能「山姥」「葵上」「放下僧」〜イマジネーションということ


落語の高座には、座布団ひとつがあるだけです。
上方落語では、
「見台(小さな机)」「小拍子(小さな拍子木)」「膝隠(演者の膝を隠すつい立て)」
といった3点セットを使う場合もありますが、たったそれだけです。
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歌舞伎をはじめとするたいていの演劇では、その場面場面に応じて建物のセットが組まれたり、
書き割りの絵が描かれたりして、劇空間を築き、観客を誘います。
それらに比べると、落語の高座には何もないに等しい。
しかし、その何もないということによって、落語はどんな世界も表現できる──
というようなことを、誰かがおっしゃっていたような気がします。

その何もない空間は、江戸の長屋の雨漏りがしそうな一間になったり、
お大名の暮らす絢爛豪華な大広間になったり、
さらには現代の隣近所にあるファミリーレストラン、あるいはフロリダのマイアミ・ビーチ、
はたまた近未来の高層住宅や、宇宙の火星基地のフロアーになったりもする。
舌先三寸で、変幻自在。オールフリーです。


筆者が学生時代、アルバイト帰りの深夜、たまたま見たTVが、柳家小三治師の「芝浜」でした。
師が、淡々と、しかし程のいい情緒加減で、夜明け間近の魚河岸へ行くシーンを語る。
と、主人公の魚屋は、潮の香りがするといいます。
そして、ふと「お。鐘が鳴ってらあ」とつぶやく。
増上寺様の鐘が、芝の浜に響けて伝わってくるという。
すると確かに、「ゴオォォ~~ンン……」という鐘の音が聞こえた気がするんです。
そして魚屋は、浜の磯までやってきて冷たい海の水をしゃくって顔を洗う。
潮の匂い。鐘の音。水の触感……。五感を総動員して描写する。

それから魚屋は岩に座って煙草を一服しながら、夜明けを待ちます。
しんしんと暗い空の下、足元の岩へ寄せる黒々とした波のざわめき、
それがやがて、海の向こうが白んできて、カモメが飛び……。
そのとき、小三治師が座っている座布団ひとつの高座が、
「ザザザザ……」という波の寄せる夜明けの浜辺の空間に変わっていました。
芝浜の情景が、確かに見えた気がしたんです。

舌先三寸でウソ物語をしゃべって語る落語は、リアルではないけれど、
しかし、アンリアルではない。
そんな語り口で、何より人間が語られる。生活が語られる。人情の機微が語られる。
この「芝浜」という人情噺はラストにじわじわっと来る感動もので、
以来、筆者は小三治師のファンになったのでした。


最近、NHKで、「超入門!落語THE MOVIE」という番組が評判のようです。
落語の実演の音声をつかい、それに合わせて役者が口パクで演じる
──いわゆるアテブリで演技をして「再現ドラマ」式に映像化するという実験的な試みです。
観客から“想像力”を引き出し、物語に誘う落語の本来から、あえて足を踏み出して、
映像化している。

絵本、TV、映画、インターネットなどなど、周囲に映像があふれ、そんな環境の中で育ち、
そんな中で暮らしているわれわれ現代人には、なるほどわかりやすいと思います。
番組タイトルに「超入門」とうたっている通り、初心者にもわかりやすく視聴してもらい、
これをきっかけに、落語の世界を聴いてほしいという意図もあるのだそうです。

確かにわかりやすい。
が、即物的、皮相的という感想は否めません。

今はCGの技術が進み、これまで映像化は無理だろうと思われたものも
リアルに再現することが出来ます。
しかし、どんなに精巧な、写実的な映像をあてはめたとしても、
筆者が小三治師の高座に見た、夜明けの浜辺の景色の、あの清澄な空気感や情感、
味わいといったものを再現することは難しいでしょう。

落語の映像化という試みのおもしろさを全く否定するわけではありませんが、
演者のかもし出す、何ともいえないおかしみや、空気、味わいといったものは
減じてしまう可能性がある。
そして、観客から想像力を引っぱり出させて誘い、羽ばたかせるための演者の工夫を
損なうのではないかと思います。

