小栗判官照手姫の絵解きをみる・04

そして物語はつくられた


実は絵解きの当日、始まる時間に遅刻しそうになり、あわててタクシーをつかまえたのでした。
その運転手さんが、やたら地元の歴史にくわしい。
義経伝説や、藤沢宿の遊女を弔ったお寺、化粧地蔵のことなどいろいろ教えてくれながら言うには、
「このあたりは昔から豊かなところでねえー」。

お米もよくとれたんだそうです。
なるほど近くに川があり、水に困らない。
また、川の運んでくる土砂が、肥沃な土地をもたらしていたのでしょう。

「ただ、水害にはずいぶん悩まされたようだね」。

その境川。
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今でこそまっすぐ、護岸工事もきっちり、まわりの用水路も整備されています。
が、昔は蛇行する川がよく氾濫したんだそうです。

そんな1847年、江戸は幕末の頃、ここを訪れた旅の浪人が、
水難を鎮める人柱として、川に身を投げ自殺する。
村人たちは手厚く葬り、水難除けの石仏を建立。
「土手番さま」と呼ばれるその石仏がこちらです。
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その隣りにあるのが、瞽女(ごぜ)が淵の碑。
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1673年。
といいますから、説経の正本「おぐり」が刊行される2年前の江戸時代前期の頃。
川が蛇行して出来た池に、ここを通りかかった瞽女さんが落ちて溺れ死んでしまう。
あわれんだ村人たちは、池を埋め立て、ここを「瞽女が淵」と名付けます。
が、その後も川はたびたび氾濫して地形も変わったようです。

2012年の今年、1月16日の花應院・閻魔祭では、ご住職が今も
瞽女さんとご浪人を手厚くご供養しておられました。

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瞽女は、盲御前(ごぜん)から「ごぜ」と呼ばれるようになった女性の旅芸人。
「耳なし芳一」などで知られる琵琶法師は、琵琶を弾いて物語を語った盲目の僧ですが、
瞽女もまた盲目で、主に三味線を弾きながら唄い、語りました。

盲目であっても、グループで助け合いつつ、年中旅を続ける彼女たちは旅のベテランで、
少々の悪路には慣れていたでしょう。
うかつに水にはまるとは考えにくい。
不幸な事故であったとしても、
そうした水の事故というのは、目の利く周辺の住民のあいだでも、
そうそう珍しいことではなかったのではないでしょうか。
それが、語りぐさとなり地名となり、大正時代にはこの石碑が建てられたのには、
何かしらの理由があったように思います。

不幸な魂がたたりを為して災いをもたらす。
そのため、災難を回避するため、魂を鎮め、慰めようとする。
これは日本の各地の習俗に見られます。
水害にたびたび苦しめられていた村人たちの中にはそうした気持ちもあったでしょう。

また、人柱を志した浪人がわざわざ瞽女が淵を選んで身を投げ、
同じ場所に「土手番さま」と「瞽女が淵碑」が並んでいるというのも
何かしらの脈絡があるようにも思われます。

柳田國男は、道祖(さえ)の神を奉じて、芝居がかって舞いを踊る遊行の巫女が、
人柱となって水難を鎮める「さよ」姫伝説につながったのではないかといいます(1)
もしかしたら、やはり遊行の徒であった瞽女と関連があったりするのでしょうか。

あるいはまた、村人たちの中に、瞽女さんに対する
独特なシンパシーがあったということなのでしょうか。
瞽女が語り唄う物語を村人が歓迎し、時には涙を誘われ、親しんでいた文化があったからこそ、
この事故を語り伝えてきたということもあるかもしれません。

いずれにしろ、当時、瞽女さんたちがこのあたりを往来していたということは確かのようです。
そして彼女たちのレパートリーの中には「小栗判官照手姫」の物語もありました。

