安珍清姫の物語を旅する 01

その舞台──道成寺。


安珍清姫の物語の絵巻を、「絵解き」して見せてくれる。
──と聞いて、これはぜひとも見てみたいものだと思いつつ、幾月。
そして5月の連休日、とうとう行ってきました、和歌山県は道成寺。

夜行バスで行って朝に着き、その夜、夜行バスで帰ってくるという短い旅ではありましたが、
天気は快晴、風薫る新緑の中、物語を一日楽しむことが出来たのでした。

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その道成寺にまつわる、こんなわらべ唄があります。

トントンお寺の道成寺
釣鐘下ろいて 身を隠し
安珍清姫 蛇(じゃ)に化けて
七重(ななよ)に巻かれて一廻り 一廻り
(1)

これは、手鞠唄です。
清姫が見初めた僧・安珍を追いかけて蛇になり、
彼が隠れた釣り鐘に巻き付いて焼き焦がすという道成寺の物語は、
子どもたちにもおなじみだったのでしょう。
しかし、子どもたちは、トントン手鞠をついて歌いながら、
恋に狂うという、ちょっと大人な物語をどう思っていたのかな。

同じメロディ、同じ「道成寺」というタイトルで、
次のような唄も伝わっています。

此処(ここ)から鐘巻十八町
六十二段の階(きざはし)を
上りつめたら仁王さん
左に唐金(からがね)手水鉢(ちょうずばち)
右は三階塔の堂
護摩堂に釈迦堂に念仏堂
弁天さんに稲荷さん
裏へ廻れば一寸八分の観音さん
牡丹桜に八重桜
七重(ななよ)に巻かれて一廻り 一廻り
(1)

こちらは、旧矢田村(=旧川辺町、現在の和歌山県日高川町・小熊近辺)に伝わる手鞠唄。
旧矢田村は、道成寺のある日高川町・鐘巻から18町(約2km)離れた距離にあります。
その地点からみれば、道成寺は、
「此処(ここ)から鐘巻十八町」ということになります。

この唄は、さながら道成寺の観光案内。
今回の旅で実際に道成寺へ足を運んでみると、
まさしく、ほとんど、この唄の通りでした。

「六十二段の階(きざはし)を」
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参道を抜けると、石の階段。
62段、あります。

「上りつめたら仁王さん」
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f0223055_18555347.jpg階段を上ったところに、仁王門。
右に、口を開いた
阿形(あぎょう)の仁王さん。
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左に、口を閉じた
吽形(うんぎょう)の仁王さん。
こめかみの血管もリアルな、
迫力のある金剛力士像です。
























「左に唐金(からがね)手水鉢(ちょうずばち)」
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「右は三階塔の堂」
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「護摩堂に」
「護摩堂」は、護摩をたいて修法を行うお堂。

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「釈迦堂に念仏堂」
「釈迦堂」は、
江戸時代後期の1811年に出版された「紀伊国名所図会」にははっきり描かれているのですが、
お寺の方にたずねると、現在はないとのことでした。

下の写真は、「念仏堂」。
江戸の頃、お寺の宗派が天台宗となったとき、
本格的にお念仏をするようになり、このお堂が建てられたそうです。
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この念仏堂には、「五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀如来」という
ちょっと珍しい阿弥陀さんがいらっしゃるとのこと。
「五劫」というのは、
落語「寿限無」で、「五劫のすりきれ」と語られるアレのことですね。
時間の単位。
10里四方もある大岩に、100年に1度、天女が舞い降りてきて、
羽衣で撫でていく。
それが繰り返されるうちに大岩がすり減り、しまいになくなるまでが1劫。
それが5劫というのですから、途方もない時間です。

若い頃の阿弥陀さんは、
生きとし生けるものすべてを苦しみ悲しみから救うという48の大願をたてて、
その5劫のあいだじゅう、必死で思惟──つまり考えをめぐらせた。
床屋に行く暇もなかったため、髪は伸び放題でこんもり厚く、
顔もむくんで四角ばったお姿となる。
それが、「五劫思惟」の阿弥陀さん像なのだそうです。
無念ながら、筆者はこのとき拝観出来ませんでした。

