右か左か、明日はどっちだ?・06

f0223055_11133612.gif舞台では、右から左へ風が吹いている?


日本には、部屋のどこに誰が座るのかという席順のマナーがあります。
お客や目上の人が、「上座」に座る。

これは、出入り口や窓の位置によっても違ってくるのですが、
床の間がある部屋であれば、基本的には、床の間に近い方が「上座」となります。
そして基本的に、床の間に対して「右」の方が「上座」となります。
右と左でいえば、目上の人ほど、右の位置にくる。

だから、席順の配置は、たとえば下図のようになります。
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落語では、ひとりで二人の会話を演じて表現するとき、
顔を左右にふるということをします。
「上下(かみしも)をつける」とか、
「上下(かみしも)を切る」などといわれるテクニック。

「上手(かみて)」にやや顔をかたむけて
「ねえ、ご隠居さん」
と、しゃべる。
それに対して応じるように、今度は「下手(しもて)」に顔をかたむけ、
「何だい、八っあん」
と、しゃべる。
そうすることで、二人の人物の会話を演じ分けるんですね。

このとき、目上の人物は、上手に位置すると想定されます。
対して目下の人物は、下手の側に位置するのが基本となります。
だから、目上のご隠居は、目下の八っあんに対して、
下手(左)を向いて(=演者本人からすれば右を向いて)話しかけることになります。
顔をどちらに向けてしゃべるかで、二人の関係性が判断できたりする。

つまり、部屋の「上座:下座」の構図が、
そのまま舞台の「上手:下手」の構図に置きかえられ、
「上座/上手」=「右」の側に、上位の人物がいるというわけです。

噺の中でこうした約束事の表現が成り立つのも、
右に座るか、左に座るかというような位置関係を、
昔の人々は暮らしの中で気にしていたということがあるからかもしれません。

これは、伝統的な芝居でも同様で、
エラいひと、上位の人物は、上手側に位置するのが基本となります。
たとえば歌舞伎では、登場人物がどこに位置するか、
「居どころ」という一定のポジションが定められていますが、
身分の高い人物の「居どころ」は、たいてい中央か、上手(右)側です。

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もっとも「上座・上手」は「右」といっても、
これは床の間や舞台に向かって「右」ということで、
本人や演じ手からの視点でみれば、「上座・上手」は「左」。
これはむしろ、
左を優位としていたからだともいわれます。

「左」の語源が「日垂り」──日の垂れる東の方向であり、
「右」の語源が「見限り」──日を見限る西の方向であるといわれたのは、
つまり、正面を南に向けているからです。
なぜ南を向くのか。
その理由は、「太陽崇拝」として説明されます。

北半球にある日本では、
空を横切る太陽の通り道(黄道)は、真上を通るのではなく南にずれているので、
太陽は、南寄りの方向に見える。
だから南向きの窓は、日光をたくさん採りこめて明るい。
そしてこれは、
「天子は南面す(天皇や皇帝は南を向く)」
という理由のひとつにもなっています。

「天子南面」の思想は中国から輸入されたもので、
平安京も、中国(唐)にならって造られました。

現在、地図で京都をみると、右京区は左にあり、左京区は右にあるというチグハグさに気づきます。
これは、北を上にする現代の地図でみるからですね。
天皇は北の大内裏(だいだいり)におわしまし、
「南面す」──南を向いて政治を執り行っていたので、
その天皇から見れば、東の左京は左に、西の右京は右になるわけです。
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神社なども、南向きに建てられていることが多いようですね。

そしてこの時代では、日が昇る方──「東=左」が優位とされました。

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もともと芝居は、目に見えない神に奉ずるものでした。
神を慰め、楽しませることで、災いをはらい、福を祈願するためのもの。
太陽神であるアマテラスのために、天の岩戸でアメノウズメが踊ったのが、
歌舞の起源だとする話もあります。
歌舞や芝居は、太陽に向かって、つまり南向きに演じられたかもしれません。

野外であれば、照明もない当時、舞台にはいっぱい光が当たる方が見やすいでしょう。
また南向きの舞台であれば、それを観る観客は太陽を背にするため、
逆光で見にくくなるということもない。

能楽は、当初、芝の上や寺の境内など、野外で行っていたようです。
それが、能舞台の建物が造られるようになると、初期のものは、
しかしながら南向きではなく、北向きに作られたといいます。
「天子南面」のせいもあるでしょうか、貴人の席は、南に面するように設えられる。
その観客席に対して演じられる舞台は、だから北を向くわけです。

この習慣は、現実に建てられた舞台の方位に関係なく受け継がれ、
歌舞伎の舞台にも踏襲されます。
それで上方の舞台では、後々まで
上手側は「西」、下手側は「東」と呼ばれていたそうです(1)

