映画「アバター」その1──他人の身になってみる

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この映画「アバター」は、2009年公開当時、「3D」作品として話題になりました。
興行的にも成功したらしいですね。
2011年現在、映画だけでなくテレビやゲームの「3D」化も普及しています。
専用メガネなしでも見られるそうな。
「3D」が当たり前となる日もそう遠くないような勢いです。
となると、この映画は興行的な記録とともに、「3D」の先鞭をつけた作品として歴史に刻まれ、
記憶されるのかもしれません。
けれど、おれは「3D」云々と関係なく、ぜんぜんおもしろく観ました。
そしてその物語のおもしろさは、
しかしどうやら、やっぱり「3D」の技術とも密接に関係がありそうなのでした。

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「他人の身になって考えてみろ」
子どもの頃、しばしば言われたもんです。
なるほど、自分をヒトの身に置き換えて考えると、ヒトが何を考えているかが理解出来やすくなる。
また思いやることも出来るのかもしれません。
他人の身になって考える「想像力」というやつは、きっと大切です。
けれど、これって難しい。
自分に余裕がないと出来ません。
利害や感情がからんだり、立場が違ったりしていると、もっと出来ません。
けれど、この「他人の身になって考える」ということを、
「アバター」という映画はやってみせてくれるわけです。

そもそも「アバター」とは、ヒンドゥー教で言うところの「化身」「肉体の顕現」をあらわす
「アヴァターラ」が語源。
神が、人間や動物のかたちに肉体化することでこの世に下った、その化身した姿をいうのだそうです。
ヒンドゥー教では、人間となるアヴァターラは青い色をしているといい、
それが青い肌のナヴィをデザインする発想のひとつのきっかけとなったと、
ジェームズ・キャメロン監督は語っています。
意識は自分のまま、他人の肉体にリンクし、分身──つまり「アバター」になる。
文字通り、「他人の身になる」わけです。

主人公ジェイクが、初めてアバターにリンクしたとき、まるで試運転をするように、囲みを破り、
スタッフの制止をふりきって外へ飛び出し走るシーンがありました。
戦争のために下半身不随となり車椅子生活を強いられていた彼にとって、足の裏に土を感じ、風を感じ、
思いっきり走ることはこの上ない喜びだったでしょう。
観客にもそれは伝わりました。
アバターの視点のカメラワークがうまく使われ、走るにつれて躍動する景色が新鮮。
初めて自分の足で歩いた赤ん坊の頃の記憶はもちろんありませんが、
初めて自分でこいで自転車に乗れたときの景色は、確かこんな感じだったよな。と、思わせられる。

つまり、主人公ジェイクがアバターにリンクして、異星人ナヴィの身になって体験を重ねていくように、
観客も主人公にリンクして、体験を重ねていく。
ジェイクが他人の身になって体験するように、観客も主人公の身になって体験する。
聞き手が主人公に感情移入して物語を体験する、というのは、
遠い昔話の時代から行われてきた「物語」というものの伝統的な特質です。
それをこの映画は拡大してみせてくれる。
このとき、3Dという映像システムが、実に効果的なんです。

たとえば空中に浮遊する小さな灰や、ガラス窓に付着した汚れ。
こうした細かいモチーフが遠近感の中で浮き上がって見えると、それが気配として感じられる。
3Dというと「映像が飛び出る」というフレーズで語られることが多いけれど、
むしろ「映像に入り込む」と言っていい。
立体的な景色の中へ分け入ることで、気配を体感出来る。
ヴァーチャルな錯覚とわかってはいても、視覚・聴覚だけでなく、
五感さえ刺激される気がするのです。
リアルな臨場感。
その後も、3D映画を何本か観ましたが、そうした感覚はあまりありませんでした。
これは、この映画の綿密な映像演出のせいという要素も大きいかもしれません。

惑星パンドラのその立体的な世界は、エンターテイメントとして美しく描かれ、
また世界観の設定が緻密なこともあって、深い奥行きが感じられます。
細部に至るまで見事。
空飛ぶ島、巨大樹、六本足の獣たち、夜になると発光する植物、
浮遊するクラゲを思わせる植物の胞子……。
神秘的な謎にも満ちた確固たる世界が、リアル感を伴って確かに目の前に感じられる。
それだけで飽きません。

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では、主人公ジェイク(そしてジェイクにリンクした観客のわれわれ)が「他人(ヒト)の身になって」
体験するその「他人」とは誰か?
彼とわれわれ観客は、どんなアバター(分身)となってこの映画の物語を体験するのか?
──それは、異星人ナヴィ。
先進諸国から見れば異文化の体現者であり、マイノリティ(少数民族)になぞらえられる存在です。


