映画「アバター」その2

f0223055_17455451.gif未来からの手紙


異星人ナヴィの死生観や自然観は、われわれ日本人に近しいところがあります。
おれは日本人ですが、残念なことに俳句は詠めません。
が、読むことは好きです。
森を散策したり自然と交流することで詩と向き合う俳句などは、きっと心に「フィーラー」を残していないと出来ないに違いないと思います。

日本人は、西洋の文明に生きて来た人々よりはナヴィに対して違和感が少ないのではないでしょうか。
豊穣な、母なる自然。
その恐ろしく残酷でもあるマイナスの側面が描かれることが少なかったりするのは、まあ、映画の常ですね。
映像には、イマジネーションを縦横に広げて描かれる華やかさがあり、そこでの生活は現実離れのした、まあ、つまりは仮想現実。
「夢のような」非現実の体験ではあります。
が、やっぱり魅力的。

翼竜のようなマウンテン・バンシーを乗りこなす試練は、一人前になるための通過儀礼のようです。
一歩足を踏み外せば奈落へ真っ逆さま。
そんな場所で暴れる野生の鳥をロデオのように乗りこなすのは、スリルどころではなく、生死を懸けた試練です。
それをやり遂げたときのジェイクのよろこびを、観客もまたちょっと分けてもらうことが出来る。
野生の獣であるマウンテン・バンシーと「フィーラー」を通わせ合い、その背中で風を切る爽快感。
崖の間を滑空し、空を飛び回る心地よさ。自由感。
それは、一人前のナヴィとして生きていくことのよろこびと重ねられます。

そして自然人ネイティリがまた、魅力的なんだよなあ。
演じた女優であるゾーイ・サルダナのことをこれまで知りませんでした。
俳優の動きを取り込み、CGに移し替えるパフォーマンス・キャプチャーという技術によって、彼女は全編、青い肌のナヴィとなって登場するため、素顔を見せません。
が、撮影までの半年間、武術や馬術、弓矢の技術を学んだというその動きは、ヒョウやオセロットのようにしなやかで美しく、セクシーです。

俳優がスクリーンや舞台で演じるということは、文字通り「アバター(分身)」にたとえられます。
ナヴィの女戦士ネイティリという「キャラクター=アバター」に映された姿は、余計な粉飾のないせいもあってか、純粋で、心もしなやかで美しく感じられたものでした。
「アヴァターラ」がヒンドゥーの神の魂を映した化身であるように、「アバター」もまた俳優の素顔を映しているのでしょう。
映画を観た後、ネットでゾーイ・サルダナの素顔を見たら、これがまた想像通りに美しく、チャーミングでした。

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さてしかし、ナヴィの「アバター」となることは、ナヴィそのものになることではありません。
そして物語のこの状況で「アバター」となることは、地球人類(マジョリティ)とナヴィ(マイノリティ)が対立するその切っ先の狭間に身を投じるということです。

おれは海外旅行というものをしたことがありません。
が、自国を離れて外国というものを少しでも経験すると、はじめて自分の国がわかった気がするという話を友だちからもよく聞きます。
人は、他者という鏡に自分の姿を映すことで、はじめて自分というものを知ることが出来るのでしょう。
異なる側に立って、外側から客観視することで、自分の姿というものが見えてきたりする。
他人の身になって、他人の側からながめたとき、自分のひずみや歪みも見えてくる。
ジェイクがアバターとしてマイノリティを生きたとき、自分の属するマジョリティ社会のひずみや歪みが彼の前に立ちはだかることになります。

大多数の人間の幸福のためなら、少数の人間を犠牲にしてもやむを得ない。
それがマジョリティ社会が選択して来た正義です。

かつて北米の西部開拓時代、人々は西へ西へと未知の土地へ行き、苦労して耕し、苦労して家を作り、苦労して町を作った。
確かに苦労を重ねたのだと思います。
しかし、では、その土地に代々住んで来た人々はどうしたか。
排除されました。

この映画では、「赤い人(赤色人種と呼ばれた北米インディアン)」が「青い人」に置き換えられているように見えます。
地球人類は、最初は異文化を理解しようとし、交渉を試みました。
が、結局、地球人類は地下に眠る鉱床資源を手に入れるため、「青い人」を排除し、その土地を奪おうとする。
かつて「白い人」が、利のために「赤い人」を悪と決めつけ、その土地を奪ったように。

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そうした構図は、100年前の過去でも100年後の未来でも、そして21世紀の今の世も変わらないのかもしれません。
「産業の発展」「国益」という利のためなら、数年前までは他国のものと認めていた島を突如、自分のものだと主張を始める国。
かつて隣りの国を侵略して仏教の指導者を追い出し、今は併合というかたちで、自国の圧倒的に多数の人数に比べれば少数の民族を制圧している国。
その某国の当局は今は否定していますが、一時、この「アバター」という映画の上映期間の短縮やPRの禁止を指示したというニュースが流れたことがあります。
その真偽はともかく、当局が危惧したということはじゅうぶん理解出来ます。
この映画は、大多数の富のためなら、少数は犠牲になってかまわないというマジョリティ側の論理に異議を唱え、告発する物語でもあるからです。

