右か左か、明日はどっちだ?・07

f0223055_1116031.gif絵の中では、右から左へ風が吹いている?


美術館や展覧会へ行くと、たいてい順路が指定されています。
ひとつの絵をずっと見続けて動かなかったり、
さっきの絵はどうだったっけかなと、気まぐれに後ろへ戻ったり、
あちこちウロウロする筆者のような見方は、やっぱり迷惑でしょう。
きちんと順番通り、観覧者が混乱することなく鑑賞できるよう、道が指し示されているわけです。

その順路は、一般的に、欧米の作品であれば、
絵が展示された壁に沿って右(→)へ進むことになります。
壁に沿いながら室内をぐるっと一周するような構造であれば、だから右回り(時計回り)です。

一方、昔の日本の作品などは、一般的に、
絵が展示された壁に沿って左(←)へ進むことになります。
だからこちらは左回り(反時計回り)となります。

なぜこうした違いがあるのか。
それについては、文字の読み方の方向の違いとして説明されます。

展示される美術品の中には、絵巻物や書とか手紙の類もあったりする。
また、文字の書かれている版画や絵画もあったりします。
そのため、欧米の作品をみるときは、アルファベットを読み進む方向通り、右(→)へ進む。
対して日本の作品をみるときは、
文章を読み進む日本古来の方向(=縦書きの文章の行送りの方向)の通り、左(←)へ進む。
──というわけです。

しかし、文字の書かれていない作品でも、絵をみる視線の移動方向は同じだという話があります。
つまり、欧米では、視線を右(→)へ動かして絵をみる。
日本では、視線を左(←)へ動かして絵をみる。
──というのです。

ただこの場合、眼球運動を測定して分析するような
厳密な注視線の移行というわけではないでしょう。
絵をみるとき、絵を読むときの「癖のようなもの」とでも言えるでしょうか。

欧米の右(→)への方向は、
グリュンワルドら心理学者が「進む」と感じるとする方向でもあります。

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美術史家のハインリヒ・ヴェルフリンという人が、「美術史論考」(1)という著書で、
レンブラントの「三本の木」を取り上げているそうです(2)

▼レンブラント「三本の木」1643年
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これは版画の作品。
つまり、刷ったもの。
原画は、左右反転となるわけです。
しかしレンブラントは、それを計算して、この構図を描いた。
そしてここには、左から右へ(→)流れる視線の動きがはたらいているというのです。

視線を移行させたその先に三本の木があることで、その重要性が正しく認識される。
もしも、この作品の左右が反転していたなら、その意味は弱くなってしまうと
ヴェルフリンはいうそうです。

レンブラントは、この作品制作の1年前に妻を亡くしたそうで、
そうした憂鬱な感じが表れているようだという感想を抱かれる人が多いようです。
が、筆者はそういう感じは受けませんでした。

画面の左上の斜線は、雨だという説もあるようで、
確かに左側の空の大気は、不穏なうねりを見せています。
しかし、右の丘にやや逆光気味に光があたり、三本の木の影が手前に伸びているのを見ると、
これは太陽がゆっくりと右の方向へ傾きかけていく黄昏れ間近の午後か、
あるいは、右の丘の向こうから朝日が昇ってくる早朝のシーンか。
左上の斜線は、雲間から差し込む太陽の光線と陰影の非写実的な表現であるように、
筆者には思われます。
三本の木と丘を照らしている光が美しい。
憂鬱感というよりも、人生の日々の中の1コマであるこの風景を慈しんでいる感じがする。
右を向いて耕作にいそしみ働く農夫の姿も含めた、人生の営みの風景。
死ということを意識するからこそ、その1コマがいとおしくなるのではないでしょうか。
──まあ、これは筆者の勝手な感想です。

では、これが、ヴェルフリンの言うように、左右反転したらどうなるか?

▼レンブラント「三本の木」を左右反転させたもの。
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なるほど、左右反転させた方には、不安定な印象があります。

なぜかオリジナルの方は「開かれている」感じがして、落ち着きと広がりが感じられ、
左右反転の方は「閉じられている」感じがするのは、
つまり、左から右へ(→)視線を移行させて見ているということでしょうか。
視線を左から移そうとすると、すぐ左にある三本の木に吸い寄せられ、
その先の空や風景の広がりをしみじみと味わう前に、そこで目が止まってしまう。

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このヴェルフリンの論考を取り上げている「美術における右と左」(2)の序章は、
共著者である中森義宗・衛藤駿・永井信一三氏の座談会をとりまとめたかたちで構成されています。
その序章では上述のように、絵をみる視線は、
西洋では右へ(→)、古来の日本では左へ(←)移行するとされる。

