右か左か、明日はどっちだ?・03

f0223055_10385947.gif人はなぜか地獄の側(左)へ行きたがる


文化としては、右を上位とする傾向が世界的にみられる。
これだけ顕著な傾向があるとすると、
これは何か人間の本来的な性向に根ざしたものではないかと思ってしまいます。

ところが、例外中の例外──というか、規格外の文化があります。
メキシコのテネハパ村のツェルタル語。
この言語には、そもそも「右」と「左」という言葉さえ存在しないというのです。

そして「右」「左」のない同様の文化は他にも、
オーストラリア先住民族のアランダ語、グウグ・イミディール語、
あるいはアフリカや南太平洋の島々など各地に見られるのだそうです
(井上京子「人類の感覚ー言語人類学から」(1))。

「右」「左」という観念どころか、言葉さえないとしたら、
業績が「右」下がりになったり、「左」遷されることもなくなっていいかも……。
あ、いえいえ、けれど、日常、生活していく上ではそうとう困ってしまうのではないでしょうか。

たとえば道を訊かれても、
「次の信号を左に曲がって……」
というような説明が出来なくなる。
お母さんが子どもに、
「戸棚の左の引き出しにあるお茶碗とって」
と言えなくなる。
そんなときにはどうすればいいか。

井上京子さんは、高知県高知市の例をひいて答えています(1)
高知市の公用語はもちろん日本語で、もちろん「右」「左」という言葉はあります。
が、北を山、南を海にはさまれて、東西に長くのびる平野の中にあるという地形のため、
空間の把握のしかたは「東西南北」の座標軸を使うとわかりやすい。

▼図1:高知県高知市
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それで日常でも、「右・左」ではなく、
「東西南北」を使う言い方をする習慣が、特に老齢の方にあるのだそうです。
道を訊かれると、
「次の信号を南に曲がって……」
と答える。
お母さんが子どもに
「戸棚の東の引き出しにあるお茶碗とって」
と頼んだりすることがある。

メキシコのテネハパ村は、山の傾斜地にあり、
空間の把握のしかたの座標軸となるのが、傾斜の「上り側」と「下り側」。
だからテネハパ村では、
「この道を下り側に曲がって……」
というような言い方をするそうです。

また、「上り側」と「下り側」の軸から外れた方向をさす場合には、
「○○さんの家の方」というような表現をするということで、
生活やいろいろなことをしたり、考えたりする上で、何の支障もないそうです。

つまり、「右」「左」という言葉さえない文化が存在する。
ということは、左右の概念はあくまでもそれぞれの文化から生み出されたものであって、
文化が違えばもちろん概念も違ってくる。
そこに集合的無意識のような傾向が認められたとしても、
全人類に共通する本来的、生理的なものではないということになります。

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では、生理的には人間は「右」「左」にどう対するか?
実験心理学や運動生理学、人間工学などからのアプローチが、その問いに迫っています。

ところで、筆者がよく行く近所のコンビニエンス・ストアは、入り口を入ると
すぐ右に雑誌コーナーがあります。
そこから左に折れるとお弁当コーナーがあり、さらに左に折れると飲み物などの冷蔵ケース。
そしてまた左へ折れると、ぐるっと店内を一周してレジ・カウンターにたどり着きます。

文房具など何か目当てのものがあれば、中の棚に向かいますが、
特に何もなければ
「雑誌」→「弁当」→「飲み物」→「レジ」
という左回り(反時計回り)の順番で店内を回遊することになります。

▼図2:近所のコンビニの配置例
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雑誌を立ち読みする時間がないときも、弁当を買わないときも、なぜか左回りになってしまう。
というのは、入り口を入るとすぐ左にレジがあるからです。
なので、品物を選んで店内のどこををうろうろしても、結局最後にはレジへ行くことで、
基本的に左回りになってしまうわけです。

これは店舗をデザインするときに、
お客の動線を左回りに誘導するように考えられているのでしょう。

それで近所のコンビニをざっと思い返してみると、7店のうち5店が左回り。
近所のスーパーマーケットは、3店のうち2店が左回りでした。
まあ、これはあまりにアバウトな統計なんで参考にも何にもなりませんが、
コンビニやスーパーは左回りに廻るところが多い気がします。