たとえば、小三治師は高座に上がるときは、たいてい黒の紋付を着て、
他の色の衣装をめったに身につけません。
というのも、噺で登場人物を演じるときに、演者が前に出てはいけないというのです。
演じるのが町人ならば、私たち観客は、なんとなく町人の衣装を想い浮かべて演者にだぶらせます。
武士なら武士の衣装、女性なら女性の衣装をつい想像してしまう。
そのときに、演者が目立つような色や柄のものを着ていたら、そちらに引っぱられて
想像してしまうということがしにくくなります。
物語に浸れなくなる。
そこで、小三治師は、個性を主張しない、黒衣(くろこ)的な役割を演じる黒の紋付を
着るというわけです。

そうした観客のイマジネーションを引っぱり出す工夫のひとつが、小道具です。

落語の小道具といえば、扇子と手ぬぐいですね。
閉じて短い棒状の扇子を、箸に見立てて蕎麦を食う仕草を演じたりする。
筆。釣り竿。煙草のキセル。天秤棒。駕篭かきの息杖。刀。槍。舟を漕ぐ櫓(ろ)。
扇子を少し開いて、そろばん。お銚子。
大きく開いて、大きな盃……などなど。
手ぬぐいですと、布の財布。手紙。証文……などなどに見立てたりする。

子どもたちは2歳前後から、たとえば長方形の積み木を自動車にして床を走らせたり、
黄色い積み木をバナナにして皮をむいて食べるふりをしたりと、見立て遊びを始めます。
積み木という小道具を使って、想像の世界を遊ぶんですね。
この想像して遊ぶということは、私たち人間の本能的なものに根ざしているのかもしれません。

それがやがて、「ままごと遊び」や「ヒーローごっこ」などに発展していく。
今は、お皿やスプーンどころか、フライパンや包丁まで揃った「ままごとセット」や
きれいな果物や、本物そっくりのハンバーグといった料理の玩具まであります。
また、ヒーロー番組に登場する武器のアイテムにそっくりな、
「なんとかセイバー」や「なんとかガン」といった玩具もあります。
が、しかし、そんなリアルな玩具がなかったとしても、ないならないなりに、
遊びの天才である子どもたちは工夫して遊ぶものです。

葉っぱや貝殻をお皿にしたり、黄色いタンポポを卵焼きに見立てたりする。
そこらの小枝や、新聞を丸めた筒を、剣や銃に見立てたりする。
やたらにリアルな玩具よりも、むしろそうした素朴なアイテムの方が
想像と創造をかきたててくれるのではないでしょうか。

……と、ここまで前置きが長くなってしまいましたが、
そんなシンプルな小道具が、能の舞台の中で使われていて印象的なのでした。


能「山姥」(1)

使われていたのは、1本の棒。
山姥が手にする杖でした。
握りのところがT字型になっている鐘木杖なのですが、それには、
緑のつるか葉のようなものが巻き付けられていて、いかにも山に棲む精霊の持ち物にふさわしい。

巻き付けられているのは「日陰の葛(ひかげのかつら)」という植物なのだそうで、
アマテラス(天照大神)が天の岩戸に身を隠したとき、
その前で踊ったアメノウズメ(天細女命)がこの植物を素肌にまとっていたといいます。
ひかげのかつらは神聖なもので、山姥は巫女の系譜に連なる存在でもあるのでしょう。

それはもちろん、実際には造りものの造花であったと思います。
けれど、朝、山から摘み取ってきたばかりとも思われるような薄緑色が、
色彩に乏しく、渋く、どちらかというと殺風景な能舞台の上では新鮮で、鮮やかでした。

橋懸かりや建物の柱で構成され、正面の壁に松が描かれているだけの能舞台。
そこに、そのみずみずしい新緑の色が持ち込まれただけで、
自然の一部を切り取ってそのまま舞台に運んできたような気さえする。
そして山姥が山々を巡る場面では、そのシンプルな舞台に、
谷をわたる風が流れ、森の樹々のあの緑の匂いがして、
奥深く豊かな山の風景が現出したようにも思われたのでした。

ちょうど座布団一つの落語の高座に、夜明けの浜辺の風景が浮かび上がったように。


能「葵上」(2)

