正義の見方・02

変わりゆく時代、変わりゆく正義の味方たち


ところで、これは映画の話なのですが、
ひとつのジャンルが成長し、発展していく過程には、4つの時代区分があるのではないかと、
「映画技法のリテラシー2」(1)という本に述べられています。

ギリシアのオウディウスは、時代の興亡や文化の流れを
「黄金の時代」「銀の時代」「青銅の時代」「鉄の時代」
という4つに分けていましたっけ。
この種の分け方は、よくあるのかもしれません。

が、なるほどなと思います。
これは映画のジャンルに限らず、音楽のムーブメントや個人の作品などなど、
いろいろなことにあてはまるのではないでしょうか。

以下、同書に取り上げられている「西部劇」のジャンルを例にちょっと紹介してみます。


1)「最初期の時代」
いわば、黎明期。
すでに見慣れているような既存のものとは違います。
新鮮。
そして異質です。
だから、耳目をひきやすい。注目を集めやすい。
とともに、一部からは反発を招くことになります。

「この時期はたいていその形式的な斬新さのために
感情に訴える衝撃は大きいが、
通常未熟な状態にとどまっている」

とされます。

形式や主題はシンプルな傾向があり、
未熟ではあっても、荒々しいエネルギーが魅力だったりします。
ジャンルの約束事の多くは、この時期に確立されていくといいます。

西部劇でいえば、
「大列車強盗」(1903年)など。
まだ映画というメディア自体が黎明期であった頃、
アメリカで初めて本格的なストーリー映画として作られたのが「大列車強盗」でした。
以降、フォロワー的な作品が作られ、
西部劇というジャンルが成長していくことになります。


2)「古典時代」
いわば、成熟期。
ブームが定着していき、
「ジャンルの価値は観客から認められ、
広く共有されるようになる」

ひとつのジャンルとして浸透して、一般化します。

ここに「最初期」のような危うさはありません。
安定感が出てくる。
そして様式は定番化します。

この時期においては
「安定、豊かさ、調和というような古典的な理想」
が体現されます。

西部劇でいえば、
「駅馬車」(1939年)を始めとする
ジョン・フォードの作品など。
「西部劇といえば、これ」といわれるような定番の作品が作られます。


3)「修正主義の時代」
いわば、爛熟期。
ジャンルは新鮮味を失い、
感情的には温度感を失います。
飽きられるということも起きてくるでしょう。
醒めてくる。
そして感情よりも、知性に訴える傾向が進む。

これまで支持されてきたジャンルの約束事や価値観への反省が生まれ、
批判や疑問が投げかけられる。
それだけ、主題が深く掘り下げられることにもなります。
そうして修正が求められる。
この時期には、形式や主題が複雑化する傾向があります。

西部劇でいえば、
「真昼の決闘」(1952年)など。

悪漢に立ち向かう保安官といえば、「古典時代」であれば、
ジョン・フォード作品のジョン・ウェインのような、無敵なタフガイのイメージでした。
しかし「真昼の決闘」の、ゲイリー・クーパー扮する保安官は、
暴力を恐れるふつうの人間として描かれ、古典時代の価値観に疑問を投げかけます。

そうした懐疑的な形式は、
「ワイルドバンチ」(1969年)などへと続きます。


4)「風刺的模倣の時代」
いわば、衰退期。
感情の温度差はさらに進み、
ジャンルの約束事は「紋切り型」として茶化されることになります。
パロディ化されたり、時代の錯誤ぶりがおもしろおかしく表現され、
笑いの対象となったりもします。

ここで思い出されるのは、セルバンテスの
「ドン・キホーテ」(2)です。
16世紀、「騎士道小説」というジャンルがヨーロッパで隆盛を誇る。
騎士が武者修行の冒険に出かけ、貴婦人に愛を捧げ、巨人やドラゴンを倒すという
いわば、ヒロイック・ファンタジーです。

17世紀を迎える頃には衰退していたのですが、
そんな1605年に登場したのが、「ドン・キホーテ」。
彼は「騎士道小説」のマニアで、
自分は騎士だという妄想にとりつかれて冒険に出る。
当時の読者にとっては、流行遅れのその錯誤ぶりがおかしかったのでしょう。

村の醜い農婦を貴婦人として愛を捧げ、
風車を巨人だと思い込み、突っ込んでは叩きのめされ、
ふつうの商人を敵の騎士だと思い込み、
戦いを挑んでは袋だたきにあうというパロディ小説でもありました。

西部劇でいえば、
「ブレージングサドル」(1973年)など。
西部劇を風刺したメル・ブルックスのコメディ映画です。
これを、西部劇映画の終焉と位置づける批評家もいるそうです。

