小栗判官照手姫の絵解きをみる・01

流浪の人々が育てた物語


「おぐり」ときいて、パッと頭に思い浮かぶのは、
今なら、キラリとこぼれる白い歯もまぶしい俳優・小栗旬さんでしょうか。
競馬ファンならオグリキャップ、
推理小説ファンなら小栗虫太郎の名前を連想するかもしれません。

が、昔は「おぐり」といえば小栗判官でした。

小栗判官の物語は、歌舞伎の演目にもなってヒットし、
明治の初め頃まで演じられたそうです。
ところが、それ以降は演じられることなく、年月が過ぎます。

大正15年、民俗学者・折口信夫(しのぶ)は、
「世の中は推し移って、小栗とも、照手とも、耳にすることがなくなった。」
と書いています(1)
明治20年生まれである彼が子どもの頃には、
大阪・道頓堀の芝居の看板を目にしたり、祭文語りで耳にしていたといいますが、
大正の頃には遠い“ナツメロ”的な話だったのでしょう。

とはいえ、江戸時代には奈良絵本になったり、絵巻になったり、
昭和10年代には講談社の絵本になったりしているそうなので、
荒唐無稽なお伽噺として親しまれたり、
あるいはビジュアル化もしやすい物語だったのかもしれません。

絵巻の「をくり(小栗判官絵巻)」は、日露戦争の時代、明治天皇が広島に滞在した折り、
備前の大名、池田家から借りたのを天皇が気に入って、
そのまま召し上げてしまったのだとか(2)
それが献上ということになり、今は宮内庁に保管されています。
平安の昔、宮中のお姫さまがお供の女房に詞書を読ませて冊子や絵巻を楽しんだように
明治天皇も、侍従に詞書を読ませて、「をくり」絵巻を楽しんだんだそうですね。
いわば、絵解きです。
天皇は絵解きのファンであらせられた。

歌舞伎ではその後、昭和49年、
武智鉄二企画による「小栗判官車街道」が約70年ぶりに復活。
さらに、三代目市川猿之助さんによる「当世流小栗判官」、
スーパー歌舞伎「オグリ」などが注目を集め、
近藤ようこさんがマンガで取り上げる(「説経小栗判官」)など、
最近では「小栗」とか「照手」とか、ときどき耳にするようにはなりました。

そんな歌舞伎となる以前、江戸の元禄の頃に、
近松門左衛門が、人形浄瑠璃を書いています。
その書き下ろした浄瑠璃のタイトルは、「当流小栗判官」、あるいは「今様小栗判官」
(初演は1698年)。
「当流」「今様」。──つまり、近松が暮らしていた
元禄時代当時の「ナウ」な流儀でアレンジされたものでした。
「当流」ではない、それ以前の昔から伝わっていた「小栗判官」の物語があって、
それを下敷きにしているとうわけです。

それは、主に説経節を主とする語り物。
説経本としては、正本「おぐり判官」(江戸時代前期の1675年刊)などなどが伝わっていますが、
それ以前、正本としてまとめられる前に、物語を語り伝えた人々の歴史がありました。

中世、国から国を巡り歩き、勧進をしたり、唱導や芸を生業としていた人々。
説経師はもとより、
念仏聖(ひじり)や高野聖、善光寺聖、六部ともいわれた廻国聖。
御師(おし)や、山伏、歩き巫女。
盲僧に、昔は盲御前といわれていた瞽女(ごぜ)。
こうした名もなき下級宗教家や芸能者が、「おぐり」の物語を語り伝え、発展させたらしいのです。
その中には、折口信夫が幼い頃耳にしたという祭文語りもいたでしょう。
そこには熊野の修験者や比丘尼の姿もありました。

そしてどうやら、絵解きをして歩いた熊野比丘尼の姿も見え隠れしています。

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さて、この「おぐり」の物語の主要な舞台となった地である神奈川県・藤沢に
花應(応)院というお寺があって、
そこに、「小栗判官照手姫縁起絵巻」が伝わっています。
毎年2回、1月16日と8月16日の閻魔祭に開帳されていて、
先日、その1月16日に絵解きの会があって、行ってきました。

