが圧倒的に多い(1)

これは、利き手に関係するでしょうか。
人間は、なぜか一般に、右利きの人が多い。
この傾向は、世界各地を見渡しても、各時代を見渡しても、変わらないのだそうです。

右利きは多数派で、左利きの人は少数派。
その右利きの人は、利き手となる右手を頻繁に使い、右手が器用となる。
反対に、利き手でない左手は不器用で、左手を使うのは劣ることになりやすい。
そのため、右手を使うことが妥当、
つまり、右が妥当で、正しいとされることになるのかもしれません。

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欧米では、「右」と「左」という言葉をたどるだけで、左右の優劣がはっきりわかります。

前回、ちょっと触れましたが、ラテン語の「sinister」は「左」を意味するとともに、
「不吉な、邪悪な」という意味でもあります。
一方、「dexter」は「右」という意味とともに、「器用な、機敏な」を意味する言葉です。

これらのラテン語を語源とする
英語の「sinister(左の)」「dexter(右の)」、
また、イタリア語の「sinistra(左)」「destra(右)」
にもやはり「右・左」以外に、同様の意味が付随しています。

また、「右」を意味する英語の「right」は、「正しい、まっすぐなこと」。
「オーケー」「妥当」の意味だったり、「正当性」や「権利」「法」という意味にも使われます。

一方、「左」を意味する英語の「left」の語源は、「弱い、価値がない」などを表す古英語。
一説には、右利きの人が何か仕事をするときは、利き手である右手ばかり使うため、
左手は「left out(除外する、無視する)」ところから
案外、「left」となったのではないかといいます(2)

こうした傾向は、他のヨーロッパの言葉でも見られます。

フランス語…………「droit(右)」・「gauche(左)」
ドイツ語……………「recht(右)」・「link(左)」
スペイン語…………「derecha(右)」・「izquierda(左)」
ポルトガル語………「direita(右)」・「esquerda(左)」
ロシア語……………「право(右)」・「лево(左)」

それぞれ「右」を意味する言葉は、
同時に「正しい」「正当性」「権利」「器用な」などの意味を持つ。

「左」を意味する言葉は、やはり
同時に「不器用な」「不幸な」「いかさまの」といったような使われ方をします。


フランス語で「左」を意味する「gauche」は、
「歪んだ」「厄介な」「下手な」「不器用な」という意味をもつ言葉。
そう、
宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」(3)の主人公の名前です。
ゴーシュ──日本語訳すると「左」さんは、なるほど、
セロ(チェロ)の演奏が「下手」で「不器用」でした。

さすが宮沢賢治、ナイス・ネーミング!

「左」をスペイン語の辞書で調べていたら、マイナスな表現が並ぶ中で唯一、
「tener mano izquierda(左の手を持つ=手腕がある)」
という成句を見つけました。
これは日本でいうところの「左利きは器用」と同じ意味かと思ったら、さにあらず。
スペインの闘牛士は、右手で剣を持ち、左手でマレータ(あの赤い布)を翻して、
襲いかかってくる牛をさばきます。
名人はその左手の使い方がうまい。
そこから、そうした左手を持つことが
「上手にコントロールする。手腕がある」という意味で使われるのだそうです。

こうしたプラスの意味の成句が珍しいほどに、
欧米での「左」のイメージはだいぶ分が悪いようです。

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その欧米文化の源流をたどると、ひとつには古代ギリシアに行き着くわけですが、
古代ギリシアでも右が優勢です。
ギリシアでは、右の方向が幸運とされていたようです。

たとえば、ホメーロス「イーリアス」(4)で、
神様のゼウスが時々、人々に何か幸運の兆しを示そうとします。
お得意の雷のイナヅマをひらめかせたり、
長者屋敷の扉ほどの大きさもある巨大な鷲を飛ばせたりするのですが、
その際には必ず人々の右方向の位置へ出現させています。

同じくホメーロス「オデュッセイア」(5)でもゼウスは、
主人公オデュッセウスの息子テーレマコスの言葉に答えるように2羽の鷲を飛来させますが、
鳥たちは人々の右側をよぎっていきます。

