虎御前のミステリーを訪ねる・04

虎御前をめぐる女性たち──都藍尼


江戸の頃につづられた「東海道名所記」に、
絵解きをした熊野比丘尼を描写するくだりがあります。
そこで「比丘尼」を説明するのに、史上初の比丘尼であり、ブッダの養母であったインドの
喬答弥(きょうどんみ)〈=摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)=マハー・プラジャーパティー〉
から説き起こして、日本の比丘尼の起源をざっと述べています。
その中で、光明皇后が比丘尼となり、「都藍」と呼ばれたとあるのです。

どうやら、この箇所は熊野の「比丘尼縁記」に拠ったらしく、
「比丘尼縁記」にも、光明皇后が尼となり、「とらんニ」となったと書かれています(1)

光明皇后といえば、悲田院の福祉活動など、さまざまな伝説に彩られている方ですが、
「都藍尼」という比丘尼になったという話は、
この記述以外にはあまり見当たらないようです。
仏教に帰依し、法華寺という尼寺を開いたとされる光明皇后が、
比丘尼に関連する有名人として、伝説を加味されて取り上げられたのかもしれません。

ここで注意をひかれるのは、「都藍」という名前です。

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「都藍尼」は、大江匡房「本朝神仙伝」では、
奈良県の吉野山のふもとに住む尼として登場します(2)
同じ話を、柳田國男は「元亨釈書」から紹介しています(3)

彼女は仏法を修行して、仙女のように不老不死を得、数百歳であったといわれます。
その神通力をもって、奈良県の女人禁制である金峯山(きんぷせん)へ登ろうと
足を踏み入れる。
と突然、天変地異に見舞われ、持っていた杖はたちまち大樹となり、
岩は割れ、泉が噴き出します。
そうして、とうとう登ることはかなわなかったというのです。
(別の書では、殺されたともいいます。)

金峰山の一画である山上ヶ岳(大峰山)の山道入口には、
オイトシボ石(なで石)のある龍泉寺がありましたね。

また、「とらん」という比丘尼は、
滋賀県の比叡山延暦寺の「叡山略記」にも顔を出しているそうです。
こちらでは「都蘭之尼」と書かれ、
最澄に恋慕してフラれた仕返しに嘘をつく困り者として登場します。
この話は女人禁制の由来を説明するものでもあるようです。

さらに、役小角(えんのおづぬ)のお母さん。
金峰山で活躍し、龍泉寺を開いたともいわれ、
修験道の開祖といわれる、あの役行者(えんのぎょうじゃ)のお母さんの話です。

彼女は息子に会いに、山上ヶ岳(大峰山)へやって来たのですが、
山へ登ろうとすると大蛇が現われて邪魔をします。
そこで、山道入口の天川村洞川で庵を結んで祈っていると
阿弥陀如来があらわれ、息子の修行の邪魔をしてはいけないとさとされます。
彼女は、その場所より上には踏み込もうとしませんでした。
やがて役小角が山を降りてきて、その場所で会うことがかなう。
その庵を結んだ場所が、現在の「母公堂」で、
女人禁制の結界の境界点となっていました。
(現在は、結界の範囲が変わっているとのこと。)

空海のお母さんにも、高野山(和歌山県)に同じようなエピソードがあります。
その話では、空海に会いにきたお母さんは、女人結界の境界点にあった寺務所に留まり、
そこが後に「慈尊院」となったと語られます。
また、泰澄のお母さんにも、同様のエピソードがあって、
越前・平泉寺(福井県)近くに「七難の岩」があるそうです(4)

その役小角のお母さんの名前が、「白専女」。
「専女(とうめ)」は老女の意で、一般に「しらとうめ」「しらたらめ」などといわれます。
が、「とらめ(刀自女)」という名前も伝えられているというのです(2)

つまり、巫女や比丘尼たち、山に関わる宗教に関連する女性が
「とらん」とか「とらめ」などと呼ばれたらしい。
そして、結界の境界の地点でエピソードを多く残しているらしいのです。

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そうしたエピソードが、石というモチーフを伴って語られることが多いことを
柳田國男が述べています(3)(4)
例のごとく、博覧強記の情報収集力でもって伝承を並べているのですが、
その中から、いくつかかいつまんでメモしてみます。
いずれも、女人禁制の山に女性が登ろうとする話です。

◎「斗宇呂(とうろ)の尼」という者が2人の尼を伴って、
立山(富山県)へ登ろうとしたところ、石になってしまった。
これを「姥石」という。

◎「融(とおる)の尼」は、美女を同席させ、酒を売る商売上手。
(なんだか遊郭を思わせます。)
白山(富山県・岐阜県)の山の上の神社で参詣者を相手に酒を売ろうと登ったところ、
美女が美女坂で「美女石」となり、融の尼は姥坂で「姥石」となる。