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映画では、グレイスら、親ナヴィ派以外の地球人類は、悪役として描かれます。
侵略を主導するカリスマ的なボスキャラは登場しません。
主導者がいないというのは現代的と言えるでしょう。
主導者が見えないまま、組織が侵略へと動いていく。
舵をきるのは、会社の資源開発部門の責任者、セルフリッジ。
彼はオフィス内ではおそらくデキる優秀な社員で、武力による強行ではなく穏便な交渉を望んでいます。
が、それというのも問題を起こすことを嫌い、上司や株主の評価を得るため。失敗したら自分が切られます。
彼は、ナヴィの身になって考えるということなど、想像したこともないでしょう。
大事な決断を下すという場面では、いかにも小物らしく尻込みをする。

そんな彼を煽るのが、根っからの軍人で、幾多の戦闘経験を積んできた、いかにも強者(つわもの)なクオリッチ大佐。
味方にとっては、経験を重ねた頼れるオヤブン。
彼はただ、会社の傭兵部隊の指揮官として、プロとして、仕事に忠実なだけです。
彼にとってナヴィは、憎むべき敵というよりも、障害となるから排除すべきものであるという「it(それ)」に過ぎないのかもしれません。
決戦の地へ向かう大型飛行艇の中で、コーヒーをすすり、「早いとこ、仕事を終わらせよう」などとつぶやくシーンなどは、いかにも悪役らしい。憎々しげに見えます。
原始的な武器しか持たず、簡単に蹴散らせるはずだったナヴィ軍によって、部隊がまさかの壊滅状態となれば、怒り心頭。
この映画ではボスキャラの役割を担い、最後までしぶとく主人公を追いつめることになります。

ナチュラルだとかエコだとか、今、時代の趨勢は自然志向に傾いています。
自然破壊を「悪」として糾弾しやすい。
また、自然と共生して生きるマイノリティを排除するマジョリティの横暴も、「悪」としてわかりやすい。
観客は主人公のアバターとともに、マイノリティ側に共感しているから、いっそうわかりやすい。
そんな「悪」に打ち勝ってみせるラストは、だからエンターテイメントとしてのカタルシスがあります。
溜飲が下がる。

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その点、歴史的な事実を背景とした「ダンス・ウィズ・ウルブズ」とは違いますね。
マイノリティ側の部族の一員となって友情を結ぶ”ダンス・ウィズ・ウルブズ”ことジョン・ダンバー(ケビン・コスナー)は、ジェイクの立場そのままです。
彼もまたマジョリティからは裏切り者とされ、拘束される。
インディアンに救出され部族に合流するも、結局、自分のせいで部族が窮地に陥らないよう、妻とともに部族を去るところでラストとなります。
インディアンが騎兵隊をやっつけてラストとはなりません。

最後に字幕で、その20数年後、スー族が騎兵隊に投降したと語られますが、
そこへ至るまで20数年の間にどれだけの悲劇があったか、われわれは知っているわけです。
「いいインディアンは死んだインディアンだ」
とする蛮行が、女性や子どもにも及んだ。
主人公たちもまた、その蛮行から逃げおおせることが出来たか、どうか。
部族のその先の運命を知っているから余計に、主人公と部族の仲間との別れが哀切を帯びて迫ってきました。

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また、この映画のラストは、映画「もののけ姫」とも違います。
「もののけ姫」では、サン(=もののけ姫)をはじめとする山犬やイノシシらの獣たち「自然」と、エボシを筆頭に、自然を開拓して産業を興して生きようとする「人間」の対立が軸となっていました。
自然を克して産業を興す。
これは、昔から人間が行ってきたことです。
たとえば、足尾鉱毒事件。
明治の当時、「富国強兵」のスローガンのもと、足尾銅山の採掘事業は、日本の「産業の発展」「国益」のための原動機の働きを担っていました。
が、精錬のための煙やガスは、付近の山の動物、植物、微生物をも死滅させる。
荒れ果て、緑を失った山々は洪水を引き起こす。
排水に含まれる鉱毒は川の下流へと流れ、人々の健康と田畑に甚大な打撃を与える。
これは暴挙に行き過ぎた例ですが、足尾には、エボシたちが行っていたタタラ場(製鉄所)の発展した姿、人間の業(わざ)の行く末の姿があったと思います。
彼らは森を切り拓いてタタラ場を作っただけでなく、そこから吐き出される煙は、付近の森を丸坊主にしていました。

