キャラクターの構図 02

ミッフィーはなぜ子どもたちの心をつかんで離さないのか


「一人称映画」
という映画の試みがあります。

登場人物(たいていは主人公)が見る風景が、そのまま、カメラの写す映像となる。
主人公が歩けば、その移動に応じて風景も動く。
主人公が何かを見つければ、その何かが写される。
主人公が出会った人物に関心をもって子細に観察したとすれば、
カメラの視線も、そのような動きをすることになります。

観客は、つまり主人公の視点で、物語を体験する。
全編ではなく、部分的にこの手法を使う映画も少なくありません。

たとえば、映画「アバター」(1)の1シーン。
主人公ジェイク(サム・ワーシントン)の意識が、
仮の肉体であるアバターの中へ初めて入り込んだとき、
彼はその体を試運転するかのように走り出し、施設の外へと飛び出す。
このとき、あわてる周りのスタッフたち、走るにつれて揺れる景色など、
ジェイクの眼に映る映像がはさみ込まれていました。

またたとえば、映画「ブラックスワン」(2)
こちらは、主人公ニナ(ナタリー・ポートマン)が目にしているであろう映像を
彼女の背中をなめての肩越しで映しており、
厳密には、「一人称」の手法といわないかもしれません。
が、幻想も含めて、彼女が何を見ているのか、何を見ていないのかという
彼女の「主観」的な一人称の映像がスリリングに描かれていました。

この手法は、ホラー映画にも使われているそうです。
筆者はホラーが苦手で未見なのですが、
たとえば「13日の金曜日」(3)では、人々を襲う殺人鬼の視点から、
「死霊のはらわた」(4)では、死霊に取り憑かれた女の子の視点から見た映像によって、
ストーリーが語られる。

このようにいろいろな文脈で使われるのですが、
ひとつには、主人公の見る主観的な世界を、
主人公の身になって観客に追体験させるというような意図があるように思われます。
つまり、同一化を促す。

ところが、この「一人称映画」のやり方で観客を同一化させることは難しいと
映画監督フランソワ・トリュフォーはいいます。

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一人称映画の元祖といわれるのが、1947年に作られた「湖中の女」(5)です。
レイモンド・チャンドラーのハード・ボイルド探偵小説の映画化。
私立探偵フィリップ・マーロウを主人公にしたこの小説シリーズは、
主人公の「わたし(翻訳によっては『おれ』『ぼく』)」によって語られるスタイルで、
この映画はその一人称話法を映像化したというわけです。

当時、その実験的な手法が一部からは絶賛されたものの、
全体的に評判はあまりよくなかったようで、トリュフォーからは酷評されています。
筆者は、この映画も未見なのですが、
一人称映画は同一化を促さないというトリュフォーの主張はわかる気がします。

「ブラックスワン」のダーレン・アロノフスキー監督による作品「レスラー」(6)で、
やはり同じ手法が部分的に使われていました。
こちらもやはり、主人公ランディ(ミッキー・ローク)が目にしているであろう映像を、
手持ちカメラを使って彼の背中をなめての肩越しで映すものです。

この物語は、人気レスラーだった主人公が年齢を経て落ちぶれる姿を描いています。
ハードな試合で肉体を酷使し、さらに長年のステロイド剤投与がたたって心臓発作を起こす。
それでもレスラーへの復帰を目指すのですが、
そんな彼の視点で描かれる映像を見ても、
しかし筆者は、彼に同一化する気持ちを持つことが出来ませんでした。

一人称映画の映像は、むしろ彼を突き放して客観視するように促し、
彼が見ている世界であることは観念として客観的に理解させるものの、
その背中が彼の老いた現実を浮かび上がらせていたように感じられました。
もしかしたら、同情やセンチメンタリズムを排除するような演出の意図があったのでしょうか。

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では、観客が登場人物に同一化してしまうような映像手法があるとすれば、
どういうものなのか?