◎巫女が登ったところ、「巫女岩」となる。
(新潟県、佐渡島の金北山(きんぽくさん))

◎巫女が犬を連れて登ったところ、巫女が「イタク杉」となり、犬が「犬子石」となる。
(秋田県男鹿市の赤神山(真山・本山・毛無山))
◎守子(モリコ)が登ったところ、「守子石」となる。
(秋田県横手市の保呂羽山)
◎巫女が登って、「一位墓(イチイバカ)」という自然石になる。
(埼玉県秩父郡の両神山)
※「イタク(コ)」「モリコ」「イチ」は、巫女の通称です。

◎比丘尼が登って、「比丘尼石」となる。
(長野県長野市の戸隠山)

これらの話では、巫女や比丘尼という女性の宗教家が、
女人禁制の山に足を踏み入れて石(または樹木など)になったと語られます。
これはつまり、女人禁制の結界の境界点に、
目印となるような特長的な石が置かれているということです。
役小角や空海のお母さんの例では、
「母公堂」や「慈尊院」という建物が、境界のしるしとなっていました。

それが、母親の愛情を語る話であるにしろ、
驕慢を戒められて罰せられる話であるにしろ、
女人禁制であることを説明し、その範囲を知らしめる伝承であるようにも思われます。

巫女や比丘尼は、その結界の境の地点までやってきて、
石の向こうの山頂の方にある社殿や本尊を礼拝したかもしれません。
あるいは、石そのものを祀って礼拝したかもしれません。
そうしてそこから引き返すことになる。
このような行法があったことが、これらの伝承につながったのではないかと
柳田國男はいいます。

また、巫女や比丘尼が、石を運んだということもあるようです。
熊野比丘尼は、熊野の地の小石をご神体として遊行の際に携帯し、
各地へ持ち運んだそうです。
岐阜県郡上市美並町杉原の熊野神社には、
俊応という熊野比丘尼がたもとに入れて運んだ“袂(たもと)石”を
「弥勒石」として祀っています。
が、弥勒石は、人間の背丈ほどもある巨大な自然石。
これはたもとの中の小石が、成長して大きくなったものというのです。
(彼女の杖が杉の木になったともいわれ、現在、天然記念物の巨木になっています。)

虎御石やさざれ石が成長して大きくなったという話も思い出されます。
比丘尼が石をご神体として重んじたということと、
何より石への信仰がこうした伝承を生んだのかもしれません。
比丘尼が運んだ石によってはじまったという神社も少なくないそうです(5)

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そして、このような行法を行う巫女や比丘尼たちは
「とらん」「とらめ」「とうろ」「とおる」などと呼ばれていたわけです。
もしくは、名乗っていた。

柳田國男は、これらの言葉が、古代の「タル」に由来するのではないかという推論を
ちらっと記しています(6)
太陽や吉日のことを「生日足日(いくひのたるひ)」と言ったり、
長野県上田市の生島足島(いくしまたるしま)神社が
「生島大神」と「足島大神」を祀っている、その「足(タル)」と関係があるのではないか
というのです。

また、「タル」は「タラシ」となり、「帯」と書くそうです。
この「足」や「帯」は、大昔の貴人の名前に使われることが多く、
八幡様の元になった御名が「大多羅志女(おおたらしめ)」といい、
この名は、国の神々に多いといいます。
そういえば、神託を伝えるシャーマンでもあった神功皇后が、
「おおたらしひめ」といい、「大帯比売」とも「大足姫」とも表記されていました。

この「タル」「タラシ」が、時代が下るとともに
「トラン」や「トウロ」につながったのではないかと、柳田國男はいうのですが、
素人の筆者にはわかりません。
ただ、「虎(とら)」という名前が、その「とらん」に由来し、
虎が石に化したという伝説の要因になったと考えると、
いろいろなことが符合してくるように思われます。

虎は、熊野系統の箱根権現につながる高麗権現の修験比丘尼という
福田晃さんの説も、なるほどと思われてきます。

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白土三平さんのマンガ「忍者武芸帳」で、主人公・影丸は、
殺されても殺されても、いつのまにかまた生き返っているという不死身の男でした。
というのは、“影丸”とは一族の名前であり、
ひとりが殺されても、また影武者のような別のひとりが“影丸”になるというのです。
同じ作者のマンガ「サスケ」でも、
“猿飛”というのは個人の名ではなく、術の名であり、
その術を継承する一族が“猿飛”と呼ばれているという設定でした。
だから、“猿飛”は、全国に何人もいるというわけです。