「弁天さんに」
f0223055_20414854.jpg弁天さん(弁財天)は、
住吉さん(住吉大明神)、
天神さん(天満宮)とともに、
「三社」として、
絵馬の奉納所ともなっています。























「稲荷さん」

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そしてこちらが、本堂。
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ご本尊は、千手観音。
両脇の日光菩薩・月光菩薩とともに国宝とされ、現在は、宝仏殿の方で公開中です。
高さは3.20mだそうで、拝観すると、見上げるようなお姿でした。

ところが、わらべ唄では、
「裏へ廻れば一寸八分の観音さん」
とあります。
「一寸八分」は、約5.5㎝。
親指ほどの大きさしかありません。

実は、南向きに安置されたご本尊の千手観音像の裏に、
もう一躰、北向きの千手観音像があったのだそうです。
こちらの観音さんは、今も本堂にいらっしゃるということですが、
秘仏として、ふだんはお姿を拝することはかないません。

が、33年に1度、ご開帳されるのだそうで、
最近では2005年に公開されたとのこと。
だから、次にわたしたちがお遇いできるのは、2038年ということになりますね。

しかし、こちらのご像は、伝えられるところによると一丈二尺。
「一丈二尺」は、
天平時代の単位1尺=約30.6㎝として計算すると約3.67mとなりますが、
実際には、2.4mだそうです。
北側の「裏へ廻れば」確かに観音さんがいらっしゃるのですが、
一寸八分という身軽なご体格ではありません……。
──いえ、いえ。
その千手観音の胎内に、確かに一寸八分の観音さんがいらっしゃるんだそうです。

小さな胎内仏をその中に納める仏像のことを、
刀身を包んで納める刀のさやになぞらえて「鞘仏(さやぼとけ)」というのだとか。
裏にいらっしゃる千手観音さんは、鞘仏なんですね。

そもそも道成寺のはじめは、宮子姫。
一説によれば、宮子姫は、ここ道成寺の近く、海辺に住む浦人の出身。
後に姫となったこの女の子は、しかしどういうわけか、
生まれてから成長してもずっと髪の毛がはえてこなかったといいます。
丸坊主のままに日を過ごしていましたが、
ある日、海女(あま)である母親が、海深く潜っていたところ、光り輝くものを見つけます。

それが一寸八分の観音さま。
海底から拾い上げ、お祀りして願をかけたところ、宮子姫の髪はみるみるうちに伸びはじめ、
年頃となるころには、7尺(約2m)の美しい黒髪に。
いつしか「髪長姫」と謳われようになり、都の藤原不比等に見出されて養女となる。
そして文武天皇の后となり、聖武天皇をお産みになります。

が、都での暮らしに心労も多かったのか、
現在で言うところの“心的障害”にだいぶ悩まされたのだそうです。
そんな后への気づかいもあってでしょう、天皇は姫の故郷の地に寺を建立するように命じ、
そうして出来たのが、道成寺。
そして本尊の千手観音を作るとき、
姫の護持仏である一寸八分の観音さまを秘仏として納めたのだそうです(2)(3)

親指ほどの観音さまが、裏に廻った北向きの千手観音の胎内にいらっしゃる。
その伝承が、「裏に廻れば一寸八分の観音さん」と、
わらべ唄に歌われているのでしょう。

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さて、わらべ唄では、続けて
「牡丹桜に八重桜」
とあります。
辞書を引くと、「牡丹桜」は、「八重桜」の別称とある。
つまり、同じものです。
それが、「牡丹桜に八重桜」と別物のような言い方をされているのは、
どういうわけなのでしょうか?