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改めて周辺の地図を見直してみると、
関連史跡の多くが、国道1号線、つまり東海道の道沿いにあることに気づきます。
しかも、近くにかまくらみちが通っており、
このあたりは交通の要(かなめ)でした。
旅人が行き交っていた。
その中に瞽女さんの姿もあったのでしょう。
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江戸の頃には、説経などを通して「小栗照手」の物語は人々の中に定着していたと思われます。
むしろ古くさいと思われていたかもしれません。
それがフィクションであっても、物語にまつわる話が伝説化していた。
ここを通る旅人は、この土地に伝わる伝説やうわさも、
旅のみやげ話として方々へ拡散させたことでしょう。

ただしかし、江戸以前、この物語が生まれたと考えられる中世にはまだ、
国道1号線にあたる東海道はありませんでした。

近くを通るかまくらみちを北上すると、
瀬谷(現・横浜市瀬谷区付近)へと至り、
鎌倉街道のひとつともいわれる中原街道にぶつかります。
中世には、この中原街道がメインとして使われていたようです。
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さらに北には、律令時代の東海道が平行して走り、
小高駅(現・川崎市中原区小田中付近)あたりで中原街道とほぼ交わります。
(ここに多摩川を渡るための「丸子の渡し」場があります。)
この古代の東海道の道の先が、
常陸の国の国府(現・茨城県石岡市)へとつながっている。
その国府から筑波山をはさんだ向かい側に、
小栗城のあった小栗村(現・茨城県筑西市小栗)があります。

小間物屋・後藤左衛門は、このルートを行き来して商売をしていたのでしょう。
そして常陸の小栗と、相模の照手の橋渡しをすることになる。
あるいはまた、小栗城の落城後、小栗満重の子、小次郎助重は、このルートをたどって
三河の国へ落ち延びて来たかもしれません。
その途中で、相模の国のこのあたりを通りかかった。

その常陸の国と相模の国が、物語としてどうして結びついたのか?
──国文学・民俗学の福田晃さんが、興味深い説を展開しておられます。

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青森・恐山で有名な東北地方の「イタコ」という巫女の人たちがいます。
「口寄せ」といって、死霊や生霊、ときには神仏の霊を自分の体に乗り移らせて
その霊の言葉を語るものです。

日本では、古くからこうした口寄せが行われてきました。
「古事記」では、シャーマンでもあった神功皇后が、
住吉大神の口寄せをする場面があったりします。
そして時代が下ると、「歩き巫女」「遊行巫女」と呼ばれるような女性たちが、
各地を旅しながら口寄せをしつつ、託宣をしたり、祈ったり、勧進をしたり、
そして芸を披露したりするようになります。

中には、戦場となった場所や、災害の被災地に留まり、
報われなかった死者の魂の声を語り、供養する女性たちもいました。
恨みを残し、不幸な死を迎えた魂たちは、怨霊となってたたりをなし、災いをもたらすため、
慰め、鎮めなければなりませんでした。
「怨霊」を「御霊」へと変える。
いわゆる「御霊信仰」です。

常陸の国の「小栗満重の乱」で、満重らが非業の死をとげたとき、
その死者たちの言葉を語り、その霊を慰めた遊行巫女がいたのではないか。
と、福田晃さんはいいます。
そして死者たちの言葉が、物語化していくようになる。
「平家物語」は、滅亡した平家の霊を慰めるために琵琶法師が語ったものですが、
「小栗判官」の物語もまた、小栗の霊を慰めるために、
巫女が語ったのが始まりではないかというのです。

遊行巫女たちは「照日」「朝日」「万日」、そして「照手」というような呼び方をされました。
その彼女たちが拠点とした場所が、太陽寺の前身になったといいます。
太陽寺は、現在廃寺となっていますが、
茨城県筑西市の小栗城跡の小山からすぐ近くの井出蛯沢にありました。
その小栗の郷は、伊勢神宮領。
伊勢神宮が所有し、管轄していた荘園でした。
巫女たちは、伊勢神宮ゆかりの神明巫女であったのです。

一方、藤沢には、大庭御厨(おおばみくりや)という広大な荘園がありました。
茅ヶ崎市・藤沢市にまたがる広大さで、
遊行寺や花應院周辺の俣野や上野が原もすっぽり含まれています。
大庭御厨には、馬を放牧させて飼う牧(まき)も5〜6カ所あったそうで、
鬼鹿毛山もそのひとつだったかもしれません。
その大庭御厨が、平安末期、鎌倉景政によって寄進された伊勢神宮領だったといいます。
そこにもまた、伊勢神宮ゆかりの神明巫女がいた。
小栗と大庭には連絡があったというわけです。

