虎御前のミステリーを訪ねる・02

虎御前をめぐる女性たち──松浦佐用姫

さて、「曽我物語」のクライマックスとなる仇討ちの
“その前夜”ともいうべき場面です。

兄・十郎祐成は、虎を連れて、故郷である小田原の曽我の郷へと戻り、
短い間ですが、二人のときを過ごします。
そして別れの時がやってくる。
すでに死を覚悟している十郎ですから、
その別れは、もう生きては会えないことを意味していました。
人目を忍びながら二人馬を並べて、
山彦山(現・小田原市曽我山=不動山)の峠まで十郎が見送ります。

「遠近(をちこち)のたづきも知らぬ山中に、道もさやかに見え分(わか)ず、
かの松浦佐用姫が領布(ひれ)振る姿は石になる、それは昔の事ぞかし。
今の別れの悲しさに、駒(こま)近々とうち寄せ、
手に手を取り組み、涙に咽(むせ)ぶばかりなり。」
(1)

というところです。
この場面、「遠近の…」の箇所は、「古今和歌集」(巻第一・春哥上)の

「をちこちのたづきも知らぬ山中におぼつかなくも喚子鳥(よぶこどり)かな」(2)

をふまえています。
遠くと近くの見当さえつかない山の中で、心細そうに鳴く喚子鳥よ、といった意味でしょう。

喚(呼)子鳥(よぶこどり)は、山彦を返す鳥であるという伝承もあります。
「山彦山」というこの山の名にひっかけてもいるでしょうか。
実際には、何の鳥なのか、はっきりとはしないものの、
カッコウやヒヨドリではないかともいわれます。

「子を呼ぶ鳥」といって思い出されるのは、カッコウを題材とする昔話。
父親が、死んだ子どもを「かっちょかっちょ」と言って探すうちに鳥になった、
などの話があります。
また、「子が親を呼ぶ」話もあって、
母親を亡くした子どもが、鳥になって「かこう」と鳴いている、
という話もあります(3)

カッコウは唐突に威勢よく鳴く鳥ですが、しずかな山の奥で聞くと、
そんな親子の物語も想像できるような寂寥感があるのでしょう。
なるほど、閑古鳥ともいわれるわけです。

そうした悲話のニュアンスさえ感じられるような、呼子鳥の哀切な鳴き声が、
あるいはこの場面のBGMとなっていたかもしれません。

遠くと近くの見当さえつかない、道さえはっきりとわからない山の中、
(これからどうなるか、明日の道をも知れぬという意味合いもあるでしょうか)
別れのときにあの松浦佐用姫は、領布(ひれ)を振って石になった、それは昔のこと。
今は、馬を近づけて手を取り合い、泣きむせぶばかり。
──というような意味かと思います。

近くには、芭蕉が句を詠んだという六本松の跡があり、
西から鎌倉へ向かう旅人がここを通ったという鎌倉街道の峠です。
人目を忍んだ二人は街道を避けて、
はっきりと道とはわからない道を行ったのかもしれません。

このくだりの佐用姫のイメージからでしょうか、
おそらく十郎と虎が別れたとされる峠の地点に、現在、
「忍(しのぶ)石」といわれる石があります。
後代になって、二人をしのんだ里人が設置したと考えられるそうで、
この石に二人が腰掛けて別れを惜しんだと伝えられています。
現在は、食用のための梅林が近くにあり、農道が走るそのかたわら。
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撮影したときには、呼子鳥のカッコウは鳴いていませんでした。
カラスの声とヒヨドリの声が聞こえましたが、なかなかにぎやかで、
淋しい「おぼつかない」感じではありませんでした。

この忍石は、十郎が力試しの力石として持ち上げたそうで、
その手形(のようなくぼみ)の跡があるとのこと。
よく見ると、確かについているような気がします。
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また、この石は縁結びのご利益があり、意中の人をこよりに書いて結んでおくと
願いがかなう。
──という言い伝えもあるそうなのですが、こよりをどこへ結べばいいのでしょう?
こよりは、石の周りにも見当たりませんでした。
今は、恋心をこよりに託す純情は流行らないのかもしれませんね。
ただ、お賽銭が置かれていたのには、やはり何かしら効験あらたかなのでしょうか。
かわいらしい花も供えられていました。

