虎御前のミステリーを訪ねる・06

女たちの曽我物語


さて。
はたして虎御前は実在した人物だったのでしょうか?
それとも……?
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この稿では、主に福田晃さんの「曽我物語の成立」(1)を道しるべとしながら、
民俗学や歴史の先生たちが書いた著作という地図を広げつつ、
大磯、曽我を訪ね、
中世を歩いてきました。
これら研究の分析の見事さと労苦には、ほんと、頭が下がる思いがします。
しかしながら、後世の人々が推理と証明を積み重ねたとしても、
虎の正体は××だというような、
完璧な結論に至ることは難しいようにも思われます。

が、それでいいのかもしれません。
ミステリーは、ミステリーのままであっていい。

「吾妻鏡」は、兄弟が事件を起こした後、兄弟に関わったとされる女が鎌倉に呼ばれ、
詮議を受けたことを記しています(2)
彼女は、その記述の通り、遊女だったかもしれない。
あるいは、長者の娘だったかもしれない。
あるいは、身分の下層な者だったかもしれない。
ひょっとしたら、宿河原で巫覡(ふげき)を行い、歌舞に長じた比丘尼であったかもしれない。
いずれにしろそんな女性が、自分の人生をかけてひとりの男と恋に落ちた。
その恋を背負って、一生を生きた。
そんな想像も許されるのではないでしょうか。

そして、物語に耳を傾け、虎御前の面影を想い描いた人々の心の中にこそ
真実はあるのでしょう。

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曽我兄弟は、英雄とされました。
御霊信仰にも関連するでしょうか、神としても祀られています。
仮名本「曽我物語」(3)には、源頼朝が神として祀るよう指示し、
「よう行上人」(=藤沢の遊行寺の遊行上人といわれます)を開山として
社を建てたとあります(現・静岡県富士市の曽我八幡宮)。

しかし、「地蔵菩薩霊験記」には、こんな話も伝えられています(1)

地蔵信心の聖(ひじり)が、善光寺へと詣でる途中、富士の裾野の荒野に迷い込む。
やっとお寺を見つけて一夜の宿をたのむと、美しい女が出てきて渋る。
と、そこへ、修羅の亡霊が二人、つい今しがたまで戦(いくさ)をしていたのか、
松明(たいまつ)と、べっとりと血のついた刀を持って、
はあはあと息も荒く、駆け込んでくる。
この二人こそ、世を去った曽我兄弟。
六道のうちの修羅道におちて、夜昼なく殺し合い戦うこと、日に22回。
それが今は追善の功徳によって、12回に減り、
こうして寺に寄り、わずかなあいだでも休息ができるようになったというのです。
そしてすぐにまた二人は飛び出して行く。

出てきて応対した美しい女というのが、十郎を追って同じく修羅道におちた虎。
虎は、そんな兄弟をひたすら見守っているのでした。

思わず聖が心のうちで経を唱え、合掌して目を閉じると、
ふいに風を感じ、
気づくと、草原の塚のもとに、ひとりうずくまっていたといいます。

これは、追善供養の必要を説く勧進聖がつくった物語だろうといいます。
が、胸を打たれます。

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「吾妻鏡」によると、
将軍・源頼朝は、兄弟が母宛に送った手紙を証拠物件として読んだところ、
感動して涙を流し、長く文庫に保存したとあります。
仮名本に、「曽我への文かきし事」として、
兄弟が仇討ちの直前、仇討ちへと至る軌跡を幼少の頃からくわしく振り返り、
母への手紙にしたためる場面がある。
おそらくその手紙を読んだということなのでしょう。

弟・五郎は、兄・十郎が斬られた後、
頼朝の宿所を襲撃するようにも見える“侵入”をして捕まるのですが、
そんなことをされながら、頼朝は兄弟に対して好意的です。
兄弟の霊を弔いなさいと、
曽我の庄の「乃貢(のうぐ:この時代でいう年貢)」を免除したとあります(2)

為政者である頼朝のこうした態度は、史実だったのか?
むしろ幕府は、この事件のことを隠そうとした節があるという説もあるようです。
もしかしたら「吾妻鏡」の書かれた当時、
すでに「曽我語り」が広まっていたとしたら、
その人気を意識してのものだったかもしれません。

しかし、仇討ちというのは、当時、
公(おおやけ)には認められないとしても、
人々から「あっぱれ、よくやった」と礼賛されるものだったのでしょうか?

