「とある魔術の禁書目録(インデックス)」──“クローン人間は殺されていいのか”問題が突きつけるもの・その1

f0223055_18072850.gif「ONE PIECE」(マンガ/アニメ)(1)に「クローン兵」が登場します。
とある国の国王ヴィンスモーク・ジャッジは、科学者でもあり、
血統因子(DNAのようなもの)を共同研究して、クローン兵を開発します。

優秀な軍人の因子を植え付けて5年間培養し、
20歳の頑健な肉体をもった兵士が大量生産される。
彼らは、身体能力に長け、命令には絶対的に従順で、
死をもいとわないようにプログラムされている。
ジャッジらヴィンスモーク家の人間にとっては単なる持ち駒のひとつです。
敵からの攻撃を防ぐ“壁”に使うなど、平然と殺して使い捨てにします。

1997年、クローン羊のドリーの研究が発表され、世に衝撃を与えて以来、
「クローン」という言葉は浸透し、
SFやいろいろな作品でさんざんとりあげられてきました。
ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロさんの作品「わたしを離さないで」にも
クローンが扱われていました。
映画「スター・ウォーズ」では、「クローン・トルーパー」が有名ですね。
クローンによって生み出された大量の兵士。
ちなみに、敵対するジェダイの騎士を抹殺せよと彼らに下される指令は
「オーダー66」と呼ばれていました。
「ONE PIECE」で、ジャッジが統べる国の名が「ジェルマ66」。
何か関連があってのネーミングかもしれません。
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「とある魔術の禁書目録(インデックス)」(2)(小説/アニメ/マンガ)でも
クローンが登場していました。
こちらでは、兵士としてではなく、実験体として。
筆者は、この場面は涙なくして読めませんでした。
既読の読者には自明のことですが、作品の世界設定がやや複雑なので、
ちょっと説明してみます。(未読の方にはネタバレです。)

作品の舞台となる学園都市では、超能力やその適性がある生徒たちが集められ、
能力のレベルが査定されます。
そして、レベル0(無能力者)からレベル5(超能力者)まで、選り分けられる。
この学園都市では、各自たえず能力を高めることが推奨され、
最新科学の粋を集めた研究機関がレベルを引き上げるための研究を日々行っています。
都市の社会全体が、超能力のレベルというひとつの物差しで縛られている。

レベルの低い者は虐待こそされませんが、いわば「負け組」。
世間からは軽く見られ、それが劣等感を生んだり、居場所がないように感じたり、
自暴自棄におちいった者は「スキルアウト」という不良グループに走ったりします。
ひとつの価値観によって格差が生まれる。
そこから生じるコンプレックスと向かい合うことが、この作品シリーズ全体を通じて、
通奏低音のように流れるテーマのひとつとなっています。
勉強の出来不出来という物差しひとつで、自尊心を持ったり劣等感を持ったりする
学歴社会の写し絵のようでもあります。

その能力のピラミッドの頂点に立つのが、7人しかいない最高位のレベル5。
中でも、第一位を誇るのが、「一方通行(アクセラレータ)」と呼ばれる少年です。
あるとき、研究機関が、彼をレベル6(絶対能力者)に引き上げる方法を
巨大コンピュータによる予測演算で導き出します。
その方法とは、実戦による経験学習。
「超電磁砲(レールガン)」と128回戦い、128回彼女を殺害すれば、
一方通行(アクセラレータ)は前人未到のレベル6に進化(シフト)するというのです。

「超電磁砲(レールガン)」というのは、御坂美琴という少女の通称。
やはりレベル5で、自ら発電して電気や磁気を操る能力者です。
しかし、同じ人物を128回殺すことはもちろん不可能ですし、
そんな理由で彼女の命を奪うことなど許されるはずはないでしょう。

そこで同時期に進められていたクローン研究が結びつけられます。
薬品投与によって短期間で量産されるクローンは性能(スペック)が劣化するため、
レベル5(超能力者)の御坂美琴のクローンは、
レベル2(異能力者)か、レベル3(強能力者)程度となる。
「一方通行(アクセラレータ)」は、
その御坂美琴のクローンたち(彼女らは『妹達(シスターズ)』と呼ばれます)と、
2万回条件の異なる戦場で戦い、2万回殺害することで、レベル6に達すると試算されます。

※20000回の戦闘実験というのはたいそうな回数で、毎日休みなく1日10回の
ハードスケジュールをこなしたとしても5年4ヶ月はかかる計算です。
このあたりは設定に無理があるように思われますが、
それだけ戦闘を重ねなければ進化(シフト)はできないということでしょうか。

古代呪術の蠱毒のやり方にも似たような、これは文字通り悪魔の計画に思われるのですが、
この実験計画に加担した研究員の少女(布束砥信)は、
「たとえばガンを完治させる特効薬のメドがたったとして、
それに実験用のモルモット2万匹のデータが必要だったとしたら」
犠牲はしかたがないのだと、当時携わっていた同じ研究者たちの意識を代弁します(4)
研究者たちに、罪悪感はなかったのだと。
あくまでもクローンには人格も人権もない、人間ではないという前提です。