この「忍石」は、曽我にいた十郎が大磯の虎のもとへ通うことが出来ない夜、
ひとり来て、ここから見渡せる海の漁り火を見ながら、虎を「しのんだ」ともいうそうです。
たしかに、このあたりからは相模湾が遠く望めます。
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あるいは一説には、仇討ちをとげて十郎が死んだ後、
虎と、十郎の母である満江御前がここに腰掛けて、亡き十郎を「しのんだ」ともいいます。
それで、「しのぶ石」というのだと(4)

実は、この「忍石」、もともとは「姥石」と「姫石」の二対あったのだそうで、
それを考えると、後者の説に軍配をあげたくなります。
今この峠にあるのは、大きな姥石の方です。
現在、ふもとの方の城前寺に移されている、小さな方の姫石がこちら。
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お寺には保育園があって、子どもたちが遊んでいたずらしたりするので、
現在は立て札などは立てていないということでした。
立て札がないと、ふつうの石と見分けがつきませんね(笑)。

こちらもやはり「忍石」という名前なのですが、
こちらの方は、十郎と虎が笛を吹いて腰掛けた石だと伝えられています。
ただ、2人が腰掛けるには、少々、サイズが小さめな気がします。

さまざまな言い伝えが付随しているわけですが、
力石、また、峠にあって結びの神でもあるという道祖神的な要素など、
虎御石の伝説と似ているところもあります。
あるいは、伝説化していく過程に、共通するものが反映しているということでしょうか。

そしてここで注目されるのが、松浦佐用姫です。
この場面で、別離に涙する虎は、
別離の悲しみのために石と化する佐用姫と重ねられているのです。

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彼女の伝説をたどると、文字としては「肥前風土記」までさかのぼれるそうです(5)
「肥前風土記」での名前は、「佐用姫」ではなく、「弟日姫子(おとひめこ)」。

時代が「古墳時代」からやがて「飛鳥時代」へ移り変わろうとする537年、
朝廷の命を受けて、大伴磐(いわ)、大伴狭手彦(さでひこ)らが朝鮮半島へ出兵します。
いわば青年将校である狭手彦は、軍を率いて朝鮮へと渡ろうと、
現在の佐賀県唐津市の篠原の村に駐留します。
そこで狭手彦は、弟日姫子と出会い、結ばれる。

※弟日姫子(=松浦佐用姫)は、篠原長者(または笹原長者)の娘で、
内陸の山間部にある現・厳木(きゅうらぎ)町の長者原(ちょうじゃばる)の館で
生まれたという伝承も伝わっています。

狭手彦は、当時は銅でできた鏡をプレゼントします。
が、いよいよ軍が出発する日がきて、別れの時が訪れる。
別れねばならないと頭でわかっていても、後を追おうとしたのでしょうか、
弟日姫子は泣きながら川を渡る。
そのとき、鏡の緒が切れて川に落としてしまいます。

やがてすでに港を離れた船を、せめて見送ろうと小高い山を駆け上り、
船の上の彼に向かって褶(ひれ)を振ります。
そうして遠くなる船の姿が水平線の彼方に消えるまで、
いつまでも、いつまでも、振り続けたということです。
それゆえ、この山は「褶振りの峯」と名付けられたのだと「肥前風土記」は記しています。
現在の鏡山です。

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この褶(ひれ=「領巾」「巾」とも書きます)というのは、
薄い布を使った細長い肩掛け──いわば「ロング・スカーフ」。
一般に女性がまとっていたそうですが、
特に「釆女(うねめ)」と呼ばれる女性たちには欠かせぬもので、
釆女の代名詞のようなアイテムだったそうです(6)
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釆女は、皇族に仕え、食事や雑事の世話をする
メイドさん的な仕事をする官職です。
が、実は、巫女的な職種であったといいます。
彼女たちがふだんから褶(領巾)を身につけて離さなかったのは呪術のためで、
神に供物を捧げたり、皇族に食事を供する上で障りとなるものを予測し、
除去するためだったといいます。
褶(領巾)は、呪術的なパワーをもつアイテムでもあったのです。

「古事記」で、オオクニヌシがピンチに陥ったとき、スセリ姫(須勢理毘売)が助けて手渡したのが、
この褶(ひれ)でした。
褶を3回振ると、獰猛なヘビも、ムカデも、ハチも、みんなおとなしくなる。
折口信夫によれば、褶(領巾)は、霊を呼び迎えるとともに、
邪悪な霊を追いはらうものでした(6)

