カテゴリ:紙芝居/脚本を書く( 12 )

f0223055_13311464.gifフロド・バギンズは、行って帰ってきて、そして…


さて、「行って帰ってくる」物語を追ってきたこの稿も、
初めの物語に「帰って」筆を置くことにしましょう。

「指輪物語」(1)です。

主人公フロド・バギンズは、旅に「行って」、
そうして世界を救うというとてつもない大仕事をやりとげた後、
仲間とともに故郷のホビット庄(村)に「帰って」きます。

しかし、彼らを待っていたのは、故郷の変わり果てた姿でした。
木は切り倒され、田園はつぶされ、煙突の煙が空を汚し、工場の排水が川を濁らせる。
温和で人のいい住人たちが、功利的な権力と暴力で支配され、
言われるがままに不幸な暮らしを強いられている。

結末を言ってしまえば(スイマセン、ネタバレです)、
彼ら自身の力で、その一派を黒幕ごと一掃して平和を取り戻すことになります。

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ですが、冒険から「帰って」きてからもなぜ、わざわざ、
この一挿話が付け加えられたのでしょうか?

黒幕は、かつては高名な魔法使いとして知られたサルマン。
彼は悪へ寝返って、フロドやその友人ガンダルフたちを窮地に陥れますが、
結局破れ、堕落し、零落し、今はせいぜいゴロツキどもを手なずけることしか出来ません。
全世界を震撼させたボスキャラ・冥王サウロンにくらべれば、チンピラです。

フロドたちは、大敵・サウロンを相手に渡り合い、世界を救ったのです。
そんな大きな山場を乗り越えて「帰って」きたところへ、
チンピラ相手のエピソードを、小さなコブのようにくっつけるのは蛇足にも思われます。


作者トールキンは、「著者ことわりがき」の中で、物語は「寓意」を意図しているわけではなく、
読者に自由な読み方をしてほしいと述べています。
そしてこの一挿話「ホビット庄の掃蕩」の章もまた、
20世紀執筆当時のイギリスの状況を皮肉った寓話でも何でもないと釘を刺し、
「これは話の構想の中では重要な部分であり、最初から見通しが立てられていた。」
と、わざわざ「ことわりがき」しているのです(1)

筆者は、ここにトールキンのファンタジーに対する想いが見えるような気がしてなりません。
フロドが故郷の日常から、冒険という旅へ「行って帰ってくる」ことは、
ちょうど読者が彼とともに、現実世界からファンタジーの世界へ「行って帰ってくる」ことと
重ねられているのではないでしょうか。

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読者とともに冒険から「帰って」きたフロドたちにとっての現実世界は、故郷のホビット庄です。
彼らは、そのホビット庄の現実問題に直面することになる。
そして目の前のそこに今ある現実に立ち向かい、現実世界をよりよいものに変えようとする。
もしも、冒険へと旅立つ以前の彼らだったら、他の住人と同じように、
チンピラの支配にただ忍従するだけだったかもしれません。

彼らにとって友人であり導き手であり、そして大いなる援助者であるガンダルフは、このとき、手を貸そうとしませんでした。
彼は、一行とともに「帰って」きます。
が、途中で道を分ち、ホビット庄に顔を見せなかったのです。
しかし、彼はホビット庄の惨状を予見していたのでしょう、
別れ際にサルマンの名を出して注意を促してから、こう言います。
「ホビット庄のことはお前さんたちが自分で解決しなければならぬ。それこそお前さんたちが今まで仕込まれてきたことなのじゃ。」
そしてフロドたちは、成長した、実に大きくなったと言い、
「お前さんたちはだいじょうぶうまくやってのけるじゃろう。」
そう言葉を言い置いて、馬を駆って風のように立ち去ります(1)
そしてその言葉の通り、フロドたちはやってのけたのでした。

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「帰って」きたフロドたちは、別に魔法を使えるようになったというわけではありません。
技を体得したとか、何か目に見えるようなパワーを得たというわけでもありません。
からだは小さいホビット族のまんまです。
幾多の戦いの場数を経て、戦いに対する経験値は上がったかもしれませんが、
戦闘力がアップしたというわけではなさそうです。

けれど、彼らは「仕込まれ」た。
「アスケシス」の旅を乗り越えることで、まさしく彼らは「仕込まれ」たのだと思います。

脅かしや暴力にひるまず、屈することなく、知恵を使い、仲間に呼びかけ、仲間の力を結集させ、
そうしてゴロツキどもを一掃する。

その胆力。その思慮深さ。その意志の強さ、大きさ。
それらは、もしかしたら彼らの生来の資質であったのかもしれません。
しかし、何度もこころ折られ、嘆息し、くじけそうになった「アスケシス(精神訓練)」を通じて
「仕込まれ」、資質を大きく成長させた。
彼らはガンダルフの言っていた通り、成長し、大きくなったのです。

これから先、彼らの現実に災難や困難がふりかかって来たとしても、
それらは道を照らす灯となるに違いありません。

ちょうどバスチアンが「生命(いのち)の水」を浴びたときに感じた「生きる悦び、自分自身であることの悦び」が、
その後年老いてからも、人生で最も困難な時期にさえ、彼をほほえませ、
そして周囲の人々を慰めた、と語られていたように(2)

そして彼らといっしょに旅を経験した読者もまた、現実に立ち向かおうとする彼らの勇気の一粒をもらうのではないでしょうか。

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仲間のサムが、旅の途中でエルフ(妖精)の奥方からプレゼントにもらった土(粉末)は
印象的です。
中には、種子(たね)がひとつ入っていました。

木を切り倒され、荒れはてたホビット庄に、サムはその土をまき、種子をまきます。
すると後に、緑は豊かに育ち、「マルローン樹」といわれるファンタジーの森にしか生えない樹が、
美しく神秘的な枝を茂らせることになったといいます。

もしかしたらトールキンは、「マルローン樹」の種子が、
読者の(そしてもしかしたら作者自身の)現実世界にもまかれ、
葉を繁らせることをひそかに願ったのではないでしょうか。

その実は食べられるものではないらしく、腹の足しになったわけではないらしい。
しかつめらしい教訓や知識や情報や何かの役に立つものでもないらしい。
ましてや、経済や産業の利益につながるわけでもないらしい。
しかし、その美しさを愛でるために、近隣の村や、遠くの方からも人々がやってきたといいます。

その木陰は時に、畑の耕作に疲れた人々が腰を下ろして安らぐ憩いの場所となったかもしれません。
激しい雨のときには雨宿りの場となり、
酷暑のときには、厳しい陽射しから身を守るための日陰を提供してくれたかもしれません。
村にそびえ立つその姿は、道に迷う旅人にとっての目印しとなったかもしれません。

ひょっとしたら、宮沢賢治が遺した「 虔十公園林」(3)のように、
その根元で子どもたちが夢中で遊んだかもしれません。

そしてたぶん、
……いえ、きっと、その木陰は緑の風を運び、
バスチアンがファンタージエン国から持ち帰った「生命の水」のように、
この世界をいきいきとさせた。
「人生って悪くないかもしれない」と思わせてくれるような、
そんなふうな木陰だったのではないかと思うのです。

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紙芝居の扉を開けて絵が見えたとき。
演じ手が口を開いて物語が始まるとき。
そこに現出する世界も、ここではない世界──異界です。

それは、「ファンタージエン国」、「ナルニア国」、「第二世界」と、呼び名はさまざまですが、
魔女ややまんばやかいじゅうたちがすんでいる世界。
つまりは、わたしたちや子どもたちの心の現実のずっと奥底、
10フィート以上も深く根っこをもつ世界。

時に恐ろしく不安に満ちていて、時には死の世界にさえ通じていたりする。
楽しいだけでなく、怒りやかなしみにも満ちている。
そして、だからこそおもしろく魅力的な世界です。

物語の主人公は、成長する子どもたちが母のもとから旅立ち「行って帰ってくる」ように、
母なるものから切り離され、旅立ち、その異世界へ「行って帰ってくる」。

紙芝居を作るとき、わたしたちもまた、その世界へ「行って帰ってくる」のでしょう。
そして、紙芝居を演じたり、みたりするとき、
演じ手や観客の子どもたちは、主人公といっしょに、そこへ「行って」、そうして「帰ってくる」。

それは、ただ、遊ぶだけです。
が、しかし、そうしてただ遊び興じて帰ってきたとき、子どもたちの手には、
サムが持ち帰ったような樹の種子が──
どんなにつまらない小さなものでも、何かの種子が、握られているのだと思います。
また、そうであればいいなあと思います。




《引用・参考文献》
(1)J・R・R・トールキン、瀬田貞二・田中明子訳「指輪物語」評論社
(2)ミヒャエル・エンデ、上田真而子・佐藤真理子訳「はてしない物語」岩波書店
(3)宮沢賢治「虔十公園林」〜「宮沢賢治全集6」ちくま文庫・所収
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f0223055_1544921.gifバスチアン・バルタザール・ブックスは、
行って帰ってくる・その2




「はてしない物語」(1)は、
多くの昔話やよくできた作品と同じように、
“通りいっぺんの寓意を読み取ろうとするような解釈”を拒むところがあります。
“解釈のための解釈 ”ではとらえきれない豊饒さがある。

たとえば、物語には、その果てしなさを表すような二匹のへび
──相手の尾をそれぞれかみながら輪になってつながるへびが登場します。
それはこの「はてしない物語」という本の表紙にも描かれているものでした。
これは、昔から錬金術などに伝えられる“ウロボロス”で、
ユング派の精神分析では、未分化なカオス状態という象徴の意味が与えられているものです。

が、そうした解釈を無理矢理にあてはめようとしても、あまり意味はないのではないでしょうか。

しかし、“アイゥオーラおばさま”という登場人物に出会うとき、
わたしたちは、あの母なるもの──グレートマザーのひとつの姿を見ることになります。

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「アイゥオーラ」という名前は、イタリア語で「花壇」のことなのだそうです。
彼女の体からは葉や花が咲き乱れ果実が成長し、
それが帽子の飾りとなり、花柄の模様となって服を彩ります。
そして彼女が「特別に骨をおって用意した」そのみずみずしい果実が、
バスチアンの望むままに彼の飢えと渇きを癒してくれます。

いわば「いい母親」としてのお菓子の家。
とびきりの理想的なお菓子の家ですね。

母親の体の血液が実は母乳であり、赤ん坊の糧(かて)となるように、
バスチアンは、アイゥオーラおばさまの体──つまりお菓子の家を食べる。
そして、食べることで、癒される。

彼女は、バスチアンのこれまでの道のりを肯定し……、というより、
彼の存在自体を肯定し、受けとめてくれる。
すべての価値観を見失い、傷ついたバスチアンには、
その存在をあるがままに受けいれてくれる「絶対的信頼感」を得ること、
その母なるものの抱擁を確かめることが必要だったんですね。

バスチアンは、幼児の頃に退行するようにして、アイゥオーラおばさまのもとで過ごします。
それは、バスチアンの今は亡き母親の面影をたどり、その与えてくれた愛情を、
そして彼の中にある母性を今一度確かめることでもあったでしょう。

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その家は「変わる家」
家自体も形を変えるのですが、そこで過ごす人間も「変わる」
──変容させるというのがおもしろいと思います。

ヘンゼルとグレーテルが訪ねた魔女のお菓子の家は、
彼らをその甘さの中に閉じ込めようとするものです。
つまり、成長や変容を拒む。
いわば「変わらせない家」。
もっとも、そうして魔女が彼らに与えた攻撃と試練が、実は彼らを結果的に
「変えて」いくことになるのですが。

一方、アイゥオーラおばさまの「変わる家」(=変わらせる家)は、
倉橋惣三が説いた通りの甘み──子を思う母親のこころそのものをバスチアンに与えます。
そうして彼が愛に満たされたとき、バスチアンは自分の“ほんとうの望み”が何であるかに
思い至ります。

彼の“ほんとうの望み”とは、自分が誰かから愛されることではなく、
自分から誰かを愛するということ。
それはアイゥオーラおばさまから愛を受け取らなければ、気づけなかったことかもしれません。
そうして彼は、自ら進んでお菓子の家──母なるものの元から旅立っていく。

実際、子どもたちは愛情の欠けた不安定な状態ではなかなか自立に踏み切れません。
けれど、じゅうぶんな愛情に満たされたとき、
ごく自然に自立へのステップへと足を踏み出していくものなのでしょう。
安全安心な港が築かれてはじめて、荒れる外海をも目指して船が出航出来るように。
成長する果実が、時が熟した時、ごく自然に木の枝から離れ落ちていくように。

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バスチアンのその旅立ちの朝、アイゥオーラおばさまは、
実や花だけでなく葉っぱすらもすっかり落として、枯れ木のように見えたと語られます。
その時、彼女は目を閉じたまま、無言であったところを見ると、
もしかしたらほんとうに枯れていた──死んでいたのかもしれません。
献身的なその愛情は感動的です。
もしかしたら彼女は命を賭してバスチアンに愛を与えた。

しかし、“母なるもの”──死と再生のはたらきを持つグレートマザーである彼女は、
またいつか、かたちを変えてよみがえり、バスチアンの前に現れるのではないでしょうか。

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ファンタージエン国へと「行った」バスチアンが人間世界に「帰る」ためには、
最後の、そしてほんとうの望みをみつけなければなりませんでした。
それは、誰かを愛すること。
言うことは簡単ですが、
しかしそれは、一般的に愛するというような抽象的、空想的なことではなく、
現実として具体的に実践する愛でなくてはならない。

しかし現実を生きることを忘れ、現実の記憶をなくし、
とうとう両親の記憶さえ失った彼には、誰を愛するかさえ答えることができなくなります。

ファンタージエンという国土は、人間が眠っている最中に見て、
けれど忘れてしまった夢が積み重なったその基盤の上にあるのだといいます。
なるほど、ファンタジーというのは、そういうものなのかもしれません。

無意識の中に堆積した夢のかけらの上に築かれる物語。
バスチアンは、その堆積層の地中深く、穴を穿った採掘場で、
自分の失った記憶の手がかりとなる絵を探し、掘り起こすことになります。

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「空想は現実に十フィート(=約3m)も根をおろしてこそ、はじめて意味をもつ」
と、絵本作家センダックは語っていました(2)

バスチアンが降りた坑道は、10フィートよりもはるかに深かったかもしれませんね。
けれど、確かにそこは現実の地下10フィートの根っことつながっている。
光の届かない坑道の真っ暗闇の中での手探りの作業は、
自分のこころの深層の奥底を探る作業であったのでしょう。

わずかな物音でも、繊細な夢の絵の雲母は壊れてしまう。
そのため、バスチアンの採掘の師となる坑夫ヨルは、大きな声を出しません。
むしろ沈黙によって、バスチアンを教え導く。

永遠の冬であるその場所はしんと静かで、その作業は、内的な瞑想に似ているようにも思われます。
来る日も来る日も、地道で、辛抱強さを必要とする、孤独な作業。
そこで飲むスープは身体をあたためてくれましたが、
その塩からさは、涙と汗に似ていたと語られます。


そうしてとうとうバスチアンは、1枚の絵を発掘する。
それは、「自分を最も愛してくれる」父親の絵でした。
ちょうどマックスが、「自分を最も愛してくれるだれかさん」──母親の作った夕食の匂いに導かれ、現実へと帰ってきたように(「かいじゅうたちがいるところ」(3))、
バスチアンにとっては、その絵が、現実の世界へ「帰ってくる」ための道しるべとなったわけです。

これでやっと帰ることが出来る。
そう思われたとき、バスチアンが作り出した不幸な生きものが、絵をこなごなにしてしまいます。
すべてが無に帰す。
自分の名の記憶さえ、失ってしまう。
絶対的な絶望。
そのとき、現われ、彼を救ったのは、かつての友。
──バスチアンが不信と嫉妬のために剣で胸を貫いた、アトレーユでした。

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そこでバスチアンが、「アウリン」というメダルを手放したとき、
帰るための道が開かれることになります。

「アウリン」は、バスチアンが幼ごころの君から託された、
この国を統べるための名代のしるしとも言うべき宝物で、その裏には
「汝の 欲する ことを なせ」
と刻まれていたものでした。

灰色の現実の中で絶望にこころを縮ませ、こわばらせていたバスチアンにとって、
自分には「欲することを為す」自由があること、
その可能性を信じることは大きなよろこびであり、大きな救いとなりました。

ファンタージエン国では、すべてが可能でした。
灰色の現実の中で自分の可能性を信じられず、可能性の枯渇の中で絶望に陥っていた彼に、
アウリンは可能性をもたらし、気づかせ、生気を与えてくれる。
可能性を得た彼は、しかし今度は、その大きな可能性の中で自己を見失ってしまったのです。

拡大された可能性の中でさまよっていたバスチアンは、自己自身を振り返り、
自己自身へと戻らなければなりませんでした。
そして自己の深層を掘り起こすことで、“ほんとうの”具体的な望みにたどりつく。

(※このあたりのバスチアンの心理的な状況は、
哲学者キルケゴールが、その著書「死にいたる病」(4)の中で
「可能性」と「必然性」について説いた箇所によく言い表されていると思います。)

