正義の見方・03

※参考:「正義の味方」のジャンルの歴史を、おおまかに年表にしてみました。
「正義の味方」の系譜


殺戮者となった正義の味方



1972年(昭和47年)、
「正義のヒーロー」像を問い直し、修正するような作品が
時を同じくするようにして登場しました。
「人造人間キカイダー」「海のトリトン」「デビルマン」
です。


その前年の1971年、石ノ森章太郎原作「仮面ライダー」が誕生しています。
いわゆる「変身」ブームが巻き起こる。
彼は、悪の組織に改造された“改造人間”。
しかし改造される途中で、良心ある科学者に救われ、脱出し、組織と戦うことになる。
この構図は、同じく石ノ森章太郎作「サイボーグ009」と同じです。

その組織「ショッカー」は、絶対的な悪という象徴的な存在で、とにかく悪いやつら。
ストーリーは、ただその悪をやっつけるという、シンプルな勧善懲悪です。
しかし、「仮面ライダー」の「仮面」のデザインは、
どこか気味の悪いグロテスクさをたたえています。
また、主人公は、品行方正な、完璧な紳士というわけではありません。
自分が、いったんは悪の組織にとらわれた身であり、
人とは違う改造人間であるということに
コンプレックスと孤独感を感じていたりもします。

そうした人間としての影の部分がうまく描かれていたのが、
「仮面ライダー」と同じ原作者、同じスタッフによってつくられた
「人造人間キカイダー」でした。

彼は、悪の組織に拉致された科学者が、悪に対抗するためにつくった人造人間。
このあたりは「仮面ライダー」と似ています。
しかし、善の心である「良心回路」を取り付ける途中で組織にじゃまをされ、
不完全な「良心回路」をもって世に出ることとなる。
そこで、彼は、善か悪かに揺れ動くこととなります。
悪事を犯したりもする。

完全な良心ではなく、“不完全な良心回路”という設定は、
人間の存在そのもののようでもあります。

これはコッローディの「ピノッキオの冒険」(1)がモチーフとなっていて、
原作マンガには、引用するかたちでピノッキオの物語が登場します。
不完全な心をもつ木製の人形ピノッキオが、
善と悪に迷い、失敗しては学び、
ディズニーのアニメ版では良心(コオロギ)の声に耳を傾けることによって、
ついにはほんとうの子どもとなる物語。

手塚治虫「鉄腕アトム」の最初にも「ピノッキオ」が取り入れられていました。
子どものいないゼペットじいさんが、ピノッキオを作る。
息子を事故で喪った天馬博士が、アトムを作る。
そして息子を殺された光明寺博士が、キカイダー(ジロー)を作る。

神や自然が造り給いし人間という存在ではなく、
人間が自ら作った人間という存在。
それは、これから自ら自我を得ようとしている子どもたちに
ピッタリなキャラクターといえるでしょう。

誕生したばかりのロボット、アトムは、
善も悪もわからない、“白紙”のような存在。
アトムは、ピノッキオ同様、サーカスに売られたりもします。
が、お茶の水博士に引き取られ、
いろいろなことを学ぶことによって、人間的な心を獲得する。
劇中、「ロボットは成長しない」とされているのですが、
この過程は成長と言っていいと思います。

人造人間もロボット同様、成長しないものなのかもしれませんが、
キカイダー(ジロー)の物語もまた、彼が善と悪の葛藤を通して
成長する物語と言っていいでしょう。
視聴する子どもたちにとっては、身近な、大きなテーマです。

もっともアトムは、善と悪を見分けることが出来る賢い電子頭脳を
内蔵しているという設定でした。
善か悪かで揺れ動くキカイダーとは違うところです。

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「月光仮面」は、あくまでも正義の「味方」であるという作者の意図にも関わらず、
ポピュラーになることで、
月光仮面自身が「正義」であるようなイメージがひとり歩きしていきます。

「鉄腕アトム」もまたポピュラーになることで、
「正義の味方」→「正義の象徴」
というイメージが定着していきます。

が、作者・手塚治虫さんは
そのことに少なからず不満を抱いていたようです。
アトムは、ただ単に悪いやつらをやっつけるのではありませんでした。
手塚治虫さんは当時から、他の作品で、
悪の権化のような悪漢が主人公のピカレスク・ロマンや、
善か悪かで自己が引き裂かれるようなテーマなども描いています。
単純な勧善懲悪ではありません。