またたとえば、アイスキュロス「アガメムノン」でも、
戦へと赴く出陣前の鳥占いが、コロス(合唱隊)によって語られています。
黒鷲と白鷲が、
「槍を執る、右手の方の、誰しも目につくところに」
姿を現したというので、これは吉兆だというわけです(6)

こうした鳥占いなどの文化がローマ時代に引き継がれ、
それが「sinister(左)」を「不吉な」というようになった起源だとする説もあります。

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古代ギリシアの哲学者プラトンの「国家」に、臨死体験が語られる場面があります。
戦死しながら屍体が腐らず、死後12日目に生き返ったエルという男が語ったとされるくだりです。

彼の魂は肉体を離れると、ある不可思議な場所にたどり着く。
そこは裁きの庭で、大地に2つの穴、それと向かい合って天にも2つの穴が開いている。
その間に裁判官たちが並び、やって来る者たちに判決を下し、しるしをつける。
そうして正しい人たちは右側の天の穴へ上っていき、
不正の人たちは左側の地の穴を下って1000年にもわたる刑罰を受けるといいます。

いわば、天国と地獄のようなもの。
その天国は右にあり、地獄は左で口を開けているというのです(7)

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欧米文化のもうひとつの源流であるキリスト教でも、やはり右が圧倒的に優勢。

「主よ、あなたの右の手は力をもって栄光にかがやく、
主よ、右の手は敵を打ち砕く。」
「出エジプト記」第15章6節(8)

というように、旧約聖書では、神様の右手が活躍することが多い。
多くの宗教画でも、神様の御手は右手として描かれます。

ユダヤ人の名前としてよく見られる「ベンヤミン」という名は、「右手の息子」を意味する。
ユダヤ教、キリスト教では、右手は祝福された手をあらわしますから、
これは「幸せな子」という意味になるのだそうです。

また、たとえば「創世記」第48章の1シーン。
ヤコブ(=またの名をイスラエル)が147歳となり、いよいよ死期が近づいたとき。
その子ヨセフが、自分の息子2人を引き合わせ、
彼ら兄弟にとっては祖父にあたるヤコブに祝福してくれるように頼みます。

老齢のヤコブは目があまり見えなかったので、ヨセフは
長男を彼の右の方へ、次男を左の方へ近寄らせる。
ところがヤコブは、腕を十字に交差させ、右手を次男の頭に置き、左手を長男の頭に置きます。
不満に思ったヨセフが抗議すると、ヤコブは、
「わかっている。子よ、わたしにはわかっている」
と説明します。
2人ともに将来大いなる者となり、その子孫も繁栄することになる。
けれど、弟は兄よりももっと大いなる者となり、子孫も栄えるだろうというのです。
ここでも、右の手が上位とされています(8)

新約聖書(9)でも、イエス・キリストが昇天すると、
神の右の座につくと語られています(「マルコによる福音書」第12章36節)。

「最後の晩餐」をテーマにした伝統的な絵画で、イエスの右隣りに座して描かれるのは、
「イエスの愛しておられた弟子」であるといわれるヨハネです。

そしてイエス・キリストが再臨する最後の審判では、次のような場面が語られます
「マタイによる福音書」第25章31節)。

王の前にすべての民が集められ、羊飼いが羊(ヒツジ)と山羊(ヤギ)を選り分けるように、
人々も右と左とに選別される。
その際には、羊(=従順、生け贄、キリストの象徴とされる)は右側に。
山羊(=罪人、サタンの象徴とされる)は左側に。

「右側にいる人たち」は、利他的に、弱く貧しい人を助け、親切にした人々。
彼らは、「祝福された人たち」「正しい人たち」と呼ばれ、
「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」
と優しい声をかけられます。

対して「左側にいる人たち」は、他人を省みなかった利己的な人々。
彼らは「呪われた者ども」であり、
「悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」
と厳しい罰が宣告されます。

プラトンの倫理観とは少々異なりますが、
「正しい人」が右の天国へ行き、「不正の人」が左の地獄へ行くという図式は同じです。

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ちなみに、ユダヤ教の影響を受けているイスラム教でも、同様の図式が語られます。
この世の終末の審判の日のことを「コーラン(クルアーン)」はこう述べます。

