小林玲子さんの「涅槃図」の絵解き・2

この絵の場面に至るまで


そして「絵解き」が始まりました。
まず、この絵の場面へと入る前に、
この絵の場面へ至るまでのお釈迦さまの生い立ちがかんたんに語られます──。

インドの北、今はネパールとなっているヒマラヤのふもと、
カピラバストゥ(カピラ国、迦毘羅城)という国の王子として生まれ、
29歳で出家。
修行の末、35歳で悟りを開いた後、
各地を歩いて教えを広める……。

その一生を地図でたどってみると、次のようになります。
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ルンビニーで誕生。
一説にはこの日は4月8日とされ、灌仏会(かんぶつえ)、花まつりなどとして祝われる。
ブッダが生まれた釈迦族(サーキヤ族、シャーキヤ族)の国、カピラバストゥは、
現在のネパール・タラーイ地方にあったとされる。
コーサラ国とマガダ国という2大強大国にはさまれた小さな国で、
コーサラ国の属国のような立場であったらしい。
ブッダの晩年、コーサラ国に攻め滅ぼされ、消滅する。

②29歳で出家。
ヴァッジ国のリッチャヴィ族の都ヴェーサリー(ヴァイシャーリー、毘舎離城)へ行き、
バラモン教のアーラーダ・カーラーマに師事。

③しかし、その教えは悟りへの道ではないと知り、別の師を求めて
マガダ国の都ラージャガハ(ラージャグリハ、王舎城、現在のラージギル)へ向かい、
ウドラカ・ラーマプトラに師事。

④しかし、その教えもまた悟りへの道ではないと知り、
ウルヴェーラーへ行き、そこで6年の苦行生活に入る。
その後、苦行一辺倒の修行も悟りへの道とならないことに気づき、
瞑想の後、菩提樹の根元で悟りを開く。
これを「成道」という。
一説にはこの日は12月8日とされ、
日本では「成道会(じょうどうえ)」の法要が行われる。
ウルヴェーラーは、ブッダが悟りを得た場所として、
後にブッダガヤと呼ばれるようになった。

⑤「仏陀」とは、真理に目覚めた人、覚者のことをいう。
そのブッダとなった彼は、かつて苦行を共にした5人の修行仲間に会いに、
バーラナシー(現在のワーラーナシー、かつてはベナレスとも呼ばれた)の近くの
ミガダーヤ(鹿野苑、現在のサールナート)へ赴く。
そこで5人に法を説き、5人は弟子となる。
この最初の説法を「初転法輪(しょてんぽうりん)」という。

⑥そこからラージャガハへ向かう途中、ウルヴェーラー(ブッダガヤ)で
カッサパ三兄弟(三迦葉)とその弟子1000人を教化。
さらに弟子が増えていき、サンガ(僧伽)という教団となる。
彼らはラージャガハで寄進を受けた竹林精舎などを拠点とし、
雨期の3ヶ月は「安居(あんご)」としてそこで静かに修行して過ごし、
他の月はインド各地を遊行し、托鉢などをして歩いた。

⑦コーサラ国の都シュラーヴァスティー(サーヴァッティー、舎衛城、現在のマヘート)の近く、
現在のサヘートに、寄進を受けて祇園精舎を設営する。
この祇園精舎は、ブッダが最も安居をした場所といわれ、
コーサラ国の布教の拠点となった。

→参照:ブッダの人生の足跡を地図にたどる(googleマップ)

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さて、そうしてブッダは80歳になっても、
遊行の旅をやめませんでした。
その最後の旅のようすが、「大パリニッバーナ経(大般涅槃経)」に
描かれています。

当時、ブッダは
マガダ国の都ラージャガハを囲む小高い山である
鷲の峰に留まっていました。
この山(グリッドラクータ、ギッジャクータ)は、
霊鷲山(りょうじゅせん)とも耆闍崛山(ぎしゃくつせん)ともいいます。
このあたりは岩山で、修行者たちは、岩と岩の隙き間のようなところに
寝泊まりしていたそうです。
また、ブッダは、よくこの山に登って法を説いたといいます。

そこから出発し、ラージャガハへと下り、
ブッダは北を目指します。
北には、生まれ故郷のルンビニーがあり、
人生の最期にそこへ向かったのだという説もあるようです。

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後年、仏教大学が作られ、中国の玄奘らも滞在したというナーランダーを経て、
パータリプトラへ。
パータリプトラ(パートリプトラ、パータリプッタ、華氏城、現在のパトナ)は、
当時は河のほとりの小さな村にすぎず、パータリ村と呼ばれています。
これより後の時代、マガダ国の都がラージャガハからここへ移され、
さらにマウリヤ朝の時代でも首都となって繁栄を遂げました。
ブッダの一行はそこからガンジス河を渡り、ヴェーサリー(ヴァイシャーリー)へと向かいます。

