虎御前のミステリーを訪ねる・05

「宿河原」という場所


大磯宿の東、高麗山の周辺を「東海道分間延絵図」(1)で見渡してみると、
下のようになります。

▼「東海道分間延絵図」をもとに作成した略図
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→参照:現在の地図(Googleマップ)

この略図の左(西)に、大磯宿があり、虎御石が伝わる延台寺があります。
高麗山の北側──この略図の方向から見れば裏側に、山下があり、
荘厳寺や山下長者屋敷跡、虎御前の住居跡があります。

そして高麗山の南側──この略図では手前となる海岸に続く一帯を「もろこしが原」といい、
現在、その一部が「唐ヶ原」という住所になっています。

仮名本の「曽我物語」に、
曽我の里に帰っていた十郎が、虎に暇乞いをするため、大磯へ向かい
「宿河原、松井田と申す所より、大磯にこそ行きにけれ。」(2)
というシーンがあります。
「松井田」という地名も現在はわからないのですが、
問題となるのが、この「宿河原」と申すところ。

「宿河原」は、日本各地に見られる地名で、
神奈川県では、川崎市の多摩川沿いの「宿河原」が有名です。
そのため、川崎市の「宿河原」へ寄ったのだと解されることもあるようです。
が、明日には仇討ちの場となる富士野へ向かうというときに、
それでも恋人にひと目あっておきたいというときに、
わざわざ悠長に多摩川まで足を伸ばすのは、どう考えても不自然です。

福田晃さんは、花水川の西側の岸、花水橋を渡って「もろこしが原」に入るあたりが、
「宿河原」であるといいます(3)
曽我から山道を通り、高麗山の北側から迂回してくると、
ここへ出るというわけです。
ちょうど善福寺を含むあたりということになります。

▼現在の善福寺
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福田晃さんが史料として引用している江戸時代の「新編相模風土記稿」。
そこに、善福寺のあたりは昔、「宿河原」と称されていたと書かれています。
そして善福寺を開いた了源上人は、この「花水の辺宿河原」に、
「幽居」「幽栖」した(=俗世間から離れて静かにひっそりと住んだ)といいます。
昔は、世間から一歩離れた場所だったわけです。

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「宿河原」という地名は、「宿川」などと同じく、境を意味すると
柳田國男は述べています(4)
そして「宿」は、「夙(しゅく)」に通じるともいいます。

白土三平さんのマンガ「カムイ伝」の主人公カムイは、
「夙(しゅく)のカムイ」と呼ばれていました。
彼が、夙谷というところの非人村の出身だからです。
歴史的な考証からいえば、ツッコミどころもあるそうなのですが、
本百姓や下人よりもさらに下層の身分である、穢多も含めた広義の意味での非人。
そのカムイたちが住んでいたのが、「夙」谷でした。

「坂」「河原」「夙」などの境界の領域には、最下層の人々が暮らしたといいます。
彼らは「坂の者」「河原者」「夙の者」、
あるいは「犬神人(いぬじにん)」「放免」「清目」など、
その地域、その時代、その職分によっても、さまざまに分かたれて称されたようです(5)
そうした中に、芸能を職能とする人々もいました。

今でも、俳優や芸能人が「河原乞食」と揶揄されるのは、
近世、京都・鴨川の四条河原(現在の四条大橋付近)で、出雲の阿国が、
歌舞伎の元祖といわれる「かぶき踊り」を始めたことに由来するといわれます。
が、それ以前の中世の頃から、河原者という人々がいて、
牛馬の解体や皮革加工業、造園業などに従事し、そして芸能に従事する人々もいました。
彼らは身分が低いとみなされて蔑視され、
それが「河原乞食」という言葉につながったのだともいいます。

「坂」や「河原」、「宿(夙)」など、どこにも属さない境界の領域に
下層の人々がいて、芸能を行う人々がいた。
現在の歌舞や演劇や語りなどの芸能も、その源流を彼らにたどることができるでしょう。
そうした彼らが信仰していたのが、「宿神」という神だったといいます。
「宿(夙)の者」は、「宿神」を信仰する者でもあるというのです。