そのとき人は、生前にしたすべてのことが包み隠さず記録された「帳簿」
(いわゆる「エンマ帳」のようなものでしょうか。敬虔な者の記録は「イッリーン」と呼ばれ、
放蕩者の記録は「シッジーン」とも呼ばれます)
を渡される。

「帳簿を右手にわたされた者」は、善行を積んだ者として楽園へ行く(第69章19節)。
しかし、「帳簿を左手にわたされた者」(第69章25節)、
あるいは「背後に帳簿を授けられる者」(第84章10節)は、
罪人として、ザックームという猛毒の木の実を胃袋いっぱいに詰め込まれ、熱湯を飲まされたり、
業火に焼かれることになります。
つまり、地獄に行くというわけです。

また、第56章(出来事の章)では、その審判のとき
人々は3つのグループに分けられると説かれています。

ひとつは、宗教心に篤く善行の先頭を進む「率先する者」
彼らは至福の楽園に召される。

二つめは、「右がわの者」
彼らも、涼しい日陰と泉と果物に満ちた楽園へ行く。

が、三つめの「左がわの者」は、
悪行の報いとして、上述のような地獄へ送られるとされます(10)

イスラム世界でも、右=天国行き、左=地獄行き、なんですね。

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左右についてのこうした伝統的なイメージは、
ダンテの「神曲」(11)にも受け継がれています。

「地獄篇」で、ダンテと案内人であるヴィルジリオは、
「足を左の方へ向け」(第10歌)、
「底へ向かって左へ左へと下りて」(第14歌)、
「道を左にとり」(第18歌)、
「左へ曲がりながら下って」(第19歌)
地獄界を巡ります。
地獄界は、地の下に穿たれた、いわば巨大なすり鉢状の穴。
そこを二人は、左へ左へと旋回しながら、下降していく。

ただ例外もあります。
燃える墓の広場では高い城壁のあいだをぬけるために「右へ曲が」ったり(第9歌)、
ジェリオーネという怪獣の背中に乗るために、
「少しばかり道を外れて右のほうへと下」ったりもしています(第17歌)。
しかし地獄へ下るときには、基本的に左方向へ進むわけです。

地獄界の中心である堕天使ルチフェロ(いわゆるルシファー。サタンとも呼ばれる悪魔)の元へ
たどり着いた二人は、
今度は、反転するようにして地獄を脱出し、浄罪界へとやって来ます。

浄罪界には、巨塔のようにそびえる“浄罪山”という山があり、二人はそこを登ることになります。
そこで出会う魂たちは、たいてい右方向にいる。

出会った魂のひとりに、負担の少ない近道を尋ねると、
「斜面を伝って右手に廻るがいいだろう、そうすれば生きた人にも登れる道がみつかるはずだ。」
とアドバイスされます(第11歌)。
また別な魂のひとりに、より高いところへ至る案内を請うと、
「絶えず諸君の右手が外に向くようにし給え。」
といわれます(第19歌)。

その後、案内人であり旅の道連れであるヴィルジリオは、
「私たちは右の肩を縁の方に向けて、いつものように山を廻らねばなるまい」
と言い、新たなる道連れを加えて三人となった一行はそのように登り、
疑わず、迷わず、天堂界(いわゆる天国)への道をたどることが出来ます(第22歌)。

天国へ向かうには、右方向へ進むわけです。

「神曲」では、右へ行くということが、
正しい道を歩む、正しい行いをするということの暗喩にもなっているんですね。

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……と、以上のような欧米の観念と教養は、
欧米人(フランス人)のロベール・エルツにとっては自明のことだったかもしれません。
彼の著作では、「右手の優越」を前提として、むしろ欧米以外の地に目を向け、
人類の原初的な文化の姿を探りながら左右について論じています。

たとえば、ニュージーランドのマオリ族や北米インディアンの各習俗でも、右が上位。
西アフリカのニジェールの諸部族でも左手は不浄とされ、
女性が料理をする際にさえ左手を使わないのだとか(1)