もっとも研究員の少女はその後、妹達(シスターズ)と接する中で、
彼女たちはモルモットなどではなく、
むしろ人間より人間らしい感性をもった存在であることに気づき、
何とか救おうと画策します。
しかし、結果、失敗に終わり、反逆者として闇の世界に落とされ、
裏で暗躍する組織のひとつに身売りされることになります。

かくて一人のエリートを生み出すための実験は、
学園都市の上層部に黙認されながら、室内で、そして野外で秘かに続けられます。
それは、勝負の上の戦死であるとはいえ、一方的な虐殺。
2万人が犠牲となる虐殺でした。

ところが、繰り返される実験が1万と30回を過ぎた頃
(つまり妹達(シスターズ)の10030人が殺された頃)、
本編の主人公である上条当麻が、
妹達(シスターズ)のひとり、10031号と遭遇します。

上条当麻は、彼女たちが実験の材料とされていることを知り、
オリジナルである御坂美琴が苦悩していることを知ります。
彼女は幼少のとき、病気治療の研究のためとだまされてDNAを提供しました。
が、実験計画に気づいた彼女は、何とか実験を阻止しようと、
研究施設を破壊するなど東奔西走するのですが、食い止めることができず、
自分の命を捨てて彼女たちを救おうとしていたのでした。
そこで上条当麻は、一方通行(アクセラレータ)と戦うことを決めます。

上条当麻は、超能力であれ魔術であれ、異能の力を打ち消してしまう
「幻想殺し(イマジンブレーカー)」という特殊な能力の持ち主。
ですが、一般的な枠組みからすれば、劣等生のレベル0(無能力者)です。
レベル0の彼が、レベル5の一方通行(アクセラレータ)を打ち破れば、
一方通行を強化するという実験の目的そのものが意味を失い、
虐殺を阻止できると考えたのです。
しかし相手は、現時点で前人未到のレベル6にいちばん近いとされる最強の能力者。
対して最弱の彼は、闘いを終えて生きて帰ることが果たしてできるのか──。
という展開になります。

妹達(シスターズ)は、感情についてのプログラムがされていないため、
表情に乏しく言葉も事務的なのですが、
他人のために骨を折ることを惜しまない親切さをもち、
捨てネコをほっておけないやさしさをもつ少女でした。
脳への学習装置(テスタメント)で世界の情報は刷り込まれていますが、
この世界を実際に見るのは初めてで、だからアニメでは、
ポカンとしたアホ面(づら)で蝶々をながめて喜んでいたり、
他人のアイスクリームを盗み食いしてトボけたりという子供っぽい茶目っ気が描かれています。
そして人から親切にされたことで紅茶(ミルクティー)に愛着をもったり、
御坂美琴に何気なく付けてもらったガチャポンの缶バッジを、
初めてもらったプレゼントと勝手に考えて大切にしたりします。
彼女は、実験体として惨殺されるときも、その缶バッジを肌身離さず身につけていたのでした。
いじましく、せつない。
上条当麻は、彼女たちのために一方通行(アクセラレータ)に立ち向かいます。

それには上条当麻の行動原理が関わっているでしょう。
彼は、組織や政治や宗派といった、いわゆる大人の事情や理屈を越えて、
目の前に困っている存在がいれば、ただ単純に助けようと関わっていく。
その結果どうなるかという計算も忖度(そんたく)もくそもありません。
困っている存在が、弱者であればなおさらです。
それが、化け物扱いされる「怪物」であれ、
「AIM拡散力場の産物うんぬん」というようなよくわからない存在であれ、
かつては命のやりとりをした敵であっても変わりません。
クローンであっても変わらない。
泣いたり笑ったり、時にはつまずいたり悩んだりする自分と同じ存在ではないか
という視点がそこにあります。
(もっとも彼が助ける存在は、なぜかみんな美少女という都合のいい設定で、
彼は美少女に囲まれるというお約束のラブコメ的な展開となります。)

妹達(シスターズ)は、番号で呼ばれる自分たちが“サンプル”であるということを
認識し、自分で自分のことを「実験動物」と呼んでいました。
器材と薬品があれば製造できる、コストでいえば単価18万円の模造品。
いくらでも取り替えが利く。
そんな自分たちを、なぜ救おうとするのかと、
妹達(シスターズ)のひとり、御坂妹(10032号)は上条当麻に問いかけます。
すると彼は、
「そんな小っせえ事情なんかどうでも良い。
おれは、世界でたった一人しかいねえお前を助けるためにここに立ってんだよ」
と言い、命を張って彼女を救おうとする。
そして御坂美琴もまた、命を捨てる覚悟で戦場に足を踏み入れる。
そんな彼らと出逢ったことで、妹達(シスターズ)は変わります。

発電系の能力をもつ彼女たちは、電波によって脳波がつながっていて、
「ミサカネットワーク」という精神リンクで結ばれています。
全員が同じ経験や記憶のデータを共有している。
が、個々に自我はあるようで、そのひとりひとりの自我に変化が生まれる。

上条当麻らの奮闘の結果、実験は中止され、妹達(シスターズ)は救われるのですが、
この事件以来、彼女たちは「もうミサカは死なない」と言うようになります。
死を安易に受け容れることを拒否するようになる。
妹達(シスターズ)のひとりである「打ち止め(ラストオーダー)」は、
その理由をこう説明します。