1972年にアニメ化された手塚治虫原作の「海のトリトン」
その最終回は、
「ヒーローは正義の味方である」
と信じていた当時の子どもたちに衝撃を与えます。

ドラマでは、主人公トリトンが、ポセイドン族という海の種族と戦い、
倒すための旅が描かれます。
ポセイドン族は、トリトンの一族を絶滅させようと両親を殺し、
海の平和を乱す暴虐者でした。
そして最終回、
イルカや魚など海の仲間と敵陣に攻め込んだトリトンは、
ついに両親を殺した仇である半魚人を討ち取ります。

しかし、そこでポセイドン族の来歴が明かされます。
彼らは昔、人身御供として幽閉されたアトランティス人の生き残り。
なぜ人身御供とされたのか、そこに正当な理由があるとは思われず、
彼らはむしろ、不条理な横暴に虐げられてきた人々のようなのです。

その閉じ込められた地下から解放されるためには、
アトランティス人の末裔であるトリトン族がもつ短剣を
処理しなければならない。
そのために、トリトンの両親を殺し、トリトンをつけ狙っていたというわけです。

地下の遺跡へ降りたトリトンは、トリトンと同じ人間の姿の、
子どもや母親を含めた多くの死体を目にします。
トリトンが短剣の力を発揚させたため、
1万人余りのポセイドン族が虐殺されたのでした。

未熟な少年が短剣の力を借りつつ、成長しながら、
強大な敵に立ち向かっていく。
──そんなこれまでの戦いは、
相手を殺し、相手の家族を殺す行為でしかなかったのか?
トリトンの両親を殺した敵と、やっていることは同じだったのか?

聖なるアイテムだと思われていた短剣の力が、
まるでボタンひとつで核爆発をひき起こすように、
意識も責任も伴わないままに大量虐殺をひき起こす。
それが、海の平和というものなのか?

鬼が島の鬼を退治した英雄・桃太郎は、
鬼たちを皆殺しにした殺戮者なのか?

主人公トリトンと視聴者は、
「大いなる力には、大いなる責任を伴う」
とスパイダーマンが悩んでいた命題を考える暇もなく、
最終回でいっきに疑問の渦中に放り込まれたわけです。


実は、この最終回は、予定の脚本と違っていたのだそうです。
監督である富野由悠季(当時は喜幸)さんが、
絵コンテの段階で、予定とは違う物語に変えていった。
戦いの理由と設定の構想は、前から考えていたそうですが、
番組が予定より早い打ち切りとなったため、
最終回になって急遽明かすことになる。

この場面が、唐突で、説明的だったのはそのせいでしょう。

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アニメ化された「トリトン」は、原作マンガと違います。
原作者・手塚治虫さんは、当時、富野由悠季さんに
ストーリーを自由に改変することを許していたそうです。

後年、自身の全集の「あとがき」(2)で、
アニメには原作者としてしか関わっていないと断り書きしています。
が、しかし、手塚治虫さんはこの最終回の結末を、もしかしたら
否定はしていなかったのではないでしょうか。

原作マンガには、1970年当時、内戦で揺れていたカンボジアとベトナムの確執が
テレビのニュースとして登場します。
それを見たトリトンの母親(人間である育ての母)が、

「(カンボジア人とベトナム人は)
いったいなぜ憎みあってるんでしょうねえ」
(3)

とつぶやく。
すると、実の親を含めた一族を皆殺しにされたトリトンは、
トリトン族とポセイドン族の確執になぞらえて
「理由なんかない、ただ憎み合うだけだ」と吐き捨てるように言います。

なぜ憎しみ合わなければならないのかというこのテーマは、
物語の中で、くりかえし語られます。

ポセイドン族の一人は、戦い合うことをきらい、
トリトンを助けるために自殺する。
過去の恨みや憎しみを忘れることはできないかと、
海の歴史を見守ってきた巨大ウミガメに諭されたりもする。

が、結局、卑怯なポセイドン王とは和解ができず、
永遠の生命をもつ彼を地球外に追放するため、
トリトンもまた宇宙の星屑となる。
──というのが、マンガの方の最終回の結末です。
自己犠牲によって地球を救うという筋立ては「アトム」と同じですね。