その問いに、トリュフォーはこう答えています。
佐藤忠男「小津安二郎の芸術」(7)からの孫引きになりますが、引用します。

「俳優のまなざしが観客のまなざしと交叉するとき
主観的シネマというものが生まれる。
従ってもし観客大衆が同一化する必要を感ずるならば、
大衆は自動的に彼が一番多く映画の中でまなざしを交叉した顔、
即ち一番多く止まって真正面から撮影された俳優と同一化するだろう」
(8)

トリュフォーは、この法則というか理論を、
自分の作品「大人は判ってくれない」(9)にたどっています。

いたずら好きで映画好きの少年アントワーヌ(ジャン=ピエール・レオ)が、
母の浮気や義理の父とのすれ違いから、家庭での居場所をなくしていく。
高圧的な教師の叱責から、学校での居場所もなくしていく。
そうして家出の果てに、タイプライターを盗もうとして捕まり、
“非行少年”として鑑別所へ送られる──。

原題の「Les Quatre Cents Coups」は直訳すると、「400回の打撃」。
映画には、父親から殴られるシーンもありますが、これは精神的な打撃ということでしょう。

「大人は判ってくれない」という邦題は、大人たちの非を責めるような言い方ですね。
しかし400回の打撃は、すべて大人の無理解のせいばかりとは限りません。
アントワーヌ自身の行動が招き寄せてしまった打撃も多々ある。
(そうした失敗を繰り返してしまうのが少年時代というものかもしれません。)

トリュフォーの幼少の頃を描いたとされるこの半自伝的なストーリーの中で、
彼は、彼の分身である主人公の少年を擁護して、ただ大人を非難し、
一方的に同情を求めるような描き方は望みませんでした。
少年を憎らしいとする見方と、少年に同情するという見方の
両方のバランスをとろうと意図していたといいます。
脚本の段階では、むしろ少年を憎らしいとする感想の方が多かったのだとか。
にも関わらず、上映の結果、少年は観客からの同情を集めることになってしまった。

というのも、無意識的に、少年の顔を正面から撮影したカットが多くなってしまったからだと
トリュフォーは自己分析しています。

つまり、「一番多く止まって真正面から撮影された」少年は、
スクリーンの中から観客と相対して視線を交わし合うことになった。
そのため、観客は少年に同一化し、少年の立場に身を置くことによって感情移入し、
少年に同情を寄せることになったというんですね。

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同様の効果をもたらしている作品に、たとえば「初恋のきた道」(10)があります。

舞台は、中国の小さな田舎の村。
老父が急死したため、都会から故郷の村に帰った息子が、
若き日の両親のなれ初めをものがたるというかたちでストーリーが展開します。

40年ほど前、父は20歳そこそこの若さで村の学校へ赴任してきた教師で、
母は、彼に恋した村の娘でした。
そうして2人のみずみずしいやりとりが交わされるのですが、
この回想場面のほとんどの映像が、
当時18歳の少女だった母親チャオ・ディ(チャン・ツィイー)をとらえたカットでつづられます。

初めて彼と出会ったとき。
遠くから彼をながめるとき。
彼と言葉を交わしたとき。
彼のために想いを込めて機(はた)を織るとき。
──その場面場面で、主人公の少女ディが、
ロングショットよりも、ミディアムショットやクローズアップで映されます。
カメラは、彼女の心情に近づくように、寄っていく。

ふつう、人物が草原を駆けている姿などを撮影する場合、
ロングショットで描かれることが多く、その方がわかりやすいと思います。
ところが、この映画では、丘を駆ける少女ディは、
ニーショット(膝から上を写す)や、ウエストショット(腰から上を写す)で描かれる。
そして、カメラは彼女を大きく写し、彼女に焦点を当てたまま、
走る彼女の動きに合わせて追いかけるのです
(この撮影のし方は「フォロー・パン」といわれるものですね)。

この草原のシーンは、村を出ていく彼の後を、少女ディが追いかけるところです。
もしかしたら、もう彼は帰っては来ないかもしれない。
それでも想いを込めて作った手料理を、せめて一口でも食べてもらおうとして、
懸命に走って走って追いかける。
それが、こうした撮影のし方で描かれることによって、
彼女のひたむきな心情が、観客に伝えられることになります。


また、会話のシーンでも、カメラは彼女から離れようとはしません。
たとえば、少女ディといっしょに暮らす盲目の母親との会話シーン。

基本的に会話の場面は、台詞をしゃべっている人物が映されるものです。
Aという人物がしゃべったら、そのAを映す。
その会話に答えて、次にBという人物がしゃべったら、今度はBを映す。
そうやってカットバックなどで交互にAとBを切り替えながらシーンをつづったりします。

しかし、このディと母親の会話のシーンの中には、母親を映さない場面があります。
母親の声だけが聞こえて、けれどしゃべっている母親の顔は映らず、
カメラはディだけをずっと見つめているのです。