「葵上(あおいのうえ)」は、「源氏物語」の一エピソードを舞台化したものです。

ご存知のように、「源氏物語」の主人公・光源氏は、さまざまな女性と
本気だか浮気だかわからないような恋の遍歴を重ねる男です。
六条御息所(みやすどころ)は、身分も高く、教養もあり、慎み深い女性ですが、
そんな女性が、光源氏のような男にホレてしまうんですね。
彼女は、自分の身分もあって、その恋慕の情を世間には知られたくない。
プライドの高いそんな彼女と打ち解けられず、光源氏の足は彼女から遠のいていく。

そんな折り、たとえ光源氏と直に逢って話しが出来なくても、
その姿を遠目からでも見たいという女心から出掛けた祭り見物で、
牛車をどこに停車させるかという場所争いのイザコザに巻き込まれてしまいます。
そのイザコザの相手が、なんと光源氏の正妻である葵の上だったのです。
葵の上の父親は左大臣で、実家の権勢を楯にするお供たちが、
御息所の車を押しやって、半壊させてしまう。
なるべく人目につかないようにと忍んで訪れた御息所は、
意図したわけでもないのに、光源氏の奥さんと争うようなことになって、
はからずも注目を浴びてしまい、車もプライドもズタズタにされる。

そして苦しい恋心に悩む六条御息所は、自分でも気づかぬまま、
別人格の生霊を生じさせます。
どんなに上品でやさしい良家の子女でも、心の底に鬼の顔を持っていて、
嫉妬に狂う鬼となった生霊は、遠く離れた葵の上を襲い、悩ませるようになります。

能「葵上」はその場面を描いた舞台です。
ところが、肝心の葵の上は、舞台の上に姿を現しません。
舞台の上に登場するのは、寝台とおぼしい四角い布の上に置かれた小袖の着物。
その小袖という小道具が、
怨霊にとりつかれ、床に伏せって横たわる葵の上を象徴的に表現するのです。

怨霊の正体を占う巫女によって、姿を現し舞台に登場した御息所の生霊は、
病床の葵の上に恨み言を述べ、打杖で彼女をこづき、たたきます。
しかし小袖の布にすぎない彼女は、打たれたからといって、
「あーれー」とか「誰か助けてたもれ」とか声を出すわけではありません。
少ししわが寄るくらいです。
けれども、いかにも女性らしい柄のその着物から、
打ちすえられて懊悩し、息を荒げる女人の姿が立ち昇ってくるように思われました。

それには、御息所の生霊に扮する役者の迫力ある演技という効果も大きいのでしょう。


能「放下僧」(3)

同じ着物という小道具を使って人物を表現する能楽に「放下僧(ほうかぞう)」という
演目がありました。

筆者が観たのは、神奈川県横浜市の金沢文庫の近く、称名寺の薪能(たきぎのう)でのことです。
この「放下僧」の舞台となったのが、同じく横浜市の金沢八景駅の近く、瀬戸神社(瀬戸三島明神)。
称名寺のすぐ近所で、このあたりは、中世、六浦として栄えたところでした。

▼薪能の当日、ライトアップされた称名寺の境内。きれいでした。
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ストーリーは、「曽我物語」と同じように、兄弟が仇討ちを果たす物語。
牧野小次郎(ツレ)は、父親の無念をはらそうと仇討ちを決意し、兄・次郎丸(シテ)に応援を頼みます。
が、すでに兄は出家し、禅僧となって仏に仕える身。
それで断るところを説得し、兄弟二人そろって仇討ちを計画することになる。
そこで二人は、「放下僧(放下ともいう)」に身をやつして旅に出ます。
「放下僧」とは、いわば大道芸人で、もともとは禅問答をしたりしながら布教していたのが、
芸を売って歩くようになり、室町の頃には、曲芸をしたり歌をうたうようになる。
仇である利根信俊は、瀬戸神社に参詣の折り、まさか自分をつけ狙う者とはつゆ知らず、
最初は不審がりますが、禅問答をするうちに心をゆるして迎え入れ、二人に芸を所望します。