帰る道への扉が、実は最初からバスチアンの胸にぶら下がっていたというのも、
おもしろいところですね。
最初から、自分自身が持っていた。

「内面に向かって(道を)求めるべきで、外面に向かって散漫になってはいけない」
と説いたブッダの言葉に通じるところがあるかもしれません(5)
あるいは、
「照顧脚下(しょうこきゃっか)」(足元をよく見よ)
という禅の言葉。
道は、遠く外に求めてもあるものではなく、自分のすぐ足元にあるよ、
ということなのだそうです(6)

しかし、その気づきに至るためには、失敗を重ねて試行錯誤する、
遠く外をさまよう「アスケシス」の旅が必要だったのでしょう。

この世界の根源的なパワーをもつ、“命の綱”ともいえるお宝、アウリン。
けっして失うまいと大事に持っていたその宝を手放すことこそ、
実は道を開く鍵だったというあたりも、どこか禅問答を思わせるところがある気がします。

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そしてさらに、アトレーユの友情に救われ、
バスチアンは「生命(いのち)の水」を飲むことができます。
旅は孤独でもありましたが、一人ではなかった。
人々に教えられ、導かれ、そして助けられて「生命の水」にたどり着いたわけです。

「生命の水」たちは、大きな泉として高く低く噴き出しながら、声を上げてこう言います。

「われら、生命の水!
己(おの)が内より ほとばしり出る泉…」
(1)

アト・ド・フリース著「イメージ・シンボル事典」(7)によると、
「泉(fountain)」は、異界から湧き出るものとされ、
そのイメージは、「死」「誕生」「再生」などと関連をもつとされます。

そんな生命の水を、バスチアンは全身に浴び、浸かる。
その描写は、「流」という漢字そのままに、橋のたもとから流された川の水の中で、
あるいは羊水の中で、「あの世」に行った魂が、死と再生を経験するさまに似ています。

頭部に水を降り注いで行われる「洗礼」というキリスト教の儀式は、
全身で水に浸かるのがもともとのやり方で、
これは「再生」を意味するともいわれます。

生命の水に洗われて魂は「この世」によみがえる。
生まれ変わる。
そうしてバスチアンは「帰って」きます。

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さて、すると、現実の世界が一変します。
具体的には何も変わってないのですが、生まれ変わったバスチアンの目からは、
すべてがいきいきとしているように見えてくる。

それは「ムーリーフォック(mooreeffoc)」効果でもあるでしょう。
何がいちばん大切なのかを知り、現実に立ち向かう勇気を知った彼にとって、
この世界は奥深く豊かに見えてくる。
「アスケシス」をやりとげた彼は、無彩色に、灰色に見えていた現実が、
実は豊かな彩りを持っていたことを知るわけです。

バスチアンは「生命の水」を浴びたとき、父親にも飲ませてあげようと両手にすくいました。
が、途中でこぼしてしまいます。

そういえばグリム童話に「命の水」(8)という一編があります。
瀕死の病気に苦しむ王様である父親に飲ませるために、末っ子の王子が苦労を重ねて
「命の水」を持ち帰るという物語です。

バスチアンは父親と再会を果たします。
バスチアンは、自分がいなくなって父親はよろこんでいるかもしれないくらいだと
言っていましたが、とんでもない。

バスチアンが行方不明となったあいだ(現実では一晩)じゅう、
彼は血眼になって捜し歩いていたのでした。
彼は、バスチアンの母親である妻と死別したことで、その悲嘆から抜け出せずに、
息子への関心をじゅうぶんに注げなかったのでした。
息子を失ったらと思う彼の気持ちは、いかばかりだったでしょう。

そしてバスチアンは、たぶん生まれて初めて、父親の目に涙が宿っているのを目にします。
そのときです。
途中でこぼしてしまったと思っていた「生命の水」を実は持ち帰っていたこと、
実は飲ませることが出来たんだということを確信するのです。

確かに彼は、「生命の水」を持って帰っていた。
グリム童話の父親王は、結局、息子が持ち帰った「命の水」を飲んで元気になりました。
バスチアンの父親もまた、生きる元気を取り戻すんですね。

そう。
異界へ「行って帰ってくる」こと。
「死」と「再生」を体験することは、おとなに成長するための試練であり、
それは時に、自分の中にある「生命の水」に気づくこと。
その日常の現実では見えにくい生命の“いきいきしさ”を、
こちら側の世界へ持ち帰ることであるのかもしれません。

それが、この世界をいきいきとさせる。
それは、現実に硬直したこの世界や、あるいは父親、あるいは自分自身を解きほぐし、
救うことでもあるのだと思います。

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《引用・参考文献》
(1)ミヒャエル・エンデ、上田真而子・佐藤真理子訳「はてしない物語」岩波書店
(2)ナット・ヘントフ「かいじゅうたちにかこまれて」~イーゴフ・スタブス・アシュレイ編、猪熊葉子・清水真砂子・渡辺茂男訳「オンリー・コネクト」岩波書店・所収
(3)モーリス・センダック、神宮輝夫訳「かいじゅうたちのいるところ」冨山房
(4)キルケゴール、桝田啓三郎訳「死にいたる病」〜桝田啓三郎編「キルケゴール」(「世界の名著40」)中央公論社・所収
(5)長尾雅人・荒牧典俊訳「宝積経」〜長尾雅人編「大乗仏典」(「世界の名著2」)中央公論社・所収
(6)久須本文雄「禅語入門」大法輪閣
(7)アト・ド・フリース、山下主一郎主幹、荒このみ・上坪正徳・川口紘明・喜多尾道冬・栗山啓一・竹中昌宏・深沢俊・福士久夫・山下主一郎・湯原剛共訳「イメージ・シンボル事典」大修館書店
(8)グリム「命の水」~高橋健二訳「完訳グリム童話集・3」小学館・所収



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f0223055_1334694.gifバスチアン・バルタザール・ブックスは、
行って帰ってくる・その1



「はてしない物語」(1)は、
主人公バスチアンが、古本屋で「はてしない物語」という本を盗むところから始まります。
彼は、その不思議な本を読みはじめます。
そして主人公アトレーユという少年の活躍に胸を躍らせ、
読者として、彼とともに冒険の旅をすることになります。

アトレーユは、本の中にある異界──「ファンタージエン国」というファンタジーの世界の住人です。
その世界は、国の王女様的存在である「幼ごころの君」にこんなふうに説明されています。

──人間の子どもたちは、人間界とファンタージエン国の境を越えてやってくる。
彼らは、この国でしかできないような体験をする。
そうして、まるで生まれ変わるようにして、人間界へと帰っていく。

つまり、人間の子どもは、ファンタージエン国という異界へ「行って帰ってくる」わけです。
すると彼らは、それまでとは違ったような目で世界や周りの人々をながめることになる。
平凡でつまらないと思っていた人間界の現実に驚きをみたり、
神秘を感じるようになる──というのです。

「指輪物語」の作者J・R・R・トールキンが、
ファンタジーの世界(彼の言葉でいえば「第二世界」)を説明した文章に、
「ムーリーフォック」ということばが出てきます(2)

「ムーリー・フォック(mooreeffoc)」
だなんて、何の呪文かと思えば、何のことはない、それはつまり
「coffee room(コーヒー・ルーム)」
のこと。
そう書かれた喫茶店のガラス扉を、反対から、店の内側から見たときに、そう読むことが出来ます。
(ただし鏡文字ですが。)
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作家のディケンズが 、 ロンドンの喫茶店にぶらり立ち寄ったときにたまたまそれに気付いて、
「はっ」としたんだそうです。
ごく当たり前の見慣れた日常的な看板も、新しい視点、いつもとは違う視点でながめるときに、
新鮮な驚きがある。

そうしたはたらきが、文学というものにもあるのではないか。
そのはたらきを言い表すのに、「チャールズ・ディケンズ伝」でチェスタトンが
このエピソードを取り上げているのだそうです。

そしてトールキンは、そのはたらきはファンタジーにもあるもので、
ディケンズがロンドンの街角で発見したそんな新鮮な驚きを、ファンタジーの読者も感じるのだと
いうのです。
それはまさしく、「幼ごころの君」が語っていたことに通じるものでしょう。


そういえば、この「はてしない物語」の冒頭にも、不思議な看板が掲げられていました。

古本屋のドアのガラスに書かれていた
「古本屋 カール・コンラート・コレアンダー」という主人の名を掲げた看板を店の中から見ると、
こう見えるのでした。
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物語は、古本屋のこの看板から始まります。
それは、つまり、「ムーリーフォック(mooreeffoc)」の世界の始まりを暗示しているのかもしれません。

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さて、バスチアンは“本を読む”という行為によって、
そんな本の中の異界、ファンタージエン国へと踏み入ります。
本の中の主人公アトレーユに付き添い、冒険の旅を続けて行くうちに、
やがて呼びかけられ、バスチアン自身が物語に参加するようにと招じ入れられる。
そうして「幼ごころの君」の名をバスチアンが名付けることによって、物語が彼のものとなる。
彼が、物語の“読者”から物語の“主人公”へと変わるその瞬間は、
思わずワクワクしてしまう前半のクライマックスです。
そうして彼が、彼自身の物語を生きていくことになる。

虚無に侵食され、消失の危機に瀕していた国を救い、救世主となった彼が最初にしたことは、
ジャングルを暴れ回って獰猛なライオンと遊ぶことでした。
ちょうど、「かいじゅうたちのいるところ」へ行ったマックスが、
彼らと森を暴れ回って踊り遊んだように、
ジャングルでwildness(ワイルドネス=野性性)を発散させるんですね。

そうしてマックスがかいじゅうたちを征服して王様になったように、
バスチアンもまた力を持ち、王様=帝王への道を歩みます。
何しろバスチアンの思いのまま。
この世界では、彼の望み通りのことが実現するのです。
が、それゆえに彼のほんとうの望みがなんであるか、試されることにもなります。

彼は自由。
それゆえに不安です。
かくて物語は「不安の連続」の始まりとなる。

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彼の望みは、たとえば勇気ある名誉。
また、物語詩人になること。
善を施すこと。
知恵ある賢者となること、などなどでした。

しかし、思いとは裏腹に、彼のつくる世界はきしみ、ちぐはぐになっていきます。
そして権力を手に入れたと思ったとき、
甘言を弄する者しか信じられなくなり、彼を諌める友だちアトレーユをさえ疑い、嫉妬し、
いよいよ彼の孤独があらわになっていきます。

ちょうど歴史の中で、多くの権力者がたどってきた道すじの戯画(カリカチュア)のように。
そうして最期には、破滅し、いっさいを失うのです。

その間、この国に、「自分を最も愛してくれるだれかさん」の作ったであろう、
マックスの鼻をくすぐったような夕食の匂いが漂ってくることはありません。
どころか、その「自分を最も愛してくれる」父親は、
「ぼくがいなくなってよろこんでいるかもしれないくらいだ」
と、バスチアンは言います。

そう。
この国も、やはり「現実に十フィートも根をおろして」いるのです。

バスチアンの現実は、父親とのディスコミュニケーションであり、
クラス仲間のいじめであり、
容姿や臆病な性格へのコンプレックスです。

色とりどりに彩られたファンタジーの世界に比べれば、なんと味気なく無彩色な世界でしょう。
しかし、わたしたちや子どもたちが住んでいる世界にあるのは、
大なり小なり、こうした現実ですよね。
生きるということは、「灰色でおもしろみがなく、神秘なことも驚くこともない」

そうした現実を招いたのは、実は、ファンタージエン国が虚無におかされ、
崩壊しているせいなのだと物語では語られます。
ファンタジーという精神世界のいきいきとしたエネルギーの枯渇が、現実世界を貧しいものにする。
ファンタージエン国へと「行って」、その虚無から世界を救ったのが、
他でもないバスチアンでした。

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トールキンは、「第二世界」(ファンタジーの世界)のはたらきのひとつとして、
「逃避」ということをあげています(2)

ここでトールキンが言うところの「逃避」は、現実や時代を批判したり、
理想や望みに満足を与え、育てるといったはたらきを含んだ積極的な意味でも使われています。

バスチアンは、灰色の過酷な現実の中で希望もいきいきしさも失ったとき、
ファンタジーの世界へいったん避難することで、生きるエネルギー、元気を取り戻す。

しかし「逃避」は文字通り、過酷な現実から逃げるという意味でもあります。

バスチアンは、ファンタージエン国の救世主であると同時に、現実からの逃亡者でもあるわけです。
だから、「行っ」たきりで、現実の世界へ「帰ってくる」ことができない。
帰る道すら見失ってしまうんですね。

そんなバスチアンのようにファンタージエン国へ行ったきりで、
人間界へと帰らない、あるいは帰ることのできない者たちが暮らす「元帝王たちの都」は、象徴的です。

マックスがかいじゅうたちの王様になったように、誰もがその空想(ファンタジー)の中で、
思うがまま、わがまま放題の王様、帝王になることができる。

しかし、幻想の中で望みをかなえたとしても、現実の記憶にはならない。
まったく現実から離れてしまえば、生きること自体がストップして、
自分自身が変わることができなくなるというんですね。
だから、都に住む元帝王たちは、年も取らず、成長もできずに、そこに留まっている。

無気力で、「狂気そのもの」
つまり、病気です。

その病気の危険性は、本にもあるものだし、また絵本や紙芝居にもあるものだと思います。
そしてTVやゲームや、いろいろなメディアによるヴァーチャルが氾濫し、増殖している現代では、
病人である“現役の”帝王や、“元”帝王たちが続々と増えているといえるかもしれません。

空想の世界に「逃避」ではなく、「逃亡」することで、
現実に立ち向かうこと、現実に生きることをストップしてしまう。

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「ナルニア国ものがたり」の作者、C・S・ルイスは、
ファンタジーの望みには二種類あると言います(3)

ひとつは、「病気」
病的な現実逃避。
今ある自分の現実から逃げて、
ファンタジーの中で自分の望み、欲望を代償的にとげようとするもの。

これはまさしく、ファンタジーの中で望み通りの王となった「元帝王たち」の症状です。
彼らは、この病気と診断出来るでしょう。

この種のフィクションの物語は、装いがリアルになる傾向があるといいます。
それは、
「現実に起こりうる話、起こってしかるべき話、運さえよければ自分にも起こったであろう話」
であるわけです。
しかし、
「こうした願望が想像の次元で達せられる場合、それはじつは、まったく代償的なものであって、私たちは、この世での失望や屈辱から逃れるため、そこに走るのです。
そしてそのあと、私たちは、またまた、いかんともしがたい不満足な状態のまま現実の世界にもどります。
それというのも、こうしたことはすべて、エゴへのへつらいにすぎなかったのですから。
なぜ楽しかったか、ほかの人たちの称賛の的になっている自分を心に描くことができたからです」
(3)
ということになります。

この種のファンタジーでは、お菓子の家をまるごと食べ尽くし、味わったとしても、
いざ現実に戻れば、何の腹の足しにもなっていない。
どころか、空腹感と飢餓感はますます増すばかりということになるでしょう。
ファンタジーの中で欲望を満足させるけれど、魔女との対決は避けられ、葛藤も避けられる。
すると、家に戻っても意地悪な母親は意地悪な顔をしたまま、ご健在ということになります。

一方、C・S・ルイスがあげるもうひとつが、「アスケシス」
これは、“精神訓練”と訳されたりする言葉だそうで、「一種の精神活動」であるといいます。

C・S・ルイスの「ナルニア国ものがたり」(4)に親しんだ読者には、
このアスケシス(精神訓練)という言葉の意味するところがよくわかるのではないでしょうか。

いつ陸地にたどり着くともわからない航海。
果てしのない砂漠の道行き。
地下の迷路。
そんな苦難の連続である冒険を、飢えや渇きに悩まされながら、物語の子どもたちは体験します。

そうして、へそまがりの皮肉屋の子も、偏った進歩主義の意気地なしの子も、
他人に責任を負わせるだけのいじめられっ子も、その冒険を通じて人格を成長させていきます。
冒険自体が、アスケシスであるわけです。

ここに、キリスト教の信仰篤い宗教学者でもあった
C・S・ルイスの教訓めいた隠喩を読み取ることは簡単でしょう。
しかし、そんな理屈が気にならないほどに、苦難も含めて冒険はおもしろい。
読者である子どもたち(おとなも含めた)は、そのおもしろさを楽しみます。

主人公たちが挑戦し立ち向かうそのファンタジーを楽しむことは、
つまり、いっしょに体験を共有すること、読者自身もアスケシスを体験するということなんですね。

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さて、バスチアンの望みは、「病気」だったのでしょうか? 
「アスケシス」だったのでしょうか?