境内に牡丹桜(=八重桜)を探してみましたが、花の季節を過ぎたこともあってわかりにくく、
このときは見つけられませんでした。

ふつうの桜の木はありました。
中でも目をひいたのは、「入相桜(いりあいざくら)」とよばれる一本の木。
「江戸彼岸(エドヒガン)」という品種なんだそうです。
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立て看板の説明によると、こちらの入相桜は、二代目。
初代は、樹齢数百年という巨木でしたが、
昭和の初期、台風のために折れてしまい、
その根っこから、現在の二代目がはえて来たとのこと。

この桜にちなんだタイトルで知られるのが、
人形浄瑠璃(文楽)の「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」です。
やはり安珍清姫の伝説を扱っているのですが、
皇位継承争いや藤原純友の反乱など、複雑なドラマが盛り込まれています。
そして清姫は、恋に狂うというより、嫉妬のために蛇となって日高川を渡ります。

それにしても、「桜」を、なぜ「花王」と書いて「さくら」と読ませるのでしょう?
立て看板の説明によれば、
古来、花の王さまといえば、中国では牡丹、日本では桜なのだとか。
江戸時代の辞書「書言字考節用集」には、
「支那は牡丹をもって花王とし、日本は桜をもって花王とす」
とあったりします。

筆者の個人的なイメージでは、桜は王さまというより、たおやかなプリンセスですが、
かつて、6間(=約10.9m)離れた本堂の縁側にまでその枝を届かせていたという初代の入相桜は、
花の王とよぶのにふさわしかったかもしれません。

ひょっとすると、わらべ唄で歌われた「牡丹桜」は、八重桜という品種のことではなく、
その名前に「桜」と「牡丹」という日中の花の王を二つ並べて重ねたキング・オブ・キングス──
つまり、入相桜のことではなかったか?
……なぁーんていう勝手な想像をしてしまいました。

今の二代目は、王と呼ぶには少々迫力に欠ける大きさです。
が、萌え立つ若緑の元気さは、将来の成長が楽しみな王子様のようにお見受けしました。

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そして、
「七重(ななよ)に巻かれて一廻り 一廻り」

これは、手鞠唄です。
「一廻り(ひとまわり)」のところは、もしかしたら、
鞠をついてから跳ね返ってくる間に、体をクルリとひと回りさせるなどの
技があったりするのかもしれません。
が、歌詞の内容としては、
清姫が大蛇に化して、安珍が隠れた釣り鐘に巻きつく有名な場面を歌ったものですね。
道成寺のあるこの辺りの地名が「鐘巻」といい、その由来ともなっています。
また、能楽「道成寺」の原曲とされる謡曲のタイトルが「鐘巻」です。

その鐘が取り付けてあった鐘楼の跡と言い伝えられているのが、こちら。
建てられた石には、「鐘巻之跡」という文字が刻まれています。
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その釣り鐘の場面は、後世の能や歌舞伎でも扱われ、
道成寺といえば釣り鐘のイメージが思い浮かぶほど。
地元では、釣り鐘の形をかたどった「つりがねまんじゅう」というお菓子も作られていて、
参道の店で売られていました。
(筆者は出来立てのホカホカをいただきましたが、これがなかなかの美味。)

ところが、おまんじゅうにはなっても、
その肝心の釣り鐘は、道成寺には存在していません。
“幻の釣り鐘”なんですね。

能の「道成寺」では、大蛇の吐き出す炎により、
「鐘は則(すなはち)湯(=金属の溶けた液体の状態)となつて」
と謡われています(4)
釣り鐘は、ドロドロに溶けてしまった。

道成寺縁起の異本である「賢学草子(日高川草紙)」(酒井本)では、
大蛇は、鐘に巻きついてギリギリと締め上げ、
ついには木っ端微塵、「みじんに」壊してしまうことになっています。
そうして、中の僧(こちらは安珍ではなく、名を賢学といいます)をつかみ出して
川へと引きずり込み、二人はともに深みへ沈んでいきます(5)
ここでは、釣り鐘は、粉々に破壊されてしまった。