京都の山科川の四宮河原(現・山科区四ノ宮周辺)。
「四宮」は、平安の頃、仁明天皇の第四皇子の「四の宮」である
人康親王にちなむという説があります。
彼は、出家してこの地に隠棲したといいますが、
なぜ都から追放され、隠棲せざるを得なかったか、そのいきさつはわからないのだそうです。
が、後に、両目を患った病気のせいだとか、
また、琵琶の名人だったと伝えられるようになっていく。
そうして、琵琶法師たちが彼を祖と仰ぎ、毎年のようにここへ集まっては、
道祖神を祀るように石を積み、神事を行い、彼の霊を慰めたのだそうです。

ところが柳田國男は、この「四ノ宮」は後からのこじつけであるといいます(4)
「四宮」は「しく」の当て字であり、
もともとは「しく河原」──つまり「宿河原」という境の地であったというのです。
そしてその「宿河原」で、琵琶法師たちが石を積んだりした「石塔会(積塔会)」などの神事が、
実は「宿神」を祀る祭儀であったと、福田晃さんはいいます(3)

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服部幸雄さんによれば、宿神とは、
表舞台に現れることのない「隠れ神」「隠され神」であり、秘されて祀られる神。
シャグジ、サクジン、シュクシ、スクウジンなど、さまざまな呼び方をされ、
表記のし方も、守宮神、左宮司、斎宮神、石神、四宮神など、さまざまな書き方をされる。
なかなかに複雑です。
祟りなす荒ぶる神としての面と、柔和な、しかし強さをもった守護神としての面の
両方をもつともいわれ、
また、憑依をしやすい神でもあるということです。
技芸的な芸能の神というよりも、芸能に携わる人々が拠り所とした神であったようです。
能につながる猿楽の芸能民や、
また、琵琶法師や盲僧、盲御前、説経師など、各地を放浪した芸能民たちの、
それぞれの信仰の核にこの「宿神」信仰があったといいます(5)

たとえば「蝉丸」は、琵琶法師にも信仰されましたが、
説経師たちにも、祖神として祀られました。
その背後には、宿神の存在があったといいます。
蝉丸が祀られている逢坂の関の「関明神」は、もともとは、
坂の神・境の神である「坂神」としての道祖神でした。
そこへ、蝉丸が神話化されて組み入れられ、合祀されることとなった。

同じ境を守護する神である「宿神」と「道祖神」には通じるところがあり、
宿神の多くは、道祖神に習合するかたちで残されているといいます。
四宮河原で琵琶法師が行った祭儀が、道祖神を祀るようであったと伝えられるのも、
そうした理由からでしょう。

また、近世の瞽女は、嵯峨天皇の第四の宮である「サガミの姫宮」を祖神としていました。
が、これは、蝉丸の姉であり、
蝉丸とともに祀られている「サカガミ(逆髪)の宮」であるといいます。
そして実は、弁財(才)天を守護神としていた。
この弁財天もまた、宿神と関わりがあるようなのです。

この「宿神」を奉るグループが、大磯の宿河原にもいたのではないかというのが
福田晃さんの説です(3)

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宿河原の西には、遊郭があったとされる化粧坂。
近世の地図(「東海道分間延絵図」)には、非人小屋が描かれていました。
同じ境の地として、何か交流があったでしょうか。

そのやや西には、虎が池弁財天。
もともとはここに虎御石があったといわれ、
また、「益軒吾妻路之記」などの書では、虎御石は宿河原にあったというそうです。
陰陽石という「道祖神」的な特徴をもつ石が、
「弁財天」に祀られていた。
「道祖神」、「弁財天」。──宿神とのつながりを思わせます。

宿河原の南には、もろこしが原、そして海。

世阿弥の「風姿花伝」に、猿楽能の祖として秦河勝の伝説が書かれています(6)
彼は、日本に来日した帰化人であるといい、
世阿弥によれば、芸を子孫に伝えた後、うつぼ舟に乗って海へ出る。
流れ着いた坂越(現・兵庫県赤穂市坂越)で、
「諸人に憑きたりて奇瑞(きずい)をなす」
そして国を豊かにして、
大きく荒れると書いて「大荒(おおさけ)大明神」という神になったといいます。

