正義の見方・04

正義の味方は死んだのか?


1960年代の終わり、
当時、「あしたのジョー」などのヒットの影響があったのでしょう、
それまでお子様向けと思われていた「週刊少年マガジン」
大学生が読んでいるという現象が話題となったんだそうです。

それ以降、青少年が少年少女向けマンガを読むという光景は当たり前となりました。
そしてマンガの内容も、対象とする年齢層が引き上げられていきました。
子どもの頃、マンガに夢中になっていた団塊の世代やそれに続く世代が成長する。
それに合わせてマンガもおとな化していったということもあるかもしれません。


1971年、「ルパン三世」がおとなを対象にしたおとな向けアニメとして放映されます。
当時子どもだった筆者にとっても、これは画期的なおもしろさでした。

しかし、視聴率は思わしくなく、途中で演出家が交代となり、
路線にも変更が加えられたものの、視聴率は低迷のまま、最終回を迎える。
ところが、その後、再放送されるうちに評判が高まっていき、
その人気に後押しされるかたちで、
6年後の1977年、第二シリーズが新たに作られます。

1974年、「宇宙戦艦ヤマト」放映。
こちらも、子ども向けというより、おとなが楽しめる本格的なSF作品。
けれどこちらも、放映当時には視聴率的には生彩を欠き、失敗作といわれました。
ところがその後、評判が評判を呼んで、3年後のやはり1977年、
TV放映作品を再編集しただけという映画がヒットし、ブームが起こります。

どちらもそこへ至るには、もちろん何といっても作品のおもしろさがあったわけですが、
1977年当時、高年齢層もアニメを見るようになったという時代の流れも
追い風として働いていたように思います。


そうして1980年代になると、
中高生を中心として、青少年やおとなが見るマンガやアニメが増えていきます。

そうした作品からは、「正義のヒーロー」は消えます。
しかし、その要素はかたちを変えて継承されていきました。

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「アクション活劇」という要素は、
ドラマ全般といってもいいほど、多くのドラマに欠くことのできない共通のものですね。
「格闘アクション」や「バトル」などのかたちにもなります。

「宇宙を舞台にしたSF」という要素は、
たとえば、「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」などの物語につながりました。

「鉄人28号」に始まる巨大ロボットは、
遠隔操作で動く武器というよりもキャラクター的な存在となり、
「マグマ大使」では、人格を得ていました。
主人公の少年と、強大な力を持つロボットが、ともに戦うという図式です。
そして、「マジンガーZ」では、
操縦者の少年がロボット内部に入って戦うというスタイルが確立します。

操縦者の肉体の延長であるような巨大ロボットは、
自己の拡大された分身。
これは心理的には、
力を獲得したセルフイメージと言えるかもしれません。

「変身」で強い自分になるという仕掛けもそうですが、
巨大ロボットの操縦席に座りさえすれば、強大な自分になれるという
無意識的な願望があったかもしれません。

そして、男の子たちが、なぜか幼児の頃から
自動車や電車やメカを好むという性質も影響しているでしょう。

巨大ロボットの系譜は、
「機動戦士ガンダム」「新世紀エヴァンゲリオン」へと
つながっていきました。

「機動戦士ガンダム」(第1作)では、
相対的な「正義」が当たり前となっていました。
また、すでに戦うことが運命づけられており、
その戦う理由に疑義をさしはさむことは大きく扱われませんでした。
そんな中で、反発を持ちながらも内向的で傷つきやすい主人公が、
──つまり、思春期にありがちな傾向をもつ少年が──
社会の厳しい洗礼を受けつつ、
仲間を得て、自我を獲得し、成長するドラマに眼目があった気がします。

「エヴァンゲリオン」では、
人型兵器エヴァに乗り込むパイロットとなれるのは、14歳の少年少女限定。
まさに、思春期の内面世界の物語の印象がありました。

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1990年代、2000年代になると、
さまざまなジャンル、さまざまなテーマが多様化し、複雑化し、
青少年やおとなを対象とする作品が一般化します。
そうした高年齢層向けの作品では、「正義の味方」の物語ではなく、
「正義」というテーマをシビアに扱った物語が作られるようになりました。

「ガンダム」シリーズの、
「新機動戦記ガンダムW(ウィング)」
「機動戦士ガンダムSEED」
などでは、
戦争と平和の意味を問い、
「正義」の意味を問うていました。

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マンガ「デスノート」(2003年)では、
悪魔の力を持つことになった主人公が描かれます。
が、その力は、肉体や武力による暴力ではなく、
ノートに名前や言葉を書き込むことで、
殺人が現実になるという暴力です。

主人公・夜神月(やがみライト=通称・キラ)は、
司法で裁けない悪人を殺すことで
「正義」を遂行しようとします。
しかし強大な力を得ることによって、
自分こそが絶対的「正義」であると主張し、
暴走していきます。
ついには、追求を逃れる自己保全のために
犯罪者ではない人々も次々に殺していく。