彼の望んだ物語は、彼をいじめるクラスの仲間に仕返しをするといったような
リアルなものではありませんでした。
勇士たちと競技をしたり、涙の湖の由来を語ったりと、
それは昔話の伝統的なかたちにのっとったものです。

しかし、彼の望んだものは、勇気ある名誉。
──であっても、それを得て人々から称賛を得ること。
物語詩人になること。
──ではなく、その才能を評価され、名声を勝ち得ること。
善を施すこと。
──よりも、「いい人」として尊敬されること。
知恵を身につけること。
──よりも、知恵ある賢者として敬われることだったんですね。
すべて自分の「エゴへのへつらい」だった。

しかしながら、「エゴへのへつらい」から逃れ得る人というのは少ないかもしれません。
昔話でも、宝物を持ち帰ったり、大金持ちや長者や王様になったり、
絶世の美女のお姫様と結婚したりという成功が語られます。
それは人々の望みの反映であり、
「エゴイズムへのへつらい」の大いなる成就であるといえるでしょう。

昔話は、エゴイズムや欲望を否定するわけではありません。
筆者などは、おとなになった今でも、
もしかしたらホントに宝物や美女を手に入れられるのではないだろうかなどと、
秘かに欲望している人間です。
まあ、聞き手は筆者ほどに単純なアホではないとしても、
昔話は聞き手にそうした夢を見せてくれるものだと思います。

が、しかし、宝物を得るまでの過程や試練を見落とすとしたら、片手落ちでしょう。
たまたま偶然に宝物を得たとしても、得た者の人間性やその過程が語られているはずです。
愚か者が何もせずに宝物を得る「棚からボタもち」物語も数多くありますが、
そこには宝物をもたらす援助者の存在や、
彼をいかに信じるか、また、主人公の世界観や、
あるいは愚かさのほんとうの価値などが語られているはずです。

ヘンゼルとグレーテルが持ち帰った宝物だけしか目に入らず、
彼らの冒険に心動かされない読者(聞き手や観客)はいませんよね。
おもしろさは、むしろそこにある。

その試練や過程に焦点を合わせると(それが物語というものなのですが)、
金銀やエメラルドといった物質的な宝物の輝きが、何かちがうものに見えてくる。
エゴや欲望を満足させるだけではないものが見えてくる。

そこに「アスケシス」といわれる精神活動があるのだと思います。
試練や冒険に立ち向かうことで、発見したり気づいたり、味わったり、感じたり、考えたり、する。
つまり遊ぶ。
つまり体験する。

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藤田省三さんは、先に見たように、
昔話が飽きることなく語るテーマ
──「孤独な森の旅」「迷い子」「追放された彷徨」といった試練や冒険について触れていました(5)
これは、かくれんぼ遊びの中の原初的な死と再生の体験に通じるものであり、
藤田省三さんは、ここに、古来からの成年式──社会の中で一人前の成人となるための
通過儀礼としての「骨格」を見ていました。

社会から切り離され、母なるものから旅立ち、さすらうという冒険
──その“死”を体験する試練は、再生し、生まれ変わっておとなに成長するために必要な訓練。
まさしく「アスケシス」です。

川に捨てられ流されて、桃から生まれた男の子。
森に捨てられた兄妹。
彼らが鬼や魔女を倒して宝物を得るのも、これは「アスケシス」の結果であると言えます。

バスチアンは、ファンタージエン国に来てから、望みをかなえる度ごとに、
現実世界の記憶をなくしていきました。
現実世界で生きることを放棄していった。
その度に、現実世界にはっていた根っこをひとつひとつ失っていくかのようでした。

しかし、地面の表層1フィートくらいの深さの根っこは失われても、
その10フィート先の根は、なおバスチアンの現実──心の奥の現実と通いあっていたんですね。

彼がいっさいを失い、元帝王たちが陥る「病気」に気づいたとき、
そこから、正真正銘ホントの、自分の“ほんとうの望み”は何か、を探す旅が始まります。
それは、「アスケシス」という試練の旅。

またそれは、彼が自分の心の奥底を掘り起こし、
なお深く掘り起こして自分の根っこを探す旅でした。

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作者ミヒャエル・エンデによると、執筆中、
バスチアンがなぜファンタージエン国から帰って来なければいけないか、どこに出口があるのか、
作者自身にもわからなかったそうです。

そうして苦悶のうちに1年が過ぎ、出版社から催促の電話がかかってきます。
しかし彼は、こう答える他はなかった。

「バスチアンが、ファンタージエンから戻るのが嫌だと言ってきかないんだ。ぼくも帰らせることはできない」(6)

作者も主人公とともに「アスケシス」の旅を旅して苦しんでいたんですね。
バスチアンは「行って」、そしていかに「帰ってくる」か。
その「帰ってくる」道筋には、作者エンデの苦労の軌跡もたどれるような気がします。

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《引用・参考文献》
(1)ミヒャエル・エンデ、上田真而子・佐藤真理子訳「はてしない物語」岩波書店
(2)J・R・R・トールキン「妖精物語について」~J・R・R・トールキン、杉山洋子訳「妖精物語の国へ」ちくま文庫・所収
(3)C・S・ルイス「子どもの本書き方三つ」~イーゴフ・スタブス・アシュレイ編、猪熊葉子・清水真砂子・渡辺茂男訳「オンリー・コネクト」岩波書店・所収
(4)C・S・ルイス、瀬田貞二訳「ナルニア国ものがたり」「ライオンと魔女」以下全7冊)岩波書店
(5)藤田省三「或る喪失の経験」「精神史的考察」平凡社/平凡社ライブラリー・所収
(6)ミヒャエル・エンデ、田村都志夫[聞き手・編訳]「ものがたりの余白」岩波現代文庫

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f0223055_7511210.gifマックスは、行って帰ってくる



絵本のモーリス・センダック「かいじゅうたちのいるところ」(1)には、
異界としてのファンタジーの典型的な構造がわかりやすく、
また、いきいきと描かれていると思います。

この物語の主人公マックスもまた、母親から叱られます。
というのも、
「あるばん、マックスは おおかみの ぬいぐるみを きると、いたずらを はじめて おおあばれ…」
したからです。

そうして、絵には、その「おおあばれ」が繰り広げられています。
ハンカチを結んだロープを部屋に張り渡そうと、
トンカチを振りかざして壁に大きな釘を、ドンドンドン。
かと思うと、フォークを振りかざして小犬を追いかけ回し、ドッタン、バッタン……。
これから夕げを迎えようとする静かな夜にこの騒ぎでは、
なるほど、お母さんが怒るのも無理はない。

彼は、「お前はうちの子ではない。橋の下から拾って来た子だ」とは言われませんでした。
が、
「この かいじゅう!」
と怒鳴られます。
英語の原文では、「WILD THING!」

「wild thing」は、直訳すると「野生のもの」。
この言葉には、
「手に負えないやつ」とか「荒くれ者」「暴れん坊」という意味もあるんだそうです。

映画「メジャーリーグ」で、リッキー投手(チャーリー・シーン)が登場すると、彼のテーマ曲が流れ、
立ち上がった観客が「Wild thing!!」と歌い叫ぶのも、
あれは「いよっ! 暴れん坊!」と声援を送っていたんですね。
コントロール不能のワイルド・ピッチで知られた彼についたあだ名が「Wild thing」でした。

ネットの辞書を見ると、
grow up to be a wild thing(成長して手に負えなくなる)
という例文が載っていました。
「英辞郎 on the WEB」

もちろんマックスは、お母さんから声援を送られたわけではありません。
「He grew up to be a wild thing(彼は成長して手に負えなくなった)」ために、叱られたのです。
そう。
彼は成長したのかもしれません。
「ぼくにげちゃうよ」(2)と逃げ出しては
母うさぎにつかまえてもらいたがっていた子うさぎよりも、ちょっとだけ。

彼は、もう子うさぎではありません。
なにしろ、荒々しい「wild」な動物である“オオカミ”のぬいぐるみを着ているのです。
マックスは、オオカミになろうとする子うさぎでした。

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自我を主張し、自分で何かをやりたいというエネルギーにあふれている。

カーテンやトンカチを持ち出して、彼は何かをしようとしていました。
カーテンをつり下げるためとも思われるような、ハンカチを結んだロープ。
インディアンのテントを作ろうとしたのでしょうか?
それともお芝居を始める幕を設(しつら)えようとしたのでしょうか?

ロープにつり下げられたぬいぐるみのクマの人形は、被害を被ったのか、成り行きが不安なのか、
怒ったマックスの顔つきとは対照的に、なぜか悲しげです。
ひょっとしたら、クマの表情の中に、マックスの本心があるのでしょうか?
いったいマックスは何をしようとしているのだろうと、読者は想像力を刺激される場面です。

が、おとなの読者も、まわりのおとなも見当がつきません。
そこでおとなは、「いたずら」という一言でかたづけてしまう。
(子どもの読者だったら、彼の気持ちはじゅうぶん過ぎるくらい見当がつくかもしれませんね。)

そこでおとなは、とにかくやめさせるよう、圧力をかけることになります。
けれどマックス本人は、たぶん、何かとってもステキなことを思いついて、
何かを始めようとしていたようにも見えます。

しかし、こういう思いつきは、うまくいかなかったりするもの。
ロープを張ろうと釘を打ってもうまく打てないのかもしれません。
かんしゃくを起こして、小犬に八つ当たりなのかもしれません。
あるいは、すべてに反発して、“悪い”と言われることをしてみたいのかもしれない。

そしてこれは、いわゆる「第一反抗期」というやつとも重なるところがあるでしょう。
自分を主張して、人の言うことは何でも否定したくなる。
自分を主張して、駄々をこねる。ぐずる。周りを困らせる。
自分を主張して、けれど自分自身をコントロールできない。
暴れる。散らかす。ものを壊す。
なるほど、「wild thing」。
──これを「かいじゅう」と訳したのは、名訳だと思います。

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食事中におもちゃで遊ぼうとして止められたウィトゲンシュタインは、
お母さんを「継母」と呼びました。
けれど、「継母」と呼ばれようと、
わたしたちおとなは、社会で暮らしていくためのルールとマナーを教えていかなければなりません。

食事中におもちゃで遊ぶのはいけない。
トンカチと釘で壁に穴を開けて壊すのはいけない。
小犬をいじめて追いかけ回すのはいけない。
お母さんは、たしなめます。
人間は誰でも、自分の感情と欲求のままに、したい放題、
わがまま放題の王様ではないことを教えます。

しかし、自分を主張し、遊ぼうとするのを止められたマックスにとって、
その邪魔をする存在は、「継母」であり、もしかしたら「やまんば」にも見えるかもしれません。

が、オオカミのぬいぐるみを着ている今の彼は、
相手がお母さんだろうが、やまんばだろうが、逃げ出しはしない。
ひるまずに、
「I'LL EAT YOU UP!(おまえを たべちゃうぞ!)」
と言い返します。
自分を食べてしまうかもしれないやまんばに対して、
反対に「食べてしまうぞ」とやり返すわけです。

しかし、その当然の帰結として、まあ、夕食ぬきを宣告され、
寝室へ追いやられるという現実が待っています。
怒りさめやらず、ドアの向こうのお母さんをにらみつけているマックス。
けれど、次のぺージでは、意気消沈。

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すると、不思議なことが起こります。
寝室は彼の“ホーム・グラウンド”ですが、そのいつもと同じ日常的な場所が、
だんだん変わっていく。
木が「にょきり にょきり」とはえだして、
生い茂り、育ち、やがてルソーの描くジャングルのような森になる。
寝室が異界となるのです。

それは、日頃、子どもたちが行っている想像の世界の再現ともいえるでしょうか。
マックスは「ウッシッシ」とでもいうように笑い出し、しまいには踊り出しています。
こうして身近に作られた異界は、子どもたちにとっては親しみのあるところに違いありません。

その時点で彼はもう冒険に「行って」いるのかもしれませんが、
さらに船に乗って「1年と1日」をかけて航海しなければなりません。
そうして、「かいじゅうたちのいるところ(where the wild things are)」へ出かける。

そこへ着いたマックスは、かいじゅうの仲間たち(wild things)の王様になって、
まさにwildness(ワイルドネス=野性性)を解き放つように暴れ回って遊びます。
その数ページにわたって描かれる「かいじゅう踊り」は、
痛快な、なんとも楽しさにあふれる場面です。

この場面といい、お母さんへの「食べちゃうぞ」発言といい、この時期の子どもたちはマックスに共感し、惜しみない喝采を送るのではないでしょうか。
胸のすくようなカタルシスがある。

王冠をかぶったマックスは、大得意。
……ですが、絵の中にはどこか「不安」なニュアンスが忍びこんでいるようです。

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「空想は現実に十フィート(=約3m)も根をおろしてこそ、はじめて意味をもつ」

と、これは、作者のセンダックの言葉です(3)

ここでのマックスの現実は、
彼がやった「悪さであり、受けたお仕置きであり、そのお仕置きに対する彼の怒り」なんですね。
マックスは、母親に対する怒り(そして、もしかしたら自分自身に対しての怒り)を
かいじゅうたちにぶつける。
そこに「カタルシス」があります。
またそれは、「成長しようともがいて」の怒りでもある。
マックスは、かいじゅうたちを退治はしませんが、
“母親殺し”である昔ながらのドラゴン退治の、正統的な継承者であるでしょう。

母親に叱られ、一体感から切り離された佐伯一麦さんが、
浜田広介の「かなしみ」の世界へ向かったのに対し、
このマックスは、「怒り」をぶつけるようにして遊びまわる。

ここには、西洋と日本の違いもあるでしょうか。
しかし、佐伯さんの気持ちも、マックスの気持ちも、
日本人である筆者には両方わかるような気がします。

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センダックは言います。

「もしもマックスがいつまでもかいじゅうたちのいる島にい続けたら、この本を読む子どもはこわくなってしまったことでしょう」(3)

筆者は、ずっとい続けるのも楽しいような気が、半分します。
かいじゅうたちはどれも獰猛な顔をしていますが、どことなくいいヤツそうで、
いっしょに暮らしていくのも悪くないなと思わせます。

マックスがかいじゅうたちを征服したとき、「怒り」はおさまります。
しかし、彼らの王様に就任して、彼らに夕食ぬきを宣告できる身分になったとしても、
彼の「不安」は消えない。
どころか、「不安」は大きくなる。
というのは、つまり「かいじゅうたちのいるところ」は、
マックスの現実に十フィートも根をおろしている場所にあるということであるでしょう。

彼は、母親との一体感から旅立った勇敢な、そして孤独な冒険者です。
かいじゅうを支配して自由感を味わう。
しかし、自由とは、誰の指図も受けず──
ということは誰の保護も受けず、自分自身の行動や存在の責任を自分で負うということです。

自由は、半面、不安を伴う。
そこへ、「自分を最も愛してくれるだれかさん」の作ったであろう、夕食の匂いが漂ってくる。

そうして彼が、また航海に「1年と1日」という物語の時間を費やして帰ったとき、
寝室に置かれた夕食はほかほかと、まだあたたかでした。
こうした矛盾を、子どもたちは実によく理解し、納得し、満足すると思います。

「さて、ここが肝腎なところなんですが、」
と、センダックは続けます。

「彼は「もう二度とあんなところへなんかいかない」とは言いません。
マックスは、きっとまた空想にふけりますよ。
しかし、他の子どもたちと同じように、いつもきまって、母親のもとに帰ってくるというのがいいところなんです。
ですからこの本は、人生は不安の連続だなどとは言っていません。
ただ、人生には不安な時もあると言っているのです。」
(3)

マックスのこの段階では、「行って帰ってくる」空想をくりかえす。
このくりかえしが大切なのでしょう。
2~4歳の子どもたちは、まるで練習をするかのように
「行って帰ってくる」ごっこをくりかえしていました。

そうして、どんなに孤独で、不安の連続である異界へ迷い込んだとしても、
彼は最後に「自分を最も愛してくれるだれかさん」のもとへ帰ってくる。
あの子うさぎが、必ず母うさぎにつかまえられて家の中へ帰ったように。

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夕食の置かれたラストの寝室の絵では、
マックスはオオカミのぬいぐるみのフードを半分脱いで、眠そうな、安心したような表情。
オオカミというよりも、子うさぎの横顔を見せているようです。

室内のようすは冒険する前と変わっていないのですが、色づかいが微妙に中間色に変わっていて、
それがゆったりと温かそうな雰囲気を醸し出しています。
この絵本では、全編を通して、お母さんは姿も顔も見せません。
読者の想像に委ねられています。
しかし、この寝室の絵の雰囲気には、お母さんもしっかり登場していて、
お母さんも物語で重要な役割を担っていることがわかります。

もしも、安心のできるこうした“ホーム”がなければ、
マックスは冒険の航海へ乗り出すことはなかったでしょう。
お母さんがあたたかな食事を作って待っていてくれるこうした“ホーム”があるからこそ、
次なる冒険──つまり、次なる成長へと踏み出すこともできる。

「かいじゅうたちのいる」場所(異界)へ、行って「帰ってくる」そのホームが描かれることで、
この冒険の物語は、子どもたちのこころをとらえて離さないのだと思います。

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が、しかし。
もしもこのとき、行ったきりで戻れなくなってしまったら……。
神隠しのように向こうの世界へ連れていかれたまんま、
つまり、マックスがかいじゅうたちのいるところから帰れなくなってしまったとしたら……。
ヘンゼルとグレーテルが魔女の森から抜け出せなくなったとしたら……。
小僧さんが、やまんばの棲む山から戻ってくることができなくなったとしたら……。

もちろん「行って」しまうことは、たえずそういうリスクを抱えているものなのですが、
「行って」しまったきり「帰ってくる」ことができない片道切符というのは、大変なことです。
不安というのは、時として“スリル”や“サスペンス”という言葉に言い換えることのできる、
冒険を彩る薬味(スパイス)です。
が、ここにはそれらを超える、存在的な不安があるような気がします。
 