そして、さらにその行く末に、今のおれたちの社会があります。
エボシたちや足尾銅山が自然を切り拓いて産業を興したように、まさにその通りの道を歩んで来ました。
封建制の中、権力に屈せず、病気の仲間に心を砕き、共同体を守り率いるエボシは、理想的なリーダー像です。
厳しい自然に立ち向かい、懸命に仕事をして、稼ぎ、生活を営み、共同社会を営む。
北米の西部開拓民もまた、同じ道を歩んで来ました。
そうした人々の労苦の上に、文明が築かれ、今の社会が成り立っている。
わたしたちの今がそうした文明の恩恵にあずかっていることを忘れてはならないでしょう。

「もののけ姫」では、どちらかを「悪」と決めつけるわけではありません。
その服装や「エミシ(蝦夷)」という出身の里の名前から、マタギやアイヌとのつながりを感じさせる主人公アシタカは、縄文時代の狩猟文化を継承する、自然と共生する民だと思われます。
彼は、サンたち「自然」側にも、エボシたち「人間」側にもどちらにも与(くみ)せず、害せず、
「曇りなき眼(まなこ)」によって両者を理解し、見定めようとします。
物語は、「神殺し(あるいは母殺しとも呼べるかもしれません)」へと展開し、その死と再生の力によって、丸坊主の山に緑がよみがえるところで幕を閉じます。
結局アシタカは、どちらにも帰属することなく、両者がいかに共生出来るかを探る道──つまり悩み続けることを選びました。
自然と共生する民らしい選択です。
おれはこの選択に、宮崎駿監督の誠実さを感じる気がします。
が、ここにわかりやすいカタルシスはありません。
われわれ観客にはモヤモヤが残ります。
どっちつかずにも見えるアシタカの選択は、「あなたはどういう道をとるか?」という問いを観客に投げかけることにもなる。

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ジェイクは、アバターとしてナヴィ側に身を置きますが、やっぱり意識や行動原理は地球人のままです。
巨大翼竜・レオノプテリックスを従えて伝説の英雄「トゥルーク・マクト」になるというのも、言い替えると、これは力を獲得することです。
獲得した権力をもって、全星の部族の天下統一をはかり、迫り来る武力に対して武力で応じる。
いわば、パワー・ゲーム。
絶体絶命のピンチのところで、「エイワ」という自然がエネルギーと力を貸してくれるという展開は重要だと思いますが、
原理としては、パワー・ゲームであることに変わりありません。

そのゲームに勝利し、悪をやっつけ、ハッピーエンドを迎えることがカタルシスとなるわけで、
エンターテイメントとしては納得の結末といえるでしょう。
が、しかし、その枠組みから抜け出せないところに、ハリウッド映画としての、引いてはアメリカの文化(文明)の限界があるような気もします。
パワー・ゲームとか経済とかも大切なことですが、しかし、そういう枠に縛られないところから、自然との共生や文化を発想し、勝ち負けではなく、解決の糸口を模索していくことが、今求められているのではないかとも思えるからです。

1977年、国連議会に応じて、アメリカ・インディアン、イロコイ族オノンダガ国のエルダー(長老)でありチーフであるオレン・ライオンズは世界に向けて声明を述べました。

「……創造神は我々を互いに平等なものとしてつくった。
そのことを私はあなた方に警告する。
しかも人間だけではなく、あらゆる生き物が平等なのである。
我々の生命が平等であることを、あなた方は理解しなければならない。そしてそれは、この世界の未来のために、あなた方が守り通さなくてはならない原則なのだ。
経済と技術があなた方を手助けしている。
しかし、あなた方が平等の原則を用いないならば、経済と技術によって、いずれあなた方は破壊されるだろう。
目先の利益や損失などは、未来の世代にとってはなんの意味もない。……」
「……悪事をなすのは我々、この二本脚の動物である我々だけだ。
そしてこの悪事を、我々の兄弟である自然に対して、あるいは他の人間に対して犯すならば、創造神の目から見て最悪のことをしでかしていることになる。」
(1)

この言葉が語られた当時からおよそ30年を経た「未来の世代」であるおれたちは、目先の利益や損失が意味のないことをいいかげん理解していいはず、です。
22世紀の未来から届いたこの映画の物語もまた、同じことを語っているように思われます。
自然に対して、マイノリティだったりする他の人間に対して、未来を台無しにするような最悪のことをしでかしてはいないだろうか。
「他人の身になる」ことで、そんなことも考えさせられた映画でありました。

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《引用・参考文献》
(1)ジョゼフ・ブルチャック編、中沢新一+石川雄午訳「それでもあなたの道を行け」(めるくまーる)
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by kamishibaiya | 2011-02-25 17:48 | よんだり、みたり、きいたり | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


by kamishibaiya