これは「大人は判ってくれない」でも同様で、
主人公の少年アントワーヌが、鑑別所の女性係官に訊問されるという会話のシーン。
このとき、カメラはアントワーヌだけを見すえて、
女性係官の声だけが聞こえたりしていました。

こうしたカメラワークの結果、観客は、少女ディの心情に寄り添うことになります。
彼女は、恥じらいのために視線をそらせたりして、
必ずしも正確にカメラのレンズと真正面から向き合っていたわけではありません。
けれど、ほぼ正面を向いて、まなざしを送っていることはわかる。

観客は彼女とまなざしを交わし合い、彼女に「同一化」するように感じる。
そうして、彼女のときめきや、とまどいや、ひたむきさを身近に感じ、
ああ、自分にもこんな初恋の時代があったよなあなどと、
自分の胸に手を当てることになるわけです。

ちなみに、ところどころで、若き教師である彼の姿は、
彼女の視点から見た映像として映されていました。
彼が村人たちに囲まれた中、その彼の姿だけを目で追うシーン。
彼に食事を供するために台所に立ちながら、食卓の彼をのぞきこむシーンなど。
つまり彼女の視点からの「一人称」のカットがはさみこまれていたわけです。

この場合、観客の心は彼女と同一化していて、
あるいは同一化する準備がすっかり出来あがっているため、
彼女の心に寄り添いながら、いっしょに彼をながめることになるのだと思います。
「一人称映画」の手法も、
ストーリーの文脈や使い方によってはたらきが違ってくるのでしょう。

正面から撮影するやり方も、
ただそうすれば観客に同一化を促すというわけではなく、
そこにはストーリー上の理由や俳優の魅力など、いろいろな要因も絡まってきます。
しかし基本的に、トリュフォーのいう効果があるのだと思われます。

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映画評論家の佐藤忠男さんは、
映画を撮る監督の意図として、2つの方向性を挙げています(8)

一つは、観客に「異化」を促そうとする方向。
これは劇作家ブレヒトの影響があるのだそうです。

いつも見慣れている景色やものごと。
あまりにも当たり前過ぎて、考えるまでもないと見すごしていたり、
パターン化してしまった見方や考え方。
そういうものに対して、
「あれ? これは何かおかしいんじゃないの?」と違和感を与えることで、
改めて別の角度からながめてみてはどうだろうかと提案を投げかける。

もしも観客が、ただ感情や雰囲気に流されて同調したり、
安易に陶酔に浸るようだったとしたら……。
もしも映画を、ただ無防備に、感情的・主観的に見るだけだったとしたら……。
見慣れたその世界のおかしさに気づけなくなる。
無批判に受け入れて、取り込まれることになります。

だから登場人物に感情移入したりすることなく、距離をおいて見るよう、
理性的・客観的な、そして批判的な目で見るよう、
観客に促すのだというわけです。

ブレヒトが亡命した当時のドイツでは、ナチスが台頭していました。
ナチスの思想が当たり前で、ナチスこそが絶対的な正義であるという風潮が、
熱狂的に、感情的に、大衆に支持されていました。
そうした中では、理性的・客観的な目こそが求められたはずです。

わたしたちが当たり前のように過ごしている社会や日常も、わたしたちが気づかないだけで、
どこか歪んでいたり、間違っているところがあるかもしれない。
「異化」の視点が必要であるわけです。

こうした「異化」を目指そうとする場合、
たとえばフランスの映画監督ジャン・リュック・ゴダールが
登場人物を真正面から撮影しても、
その演技とぶっきらぼうな台詞のせいで、観客は「同一化」することは出来ません。
むしろ「異化」の効果で、スクリーンから問いつめられ、迫られる印象を受けると
佐藤忠男さんはいいます。
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その反対となるもう一つの方向が、観客に「同一化」を促そうとするもの。
その典型が、小津安二郎作品です。

テレビでは、基本的に、
バラエティでは、カメラを直接見る「カメラ目線」がアリで、
ドラマでは、「カメラ目線」はいけないとされます。

バラエティの中で、ネタでもちょっとした体験談でも、何かを視聴者に語りかけようとするとき、
カメラへ顔を真正面に向けると、伝わりやすくなる。
ニュースなどの情報を伝えたり、あるいは意見を主張したり訴えかける場合でも、
カメラ目線が効果的です。
しかし、ドラマの中で視聴者に向けて目線を送るというのは、
通常は、ありえないこと。
不自然です。