なぜ戦い合わなければいけないのかというテーマを、
手塚治虫さんは他の作品でもくりかえし描いています。
異国間同士、異民族同士、異星人同士、異生物同士、人間とロボット同士、
なぜお互いに理解し合うことができないのか。
そうしたディスコミニュケーションという問題は、手塚作品の大きなテーマのひとつ。
そんな手塚治虫さんだからこそ、
アニメが選んだ結末もアリだと、どこかで認めていたような気がするのです。

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筆者は、当時、「トリトン」を毎週楽しみに見ていました。
が、最終回の当日、家族全員で田舎の祖父の家へ行くこととなり、
見逃した悔しさに臍(ほぞ)をかんだ思い出があります。
(当時はビデオもDVDもなく、録画ができませんでした。)

最終回を見る機会に恵まれたのは、おとなになってからですが、
この結末は、「正義の味方」になれ親しんでいた当時の自分には
ショックだったろうと思います。

当時、中学生だった大塚英志さんやササキバラゴウさんにとっても
やはりショックだったそうで、
これはアニメ史に残る衝撃だと、大塚英志さんは記しています(4)(5)

幼い子には、ショック。
しかし、ストーリーの意味をじゅうぶんに理解できる年代の子どもたちにとっては、
大げさにいえば、
ほろ苦さとともに、おとなの階段への一歩を促すような体験だったかもしれません。

そんな現実もあるのだということを知る。

主人公側には、主人公側の「正義」があり、
敵側には、敵側の「正義」がある。
正義は相対的なものであるというこの「正義」観は、
「機動戦士ガンダム」「伝説巨神イデオン」など、
その後の富野由悠季作品に反映されることとなります。
そして、それが、マンガやアニメの主流となっていきます。

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同じく1972年放映の永井豪原作「デビルマン」も、
シンプルな勧善懲悪ではありませんでした。

アニメ「デビルマン」もまた、原作マンガとは違います。
が、主人公の基本的な設定は同じです。
彼は、人間の滅亡をたくらむ悪魔が、人間と合体して生まれた存在です。
悪魔の力を持ちながら、それでいて人間の心も合わせ持つ。
それがひとりの少女と出会ったことにより、悪魔一族を裏切ることになります。

彼にとって、人類愛とか博愛的な「正義」はどうでもいいこと。
少女を守るため、
そして少女の家族や友人を守るために彼は戦います。
それは、国のため、人類のため、イデオロギーのためというような抽象的な理由ではなく、
具体的即物的で、はるかに切実で、納得ができやすい理由です。
そして少女を守るために戦う彼は、
アニメ版では、結果的には「正義」に貢献することになります。

しかしこのことは、たとえば、
一方が、自分の愛する者を守るために戦う。
敵対するもう一方もまた、彼らの愛する者を守るために戦う。
──としたら、それぞれの「正義」と「正義」がぶつかるような状況をひき起こすことになります。

グローバルな視点から見れば、
それぞれの「正義」はエゴイズムでしかありません。

原作マンガの方では、極限状況の中、
互いに信じ合うことができず、狂気に駆られた人々によって
愛する少女を殺され、絶望に陥るデビルマンの姿が描かれます。
が、アニメでは、シビアにテーマは語られませんでした。

ただ、戦う理由の根本に、
「愛する者のため」「仲間のため」というような純粋な心情があることは、
たとえば「ワンピース」の主人公ルフィがそうであるように、
多くの共感を集めることになると思います。

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また、ここでおもしろいのは、
ヒーローが悪魔の力を身につけるという設定です。

日本神話のスサノオノミコトが、「荒ぶる神」といわれたように、
ゲルマン神話のオーディンが、怒りや凶暴さをもつ「嵐の神」であったように、
アステカ神話のテスカトリポカが、獰猛なジャガーに変身するように、
英雄神は、野蛮な、野獣的なエネルギーやグロテスクを持つことがあります。

また、中国神話の女媧や伏義は、頭は人間、体が蛇。
エジプト神話のトートは、頭は鳥(トキ)、体が人間。
マヘスは、頭はライオン、体が人間。
インド神話のガネーシャは、頭はゾウ、体が人間です。
原初的な神は、しばしば野性の動物との合体した姿で描かれます。

太古の時代、自然の荒々しい力は、
生命をおびやかす危険の源泉であると同時に、
生命を活性化させるエネルギーや知恵の源泉でもありました。
そこから、野性の動物たちからパワーと加護を得ようとするトーテミズムも起こります。