やがて、藤沢の俣野に時宗の道場が開かれます。
時宗の開祖・一遍は、ブッダと同じく、出家してより後は遊行に生き、
遊行の途で息をひきとり、最後まで寺という定住の地を持ちませんでした。
方々を旅し、善光寺や四天王寺などで修行した後、
熊野本宮で夢のお告げを得て時宗を開いています。

その志しを継いで、後年、呑海上人が俣野に道場を開くわけですが(後の遊行寺)、
だから神仏習合で、熊野権現を奉っている。
そのとき、その地の神明巫女が習合され、
念仏比丘尼と称されるようになったのではないかといいます。
神道ではなく、仏教の呼び名となった。
各地を遊行しながら、戦場や野辺の死者を弔った時宗の徒である「時衆」たちは
遊行巫女に近しい存在であったでしょう。

小栗の物語には、時宗が色濃く反映されています。
主要な脇役のひとりとして遊行上人が登場するだけではありません。
たとえば、小栗が地獄から帰ってきて名付けられた「餓鬼阿弥陀仏」というネーミングも
時宗っぽいのだそうです。
時衆たちも、物語の生成に大きく関わっていたとされます。

小栗の地の神明巫女が語る小栗御霊の話が、大庭の神明巫女に伝えられる。
そしてそれが念仏比丘尼へと受け継がれる。
そこへ、大庭御厨の牧にいた馬(鹿毛)というモチーフがとり入れられる。
そうした「初期の語りを、世間話ふうに事実譚として伝えていた」のが、
あの「鎌倉大草紙」の物語ではなかったか。
というのが、福田晃さんの説です(2)

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そしてさらに、旅をして歩く遊行巫女や、比丘尼、時衆の僧たちによって、
やがては説経師たちによって、物語は各地を運ばれながら発展していきます。

たとえば、相模川に流された照手は、現在の横浜市金沢区・六浦近くの浜に流れ着きます。
ふつうに考えれば、
相模川が注ぎ込む相模湾に面する鎌倉や逗子に漂着してもよさそうなものです。
反対側の東京湾に面する六浦へと至るためには、
三浦半島をぐるっと周回しなければなりません。

まあ、しかし、当時、港として栄え、知名度のあった六浦が物語の舞台となるのは
当然ともいえます。
が、福田晃さんは、照手の物語を伝える六浦の専光寺(千光寺)の存在を指摘しています。
長生院の「小栗小伝」にも、
「此地に日光山専光寺といふ観音の霊場あり」
と、わざわざ紹介されているお寺です。
そこの観音さまが照手を救うことになる(3)
(※「小栗小伝」では、照手は走って逃げた後に追っ手につかまり、
現・横浜市金沢区を流れる侍従川へ投げ込まれ、六浦へ流れ着くことになっています。)

この専光寺は、海難事故などで海岸に流れ着いた死者を弔っていたところで、
ここに死者の声を聞き慰霊する神明巫女、比丘尼が関わっていた。
さらに時宗とも関連があったのではないかと福田晃さんはいいます(2)


また、照手が売られて下働きをする(別の話では遊女となる)美濃の国の
青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓町)。
ここは、歩き巫女ともつながりのある
傀儡子(くぐつ)といわれる旅芸人の伝承が伝えられるところです。
歌舞の芸をして歩いた遊女もここにいました。
後白河院に気に入られた遊女が、この美濃(青墓)に滞在した来歴のあったことが
「梁塵秘抄」に記されたりしています(4)
遊行巫女や遊行僧、遊行比丘尼も、頻繁にこの宿を行き来していたことでしょう。