店舗設計についての本──たとえば、野口智雄「店舗戦略ハンドブック」(2)をみると、
右利きの人は左回りになりやすいといいます。
スーパーマーケットなど、日用の品をたくさんに購入するような店舗では、
左回りに廻りながら、利き手の右腕でカゴに入れるのが自然で、効率的となる。

全般的に、左利きよりも右利きの人の割合が多いので、
右利きの人を想定して設計するのが基本。
そのため、お客が左回りに足を運ぶよう、通路や動線を設計するといいのだそうです。

反対に、ひとつひとつの品物に注目させ、お客の足を留めさせたいような、
たとえば高級品などの店舗の場合。
こうしたお店では、お客が右回り(時計回り)に歩くように通路や動線で誘導する。
すると流れは悪くなり、お客はスイスイと簡単に通り過ぎることなく、ゆっくりと進み、
時には立ち止まって品物を眺めることになるというわけです。

ある貴金属店が、左回りだった店舗の内装を変えて右回りにしたところ、
売り上げがアップしたという例もあるようです。

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しかし、どうやら右利き・左利きには関係なく、
人には左回り(反時計回り)を好む傾向があります。

陸上競技のトラックや、野球のベース、スピードスケートのリンクなどは、
左回りに作られていますね。
馬が走る競馬場が、観客が見やすければ、右回り・左回り、どちらでもアリなのに対し、
人が走る競技では、圧倒的に左回りです。

もっとも、1896年の近代オリンピック第1回アテネ大会の競技場は、右回りだったんだそうです。
近代陸上のあけぼのであったその頃は、右回り・左回り、どちらでもよいということで、
たまたま右回りとなった。

しかしその後、競技に取り組む人々のあいだで、自然に左回りの方への流れが出来上がっていく。
そのアテネ大会から10年後の1906年。
オリンピック10周年を記念して開かれた競技大会で、やはり右回りの設定にしたところ、
「走りにくい」「不自然」という批判や不満が続出。
それほど、当時の陸上界では、左回りという感覚を人々が共有し、
それが主流となっていたんですね。

その2年後、1908年の第4回・ロンドン大会から、
オリンピックのトラック競技は、左回りとなります。
さらに1912年、IAAF(国際陸上競技連盟)が創設され、
その翌年に「left-hand inside(走る方向は左手を内側に)」という統一のルールが定められ、
現在に至るということです。

昔から絶対的に左回りだったというわけではないんですね。
では、「どうして左回りなのか?」というその理由については、
しかしオリンピック委員会でも明快な解答はないようです。

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人は、右に回る方(時計回り)が速く走れるのでしょうか?
左に回る方(反時計回り)が速く走れるのでしょうか?

朝日新聞(2006年10月29日付)の記事が、その実験を行っています。
福岡大学陸上競技部が協力して行ったその実験では、
トラックを右回りで走っても、左回りで走ってもタイムに有意差は見られなかった。
タイムとしては、どちらで走っても同じ。

しかし選手の感想は、右利きの人も左利きの人も総じて
「右回りは走りにくい」「右回りに走るのは違和感がある」
というものだったといいます。

日頃から左回りが習慣となっているため、たとえ機能としてはそれほどに違いはなくても、
心理的・無意識的に左回りを好む傾向があるということなのでしょうか?
この実験では「100m走」を行って比較しています。
が、もしも心理的な影響があるとすれば、
たとえば長距離走などになってくるとやはり差が生じるのではないかとも思わせられます。

トラックの短距離走では差はありませんでしたが、
しかし、階段を降りる場合には、左回りの方が速いのだそうで、
早稲田大学理工学部教授・渡辺仁史さんは、そのデータを踏まえ、
非常階段などは左回りで降りるような設計をするよう提唱されています
(朝日新聞・2004年10月23日付記事)。

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「足の裏博士」として知られた平沢弥一郎さんによれば、
人が直立する場合、両足で均等に体を支えずに、重心は左足にかかる傾向があるといいます。
左足で体を支える。
つまり、左足が「支持足」となる。