曽我兄弟には、十郎と五郎の他にも兄弟がいます。
二人を含めると、全部で5人。
そのひとりに、腹違いの原小次郎(京の小次郎)がいて、
十郎と五郎は“仇討ち計画”を打ち明け、いっしょにやらないかと持ちかけます。
すると彼は騒ぎ出し、
こんな時節だから、親の仇というのは頻繁にいるものだ、
だからといって、仇討ちなどもっての外(ほか)だといいます。

当時は、源平合戦という戦争がやっと終息したという時代。
戦争中には、同族であっても平家と源氏に分かれて戦ったこともあったわけです。
しかし今となっては、仇だからといって勝負を決しようとせず、
仇であろうが肩を並べ、鎌倉幕府というひとつの体制に従おうとしている。
貴族政治から武家政治へと移り変わり、
主(あるじ)に奉公することで領地を与えられるという、新たな時代。
こんな時代に仇討ちをするのは、
「剛の者」と言わず「痴(しれ)者」(=馬鹿者)というべきだ。
それでも不満があるというなら、朝廷や幕府に申し立て(訴訟)、
正当な手続きを踏んで主張するといい。
──と、小次郎は説きます(3)

十郎と五郎にすれば、
いや、訴訟が出来ないからこういう手段を選ぶのだというわけですが、
これは当時のふつうの人々が抱いていた、一般的な認識ともいえるのではないでしょうか。

そしてこれは、筆者の感想なのですが、
仇となる工藤祐経は、どうもそう悪い人間には見えません。
もとはといえば、所領争いのいざこざ。
京に行かされ、自分の土地を離れているあいだに、
義理の叔父で後見人であり、妻の父親である伊東祐親(=兄弟の祖父)が裏切って
土地を横領してしまう。
さらには、妻を離縁させて他家へ嫁がせてしまい、土地も妻も奪われるということになる。
だからといって、暗殺を企て、伊東祐親の息子・河津祐泰を殺すのは悪行に違いありませんが、
非を問うならば、どっちもどっちという気がしてしまいます。

寝込みを襲うという兄弟の仇討ちも、やっていることは暗殺に近い。
私怨のための殺人傷害であることには変わりなく、
事件は、周囲の人々を巻き込みます。
義父の曽我太郎祐信は、自ら申し出て隠退。
5人いる曽我兄弟のひとり、末っ子である律師(幼名・御坊=伊東禅師)は、
遠く越後(新潟県)の国上寺にいて事件とはまったく無関係でしたが、
詮議の末に自殺に追い込まれています。

そうした周囲の犠牲も、兄弟は覚悟していたでしょうか?

兄弟が殺した工藤祐経にも幼い子どもがいました。
その子(犬房丸)は五郎を処刑するよう嘆願し、仇である五郎を死なせはするのですが、
幼くして父親を殺されるという、兄弟と同じ境遇となります。
今度は自分たちが仇となり、その子から恨みを買ったことに対して、
兄弟はどう思ったでしょう?

そして復讐を果たすことで、兄弟は自分の人生に満足できたのでしょうか?
──平成時代に住む筆者の目線で見ると、そんな疑問もわいてきます。

しかし、十郎と五郎は、修羅の道をひた走りに走り抜けました。

そんな兄弟の事件を、女性たちはどう見ていたのか。
仮名本「曽我物語」(3)に沿って、ちょっとたどってみます。

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兄弟の母親の満江御前は、夫を殺された直後、悲しみに打ちひしがれ、
当時5歳と3歳だった兄弟に、
大きくなったら仇を討って、その首を見せてくれるようにと言います。

が、時代は変わり、状況も変わります。
兄弟の祖父である伊東祐親の事情で、源頼朝の怒りを買い、
兄弟はいったんは処刑されそうになる。
結局、処刑は免れるのですが、そうした経緯もあって、
満江御前は、仇討ちうんぬんの以前に、二人には生き延びてほしかったのだと思います。

十郎は武士になってしまいましたが、
せめて弟の五郎は僧侶にしようと、満江御前は、息子を箱根権現に預ける。
が、五郎は意にそむいて、元服して武士になってしまう。
それを知った母は、五郎を勘当します。
そして兄弟の仇討ち計画を知ったとき、満江御前はこんこんと言い聞かせます。
今は、仇討ちは「謀反」「悪事」である。
死んだ父への孝行も大事だが、
それより、恩になった人や、今、生きている人たちをないがしろにしてはいけない。
仇討ちをすることは、周りの人たちを不幸にする。