さらに、土車の小栗を照手が引いて歩いた二人の道行きの終着点、関寺。
ここは、百人一首で、
「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」
とうたわれた逢坂の関にあるお寺です。
歌の作者、蝉丸は、盲目の琵琶法師であり音曲の名人であったとか、
はたまた乞食であったともいわれる人物。
芸の神さまとして蝉丸神社にまつられています。
その蝉丸を慕って、関寺は、旅をして歩く説経師たちの聖地となりました。
遊行の巫女や比丘尼たちも立ち寄ったことでしょう。

つまり、旅をする語り手たちが、当時行き来していた場所や、ゆかりのある場所を舞台として
物語が発展し、つむがれていったと想像されるのです。

※参照:「小栗照手に関する全国伝承マップ」(googleマップ)

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そして、道行きのゴールは、小栗がその湯につかって蘇生した熊野。
京都、大阪から熊野三山へ至る熊野街道は、物語にちなみ、小栗街道といわれました。

熊野権現のお告げによって開かれた時宗の徒である念仏僧や念仏比丘尼にとって、
熊野は当然、関係の深い場所でした。
特に、時宗が熊野の勧進権を独占するようになってからは、
「熊野比丘尼」と呼ばれる女性たちが、勧進をして国々を回るようになります。
その前身は、山伏の妻の巫女か、時衆の比丘尼ではなかったかと
五来重さんは推察しています(5)
遊行の巫女や比丘尼が熊野比丘尼となった。

彼女たちは、勧進──つまり、熊野三山への信仰を勧め、
神社への寄付金を募って、絵解きをしたり、歌を歌ったといいます。
それは同時に、熊野詣(もうで)の観光案内とPRの役目も果たしていました。
熊野比丘尼たちが行った絵解きの中に
「熊野那智参詣曼荼羅」という絵があるのですが、
それはさながら、“熊野参詣のためのガイダンス”というべきものです。
「熊野にはこんな場所がある」「こんなご利益がある」と案内されているうちに
「わたしを熊野へつれてって」と行ってみたくなる。

どんな病気でも熊野の湯で治ってしまうというこの小栗の物語もまた、
観光PRにはうってつけであったでしょう。

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ただ、熊野は峻険な山であり、
軽い物見遊山のノリで気軽に立ち寄れるところではなかったようです。
それでも多くの人々が、熊野を目指しました。
救われると考えたからです。

熊野勧進をするときに時衆がつかったキャッチフレーズは
「不浄をきらわず」
というものだったそうです。
「黒不浄」といわれる死のケガレもきらわない。
「赤不浄」といわれる産褥や月経のケガレ、つまり女性であることもきらわない。
そして、身分が最下層であってもきらわず、
社会的に白眼視されるような病気であってもきらわない。

「小栗判官」と同じ説経のひとつに、「信徳丸」という物語があります。
主人公の信徳丸は、義母に憎まれ呪いをかけられたために、
両目がつぶれて「人のきらいし三病者」となり、家を追い出され捨てられる。
「三病」とは、必ずしもハンセン氏病とは限らないが、
一般にハンセン氏病のことをいう──と、注にあります(6)

しかし、「人のきらいし」病気でも、熊野権現はきらいませんでした。
観音さまが告げていうには、熊野の湯に入れば病気は治る。
そこで信徳丸は、足元もおぼつかない体で熊野を目指します。
ストーリーとしては、結局、信徳丸は熊野には赴きませんでした。
けれど、熊野という地は、半ば死人である小栗を受け入れたように、
どんな病者も受け入れたところであったことがわかります。

五来重さんはこう書かれています。
「おそらくこの小栗街道には数多くの癩者が鼻も耳も頬もくずれおちて、
唇だけはれあがった顔を白布につつんで
ただ一縷(いちる)の熊野権現のすくいを無理にも信じようとしながら、
たどっていたことであろう。
小栗判官のように足腰も糜爛(びらん)し去って躄(いざり)になったものは、
箱に丸太を輪切りにしただけの車輪をつけた土車に乗り、
道行く人に引いてもらうか、自力で下駄をはいた両手で這うように
山坂をこえていったらしい。」
「熊野ではたびたびそのような患者が中辺路をあるいていた記憶を、
老人からきくことができた。」
(5)