やがて、一般の成人女性も身につけるようになり、それが盛装となり、
ファッション化していきます。
が、弟日姫子(松浦佐用姫)が褶(領巾)を身につけていたのは、
狭手彦が朝廷の使いであり、彼に仕える釆女の役割を彼女が果たしていたからだと
折口信夫はいいます。

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一途にひたすらに領巾(褶:ひれ)を振り続けた少女のイメージは、
名前を松浦佐用姫と変え、万葉集にも詠まれるようになります。
そして時代が移り変わるにつれて、伝説に次々と尾ヒレがついていくのです。

室町時代になると、佐用姫は、悲しみのあまり石に化すことになります。
連歌の本の「梵灯庵袖下集」に、「船かくれて後やがて石となりぬ」と書かれる。
もともと中国に、夫を慕うあまりに石となった「望夫石」伝説があり、
その影響による発想ではないかといわれます。

それが伝承になると、こうなります。

◎佐用姫は、領巾(ひれ)を振り続けた後、
なおも船を追いかけて、領巾振り山(現・鏡山)からドスンと飛び降りる。
(その飛び降りた足跡のついた岩が、「佐用姫岩」として今も唐津市和多田に残っています。)

◎川をジャブジャブ渡ったので、途中で濡れた衣を乾かす。
(その干した山が、今の衣干山(唐津市西唐津)です。)

◎なおも追いかけ、海岸へと出て、狭手彦の名前を呼び続ける。
(名前を呼び続けたので、この場所が「呼子」という地名になったといわれます。
そこが、現在の唐津市呼子町です。)

◎そうして玄界灘に浮かぶ加部島へと渡り、
そこで7日間泣き続け、石になってしまうことになります。
その石は「望夫石」として、現在も加部島の田島神社に置かれています。


もしも流布本「曽我物語」の作者が当時、こうした伝承を知っていたとしたら、上述の
「遠近(をちこち)のたづきも知らぬ山中に」
の箇所は、「呼子鳥」につなげて「呼子」という場所を想起させるための
一種の枕詞(まくらことば)のような意味合いになってくるかもしれませんね。

そして様々に尾ヒレのついた伝説に影響を与えているのが、あの領巾(ひれ)です。
領巾という呪術的なアイテムをかざして振る
「釆女」という、ほとんど「巫女」のキャラクターとしての佐用姫です。

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「肥前風土記」では、弟日姫子が狭手彦を見送ったその後、「蛇婿入り」話となります。
弟日姫子は、狭手彦に化けたへびに魅入られ、沼に引きずり込まれて命を落とすのです。

これは、「古事記」の三輪山神話で、へび(=オオモノヌシノ神)の花嫁となった
イクタマヨリ姫(活玉依毘売)の話に似ています。
が、彼女は、そうして神の子を生むことで、
神職を奉ずる氏族の祖先になるというハッピーエンドになります。
しかし「日本書紀」の三輪山神話では、やはりへび(=オオモノヌシノ神)の花嫁となった
ヤマトトトビモモソ姫(倭迹迹日百襲毘売)は箸に貫かれて死んでしまう悲劇となります。

昔話では、「蛇婿入り・苧環(おだまき)型」に分類されていて
さまざまなヴァリエーションがあるのですが(7)
この「肥前風土記」や記紀の伝説では、
ひとつには、“神の花嫁”である巫女の運命が語られているように思われます。
“神の花嫁”になることは、名誉なこと。
ですが、神が荒ぶるときには、その身を捧げても鎮めなければなりません。
身を犠牲にすることが、巫女の役割のようにもなっていく。

中世になると、「松浦佐用姫」という個人を離れて、
ある意味、ブランド化した「さよ姫」という名前の女性たちの伝説が各地で生まれます。
柳田國男が列挙しているのですが(8)
たとえば、現在は福島県郡山市日和田町にある蛇骨地蔵堂に伝わる話。

今は水田となってもうありませんが、かつて安積(浅香)沼という沼があり、
そこに大蛇がすんでいました。
この大蛇、実はもともと領主の娘のお姫さま。
家臣の邪しまな横恋慕によって一家を殺されるという目に合い、恨んで大蛇となり、
天変地異をひきおこす。
鎮めるために村人たちは、毎年、人身御供を捧げなければなりませんでした。
そうして32人の娘が犠牲となり、33人目は長者の娘の番となる。
そこで長者は、松浦長者の娘で今は没落した佐用姫を金で買って身代わりにたてます。
人身御供の祭壇へと捧げられた佐用姫が一心に経を唱えていると、
近づいてきた大蛇は、その功徳をもって成仏することになります。