ヴェーサリーの郊外の林で、遊女アンバパーリーの食事に招かれたりしつつ、
ヴェーサリーの近くのベールヴァ村に留まります。
同行の弟子たちは分散して、ブッダはこの村で雨期の安居を過ごします。
そして、ここで瀕死の大病にかかってしまう。
何とか回復はしたものの、残された時間の長くないことを悟ったのでしょう。
托鉢のためにヴェーサリー市内へ入って歩いて、チャーパーラ霊樹の元で一休みするとき、
弟子のアーナンダ(阿難)にこう語ります。

「アーナンダよ。ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。バフプッタの霊樹の地は楽しい。サーランダダ霊樹の地は楽しい。チャーパーラ霊樹の地は楽しい。」(1)

ヴェーサリーは、29歳で出家したとき、修行で立ち寄った場所であり、
思い出深い土地でもあったかもしれません。
晩年によく訪れていた地でもあったようです。
当時は、自由な気風のある活気にあふれる商業都市だったそうで、そうした空気感もあったかもしれません。
が、ブッダが愛でたのは、もしかしたら、街の営み。
家族や労働者、子どもや老人が生活する、
ありふれた市井の人の世の営みの姿ではなかったでしょうか。

いえ、彼は修行の実践者です。
修行者というものは、雷鳴がとどろこうが、近くでおそろしい獣が吠えていようが、
「洞窟のうちにあって、瞑想に入るとき、かれはそれよりもすぐれた楽しみを見出さない」
といいます(2)
霊樹の地が楽しいというのは、そうした“楽しみ”の境地であったかもしれません。

しかし、熱い陽射しを避ける涼しげな霊樹の木陰でひとときを憩いながら、
街の姿、人々の姿を眺めていたのではないか。
死を間近にしたとき、いっそう、そんな風景がしみじみと愛おしく感じられたのではないかというような想像ができるような気もするのです。

そして次の地を目指してヴェーサリーから立ち去ろうとするとき、

「アーナンダよ。これは修行完成者(=わたし)がヴェーサーリーを見る最後の眺めとなるであろう。」(1)

と語り、象が眺めるように身をひるがえして、じっとヴェーサリー市を振り返ったといいます。

若い頃から、老・病・死を想い、
その苦しみをどう乗り越えるかを考え、修行し、実践してきたブッダです。
それが今、80歳の老人となり、大病を患い、死を間近にしようとしている。

ヴェーサリーを振り返ったその一瞥は、
大悟したブッダにとっては、もちろん未練というわけではなかったでしょう。
その境地は、凡人には測り知れません。
けれど、なにがしかの感慨があったのかもしれないとも思われます。

そしてその言葉の通り、ブッダがヴェ−サリーの風景を再び見ることはありませんでした。

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ブッダはさらに北上し、バンダ村を経て、ボーガ市で説法をしつつ、
パーヴァー村へ至ります。
そこで、金属の細工をしている鍛冶工のチュンダ(純陀)から食事に招待される。
そして供された、きのことも豚肉ともいわれる料理を食べたとき、
激しい病いが起こり、血がほとばしり出たといいます。

が、ブッダは、その苦痛を耐え忍び、
そんな状態でクシナガラ(クシナーラー、クシーナーガル、拘尸那竭羅)を目指します。
途中、臥して休んだり、
弟子のアーナンダに水を汲んでもらって飲んだり、
後でチュンダが非難されないよう、気をつかったり、
なおも法を説いたりしながら、
いよいよクシナガラへとたどり着きます。

そして、ヒラニヤヴァティー河(跋提河:ばつだいが)のほとり、
ウパヴァッタナというところへやって来ます。
ヒラニヤヴァティー河は、現在はごくふつうの小川となっていますが、
当時は大きな河だったのだそうです。

そこでブッダはアーナンダに、
サーラ樹(沙羅双樹)の木の間へ床を用意してくれるよう頼みます。

「アーナンダよ。わたしは疲れた。横になりたい。」(1)

そうして、あの「涅槃図」の絵の場面となるのです。

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《引用・参考文献》
(1)中村元訳「ブッダ最後の旅 ~大パリニッバーナ経~」岩波文庫
(2)中村元訳「仏弟子の告白 〜テーラガーター〜」岩波文庫
中村元・田辺祥二「ブッダの人と思想」NHKブックス
ジャン・ボワスリエ、木村清孝監修「ブッダの生涯」創元社
宮本啓一「ブッダ 〜伝統的釈迦像の虚構と真実」知恵の森文庫・光文社

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by kamishibaiya | 2012-02-03 08:05 | 絵を見せて語るメディア | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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