一方、右足は運動を与える動力としての働きを担いやすい。
多くの場合、こちらが「利き足」となります。

すると、「歩く」「走る」などの運動をする場合には、
支持足である左足がバランスを保ちながら中心となって「軸足」となり、
「運動を与える」右足は、地面を右へ蹴り出すことによって左回りへ有利に働くというわけです。

重心が左に寄るということは、左方向へ傾きやすい。
そして左カーブの際には、地面を蹴る右足が、左回転の遠心力を抑えて
前方左へ推進する力を生み出すことになります。

加藤孝義さんは上述の平沢弥一郎さんの研究をデータとともに紹介しつつ、
これには、大脳右半球・左半球の機能の影響も関わっているのではないかと述べています(3))。

大脳左半球は、右半身につながっている。
大脳右半球は、左半身につながっている、そして左足を直接的にコントロールします。
この右半球は、空間の認識や運動の機能に優位に関わっている。

そのため、右半球は、単に左足の筋肉を動かすだけではなく、身体のバランスがとれるよう、
平衡感覚などと連動させ、微妙に調節してコントロールしているのではないか。
それが左足を「支持足」「軸足」として機能させているのではないかというんですね。

それに対して「利き足」である右足は筋肉を使う単純運動。
どちらかといえば運動の推進力を担うことになる。

そうして左足を軸として、右足を推進動力としやすいことから、
左へ曲がりやすくなるのではないかというわけです。

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人は左に重心をかけやすい。
これは、自分の足を使うわけではないオートバイの運転操作にも影響するようです。

オートバイのドライバーは概して右カーブを苦手とするような傾向が、どうやら見られる。
埼玉県警察本部は、2003年に実施した調査から、
「カーブで起こった二輪車の単独事故のうち、
右カーブ対左カーブの比率は6対4、死亡事故は7対3の割合で発生している」
という結果を発表しています。

右カーブを回るときに、事故が起こりやすくなる。

その感覚は、筆者がふつうに自転車を運転していてもわかる気がします。
オートバイや自転車の運転では、カーブを走る際、
遠心力を抑えるために車体と身体を内側に傾斜させて、重心のバランスをコントロールします。

そうした時には、左に重心をかける方が心理的、無意識的にも安定を得てコントロールしやすく、
右に重心をかけるのは不得意となりやすいように思われます。

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また、とっさの場合。
たとえば、ふいにボールや破片か何か物体が飛んで来たとき。
あるいは、突然、暴走する自動車や荒れ狂うイノシシがこちらへ猛然と向かって来るようなとき。

そんな、いざという場合には、人は左方向へ身を避ける。
という傾向があることが実験からわかっているそうです(3)
理由はわからない。
が、なぜか人は左へ回避したがる。

そして、なぜか人は左へ寄りたがる。
渡辺仁史さんは、世界各地の駅、商店街、地下街などを調査した末、

「歩行者の専用道路では、自分の周りに3平方mの空間が確保できないほど込み合うと、
人の流れは左に寄っていく」


という結論に至ったそうです(前出・朝日新聞・2004年10月23日付)。

だから、交通ルールや慣習のないところでは、自然に左側通行となりやすい。
日本でも、大戦後の1949年、GHQ(連合国軍総司令部)の意向で道交法が改訂され、
「人は右、車は左」という右側通行が実施されるまでは、
「人も車(馬車)も左」が一般的だったようです。

この傾向も、人は左に重心をかけやすいということに起因しているのでしょうか?
渡辺仁史さんは、決定的な理由についてはまだわかっていないとしています。

そしてまた、
「人はどうも左側に、頼るべきものを置いて歩くようなんです」
と、渡辺仁史さんは、同じ記事で語っています。

それを裏付けるように「左右どちらに壁があると歩きにくいか」について、
歩行感を調べる実験調査を加藤孝義さんが行っています(3)

結果、右側に壁があると歩きにくく感じるとする人は、約66%。
つまり、どちらかといえば、左側に壁などの「頼るべきもの」がある方が歩きやすい
という心理がある。
そんな傾向もまた、
道路の空間で歩くときには左側へ寄りやすいということにつながるのかもしれません。

この実験調査は日本で行われたものですが、異なった文化圏ではどうでしょうか。
たとえば「右・左」という言葉が存在しないメキシコのテネハパ村で行われたとしても、
果たして同じ結果となるのか、どうか。
──興味深いところです。