自然の本能的な、非理性的な力は、
克服し、コントロールしなければなりませんが、
打ち負かすためには、その大きな力を取り込むことも求められます。
また、負の側面、影の側面を取り込むことは、
人格形成への大きなテーマでもあったりします。

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街頭紙芝居の「黄金バット」が、初めて世に出たのは、脇役としてでした。
当初、主人公だったのは、「黒バット」という悪者。
白い髑髏(どくろ)の顔に黒いマントという、グロテスクな異形の怪人です。
ふらちな悪行三昧を行う、いわゆるピカレスク(悪漢)の物語。

当時は、いきあたりばったりで物語を書き進めていて、
黒バットがあまりに強くなりすぎてしまう。
そしてとうとう、悪人だというのに、誰も倒すことができなくなります。
収拾がつかなくなる。
そこで、物語を終わらせるため、
間に合わせで考え出されたのが、黄金バットなんだそうです。

黄金の髑髏(どくろ)に、赤いマント。
黒バットを色違いにしただけの彼が、
終わりの3場面に突然、脈絡もなく登場して黒バットを倒し、幕を引く。
それが拍手喝采で、受けに受ける。
正義の怪人、黄金バットの誕生です(6)

▼黒バット(左)と黄金バット(右)の模写。色を変えただけです。
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無意識的だったかもしれませんが、
とめどなく悪がふくらんだ状況の中、
子どもたちは正義の存在を待ち望んでいたことでしょう。
彼は、偶然のように生まれたキャラクターでしたが、
子どもたちの心の中にいきいきと印象づけられる。

つまり、彼の出自はもともと黒バットという“悪”であり、
その力を持って、黒バットという“悪”を倒すべく作られた存在だったわけです。
ちょうど悪の組織に取り込まれて改造された仮面ライダーが、
組織から抜け出て、その力を持って悪と戦ったように。

「仮面ライダー」の原作者、石ノ森章太郎さんは、キャラクター作りの段階で、
髑髏(どくろ)の顔をした自分の作品、「スカルマン」のイメージを取り入れることを提案していたそうです。
(後年、「仮面ライダー・スカル」という髑髏(どくろ)そのものの
キャラクターが作られたりもしています。)

まさに、黄金バットですね。
ところが、気持ち悪いといわれ、営業的にマイナスといわれて、ボツになる。
そこで考え出されたのが、昆虫のバッタをモチーフにした、あの仮面ライダー。
そのデザインには、髑髏(どくろ)のイメージが反映されているようです。

後のシリーズ「仮面ライダー・アマゾン」(1974年)は、
第1作の原点に帰ろうと企画されたもの。
「野性」が思いきり強調され、オオトカゲがモチーフになっています。
(筆者はてっきりアマゾン河のピラニアだと思っていました。)
グロテスクな異形の仮面という仮面ライダーの要素が大きく強調されています。

髑髏(どくろ)=しゃれこうべ。
オオトカゲ。
コウモリ。
蜘蛛(くも)。
──これらは一般的には忌み嫌われるものです。
しかし、そのグロテスクを取り込み、異形のものとなることで、
ヒーローは力を得る。
わたしたちの無意識にビビッと訴えてくるものがあるのでしょう。
黄金バットしかり、
仮面ライダーしかり。
バットマンしかり、
スパイダーマン、しかり。

そしてデビルマンもまた、魔を取り込むことによってヒーローとなりました。
彼も黄金バットと同じく、“悪”の出身であり、
その力を持って、“悪”と戦う存在。

彼は、アンチ・ヒーローと呼ばれますが、
案外、正統的なヒーローといえるかもしれませんね。

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《引用・参考文献》
(1)コッローディ、杉浦明平訳「ピノッキオの冒険」岩波少年文庫
(2)手塚治虫「海のトリトン(4)ー手塚治虫漫画全集」講談社
(2)手塚治虫「海のトリトン(2)ー手塚治虫漫画全集」講談社
(4)大塚英志、ササキバラゴウ「教養としての〈まんが・アニメ〉」講談社現代新書
(5)大塚英志「キャラクター小説の作り方」講談社現代新書
(6)加太こうじ「紙芝居昭和史」立風書房
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by kamishibaiya | 2012-02-22 19:36 | 子どもたちのこと | Comments(0)