ところが小津作品では、会話の場面で、真正面を向くショットが多用されます。
目線をカメラに向ける──つまり、観客に目線を送る。
それはまったく自然で、違和感がありません。
というのも、これは、会話の相手に目線を送ってしゃべりかける人物を、
そのしゃべりかけられた相手の側から、カメラが撮影するというかたちだからです。

そのため、観客は、
スクリーンの向こうから、正面を向いてこちらへ語りかけてくる登場人物と
まなざしを交わすことになります。
しかも、ジャン・リュック・ゴダール作品の人物たちと違って、
会話の内容は、親しい家族や友人とのあいだに交わされる、主に親和的なものであり、
その顔は、親しみやすいあの笠智衆さんだったりするわけです。

観客は、家族や親しい友人の一員となったように「同一化」し、
感情移入したり、共感したり、
自分の胸に手を当てて考えたりすることになる。

小津作品では、
人物を撮るときは、基本的に、ほぼ全身を映すフルショットで、
その動きを撮ろうとするときはロングショット、
会話はバストショット
──というようなかたちが、まるで厳格なルールのように決まっているようです。

「これらはすべて機械のように正確であり、
あまり正確であるためにかえって自然になったのである」

と、佐藤忠男さんは述べています(8)

そして、カメラに正面を向いて話すという会話の自然なショットが
リズムよく積み重ねられることで、
観客は、その会話の輪の中にいつのまにか入ってしまっているような
「同一化」を促されるのだと思います。

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子どもたちを対象とする作品ではどうでしょうか?

子ども向けであっても、「異化」を促すような視点というのはたいせつかもしれません。
が、しかし、この世界に生まれ落ちて間もない子どもたちは、
この世界に確固たる居場所を見つけているわけではありません。
世界はまだ知らない未知のものに満ちていて、つまり「違和感」だらけです。
当たり前の世界が、まだ当たり前とは言えません。
幼少の時期では、「異化」については、それほど必要とされないのではないでしょうか。

また、とくに小さな子どもたち──年少の子どもたちは、
ほとんど主観で生きているといえます。
発達のこの段階の子どもたちが、客観的に見るというのは、難しい。

そして子どもたちは、物語に対するときも、主観的な見方をします。
登場人物に感情移入して、「同一化」しやすい。

ときには、すっかりヒーローやヒロインになりきることもよくありますね。
筆者も、子どもの頃には、ヒーローに同一化して、よく変身したものです。

子どもたちは、登場人物に同一化して、物語を主観的に体験する。
それが物語のおもしろさのひとつだと思います。

このとき、登場人物に同一化しやすいよう、
その心情に寄り添いやすいよう、
親しみやすいようにする方法のひとつが、
トリュフォーのいう、真正面から撮影するというやり方です。
人物を、正面に向かせて描く。

このやり方を使った、絵本での典型的な例が、ミッフィーです。

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オランダ生まれの彼女は、オランダ語の本名を「ナインチェ・プラウス」。
石井桃子さんの翻訳では、「うさこちゃん」。
英語名が「ミッフィー」で、
彼女は、子どもたちにも、おとなたちにもおなじみですね。

彼女を立体的に造詣したアニメでは、横向きやななめ向きも描かれますが、
原作の絵本では、基本的に正面ひとすじです。
正面にしか描かれない。

▼「ちいさなうさこちゃん」(11)の表紙を模写。
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絵本作家の長谷川集平さんは、
このミッフィーと、小津安二郎作品を取り上げて、
「正面性」ということを指摘しています(12)

正面を向くということは、トリュフォーが言うように、
「まなざし」ということが大きく関係しているのだと思います。
まなざしとまなざしを交叉させる。
視線を交わし合うということ。

以前、当ブログで、
紙芝居の演じ手は、観客である子どもたちとのあいだで
視線を交わし合うことがたいせつなのではないかと書いたことがありました
(→参照ページ)。
それがコミュニケーションの基本であるからです。

ここではつまり、
ページの中の登場人物(キャラクター)が、
読者である子どもたちとのあいだで、擬似的なかたちではありますが、
視線を交わし合うことになるわけです。

赤ちゃんは、生後約1ヶ月という早い頃から、
母親やまわりのおとなと、視線を交わし合う──
つまり、アイ・コンタクトのようなことをしはじめるといいます。

そして2〜3ヶ月頃になってくると、
アイ・コンタクトや言葉かけに応えて、
微笑みを返したり、声を上げたり、手足やからだを動かすなど、
何らかのアクションを返すようになる。