「ミサかは教えてもらった、ミサカはミサカの価値を教えてもらったって断言してみる。
『ミサカ』全体ではなく、『ミサカ』単体の命にも価値があるんだって、この『ミサカ』が、他の誰でもないこの『ミサカ』が死ぬ事で涙を流す人もいるんだって事を教えてもらったから…』(3)

「打ち止め(ラストオーダー)」は、培養液で生育の途中で実験計画が凍結したため、
未完成の子どもの状態で世に出てきたクローンでした。
そんな無邪気さをとどめる打ち止め(ラストオーダー)は、
「人間のように、人間のような、人間の瞳で真っ直ぐに」相手の顔を見て言ったと
ライトノベル(小説)のテキストでは描写されます(3)

命の価値とは何なのか?
経済的な価値でいえば、18万円にすぎない。
彼女にプログラムされた目的は、実験の材料として殺されることで、
それ以外の価値は認められませんでした。
けれど、死んだら涙を流してくれる人がいる──まさしくそこに彼女は、
自分がかけがえのない自分である理由、生きていく価値を見いだしたのです。

妹達(シスターズ)のひとり御坂妹(10032号)は、御坂美琴に言います。

御坂妹「ミサカたちは、殺されるために作り出されました。
 ただそれのみが存在意義(レゾンデートル)であり、生み出された理由でした。
 しかしお姉さま(御坂美琴)とあの少年(上条当麻)によってそれが失われました。
 リストラです」
御坂美琴「え?」
御坂妹「無職です。絶賛路頭に迷い中です。
 だから、ミサカにも生きることの意味を見いだせるよう、
 これからもいっしょに探すのをつきあって下さい、と、
 ミサカはせいいっぱいのわがままを言います」
御坂美琴(やや間があった後)……うん。よろしく」(4)

そして彼女たちは世界に散らばり、それぞれがせいいっぱいに生きて、
ミサカネットワークとしても活躍することになります。

その後、打ち止め(ラストオーダー)が一方通行(アクセラレータ)と出逢う展開も、
この物語のおもしろいところです。
実験台となる妹達(シスターズ)に汚い言葉を浴びせ、残忍と思われた
一方通行(アクセラレータ)の、実は心の裏の孤独と弱さを受けとめ、
打ち止め(ラストオーダー)は、彼とともに生きていく。
一方通行(アクセラレータ)は、彼女を通じて
初めて人間としてのコミュニケーションのぬくもりを知ったのだと思います。
彼は、かつては狩るための獲物であった
妹達(シスターズ)や打ち止め(ラストオーダー)の命を守るために、
自分の命を賭けて戦っていくことになります。
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人間ではないとされたクローンは、ただ機能としての価値が求められました。
妹達(シスターズ)は、実験体としての機能。
「ONE PIECE」のクローン兵は、兵士としての機能。
「わたしを離さないで」の施設の子どもたちは、臓器提供としての機能。
しかしこれはクローンに限らず、機能は私たち人間にも求められるものです。
私たちは、各自の機能によってそれぞれ役割を担い、仕事を行うことによって、
社会生活を営んでいます。
が、もしもその機能が劣っているとしたら……?

「ONE PIECE」でクローン兵を開発したヴィンスモーク・ジャッジは、
古代ギリシアのスパルタ国さながらに、軍事国家をより強大なものにするという
自分の野望のため、産まれてくる自分の子どもの血統因子を操作します。
戦いのためには余計な同情心などをもたず、
肉体的にも戦闘力に優れた超人的な機能を持たせるというもの。
その非人間的な計画を知った妻は、自ら毒薬をのんで阻止しようとします。
が、処置が早かったため、出産は無事にとり行われ、四つ子が産まれる。

そして長女と四つ子たちは成長し、並外れた運動能力を示すようになります。
ところが、四つ子のうち、三男だけは、毒薬の影響で人並みな普通の能力。
ということはつまり、人間を超えた能力をもつ兄弟の中では落ちこぼれを意味しました。

けれど彼は、人一倍のやさしさを持ち、料理が好きな少年でした。
もしも、戦闘力という一つの価値観だけでなく、他の物差しがあったなら──
たとえば、料理が上手だという才能をも認める環境だったとしたら、
彼は救われたでしょう。
たとえば私たちの身近な現実でも、
「勉強をしていい学校に入れ」という親の期待には沿わず、料理人を目指す
というような例はありがちです。
しかし父親は他の価値を認めることなく、彼を失敗作として存在すらも否定します。
父親は家長であり国家党首であり、家族も国もすべて彼の価値観に一律に縛られている。
その偏った価値観の中では、どんなに輝く個性を持っていたとしても、
クズ扱いでどこにも居場所はなく、とうとう人知れぬ牢獄の中が彼の居場所となります。

やがて三男は、チャンスに乗じて家出をし、国から亡命します。
彼を排除しようと考えていたものの、さすがに踏み切れずにいた父親にとっては、
厄介ばらいができる都合のいい家出でした。
そして三男は、第二の父親ともいうべき人物と出逢い、彼のもとで修行をして、
コックとなります。