しかし、兄弟は母に隠したまま計画を推しすすめ、最後まで打ち明けませんでした。
いよいよ仇討ちの場となる富士野へ向かうとき、十郎は、
富士野の巻狩りにお供するためといって、小袖を乞います。
小袖はもともと下着でしたが、当時は内に着るファッションとして流行していたようです。

けれど、五郎の勘当を、母は解こうとしません。
なかなかに気丈です。
が、兄・十郎の必死の説得に、とうとう折れて許すことになります。
そこで母は舞いを所望し、十郎が横笛を吹き、五郎が舞いを舞う。
そして舞いが終わったとき、満江御前は兄弟に小袖を与えます。

富士野へ向かうと聞いて、最初、満江御前は、
狩り場というのは父親・河津祐泰の討たれたところで縁起がよくない、
できれば行ってほしくないと言っていました。
何か予感していたのでしょう。
そしてたぶん、兄弟の態度と表情から、
死を決して仇討ちへ向かうのだということに気づいたのだと思います。
兄弟の舞いを舞う姿が、今生で見る最後であることを、たぶんわかっていた。
小袖を与えるということは、
それを黙認する、認めるという意味を持っていたのではないでしょうか。
けれども兄弟には、この小袖をなくすことなく、必ず返しに来なさい、と言いおく。
それが母親としての気持ちであったでしょう。

しかし、兄弟が生きて返しにくることはありませんでした。
小袖は、兄弟の死を伝える侍従の手によって、母の元へ返ることになります。

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母親・満江御前が、兄弟の仇討ちをずっと反対し続け、
葛藤の末に、半ば黙認という態度をとったのに対し、
虎御前は、兄弟の行動を最初から認めているように見えます。
仇討ち計画を打ち明けられても、計画の是非には何も触れず、
彼女はただ、何があろうと十郎につき従おうとしただけでした。

それは、もともとはこの物語の語り手の立場であったとすれば当然で、
また、女性が男性に意見するということは、この時代、あり得ないでしょう。
ましてや虎は、遊女の身で十郎に従う者であり、
そして恋をする女性でした。

ヒロインが遊女であるということは、
この物語にいきいきしさを与えているように思われます。
この時代──というより日本の歴史の中で、
特に武家の女性たちは、家やいろいろなしがらみに縛られ、
自分の意志で行動することは基本的にありませんでした。
恋愛はもとより、結婚や離縁も、父や祖父、家によって決められる。
満江御前をはじめ、この物語の多くの女性たちも例外ではありません。
しかしこの時代の遊女(あそびめ)は、その点については自由といえます。

もっとも遊女は「流れの身」「流れを立つる身」であり、
世の流れに浮き沈みする定めのない稼業。
さまざまな現実には縛られています。

十郎が大磯の遊郭で虎と逢っていると、
ちょうど和田義盛一門が居合わせ、別の間で酒宴をはじめます。
和田義盛は美人の評判高い虎を指名しますが、なかなか現われない。
客であればどんな相手にも応じねばなりませんが、恋人の手前、虎は行き渋る。

和田義盛はこれまで、身をやつしている兄弟の正体がバレそうになるのを救ったり、
兄弟の計画をお上に知らせようとする者をとどめたりと、
陰ながら、兄弟を援助しています。
しかし、遅れている原因が十郎の相手をしているせいだと聞いて、緊張感が走ります。
一門のひとりが部屋を訪ね、十郎と虎を丁重に酒宴に招くのですが、
そこで和田義盛は虎に、十郎と自分のどちらの盃(さかづき)に酒をつぐか、
誠に思う方を選ぶようにと迫ります。
まさに一触即発、一歩間違えれば血を見る乱闘となるところ。

ここで虎は、十郎に盃をさすのです。
遊女であれば、そして場の空気を読むとすれば、和田義盛に盃をさしてとりなすべきです。
が、あえて十郎を選ぶ。
これで殺されたとしても本望と覚悟したのかもしれません。
女の意地なのかもしれません。
和田義盛の大人な態度と、この後、心配して来た五郎が加わったこともあり、
結局事なきを得ることになります。
が、つまらないことで刃傷沙汰となれば、多くの命が失われ、
兄弟の宿望も断たれるところでした。