▼昔の上方の歌舞伎舞台
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ところが江戸では反対に、「上手」は「東」、「下手」は「西」となります。
というのは、江戸三座の芝居小屋があった猿若町の劇場が
たまたま「上手=東」「下手=西」の位置にあったからだといいます。
その後、劇場が移転して、現実の方位と異なるようになっても、
この習慣が受け継がれる(2)
現在でも、「舞台の東」「舞台の西」という言い方をすることがあるそうです。

▼江戸猿若町の歌舞伎舞台
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しかしながら、東西南北や「上手」「下手」の呼称に関係なく、
観客が目にする舞台上の眺めには、
右と左の象徴的な効果がはたらいているように思われます。

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能では、シテ(為手)が主人公です。
シテの多くは、神霊や亡霊や龍神、天狗、鬼など、異世界の住人。
人間であったとしても、弁慶など異能の持ち主だったり、
狂女など異常な状況にある人間であり、異世界とのつながりを感じさせます。

その彼らは、下手奥の「橋懸かり」からやって来ます。
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「橋懸かり」は、文字通り、あの世(異世界)とこの世(現実)を結ぶ橋でもある。

異世界からやって来るそのシテを、ワキ役が本舞台にいて迎えます。
ワキは、シテの物語の聞き役であり、相手役であり、多くは現実の生身の人間です。
物語の主人公はシテですが、ワキは観客とともに現実の側にいて、
だから観客は、ワキ役の視点から舞台をながめ、異世界の住人に対することになります。

そのワキは、舞台の上手の手前、
「ワキ柱」といわれる柱のあたりの定位置(=脇座、ワキ座)にいます。

一方、橋懸かりからやって来たシテは、
下手奥から本舞台へと入って約1mくらい、「シテ柱」のあたりで止まります。
そこが最初の定位置となります(=常座またはシテ座)。

シテはやがて、本舞台を左回り(反時計回り)で一巡するなど、移動しますが、
上手(右)にワキがいて、下手(左)にシテがいるという図式は基本的に変わりません。
つまり、右に現実世界、左に異世界があるという構図。

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ところで、欧米の演劇の演出では、「Blocking(ブロッキング)」ということを行います。
舞台のエリアを、ブロック(区画)に分ける。
そこから、舞台上で俳優がどのブロックに立つか、
どのブロックからどのブロックへ移動するかというその動きを考え、配置を決めます。
日本でいうところの“立ち稽古”のニュアンスもあるでしょうか。

俳優は、役の感情のまま、自由に勝手に動けばいいという演出法もあります。
が、舞台全体をみながら、物語の展開を考えながら、
立ち位置や動きのプランを組み立てることは、演出効果をはかる上でたいせつなことと思われます。

このブロックに象徴的な意味があることを、R・クラインが
「舞台文庫・演出入門」(3)という本で語っています。

エール大学の学部長であったアレクサンダー氏の説であると記されていますが、
この本が内田直也さんによって訳され刊行されたのが1954年(昭和29年)。
現在、この説がどう評価されているのかはわかりません。
また、演出効果は、他のいろいろな要素に左右されるもので、
必ずしもブロックの意味通りにならないことはもちろんであることが断り書きされています。

が、しかし、右・左を考える上で、興味深い内容だと思います。
以下に紹介してみます。

▼図:「舞台文庫・演出入門」(3)の図をもとに作成。
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下手前(Downstage right)
「親しみのある、あたたかい形式張らない区域」
家庭の団らんや、恋人同士の語らい、なごやかな話し合い、ラブ・シーンなどに適する。

下手奥(Upstage right)
「ロマンチックな叙情的な区域」
甘い恋のささやきや、幻想、もの想いにふけるようなシーンなどに適する。

中央前(Downstage center)
観客がいちばん見やすく、「強い印象」を与える区域。
闘争や、重要な発言、クライマックスのシーンなどに適する。

中央奥(Upstage center)
「儀式張った、威厳のある区域」
法廷での宣言、結婚式での接吻など、儀式的な効果のある場面や
告発や指導者の演説のシーンなどに適する。

上手前(Downstage left)
「形式張った、親しみの薄い、排他的な感情」を示す区域。
①(下手前)の区域とは反対になる。
商談や儀礼的な訪問、謀反、またとっぴなラブ・シーンなどに適する。
独白や、そのとき事件には関係しない孤立した人物の立ち位置にふさわしい。

上手奥(Upstage left)
「六つの区域の中でいちばん弱い」区域。
殺人や狂乱の場面など、インパクトの強いシーンでも、
この区域を使われると、激しさが和らぐ効果がある。
未経験者の未熟な演技は、なるべくここで行われるといい。
「この世ならぬ超自然的なもの」の場面にも使われる。

※欧米の右・左は、舞台側からの視点が基準で、下手が「right」、上手が「left」となります。

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この欧米の説が、日本古来の能舞台の位置取りを考える上で示唆に富むことを、
狂言師である木村正雄さんが指摘しています(4)