ヒンドゥー教や仏教を生んだインドでも、右手が清浄で左手が不浄とされていますね。
古代インドでは、目上の人や聖火など敬うべきものに対しては、
不浄な左手を隠し、右手(右肩)を向けて廻るのが礼儀とされていたそうです。

ブッダの最晩年を描いた「大般涅槃経(大パリニッバーナ経)」。
遊女アンバパーリーや鍛冶工の子チュンダが尊師(ブッダ)に礼をしてその場を辞去する際には、
「右肩を向けてまわって」立ち去っています(12)

また、ある神さまがブッダと対話して、その言葉に感じ入ったときも、
「右まわりの礼」をしてから後に消え失せています。
右肩を向けて廻ることで、尊敬をあらわすのだといいます(13)

この習慣は、
「右遶三匝(うにょうさんそう)」(=尊像を礼拝するとき、そのまわりを右回り(時計回り)に三回まわること)
というような礼式となって仏教に伝えられているそうです。
だから今でも、たとえば東大寺二月堂などで「お百度参り」するときにも、右回りなのだとか。

ブッダがこの世に誕生したのは、生母摩耶(マーヤ)夫人の「右」脇からといわれています。
生涯の最期を迎えたときには、「右」脇を下に臥して床に横たわる姿だったといわれ、
それが「涅槃像」として伝えられています(14)

ブッダ、そして仏教も、右を聖なる側として意識していたことがわかります。

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以上のように、
「右手は器用で力が強い:左手は不器用で力が弱い」
とするだけではなく、
「清浄:不浄」
「聖:俗」
「善:悪」
「正:邪」
「美・醜」
など、右と左にいろいろな観念が結びつき、
総じて「右」を上位におき、「左」を下位におく文化が世界各地にみられるわけです。

1909年に発表されたエルツの論文「右手の優越」以降に進められた研究では、
「右」上位の世界的な傾向を裏付ける一方、
しかし、その各々の観念は単純な二元論ではかたづけられない、
それぞれの事情や状況、いきさつやいわれによって違うという見方がされているようです。

そして何によらず例外というものがある。
その“例外”の代表的な例のひとつが中国であり、そして日本の文化です。

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《引用・参考文献》
(1)ロベール・エルツ、吉田禎吾・内藤莞爾・板橋作美訳「右手の優越」ちくま文庫
(2)マーティン・ガードナー、坪井忠二・藤井昭彦・小島弘訳「自然界における左と右」紀伊国屋書店
(3)宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」〜「宮沢賢治全集7」ちくま文庫・所収
(4)ホメーロス、呉茂一訳「イーリアス」~呉茂一・高津春繁訳「ホメーロス」筑摩世界文学大系、筑摩書房・所収)
(5)ホメーロス、高津春繁訳「オデュッセイア」~呉茂一・高津春繁訳「ホメーロス」筑摩世界文学大系、筑摩書房・所収)
(6)アイスキュロス、呉茂一訳「アガメムノン(オレステイア三部作)」〜「ギリシア悲劇1ーアイスキュロス」ちくま文庫・所収
(7)プラトン、田中美知太郎・藤沢令夫・森進一・山野耕治訳「国家」~田中美知太郎編「プラトン2」(「世界の名著7」)中央公論社・所収
(8)「口語・旧約聖書」日本聖書協会
(9)「新約聖書・詩編つき」日本聖書教会
(10)藤本勝次・伴康哉・池田修訳「コーラン」〜藤本勝次編「世界の名著15」中央公論社・所収
(11)ダンテ、野上素一訳「神曲」~「ダンテ」世界文学大系、筑摩書房・所収
(12)中村元訳「ブッダ最後の旅ー大パリニッバーナ経」岩波文庫
(13)中村元訳「ブッダ神々との対話ーサンユッタ・ニカーヤ1」岩波文庫
(14)永井信一「東洋美術における右と左」〜中森義宗、衛藤駿、永井信一「美術における右と左」中央大学出版部・所収

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by kamishibaiya | 2011-01-10 14:54 | 紙芝居/絵を描く | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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