もしも「都藍」とか「とら」という名が、個人のものではなく、
ある行法に関連した巫女や比丘尼たちの名だとすると、
“虎”が全国に何人いてもおかしくないわけです。

山梨県南アルプス市の芦安安通には、
この地に虎御前が生まれ、没したという伝承があるそうです。
芦安芦倉の伊豆神社には、曽我十郎と虎を祀り、「虎女の鏡石」が伝わっていたのだとか。
伊豆神社は大正時代に倒壊したため、
現在、十郎と虎の木像は、近くの諏訪神社に移されているそうです。

滋賀県の虎御前山(虎姫山)には、
「曽我物語」の虎とは無関係の、虎御前(虎姫)がいます。
彼女はふもとの里の「世々聞(せせらぎ)長者」と結婚するのですが、
顔はへびで、体が人間という子を産んだため、嘆いて淵に身を投げた、
もしくは、へびとなって淵に沈んだといいます。
「さよ姫伝説」の要素と「虎御前」の名前が混ざり合っているような気もします。
これなども、「とら」と呼ばれた女性たちと関係がありそうです。

鹿児島県志布志市の大慈寺の境内には「虎が石」があり、
虎がここへ立ち寄った際に建立したと伝えられているそうです。
イボの治癒に効果があるのだとか。

虎の足跡は、九州にまで及んでいる。
兄弟の没後、虎が箱根で比丘尼となり、
その後、全国を旅して廻るのは、まったく不可能というわけではないのですが、
「とら」という女性たちが全国を巡っていたと考えると、
これらの数々の伝承も自然に思えてきます。

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先日、小林玲子さんの「十界図」の絵解き口演を拝見したとき、
郷土史家であるご主人の小林一郎さんともご一緒に、少しお話しすることが出来ました。
そのとき、ご夫妻が善光寺の近くにお住まいであることを思い出して、
虎御前のことを聞いてみると、虎御前石が近所にあるというのです。

それで帰って調べてみると、以前のブログに書かれていました。
「小林玲子の善光寺表参道日記」
http://blog.livedoor.jp/naganoetokino1/archives/962018.html
http://blog.livedoor.jp/naganoetokino1/archives/981004.html

小林一郎さんによると、「とら」や「とらん」と呼ばれ、
遊行していた女性宗教家が拠点としていたひとつが善光寺だそうで、
そのため、善光寺周辺や、各地の善光寺ゆかりの寺にも、虎の痕跡があるということです。
たとえば、長野県佐久市鳴瀬の時宗寺には、虎御前石、
長野県上水内郡飯綱町芋川の健翁寺には、虎御前の墓があるそうです(7)

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「曽我物語」が物語として成立する以前、
初期の語りは、口寄せによる「死霊語り」だったのではないかといいます。
「小栗判官」の場合もそうでしたが、
無念のまま命を落とした死者の魂の声を、口寄せ巫女が語る。
そうして声を聞いてあげることによって、祟りをなさぬよう、慰める。

現在でもときどき、成仏できない不幸な霊が祟ったために、眠れなくなったり、
体調を崩したりするという“霊障”が、テレビ番組で取り上げられたりしています。
霊能者という人に依頼して、除霊を行ったりする。
昔も、そういうことがあったのでしょう。
不幸な魂が「怨霊」となって、この世に災いをなすと考えた。
そこで「怨霊」が「御霊」と変わるように供養する。
いわゆる「御霊信仰」です。

曽我ブラザーズの弟・「五郎」のネーミングは、
「ごりょう(御霊)」からきたのではないかとする説もあります。
仇討ちを果たした後、20歳そこそこの若さで果てた十郎と五郎は、
悲劇の兄弟として、くりかえし語られたことでしょう。

口寄せ巫女であるイタコに男性の霊がとりつくと、男性言葉と男性の口調になります。
が、若干の不自然さは否めません。
やはり、女性の声で語られるのは、女性の霊である方がしっくり来て、
また、聞く者の心にも響きやすいと思われます。
そこで、兄弟の行動を見守り、兄弟と半ば生活をともにした愛人という存在が、
物語を語るにふさわしい女性としてクローズアップされることになります。

たとえば、こんな想像をしてみます。
霊がとりつくと、口寄せ巫女は、こう語り出したかもしれません。
「ううう……わらわは……、十郎祐成殿と、ひとつ蓮(はちす)の縁を誓い合うたものなり」
そして、
「そう、あの晩は今宵の雨と違(ちご)うて、降る雨は車軸のようであった……」
などと物語ったかもしれません。
つまり、一人称。