そしてその姿は、「一遍聖絵」の絵巻の中に描かれているというのですが、
なるほど、見ると描かれています。

▼一遍聖絵(一遍上人絵伝)部分
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映画「もののけ姫」の作中、エボシ御前のタタラ場で顔に布を巻き、
「業病」といわれていた人々の姿です。
(もっとも病気ではない非人の人々もこうしたかっこうをしていたといいます。
ただ、非人の中には病気の人も多く、見分けがつけにくいそうです。)

社会からも家族からも疎外されたそうした人々とともに一遍は旅をしました。
そしてそうした人々を、熊野はこころよく受け入れていた。

──リアルだったのです。
小栗判官が地獄から戻って土車に乗って熊野へ旅するという、
おおよそ荒唐無稽と思われたその光景は、実はリアルなものだったのです。

業病の人たちは、人の目に触れぬよう、街道や表通りを避けて旅をしたといいます。
太平洋戦争の頃、四国の山中、人の通らないような険しい山道を、
業病の老婆が旅していたという農民の目撃談を、宮本常一が聞き書きしています(7)
が、あえて人の目にさらされる道を行くことを選ばざるを得なかった人もいるかもしれません。
歩くことが出来ず、土車を使うとすれば、
整備された、けれど人目につく道を行かなければならなかった。

街道を歩き、名もなき道を歩き、熊野へ足を運んだ比丘尼や説経師たちは、
昭和という時代に熊野の老人や四国の農民が目撃して記憶していたように、
そんな光景を、幾度となく目にしていたのではないでしょうか。

社会の底辺にあった彼らの視線は、病者の心情に寄り添っていたかもしれません。
それが、小栗の物語となり、物語る“語り”の表現になった。

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小栗をめぐってつむぎ出されたいくつかの物語は、
その核に史実を持っていたとしても、非現実的なフィクションです。
しかし、物語の中で小栗や照手が直面した試練──
盗賊に殺される。死にかける。
病気にかかってやせ細り、異形のものとなる。歩けなくなる。
いわれのないイジメにあい、折檻される。
人買いに売られる。
重労働で休みなく働かされる。
──これらの苦難は、当時の語り手や、その語りに聴き入った民衆にとって、
心情的にも身近な、非常にリアルなものだったのではないでしょうか。

「照手」と呼ばれた語り手であった巫女が、作中のヒロインとなった。
こうして語り手が物語の登場人物となるパターンは、「曽我物語」などにも見られるものです。
物語が成立してかたちを整え、出来上がってから後の時代になっても、
語り手は、作中人物に自分を投影していたでしょう。

これは、説経の物語に多いのですが、ヒロインは、苦難にめげず、
恋人にひたすらつくし、つくしぬいて、最後には神仏のおかげで救われます。
そんな「照手姫」の物語を切々と語った語り手たちは、自身もまた、
いつか救われることを願っていたのではないでしょうか。

身分低く、時には乞食とさげすまれ、時には盲目や病気といった障害を背負い、
厳しい旅を続けた遊行の巫女や比丘尼、僧や説経師であったら、なおさら、
ヒロインが救われることを切実に願ったに違いありません。

藤沢の瞽女が淵に沈んだ瞽女さんも、
おそらくは、そんなひとりであっただろうと思います。







《引用・参考文献》
(1)柳田國男「妹の力」〜「柳田國男全集・11」ちくま文庫・所収
(2)福田晃「中世語り物文芸・その系譜と展開」三弥井書店
(3)「小栗小伝」(〜小川泰二「我がすむ里」藤沢市文書館蔵に写し書かれたもの)
「白旗神社ホームページ」内・藤沢市史料集2/「我がすむ里・巻の中」のページ
(4)西郷信綱「梁塵秘抄」筑摩書房
(5)五来重「熊野詣 三山信仰と文化」講談社学術文庫
(6)「信徳丸」〜荒木繁・山崎吉左右編注「説経節」東洋文庫・所収
(7)宮本常一「忘れられた日本人」岩波文庫

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by kamishibaiya | 2012-03-06 11:54 | 絵を見せて語るメディア | Comments(0)