そんな不安が、ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」(4)に描かれています。

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《引用・参考文献》
(1)モーリス・センダック、神宮輝夫訳「かいじゅうたちのいるところ」冨山房
(2)マーガレット・W・ブラウン文、クレメント・ハード絵、いわたみみ訳「ぼくにげちゃうよ」ほるぷ出版
(3)ナット・ヘントフ「かいじゅうたちにかこまれて」~イーゴフ・スタブス・アシュレイ編、猪熊葉子・清水真砂子・渡辺茂男訳「オンリー・コネクト」岩波書店・所収
(4)ミヒャエル・エンデ、上田真而子・佐藤真理子訳「はてしない物語」岩波書店
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f0223055_14324628.gifあの世へ、行って帰ってくる


「お前はうちの子ではない。橋の下から拾って来た子だ」

幼児の頃、母親からそう言われた体験のことを、
作家の佐伯一麦さんが書かれていました(朝日新聞・2003年11月30日付)。
悪さをすると、そんなふうによく叱られたのだそうです。

筆者は、こうした言葉で叱られたことはありませんが、
冗談に言われたような記憶がうっすらぼんやりとあるような気がします。
これは、私たちの心の底に意外と根強く残っている言葉であるのでしょう。

精神科医の武内徹さんが、この言葉について行ったアンケート調査を、
タイトル名もズバリ、
「お前はうちの子ではない橋の下から拾って来た子だ」(1)という本にまとめています。
富山県での調査によると、男性約3割、女性約5割がこんなことばを言われた体験をしているそうで、
日本全国の調査でも同様の結果なのだとか。

飯島吉晴「子供の民俗学」(2)では、各地のそんなことばの例が集められています。

「泣いてみろ、泣くならわしが子でないぞ、お前は五島(長崎県五島列島)から塩俵にのって、
ここの浜辺に流れついたのを、拾ってやったのだぞ」
[鹿児島県甑島・瀬々野浦](3)
「お前は広島の橋の下から大きな鍋にのって流れてきたんだぞ」[山口県大島郡周防大島](3)
「川を流れてきた納豆の苞(つと)に入っていたのを拾われた」[山形県西置賜郡飯豊町](4)
「お前は川を流れてきた瓢箪から拾われて育った」[新潟県南蒲原郡下田村](4)


子どもたちは、こうして脅されることで、おとなしく言うことをきくようになったのでしょうか?
しかし、小さな子ならともかく、いたずら盛りともなれば、
少々の脅し文句ではカエルの面にションベンだったような気もします。

また、脅す側のおとなの方でも、むろん、もしもほんとうに拾い子であれば
言えるものではありません。
むしろ、この言葉の背後に、堅固な親と子のきずなを感じる気がします。
安定したつながりがあるからこそ、言えるのかもしれない。
そしてそれが“慣用句”とはいえないまでも、ちょっと定型的な言葉となって残ったりしている。

これが虐待のケースだったり、親子関係が不安定な場合には、
どんなに軽口のつもりであっても、破壊的な言葉となるのではないでしょうか。

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昔から、しつけのために脅し文句ということが使われてきました。
たとえば、アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」のエンディングで、吉幾三さんが歌っていた歌の一節。

「お化けの世界はナ あるさ、おまえの家のそば
言うこときかない悪い子は 夜中迎えに来るんだヨ」

「おばけがイクゾー」作詞:吉幾三)

こうした脅し文句は定番だったかもしれません。
前回触れた妖怪「子取り」も、
「言うことをきかないと、子取りがさらいに来るよ」
などという使い方をされたようです。

妖精ブッカ・ブーも、イギリスのお母さんたちから、
「わめくのはやめて静かになさい。でないと、ブッカ・ブーに連れていかれますよ」
という言われ方をされているのだそうです(5)

同じように、
「いい子にしないと、施設に入れてしまうよ」
「おまわりさんに怒られるよ」
などという言い方がある。

映画監督ヒッチコックが、4〜5歳の頃のこと。
彼の父親は、警察署長と知り合いでした。
あるとき、父親は、その警察署長宛てに書いた手紙をヒッチコックに持たせて、
警察署へおつかいに行かせたのだそうです。
それを読んだ署長は、彼を5〜10分ほど、留置場へ閉じ込める。
「悪いことをしたら、こうなるぞ」という、厳格な父親のしつけのひとつでした。

しかし、これがトラウマとなり、後年、彼が“恐怖”をテーマにした映画を作り続けたのも、
このときの恐怖体験があるのではないかという説があります。

からかい半分であったとしても、こうしたしつけの脅しは、
おとなが考える以上の影響を及ぼすことを、ボウルビィが論じています(6)
とくに「子どもを捨てる」「親が家出する」というような離別の脅しは、
不安を増大させるはたらきが大きい。

「お前はうちの子ではない。橋の下から拾って来た子だ」
というのも、脅しの延長にある言葉で、これは親子のきずな自体を否定しています。
影響力はかなり大きいと言えるでしょう。
たとえ、安定した親子関係は揺るがないと思っていたとしても、
わたしたちおとなは、この言葉の扱いに気をつける必要があると思います。

そして、この言葉は、“継子幻想”と同じく、
「自分は何者だろう?」というアイデンティティの問題にも関わるものですね。
そうした問題の次元へ子どもを導くものでもあるかもしれません。
感じやすい子どもならなおさら。

佐伯一麦さんは、母親からそう言って叱られると、
「親なんかいらない」と強がりをいって外へ飛び出すものの、
泣きながら橋の下で小石を投げたりしたそうです。

しかしもしかしたら、そのときに味わった孤独というのは、
親のもとから分離し、自立の旅への一歩を踏みだそうとする準備をするものだった。
それは、たとえ「冗談に決まってるじゃん」と受け流すような、
カエルの面にションベンの子どもの心の奥底にも、ぼんやりと築かれるものではないでしょうか。

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ところで佐伯一麦さんや武内徹さんは、 この言葉は、
“拾い親”の風習がかたちを変えて残ったのではないかという説に触れています。

“拾い親 ”というのは、“もらい親”ともいわれる風習で、
たとえば新潟県岩船郡粟島では、子どもが病弱だったり、誰かが死んだ日に子どもが生まれたとき、
道端にいったん子どもを捨てる。
そしてすぐに、それをまた拾ってくる。

またたとえば、埼玉県地方では、男親が42歳の厄年のときに生まれた子は、道端に捨てて、
隣りの人に拾ってもらう。
そんな風習が各地にあったのだそうです(7)

今では、そうした風習も一般的にはあまり行われていないようですが、
明治8年生まれの柳田國男は子どもの頃、
故郷の播磨(兵庫県)でこうした子捨ての儀式を目撃したことを記しています(8)

簡単な例では、子どもを柳行李などに入れて、
3分間ほど外へ置いておくだけということもあったようです。

捨てる場所は、たいてい近所。
拾ってもらう家の屋敷やその周辺。
また、道端でも四つ辻(十字路)や三つ辻(T字路)、神社の境内、箕の中などなど。
そして橋の上に捨てたり、たらいに入れていったん川に流したりする地方もありました。

これは、乳幼児の死亡率が非常に高かった時代、
育ちの悪いおそれがある子を、いったん捨てることによって生まれ変わらせ、
じょうぶに育つように祈る意味があるのだといいます。

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こうした風習は日本に限らず古代社会によく見られるものだそうで、
古代の中国でも行われていたという説があります。
生まれた子を、いったん捨てたり、川に流したりして、それを拾って育てる。

こうした儀式的な慣習は、漢字の成り立ちにも見ることができるのだそうです(9)

廃棄する、棄てる(捨てる)ことを意味する「棄」。
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この漢字は、「子」を逆さまにして(=𠫓)、
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下のチリトリ状の容れ物(わらなどを編んで作った「ふご」だという説もあります)に
入れるところをかたどって出来たものなのだそうです。
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チリトリの中に捨てるというのは、箕の中に捨てる日本の風習を連想させますね。
白川静さんも同様の説をとり、一度捨てられ「棄」と名付けられた周王朝の始祖・后稷(こうしょく)の伝説を紹介しています(10)


また、「流」という漢字。
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これも、川の水(=氵)に、子どもを流すところが描かれています。
逆さまにした「子」(=𠫓)の下の三本線は、頭の髪の毛が伸びたところをかたどったもの。
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これは、上下逆さまの子どもの頭から髪の毛がだらんとぶら下がっているようにも見えて、
羊水から胎児が流れ出て生まれるところをかたどったものという説があります。
が、川へ棄てられ流された子どもの髪が、水の流れにそよいでいるようにも見えます。
洪水で氾濫した川に子どもの死体が流されている様(さま)をかたどった
という説もあるそうなのですが、
いったん川に子どもを流し、再び拾うという当時の慣習をあらわしたものだという説も
説得力があるように思われます。

子棄て(子捨て)、子流しの風習が、
実はわたしたちに身近な漢字として残っていたりするんですね。

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川に流すというこの風習はまた、飢饉やいろいろな事情で生まれたばかりの子を殺す、
日本の“間引き”にも見られたものでした。
儀礼的に捨てるのではなく、これはホントに捨ててしまうものです。
殺した子の死体を、水葬にしたりする。
むしろや菰(こも)に包んで川や海に捨てることもあった。

16世紀の日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスは、
大阪・堺のお濠端を歩いていると、そうやって投げ捨てられた子どもを頻繁に見かける、
と、その著「日本史」に記録しています(11)

そう言えば、「古事記」でも、
イザナミが産んだ水子を思わせるような水蛭子(ヒルコ)を
葦の船にのせて流す場面がありましたね。

間引くことは殺人に違いないのですが、
しかし昔は、「オカエシする」「モドス」という言葉が使われていたように、
あの世(異界)からこの世にやってきた──
つまり生まれてきた子どもを、再び異界へ返すという意識があったのではないかと、
飯島吉晴さんは述べています(2)

そうしてまたこの世に生まれ変わってくることを祈る。
橋の下や川というのは、そうした異界と関係の深い場所なんですね。

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桃太郎や瓜子姫といった昔話の主人公は、川を流れてきた桃や瓜から生まれ出ます。
花咲か爺さんの類話では、「ここ掘れワンワン」と知らせるポチ(白犬)もまた、
川を流れてやってくる木の根っこから生まれ出る。
舌切り雀の類話では、雀も鳥かごに入れられて川を流れてやってくる。

新潟・下田村では、
「お前はうちの子ではない、瓢箪から拾われたんだ」
という言葉があったそうですが、
朝鮮では、文字通り「瓢(ひさご)=ひょうたん」に乗って海から流れ着いた子どもが、
伝説の主人公となり、新羅の朴氏のルーツとされているそうです(12)

昔話のヒーロー、ヒロインたちは、いわば親から捨てられて川に流された子ども
ということもできるでしょうか。
親の庇護から切り離され、母なるものから離れて天涯孤独となったその身を、
桃や瓜や瓢箪や木の根っこに乗せられ、あるいは押し込められ、
川をドンブラコと流れきて、かくて物語の始まり始まり、ということになるわけです。

柳田國男は、こうした川との関わりに水神信仰との脈絡も見ています。
山城・賀茂や出雲・加賀神崎などの伝説では、川上から弓箭(や)が流れてきて、
それに感じ入った少女が身籠ります。
水の清い川上には、そんな霊力をもった男神がおわします異界があると考えられていたようです。

また、浦島太郎の類話や、ハナタレ小僧さまなどのはなしでは、
竜宮は海の底ばかりではなく、川の底にもあります。
そうしてその異界からの使いの美女は、川淵や橋のたもとに現われる。

川は不思議なアチラの世界と通じている。
だから、不思議な力を発揮するような桃太郎や白犬たち、もともとアチラの世界の住人たちは、
川を流れてコチラの世界へやってくるのでしょう。
川のほとりや橋の下は、異界へと通じる通り道でした。
子捨て(拾い親)の儀式では、子どもたちをそんな場所へいったん捨てて、また拾うわけです。

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「お前はうちの子ではない。橋の下から拾って来た子だ」というのが、
この拾い親の風習の名残りであるのかどうか、筆者にはわかりません。
が、そのはたらきには似たところがあるかもしれないと思います。

捨てられた子どもは異界へ「行って」、そして拾われ「帰ってくる」とき、生まれ変わる。
「お前はうちの子ではない」と親から叱られるとき、子どもは、親との一体感から切り離され、
異界のような地点へ導かれるのではないでしょうか。

佐伯一麦さんが、涙をこらえつつひとりで小石を投げ続けた川のほとりの地点。
それは、あのウィトゲンシュタインが叱られらたときに、母親は継母なのではないかと疑い、
「あなたはほんとうにお母さんなの?」と問い返した場面に通じる地点でもあるでしょう。

つまり、ヘンゼルとグレーテルたちが、両親から捨てられて迷いこんだ地点である森。
小僧さんが、やまんばの正体に気づいた地点である山奥。

子どもたちは、そんな場所へ「行って帰ってくる」ことになります。

佐伯一麦さんは、先の文章の中で、
「お前はうちの子ではない…」といった言葉で叱られたときの孤独の体験が、
浜田広介の童話の世界と出会うきっかけとなったと続けています。
「泣いた赤鬼」「りゅうの目のなみだ」といった作品に描かれた「孤独のきびしさ、孤独にたえるかなしみ」が、
子どもだった佐伯さんを惹きつけたのだそうです。

そう。
ファンタジーというのもまた、ひとつの異界です。

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《引用・参考文献》
(1)武内徹「お前はうちの子ではない橋の下から拾って来た子だ」星和書店
(2)飯島吉晴「子供の民俗学」新曜社
(3)桜田勝徳「海の宗教」淡交社
(4)北見俊夫「川と文化」日本書籍
(5)キャサリン・ブリッグズ、井村君江訳「妖精Who's Who」筑摩書房/ちくま文庫
(6)ジョン・ボウルビィ、黒田実郎・岡田洋子・吉田恒子訳「母子関係の理論」岩崎学術出版社
(7)大藤ゆき「児やらい」民俗民芸双書・岩崎美術社
(8)柳田國男「神を助けた話」〜「柳田國男全集7」ちくま文庫・所収
(9)阿辻哲次「漢字の字源」講談社現代新書
(10)白川静「常用字解」平凡社
(11)ルイス・フロイス、松田毅一・川崎桃太訳「完訳フロイス日本史」中公文庫
(12)柳田國男「桃太郎の誕生」〜「柳田國男全集10」ちくま文庫
[PR]
f0223055_7362093.gifちさと少年は、行って帰ってくる


かくれんぼで。

とびきり上等な隠れ場所を見つけて、身をひそめ、ほくそ笑えむ。
最初はワクワク、ドキドキ待っているけれど、
ふと、鬼がやって来るのがなんだか遅いような気がする。
ふと、近くで息をひそめて隠れているはずのみんながいなくなってしまったような気がする。

耳をすましても誰の声もしない。
空がちょっと暗くなってきたような。
まわりのやぶの木立がざわざわするような。
みんなかくれんぼをやめて、自分だけを置いて帰ってしまったのではないだろうか。
いや、そんなことない。
と思いなおして息をひそめていると、いよいよ、あたりがしんと静まりかえってくる。

このまま見つからないのではないか。
自分だけこの世界にひとりぼっちになっちゃったのではないか。

……なーんてことを、子どもの頃に感じた経験って、ないでしょうか。

そうして不安にかられて、おずおずと首を出し、あたりを見回したとたん、
「○○ちゃん、みーっけ」などと鬼に見つかったりするんですよね。
みんなと遊んでいるのだけれど、孤独を意識したりする。
“かくれんぼ”という遊びは、どこか不思議なところがあります。

だからでしょうか、昔は、日が暮れ、暗くなってくる頃にかくれんぼをすると、
隠し神さんに隠される。
隠し婆さんに連れていかれるといって、夜のかくれんぼを禁じる家が多かったんだそうです。

たしかに、夕暮れる中でひとり息をひそめるときの感覚は、昼間のときとまた違います。
世界は一変し、そのほの暗く、
だんだん闇におおわれる世界に自分だけが取り残されたような気持ちになってくる。
もっとも、夕過ぎに外をほっつき歩いて遊ぶこと自体禁じられていたのかもしれませんが、
特ににかくれんぼという遊びは不安な要素をもっていたのでしょう。

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柳田國男は、そんなかくれんぼの「不安心」さに触れています(1)
麦畑の麦の背が高く伸びて、そこで遊ぶ小さな子どもたちの姿が見えにくくなる──
そんな“高麦”の季節にかくれんぼをすると、狸に化かされると、
豊後地方(現・大分県のあたり)で伝えられていたそうです。

昔は、中世の頃から、人身売買を目的とするような
“子取り”といわれる人さらいがあったといいます(2)
そうした犯罪への怖れから、
高麦の頃のかくれんぼや夜のかくれんぼが禁じられていたという事情があったのかもしれません。

また、これらの事件を恐怖する人々の気持ちが、
子どもをさらう妖怪の存在を生んだのかもしれません。
「子取り」という犯罪を意味する言葉そのまんまの、「子とり」という名前の妖怪。
妖怪「子とり」は、人の家をのぞいては子どもを物色して連れ去るのだといいます。

そのため、「子留守」と書かれたお札を貼って、
この家には子どもなんていませんよとだまそうとしたり、
無双の英雄・源為朝にあやかって「鎮西八郎為朝御宿」といったお札を貼って、
「子とり」に対する魔除けにしたのだとか(3)