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こうしたサイクルが、同じジャンルの中でくりかえされることもあるでしょう。
また、そのサイクルは、年々短くなっているように思います。

時代区分の長さはおおまかなもので、
作品によっては、時代がずれたり、あてはまりにくいものもあったりしますが、
こうした基本的な流れが、いろいろな分野に共通してあるように思います。

さて、この時代区分を、
いわゆる「正義の味方のヒーローもの」とでもいうようなジャンルにあてはめると
どうなるか。


1)「最初期の時代」(黎明期)

勧善懲悪のヒーローの源流は、神話や昔話の英雄に始まり、
滝沢馬琴などの読本や歌舞伎、
講談や、その講談を文章にした立川文庫、
少年倶楽部などの少年小説や、絵物語、マンガ、
そして紙芝居などに遡ることができるでしょう。

が、時代は新たなヒーローを求めました。

1950年代後半、神武景気が起こり、「もはや戦後ではない」といわれます。
ここから、戦後の高度経済成長が始まっていく。
ポジティブな可能性が信じられた時代。
消費者には、三種の神器(白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機)がもてはやされ、
テレビが普及していきます。
また、1950年代後半は、旧ソ連による人工衛星打ち上げを機に、
宇宙時代の幕開けといわれた時代。
人類は宇宙への一歩を踏み出し、科学が持つ無限の可能性と力が信じられました。

そんな1956年、
日本の白黒テレビに登場した「スーパーマン」は、宇宙からやってきた存在。
超人的な力と無限の可能性を持っていました。

そのヒットに刺激されて、
翌1957年、劇場映画「スーパージャイアンツ」
さらに1958年、「和製スーパーマン」として
TVドラマ「月光仮面」が作られます。

宇宙からやってきた「遊星王子」(1957年)や
「ナショナルキッド」(1960年)は、
無敵の力を持っていました。
「少年ジェット」(1959年)は、
少年でありながらおそらく無免許でオートバイを乗り回し、
かけ声で敵を倒すというような超人的な力を持っていました。
彼らは、荒唐無稽ともいえるほどの力を持ち、超人となることで正義に味方します。


2)「古典時代」(成熟期)

1963年、日本で初の国産テレビアニメ「鉄腕アトム」が放映。
原子力(アトム)の平和利用を象徴するような少年ロボットである彼は、
「ラララ 科学の子」であり、科学の力、未来の可能性そのものでした。

消費者の三種の神器は「カラーテレビ・自動車・エアコン」に変わり、
「新・三種の神器」と呼ばれました。
1964年、東京オリンピックの放送をきっかけに、白黒テレビはカラーへと普及が進みます。
翌年の1965年、
最初のカラーテレビアニメ「ジャングル大帝」が放映。
その1965年から、いざなぎ景気が始まります。
日本を経済大国へと押し上げたその右肩上がりは、大阪万博開催の年、1970年まで続きます。
万博のテーマは「人類の進歩と調和」でした。
まさに人類の「進歩」が信じられた時代だったと思います。

アトムに続くヒーローたちは、「進歩」の体現者であり、
「正義」の体現者でした。

彼らは、ロボットであったり(「エイトマン」)、
サイボーグや改造人間であったり(「サイボーグ009」「仮面ライダー」)、
異星人であったり(「ウルトラマン」)、
タイムスリップで現代へやってきた未来人であったり(「スーパージェッター」)、
そうすることで強大な力を持ち、「正義の味方」となりました。

もっとも、「鉄腕アトム」では、
弱者や虐げられるものをいかに救うかという色合いが濃く、
正義を声高に叫んでいたわけではありません。
また、「鉄人28号」という巨大ロボットは、
その科学の力を人間がいかに使うかで、
悪にもなれば正義にもなるというところがミソでした。

ニュアンスは、それぞれ違います。
しかし典型的に、それぞれが「正義の味方」の役割を担っていたように思います。


3)「修正主義の時代」(爛熟期)

「スーパーマン」といえば、正義の味方の古典です。
もともとアメリカでは、すでに戦前の1938年にコミックとして生まれ、
実写ドラマとして1952年にテレビ・シリーズ化。
それが1956年に日本に輸入され、ヒットしたわけです。

彼は文字通り、人間を超越(super)した力で、悪者をポンポンとやっつける。
神の力を与えられた英雄が、難題を次々に打ち破っていくギリシア神話のようです。
強大な力を得ることで正義が為される。

しかし、1960年代になると、冷戦やベトナム戦争など、
力を持つアメリカ社会の病んだ側面があらわになります。
権威や権力への反発が盛んに叫ばれる。
そんな1963年、悩めるヒーロー、「スパイダーマン」が登場します。