後にその三男──ヴィンスモーク・サンジは、主人公ルフィーと出逢い、
麦わらの一味のひとりとして、世界の海を冒険することになります。
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「かなりや」という有名な童謡があります。

「唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
後ろの山に棄てましょか
いえ いえ それはかわいそう」

カナリアは、きれいな声でさえずる歌を楽しむために飼われるのであって、
歌を忘れて鳴かなくなったら──その機能が失われたとしたら、
棄ててしまおうというのです。
歌詞では、
「背戸の小藪に埋(い)けましょか(=埋めましょか)
「柳の鞭でぶちましょか」
と、まるで脅すかのように「廃棄」「生き埋め」「鞭打ち」と残酷な提案が続き、
そのたびに「いえいえ、それはかわいそう」と反論されます。
そして「象牙の舟」にのせて
「月夜の海に浮かべれば」忘れた歌を思い出すだろうと結ばれます。

これは、作詞者・西条八十が、当時、日々の生活に追われて創作に行き詰まり、
詩が書けなくなってしまった自分自身をうたったものだといいます。
カナリアも、自分の居場所を見つけることができれば、
スランプを脱して再び自分の歌を取り戻せるにちがいない。

しかしながら、舟にのせられてロマンチックな状況をこしらえてもらっても
忘れた歌を思い出せないことは、往々にしてあるものです。
上手に歌えなくなったり、声がつぶれてしまうこともあり得る。
そんなふうに機能が衰えて役目が果たせなくなった場合、
やはりカナリアは廃棄されるものなのでしょうか?
親の期待通りの機能が果たせないヴィンスモーク・サンジは棄てられるべきなのでしょうか?
クローンであったなら殺されていいものなのでしょうか?
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ある日、毎日けんめいに働き続けたロバが、
とうとう力がつきて仕事の役に立たなくなってお払い箱にされます。
年をとったために猟犬として役に立たなくなった犬が、主人から殺されそうになり
逃げてきます。
やはり年をとってネズミを穫れなくなったネコが、逃げてきます。
体力の低下や老齢化にともなうリストラです。
そこへ、殺されて危うくご馳走のチキンにされそうになったニワトリが加わり、
音楽隊を結成する。
というのが、グリム童話「ブレーメンの町の楽隊」のストーリーでした(5)
「歌を忘れたカナリアは棄ててしまえ」というわけです。

有用なものは価値があり、無用なものは価値がない。捨てて除外するべきです。
それはビジネス社会の当たり前であり、効率と利益を生むためには当然の処置です。
でなければ、組織はやっていけない。生き残っていけない。
ビジネスでは、機能が劣る、機能を為さない使えない人間は、切ることになります。
それが、効率と功利を最優先する社会の論理です。
弱肉強食の競争社会で、人や組織はサバイブしていかなければなりません。

けれどそれは、その人の存在を否定することではありません。
たまたまその仕事が要求する機能と、ウマが合わなかっただけのこと。
また、老齢や病気などの事情で機能が果たせなくなるのは、自然の摂理であり、
しかたのないこと。
他の部署で、あるいは他の組織で、また違う機能を発揮すればいい。
あるいは、価値観の違うところで、「ブレーメンの音楽隊」のように、
また新たな自分の居場所を見つければいい。

しかし私たちはしばしば、こうした効率を旨とする功利的なビジネスの論理で
社会全体を見ようとします。
それは日常の中にも浸透しています。
そしてしばしばそのひとつの価値観しか見えなくなり、そのポジションから外れると、
人格や存在まで否定されるように感じる。
また、そのポジションから外れた人の人格を否定して、無用だと決めつける。
そもそもこの論理では、人格は考えられていません。
効率化や経済性を至上命題として、もしも他の価値を認めない社会だとしたら、
人間は、役割をこなす機能だけが求められ、取り替えのきくモノ(物)となります。
人格を必要とされない、モノ(物)として扱われる。
物語の中のクローンは、もしかしたらそんなモノ(物)に近しい存在の私たち人間が、
誇張されて鏡に映しだされた姿だと思うのです。
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2016年、7月26日未明。
神奈川県相模原市の障害者施設で、入所者19人が殺害され、26人が重軽傷を負うという
いたましい事件が起きました。
犯人は、約5ヶ月前まで同じ施設に勤めていた元職員。
SNSでは屈託のない笑顔を見せている青年ですが、
大学在学中から大麻に手を出し、職場では入居者に暴力や暴言を吐いて問題を起こし、
一時は「精神性障害」を診断され、入院していた人物です。
どういうわけか彼は、
重度の障害者は死ぬべきだという考えにとりつかれていたようです。
これは、異常な彼がひき起こした異常な犯行で、
私たちとは縁がない、まったく別な世界のことのように思われます。
正当性などどこにも見い出せない。
ように思うのですが、当時、
「『障害者に安楽死を』という彼の目的は合理的」
「殺すのはダメだが、容疑者の言っていることは正直わかる」
といった声が、ネットで散見されたといいます。
必ずしも理解不能な別の世界のことではないらしい。

彼がどうしてそういう考えに至ったかはわかりません。
施設で働いていて恨みを抱くようになるきっかけとかがあったのか、どうか。
しかし彼は、施設に就職した当初から差別意識を持っていたといいます。
それがエスカレートしていき、「障害者は死んだ方がいい」と口走り、
その考えにしがみついて固執するようになっていく。