いやいや、釣り鐘は、大蛇の炎に焼かれたものの
無事に残ったのだとする話もあります。
事件後は、道成寺境内の「鐘巻の跡」のすぐ隣りにある「安珍塚」に、
安珍の遺体とともに埋められたとも伝えられています。

いずれにしろ、事件が起こったとされる西暦928年(延長6年)以来、
道成寺に鐘の音が響きわたることはありませんでした。
そうして、釣り鐘不在のまま、約400年の歳月が流れる。

それが、1359年(正平14年)。時は南北朝時代の世となって、
当時の矢田庄(やたのしょう)の領主となった源万寿丸清重の寄進を受け、
釣り鐘が再興されます。

そこで、鐘供養がとり行われる。
“供養”といっても、これは、新しい鐘を鋳造したときにそのつき初めを行う、
いわば落成式のような法会(ほうえ)を営むことなのだそうです。

その鐘供養の最中。
どこからともなく白拍子がやって来て、女人禁制の法会にも関わらず、
その場へ飛び入りで舞を舞うことになります。
実は、この白拍子こそ、清姫の怨霊。
彼女は狂おしく舞い踊って鐘へと近づき、釣り鐘の落下とともに中へ飛び込む。
そうして、大蛇の正体をあらわします……。
──という場面を描いたのが、能楽「道成寺」です。

安珍清姫の後日譚ともいえるこの物語では、僧侶たちの必死の祈念によって
大蛇は調伏されて川へと帰り、清姫の執着心は消え去ることとなります。

ところがしかし、能の舞台を離れた実際の道成寺では、
彼女の祟りは消え去らなかったようです。
その鐘の音は割れて、響きがよくなかったのだとか。
そしてちょうどその頃、お寺の近在に災禍が次々に起こったそうです。

この二代目の釣り鐘には、

「聞鐘聲 智恵長 菩提生
 煩悩軽 離地獄 出火坑……」


というような銘文が彫られていました(6)(7)

鐘の声を聞いたら、知恵に長けて、悟る心が生まれ、
煩悩は軽くなり、地獄から離れ、火坑(かきょう:火の燃える地獄の穴)からも抜け出せる。
そして、生きとし生けるもの(衆生)を救い導くといいます。

しかし、銘文の通りには行きませんでした。
鐘の声は、人々を救うどころか、逆に災いを呼ぶ。
近所で起こった災禍は、
みんな祟りを受けたこの鐘のせいだと考えられてしまいました。

そのため、二代目の鐘は竹林に捨て置かれ、
かくして約200年の歳月が流れます。

そして1585年(天正13年)。時は戦国、安土桃山時代。
織田信長が本能寺で倒れた後、豊臣秀吉は天下統一を果たすべく、
紀州攻めへと手を伸ばします。
雑賀衆、根来寺を攻める一方、道成寺のある紀南も制圧していく。

その際に、秀吉の家臣である通称・権兵衛こと千石秀久が、
道成寺を訪れて二代目の鐘のことを伝え聞き、
陣鉦(じんがね=軍隊を動かす合図に鳴らす鐘)に使おうと
林に眠っていた鐘を掘り起こします。
そうして京都へと持って帰り、それが、京都・妙満寺に奉じられる。

そこで妙満寺の当時の大僧正がお経を読んで供養したところ、祟りは解かれ、
鐘は清澄な響きを取り戻して、現在に至るのだとか(8)

人を閉じ込めて焼き殺す凶器に使われた初代に続き、
災厄の元凶という濡れ衣を着せられたり、
戦(いくさ)の道具に使われたりと、
さんざんな目に遭った二代目の釣り鐘ですが、ここに至って
銘文の通り、“人々を救い導く”という本来の役目に帰ることが出来たようです。

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さてところで、初代の釣り鐘のあった鐘楼は、実は、
言い伝えられている「鐘巻の跡」にはなかったという話があります。