虎のとった選択は、プロフェッショナルな遊女のすることとは思えません。
しかし、愚かといわれたとしても、恋する女性の率直な強い意志、
そしていきいきとした自由な心意気を感じさせてくれる場面です。

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兄弟の没後、物語のエピローグの主人公となるのは、虎をはじめとする女性たちです。
そして登場する女性たちのほとんどが、出家することとなります。

十郎の恋人である虎御前。
兄弟の母である満江御前。
(※満江御前と、兄弟の姉である“二ノ宮の姉”は、
仮名本では、仏の教えに救われ、念仏する場面しか描かれていませんが、
満江御前は、事件から2年後の1195年、夫の曽我祐信とともに出家したといわれます。)
仇の工藤祐経の愛人であった遊女、手越の少将。
五郎の恋人であった遊女、化粧坂の遊君(少将)。

──彼女たちがみんな仏教に帰依して出家してしまうのは、
この物語の語りが、女性層に向けた勧進のためのものでもあったからだといわれます。

虎は、諸国をめぐったときに法然に出会って教えを受けたといいます。
法然は、流罪にあって讃岐(香川県)へ行く途中、
舟の上の遊女から問いかけられて、人生相談に答えた人です。
罪深い女性でも救われるという彼の「女人往生」の教えを、
虎は法然から聞いたとして、物語の中で滔々(とうとう)と語ります。
物語に耳を傾けた聞き手の女性たちは、きっと感銘を受けたんだろうなあと思います。

しかし、彼女たちの祈りは、女人の往生を願うばかりでなく、
修羅道におちた男たちを救うものでもあったでしょう。

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ユングは、人間は男女ともに、その心の中に男性性と女性性の両方の要素を
もっていると説きました。
そして男性が心の中に抱く内なる女性像を「アニマ」と呼びます。

「曽我物語」は、ときに「戦記もの」のジャンルとして扱われるくらい、
戦闘シーンも豊富で男性的です。
また、仮名本では、やたらに学識のありげな中国の故事がさしはさまれていて、
そんなところも、男性的な筆致を感じさせます。
しかし、ストーリーとしては、
文字として書かれる以前、もともとが「女語り」であったんだろうなという部分も
ところどころに感じられます。
女性の語りからはじまって、男性も語るようになっていった。

物語が成立していくこうした過程の中で、
虎というヒロインは、修羅におちゆく兄弟の「アニマ」となっていったのでは
ないでしょうか。
男性性に傾く中で、女性性が求められた。

ダンテが、「アニマ」であるベアトリーチェに導かれて
地獄から天上へと旅したように(「神曲」)、
「アニマ」はしばしば「魂の導き手」という役割を担います。

兄弟は、苦労の末に目的を成就することができて、もしかしたら満足したかもしれません。
もしかしたら戦いの中で充実感を得たのかもしれません。
が、恨みの果てに仇を殺すことで、心は癒えたのでしょうか?

人々は、彼らの人生を悲劇と感じ、彼らが怨霊となることをおそれました。
もしかしたら、本当の意味で心は満たされていなかったのではないでしょうか。
だから「地蔵菩薩霊験記」で語られていた後日譚のように、
今も修羅の世界で、24時間、戦い続けなければならないのかもしれない。
安らぐことなく。
深呼吸をする暇もなく。
戦いに追われるまま、心に空っぽを抱えたまま。

もしも救われる道があるとしたなら、彼らを救うのは、
修羅の世界にまでつき従いやって来て、ただひたすらに祈り見守る虎ではないか。
魂の導き手である、そんな「アニマ」としての姿が、
出家の身となって祈る女性たちの中に見出せるような気がします。

それはまた、荒ぶる魂を鎮めるために語った
「とらん」「とら」と呼ばれた女性たちの姿に重なります。

そして、私怨による刃傷沙汰だったこの事件は、
虎という「アニマ」を得て、語られることによって、
物語としての普遍性を獲得したようにも思われるのでした。











《引用・参考文献》
(1)福田晃「曽我物語の成立」三弥井書店
(2)永原慶二監修、貴志正造訳注「全訳吾妻鏡・第2巻」新人物往来社
(3)佐々木信綱・久松潜一・竹田復監修「曾我物語 上・下」いてふ本刊行会



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by kamishibaiya | 2012-04-13 06:39 | 絵を見せて語るメディア | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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