彼は、施設の利用者を殺害する計画を手紙に綴って、衆議院議長宛に直接届けます。
手紙では、障害者は周りの人を不幸にするため、
殺害することで不幸を抑えることができると主張し、そして計画を支援してくれるよう、
「日本国と世界平和の為に、何卒よろしくお願い致します」
と結んでいます。
施設周辺の住宅に「障害者なんて生きていても無駄」などと書いたチラシをばらまく。
同級生ら知人に、LINEでメッセージを一斉送信したり、電話で呼びかけ、
「彼ら(障害者)を生かすために莫大な費用がかかっています」
「俺だって殺したくないけど、誰かがやらないといけない」
などと自説を展開し、犯行に協力するよう呼びかけたりしています。
犯行計画を隠そうという周到さも、後ろめたさや罪悪感もなく、
むしろ正義を振りかざすように狂信的な歪んだ使命感にかられ、
そうした考えに依存していったように見えます。

その裏にあるのは、人の優劣を選り分けて、
優秀なもの以外の存在価値を認めないというような優性思想です。
彼の話を聞いた施設職員は、「ナチスの考えと同じだ」と非難したそうですが、
ナチスの場合は、人種によって優劣を決めつけるという、非合理的なものでした。
彼の場合は、障害者を差別して決めつける。
障害者は機能的に劣り、生産性がなく、家庭や周囲に迷惑をかけ、
苦労を負わせるだけの存在であると決めつけ、
彼らを排除すれば不幸をなくし、経済的にも負担をなくすことができるというような、
一見すると合理的にも見える優生思想だったと思われます。
そのあたりが、ネットの一部の人々の部分的な共感をよんだのでしょう。


当時、この事件は頻繁に報道され、筆者の職場の休憩時間にもTVで流れていました。
と、そのとき、雑談の流れで同僚のAさんが言いました。

「いちばんかわいそうなのは親御さんだよ。
でも、中には、この子たち、これでよかったって思う人もいるかもしれないね」

休憩中のなにげないおしゃべりの一言にムキになることはないのですが、
筆者は「そんなことないですよ」と反論して、
しかし言葉が見つからず、訳のわからないことを言って空回りしたのでした。

Aさんは、ご夫婦で仕事をしながら2人の子どもを育て上げ、
ご主人が心臓病で倒れて働けなくなってからは、ひとりで家事も仕事もきりもりしながら、
60代の今もパワフルに働いておられるお母さんです。
自分の子どもが殺されてよかったと思う親はいないでしょう。
そのことをAさんは、百も二百も承知でしょう。
しかし、母親の立場から母親の目線で、親御さんの苦労をしのんで想像したとき、
ついこんな言葉が口をついて出たのだと思います。

Aさんは、冬でも汗びっしょりで働いて、ご主人の世話も家庭のこともきっちりこなし、
毎晩、ご主人とやる焼酎の1杯を楽しみに、
腰痛やあちこちの故障に悩まされながらも基本的には健康に日々を送っておられます。
今は2人のお子さんもそれぞれ立派に家庭をもち、上のお孫さんは今度就職されるそうです。
いっしょうけんめい働いて、家庭を守り、健康に。
それでも苦労はいろいろと絶えないけれど、そこにはひとつの幸福な姿──
昔から「家内安全」「健康第一」を願ってきた庶民のひとつの理想像があるように思います。

しかし、けんめいに働きたいと思っても、働けない人がいます。
家庭を守りたいと思っても、守る家庭を築けない人もいます。
健康に生きたいと願っても、それができない人もいる。
では、働けず、家庭には負担をかけ、健康でない人には、生きる意味がないのでしょうか?
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作家の灰谷健次郎さんが、当時小学2年生のある少女との交友のことを書いています。
彼女は、出生直後の障害で、手足と言葉が不自由。
筋肉の麻痺のため、顔の表情もわかりにくい。
彼女に絵を教えていた灰谷さんは、当初、コミュニケーションのし方にとまどったそうです。
両親ともに忙しく、面倒を見ていたのはおばあさん。
おばあさんは、彼女の気持ちや表現をわかっていて、最初は通訳のような役をしてくれました。
しかし交流を重ねていくうちに、とびきりの笑顔を見せてくれたりする。
そして不自由な言葉や表情の奥にある
その鋭敏で豊かな感受性に気づくようになっていったようです。

そんなあるとき、本屋に行って絵本を選んでいたとき、ある人が言ったそうです。

「ああいう子って、なんの楽しみがあるんやろ」

こちらには聞こえないと思っていたようですが、しっかり耳に飛び込んできた。
彼女を傷つけてはいけないと思い、灰谷さんはあわてて店を出たそうです。
このときの言葉は衝撃的で、ずっと心に残ったといいます(6)

このエピソードを読んだ筆者はドキッとしてしまいました。
というのは、「何の楽しみがあるんだろう?」と心ない言葉を言った人と
同じ気持ちの幾片が、筆者の心の中にもあったからだと思います。

