小栗判官照手姫の絵解きをみる・03

物語の伝説を歩いてみる


小栗が地獄から舞い戻ってきた塚(=墓)は、「上野(うわの)が原」にあったと
説経では語られていました。
上野が原は当時、風葬のように死体がそのままにされて置かれているような
荒涼とした場所だったようです。

手元の地図ではわからないのですが、藤沢市今田に、上原というところがあるそうです。
が、今田や西俣野あたりの広い地域を「上野が原」と呼んだという説もあり、
今田からはややずれたその西俣野に、①「小栗塚跡」の碑があります。
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伝説によれば、小栗塚のてっぺんにはくぼみがあった。
不思議なことに、そのくぼみをいくら埋めようと土を盛っても、
いつのまにかまたくぼんでしまったそうです。
埋めた土はどこへ吸い込まれてしまったのか?
くぼみは、地獄に通じていたのでしょうか。

今は、その塚もくぼみもすっかり整地されて、福祉施設が建っており、
その塀の道路脇に碑だけが残されています。
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おそらくはこの場所で、カラスが群れて鳴き騒ぐ中、
塚が四つに割れて小栗が息を吹き返したのでしょう。

土まみれのその体の土ぼこりを小栗がはらったという「土震塚」が
道路をはさんだところにあるというのですが、筆者にはわかりませんでした。

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この近くに花應院、そして小栗が建てたという②閻魔堂の跡があります。
今は花應院におわしますあの閻魔大王像が元いらっしゃったところです。

明治の頃、火災で焼失したというそのお堂の跡は、
今は林に囲まれた小さな敷地になっていて、小栗の墓といわれる石塔もありました。
小栗判官のものといわれる墓は、こちらの他にも全国にいくつかあるようです。
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この西俣野から、境川を渡って今は横浜市戸塚区へ行ったところに、
あの“人喰い馬”鬼鹿毛を飼っていた原があったという④「鬼鹿毛山」があります。
現在は、老人ホームが建っている裏山あたり。
そこには、「鬼鹿毛坂」という坂もあったそうです。

鬼鹿毛は、説経では、
あたりに食った人間の骨や毛が散らばっていたと描写される人喰い馬です。
が、近松門左衛門の浄瑠璃ヴァージョンでは、ずっとソフトナイズされていて、
「人喰い馬」ではあるけれど、三国無双の名馬。
「春は梅花の香をくらい、夏は卯の花あやめ草。
今は折りから秋草の露をそのまま秣(まぐさ)に飼う」
(1)
と、花の香りや露を食する風流ぶりを見せています。
昔は、そんなのどかな草花が咲いていた山だったかもしれません。

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参照:小栗判官照手姫をめぐる藤沢市周辺(googleマップ)

その鬼鹿毛山の南あたり(戸塚区東俣野町)に「殿久保」というところがあり、
横山大膳の住居があったと伝えられています。
毒殺事件の舞台となったところです。
古地図を調べればよかったのですが、筆者は、どのへんがどのあたりなのかわかりませんでした。

※追記:後日、調べてみると、「殿久保」は「戸ノ久保」ともいい、鬼鹿毛山より約400mほど南、
現在は龍長院のあたりだったといいます。

ただ横山大膳は、当時、横山党が本拠地にしていた武蔵の国の横山の庄(現・八王子)に住んでいた
という説もあります。

ちなみに、鬼鹿毛山のあたりは、「ウィトリッヒの森」と呼ばれているそうです。
日本在住のスイス人、ウィトリッヒ氏が所有し、故郷スイスに似た景観を愛していたそうで、
現在、市に寄贈され、市民の森として人々に親しまれているとのことです。

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さて、花應院から境川を下っていくと大鋸(だいぎり)橋(現・遊行寺橋)があり、
遊行寺(清浄光寺)があります。
そしてその門前町として栄え、東海道の宿場町としても栄えた藤沢の宿があります。

遊行寺は、小栗の蘇生にひと役買った「藤沢の御上人」「遊行上人」のお寺。

「遊行上人」といえば時宗の開祖・一遍のことですが、
このお寺の法主(ほっす)も代々「遊行上人」と称されます。
正式な名称は「清浄光寺」。
しかし遊行上人が法主をつとめるお寺ということで、
「遊行寺」という呼び方が浸透しているのだそうです。

「遊行寺」から「小栗塚」までは、だいたい2〜3kmの距離。
上人は、ここから「小栗塚」までテクテク歩いていったのでしょう。

この遊行寺の裏手の方に、⑤長生院(ちょうしょういん)があります。
晩年の照手姫は、小栗が亡くなった後、遊行上人をたよって尼となり、この小院を建てて
小栗と家臣10人の霊をとむらったといわれています。

その境内の庭にあるのが、小栗と10人の家臣(十勇士)の墓。
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照手姫の墓。
筆者が訪ねた1月16日は季節がちょっと早過ぎましたが、
梅が咲くと華やかなんでしょうね。
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鬼鹿毛の墓。
鬼鹿毛は、説経では馬頭観音にまつられたとされています。
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目洗いの池。
地獄から戻ってきた小栗が、ここで目を洗ったそうです。
「古事記」のイザナギは、黄泉から戻って目を洗うと
アマテラス(太陽)やツクヨミ(月)が生まれたものでしたが……。
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ところでこの長生院でも、昭和30年代頃まで、
人が集まると、おばあさんが絵解きをして下さったんだそうです。
絵は、それほど大きくはない白黒の「小栗判官一代記畧圖(略図)」というもの。
が、語られていたストーリーは、花應院のものと一部違っていたようです。
おそらく、江戸時代後期の長生院の住職が記したという
「小栗略縁起」または「小栗小伝」がもとになっているのではないでしょうか。