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さてここで、あのグリュンワルドの空間図式を思い起こしてみましょう。

▼図3:グリュンワルドの空間図式
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人は、まっすぐ歩こうとしても、やや左へ偏る傾向がある。
左へ曲がりやすい傾向がある。
それが大脳半球の機能や、あるいは運動機能として、重心を左へおきやすいことから起きるのか、
それとも、心臓がやや左に位置するためなど他に理由があるのか、
その答えはまだはっきりと確かめられてはいないようです。

が、この傾向は、無意識的な空間象徴を描いたグリュンワルドの図式と
不思議に符合するように思われます。

現代ではあまり意識される機会は多くありませんが、
「歩く」という空間を移動する行動は、不安を伴います。
人類がまだ、野獣に食われるかもしれないと怖れていた原始の時代、
曲がりなりにも何らかの壁で守られ、火を灯したねぐら(家)の内から、
一歩外へ出ることは緊張を意味したでしょう。

外へ出歩くとき、こころの奥底では、危険を回避し、
安心安全な「内」側へ退きたい、戻りたい、身を守りたいという本能的な心理が
働くのではないでしょうか。
こうした「回避」「後退」「内向」「防御」といった要素は、
グリュンワルドの空間図式では、左への方向を意味します。

人間は、身体の周囲に、これ以上他人に近づいて来られると不快に感じるという
「パーソナルスペース」の空間を持っています。
他人との親密度の度合いや、個人の感じ方で広さは異なりますが、
電車などで混雑したときの息苦しさは、
見知らぬ他人にパーソナルスペースを侵される不快感でもあるわけです。

自分の周囲3平方mの空間に、ひょっとしたら敵かもしれない見知らぬ他人が侵入し、
通り過ぎる、すれ違うという状態は、
程度の差こそあれ不快感、もしくは無意識的に不安を生むでしょう。
そうして「自分の周りに3平方mの空間が確保できないほど」混み合う状態になると、
人の流れは左に寄って行くという。
つまり、無意識的な不安感が、退きたい、守られたい、回避したいというような
グリュンワルドの左方向へと人々を導くのではないかと解釈出来るわけです。

そして、左側に壁などの「頼るべきもの」を求めたりして、左に寄って歩く。
また、何かに襲われるなど危急の際には、とっさに左へと身を避けようとする。
不安に襲われたときや安心感を求める心理が、
人々の足を左方向に向けさせるという傾向があることも、
上述の解釈を裏付けていると言えそうです。

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さてしかし、人は無意識の安寧感の内に留まることは出来ません。
母性的な無意識の中に包まれ、呑み込まれることはしばしば死を意味します。
そしてもしも、ただ自分の欲望のままに甘え、利己的な欲望に耽溺し、
自分を律することを怠るとしたら、それは悪にもつながるでしょう。

意識は、母性の混沌(カオス)から目覚め、
葛藤を通じて「生への対決」の方向へ向かわなければならない。

つまり、グリュンワルドの示す右方向。
社会性を具える「父性」「外向」性、「努力」「願望」「未来」という能動的な方向です。

前回見た通り、多くの宗教や文化が、
左方向を悪として地獄の側とし、右方向を善として天国の側としていることも、
こうしてグリュンワルドの象徴を通じて解釈することが可能のように思われます。

天国へ行きたいと願わない人はいないでしょう。
しかし、わたしたち凡人は、とかく楽な方へ、楽な方へ、
怠惰で堕落するような地獄の側、つまり左の方向、左回りへと舵をきりやすい性向を
もともと持ち合わせているのかもしれませんね。

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さてしかしながら、日本の文化はしばしば逆方向を示し、
紙芝居もまた、左方向へと進む文化なのでした。

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《引用・参考文献》
(1)井上京子「人類の感覚ー言語人類学から」「左右/みぎひだり──あらゆるものは「左右」に通ず!」學燈社・所収
(2)野口智雄「店舗戦略ハンドブック」PHP研究所
(3)加藤孝義「空間感覚の心理学~左が好き? 右が好き?」新曜社
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by kamishibaiya | 2011-01-16 23:19 | 紙芝居/絵を描く | Comments(0)