それから7年後の1981年、灰谷さんは「だれもしらない」(7)という絵本を書きました。
主人公は、まりこという、養護学校に通う小学6年生の女の子。
彼女も言葉と手足が不自由です。
歩くというひとつの動作にも通常の人の数倍の力が要るため、歩いているときのかっこうは、
「うんとはげしいおどりをおどっている」ように見えると描写されています。
だから、家から通学バスのバス乗り場まで200メートルの距離を40分かけて歩くことになる。
周囲の大人の中には、
「あれじゃひがくれる。」
「おぶってやればいいじゃないか。」
と言う人もいたといいます。
そしてその中に「あんな子、なにがたのしみで生きているのやろ」という人もいました。

何でもスピーディーに効率的にこなせばコストは減るし、時間の無駄をなくせる。
という、効率と損得を考える現代の風潮からすれば、これは非生産的。
たとえばおんぶをしてあげて歩けば5分もかからない道に、
毎日40分、往復だと80分も時間をかけるというのは非効率的ということになります。
けれど物語では、この非生産的で非効率的な、たった200メートルの道行きの豊かさが、
きらきらとまぶしいように描かれます。

途中、モーニングサービスの看板を掲げる喫茶店のお姉さんと挨拶を交わします。
まりこの声は「あーあー」としか聞こえないけれど、お姉さんはちゃんとわかっていて、
「おはよう」を言って見送ってくれます。
仕出し屋のネコのクロと挨拶を交わし、庭の手入れをしているはるみおばさんと挨拶する。
海の見える風景を楽しみ、咲いているマツバボタンの自然の神秘さに触れ、
木にとまっているハチと、言葉は交わさないけれど会話する。
他の子どもたちはハチを突いて刺されそうになりますが、
彼女は刺されないような知恵をもっていて、ハチと友達になります。

普通なら、何かに追い立てられるようにせかせかと行き過ぎるだけの通学路でしょう。
けれど、200メートルのその道に、これだけ豊かな楽しみがある。
そんな豊かな楽しみを発見できる感性を、まりこは持っている。
これは、「ああいう子って、なんの楽しみがあるんやろ」という言葉への答え
──アンサーソングとしての物語でもあると思います。

明治の時代、文学者・山路愛山が言いました。
文学は、社会に役立てるための事業であり、人生に相渉るものでなければ意味がない。
ここで「人生」という言葉は、「人世」──世の中とか世間という意味で使われています。
世の中に役立つ情報や、世間で認められるための教養、出世術、世渡り術、教訓話やハウツーなど、
文学は、世の中を作ったり渡っていくための実学として機能しなければならないというのです。

これに対して、同じ文学者・北村透谷が噛みつきました。
「人生に相渉るとは何の謂(いい)ぞ」
建築などの実学と違って、文学は霊魂の建築を打ち立てようとするものである。
高さを誇る壮大な塔の建築は人々の耳目を驚かせるが、こちらは目に見えない。
すぐに有形の結果が表れるとか、利益があるとか、損得に役立つというものではない。
けれど、おおいに世界を震わせることもある。
──というのです(8)

たとえば松尾芭蕉の句。
「名月や池をめぐりて夜もすがら」
彼がこの句を吟じながら、三回も四回も池の周りをめぐるとき。
そのとき彼は「功名」「利達」「人生に相渉る事業」から離れる。
物理世界の「肉」からも脱して、「美妙なる自然に進め入らしめ」て、
「逍遥遊するを楽しむ」自由の境地に至るといいます。
それが「人世」ではない「人生」に奥深さと豊かさを与えてくれる。
そうした視点にこそ、文学の意味があるのではないか。

まりこは、俳句を作ったわけでも、文学をしていたわけでもありません。
けれど、彼女が歩いた200メートルの道のりは、
芭蕉が夜もすがら歩いた池の周りの道のりに似ているように思います。
スピードに流されることなく、時には立ち止まり、
自然であれ人であれ、その対象と正面から全身を傾けて向き合って、
世間の物差しから離れ、素直な心の視点からながめたとき、
何の変哲もないただの小径の道のりにいろいろな発見があり、豊かなものが見えてくる。

そうした視点──つまり魂の視点から見たとき、
障害者の方たちは、むしろ高いステージにおられるように思われます。

たとえば乙武洋匡さんのように「五体不満足」な障害を持っていても、
人並み以上に働いておられる方は、大勢いらっしゃいます。
手足や舌や呼吸器などの筋肉の力が衰えるALS(筋萎縮性側索硬化症)であっても、
会社を起業して社長として活躍している方もおられます。
筆者の職場にも、会社や持ち場は違うのですが、軽度の知的障害の方がいて、
しっかり元気に働いておられます。

けれど、障害によっては働くことができない方がおられます。
家庭を築くというよりは家族の庇護を一方的に受けざるを得ない方もおられます。
有用か無用か、生産的か非生産的かという世間のひとつの物差しで見れば、
低いと見られるかもしれません。
しかし、人間として、魂という物差しで見たなら、けっして低いとは言えないでしょう。
はかりしれない価値がある。
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精神科医であるヴィクトル・フランクルは、
生命の意味──その価値の実現には、3つのし方があるといいます。