イギリスでは、妖精が子どもを盗む習癖のあることが伝えられています。
盗んでおいて、その代わりに丸太ん棒や、いつまでも成長しない妖精の子ども、
あるいは年老いた妖精を置いていく(4)
つまり、「取り換え子(Changelings)」されるわけですが、
子どもを取られることには変わりませんね。

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かくれんぼの「不安心」は、“神隠し”にも通じるものがあります。
“神隠し”といっても、ホントに神さまに隠される。──隠し神さんや隠し婆さんが
実在して暗躍していたとは考えにくい。

その実態は、誘拐や迷子や家出だったりという失踪事件であったのかもしれません。
しかし、周囲の人々が“神隠し”と呼ぶことでミステリアスなヴェールでおおわれる。

神隠しから戻ってきた子があると、中には、
「神(あるいは、天狗、仙人、鬼など)に連れ去られた」
「幽界(あるいは地獄、霊界、深い山の中など)に行ってきた」
などと証言する例もあり、その虚実はおくとしても、
不可思議なこととして社会に受け止めれられていたようです。

神隠しは、異界に連れて行かれることと思われていた(5)

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北米インディアンのズニ族では、山が、死者のすみかと考えられていたそうです。
その山の湖には、カチーナ(カチナ)という精霊が住んでいる。
そのカチーナが、祭りのときにこちらの世界へやって来る。
そこで人々は儀式をとり行い、カチナ・ダンスに興じます。

日本で、死者が帰ってくるお盆のときに“盆踊り”を踊るのに似ているでしょうか。
この儀式が、世界に雨や穀物など自然の恵みをもたらし、健康や平安を運んでくるのだといいます。

そして踊りが終わると、精霊カチーナは山の湖へと帰っていく。
このとき、カチーナに魅惑された人々があとをついていき、
湖のある山へ行って、行方不明になることがあるのだそうです。

これも、“神隠し”のひとつと言えるかもしれません。

精霊や神々や鬼などにつかまって、異界へさらわれる。
魅入られて、異界へついて行ってしまう。
こうした構造に、多田道太郎さんは、
子どもたちの「かくれんぼ」や「鬼ごっこ」、「子とり」遊びの原型をみています(3)

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特に子どもは、魅惑されやすい。
たしかに子どもは、まるで神さまに魅入られたように迷子になってしまうことがありますよね。

柳田國男は、ふらりと我知らず遠くまで歩いていってしまうような、
子ども特有の無意識的な衝動をそこに見て、
自身が「神隠しに遇いやすき気質」の子どもであったと告白しています(1)
全体に子どもたちは、そうした気質を多かれ少なかれ持っているものではないでしょうか。

なんとはなしに知らない町へ行ってしまい、
帰り道がわからなくなったといった子どもの頃の記憶が筆者にもあります。
(知らない町といっても、今考えてみると、目と鼻の先の近所だったりするのですが。)

子どもたちは、どこかしら存在が不安定で、いつのまにか“どこか”へ行ってしまいやすい。
その“どこか”は、もちろん「幽界や地獄や霊界や深い山の中」ではないにしても、
現実の世界とは、どこかしら違うような場所。

子どもたちは、その「この世界ではないどこか」
──異界という場所に近しい存在であるのかもしれません。

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ところで、たわいのない遊びなのですが(遊びといっていいかどうかもわかりませんが)、
子どもの頃、たとえば商店街の道路などにはめこまれたタイルの
色が違うところだけを踏んで歩いたことはないでしょうか。
その色以外のタイルを踏んだら、落ちて死んでしまうとまで思ったりする。

何かルールを決めることによって、現実の世界が異質な世界に一変するのです。
石けりやSけんや、サッカー、野球など、ルールのある遊びや競技もそうですよね。
ルールを決めたそれが始まったとき、ただの路地や空き地や原っぱや校庭にすぎない場所が
別の世界の空間となる。
石けりの線を描いた路地が世界のすべてになり、
野球ベースの置かれたエリアが世界のすべてになります。
子どもたちは、「やーめた」と言わない限り、その世界の住人となります。

またたとえば、公園が一面の海だと想像したりして遊んだ経験はないでしょうか。
滑り台やうんていなど、遊具の高い場所が島になる。
「島につかまっていないと海で溺れてしまうんだよ」などと誰かが言いだす。
すると、みんな、そんな気になって、低い地面を歩くときは、泳ぐ真似をしたりして遊ぶ。

何か“ふり”をすることによって、世界を一変させる。
ごっこ遊びに典型的ですね。
ごっこ遊びが始まると、園庭のすみっこが宇宙になったり、島や要塞になったり、
草むらがままごとの舞台となる邸宅になったりする。

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アーサー・ランサム「ツバメ号とアマゾン号」(6)は、作品全体がごっこ遊びの魅力にあふれています。
夏休み。
子どもたち兄妹4人が、小さな、けれど本格的な帆船「ツバメ号」に乗り込んで、
湖の湖畔に子どもたちだけでキャンプをします。
4人はそれぞれ“船長”“航海士”“AB船員”“ボーイ”となって、互いにそう呼び合い、
ほんとうに船長や乗組員となる。

すると、湖は海に、キャンプ場は無人島に変わる。
近所の場所を、「ダリエン岬」とか「リオ湾」とか「ウの島」などと勝手に名付け、
遠くで見守るお母さんやご近所さんは、みんな原住民となります。
ふつうのキャンプ場が、冒険の舞台に変わる。

筆者が小学生のとき、友だちと近所の小さな山へ出かけたことがありました。
まあ、子どもだけで行く、いわゆるハイキングなのですが、
当時の筆者たちにとっては、ちょっとした探検。
途中通った場所を、「ララミー草原」とか
(再放送でやっていた西部劇『ララミー牧場』というTV番組のイメージの記憶があったのです)、
「カラス峡谷」とか、「オニギリ広場」とか、勝手に名付けて遊んだものでした。

そして山頂からの帰り、道に迷って、人の姿も気配も何もない所をさまよったとき。
当時SF小説に凝っていた友だちのひとりが
「タイム・スリップか何かで異次元に入り込んじゃったんじゃねえの?」
などと言い出すものだから、
「そんなバカな」
などと言いながらも、みんなでドキドキ。
結局、原始人にも、武士にも逢うことはありませんでした。
途中、現代文明の所産である空き缶のゴミを見つけて、
ああ、タイム・スリップはしてないんだと、ホッと胸をなで下ろしたことを覚えています。

そんなふうに子どもたちは、日常に生活している場所を、
いとも簡単に「ここではない世界」に変えてしまったりすることが出来るのではないでしょうか。
異界は、子どもたちのごく身近なところにあるのかもしれません。

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飯島吉晴さんは、子どもたちの遊びの中に異界を見ています(7)(8)
「かごめかごめ」 や 「鬼ごっこ」、「子とり」遊びなどに夢中になる中で、
日常に生活している世界とは別の非日常的な時間と空間
──この世界とは違う異界を子どもたちは体験しているというんですね。

「鬼ごっこ」のヴァリエーションでもある 「かくれんぼ」の“鬼”もまた、
異界からやってきた存在。
その鬼に見つかることは、異界へ連れ去られる恐怖でもあるわけです。

しかし、別な見方をしてみると、鬼から隠れ、
仲間からひとり離れて身をひそめたときの孤独な世界。
──これもひとつの異界であるのかもしれません。
すると、鬼に見つかることは、社会から切り離され、ひとり異界にいた者が
再び社会へと戻ってくる、その安心感を取り戻すことでもあるわけです。

鬼に見つからないようにと思う。
でも、見つけてほしいとも思う。
そんな矛盾した両方の気持ちを抱えながら、子どもたちは隠れるのでしょう。

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そんなかくれんぼの複雑な心理について、高田宏さんは
泉鏡花の「龍潭譚(りゅうたんだん)」(9)をたどりながら語っています(10)

この泉鏡花の物語の主人公ちさとは、母を亡くし、年長の姉にかわいがられている少年。
彼は、その母親代わりの姉から
「一人にては行くことなかれ」
と言い聞かされていたにも関わらず、姉のもとから離れたくなり、
その目を盗んで外へ遊びに出ます。

そうして怖いくらいに美しい深紅のツツジの咲く中、虫を殺して遊んだりする。
やがて心細くなって泣きながら走って帰ろうとする。
彼はおそらく「神隠しに遇いやすき気質」で感受性が豊かなのかもしれませんが、
まあ、泣いちゃうくらいに、年齢が幼いということでもあります。
「ぼくにげちゃうよ」といって“母なるもの”(現実には姉)のもとから飛び出すけれど、
不安になってつかまえに来てもらいたいと願うわけです。

が、そこで近所の子の「かくれあそび」の声を聞きつけ、
遊びに誘われるままに、かくれんぼをします。
そして鬼となってひとり心細くなる。

近所の子は、自分を置いて帰ってしまったのではないか。
すでに陽は落ち、ほの暗い夕方。
「あふ魔が時(逢う魔が時)といわれる時間帯。
そんな時刻に、色白の美しい女性が出現します。
「こちらへおいで」と手招きをする。
が、女性の姿は消える。
その稲荷の社(やしろ)の裏へ、今度は少年が隠れる側となります。

そのうちに、行方不明となった少年を捜して家人がやって来る。
やがて姉もやって来る。
しかし、少年はその姿を「恐ろしきもの」が化けたのではないかと疑い、やり過ごす。
自分の目がおかしくなったのではないか。そう思い、目を清めようと御手洗(みたらし)の石鉢の水をのぞく。

ところが、驚くべきことに、自分の顔が自分の顔ではない。
と、そこへ、彼を見つけた姉が「やっと見つけた」とばかりに肩をつかんで振り向かせる。
姉は、弟とは似ても似つかぬその顔に「あれ!」と悲鳴をあげて駆け去ります。

これは後に、殺した虫の毒で顔がはれていたため、見間違えられたのだと説明されます。
(毒虫は「班猫(ハンミョウ)」と書かれていますが、ハンミョウには毒はなく、
マメハンミョウか、あるいは羽蟻のかたちだとすると、アオバアリガタハネカクシかもしれません。
あるいは、虫の毒さえ、幻であったのか。)

隠れた自分を探しに来てくれた姉を「恐ろしきもの」と感じる。
ここには、“母なるもの”の二面性を感じる心理もあるでしょう。
つかまえに来るやさしい「母うさぎ」も、やまんばに見える。

そして妖精の「取り換え子」にあったように自分が別人となって、母代わりの姉から切り離される。
ここには、自分のアイデンティティを疑う気持ち、
「継子妄想」に通じるような不安定さがあるように思います。

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ちさと少年は、意識を失います。
そして気づくと、山中の一軒家。

そこにはかくれんぼで出逢った女性がいて、少年は添い寝をされ、一夜を過ごすことになります。
その女性は亡き母親なのか。
守り刀を胸に抱いて葬られた亡き母と同じように、
彼女は少年を守るためといって、守り刀を手にして添い寝するのです。

つかまえに来てほしくない。
しかし、やはりつかまえに来てほしいと願った姉。
けれど姉は来ずに、“母なるもの”は、
黄泉の国の女王となったイザナミ、あるいは冥府の国の后となったペルセポネーのように、
死の世界の住人として彼をつかまえに来たわけです。
添い寝をするやり口は、やまんば的でもあります。

もしかしたら彼女は、少年の亡き母だったかもしれない。
いえ、もしかしたら、そうではなかったかもしれない。
けれど、わたしたちは誰でも彼女のような“母なるもの”を心の中に持っているのであって、
それが亡き母をしのばせる存在として出現したのかもしれません。

やまんばに呑み込まれたような、“母なるもの”の無意識に取り込まれたようなその一夜は、
いわば死の世界の出来事。
しかしその“死”は、甘美に描かれます。
添い寝する女性の胸に顔をうづめ、乳房を吸う。
それは、母を喪った少年にとっては面影をしのぶことでもありますが、
母親の胎内に帰ってその羊水に包まれるように、母親との一体感に浸ることでもあります。
そしてその乳を吸うように、お菓子の家のその甘さを貪り続けるとしたら、
それはつまり、ほんとうの“死”を意味するでしょう。

しかしながらこの物語では、女性は、やまんばであり人喰い魔女であり夜叉である、
そのもうひとつの顔を明かすことなく、ただその恐ろしさを匂わせるにとどめます。
一夜だけ少年をとどめて後は、少年を現実世界へ帰し、家へ送り届ける。

ところが、無事に「行って帰って」きた彼は、夢うつつのまま“狐つき”状態となり、
社会に適応することが難しくなります。
そしてもう一度、あの山の中へ隠れたいと願う気持ちが起こってくる。

母親代わりの姉(現実世界の母親)から隠れたい。
でも、一方で見つけられたいと願う。
母親かもしれない女性のいる異界へもう一度行きたい。
でも、一方で帰ってきたいと願う。
ここでは、生と死、現実と異界を行き来しながら、
かくれんぼの矛盾する心理が二重三重に入り組んで描かれていると、高田宏さんはいいます(10)

こうしたかくれんぼの矛盾する気持ちは、
母なるもののもとから「行って帰ってくる」冒険の構造と似たものがあるのだと思います。

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泉鏡花の物語では、かくれんぼ遊びが、
一夜のかくれんぼ──死者の国かもしれない山で一夜を過ごすという体験につながったわけですが、
藤田省三さんは、「かくれんぼ」の遊び自体の中に、“死”と“再生”を見ています(11)

隠れる側が、このままずっと見つからず、一人だけ取り残されるのではないかと感じる。
また、鬼になった子が目をつぶって、50とか100などの数を数え、目をあけたとき。
その瞬間、誰の姿も見当たらない。
自分だけが取り残されたと感じる。
そうした空白は、一時的に現実社会から切り離された比喩的な“死”であるというんですね。

そして、鬼に見つかったり、
または鬼が仲間の姿を見つけ出すことは、“再生”である。

子どもたちが何気なく夢中になって遊ぶ「かくれんぼ」遊びは、
実はそうした深刻な死と再生の「劇的過程をぼんやりと経験する」場でもあるというわけです。

藤田省三さんは、社会から離れて孤独を体験するその過程は、昔話が飽きることなく語るテーマ
──「孤独な森の旅」「迷い子」「追放された彷徨」といった試練や冒険と同じものであるといいます。

昔話の多くの主人公が、社会から切り離され、母なるものから旅立ち、さすらうという冒険
──その“死”を体験する試練は、生まれ変わっておとなに成長する、“再生”するための物語。
これは、かくれんぼ遊びの中の原初的な死と再生の体験に通じるものであり、
藤田省三さんは、ここに、古来からの成年式
──社会の中で一人前の成人となるための通過儀礼を見ています。

そういえば、多田道太郎さんもまた、
「鬼ごっこ」や「かくれんぼ」遊びの起源には、
通過儀礼があったのではないかと推論していました(3)

子どもの頃、かくれんぼで感じた、あのさびしいようなせつないような感じ。
──あれは、ほんとに「ぼんやりと」感じたことですが、一種の人生経験だったんですね。
子どもたちは遊びの中で、我とは知らず、
そんな体験をぼんやりとくりかえしているのだと思います。
それは、異界体験でもあるのでしょう。

時に、そこは、孤独な体験をする場所だったりする。
子どもたちは、そこへ行って帰ってくる。
行ったり来たりをするのでしょう。

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《引用・参考文献》
(1)柳田國男「山の人生」〜「柳田國男全集4」ちくま文庫・所収
(2)斉藤研一「子どもの中世史」吉川弘文館
(3)多田道太郎「遊びと日本人」筑摩書房/角川文庫
(4)キャサリン・ブリッグズ、井村君江訳「妖精Who's Who」筑摩書房/ちくま文庫
(5)小松和彦「神隠し──異界からのいざない」弘文堂
(※同書は、小松和彦「神隠しと日本人」角川ソフィア文庫として文庫化されています。)
(6)アーサー・ランサム、神宮輝夫・岩田欣三訳「ツバメ号とアマゾン号」岩波書店
(7)飯島吉晴「子供の発見と児童遊戯の世界」〜「日本民俗文化大系・10『家と女性』」小学館・所収
(8)飯島吉晴「子供の民俗学」新曜社
(9)泉鏡花「龍潭譚」〜川村二郎編「鏡花短編集」岩波文庫/「泉鏡花集成3」ちくま文庫・所収
(10)高田宏「子供誌」新潮社/平凡社ライブラリー
(11)藤田省三「精神史的考察」平凡社ライブラリー
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f0223055_1425109.gif小僧さんは、行って帰ってくる


ところでわが身を振り返ると、筆者の場合、
“母親殺し”のような熾烈な葛藤を経てこなかったよなあという感じがします。
もっとも、これは無意識の問題で、意識することがなかったということなのでしょうか。
いえ、あるいは、それだけ精神的な自立という成長を
いまだに出来ていないということでもあるかもしれません。

ただ、こうした“母親殺し”のテーマは、西洋的な自我の中に多くあらわれるもので、
われわれ日本人の自我のあり方はまた違うのではないかと河合隼雄さんは述べています(1)

しかし、だからといって「ヘンゼルとグレーテル」の物語が、
日本人に理解できないということではないでしょう。
やっぱり共通の心性を揺さぶるものがあるからこそ、
日本人のわたしたちや子どもたちも、この物語にひきつけられるのだと思います。