物語の骨格が定まってきてからも、一人称で語るスタイルがあったとみられ、
その語りに聴き入った人々は、
十郎の愛人と語り手の女性が同一人物であるように錯覚したと思われます。
物語を管理し、各地へ持ち運んだ語り手が、「とらん」と呼ばれていたとしたら、
十郎の愛人は「とらん」→「とら」ということになっていく。

当時、人が死ぬと、その霊は霊山へ向かうものと考えられていたといいます。
曽我兄弟の霊も、霊山である箱根に向かったと考えられた。
その箱根で「死霊語り」が行われたのではないかと福田晃さんはいうわけです(8)

柳田國男によれば、箱根その他の修験道場では、近代まで巫女は比丘尼であり、
山伏の妻であることも多かった(9)
比丘尼はもちろん仏教の宗教家ではありますが、
箱根の比丘尼は実質的には、歌舞を行ったり、口寄せを行う巫女であったというのです。

その箱根の修験比丘尼、そして箱根に深いつながりのある高麗の修験比丘尼によって、
「死霊語り」が行われ、物語がかもし出されていったのではないか。
というのが、福田晃さんの説です。

やがて物語が成り立って三人称で語られ、虎というキャラクターが定着した後も、
出家して兄弟の菩提を弔うために各地を歩いたという虎は、
各地を歩いて物語を語る巫女や比丘尼と重ね合わされ、
同一視されることがあったかもしれません。

そうして各地に種がまかれ、各地の「虎」伝説が育っていったものと思われます。

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では、「虎御前」は、まったくのフィクションだったのでしょうか?

基本的には史実とされる「吾妻鏡」で語られているように、
19歳で箱根で兄弟の供養をし、出家して、善光寺に参詣したという虎御前は、
語り手であった巫女や比丘尼の投影なのでしょうか?

もっとも、曽我兄弟の仇討ち事件が起こったとされるのが、1193年。
虎が出家したのも、同じ1193年とされます。
が、「吾妻鏡」が編纂された時期は、1290年から1304年のあいだとされ、
事実から記事となるまでに約100年以上のタイムラグがあったということになります。
100年のあいだに、「伝聞」が「伝説」となってもおかしくはありません。
その頃には、物語がある程度、拡散していたとも考えられます。

神奈川県大磯市周辺の伝承によれば、晩年の虎は、
虎が池弁財天のところに「法虎庵」という庵を結んで住んだ。
その法虎庵が、今の延台寺に移されたといわれます。

また一方、仮名本「曽我物語」で語られているように、庵を結んだのは「高麗寺の奥」。
それは高麗山の北のふもとにある高麗寺の末寺の荘厳寺近くであるともいわれます。
荘厳寺には、虎の持念仏であった地蔵が伝えられているそうです。

▼現在の荘厳寺
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荘厳寺は、虎が生まれたともいわれる山下長者の屋敷跡の近所で、
その近くに、晩年を過ごしたといわれる住居の跡があります。
(現在の住所は、平塚市山下。)
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これらの伝承や史跡も、
高麗寺の修験比丘尼で、「とらん」と呼ばれたうちの誰かの投影であると
言えなくもないかもしれません。

しかし、その後の虎を語っていたのは、こうした伝承ばかりではありませんでした。
曽我十郎とのあいだに子どもをもうけたという伝承もあったのです。
そして、福田晃さんが論及しているその伝承の場所は、
道祖神信仰や弁財天とのつながりを示唆するキーワードでもあるようなのでした。
そのキーワードとは……。

「宿河原」です。

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《引用・参考文献》
(1)根井浄・山本殖生編著「熊野比丘尼を絵解く」法蔵館
(2)阿部泰郎「女人禁制と推参」〜大隅和雄・西口順子編「シリーズ女性と仏教・4ー巫女と女神ー」平凡社・所収
(3)柳田國男「妹の力」〜「柳田國男全集・11」ちくま文庫・所収
(4)柳田國男「史料としての伝説」〜「柳田國男全集・4」ちくま文庫・所収
(5)五来重「石の宗教」講談社学術文庫
(6)柳田國男「おとら狐の話」〜「柳田國男全集・6」ちくま文庫・所収
(7)小林一郎「熊野観心十界図の絵解き ー善光寺と熊野を結ぶものー」〜長野郷土史研究会「長野・第268号(2009年の6号)・所収
(8)福田晃「曽我物語の成立」三弥井書店
(9)柳田國男「『イタカ』及び『サンカ』」〜「柳田國男全集・4」ちくま文庫・所収

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by kamishibaiya | 2012-03-29 06:44 | 絵を見せて語るメディア | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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