1つは、「創造的価値」
仕事や家庭で働くなどの活動を行うことによって、何かを作ったり、やり遂げること。
それは職種などに関係なく、
たとえば、人がただ素朴に、自分の仕事を果たし、家事を果たすとしたら、
それがどんなに「ささやかな」ものだとしても、
偉大ではあるけれど良心の欠けた政治家や、
患者の生命を預かるという責任をじゅうぶんに感じていない外科医などに比べて、
高く評価されるだろうと説明されます(9)

2つめは、「体験価値」
たとえばライブで音楽を聴いて心をふるわせたり、空いっぱいの夕焼けを見て感動するなど、
見たり聴いたり味わったり感じたりという、芸術や美やいろいろな何かを享受する体験も、
生きていく価値のあるものだといいます。

そして3つめは、「態度価値」
自分にもたらされた運命を受けとめ、一歩を踏み出そうとすること。

運命というのは避けられないもので、そこには自分の道を選びとる自由など
何もないように思われます。
時には、災害や戦争や事故や病気など、
人間の力ではどうにもならない運命と直面することもあるでしょう。
ところがフランクルは、そうした局面に際しても、
運命とどう向き合うかという選択肢があるというのです。
諦めて意志を失い消沈して、無気力のまま、運命に流されるのもひとつの道。
運命に対して、ただ愚痴と呪詛の言葉を吐き続けるのもひとつの道。
一方、運命を受け容れ、苦悩を引き受けて、それでも自分の人間性を失うまいとし、
前を向こうとする態度をとるという道もある。
そういう道を選びとる決断をするという内的自由があるというんですね。
そこにおいては、苦悩はその人を変える──人間的な成熟を促す、価値あるものとなる。

上記のことは、「夜と霧」(10)にも書かれています。
フランクルは第二次大戦中、ユダヤ人としてナチスに両親と妻を殺され、
自らもアウシュビッツの強制収容所で死と隣り合わせの過酷な日々を送ったその体験を
「夜と霧」という著作に綴りました。
虐殺が日常的に行われ、助かる可能性も見えない収容所の中で、
多くの人々がただ自己保持に走り、人間性を崩壊させていく。
けれど「生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性」を信じ、
「勇気と誇りと他人への愛」を持ち続けた──
そういう態度を選択した人々がいたのだといいます。

戦後、収容所から生還し、精神科医として、また臨床医としても働いたフランクルは、
この3つの価値について、ひとりの患者の例をひいて説明しています。
重篤な脊髄損傷のために入院を余儀なくされた青年。
彼はもう長い間、身体麻痺のために仕事が出来なかった──「創造的価値」を実現することが
出来なかったといいます。
けれど彼には、「体験価値」の扉が開かれていた。
彼は、他の患者たちとおしゃべりをすることで、彼らを慰め元気づけ、
本を読み、ラジオで音楽を楽しんだそうです。
ところが、麻痺はだんだんと進行し、ラジオのレシーバーをかけることも難しくなり、
本を持つことさえ出来なくなっていった。
「創造的価値」どころか「体験価値」の機会さえ奪われていきました。
しかし身体を動かせない彼は「態度価値」へと向かい、
最後まで「勇気と誇りと他人への愛」を失わなかったそうです。
自分でも予見していた最期の日の前日──死に臨んでいたまさにそのとき、
ハードスケジュールの当直の医師が夜中にわざわざ起きて注射を行うという手間を慮って、
時間をずらして注射を行うように頼むというような思いやりを忘れなかったといいます(9)

さらにまたひとりの患者の例。
その女性は簿記係として有能で仕事に励み、つまり「創造的価値」を実現していました。
が、職務の忙しさの中で、自分自身を見失っているようにも感じていた。
その後彼女は重度の肺結核にかかり、治る見込みもなく、死に直面します。
それは「態度価値」の選択と直面することを意味しました。
そして彼女は手紙にこう記します。
「わたしを苦しめ、かりたて、追いたててきた死の不安を克服しようとの努力は、これはとても表現できないほどのものだったが、何十冊ものりっぱな貸借対照表よりも価値があったようにおもわれます。」
「態度価値」によって彼女は、それまで以上により豊かな価値に気づき、より豊かな人生を獲得したのです(11)

どんな環境にあっても、どんな境遇に陥っても、
機能を奪われても、機能が劣っていても、身動きひとつ出来なくなったとしても、
生きていく意味があり、生きていく価値があり、それは実現が可能だというわけです。

そしてフランクルは、障害や老齢のために知的な活動や能力が低く、
意志や意識もわからないように見える場合であっても、意味があるといいます。
彼(彼女)の周りに家族や人がいる。
その愛という関係性の中で、彼(彼女)は、
「取り替えがきかず、補充も出来ない」かけがえのない存在であるというのです。

フランクルは、その精神科医としての経験から、たとえば知的に遅れた子どもほど、
その無力さゆえに、親から愛され、慈しまれている場合が多いといいます。
そして不治の病気のままに生まれてきた子どもの母親の手紙を引用しています。
わが子に栄養剤や薬を与えるため、その若い母親は昼も夜も働きづくめでしたが、
その子は、歩くことも口をきくこともできませんでした。
しかし彼女はこう綴ります。
「…私が娘の痩せた小さな手を私の頸にからませて『ママのこと好き?』と聞くと、娘は体を押しつけ、笑いかけて、小さな手で不器用に私の顔をなで廻しました。
そんな時ほど仕合わせなことはありませんでした。」(12)