そこで、当時の流行歌である小歌をうたったり、曲舞(くせまい)、羯鼓(かっこ)などの
芸を次々に披露する。
この演目は、この芸能づくしの場面が見どころだそうなのですが、
残念ながら、そうした教養もなく、言葉もよくわからない筆者には、
これらの芸のおもしろさがわかりませんでした。

さて、兄弟は芸を見せて油断させ、舞を終えると二人で斬りかかり、仇を討ちます。
仇討ちの物語であることは事前に聞いていたので、
ここでチャンチャンバラバラ、丁々発止とはいかないまでも、
なんらかのアクション・シーンがあるのでは、と思っていました。
が、さにあらず。
仇である利根信俊(ワキ)はいつのまにか退場していて、舞台の上にはつい立てがあり、
そこに着物の小袖がかかっていたのでした。
つまり、その着物こそが、仇である利根信俊。
そういう象徴表現。
兄弟二人は、「いざ! 仇!」とは叫ばなかったと思うのですが、
その着物に向かって口上を述べ、刀を引き抜き、着物に斬りかかっていたのでした。

ここで小袖という小道具を使わず、編み笠を使うこともあるそうです。
また、こうした演出法は、能の他の演目でも見られるのだとか。

歌舞伎であれば、型通りのゆるい動きであったとしてもアクションがあって盛り上がり、
血反吐をはいたり、「ウウウム」とうなるなどして、
敵(かたき)である憎まれ役はいかに討たれるかを工夫するところかもしれません。
が、着物であればそうもいきません。
仇討ちとはいえ、殺人には違いなく、
そうした猟奇的な流血や悲鳴や歪んだ表情などを見せることなく、
修羅場さえスマートに見せるのが、能の洗練された芸なのかもしれません。

が、見終わって、仇討ちの達成感やカタルシスはありませんでした。
そして、着物の小袖は、単なる着物にしか見えず、正直に言うと、
その布切れに刀を振り回す姿が、児戯にも等しく見えてしまったのです。

いえ、筆者に見る目がなく、イマジネーションが足りなかっただけかもしれません。
また、作品の眼目が芸能づくしの場面にこそあるのだとすれば、
仇討ちのクライマックスにはそれほど重きを置かないのかもしれません。

ツレ役である弟の牧野小次郎を演じた役者さんは、声も若く、
周りの方々に比べれば、若さが目立っていました。
もしかしたら、着物相手の立ち合いを見応えのあるものにするには、
少々、荷が勝ちすぎていたのかもしれません。

剣術であれば、たとえ相手のいない演武であったとしても、
その気合いの入った一太刀で、見る者の背筋を寒からしめることもあるでしょう。
そうした迫力があれば、あるいは着物相手の殺陣(たて)も成立するのでしょうか。

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たった1枚の着物を舞台にのせるだけで、
その象徴する人物をいきいきと浮かび上がらせることが出来る。
反対に、想像力を呼び込むことが出来なければ、
それはただの着物に過ぎず、ただの布切れに見せてしまうこととなる。
小道具を生かすのも殺すのも、演じ手次第ということなのでしょうか。

舞台に何もない。それがゆえに、イマジネーションは無限。
が、もしかしたら、舞台にセットをいろいろと作り込んだとしても、
イマジネーションの力は変わらない。
しかしながら、観客のその想像力を生かすのも殺すのも、
つまりは芸の工夫にかかっているということなのかもしれません。
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《舞台公演メモ》
(1)能「山姥」シテ:蓮元早苗、ツレ:波多野良子、野口能弘、野口琢弘、吉田祐一、石田幸雄
第10回記念・漣の会(金剛流)/2014年10月05日/矢来能楽堂
(2)能「葵上」シテ:武田友志、ツレ:坂井音隆、森常好、則久英志、内藤連
第36回・親子三代能・花影会/2014年04月20日/観世能楽堂
(3)能「放下僧」シテ:櫻間右陣、坂本昴平、森常好、亀井廣忠、古賀裕己、深田博治、藤田次郎
第17回・称名寺薪能/2014年05月06日/神奈川県横浜市・称名寺境内








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by kamishibaiya | 2017-08-24 06:26 | よんだり、みたり、きいたり | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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