※《追記》
長生院のおばあさんの絵解きは、
昭和50年(1975年)頃までやっておられたという話もあるようです。
1970〜1971年に小沢昭一さんが現地で録音したという「日本の放浪芸」(4)のCDに、
絵解きをしているおばあさんの声が残されています
(「小栗判官照手姫」──「説く芸と話す芸〜絵解の系譜」に収録)。

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そもそもこの物語は、次の史実がもとになっていると考えられます。

頃は、室町時代中期。
現在の茨城、常陸真壁郡・小栗の領主、小栗満重。
当時、関東の権力者、鎌倉公方・足利持氏に反発して、領地の一部を没収されます。
そこで満重は、1422年(応永29年)、反乱を企て挙兵。
が、しかし、足利持氏の大軍に攻め滅ぼされて、ついには小栗城で自刃します。
これが世にいう「小栗満重の乱」です。

自ら果てた満重には、息子・助重がおりました。
この小栗助重は、現在の愛知、三河の国へ落ち延びて家を再興し、その後、
茨城・太陽寺(現在は廃寺)に、
父と10人の家臣(十勇士)のための供養塔を建立したりしています。

ところが、物語はこれで終わりません。

戦国時代が始まらんとする室町時代の関東の歴史を記した「鎌倉大草紙」に、
「小栗満重の乱」の記述があり、その後の小栗助重の記事が載っています(2)

それによると、小栗城の落城後、満重の息子の小次郎助重は関東に潜伏。
そして相模の国の権現堂というところに宿をとったときのこと。
あたりの盗賊が、金品をねらってワナを仕掛けます。
近隣のきれいどころ(遊女)を集め、宴会を開いてもてなし、
その酒に毒を盛って殺そうというわけです。

そのはかりごとを知った遊女のひとり、「てる姫」は、
お酌をするときに、助重に耳打ちをして狙われていることを知らせます。
そこで助重、酒を飲むふりをして、すきを見て外へ出る。
と、そこにつないであったのが「鹿毛」という暴れ馬。
その鹿毛に乗ってひた走り、藤沢の道場(現在の遊行寺)へ駆け込み、
上人に助けられることになります。

助重の家人と、お酌をした遊女たちは毒殺され、川へ流される。
が、てる姫は酒を口にしなかったので、流された後、川下からはい上がり助かります。

一命をとりとめた助重は、その後、三河へ。
そうして後日、あらためて相模へと戻って盗賊たちを討ち殺し、
助けてくれたてる姫を探し出して褒美を与えたということです。

ここには説経の物語となったその原形があるわけですが、
史実そのものというわけではないでしょう。
史実から物語化していったその萌芽が見られると思われます。

その「鎌倉大草紙」をもとに書かれたのが、「小栗実記」
が、こちらでは、小栗判官と家臣11人が毒殺され、
それを上人が解毒の術で、すぐによみがえらせることになっています。

そしてこの「小栗実記」のストーリーは、前半を「鎌倉大草紙」に拠り、
後半の、照手姫の苦難のくだりや、
小栗が熊野の湯で蘇生するところなどは説経に拠っているようです。
ただ、小栗は毒殺されるのではなく、ふつうに病気にかかって瀕死となります。(3)

また、「鎌倉大草紙」と「小栗実記」では主人公が小栗小次郎助重なのに対し、
「小栗略縁起」では、自刃したはずの父、小栗満重が主人公です。
小栗城落城のとき、満重はからくも生き延びて10人の家臣とともに脱出し、
三河の国をたよって落ち延びたというわけです。

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歴史の事実が人から人へ伝わるうち、
話に尾ヒレがつき、背ビレがつき、物語がさまざまに生まれていったのでしょう。
それが時代の流行に合わせるように、
説経、人形芝居、歌舞伎というメディアに合わせて、さらに色を変えていった。
そして絵解きとなった。

では、どんな人々が語り伝え、物語にしていったのでしょうか?

ところで花應院のご住職が話をして下さった中に、
③「瞽女が淵」という場所が話題にのぼりました。
花應院の近所にあるというのです。
そこで、訪ねてみることにしたのでした。

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《引用・参考文献》
(1)近松門左衛門「当流小栗判官」〜近松全集刊行会編「近松全集・第14巻」岩波書店・所収
(2)「鎌倉大草紙」〜近藤圭造編集兼校訂「改定史籍集覧・第5冊通記類」(=明治33年版の近藤瓶城編『史籍集覧』を改定したもの)臨川書店・所収
(3)畠山泰全「小栗実記」〜京都大学文学部国語学国文学研究会室編「京都大学蔵大惣本稀書集成・第5巻軍記」臨川書店・所収
(4)小沢昭一取材・構成「ドキュメント・日本の放浪芸〜小沢昭一が訪ねた道の芸・街の芸」CD7枚組/ビクターエンタテイメント

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by kamishibaiya | 2012-03-04 10:53 | 絵を見せて語るメディア | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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