日本 の昔話には“母親殺し”が見られるものは多くないと、河合隼雄さんはいいます(1)
やまんばを殺すはなしは多いのですが、
典型的に“母親殺し”と呼べるような“退治”にふさわしいようなものは割合と少ない。
蓬(よもぎ)や菖蒲で追い払ったりなど、“厄払い”に近いものも多く、
根絶しがたいものから一時的に逃れたり、
むしろ調和的に共存するようなテーマにつながるようなものもある。

そこに、無意識からはっきり分離して、意識化し、葛藤を経験するというのではなく、
意識・無意識があいまいなまま、葛藤も目立たないまま、
場の全体として調和的に解決しようとする日本の昔話らしさ、
つまり日本人らしさがあるのではないかというわけです。

ただ、やまんばを殺すにしろ、追い払うにしろ、
その結果、日本の昔話の主人公たちは物語のラストに、もとのもくあみの地点に戻ってくる。
主人公は、何も起こらないような始まりの地点にまた「帰ってくる」わけです。

そのとき、ドラゴン退治のような英雄的な「母親殺し」をなしとげたり、
ヘンゼルたちのように宝物を持ち帰ってきたりということは、
確かにどうやらそう多くはないようです。
やまんば退治が、小判や薬をもたらす類話もあるのですが。

彼らの多くは、ただ、「帰ってくる」。
しかし、母なるものの否定的、破壊的な側面を知った彼らは、
葛藤の経験こそしませんが、やはり変容しているのでしょう。

再び家の中の一体感に住まうにしても、それは単純素朴な一体感ではありません。
“自立”というはっきりしたかたちにはならなくても、否定的な面に気づき、
知った上で、なお母なるものとともに暮らしていくようです。
ここでも、「行って帰ってくる」とき、母なるものはやはり変容しているように思えます。

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筆者が手作りの紙芝居にしてよく演じているだしものに、「三枚のお札」というよく知られている昔話があります。
これは、「食べられたやまんば」という題でも知られているように、
本来は呑み込み、食べる存在である母なるもの=やまんばを、逆に食べてしまうはなしです。

栗拾いに山へ出かけた小僧さんは、「いい母親」像と思われる親切な山のおばあさんに誘われ、
彼女の家を訪ねる。
そこに用意されているのは甘い“お菓子の家”ではなく、甘い“栗”です。

※類話によっては、小僧さんは、花摘みや楢の実拾い、
あるいはタケノコ採りをしているときにおばあさんと出くわすなど、
栗は出てこないこともあります。
また、おばあさんが、「自分はおまえの乳母だ」とか「親戚のおばだ」とか詐欺をはたらいて
小僧さんを誘う類話もあります(3)

ヘンゼルたちと同様、栗のご馳走を腹いっぱい食べた小僧さんを待っているのは、
正体をあらわした、やはり人喰い魔女のようなやまんば。
しかし、ヘンゼルたちと大きく違うのは、
小僧さんは、やまんばと対峙し葛藤し、対決することもなく、
何もやりとげないままに、ただ、ただ、ひたすら逃げるのです。
グレーテルに比べると、ちと情けなくもあります。

……いえ、しかし、何かに出くわしたら、
生き物はトウソウ(闘争)かトウソウ(逃走)かを選ばなければいけないわけで、
やまんばなどというとんでもないものにぶつかったら、尻をからげて逃げ出さなければなりません。
グレーテルたちだって、魔女につかまって閉じこめられさえしなければ、
やはり逃げ出していたことでしょう。

また、その逃げっぷりは、
「古事記」の昔から日本ではおなじみの伝統でもあります。
イザナギノミコトも、
黄泉の国で死の女王となった“母なるもの”イザナミノミコトのもとから逃げ出す。

彼は、「見てはいけない」というイザナミの禁止を破り、その姿を見てしまう。
蛆虫がうごめき、膿があふれ、雷神(イカヅチガミ)たちが生まれ出ようとする 腐った体。
それは死体の描写でもありますが、グレートマザー(母なるもの)の一面の姿であるでしょう。

そのグロテスクさは、ちょうど「食わず女房」の主人公の男が、
女房となった女をのぞく場面を思わせます。
女は、髪をざわわっとふりほどき、あらわにした頭の口へ、五升飯やら鯖やらを放り込み、
やまんばの正体を現す。
そうして 女のグロテスクを「知った」男は逃げ出します。
イザナギもまた逃げ出します。
いわゆる“呪的逃走”とか“魔法的逃走”といわれるものですね。

逃げるときに鬘(かずら)を投げると野葡萄がはえ、
イザナミの追っ手たち(ヨモツシコメ)がそれを食べているすきに遠く逃げる。
さらに櫛(くし)の歯を投げると竹の子がはえ、
追っ手たちがそれを食べているすきに遠くへ逃げる。
さらにさらに「日本書紀」の一書によれば、
イザナギが巨木に放尿すると、それがなんと大川になって追っ手を引き止めることになります。
オシッコの川なんて、ヨモツシコメでなくとも敬遠したいところですが。

「三枚のお札」の小僧さんもまた同じように逃げます。
お札を投げると砂の山(類話によっては火の山など)があらわれ、
追っ手のやまんばの行くてを阻み、そのすきに遠くへと逃げる。
次にお札を投げると大川(など)があらわれ、そのすきにまた遠くへ。

ロシアでも、やまんばのような存在であるババ・ヤガーに追われる主人公の娘が、
やはりタオルを投げます。
するとタオルが大川になる。
次にくしを投げると、おそろしいくらいに茂った森があらわれ、ババ・ヤガーの行くてを阻みます(8)

いずれのはなしも“呪的逃走”が、母なるものと結びつけられているのがおもしろいですね。
“呪的逃走”のモティーフ自体は、古今東西に伝わるもので
(アールネによれば、特にアジアに源流があるのではないかということです)、
特に母なるものと関連するものではないようなのですが。

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ところで実は、小泉保さんが「ヘンゼルとグレーテル」の中にも“呪的逃走”のモティーフを見ています。
魔女をパン焼きがまで殺害した後、逃げる兄妹二人が出くわす大きな川が、
“呪的逃走”を語っていた昔の名残りだというのです。

つまり、もともとの話では、ヘンゼルとグレーテルは魔女を殺さないままに森を逃げ、
むしろ魔女の追跡を受けていた。
そこで、イザナギが放尿して、あるいは小僧さんがお札を投げて、
あるいはロシアの娘がタオルを投げて大川を作りだし、それぞれ追っ手の追跡を阻んだように、
二人の兄妹は最後に大川を作りだす。
そうして最後には逃げ切るという物語だったというのです。

ところが、語り継がれるうちに、いつしか呪的逃走の部分が忘れ去られて、
魔女を阻むはずの大川が、兄妹を阻むことになってしまった。
そうして、本来ならば、兄妹が変身するはずだった鴨も、
兄妹を乗せて運ぶ役目になったりするという取り違えが生じたのだといいます(4)

この説の通りであるとするなら、ヘンゼルやグレーテルは“母親殺し”をせずに、
小僧さん同様、尻をからげて逃げたことになりますね。

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イザナギは、黄泉比良坂(よもつひらさか)という坂まで逃げ帰ります。
そうして、黄泉の国(あの世)とこの世との境に大岩をおいて分断することに成功し、
そのためにイザナミはこの世へやってくることができなくなります。

「日本書紀」では、イザナギは岩ではなく、杖(木の枝)を投げて分断します。
これは岐神(フナトノカミ)、
もしくは久名戸祖神(クナトノサエノカミ)と呼ばれる神さまとなり、
“境の神”として村々の境などに祀られる賽(さえ)の神、道祖神の起源とされています。

「三枚のお札」の類話でも、小僧さんがわが家であるお寺の中へ逃げ帰った後、
やまんばが侵入しようとするところを、
和尚さんがピシャリと戸ではさんでつぶすというのがあります。

「戸」というのは、あの世(山奥)とこの世(お寺)の境目。
ちょうど黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)のような場所ですね。
そうした境で、意識をはっきりと分ける。
「分ける」というのは、象徴的には、男性的な行為でもあります。
そうして毅然と分けることで、異界の住人であるやまんばの侵入を拒むわけです。

しかし別の類話では、小僧さんは、お寺へ逃げ帰ることはできるのですが、
やまんばは、こちらの世界の家の中にまで踏み込んできます。
そういえば、お寺は山の中に建っているのであって、
そこはもともとやまんばのテリトリーであるのでしょう。
そこでようやく和尚さんに助けてもらう。
だから“母親殺し”とは言えませんが、やまんばは退治されることになります。

(※小僧さんの逃げるはなしと、やまんば退治のはなしは、
もともと別々の二つをくっつけたという説もあるようです。
柳田國男も、もともとは逃げるだけのはなし(逃竄説話)だったのが、
近世に改作されたらしいと述べています(5)。)

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その退治のしかたは、化けくらべ。
和尚さんはやまんばを挑発し、最初は巨大な大入道に化けさせる。
しかし、大きなものに化けられたとしても、小さなものには化けられないだろう、
となおも挑発する。
するとやまんばは得意顔で豆粒(類話によっては納豆や芥子粒)に化け、和尚さんはごびっと、
あるいはぺろりとそれを呑んで(あるいはもちにはさんで)、食べてしまいます。

この戦略パターンは、他のはなしにもよく見られるのでしょうか、
くわしく当たってないのでわかりませんが、
ペロー「長靴をはいた猫」も同じ手口を使ってましたよね。
猫は人喰いに、ライオンなんかには化けられないだろうと挑発してライオンに化けさせる。
次に、ネズミには化けられまいといって、ネズミに化けさせたところをつかまえて、
やはりぺろりと食べてしまいます。
こうしたやり口は、「おれは何でも出来るぞ」と驕るモンスターの急所をつく
お決まりの方法であるのかもしれません。

筆者は、この場面になると、「易経」の中の一くだりを思い出してしまいます(「火澤睽(けい)」の項)。

何かがやってくる。
その対象が遠くにいて、正体がよくわからないとき。
それは、孤独で疑い深い目で見ると、泥だらけのきたならしいブタのようだ。
あるいは、ワンサと化けものが乗っかった一台の車のようでもある。
そこで討とうと弓を張って構えるが、近づいてみて、構えをといてながめてみると、
それはあだなす敵ではなく、
かえって道をともにする結婚の相手であることがわかる場合があるというんですね(6)

つまり、同じものでも見る側の気持ちによって、
あるいは距離感、理解のし方によって、
実はたのもしい味方である存在がブタに見えたり、
化けもの搭載の車に見えたりする。

同じ怪物でも、おそれおののくときには猛々しいライオンに見え、
気を落ち着けて、文字通り「呑んで」かかると、ちっぽけなネズミに見えることがある。
そんなふうにやまんばも、大入道に見えたり、豆粒に見えたりするのかもしれません。

ただ、豆粒だからといって、もちろん見くびってもいけない。
類話によっては、豆粒となって食べられたやまんばは、
和尚さんのばば(糞)から蝿となってよみがえり、
全国に飛んで散らばっていくことになっています。

※別の類話では、天井に隠れた小僧さんが井戸に映りこみ、
その姿を追ってやまんばが井戸に飛び込んで溺れ死ぬことになっています。
これは、グレーテルにだまされてパン焼きがまへ飛び込んだ、
あのお菓子の家の魔女の自滅にも似たところがあるように思えます。



「行って帰って」きた 小僧さんは、帰ってきたところで救われ、
そうしてまた、前と変わらぬお寺での暮らしに「帰り」ます。

しかし、小僧さんは、母なるものの恐ろしさをその身に刻んで「知った」。
知って体験したことで、無邪気なままの以前とは変わっているのでしょう。
別の類話では、それまで和尚さんの言うことをきかなかった小僧さんは改心して成長し、
立派なお坊さんになったことになっています。

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筆者は、このはなしを手作り紙芝居にして演じたとき、
実は、後味にもの足らなさを感じてしまいました。
最後にやまんばをやっつけるくだりには爽快感があると思うんですが、
それがいまいちで、子どもたちの反応もいまいちのように思えたのです。

昔話──特に日本のものに多いように思われるのですが、主人公は受け身一方。
逃げたり助けられたり翻弄されるだけで、ちっとも活躍しない。
(受け身ということは、これはこれで大きな意味があると思うんですが。)

この小僧さんも、和尚さんにオンブにダッコで、
最後の最後までずっと頼りっぱなしのように思えました。

それで、ラストの何場面かを描き直して、
和尚さんがやまんば退治するところを小僧さんにさせてみたのでした。
やまんばが大入道になったところで和尚さんが尻にひかれてつぶされる。
(類話には、やまんばが和尚さんを食べてしまうというものもあります。)
隠れていた小僧さんは見つかって、いよいよ食べられることになる。
ここで、泣き虫で弱虫で逃げてばかりいた小僧さんが、 勇気をふりしぼってやまんばに向かい、
「いくらお前でも豆には化けられないだろう」と挑発する。
そこで豆になったやまんばを、和尚さんのアドバイスで呑み込む。

昔話のつくりかえはいけないと思うんですが、
グレーテルのように立ち向かうところが欲しかったんです。
まあ、演じ手が演じ手なもんで、
子どもたちの反応のいまいちさはあまり変わらなかったりするんですが。

こう描きかえて演じてみると、スリル度、緊張度は増した気がします。
が、その分、不安定感も増しました。

和尚さんは、父性の象徴であり、
やまんばの正体を最初から見抜いている賢者であり、
お札という不思議な力を操る魔術師でもあり、
ちょっとトボけたトリックスターのところもあり、
やまんばが現われても少しもあわてることのない、絶対的に頼れる存在であります。
恐ろしく強大な母なるものや恐怖を前にしてもだいじょうぶという、どっしりかんとした安心感を、
この物語に与えている。

その彼が、やまんばの尻にひかれるのは、絶対感が崩れてしまう。
大きな不安をもたらすことになります。

聞き手である子どもたちは、主人公の小僧さんの視点で物語を体験します。
しかし、和尚さんの存在自体は子どもたちの心の中に生きているのであって、
その和尚さんがやまんば退治をすることは、主人公の小僧さんが手を下さないとしても、
やまんばを克服することには変わりないかもしれません。

また、この物語が必ずしも“母親殺し”となっていないことは、前にも述べた通りです。
もしもそれがテーマにあるなら、物語の中の小僧さんの行動も状況も違ってくるでしょう。
それを最後だけ小僧さんに中途半端に“母親殺し”をさせるのは、
木に竹を継ぐことかもしれません。

……と、まあ、いろいろ問題点はあると思うのですが、
子どもたちの反応や演じるときの気持ちとしては、
やはり小僧さんには立ち向かってほしい気がして、
今のところはとりあえず、書きかえたままで演じています。
また、これから書きかえるかもしれませんが。

しかし、「行って帰ってくる」ことで、小僧さんは変容する。
小僧さんをやまんばに立ち向かわせることで、その変容の度を強調したいとも思うのです。

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ところで、ヘンゼルとグレーテルの家は、大きな森の手前にありました。
森は、子どもだけで入ったら、
迷い込んで出てくることのできないおそろしいところとされています。
二人は、その大きな森に行って、帰ってきます。

小僧さんと和尚さんが住んでいる寺は山(あるいは山のふもと)にあって、
小僧さんはその山の奥に行って、帰ってきます。
日本の山は、昔から、死者の魂が行くところとされている場所でもありました。

魔女ややまんばの棲む森や山は、
精神分析の考えからすれば迷路のような無意識の象徴ということになるでしょうか、
主人公たちは、そうしたこの世ではない世界──“異界”へ「行って帰って」くるのです。

そんな異界へ「行って帰ってくる」物語について、次にちょっと考えてみたいと思います。

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《引用・参考文献》
(1)河合隼雄「昔話と日本人の心」岩波書店
(2)「山姥ババ・ヤガー」〜山室静編著「新編世界むかし話集〜ソ連・西スラブ編〜」社会思想社・教養文庫・所収)
(3)関敬吾「日本昔話集成・第二部本格昔話」角川書店
(4)小泉保「カレワラ神話と日本神話」日本放送出版協会
(5)柳田國男「口承文芸史考」〜「柳田國男全集8」ちくま文庫・所収
(6)高田真治、後藤基巳訳「易経」岩波文庫

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f0223055_1336953.gifヘンゼルとグレーテルは、行って帰ってくる・その2


母なるもの──グレートマザーという無意識の象徴は、死と隣り合わせであるといいます。
「紅水仙」では、京子が追い求めた母親像が死をもたらしました(→参照ページ)。

日本神話のイザナミノミコトは、国を産み、たくさんの神を産んだ女神で、
代表的なグレートマザーといえるでしょう。
その彼女は、火の神を産んで死んでからは、黄泉に住み、
死の国の女王、黄泉津大神(ヨモツオオカミ)となります。

ギリシア神話で大地を司る農耕の女神、デーメーテル。
その娘のペルセポネーは、一身両体として母親と併せて祀られることも多い女神ですから、
いわば母なる神デーメーテルの分身。
この母娘二人もグレートマザーといえます。

そのペルセポネーは、冥府の王プルートーン(ハーデース)にさらわれて、
その妃となり死の国の女王となります(1)(2)