昭和60年代に道成寺境内の発掘調査が行われた際、
伽藍の配置は、法隆寺の配置を左右さかさまにしたものであることがわかったそうです。
そこから推し量ると、鐘楼は、現在、入相桜が植わっている辺りにあったらしい。
その周囲からは、焼けこげた土も見つかったとのこと。
それがはたして、大蛇の炎によるものなのかはわかりませんが、
昔、そこで何か火災のようなことが起こったのは確かなようです。

すると、お寺が釣り鐘を失って後、その鐘楼の跡地に
桜が植えられたのでしょうか。
それが数百年を経るうちに、入相桜(初代)という巨木になったのでしょうか。

一般的に、お寺の鐘は、一日に二回鳴らされます。
朝の日の出の刻を告げる「明け六ツ」の鐘と、
夕方、日の入りの刻を告げる「暮れ六ツ」の鐘。
この「暮れ六ツ」の鐘が、「入相の鐘」といわれます。

童謡の「夕焼け小焼け」(作詞:中村雨紅)では、
「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る」
と歌われていましたっけ。
日暮れ時に鳴らされるあのお寺の鐘が、「入相の鐘」なんですね。

鐘を失った道成寺では、そんな夕方、
本来であれば入相の鐘を打たなければならない時刻が来るたびに
人々は鐘楼跡の桜の木を見上げ、
それが「入相桜」という呼び名の由来になったのではないか──。
と、道成寺の現住職であり、
「絵解き」の語り手でもある小野俊成さんは推されています(9)

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道成寺は、夕景の似合う古刹として、
また、小高い奥の院から見る日の入りが絶景だそうで、
「和歌山県の朝日・夕陽100選」に選ばれています。

入相桜は、その名の時刻の夕景色にきっと似合っているのでしょう。
残照に照り映えた桜色は、ほの赤く染まり、
いつしか夕闇に溶けるシルエットの中で、淡く白くけぶっていく──。
そんな花景色が目に浮かぶようです。

おそらくその夕景は、たとえ鐘の声が聞こえなくとも、
二代目の鐘の銘文にあったように、
現代を気ぜわしく生きているわたしたちの煩悩を、ひととき、
軽やかにしてくれるのではないでしょうか。

またこの地を再訪する機会があれば、
今度は花の季節の夕暮れに訪ねてみたいと思いました。


山寺の 春の夕暮 来てみれば 入相の鐘に 花ぞ散りける

(※「新古今和歌集」に収められた能因法師のこの歌は、
能楽「道成寺」に引用されて謡われています(4)。)

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さて、そんなゆったりとした夕景の似合う道成寺。
こんな穏やかな平和な場所で、
清姫は、なぜ狂おしくも激しい炎を
ひとり吐かなければならなかったのでしょう?

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《引用・参考文献》
(1)町田嘉章・浅野健二編「わらべうた〜日本の伝承童謡」岩波文庫
(2)小野宏海述、藤原成憲画、小野成寛編集「道成寺絵とき本」道成寺護持会
(3)「道成寺」ホームページ〈http://www.dojoji.com/〉
(4)「道成寺」〜西野春雄校注「謡曲百番」(新日本古典文学大系57)岩波書店・所収
(5)内田賢徳「『道成寺縁起』絵詞の成立」〜小松茂美編「桑実寺縁起・道成寺縁起」(続日本絵巻集成13)中央公論社・所収
(6)吉田友之「『道成寺縁起絵』の表現」〜小松茂美編「桑実寺縁起・道成寺縁起」(続日本絵巻集成13)中央公論社・所収
(7)ゆーちゃんさんのホームページ「百姓生活と素人の郷土史」〈http://www.ojiri.jp/〉
小野俊成「歴史講座〜道成寺のすべて」(万寿丸が残した兄弟鐘)
(8)「総本山・妙満寺」ホームページ〈http://www.kyoto.zaq.ne.jp/myomanji/〉
(9)ゆーちゃんさんのホームページ「百姓生活と素人の郷土史」〈http://www.ojiri.jp/〉
小野俊成「道成寺の七不思議」(四、鐘楼の位置)

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by kamishibaiya | 2013-06-08 04:17 | 絵を見せて語るメディア | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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