彼は完璧な存在ではなく、たまたま力を手にしたふつうの男子学生に過ぎません。
そんな等身大の彼は、正義とは何かを自問自答し、悩みながら、犯罪と戦います。
彼の胸には、
「大いなる力には、大いなる責任を伴う」
という、死んだ伯父さんが遺した言葉がいつも響いていました。

池上遼一作画で翻案された「スパイダーマン」が日本に上陸するのは、1970年。
安保闘争など、怒れる若者たちが権威や権力に異を唱え、社会を揺さぶった時代。
日本版の「スパイダーマン」もやはり悩めるヒーローでした。

この頃から日本でも、紋切り型の「正義」に疑問符を打つ作品が作られます。

そして1973年、第一次オイル・ショック。
右肩上がりだった経済成長は、混乱の時期を迎えます。
果たしてこのままでいいのだろうか、というような疑問は、
それまでの価値観に修正を加えようとする。

また、地域に甚大な被害をもたらしていた水俣病や光化学スモッグなど、
公害が深刻化して社会問題となり、
科学や文明の弊害が、大々的に指摘されたのもこの頃です。

科学による人類の「進歩」は、すべて正しいといえるのか?
むしろ人類は、いかに自然と「調和」していくかを見直すべきなのではないか?
──そうした疑問も投げかけられました。

そうして、1970年代に入ったあたりから、
「正義の味方」のヒーローを懐疑的に見直し、
単純な「勧善懲悪」に異を唱える作品が生まれてきます。
つまり、「修正主義の時代」。

たとえば、1972年に作られた
「人造人間キカイダー」「海のトリトン」「デビルマン」
という3作品に、その典型が見られます。

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やがて「正義のヒーローもの」というジャンルは衰退期へと向かっていくのですが、
一方、この1970年代前半、
「スポ根もの」というジャンルが台頭し、「古典主義の時代」(成熟期)を迎えます。

野球やサッカーなどなど、スポーツ選手は
いつの世でも庶民や子どもたちのヒーローです。
マンガでも、1950年代頃から、
「バット君」(1949年)
「イガグリくん」(1951年)
「スポーツマン金太郎」(1959年)
などがありました。
そうした「最初期の時代」を経て、
1968年、「巨人の星」がヒット。
「スポーツ根性もの」が時代を席巻します。

そんな1969年、アニメの原作となったマンガの「海のトリトン」がサンケイ新聞に連載されます。
当時、すでに大御所だった作者・手塚治虫さんに、編集部が要望した注文は、
「熱血・スポコン的なアクションを、なるべく強く入れてほしい」
というものだったそうです(2)
「スポーツ根性もの」が、それ以外のジャンルにも波及していたんですね。

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スポーツの世界ではもちろん、正義と悪の葛藤はありません。
主人公の対立者は、悪である敵ではなく、ライバルに置き換えられます。
そして敵を倒すための武器や必殺技は、
“魔球”などの得意技に置き換えられます。

「敵を倒す=正義」、「ライバルを倒す=勝利」
の図式は同じですが、
ここでは、勝利へ至るまでの過程である「努力」や「根性」、
そして、「友情」や「チームワーク」に焦点が当てられました。

これらは、1970年代の「正義のヒーロー」ものでも
大きな要素となります。
「愛の戦士レインボーマン」は、
努力して修業をすることによって、力を獲得する。
「超人バロム1(ワン)」は、
二人の少年が、友情によって合体し、超人に変身する。
また、「科学忍者隊ガッチャマン」「秘密戦隊ゴレンジャー」など、
チーム同士の友情をパワーとするような物語も生まれます。

少年向けのマンガ雑誌、「週刊少年ジャンプ」が、
「友情」「努力」「勝利」
という3つのキーワードを編集方針にしていることはよく知られています。
これらは、小学校4~5年生を対象としたアンケートから導き出されたそうですが、
普遍性を持っている言葉だと思います。
人生の上昇面、ポジティブな局面を描く物語や、
成長しようとする子どもたちにとっては大きなテーマです。

古典を含めて、どの作品にも共通する要素ですが、
特に1970年代は、この3つのテーマが確立されたように思われます。

しかし、「正義」というテーマからは離れていきました。


4)「風刺的模倣の時代」(衰退期)

時代を少しさかのぼりますが、1967年、
2つの「正義のヒーロー」のパロディ作品が、時を同じくして作られました。
アニメ「パーマン」とマンガ「パットマンX(エックス)」です。
(「パーマン」の原作マンガは、1966年から連載が始まっています。)

内容は異なりますが、ほぼ同時期に生まれたということには、
何らかのシンクロニシティがあったと思われます。

藤子・F・不二雄作「パーマン」は、「スーパーマン」のパロディ。
実写ドラマの「スーパーマン」は、1956年の日本での放映から約10年が経過しており、
ヒーローを客観的に笑うことのできる余裕と時代の空気があったのでしょう。