「正義」という大義のためには、
人を殺すこともやむを得ない、
それは手段であり、小さなことに過ぎない、
となっていく。
「正義」のための殺人が行われるわけです。

ここでは、犯罪者は、ほんとうに悪人だったのか
という個々の真実については問題にされませんでした。
冤罪(えんざい)はないのか?
ほんとうに、死に値する罪なのか?
一度罪を犯せば、更生する余地は与えられないのか?
感情や風評や、いっときの世間の尺度で、
裁いていいものなのか?
そのために、司法という制度があるはずです。

しかし、殺す殺さないは、主人公・キラの主観に委ねられる。
彼は検証することもなく、書き込むだけ。
ただ書き込み、糾弾するだけです。
そして悪人とされている人の存在を否定し、
排除することが「正義」だという。

そこには、人が人を裁くということの
責任と痛みがありません。
ノートに文字を書き込むだけの彼の行為は、
生身の人間の生命を奪うにもかかわらず、
その重みを背負うことはない。
データを消去するだけのような、
抽象的、脳内的なものでした。

ここには、いかにもネット社会らしい、現代性が
あったと思います。

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そしてもしかしたら、彼は、
アニメやマンガなど二次元の世界でくりかえし語られてきた、
「正義の味方」のヒーローの戯画でもあったかもしれません。

振り返ってみれば、「月光仮面」に始まる「正義の味方」たちは、
絶対的な正義を振りかざしていたというわけではありません。
未熟・未完成であったり、
悪にも揺れ動く存在であったり、
正義は相対的だからこそ、悩み、葛藤し、壁にもぶつかり、
それでも立ち向かい、正義に味方をしようとする。
そんな姿に、子どもたちは喝采を送っていたように思います。

しかし、「正義の味方=正義そのもの」というイメージがひとり歩きして、
「正義は必ず勝つ」「正義は絶対なんだ」というような観念を、
意識的・無意識的に育てた側面もあると思います。

もしもそうした「絶対的な正義」を為そうとしたらどうなるか。

それがノートであれ、超能力や巨大ロボットであれ、
また、腕力や武器であれ、組織や権力であれ、
たとえ仲間うちの小さな権力であれ、
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」
意識することなくその力を使うとすれば、
正義を謳うヒーローは、夜神月となり得ます。
キラ(killer=殺人鬼)となる可能性が誰にでもあるわけです。

知らなかったとはいえ、
多くの命を奪ってしまったトリトンのように。

そして、もしも自分の間違いに気づかず、間違いを認めず、
絶対的な正義をただ為そうとすれば、
「正義のために」人々をむやみに殺害する殺人鬼となります。
そうした意味では、夜神月は「正義の味方」のダークなパロディといえるかもしれません。


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さて、対象とする年齢層が引き上げられた作品は、小学校高学年、中高生、青少年など、
各年齢層に向けて分化し、テーマも複雑化していきました。
そこに、パロディではない「正義の味方」の姿を見つけるのは困難です。
死んだと言っていいでしょう。

しかし、その一方で、幼児や小学校低学年を対象とする作品では、
「正義の味方」が、今も生き続けています。


1960~1970年代に登場した
「ウルトラマン」「仮面ライダー」「秘密戦隊ゴレンジャー」などは
シリーズ化し、定番化されました。
そこには、玩具や関連業界との提携など、
商業的な構造の利点があったりするのかもしれませんが、
子どもたちから、長年にわたって支持されているというのは事実です。

もちろん、その時代その時代によって趣向を変え、
新味を加えることによって、多様化し、
時にはその対象とする年齢層も変わるようです。
シリーズの中には、冠した名前は同じでも、
中身はまったく別内容に思えるものもあります。

しかし、「仮面ライダー龍騎」のように例外はあっても、
「悪いやつをやっつける」というシンプルな骨格は
基本的に変わりません。
むしろその部分に、低年齢層をひきつける魅力があるのだと思います。

幼い子どもにとって、高度に複雑化したドラマは難しいです。
たとえどんなにおもしろがっていたとしても、
その複雑に入り組んだストーリーを正確に把握しているとは考えにくい。
正義とは何か、欲望とは何かといったようなテーマがドラマで語られたとしても、
そのすじみちを幼児が的確に理解できているとは思えません。

しかしながら、直感的には、非常によく理解している。
「カッコいい」「かわいそう」「おもしろい」など、
それは子どもたちなりの言葉ですが、
子どもたちなりの次元で、
物語の機微をかなり深く理解できているのではないかと思われます。

彼らは、彼らなりの物語として、消化し、
ストーリーの単純な骨格を抽出し、その原形を楽しむ。


特に「ゴレンジャー」を原点とする「スーパー戦隊」シリーズや、
「アンパンマン」(絵本は1969年から。アニメは1988年から)などは、
いわゆる「正義の味方」として、幼児からの支持を集め続けています。

これらの作品の中では、勧善懲悪のストーリーが毎回繰り返されます。
いわゆるワン・パターン。
しかし、そこにこそ原形があり、意味があるのだと思われます。

ユングがいうところの「元型」にもつながるその原形(おおもとのかたち)について、
次に考えてみたいと思います。

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by kamishibaiya | 2012-02-24 19:14 | 子どもたちのこと | Comments(0)