これに対して「きれいごとだ」とか「感傷だ」という反論もあるかもしれません。
確かにたとえば、精神遅滞の子が30代となり、その世話と仕事に老齢となった親が疲れ果て、
「こんな子は生まなければよかった」とつぶやいたというようなエピソードを
伝え聞いたことがあります。
事実かどうかはわかりませんが、そうした可能性も考えられる現実があるのかもしれません。
しかし、だとしても、それがつい口に出た愚痴だったのか、本心であるのか、
その気持ちがずっと変わらなかったのかどうかは、本人でなければわからないでしょう。
そして何より、「そんな子は生まれなければよかった」などと他人が口を出していい問題では
けっしてないはずです。
生きる価値があるかないかは、他人が判断を下す問題ではけっしてありません。

「健康で働きのある人間の分け前まで食べつくしてしまう」から、
「非生産的な」治癒の見込みのない病人や障害者は処分して、
経済的にも、共同体の負担を軽くしなければならない、というような論は、
1950年代のウィーンにもあったようです。
当時、ラジオ講演をしていたフランクルはこうした論を否定して、

「共同体にとっての有用性が人間存在を測ることの許される唯一の尺度では断じてない」

と、力を込めて語っています(12)
有用か無用か、生産的か非生産的かという、一つの物差しではかることはけっして出来ない。

相模原市の障害者施設の事件をひき起こした青年は、施設職員として働いた4年のあいだ、
入所者とずっと接していたはずです。
彼は、仕事をただ賃金を得るための手段として、作業を消化しただけだったのでしょうか?
入所者は、作業を施す対象に過ぎなかったのでしょうか?
家族や介助をする人たちの苦労を目の前に見て、計画を思いついたというのでしょうか?
──わかりません。

しかし、もしも、有用か無用かという物差しではない別な見方をしていたら──。
もしも、自分より上か下か、出来るか出来ないか、勝ちか負けか、使えるか使えないか……、
などというような世間での物差しで入所者を見下し、
相手にしないというような差別の見方をやめていたとしたら──。
もしも、素直な目線で入所者たちと接していたなら、
入所者たちの人間性に気づき、その価値に触れることが出来たかもしれません。
手足も言葉も表情も不自由なまりこは、「だれもしらない」けれど、あれだけ豊かな人間性を持っていたのです。

そして、たとえ入所者の家族が不平や愚痴を言い、面会になかなか訪れなかったとしても、
彼(彼女)が死んだら必ず涙を流すだろうということに気づくことが出来たかもしれません。
彼(彼女)は、家族や周囲の人にとって、
「取り替えがきかず、補充も出来ない」かけがえのない存在であるのです。
どんなに高邁な持論を振りかざそうとも、その涙を他人が踏みにじっていいわけがありません。

死ぬことを運命づけられていたクローンであるミサカ妹達(シスターズ)は、
まさに、自分が死ぬことで涙を流す人もいるということを教えてもらうことで、
命の価値に気づき、前向きな一歩を踏み出したのでした。

筆者は、病気の後遺症で下半身の麻痺が抜けず、今も職場に復帰出来ていません。
また、「歌を忘れたカナリア」で、ここのところ紙芝居も書いてなく、
「創造的価値」は見いだせません。
「体験価値」の機会は多いのですがあやふやで、「態度価値」もくじけています。
しかし、こんな筆者でも、死んだら涙を流してくれる人がいるだろうということに
改めて気づきました。
何とか一歩を踏み出そうと、今、思っています。

命の価値とは何なのか?
おれの生きている意味は何なのか?
それは、クローンに限らず、
私たち人間に突きつけられている問いかけでもあるのだと思います。
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《参考・引用文献&アニメ》
(1)尾田栄一郎「ONE PIECE・83巻」集英社
(2)鎌池和馬「とある魔術の禁書目録(インデックス)・3」・電撃文庫
(3)鎌池和馬「とある魔術の禁書目録(インデックス)・5」・電撃文庫
(4)アニメ「とある科学の超電磁砲(レールガン)S」原作:鎌池和馬+冬川基、監督:長井龍雪、J.C.STAFF
(5)高橋健二訳「完訳グリム童話集・1」小学館
(6)灰谷健次郎「子どもに教わったこと」NHK出版
(7)灰谷健次郎作、長谷川集平絵「だれもしらない」あかね書房
(8)北村透谷、桶谷秀昭編「人生に相渉るとは何の謂ぞ」旺文社文庫
(9)V.E.フランクル、霜山徳爾訳「死と愛」〜「フランクル著作集・2」みすず書房
(10)V.E.フランクル、霜山徳爾訳「夜と霧」みすず書房
(11)V.E.フランクル、真行寺功訳「苦悩の存在論」新泉社
(12)V.E.フランクル、宮本忠雄訳「時代精神の病理学」みすず書房




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by kamishibaiya | 2017-10-26 19:10 | よんだり、みたり、きいたり | Comments(0)

「ポレポレ」は、スワヒリ語で「のんびり、ゆっくり」という意味です。紙芝居屋のそんな日々。


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