母なるものと死の領域が近しく語られている。
というより、その世界は同じところにあるのかもしれません。

しかし、昔話や神話の中では、死は、しばしば再生を意味することでもあるんですね。
ペルセポネーは、母親デーメーテルのもとへ帰ることを許されますが、冥府で石榴を口にしたため、
1年の3分の1を死の国、冥府で過ごさなければなりませんでした。
それは、大地の穀物が死を迎える冬の季節。

やがて春となり、ペルセポネーは実家に戻ります。
穀物の女神である大地の母親のもとで暮らす、その春から秋にかけての季節。
穀物は生き返るように大地から芽吹き、夏には青々と成長し、秋に実を結ぶ。

そしてまた、ペルセポネーが冥府へとおもむく冬には、枯れて死に、
春になると再び復活をとげる……。

一年生の植物は、1年の中で生と死をくりかえします。
その死骸を大地の土は呑み込み、腐らせ、豊かな養分として死を受け止める。
一方、その種から生を産み出し、植物を再生させるかのように発芽させ、
育てるのもまた土であるわけです。
人間もまた土からつくられ、土に帰ると記していたのは、旧約聖書の「創世記」でしたっけ。
生と死を合わせもつそうした大地のはたらきは、グレートマザーの象徴と重なります。

“地母神”は、まさに大地のはたらきを担う女神です。
母なるものは、人を呑み込み死に至らせるものですが、
自らの死とともに再生するものでもあるようです。

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やまんばが死んだとき、その祟りをおそれた人々が
“産土神(うぶすながみ)”として祀るという昔話があります。
“産土神”は、生まれた土地の神さまで、土と結びついていたり、出産に立ち会ったりする神様。
そういうものに、やまんばは再生する。

インドネシアやポリネシア、メラネシアには、
殺された女神の死体から作物や「よいもの」が生まれ出てくるという神話があります。
いわゆる「ハイヌヴェレ型神話」。
「死体化成型神話」ともいわれるものです。

インドネシア・セラム島の女神であるハイヌヴェレは、人間に生き埋めにされて殺されますが、
そこからイモが生えてくる。
これが今のイモの起源とされています(3)

吉田敦彦さんはそこに、古事記の女神たちや縄文時代の母神信仰との類似点、
そしてやまんばの起源をみています(4)
やまんばにも、焼き殺された死体から小判や万病の薬をもたらしたり、
死んだときの血が、蕎麦や唐黍(とうきび)、にんじんといった根の赤い作物につながる
という類話があるんですね。

もっとも「死体化成型神話」では、女神や女性ばかりが主人公となるわけではありません。
南太平洋圏でも、地方によっては、
男性に化身するウナギや男神が死んで作物を生む話が分布しています。
またたとえば、北米インディアンのアルゴンキン族には、
男性が死んでその死骸からトウモロコシが生えてくる話があります。

ジョーゼフ・キャンベルは、人類が狩猟生活から農耕生活へと変化するとともに死生観も変わり、
そういう変化がこれらの神話を生んだと語っています(5)
そうした農耕文化の影響もあるのでしょう。

しかし、農耕を育むこうした大地の死と再生のはたらきは、
地母神である“母なるもの”にぴったりのように思われます。

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そして「悪い母」なるものは死ぬことで、「いい母」なるものに生まれ変わったりする。

東京・池袋にも祀られている鬼子母神は、
元はインドのハーリーティ[訶梨帝母]という残酷な夜叉でした。
1千人という子どもを自分で産みながら、他人の子どもをとって食らうのです。
(※一説には1万人の子を産んだといいます。
やまんばが7万8千人を産んだことを考えれば、それでも少ないくらいですが。)

それを見たブッダが、彼女の末っ子のひとりを隠して戒めたところ、
狂ったように探し求めた末に改悟し、育児や安産の神として祀られるようになったのだそうです。
彼女は死にはしませんでしたが、わが子を失うかもしれないという死ぬ思いをさせられて、
「いい母」に生まれ変わったのでしょう。

人喰い魔女は、グレーテルにパンやきがまの中で殺されました。
彼女は再生して生き返ることはありませんが、
“母なるもの”はマイナスのはたらきがプラスに変わり、
「いい母」となって生まれ変わったかのようです。

魔女の家は、 ヘンゼルとグレーテルに宝物をもたらす。
また、それまでは二人を迷わし、窮地へと導いていた鳥は、今度は白い鴨となって、
二人が川を渡るのを助けてくれる。
この鴨は、どうやら二人乗りができるほどの大きさはあるらしく、
先に背中に乗ったヘンゼルは、妹にも乗るようにすすめます。

もしも以前のグレーテルだったら、かつてお菓子の家に二人で飛びついたように、
白い鴨にすがり、ただしがみついていくだけだったでしょう。
けれど今のグレーテルは、鴨にただむやみに依存するということはありません。
二人では重くて鴨の負担になるからと、一人ずつかわりばんこに運んでくれるように頼み、
自分はいったん待つのです。

ここで、一人ずつ渡ることは、自分の独自性、個性に気づき、自分の力と意志で生きていくこと。
だから、いっしょくたに二人で渡ることはできないと、ベッテルハイムが指摘しています(6)

二人は(グレーテルは特に)、この冒険とはいえないかもしれない冒険を通して、
成長したのでしょう。
そしてここに“母親殺し”の意味もあると思われます。

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“母なるもの”は殺され、死ぬことによって、再生にもつながる。
“母なるもの”は新しく生まれ変わるわけですが、それは、子ども自身が成長し、
その変容をとげた目から見たとき、“母なるもの”が変わって見える。
世界が変容して目に映るということでもあるのでしょう。

そうしてヘンゼルとグレーテルは、「行って帰ってくる」。
以前と同じ家の中に「帰って」、そこでまた暮らしていくことは、成長した彼らが、
母なるものと新たな関係をつくるということでもあるんですね。

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《引用・参考文献》
(1)ブルフィンチ、野上弥生子訳「ギリシア・ローマ神話」岩波文庫
(2)呉茂一「ギリシア神話」新潮社
(3)後藤明「南島の神話」中公文庫
(4)吉田敦彦「昔話の考古学」中公新書
(5)ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ、飛田茂雄訳「神話の力」早川書房
(6)ブルーノ・ベッテルハイム、波多野完治・乾侑美子訳「昔話の魔力」評論社
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f0223055_15182391.gifヘンゼルとグレーテルは、行って帰ってくる・その1


「ヘンゼルとグレーテル」は、「行って帰ってくる」物語です。
冒険……というより、これは“子捨て”の憂き目にあって家を出るはなしですね。
そういう成り行きになって、兄妹は行って帰ってくることになります。

“子捨て”は、昔の日本でもありました。
後で触れようと思いますが、日本には、儀礼的な形だけの“子捨て”の風習があります。
が、昔は、実際に子どもを捨てる“子捨て”も少なくありませんでした。

17、18世紀頃のヨーロッパ社会などでも、それほど珍しいことではなかった。
しかも、貧困などのためにやむなく子捨てに至るというのでなく、
さして理由もないのに子捨てをするケースも多かったそうです(1)
飢饉で食べものがないために、
仕方なくヘンゼルとグレーテルを手放そうとする両親は、まだましということでしょうか。

昔話が、こうした歴史的な現実の社会を反映していることも、じゅうぶん考えられます。
が、しかし、ここでは、
「ヘンゼルとグレーテル」は、「母親と直接結びついた内的な経験を、象徴的に表現」している
と説くベッテルハイムの声にも耳を傾けたいと思います(「昔話の魔力」(2))。
昔話のそういうあたりが、どうやら時代を超えて現代の子どもたちをも惹きつけるのではないかと、
紙芝居をやっていても思えるからです。

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さて、そのベッテルハイムによると、ヘンゼルたちの「食べものがなくなった」という状況は、
赤ちゃん時代、離乳の時期が来たからと母親がお乳をくれなくなったのに似ているといいます。
精神的な乳離れのときといえるでしょうか。
アナグマの母親が、母親から卒業する時期を迎えた子どもらに威嚇し、
「おまえたちの餌はもうここにはないんだよ」と、かみついて追い出そうとするかのようです。

そうして、ヘンゼルたちは「行く」ことになります。
が、すぐに「帰ってくる」。

これは、森へ捨てられに行くとき、道にばらまいておいた白い石をたどって帰ってくるという、
ヘンゼルの知恵によるものです。
が、ただ帰ってくるだけでは状況は何も変わらないんですね。

何か体験したり、感じたり、何かひと仕事しないと、
物語では「行って帰ってくる」ことにはならない。
不安にかられて、家の安心感にまだしがみつきたいというだけであれば、
これは、「帰ってくる」のではなく、途中で引き返してくることなのでしょう。
ちょうど2〜4歳の子どもたちが、
ポーズだけの「行って帰ってくる」遊びをくりかえすのにも似ています。

でも、このくりかえしが大事なんですよね。
くりかえしの中で、ほんとうに「行って帰ってくる」旅立ちの準備をしてる。
そうしてまたヘンゼルたちは、くりかえし森の中へ捨てられることになります。

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カール=ハインツ・マレ「首をはねろ!」(3)という本に、こんなエピソードが書かれています。
マレ自身の著書の講読会で、「ヘンゼルとグレーテル」の残酷性が話題になったのだそうです。
そこで、ある女性が笑いながら、子どものときの思い出を話し始めた。

「わたしが母に腹を立てたり、母がわたしに小言を言ったり、これこれのことはしてはいけないと言ったり、わたしの意志がとおらなかったりすると、わたしは勝手に、母は魔女で、自分はグレーテルなんだと思いました。
ほんとなんです。
その後、わたしはこの悪い魔女をうまいこと熱いパン焼きがまの中へ押し込んでやりました。」


すると、しーんと静まりかえった会場で、女性のかたわらの老婦人がぽつりと言ったそうです。

「なんていう娘でしょう、あのころ、お前はそんなことを考えていたのかね。」

当時はパン焼きがまに入れられてしまったその女性、今は年齢を重ねた母親の言葉に、
会場は大爆笑となったそうです。

この女性の空想は、まったく当を得たものであるでしょう。
これほどクリアーではないにしろ、わたしたちや子どもたちは、
心のどこかで魔女の正体に気づいているのではないでしょうか。
象徴として見たとき、実母、継母の区別はなくなります。
そして、その存在は、魔女とカブってくる。

甘〜い甘いお菓子で、やすらぎの“家”をつくる。
男の子のヘンゼルを自分の腕の中に閉じ込めて、ご馳走責めで太らせる。
女の子のグレーテルには家事を次々に命じて、厳しく躾けようとする……。
まさしく魔女=母なわけです。

その証拠に、魔女を殺して家に帰ると、
母親(継母)はいつのまにか亡くなったことになっています。
これを偶然とするには、あまりにもできすぎています。
そんな不自然なストーリー展開をわれわれ聞き手が納得して聞いてしまうのも、
魔女は殺したんだから、「悪い母親」が家にいるわけはないとひそかに感じているからでしょう。

この物語には、母なるものがいろいろ姿を変えて登場するんですね。

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ベッテルハイムは、鳥の果たす役割に触れています(2)

ヘンゼルは、最初、森へ行くとき、道に白い石をまくために立ち止まる。
その立ち止まる理由をヘンゼルは、
家の屋根にいる猫がさよならをするのでそれを見ていたと言い訳します。

そして二度目の言い訳で、屋根でさよならをしていると言ったのは、小鳩でした。
母親(継母)は、「あれはえんとつを照らす朝日だよ、ばかだね」と言うのですが、
聞き手(読み手)には、そのキラキラしている屋根のところで、
小鳩がさよならをしている光景がちらっと想像できたりするかもしれません。

道にまいたパンくずを食べて、二人を森へ迷わせたのは、数千羽の小鳥たちです。
その二人をお菓子の家に誘導して案内したのは、雪のように白い小鳥です。

また、魔女を殺して森を出ようとした二人が、川を渡れずに困っていたとき、
背中に乗せてそれぞれひとりずつ渡してくれたのは、白い鴨でした。

河合隼雄さんは、こうした鳥たちと母なるもの(グレートマザー)との結びつきを指摘しています。
いろいろな物語や、あるいはわたしたち現代人の夢の中でも、
グレートマザーと小鳥が結びついて登場することがよく見られるというのです(4)

たとえばグリム童話の「灰かぶり」(ペローの「シンデレラ(サンドリヨン)」)では、
まま母から意地悪をされたときに灰かぶりを助けたのは、小鳩やきじ鳩、そして小鳥たちでした。

日本の継子譚である「米ぶくろ粟ぶくろ」でも、
米ぶくろの実の母親が、白い小鳥として登場して、彼女を助けたりしていました。

継子譚には、他にもスズメやウグイスなどが登場する一連のはなしがあって、
柳田國男がこれらを「継子と小鳥」として分類しています(5)
これらは、まま母にいじめられたまま子が小鳥となるはなしも多いのですが、
悪いまま母が小鳥となるケースもあります。
母親像と小鳥のイメージは結びついているのでしょう。

(※継子譚の中には、まま母にいじめられて殺された我が子を探しまわった父親が鳥になって
「ワコウワコウ(吾子、吾子)」と鳴き続ける、というものもあります。
ここでは、父親も、母親的なはたらきをしているように見えます。)

そう言われてこの「ヘンゼルとグレーテル」を見直してみると、
たしかに鳥は、母親のイメージのプラスとマイナスの両方のはたらきを担っているようです。

最初、母親は人間として登場する。
そして、子どものこれ以上の養育を拒否するものとして、“意地悪なまま母”の顔を見せる。
小鳩は訣別を匂わせ、数千羽の小鳥はその退路を絶って、困難な旅へ向かわせる。
そして白い小鳥は、無意識のより深いところのイメージのモンスターとしての
母──魔女のもとへと導きます。

これは、母なるものが変化しているというより、子どもの心の中の母なるものが変わっている。
子ども側から見た母親“像”が変わっているということなんでしょうね。

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ベッテルハイムは、お菓子の家自体も、母親そのもののシンボルであるといっています。

しかし、それにしても、ヘンゼルたちがそのお菓子の家を食べるシーンはなんとも魅力的です。
食い意地のはった筆者にとっては、限りなく食欲をそそり、
限りなく食欲を満たしてくれるパラダイスにも映るのですが、どうもそれだけではないようです。

子どもたちは甘いものに目がない。それはもう胎児の頃から目がないのだとか。
もうじき出産を控えた妊婦さん。
そのお腹の羊水の中に、甘い甘いサッカリンを入れると、
胎児が羊水をガブガブ飲むようになった……という研究報告があるそうです(6)

“甘い水”を欲しがるのはホタルだけじゃないんですね。
糖分は、生きていく上に必要なエネルギーへとすぐに変わる栄養素。
その糖分を好む性質、甘いものを好む性質は、生き物に本能的なもの。
胎児にとっても、子どもたちにとっても、不可欠な欲求だということです。

いや、しかし、どうもそれだけでもない。

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「子どもは、口でばかり菓子を味わっているのではない。」
と、幼児教育の先駆者、倉橋惣三は書いています(7)

「子どもたちはなぜ甘いお菓子が好きか」
「お菓子はなぜ甘いか」
というその理由を、「我が子を思う母の心と同じ味のするもの」だからというのです。

三度の食事の機能的な栄養素を考える。一日30品目。
……というような現代の食教育からすれば、
食事以外のおやつ、そのお菓子の甘味に、親の心を見ようとするのは的外れでしょう。
しかし、これは“日本のフレーベル”といわれる倉橋惣三の
いかにも保育者らしい指摘のように思えます。

これが書かれたのは、昭和11年。
復刊されたのが、昭和20年の終戦直後。
食糧不足の当時、口に入れるものにも事欠く中で、
それでもあめ玉ひとつ、駄菓子ひとつの甘みをおとなは子どもたちに与えようとした。
そこに倉橋惣三は、子を思う母親の心を見ていたんですね。

そんな当時の母親たち、そして倉橋惣三は、
飽食の時代といわれる今日を想像することができなかったかもしれません。
日本は、残飯として捨ててしまうカロリー量が世界一を誇るという国になってしまいました。

合成甘味料と、過剰な砂糖にあふれ、
あるいは虫歯予防やダイエットに効果ありとうたわれる甘味がたっぷりのお菓子の氾濫。
それは母親の手から手渡されるのではなく、
TVのコマーシャルから、スーパーやコンビニの店先から、
直接子どもたちの胃袋へ運搬されるかのようです。
そこには、子を想う母の心が入り込む余地がないようにも思えてきます。

お菓子の氾濫の中に住む今の子どもたちにとって、
お菓子の家はそれほど魅力的には映らないでしょうか?
いいえ。
それでもやはり魅力的なのだと思います。

赤ちゃんの頃には、母親のお乳が食べもののすべて。
母乳はもともと血液ですから、文字通り、母親が「心血を注いで」子どもを養い育てるわけです。
人口哺乳であっても、離乳後でも、
母親が食べものを与えてくれる存在であることには変わりません。

摂食・過食障害は、母親との関係にその心理的な原因を持つケースが多いというのもうなづけます。
母親と食べものが結びつき、そこに甘さという味覚が結びついている。

「甘ゆ」という言葉が昔から、食べものの甘さと、精神的に甘えることの両方を意味してきたのは
けっして偶然ではないように思えます。
倉橋惣三が、お菓子の甘さの中に、甘えさせてくれる存在である母親の心を重ねたのも
やはり偶然ではないでしょう。