欧米のブロッキングには、この他にも9区画や12区画に分けたりと
いろいろな区分のし方があります。
対して、能の本舞台は、区画に分けるというわけではいようですが、
9つの位置が定められていて、どう位置取りをするかの座標とされています。
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能のいわゆる台本である謡本(うたいぼん)や、狂言台本には、
「常座に着座する」「正中で」など、
どの位置に立ち、座り、どの位置で台詞を言うかがこと細かく書かれています(5)(6)

能や狂言も、ブロッキングという演出術を昔から伝統的に考えているんですね。

異世界の住人である能の主人公・シテは、「この世ならぬ超自然的なもの」です。
すると、⑥(上手奥)と縁がありそうですが、
能の特徴のひとつである「夢幻能」の世界は、むしろ②(下手奥)と関係がありそうです。

ロマンティックでありながら、幻想をみたり、もの想いや瞑想にふけり、
無意識の内奥へ沈潜するような場所。
その②のブロックよりさらに奥の位置に、能舞台では「橋懸かり」があり、
そこから異界の住人がやって来て、この現実世界に姿を現すわけです。

一方、そのシテを迎えるワキは、⑤(上手前)に位置しています。
ワキは、シテの相手役であり、聞き役でありますが、
直接的に対決したり、
いっしょに踊り狂うというようなことは少ないように思います。
むしろ、シテから一歩距離を置いて、客観視する立場。
事件に関係しないというわけではありませんが、
この位置にいることによって、距離感を保っている──
世俗的でもあるような、現実的な意識を保っているとも考えられます。

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そしてこの舞台上の空間象徴は、
あのグリュンワルドの平面上の空間図式を思い起こさせます。

グリュンワルドの図式は二次元の空間。
舞台は三次元で、観客から見れば、手前と奥という、距離の違いもあります。
そうした諸要素の違いはあるけれど、
左右の軸を見ると、根っこのところが同じように思えます。

▼グリュンワルドの空間図式
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左側(下手側)は、「内」。
いわば、「ホーム」です。
母性に包まれる。
家の中の安らぎ。くつろぎ。
フレンドリーな雰囲気の①(下手前)のブロックと符合します。

そこから内なる方向へ沈潜すると、無意識と意識が混じり合う狭間で、
夢想し、もの想いにふけることになる(②下手奥)。

そしてさらに無意識の奥の深いレベルへ退くところには異界が通じていて、
その「橋懸かり」から、異界の住人であるシテがやって来る。


R・クラインは、流れの強弱ということを述べています。
下手から上手への動きに勢いがあり、下手側に強さがある。
日本でも、能の「橋懸かり」、そして歌舞伎の「花道」は下手にあるもので、
舞台への登場のし方をインパクトあるものにしている。
下手側が重要視されているというのです。

これは、グリュンワルドが、左から右への方向(→)を「進む」として、
右の先に未来があるとしたことを考えると、理解できます。
エネルギーは、右の方向──下手から上手へ向かっている。

そうすると、上手側のブロック(⑤⑥)は、未来であり、結果の領域となります。
が、R・クラインによると、こちらは力弱く、形骸化したような象徴が与えられている場所で、
的外れのように思えますね。

いえ、しかし舞台では、流動するエネルギーの中にこそドラマ性があるのでしょう。
固定された絵とは違って、動的なベクトルに大きな意味がある。

いったん未来に到達してしまえば、その結果が成功だとしても、あるのは停滞です。
その到着点からなおも前向きに進もうとすれば、
次のステージへと向かわなければなりません。
けれど、この舞台上では、右の方向にはもう進めません。
この上手の位置から右へ行こうとすれば、その舞台からは退場することになります。

上手の位置にいる人物が向かうとすれば、この舞台上では、
グリュンワルドが「受動的」「抑制的」「回避」「退縮」であるとした
左の方向──上手から下手へ動くしかないのです。

すると、⑤(上手前)の形式や現実に縛られた閉塞感や、
⑥(上手奥)のエネルギーとしては最も弱い場所という象徴が説明できるように思います。

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ちなみに余談ですが、
能の本舞台の正面奥には、「鏡板」といわれる羽目板があります。
これは、音を響かせる音響板のはたらきをしているのだそうです。
その「鏡板」には、「老松(おいまつ)」という松の絵が描かれています。
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松は、神が宿る依り代。
その神の象徴である老松の前で舞台が演じられるんですね。

この老松を描くには、松以外の植物を描かないなどの決まり事があるのだそうです。
その決まり事の中に
「鏡板の中心より左下から根を起こし、幹は右上に曲がって伸びる」
という項目がある(7)

左下から右上へ。
松は曲がりくねっているのでわかりにくいのですが、
これは、グリュンワルドが示していた「生命のライン」そのものですね。
生命は「左下」の「始まり」から、「右上」の「終わり」へ至る軌跡と考えられていた。