そしてその習慣は、文字を読み書きする方向などに影響されたためで、
だから第二次大戦後、統計グラフや文字の横書きに慣れている現代は、
左から右へと視線を移す西洋の見方に近いのではないかと述べられています。

確かに、昔から日本では、右から左へ(←)視線を進めるのが一般的でした。
文章が付された絵巻や冊子はもちろん、
しかし文章のない絵画でも、右から左へ(←)。

たとえば、四季をテーマにした屏風図などでも、
春・夏・秋・冬と推移する季節は、右から左へ
「冬←秋←夏←春」
と描かれることが多い。
(といっても、例外はままあるそうですが(3)。)

「美術における右と左」(2)の序章では、
西洋画のヴェルフリンの説とは対照的な、右から左へ(←)視線を移す日本の例として、
葛飾北斎「富嶽三十六景」のひとつ「凱風快晴」が取り上げられています。

▼葛飾北斎「凱風快晴」1831年頃〜「富嶽三十六景」
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ここで強調されているのは裾野の広がりであって、富士山の頂(いただき)ではない。
「右から左へと視線を移行させるのが正しい鑑賞法である」(2)
と述べられています。

しかし筆者は、この説明に少なからず違和感を覚えてしまいました。
どうしても、なだらかな裾野の曲線を左下から右上へとたどっていき、
その彼方に遠くそびえる頂上の赤が、空にくっきりと映えている
その存在感と雄大さに目を奪われてしまう。
これはやはり、筆者が視線を左から右へと(→)移すことが慣習となっているせいでしょうか?

もしも昔の日本人である葛飾北斎が、
右から左へ(←)の視線の動きによって作品を描いている(それが版画であっても)としたら、
左から右へ(→)の視線の動きによって見ている西洋人とは真逆です。
すると西洋人や、そういう見方をする現代の一部の日本人は、
左右が真逆の下図の絵にこそ、北斎の意図をくみとることが出来るのでしょうか?

▼葛飾北斎「凱風快晴」〜「富嶽三十六景」を左右反転させたもの。
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いえ、左右反転の絵だとまったく印象が違って見えるのは、
有名な赤富士(凱風快晴)をあまりにも見慣れているために違和感を感じる
というだけではないように思います。

こちらの左右反転の方は、筆者は個人的には、
ヘリコプターに乗った空撮のアングルで、
嶺の頂(いただき)から裾野を見下ろしてながめているような感じがします。

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ヴェルフリンが、左から右へ(→)の視線の動きを指摘したのに対し、
さらにガフロンは、人が絵画をながめるとき、
左下の手前から右上の奥へ意識を移動させながらみているといいます。
いわゆる「グランス・カーブ理論(glance curve theory)」です。

「グランス・カーブ」〜三浦佳世「知覚と感性の心理学」(4)掲載の図に基づいて作成。
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「左下から右上へ」というこの方向は、グリュンワルドの「生命のライン」を思い起こさせますが、
さらに手前から奥へという、三次元的な要素も加味されています。

視覚には、左にあるものがやや大きく見えるような錯視の傾向があるそうです(=左方過大視)。
だから、三浦佳世さんによると、書道で漢字を書く場合、
左右のバランスをとるために、
右の「つくり」よりも、左の「へん」を、若干小さめに書くといいのだそうです(4)

左にあるものが大きく見えるということは、近くに見えるということです。
そして右にあるものは小さく見え、遠くに見えることになる。

すると、グランス・カーブの曲線の構図を用いた下図(A)と、
それを左右反転させた図(B)。
これをを比べると、どうでしょう?

木の隣りにある家は、図(B)の方がちょっと近いような、
図(A)に比べれば、早くたどり着けそうな感じがするのではないでしょうか。

図(A):三浦佳世「知覚と感性の心理学」(4)掲載の図(Adair & Bartley,1958による)に基づいて作成。
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図(B):同上「知覚と感性の心理学」(4)掲載の図(Adair & Bartley,1958による)に基づいて作成。
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葛飾北斎「凱風快晴」の構図は、グランス・カーブの典型的な軌跡を描いています。

筆者がオリジナルをみたとき、富士山のてっぺんが遠くにあるように感じ、
左右反転のものをみたとき、てっぺんが手前にあるように感じたのには、
こうした視覚の仕組みがあったんですね。

グランス・カーブ理論については、
脳の左右のシステムの機能差によって生じるのではないかという説明がなされています。
が、しかし、文化による違いがあるのではないかと、三浦佳世さんは指摘しています。