初めてジェイクが森に入ったとき、仲間とはぐれ、猛獣に襲われる。
結果、猛獣を殺すことになったわけですが、ナヴィの女戦士であり、
狩人であるネイティリはそのことを責めます。
自然の中では襲われないためのルールともいうべき自然の処し方があり、彼はそれを破った。
身を守るためとはいえ、無益に生命を奪うことは自然の調和やバランスを破壊すること。
部族では当たり前のそうした自然の理を知らない彼を、
何も知らない「赤ん坊」と呼んでネイティリは非難するのです。

やがてジェイクはネイティリに学び、狩りの仕方を教わるようになる。
初めて獲物を仕留めたとき、
師である彼女が教えたのは、奪った生命に対して祈りの言葉を捧げることでした。
生命を奪い、その生命を自分の糧とすること。
それは自然の摂理であり、狩りということの本質であり、生きるということの現実。
そのことに感謝し、奪った生命の魂の平安を祈ることを教えるわけです。

こうした儀式の習慣は、世界各地の狩猟民族のあいだに見られます。
日本の東北や北海道の伝統的な狩猟集団であるマタギたちも、同じような祈りを捧げていましたね。
マタギとの脈絡があるといわれるアイヌもそうです。
アイヌ民族の世界観によれば、熊や鹿などのけものたちは神であり、
本来の魂は山奥深く(あるいは天上)にある神の国(カムイ・モシリ)にいる。
それが人間の国(アイヌ・モシリ)へ時々やって来て、
食糧となる肉や毛皮を人間にもたらしてくれるのだといいます。
だから、彼らを仕留めたときには、
感謝して彼らの魂を神の国へ帰す祈り(カムイノミ)を捧げる(1)

ナヴィでは、死んだものの魂は、「エイワ」に帰ると言っていました。
「エイワ」というのは、
どうやら惑星パンドラに生きとし生けるものすべてを結ぶネットワークの総和で、
惑星生命体のようにひとつの意思を持ち、神に近いような存在であるらしい。
動物であれ、植物であれ、ナヴィであれ、すべてがネットワークに結ばれているというのです。
仏教でいうところの「縁」の概念に近いかもしれません。
北米インディアンには、

「ミタケ・オアシン(すべては関わり合っている)」

という言葉があるといいます(2)
星に生きるすべての生きものたちが「関わり合」うその糸のひとつひとつの総和が
「エイワ」ということなのでしょう。

その糸、きずな、その結びつきが可視化されて描かれる。
そういうところが、映画のおもしろいとこですね。
神経繊維のニューロンのような、植物の根のネットワークが星じゅうに張り巡らされている。
動物たちもまた、それぞれ、先端が触手状の神経の束のような
「フィーラー」といわれる器官を持っている。
(これはちょうどアニメ映画「風の谷のナウシカ」の王蟲(オウム)の触手を思わせます。
この映画には他にも、「空飛ぶ島」「獣の暴走」など、
ジブリ作品をヒントにしたと思われるようなモチーフがあちこちで登場します。
キャメロン監督は、宮崎駿監督のファンであり、影響を受けているんだそうです。)

ナヴィもまた髪の毛の一部に「フィーラー」を持っていて、馬のようなダイア・ホースや、
翼竜マウンテン・バンシーと意思を通わせ、乗りこなすときに互いの「フィーラー」を絡み合わせる。
また、大地に根を伸ばす「魂の木」は端末のような役目をしていて、
その木に「フィーラー」を絡みつかせることで、
ナヴィは惑星の「エイワ」のネットワークにアクセスすることが出来る。
「魂の木」にアクセスすることは先祖と一体化することなのだともいいます。
ネットワークには、今は亡き先祖たちの記憶も蓄積されているということなのでしょう。
北米インディアン・アラバホ族に、

「植物はひとの兄弟姉妹。耳を傾ければ、語りかける言葉を聞くことができる」

という言葉がが伝わるそうです(2)
ナヴィもまた、植物や動物や自然の語りかける言葉を聞くことが出来るのでしょう。
耳ではなく、「フィーラー」によって。

自然と共生するナヴィの生き方が、「フィーラー」というモチーフが設定されることで、
わかりやすく描かれることになりました。
地球に住むわれわれ人類も、かつてはそうだったのかもしれません。
「フィーラー」のような感受性を持ち、自然を畏れ敬い、自然からの声を聞き、感謝し、
自然とともに生きていた。
が、人類はやがて自然から離れ、むしろ自然を克し、支配することで文明を築き、進歩を果たしました。
いつしか「フィーラー」をなくし、自然にアクセスすることを忘れてしまった。
けれど、前世紀にはまだ、心に「フィーラー」を持った人々が生きていた。
文明化の大きな波から取り残され、
あるいは抗い、マイノリティ(少数民族)化していった人々もそうです。