言葉を交わすわけではありませんが、
まるでお互いに会話を交わし合うようなやりとりになる。

これは相手の感情を察することであり、
こうしたやりとりによって、他人と情動的に一体感を感じたり、
愛着を感じたりするようになるのだといいます。
(これを難しい言葉でいうと、『第一次間主観性』というそうです。)(13)

こうしたコミュニケーションの基本となるアイ・コンタクトを、
読者である子どもたちは、ページの中のミッフィーと交わすわけです。

ミッフィーは、それに応えるように、ページの中から、
あの点々の目で、子どもたちに視線を送ってるんですね。
もしも横を向いていたら、それが出来なくなります。

そしてそのことによって、子どもたちはミッフィーに
一体感を感じ、感情移入して、親しみや愛着を感じるのだと思います。

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もっとも、ただ、顔を正面に向け、視線を読者や見る人に向けて描いたとしても、
それがすべて親しみにつながるわけではありません。

視線と視線を交わすアイ・コンタクトでは、
「好意」と「敵意」という相反する両方の意味がありました(→参照ページ)。
また、映画のスクリーンでも、顔を正面に向けるカメラ目線は、
「同一化」を促す、親和的な小津安二郎作品の例と、
「異化」を促す、威嚇的なゴダール作品の例の、両方があったわけです。
絵本や紙芝居の絵、あるいはイラストでも、そうした両方の効果があると思われます。

たとえば、防犯ステッカー。
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これは、警視庁と東京都が「動く防犯の眼」としてすすめている防犯活動に使われているイラストです。
歌舞伎の隈取りをあしらったこの印象的な眼のステッカーが、
地域を往来する車両やバイクに貼られることによって、しっかり人は見ているぞとイメージさせ、
犯罪を抑止するというわけです。

厳しくにらみつけてくるこの人物に、信頼感を感じたとしても、
ミッフィーのような親しみやすさを感じる人は少ないでしょう。
この場合は「敵意」ではありませんが、真っ正面から視線を投げ掛けられることによって、
監視の眼の厳しさ、圧迫感を感じます。

当たり前のことですが、
同じ正面を向いている構図でも、そのキャラクターや表情、背景となる物語や文脈によって、
どういう感情をひきおこすかの効果は違ってくるということなのでしょう。

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顔を正面に向けてのバストショットや、クローズアップ。
こうしたシンプルな構図は、当たり前すぎて安易なように感じてしまい、
紙芝居の絵を描くときに、つい避けてしまいがちです。

が、こうした構図の場面をはさみこんだりすることで、
子どもたちに物語をより身近に感じさせることが出来るかもしれません。








《引用・参考文献》
(7)佐藤忠雄「完本・小津安二郎の芸術」朝日文庫
(8)フランソワ・トリュフォー、岡田真吉訳「ヌーヴェル・ヴァーグの回顧と将来」〜雑誌「映画評論」1963年7月号・所収
(11)ディック・ブルーナ文/絵、いしいももこ訳「ちいさなうさこちゃん」〜「1歳からのうさこちゃんの絵本セット1・子どもがはじめてであう絵本」福音館書店
(12)長谷川集平「絵本作りトレーニング」筑摩書房
(13)麻生武「乳幼児の心理〜コミュニケーションと自我の発達」サイエンス社

《映画作品リスト》
(1)「アバター」監督:ジェームズ・キャロン、出演:サム・ワーシントン他。2009年公開。
(2)「ブラックスワン」監督:ダーレン・アロノフスキー、出演:ナタリー・ポートマン他。2010年公開。
(3)「13日の金曜日」監督:ショーン・S・カニンガム、出演:エイドリアン・キング他。1980年公開。
(4)「死霊のはらわた」監督:サム・ライミ、出演:ブルース・キャンベル他。1981年公開。
(5)「湖中の女」監督・主演:ロバート・モンゴメリー。1947年公開。
(6)「レスラー」監督:ダーレン・アロノフスキー、出演:ミッキー・ローク他。2008年公開。
(9)「大人は判ってくれない」監督:フランソワ・トリュフォー、出演:ジャン=ピエール・レオ他。1959年公開。
(10)「初恋のきた道」監督:チャン・イーモウ、出演:チャン・ツィイー他。1999年公開。







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by kamishibaiya | 2012-08-02 06:29 | 紙芝居/絵を描く | Comments(0)