食べものがないと母親から拒否されたヘンゼルたちが、迷った末に見つけたお菓子の家は、
だから、ベッテルハイムが言うように、母親そのもの。
とめどなく甘えさせてくれる、超「いい母親」なんですね。

少々の甘いお菓子には食指を伸ばそうとしない今の子どもたちにとっても、
その存在はやはり魅力なのではないでしょうか。
むしろ母親の心に飢える現代の子どもたちは、
それを求めて甘いお菓子の氾濫の中に身を投げようとしているところもあるかもしれません。

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ところでこれは余談ですが、
お腹のポケットでなんでも望みをかなえて世話を焼く「ドラえもん」にしろ、
お腹がすいた子どもに自分の顔を食べさせる「アンパンマン」にしろ、
日本のヒーローは、母性的な性格のニュアンスが大きいような気がします。

ことに「アンパンマン」のあんパンの甘みは、
「我が子を思う母の心」と通じるものがあるかもしれません。
やられるたびに顔を焼いてもらい、「パン焼きがま」で生まれ変わるのも、
“母なるもの”を思わせます。
彼とセットで活躍する意地悪なバイキンマンは、
“母なるもの”のもう一方の面を担っているかのようです。

アンパンマンは、もちろん男の子ですが、彼のそうした母性的なところが、
子どもたちにとっては魅力のひとつともなっているのではないでしょうか。

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しかし、もしも現実にお菓子の家があったなら、
これを食べるには甘党を任じる筆者にとってもつらいものがあるに違いありません。
たぶん、甘すぎる。
甘さはあくまでもひかえめで、渋めのお茶か、苦いコーヒー付きにしてもらいたいところ。

子どもたちにとっても、これは難儀なものだと思います。
倉橋惣三の時代のように、1日にわずかのお菓子であれば心のうるおいともなるでしょうが、
のべつまくなしの大量の甘いお菓子では、味覚も食生活も狂ってしまいます。
狂った食習慣は将来の成人病にもつながりかねないと、
警告のイエローカードを受けてしまうところです。

それと同じように、超「いい母親」と背中合わせには、
危険な落とし穴である「悪い母親」=魔女がいて、罠をはっている。

母親側に悪意がないとしても、過保護まではいかないとしても、
そのいっしょうけんめいな愛情は、甘い快感漬けにして、居心地のいい一体感に留まらせる
──呑み込んでしまおうとするものです。

ここで、“母なるもの”は、
限りない甘えを欲し貪ろうとする子どもの心の中では“お菓子の家”となり、
成長しようとする心の中では“人喰い魔女”となる。
それはまったく同じものでもあるわけです。

そして子どもは成長するときには、マレのエピソードの女性が空想したように、
魔女=母親をパン焼きがまに入れて殺さなければならないんですね。

それは、現実的には、母親の価値観に反抗したり、
時には親子ゲンカや言い合いをすることでもあるでしょう。

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そうしてヘンゼルとグレーテルは、
あんなにも魅力的だったお菓子の家の裏側──「悪い母親」の部分を知ります。
というよりは、思い知らされます。

ヘンゼルは、行き過ぎた過保護の母親に扱われるように、
朝から晩まで、栄養、栄養と、ご馳走責めで太らせられます。
グレーテルは、言いつけに従い、
朝から晩まで水をくみ、洗濯し、料理、掃除と、きつい家事に追われることになる。

その後、彼女は魔女をパン焼きがまへ入れるのですが、
これは魔女がグレーテルを焼き殺そうと企んだ中に自らが入ってしまう──
魔女は自滅するようにも見えます。
グレーテルは、魔女が自滅するその時まで、勤勉を学びながら耐え忍んで待ち続けるかのようです。

「母親殺し」のためには、
母なるもの(グレートマザー)の荒ぶる攻撃性を自分のものにすることが求められるのですが、
しかしそれを抑制し、コントロールすることも知らなければいけない。
というノイマンの指摘が、ここでもあてはまるのでしょう(8)

そうして彼女は、“母親殺し”をやりとげるわけです。

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《引用・参考文献》
(1)E・バダンテール、鈴木晶訳「母性という神話」ちくま学芸文庫
(2)ブルーノ・ベッテルハイム、波多野完治・乾侑美子訳「昔話の魔力」評論社
(3)カール=ハインツ・マレ、小川真一訳「首をはねろ!」みすず書房
(4)河合隼雄「昔話の深層」福音館書店
(5)柳田國男「昔話覚書」〜「柳田國男全集8」ちくま文庫・所収
(6)小林登「こどもは未来である」岩波書店・同時代ライブラリー
(7)倉橋惣三「育ての心」フレーベル館
(8)E・ノイマン、林道義訳「意識の起源史」紀伊國屋書店
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f0223055_11593843.gif「意地悪な継母」は、どこからやって来たか


筆者が以前、「ヘンゼルとグレーテル」を手作り紙芝居にしたとき、
二人を森へ捨てるのは“継母”にするか、“実母”にするか、迷ったことがありました。

筆者の子どもの頃の記憶では、継母だったのですが、
グリム童話の初版では、実のお母さんなんですね。
グリム兄弟が採集した原話が、実母だそうです。
しかし、それは残酷だというんで、兄弟が第四版以降、継母ということに変えたらしい。
「白雪姫」を殺そうとするお后も、
もともとは実母だったのが、第ニ版から継母に変えられています。

そこで、筆者が演じたとき、実母の設定でやってみたことがありました。
子どもたちにとっては、これはショックだろうかと案じていたのですが、
特に反応はありませんでした。
しかしまあ、作品も演じ手も出来がよくなかったので、
反応がわからなかっただけなのかもしれません。


昔話が成立したと思われる時代のヨーロッパ社会では、
お産や産後に母親が命を落とす危険が高く、代わって子どもの面倒をみる継母が多かったそうです。
統計的に、たとえば18世紀のフランスでは、
子どもが成人する前に両親のどちらかが死亡することが多かったため、
継母が至るところに見られらたのだとか(1)

昔話に継母の登場が多いのには、そうした社会的、歴史的な背景も影響したのでしょうか。
しかし、“意地悪なまま母”というキャラクターは洋の東西を問わず登場し、
日本でも「継子譚」として、昔話の一ジャンルを成しています。

これはたとえば、グリム兄弟が行ったように、
後世の語り手が手を加えて“実母”を“継母”に変えるようなことがあって、
まま母という設定が広まったのでしょうか?

しかし、古さや頻度を調べていっても、
「まま母ばなし」は、ずいぶん昔からあちこちに伝わっていて、
最初からまま母という設定の話も多いのだそうです。

これはもともとのはなしであるにしろ、改訂されたにしろ、
まま母を登場させたい心理が語り手と聞き手の中に、
そしてわたしたちの中にあるということなのでしょう。

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マックス・リューティは、「昔話の解釈」の中で、
昔話に「まま母ばなし」の多い理由のひとつを、
人間がもつおおもとの感情をたどって説明しています(2)

それは「わたしは誰なのか?」という疑問。
「自分の正体を疑う気持ち」です。

たしかに、「自分はほんとうは何者なのだろうか?」というような問題は、
昔話によく見られるテーマです。
もしかしたら、自分は両親のほんとうの子ではないのではないか? 
親は何も言わないけれど、拾い子や、まま子なのではないだろうか?
子どもの頃、そんな思い込みをする子が多いことがよく知られているとリューティは書いています。

筆者も、幼い昔、そんな思いにふけっていたような記憶があります。
心理学的にはいわゆる“継子妄想”といわれるものですね。

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未知の世界は、おそれに満ちたもの。
小さな子どもにとって、この世界はすべてが未知です。
この世界に自分の居場所はあるのか?
自分は何者なのか? 
何のために自分は生まれたのか?
言葉になることもなく、意識にのぼることもないけれど、
こうした問いかけを子どもたちは心の奥底に抱えているのではないでしょうか。

それに対して、生存を保証してくれる満足感や安らぎ、ふれあいや、ぬくもり、
言葉かけや微笑みをもらうことは、
「おまえが好きだよ。おまえがいてくれてうれしい。おまえは、この世界に生きてっていいんだよ」
というメッセージをもらうことでもあるでしょう。

そのメッセージは、一生を生きていく上でのよりどころとなるのかもしれません。
メッセージをくれるのは
家族であったり、保育者であったり、周りのおとなであったりするわけですが、
母親はそのいちばん最初に出会う代表的な、そして象徴的な存在です。


しかし、現実の母親は、始終何もかも受け入れてくれる「いい母親」であるわけではありません。
悪さをすれば叱る。
無理なわがままをいえば、たしなめる。
感情だってあります。
野放図な子どもの欲求にどこまでも応えるわけではありません。
けれど、小さな子どもにとっては、これが理解できないことでもある。

リューティは、
哲学者ウィトゲンシュタインがその著書で語っている、こんなエピソードを紹介しています。
ウィトゲンシュタインが、自分の子どもの頃のことを回想して書いています。

「わたしがまだ子どもだったころ、わたしの母親がわたしの大好きなおもちゃを取り上げたことがあった。
このとき──ただし、このときだけだが──母親はわたしにとってまま母となった。
わたしは母親をそうは呼ばなかった。法律的な意味でまま母というものがあることを、わたしはまだ知らなかった。わたしはただそう感じただけで、それを言いあらわすことはできなかった。
わたしはそのとき母親にこう聞いた。
『いったいあなたはわたしの本当のお母さんなの?』」
(2)

おもちゃを取り上げたくらいで“ニセもの”呼ばわりされるお母さんもいい迷惑ですが、
小さな子どもの目から見ると、こうした気持ちになることがあるのだと思います。

自分の存在を認め、受け入れてくれる母親と、それを阻害する母親。
そのプラスとマイナスのイメージのあいだで揺れ動く。
そうした矛盾が生まれてくる。
そこで物語の中では、

「悪い継母を空想すれば、良い母親のイメージをそのままとっておけるだけではなく、その継母にたいして怒ったり悪いことを願ったりしても、罪の意識を感じなくてすむ」(ブルーノ・ベッテルハイム「昔話の魔力」(3)

ということになるのでしょう。

矛盾をまだ受け入れきれない小さな子どもたちの成長過程にとっては、
やさしい母親のイメージが必要なのかもしれません。
冒険に行って「帰ってくる」そのホームには、
自分を待ってくれる、いい母親がいてほしい気持ちがあるんですね。
そうした気持ちが、「いい母親」と「悪い母親」を分離させて空想させる。

つまり、「悪い母親=意地悪な継母」を登場させることになる。

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新潟にこんな伝説があるそうです。

名を京子という娘が継母に毎日折檻され、いじめられる。
そうして悲しみにひしがれ歩いていると、池に自分の姿が映っている。
京子は、その姿を母だと思い込み、その姿を追い求めて、池の中へ入って死んでしまう。
すると、池には美しい紅水仙が咲くようになり、
人々はその花を京子の生まれ変わりだと言うようになったということです。

司修「紅水仙」(4)に取り上げられているはなしです。

この伝説では、継母ということになっていますが、
実母に虐待されるということも現実にはありうるのでしょう。
実母が子どもに対して殺意を抱くことさえありうる。

そんな 「白雪姫」初版のような“子殺し”の現実があることは、
現代のわたしたちが常日頃、事件の報道やニュースを通じて見知っていることでもあります。
しかも、保険金目当てといった金・モノ至上主義や、利己的な生き方という動機によって。

ささいなストレスがきっかけで、虐待死させることもある。
ネグレクト(育児放棄)は、母親であることさえやめてしまい、時に子どもを死に至らせます。
それがけっして他人事ではなく、自分自身や身の回りでも起こりうる。
そのことに、わたしたちも気づいているのかもしれません。
また、“虐待”という直接的な行為でなくても、
無視や罵倒、嘲笑などといった圧力が、子どもを傷つけることもあるでしょう。

そうした場合でも、子どもは、母親の中にある「いい母親」を信じたいと願う。
実際には憎しみ怖れる文字通りの「悪い母親」で、「いい母親」が幻想であったとしても、
子どもはそれを求め続ける。
池にはまるという死を賭けてさえも、母親に抱かれたいと願うものなのかもしれません。

その痛切な想いは、
昔話の悪辣な実母を継母に変えて伝えたグリム兄弟や、多くの語り手たちの気持ちと
通じるものがあるのではないかと思います。

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それにしても、“意地悪な継母 ”というイメージの濡れ衣を背負わされる、
現実の継母の方には迷惑な話しですよね。

けれどほんとうは、実母であれ、継母であれ、そして父親や家族や保育者の中にも
「いい母親」と「悪い母親」が共存するのであって、
物語のそうした事情を、子どもたちは言葉にできなくても、
心の奥底の方では、じゅうぶんに理解しているのではないでしょうか。

“継母”という法律上のことばを知らぬままに、
母親の中にそれを見出した幼い日のウィトゲンシュタインちゃんに似たような経験は、
誰でも心当たりがあるのではないかと思います。
昔話の物語は、そうした気持ちを拡大して、強調して見せてくれるのです。

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子どもたちに対するとき、わたしたちおとなは「いい母親」であり、
それゆえに「悪い母親」でもあります。

また、「悪い母親」にもならなければなりませんね。
場合によっては、たとえば食事中に遊びをはじめようとするおもちゃを取り上げなければ。
小さなウィトゲンシュタインちゃんを泣かせようとも。

そしてもっと深いところでは、旅立とうとする子どもに対して、別れを告げなければならない。
実際に別れて暮らすということではもちろんなく、自立する子どもに対しての別れです。

「かわいい子には旅をさせよ」と昔からいいますが、
時には死別さえ覚悟しなければならないような旅へと送り出すことは、
実際にはつらくさびしいものです。

だから、危険がいっぱいの鬼退治へと出かける桃太郎を見守り、見送るおばあさんはえらい。
きびだんごさえ持たせてあげる。

以前、アナグマの生活を追ったTV番組を見たことがありました。
母アナグマは子育ての期間を終え、子どもが自分で捕食できるようになると、
子を威嚇し攻撃し、巣から追い出します。
それはもう激しい攻撃で、しかし子どもは、その母親の手痛い仕打ちをきっかけに、巣から離れ、自立していきます。

こうした子別れの儀式のような行動は、他の動物でも多く見られるのだそうです。
この行動を人間にあてはめることなんてもちろんできませんし、
だから過保護はダメなんだといって、ただ突き放すのではダメなのでしょう。

しかし、何かに挑戦したり、ひとりで何かしようとする──旅立とうとするときには、
突き放して見守ることも必要となります。

桃太郎をほんとうに信じているからこそ、おばあさんも送り出すことができた。
もしかしたら鬼が島の土と成り果て、
もう二度と帰ってこないかもしれないという冒険へ送り出すその信頼と覚悟は
たいへんなものだったのではないかと思います。

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これを、子どもの側から見たとき、心の中では激しい葛藤が起こることになります。
ノイマンは、そのようすを、人間の自我が発達していく過程の中で説明しています(5)

その著「意識の起源史」によると、
混沌(カオス)の中で最初に自我が芽を出すとき、世界は母なるものの姿となる。
その世界は、まだ弱々しい芽にとっては、自我を受けいれ、養って育ててくれる
「いい母親」像 ──プラスの母なるものです。

が、その一方で、一体感の中へ呑み込み、自我の成長を阻んで離そうとしない。
元のカオスへと逆行させる「悪い母親」像──マイナスの母なるものとして映ることにもなります。

そこから成長するとき自我の意識は、無意識の母なるものから分離しようとする。
その旅立とうとする行動は、
英雄神話として昔から語られてきたような冒険に旅立つことでもあるわけです。

そうしてその冒険の過程では、“母親殺し”がひとつのテーマになるといいます。
実際の殺人事件だったらエライことですが、
これは、心の中の象徴としての“母なるもの”、
自我を飲み込もうとする無意識との対決ということ。

しかし、エライことには変わりなく、ほんとうに自立するためには、
母なるもの(グレートマザー)との凄まじい対決を乗り越えることが求められるというんですね。

筆者は、なんでもかんでも冒険は“母親殺し”に結びつけられるのだろうかというところが
いまいちわからないのですが、
母なるものとの葛藤というのはよくわかる気がします。
母アナグマの攻撃に、子どものアナグマは為すすべもなく巣を追い出されるのですが、
心の中では、母親と対決し、戦い、乗り越えなければならない。


この「母親殺し」ということ。
これは、昔話によく登場するテーマでもあるんですね。

「ヘンゼルとグレーテル」は、まさにその「母親殺し」が行われる物語のひとつです。
そして、「行って帰ってくる」物語でもあります。

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《引用・参考文献》
(1)ロバート・ダーントン「農民は民話を通して告げ口する」~ロバート・ダーントン、海保真夫・鷲見洋一訳「猫の大虐殺」岩波書店・所収
(2)マックス・リューティ、野村泫訳「昔話の解釈」ちくま学芸文庫
(3)ブルーノ・ベッテルハイム、波多野完治・乾侑美子訳「昔話の魔力」評論社
(4)司修「紅水仙」講談社
(5)E・ノイマン、林道義訳「意識の起源史」紀伊國屋書店
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