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北米インディアンもまた、
獲物であるバッファロー(野牛)を狩りで仕留めたときには感謝の儀式を行います。
アイヌにとって熊が神であったように、
彼らにとってバッファローは、敬意を込めて「あなた(thou)」と呼ぶ存在だったといいます。
大量の毛皮を売って利を得るため、かつインディアンへの食糧供給の道を断って追いつめるため、
白人がバッファローの大量虐殺を行ったとき、
バッファローは「あなた」ではなく、「それ(it)」と呼ばれました。
利益になる舌と毛皮をはいだあとの食肉などは、腐るままにまかせたといいます(3)

白人に殺され皮をはぎとられ、肉塊(it)となったバッファローのいたましい光景は、
映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ」でも描かれていましたね。
伝統的な狩猟では、「わたし」と「あなた(thou)」が向き合う中で、生命のやりとりが行われる。
その尊さを知るからこそ、
生命を奪ったときには肉の一片すらもおろそかにしないで「いただく」というのが、
ひとつの掟(ルール)のようになります。
肉や毛皮や角はもちろん、革はティピー(テント)にする。
腸は煮詰めて膠(にかわ)にする。
背中のこぶは楯に使う。
無駄にするものは何もない。

北西部海岸沿岸に暮らしていた部族では、食糧とするサケを必要以上に穫ったり、
後でそのサケを捨てたり無駄にしたりすると、霊界が怒って、
たとえば火山を噴火させ人間たちに報復するのだといって戒める。
それが説話のかたちで残されています(4)

植物に対しても同じです。
篭(かご)を編むため、杉の木の根の皮を採る際には、杉の木に向かって

「私はあなたに、長い生命を与えてくれるこの大切なものを
ゆずってくれるようにお願いに来たのです。」
(クワキュートル族の伝承歌)

と、儀式の歌を親しく歌いかけて感謝し、皮をはぎとります(5)

アイヌでもまた、動物や植物を理由なく傷つけたり、おろそかにすれば、飢饉に襲われると伝えられる。
しかし、近代の功利的な経済社会では、敬意も感謝も自然観も生命観も無視されます。
利となる毛皮(it)の質や数量こそが必要目的であり、その他のことは問題とされない。

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映画の舞台となる22世紀。
地球は、エネルギー問題が深刻化し、自然資源も枯渇し、
どうやらそうとう悲惨なことになっているらしい。
地球にはもう、自然とともに生きるような種類の人々は、
転向するか滅びるかして、とっくにいないかのもしれません。
地球を台無しにし、そうして宇宙に進出した人類は、そこで自然と共生する生き方をする種類の人々と、
たぶん2世紀ぶりの遭遇を果たすのです。
異星人ナヴィという生き方をする人々と。

自然を征服し文明を発展させ、そのテクノロジーで遠い宇宙へ進出してきた地球人類は、その時代、
おそらく勝者でありマジョリティ(多数派)なのでしょう。
対して、原始的な狩猟を営み、自然と交信しながら生きるナヴィは、
マイノリティ(少数派)であるのでしょう。

21世紀の今、先進国では多くの人々が、自然と隔絶した町の中、
冷暖房付きの季節のない建物で暮らしています。
お金さえ払えば、食糧はコンビニやスーパーにあふれている。
食糧として動植物が店頭へ並ぶまでの、育てたり殺したりする過程は、
すべてブラックボックス化されています。
おれたちは「それ(it)」の中に生まれ、「それ(it)」に囲まれ、育ってきました。
稲の苗を「あなた(thou)」と呼んで育てたり、
豚を「あなた(thou)」として育て、その敬う「あなた」を殺して私たちの糧とする、
という経験をしている人は限られています。
われわれ観客の多くもまた、マジョリティ(多数派)の側。

そしてもちろん、主人公ジェイクはマジョリティの社会で育ち、その社会の価値観を持ち、
その社会で生きてきた男です。
その彼と観客であるわれわれは「アバター」という分身を通して、
異質な文化と異質な価値観を持つマイノリティの社会の中に放り込まれる。
「他人の身になる」というその「他人(ヒト)」とは、ここではつまり、
マイノリティを生きる「人」たちになるということ。
マジョリティ側にいるおれたちは、
この物語でマイノリティを生きる生き方を体験することになるわけです。

それはひとつの快感でもありますね。
いやあーー、気ン持っちいいんだ、これが。

……って、書ききれなくなっちゃった。
次回に続きます。

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《引用・参考文献》
(1)中川裕「アイヌの物語世界」(平凡社ライブラリー)
(2)エリコ・ロウ「アメリカ・インディアンの書物よりも賢い言葉」(扶桑社文庫)
(3)ジョーゼフ・キャンベル+ビル・モイヤーズ、飛田茂雄訳「神話の力」(早川書房)
(4)C・バーランド、松田幸雄訳「アメリカ・インディアン神話」(青土社)
(5)ジョゼフ・ブルチャック編、中沢新一+石川雄午訳「それでもあなたの道を行け」(めるくまーる)

















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by kamishibaiya | 2011-02-25 16:54 | よんだり、みたり、きいたり | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


by kamishibaiya