文化によっては、グランス・カーブ理論のような見方をしない場合もあるかもしれない。
「正しい鑑賞法」は、右から左へ(←)視線を移行させるものと述べられていた通り、
もしかしたら昔の日本人である北斎は、グランス・カーブのような見方をしないで、
「凱風快晴」を描いたかもしれない可能性もあると思われます。

けれども、グランス・カーブ理論に納得した筆者は、やはり戦後生まれの日本人で、
無意識に左から右へ(→)の見方をしているということなのかもしれません。

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が、しかしながら、たとえば同じく北斎の有名な「神奈川沖浪裏」。

▼葛飾北斎「神奈川沖浪裏」1831年頃〜「富嶽三十六景」
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こちらでは筆者は、右から左へと(←)視線を移してみてしまうのです。

波にもまれ、揺さぶられつつ、左へ走る舟といっしょに、視線を左へ走らせる。
そしてモンスターのように襲い来る大波にぶつかるものの、
しかし柔道の名人にアタックしてもいつの間にかかわされて投げ飛ばされるように、
ふわっと体がくるりと一回転して輪を描く。
そのダイナミックな動きの輪の中に、
水しぶきがスローモーションで飛び散るのがくっきりと見えて、
そして輪の中に小さく富士山がのぞいていることに気づく──といった感じです。

これは、あくまでも筆者の個人的な感想なのですが、
つまり、視線の移行の方向は一定ではない。
アイ・キャッチのあるポイントがあれば、まずそこへ視線を走らせる。
そうして絵の構図に導かれるままに、右方向へ目を移したり、左方向へ目を移したりする。
──ような気がするのです。

北斎は他にも、この富士山と波という同じモチーフの絵を描いています。

▼葛飾北斎「海上の不二」1834年頃〜「富嶽百景」
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二つの絵は構図が似ていても、富士山と波の配置は、左右が反対です。
にも関わらず、視線の向きは反対にならず、右から左へ(←)向かうように思われます。

荒々しい波は、右から左へと(←)襲いかかるように押し寄せている。
バラバラと水しぶきのように散らされた千鳥の群れも、
リズミカルな流れをつくりながら、右から左へ(←)飛んでいく。
そうした動きにぐいぐい引っぱられ、わたしたちの視線も右から左へ(←)押し寄せていきます。
そして千鳥が飛んでいく彼方──視線の行き着く先に富士山を発見するわけです。

こうした構図であれば、
左から右へ(→)視線を走らせることに慣れている欧米人であっても、
ごく素直に、右から左へ(←)視線を走らせることになるのではないでしょうか。

絵巻や連作などではない1枚の絵であれば、
絵自体は、鑑賞者に見る方向を強制するわけではありません。
たとえ順路が指定されていたとしても、
右から見ようが、左から見ようが、
「正しい鑑賞法」に必ずしも従う必要はないように思います。
絵のままにながめて、思うままに感じればいい。

ただしかし、そのとき、右にみていくか、あるいは左にみていくかという
心理的な「癖のようなもの」が無意識的にあって、
その影響を受けるようなことが、やっぱり、あるのかもしれないなあとも思われます。

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「上手から下手(右から左)に風がゆるやかに吹いている」という別役実さんは、
舞台だけはなく、絵画の中にもその風を感じていました(5)

たとえば、フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」。

▼フェルメール「窓辺で手紙を読む女」1657年頃
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この女性は、上手(右)から下手(左)へ移動しているわけではない。
が、この瞬間に至る寸前まで、移動してきたことを思わせ、
下手(左)へ「向かう身体」であることをうかがわせると、別役実さんはいいます(5)

視線が移行する方向というわけではないでしょう。
けれど、身体が左を向いていることによって、
さらに画面の右側3分の1ほどを緑のカーテンにおおわれている構図のせいでしょうか、
女性の頭部は画面の中心にありますが、時間が止まったような静けさの中で、
窓の方向──つまり、左へと向かう気配のような何かを、なるほど感じるような気がします。

フェルメールの作品には、
左から光が射しこむ中、人物は左向きにたたずんだり、座っているようなものが多い。
もしかしたら、そうした「癖のようなもの」があり、
別役実さんはそこに共通するものを感じるのかもしれません。

筆者は、左を向いてたたずむこの構図の中に、ひそやかさを感じるように思います。

絵には、緑のカーテンと、それを吊るすためのカーテンポールが描かれています。
これは、部屋を仕切るためのカーテンかと思ったら違うんですね。
フェルメールの暮らしていた17世紀当時のオランダでは、
室内に飾る絵画にほこりをよけるためのカーテンを取り付けていたのだそうです。
それをフェルメールは、「だまし絵」として、絵の中に描き込んだというわけです。