ストーリーとしては、説経節の「まつら長者」とよく似ています。
(説経の方では、龍(大蛇)は、人柱にされた女性が恨みをもったもので、
これまで999人の人身御供の娘を取ったことになったりしています。)

こちらの話では、大蛇(領主の姫)は蛇骨を残して成仏し、
その蛇骨で、32人の犠牲者と大蛇のために33体の観音像を彫る。
それが今も蛇骨地蔵堂に伝わる三十三観音像だと伝えられています。


たとえばまた、現在の福岡県三井郡大刀洗(たちあらい)町の床島堰に伝わる話。

水不足に苦しんだ村人たちは、筑後川に堰を築き、用水路を引く工事に取り組みます。
ところが、工事は困難をきわめ、そこで人柱を立てることになります。
その人柱となって俵につめられ水底に沈められたのが、
9歳の女の子である「おさよ」でした。
沈められたおさよはその後、現われた白髪の老人の手によって生き返ることになります。

「佐用姫」「佐世」「小夜」「さよ」など、表記も呼び方もいろいろですが、
「さよ」という女性が人身御供や人柱になって水に沈むという、伝説のヴァリエーションが
九州から東北まで各地に伝わっているというわけです。

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「さよ」は、高貴な出であったり、長者の娘ともいわれ、
また、遊女であるともいわれます。

世阿弥作の謡曲「松浦」では、名を「小夜姫」という遊女であり、
狭手彦からもらった鏡を抱いて海へ入水自殺をすることになっています。
その小夜姫の幽霊が、諸国行脚の僧に物語を語り伝えるという筋立て。

そもそも朝廷から来た狭手彦の接待をするという“釆女”的な立場は遊女に近く、
また、折口信夫にいわせると、巫女と遊女とは、
それほど遠い関係というわけではなかったようです(9)

巫女は口寄せをして、神語りをするわけですが、その語りから、
物語が生まれ、歌が生まれ、舞が生まれたとする説があります。
歌舞を奉じる巫女が、民間へ下ると、歌舞の芸を売る遊女ともなります。
そして時代とともに、巫女のように口寄せをしたり、神事を行ったり、
遊女のように歌舞を行ったり、物語を語る女性たちが、
各地を歩き、遊行するようになります。

彼女たちは、たとえば水害に苦しむ地域では、水難除けを祈念したり、
橋や灌漑の工事をしている地域では、その安全と成功を祈念して、
神事をとり行ったり、歌舞を奉じて、演じたりもしたことでしょう。
時には、謡曲や説経や伝承に伝えられているような人身御供の物語を演じたかもしれません。
その演じた女性の印象が、各地の「さよ」姫伝説につながったのではないか、
というのが、柳田國男の論です。
彼らは、道祖(さえ)の神を奉る人々でした(8)

高貴の生まれとも、長者の娘とも、遊女ともいわれ、その実、正体は定かでなく、
道祖(さえ)の神信仰ともどこかしら脈略がありそうで、
松浦佐用姫が石になったごとく、自身も石になったといわれる虎御前。

何か、匂いそうな気がしてきます。

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《引用・参考文献》
(1)佐々木信綱・久松潜一・竹田復監修「曾我物語 下」いてふ本刊行会
(2)佐伯梅友校注「古今和歌集」〜「日本古典文学大系8」岩波書店
(3)関敬吾「日本昔話集成・第一部動物昔話」角川書店
(4)立木望隆「城前寺本 曽我兄弟物語」曽我兄弟遺跡保存会
(4)近藤直也「松浦さよ姫伝説の基礎的研究 古代・中世・近世編」岩田書院
(5)佐伯順子「遊女の文化史」中央公論社
(6)折口信夫「宮廷儀礼の民俗学的考察ー釆女を中心としてー」〜「折口信夫全集・第16巻」中央公論社・所収
(7)関敬吾「日本昔話集成 第二部本格昔話」角川書店
(8)柳田國男「妹の力」〜「柳田國男全集11」ちくま文庫・所収
(9)折口信夫「巫女と遊女と」〜「折口信夫全集・第17巻」中央公論社・所収

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by kamishibaiya | 2012-03-16 06:25 | 絵を見せて語るメディア | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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