ジョージ秋山作「パットマンX」は、「正義の味方」全般のパロディですが、
あえて特定するなら「バットマン」のパロディです。
こちらの実写ドラマは1966年に日本で放映されており、
ヒットの渦中にパロディ化されたことになります。

もっとも当時の「バットマン」の実写ドラマは、コミカル色が強く、マンガ的。
主人公と相棒のロビンは、時にはお茶目な失敗もやらかします。
また、アクションのたびに
「BIFF! 」「KAPOW!」「ZZZZAP!」など、
コミックで使われる擬音がポップな活字で画面に踊る。
そんな軽いノリが受けていました。
このドラマ自体に、正統派ヒーローのパロディという要素があったかもしれません。

こうしたアメリカン・ヒーローのパロディである日本の2作品は、
どちらもダメダメな少年が正義のヒーローになろうとして頑張る、
その失敗ぶりがギャグになっていました。
それでも正義を守ろうと悪戦苦闘する彼らには、
どこかドン・キホーテの哀愁がありました。

もしかしたら、この1967年頃が
「風刺的模倣の時代」という見方をすることも出来るかもしれません。

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そうして「スポ根」ブームが巻き起こった1969〜1970年あたりには
「正義の味方のヒーロー」はすっかり影をひそめます。

そこへ、1971年、「仮面ライダー」が登場。
「中興の祖」ともいえるでしょうか、
先述のように、再び「ヒーロー」ブームが盛り上がります。
この「修正主義」の時代では、「パーマン」や「パットマンX」で語られていた
ヒーローも不完全な人間であるという、そうした人間性が描かれていたように思います。

「スーパーマン」では、あまり風采のあがらない主人公クラーク・ケントが
電話ボックスで早変わりして、スーパーマンのコスチュームに着替える。
「ウルトラマン」では、人間であるハヤタ隊員がカプセルを掲げて点火させ、
巨大化してウルトラマンとなる。
そうした「変身」は、それまでのヒーローものでも見どころのひとつでしたが、
「仮面ライダー」では、歌舞伎で見得を切るような決めポーズで「変身」を誇張し、
それが当時の子どもたちにウケました。

いくら想像の世界とはいえ、超人やロボットとして生まれることは難しい。
しかし、「変身」と叫んでポーズを決めさえすれば、
弱い自分でも、すばらしい力を手に出来るのではないか、
ヒーローになれるのではないかという無意識的な願望が、
もしかしたら人気を呼んだのかもしれません。

以降、「変身する」という物語の装置は、いろいろな作品に受け継がれていきます。

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やがて1980年代になると、「正義の味方」という立ち位置のヒーローは、
幼児向けの作品を除いて、主流からは姿を消します。
むしろ、「正義の味方」はダサい、というような空気になっていく。

この頃を「風刺的模倣」の時代とするとらえ方も出来ると思います。
そのわかりやすい典型と言えるような作品はなかなか見つからないのですが、
あえて言えば、「タイムボカン」シリーズでしょうか。
悪役トリオをやっつけるパターン的ストーリーや
お決まりの決め台詞や決めポーズのギャグ化は、
「正義の味方」ものの約束事を踏襲したパロディであると言えなくもありません。

また、「Dr.スランプ・アラレちゃん」(1981年)の
キャラクターの一人である「スッパマン」は、もちろん「スーパーマン」のパロディ。
「ドラゴンボール」(1986年)に登場した
「ギニュー特戦隊」は、ヒーロー戦隊もののパロディでした。
その後も、「クレヨンしんちゃん」(1993年)に登場する「アクション仮面」や、
「おじゃる丸」(1998年)に登場する「コーヒー仮面」、
「ごぞんじ! 月光仮面くん」(1999年)など、
正義のヒーローは、パロディとしてちょくちょく登場しています。

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かくて、子どもたちがあこがれるヒーロー像は時代の中で変貌し続け、
子どもたちを取り巻く社会の「正義の“見”方」もまた変貌してきました。

その「修正主義の時代」には、「正義」というテーマが深く掘り下げられ、
問い直されたのではないかと思います。
そうした時代の1972年という同じ年に作られた3つの作品について、
次に考えてみます。

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参考:「正義の味方」のジャンルの歴史を、おおまかに年表にしてみました。
「正義の味方」の系譜





《引用・参考文献》
(1)ルイス・ジアネッティ、堤和子・増田珠子・堤龍一郎訳「映画技法のリテラシー2」フィルムアート社
(2)セルバンテス、堀口大學訳「ドン・キホーテ」新潮社
(3)手塚治虫「海のトリトン(4)ー手塚治虫漫画全集」あとがき・講談社
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by kamishibaiya | 2012-02-21 00:35 | 子どもたちのこと | Comments(0)