これまでは史跡保存会の方が絵解きをされていたそうなのですが、
今回はご高齢のため、かなわず、
代わって花應院のご住職自らが口演して下さったのでした。

花應院に伝わる絵巻。
(※撮影の腕が下手すぎてスイマセン。
額のガラスに、部屋の照明の光が映り込んでしまいました。)
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絵巻は一般に、横長の巻物に描かれるものですが、
こちらのように縦に連ねて掛け軸絵のかたちにすることもあります。

また、当初は横長の巻物として描かれたものを、後に切断して、
掛け軸絵として装幀し直すこともあります。
が、こちらはどうやら最初から1枚の絵として描かれたもののようです。

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18年前、「小栗」の絵解きをやはり、ここ花應院でご覧になった方が、
往事のようすをブログに書いていらっしゃいます。

「穴あき日記〜奈良漬のブログ」〜「小栗判官一代記」

絵解きの光景は18年前とあまり変わらないのですが、
今年2012年ヴァージョンでは、口演されるご住職はパソコンの前に座り、
取り込んだ絵巻の映像をプロジェクターのスクリーンで見せておられました。
絵を指し示すのは、絵解きで使われる棒の「おはねざし」ではなく、
マウスというわけです。

最近は、iPadで紙芝居をされる方もいらっしゃいますし、
テクノロジーを使ったこうした試みは増えていくでしょう。

ただ、このスタイルだと、物語を味わうというよりは、
解説の講義を聴講するような気分ではありました。

しかし、口演されたご住職は、関連する史料や、近くの史跡の写真など
さまざまな映像も駆使して、おもしろわかりやすく語ってくれたのでした。

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そして次に場所を移して、
これも花應院に伝わる「地獄変相十王図」の絵解き。

小栗判官の物語の中で、小栗は10人の家臣とともに命を奪われ、
地獄の閻魔(えんま)様のもとへとやって来ます。
その閻魔大王とともに亡者を裁く裁判官の役割をつとめているのが、
泰山王や秦広王、平等王といった10人の王たち──十王です。

計11幅の掛け軸絵には、
十王それぞれの肖像と、地獄の様(さま)が描かれています。
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こちらの絵解きは、ご住職も演じ慣れているのか、
悲惨な絵柄ではありますが、おもしろ楽しく語って下さいました。

わたしたちおとなの聴衆が集まる前の午前中、
近所の幼稚園の子どもたちが訪れて、やはり絵解きを聴いたそうです。
どの子も、目をまるくして神妙に聴き入っていたのだとか。

わたしたちおとなも、その心持ちが想像できました。
ときに笑いを誘われながら、ときに身につまされながら、
たぶん目をまるくして神妙に聴き入っていたと思います。

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そんな地獄へと墜ちた小栗でしたが、
10人の家臣たちの主人想いの心に感じ入った閻魔大王のはからいで、
この世へと戻ってまいります。
その閻魔大王の恩に感謝して小栗が建てたといわれているのが、
ここ花應院の、ご近所にあります法王院。
その閻魔堂に代々、閻魔大王の木像を伝えておりました。

ところが、1840年といいますから、江戸時代は天保の頃、法王院が火事にあい、
閻魔堂だけが残される。
さらに1881年(明治14年)、その閻魔堂まで火事にあう。

「えんま様が一大事っ!」とばかりに駆けつけた村人が、
まさに火事場の馬鹿ぢから、1mはあろうかという重いご像をかつぎだし、
あわやというところを救い出す。
そうしてこの花應院へと、命からがら運び込まれます。
地獄の業火も恐れぬ閻魔様ですが、
いかめしげなお顔の中にも、ほっとひと息安堵の色。

今はここ花應院を住居と定められ、そのご紅顔もご健在、
21世紀のこの世の善悪を見極めんと、はたとにらみつけておられるのが、下の写真です。
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さてさて、かような次第で地獄からこの世へとよみがえったは、小栗判官。
が、しかし、彼を待っていたのは、さらなる生き地獄でありました。
その地獄とは、いかなるものであったのか、
次回、小栗と照手の物語をかんたんに振り返ってまいります。チョーン!

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《参考・引用文献》
(1)折口信夫「餓鬼阿弥蘇生譚」「古代研究Ⅰー祭りの発生」中公クラシックス・所収
(2)辻惟雄・佐野みどり「対談ー絵巻の遊戯性と楽しみ方ー」〜若杉準治編「絵巻物の鑑賞基礎知識」至文堂・所収
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by kamishibaiya | 2012-02-29 20:17 | 絵を見せて語るメディア | Comments(0)