坂越(さこし)には、「しゃくし」とふりがなが振られていて、
「シャグジ」──つまり、「宿神」であることがわかります。
人に取り憑く荒ぶる神、秦河勝は、宿神でした。
宿神は、河原など内陸の水辺だけでなく、海浜にも示顕するというわけです。

大磯は、帰化人・高麗若光を受け入れた地で、
帰化人が住んだといわれる場所が「もろこしが原」といわれました。
そうしたところに、海から流れ来る荒ぶる霊を受け入れ、
鎮魂するようなはたらきが期待されたかもしれません。
福田晃さんは、そのようなはたらきを担う、
宿神を祀る巫女のような巫覡(ふげき)の徒、それに連なる芸能を行うグループが、
ここ「宿河原」にいたのではないかといいます(3)

そして宿河原の北には、高麗寺、高麗権現。
宿河原は、境の地でありましたが、高麗権現のお膝元であり、
その統制と影響を受けていたとも思われます。

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今、善福寺を訪ねると境内の脇に、築山のような、ごつごつの岩山にくりぬかれた横穴を
見ることができます。
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これは、大磯に点在する横穴墓古墳群のひとつで、
古墳時代後期のものとされるそうです。
そんな穴の中にお地蔵さん。
大昔の人々の墓穴は、お地蔵を祀るのにぴったりだったかもしれません。
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道祖神が地蔵信仰に習合し、仏教化していったのは早く、鎌倉時代の頃だったといいます(7)
村のはずれ(境)や峠に建っている地蔵尊は、「境の神」である道祖神であることが多い。

また、死者の霊を鎮魂する祭儀は地蔵をたよりになされることが多く、
霊が集まり、鎮魂の場であった箱根には、地蔵信仰の地として、
多くの石仏や石塔が残されています。
大磯でも、あるいはこうしたところで、鎮魂の祭儀が行われたのでしょうか。

「宿河原」という地に、宿神を祀っていた巫覡・芸能のグループ。
その中心に、高麗の修験者にしたがう巫女でもあるような比丘尼がいて、
悲劇的な死を迎えた曽我兄弟の霊を招じ入れ、
口寄せを行って鎮魂し、「死霊語り」を語っていたのではないか。
と、福田晃さんは推されています。
その比丘尼は、「とらん」あるいは「とら」と呼ばれていたかもしれない。

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善福寺を開いた了源上人という方は、平塚の入道と称された方。
その出自と来歴には、大きく2説あるようです。

ひとつは、曽我兄弟のいとこにあたる、伊東四郎祐光だったというもの。
伊豆河津の庄を治めていましたが、仇討ち事件より32年後の1225年に、出家。
大磯の高麗寺の別当を務めていたところ、
近くの国府津(こうづ)を訪れていた親鸞と邂逅。
その弟子となって了源となのり、
1239年、現・南足柄市壗下(まました)に阿弥陀堂を建立。
それが現在の南足柄市の善福寺の前身となり、
一方、草庵を結んでいた大磯に、善福寺本院を建立したといいます。

いまひとつは、曽我十郎と虎とのあいだに生まれた子どもだったという説です。
成人して河津三郎信幸(之)といいましたが、
やはり親鸞と出会って弟子となり、了源となる。
大磯の善福寺の地に草庵を結ぶ一方、
1227年、現・平塚市に阿弥陀堂を建立。
それが現在の阿弥陀寺です。
戦国時代になって比叡山との対立があり、そのため本尊を横須賀市浦賀にうつし、
現在の乗誓寺となったといいます。

虎は出家の身とはいえ、当時の比丘尼はふつうに夫を持っていましたから、
子育てをしてもおかしくはないのかもしれません。
真相はわかりませんが、もしも後者だとすれば、
虎の人生にも、母親としての幸福をかみしめた時代があったということでしょう。
了源上人は、母親である虎(あるいは虎と呼ばれた女性)をしのぶ宿河原という場所に
庵を結び善福寺を建立したということになります。