そのカーテンポールの横線と柱や影が、画面の四方を取り囲む枠(わく)のように見えます。
額縁に絵を飾る以前に、額縁の枠がすでに絵の中に描かれていて、
そこに掛けられたカーテンが半ば開かれ、中の絵がのぞけているように見えるのです。

そして壁の余白がたっぷり過ぎるほどに室内の空間が広く描かれ、
それに比べると女性の姿は小さい。
それが女性のシルエットを際立たせ、また清澄な空気感を感じさせることにもなっているのですが、
女性は、わたしたち見る側の視点からは離れた、やや遠い距離にいるように見えます。

また、テーブルクロスの乱雑さや、無造作に置かれ傾いている皿の果実も、いかにも日常的です。
テーブルを片付けているところなのか、果実を運んで来たところなのか、
家事の途中の合間に手紙を読んでいるという状況が想像できる。

そのため、ちょうど、絵という小窓の枠に切り取られた女性の日常のプライベートな一場面を、
カーテン越しにのぞき見しているような錯覚を感じるのです。

読んでいるのは、もしかしたら恋人からの手紙かもしれない。
しかしその想いはひとり胸に秘め、しずかに、しかし何度も反芻しているように見えます。
その表情からは、手紙がどんな内容なのか、はっきりわかりませんが、
その姿勢にはじっと見入っている熱心さがうかがえる。

女性のそんな素の姿を、思わず目撃してしまったような、
ちょっとドギマギしてしまう感があるように思います。
……あ、いえ、ついつい妄想してしまいました。

それが、右向きであったとしたら、どうなるか?

▼フェルメール「窓辺で手紙を読む女」を左右反転させたもの。
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これは筆者の個人的な感覚なのですが、右を向いた彼女は、
何だかあっけらかんとして、秘密めいたところ、思いつめたところがない。
開放的な、開かれているような印象を受けます。

もしかしたらこれは、グリュンワルドが右への方向を「外向的」として、
左への方向を「内向的」ととらえた象徴図式と関係があるようにも思われます。

フェルメールの描く左向きの女性たちは、左向きに描かれることで、
内省的な、落ち着いた雰囲気が強調され、
その内面がにじみ出るような画面の主役に、よりふさわしくなるのではないか。

左を向いて「手紙を読む」女性は、自分の内なる気持ちと向き合っている。
しかし、表には出さないその内面が、ひそやかな印象につながったのかもしれない。
すると窓ガラスに映った彼女の、自分自身を照射する鏡像も意味をもってくるように思えます。

けれど、彼女が右を向いたとき、かもし出されていたそうした要素がなくなる気がするのです。

そして彼女が右を向いたとき、風向きが変わったように筆者には思えました。
右から左へ(←)ゆるやかに吹いているはずの風に、彼女は逆らうのではなく、
彼女が右を向くとともに、風は左から右へ(→)吹き始めたように思えたのでした。

そう思ってしまった筆者は、感覚が鈍感なだけで、
別役実さんの感性がとらえている流れを感じとることができないのかもしれません。
あるいは、人それぞれに感じ方が違うということなのでしょうか。

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中森義宗さんら三人の方々は、右に見るか、左に見るかという日本人の意識は、
第二次大戦を境に変化したのではないかと指摘していました(2)
それには、文字の横書きという影響も大きいでしょう。

三浦佳世さんもまた、古来、日本で意識や時間の進む向きを左とするのには、
「筆記方向に関係していることは想像に難くない」(3)
と述べています。

だとすると、別役実さんの左へ風が吹いていると感じる感性は、
縦書きの文章に慣れているというようなことに関係してくるのでしょうか?
それとも、関係はないのでしょうか?

文字を読み書きする方向というのが影響するのかどうか?
次に考えてみたいと思います。

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《引用・参考文献》
(1)筆者は未読ですが、ヴェルフリン「美術史論考」は、次の日本語訳が出版されているそうです。
ハインリヒ・ヴェルフリン、中村二柄訳「美術史論考ー既刊と未刊ー」三和書房(1957年刊)
(2)中森義宗・衛藤駿・永井信一「美術における右と左」中央大学出版部
(3)榊原悟「日本絵画の遊び」岩波新書
(4)三浦佳世「知覚と感性の心理学・心理学入門コース1」岩波書店
(5)別役実「別役実の演劇教室ー舞台を遊ぶー」白水社

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by kamishibaiya | 2012-06-28 19:16 | 紙芝居/絵を描く | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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