舞台背景に描かれたこの絵も、舞台の左から右への流れを暗示しているように思えます。

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さて、しかしです。
劇作家の別役実さんは、次のように書いておられます。

「舞台の心理的空間の側面というのは、
長い間観客の視線にさらされてきたことによって生じた、
『目に見えない空間の癖』ようなもの、と言えばわかりやすいであろう。」
(8)

なるほど、空間の象徴というのはそういうものだろうと思います。
ところが、その基本的な「癖」のひとつとして、別役実さんはこう述べます。

「舞台には、上手から下手に風がゆるやかに吹いている。」(8)

能の舞台やR・クラインが紹介していた説とは反対の方向
──右から左への方向(←)です。

どうしてそうなるかはわからないとしながら、
これはすでに知られている基本のひとつだとして挙げられているものです。
つまり、別役実さんの個人的な感覚ではなく、舞台人一般の感覚であるらしい。
それを図式としてでなく、身体感覚として肌で感じるというのです。

確かに、舞台には上手から登場して、下手へ退場すると動きがスムーズだという話を
どこかで聞いたことがあるように思います。

また、歌舞伎の舞台は、家や屋敷のセットがある場合、
基本的には、玄関や門は下手側になります。
歌舞伎では、能舞台と同じく、基本的に役者は下手から登場し、下手へ退場しますから、
下手に玄関があるのはごく自然です。

が、しかし、「内」は「上手(右)」側にあり、
「外」は「下手(左)」側にあることになる。
グリュンワルドの空間図式の左右が逆転したかたちです。

このパターンは現代劇でも見られることが多く、
たとえば、吉本新喜劇の舞台となる食堂は、店の内奥が「上手(右)」で
店の入口──つまり外側が「下手(左)」だったりします。

「内」から「外」へと向かう先に未来があるとすれば、
ここでもやはり「上手から下手へ」──「右から左へ」風が吹いているのでしょうか。

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ただしかし、別役実さんは独特の詩的な表現で「風がゆるやかに」と形容しています。
「いきおいよく」というわけではない。

この「上手(右)から下手(左)へ」の順路の方向に、それらしいストーリーを付すならば
「あてのない旅に出る」
というような移動がふさわしいというのです。
強い意識としてではなく、無意識の方向へゆるやかに引っぱられるニュアンス。

するとこれは、生理学的なアプローチの研究が、
「人はなぜか道路の左側に寄りやすい」「人は左へ回避しやすい」といっていたような
無意識的な特性によるのかもしれないとも思えてきます。

反対に「下手(左)から上手(右)へ」の逆路の方向に、同じくストーリーを付すならば
「借金を返してもらいにいく」
というような移動がふさわしいと、別役実さんはいう。
借金返済は当然と考えていたとしても、気まずい。
その気まずさを越えてあえて立ち向かう、
まさしく逆風に向かわなければいけないシチュエーションです。

理由はどうあれ、強い意識、強い意志が必要です。
葛藤するエネルギーがドラマだとすると、舞台上の移動のアクションは、
「あてのない旅」に比べれば、躊躇や逡巡も含めて力強いものになるでしょう。

その意志の向かう先こそが、「生命のライン」の方向
──グリュンワルドのいう未来への方向であると解釈できなくもないように思えます。

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いえ、しかし、どうでしょう。

舞台には、下手から上手へ(左から右へ)風が吹いているのか?
それとも、上手から下手へ(右から左へ)風が吹いているのか?

グリュンワルドらの心理学者や長谷川集平さんが、右への方向が「進む」であるといい、
反対にカンディンスキーや日本の一部の文化が、左への方向が「進む」であるというように

まったく異なる感覚があるということなのでしょうか?

別役実さんは、フェルメールの絵画に触れ、
絵にも、右から左への風が吹いていると言及しています(8)
改めて、絵の左右について次に考えてみたいと思います。

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《引用・参考文献》
(1)諏訪春雄「歌舞伎の源流」吉川弘文館
(2)河竹繁俊監修、早稲田大学演劇博物館編「演劇大百科事典」平凡社
(3)R・クライン、内田直也訳「舞台文庫・演出入門」創元社
(4)木村正雄「能舞台での演出ノート」狂言総合サイト「太郎冠者」
(5)小山弘志・佐藤喜久雄・佐藤健一郎校注・訳「謡曲集」〜「日本古典文学全集」小学館
(6)小山弘志校注「狂言集」〜「日本古典文学大系」岩波書店
(7)日本全国能楽堂・能舞台案内サイト「鏡板」解説のページ
(8)別役実「別役実の演劇教室ー舞台を遊ぶー」白水社

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by kamishibaiya | 2012-06-22 06:22 | 紙芝居/絵を描く | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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