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そうして曽我兄弟を物語る「曽我語り」は、口寄せの「死霊語り」から、
「芸能の語り」へと発展し、成長していきます。
いろいろな人の口から口へ、やがて世代から世代へと伝えられていく。
「女語り」だったのが、男性が語るようにもなっていく。
時宗僧や、善光寺聖(ひじり)などの勧進聖たちにも語られていく。
念仏比丘尼や女盲、やがては瞽女たちにも語られていく。

そして「絵解き」もまた、「曽我物語」を語りました。

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とんち小坊主「一休さん」で知られる一休宗純は、若い頃、
華叟(かそう)という厳しくも理解ある老師の弟子でした。
一休26歳のとき。
兄弟子の養叟(ようそう)が、師の華叟の肖像画(=御影)を描きました。
その絵に付す詩(=賛)を、華叟自身に頼んで書いてもらいます。
その中に、
「頤(やしない)来たって的々(てきてき)児孫(じそん)に付す」
という句がありました。
これは、心をやしなって来たことで、
大事なことを明らか(=的々)にして、子や孫に伝えたいという意味。

ところが、兄弟子の養叟は、「頤(やしない)」は「養(やしない)」、
「養」叟という自分の名前に掛けた言葉で、養叟を子孫に伝えたい、
──つまり、師が弟子の悟ったことを認める=印可を下さったのだろうと解釈します。
それを周りの人々にひけらかして、絵を見せながら言いふらす。
華叟がそれを伝え聞き、「カン違いするな」と怒って絵を燃やそうとするところを、
一休がとりなすということがあったといいます(「東海一休和尚年譜」)。

それから歳月は流れ、一番弟子の養叟が大徳寺を継ぎます。
よほど相性が悪いのか、一休はこの養叟のことを悪口雑言、めちゃくちゃに攻撃します。
そうして書かれたのが、「自戒集」。
刊行したときには一休は61歳になっていましたが、このことを覚えていて、
今でも人が来れば、養叟のやつ、あの絵と賛を見せびらかしているのだろうというのです。

その様子を、
「影を指して画説(えと)きす鳥箒(とりぼうき)の手」
と漢詩に詠み、
「画説(えと)きが琵琶をひきさして鳥箒(とりぼうき)にてあれば、
畠山の六郎これは曽我の十郎五郎なんど云うに似たり。」

と、「絵解き」にたとえているというわけなのでした(8)

「鳥箒」は、絵解きが絵を指すのに使っていた、いわゆる「おはねざし」ですね。
そうして「影(=肖像画)」を指しながら、人々に説明しているところは、
まるで「絵解き」が「鳥箒」で絵を指しながら語っているようではないか。
絵の人物を指しながら、
「これは畠山六郎(畠山重忠の息子・重保)で、
これは曽我十郎、五郎で……」
などと、得意げに語っているのにそっくりだ──というわけです。

思わず説明が長くなってしまいましたが、この一節をもって、
つまり、この時代、「絵解き」が「曽我物語」を語っていたことがわかる。
と、岡見正雄さんが指摘しているのだそうです(3)(9)

どんな絵を見せて語っていたのか、残念ながらその絵はどうやら残ってはいません。
が、絵解きが「曽我物語」を語ることは、たとえに使われるくらい、
当時は一般的な光景だったのでしょう。

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《引用・参考文献》
(1)児玉幸多監修「東海道分間延繪圖・第3巻 平塚・大磯・小田原」東京美術
(2)佐々木信綱・久松潜一・竹田復監修「曾我物語 下」いてふ本刊行会
(3)福田晃「曽我物語の成立」三弥井書店
(4)柳田國男「毛坊主考」〜「柳田國男全集・11」ちくま文庫・所収
(5)服部幸雄「宿神論 ー日本芸能民信仰の研究ー」岩波書店
(6)世阿弥「風姿花伝」〜田中裕校注「世阿弥芸術論集」新潮社・所収
(7)五来重「石の宗教」講談社学術文庫
(8)石井恭二訓読・現代文訳・解読「一休和尚大全 上・下」河出書房新社
(9)岡見正雄「絵解と絵巻・絵冊子」〜「国語国文・23巻8号」(昭和29年・8)中央図書出版社・所収
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by kamishibaiya | 2012-04-05 07:09 | 絵を見せて語るメディア | Comments(0)