カテゴリ:紙芝居/脚本を書く( 12 )

f0223055_11473522.gifやまんばは、どこからやって来たか


「やまんば」といえば、
2000年代、ファッション・リーダーとして注目されたこともありましたね。
少女たちは競って彼女の真似をして街を歩き、「ヤマンバ・ギャル」といわれました。
日焼けして真っ黒な顔に、メッシュの入ったボサボサの髪。
目の周りの白を強調したメイク。
ホンモノのやまんばが、そうしたファッションをしていたかどうかは不明ですが、
昔話のイメージは、現代人のこころの奥底にひそかに生き続けていたりするのかもしれません。

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彼女は数々の悪名高い物語を残しています。
その食欲の旺盛なことときたら!
牛をまるごと一頭みちみちと食いつくした後もなお、牛方を食おうと追いかけたり(「牛方と山姥」)、
頭の後ろの口に五升の飯を放り込んだ上になお、男を食おうとしたり(「食わず女房」)、
小僧さんをがしがし食おうと追いかけたり(「三枚のお札」)、
などなど、数々の事件の主犯と目されているのが彼女です。

鬼になったり、おおかみになったり、蜘蛛になったり、退治されてからは蝿になったり、
古むじなの正体をあらわしたりと、彼女はモンスター的でもあります。

その一方で、くりくりと働いて炊事洗濯をする。
背負子(しょいこ)で子どもをおぶるように、男を桶へ放り込んで山へ担いでいく。
ご馳走をせっせと作って食べさせる。
添い寝をしようとする……
と、そのやり口は、母親的でもあります。

長い乳房に巻き込んで人をさらうという長崎の昔話でのやり口は、
モンスター的でもあり、かつ母親的でもあります。
(その後、彼女は焼けた石を乳房に放り投げられてさんざんな目に合うのですが。)

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やまんばには「山母」という字が当てられることもあるように、お母さんとしての側面があります。
浄瑠璃の近松門左衛門作「嫗山姥(こもちやまうば)」などによると、やまんばは、
まさかりをかついで熊と遊んでいたあの金太郎(坂田公時)のお母さんです。
もっとも、近松門左衛門が作る前から「山姥金時」などといわれる原型の伝説があったんだそうで、
昔から彼女は金太郎のお母さんとしても知られていたようです。

ちなみに、肥後天草(現・熊本県天草地方)には、やまんばが子どもを産んだとき、
自分の赤ん坊と人間の赤ん坊を取り替えたという昔話があります。
そして自分が育てた人間の子が金太郎(金時・公時)となり、
人間が育てたやまんばの子が酒呑童子になったのだそうです(1)

彼女は、善玉の金太郎であれ、悪玉の酒呑童子であれ、
非凡な人物のお母さんだったりするんですね。

また、彼女は神さまのお母さんだったりもします。
三人の子どもをその地で育てた“子生嵶(こうみたわ)”という岩が
遠江(とおとうみ)(現・静岡県浜松市天竜区佐久間町)にあるそうです(2)
その岩にはお産の苦しみのときに彼女がつけた爪の跡も残っているのだとか。
この“子生嵶”で育てられた3人の子どもは、実は、近隣の山々の三柱の神さまなのだそうです。

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こうしたお母さんとしてのやまんばの姿は各地で目撃されています。
子どもを連れて焚き火にあたらせていたという「山姥石」が
阿波(現・徳島県美馬郡つるぎ町半田〈旧・半田町〉)にあったり(2)
岩手では、12人の赤ん坊を産むところを猟師に助けてもらったりもしています(3)

一度に12人とは大変だと思いますが、彼女はたいていは3~4人の子を産むそうです。
が、いちどきに7万8千人の子どもを産むこともあります(4)
暖冬といわれるような雪の少ないあったかな冬が来ると、山村の人々は
「ああ、今年はやまんばが産をするそうな」
と噂をしたといいます(2)
やまんばのお産を、みんなが気にかけていたんですね。

能の世阿弥作「山姥」に登場する彼女は、
山にひそむ自然の精霊というイメージの存在です。
時に残酷で、生命力に満ちた彼女は、自然そのものを体現した姿だったりするのかもしれません。

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そんな彼女は、継母に虐められている娘を助けたり(「糠福と米福」「継子の栗拾い」)、
村人に恵みを施し、息災を守ったり(「ちょうふく山の山んば」)、
食べものや作物を増やして村人を助けたりもしています(5)

また、「山梨とりの兄弟」の話には、
三人兄弟にアドバイスをして助ける岩の上の婆さまをやまんばとする類話もあります。
主人公に対する援助者としての役割を受け持つことも少なくありません。

よいこともする。
母うさぎに劣らぬやさしい面をもっているわけです。

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柳田國男が、山奥で生活する人々との脈絡を示唆する一方で、
母性としての女神である姥神、その姥神のいる山や、
山の神との関わりからやまんばが生まれたとしているのも、ごく納得ができます。
姥神、つまり母なる女神が零落して妖怪化したのが、やまんばだというのです。

「天道さん金の鎖」といった昔話では、
やまんばは、ちょうどグリム童話「おおかみと七ひきの子やぎ」のおおかみさながらに、
ニセの母親に化けて、留守番の兄弟をだまします。
声色を変えたり、荒い毛を剃り、そば粉を塗って白くした手を戸口の隙間から見せて、
「ほら、お母さんだよ」などと詐欺をはたらく。
(類話では、毛だらけの手につわぶきを巻いて、子どもに触らせたりもします。)
そうして家の中へまんまと入り込み、生まれて間もない末っ子を食べてしまい、
指をコリコリかじるなんていうことをする。

ニセの母親。
──これほど、やまんばにぴったりのキャスティングはないでしょう。
そしてひょっとしたら、彼女はニセものではなく、本物の母親だったりもするのです。

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ちなみに、こうしたやまんばの親戚はロシアにもいて、
彼女はババ・ヤガーと呼ばれ、ロシアの昔話に登場します。
ドイツにいるホッレおばさんやトルーデおばさんなどもやはり親戚筋にあたる人でしょう。
彼女たちもやはり、人を助ける一方で、人に悪さをします。

彼女たちがよく糸車を回したり、機を織る名人だったりするところは、
日本のやまんばとも共通するところです。
ホッレおばさんには、古代ゲルマン信仰の女神「ホルダ」が零落して
「ホレ」というおばさんになったという説もあります。
そのあたりも、姥神が零落したといわれる日本のやまんばに似ていますね。

ホッレおばさんはグリム兄弟の『童話集』にも顔を見せていますが、
兄弟がその翌年に出版した『伝説集』の方でもずいぶん活躍しています(6)
彼女もやはり、いい話と悪い話の両方を残している。
もっとも、怠け者の糸紡ぎ女のより糸をもつれさせたり、
朝寝坊の女のふとんをはがして石畳の上に寝かせたり、
などという悪さはあまり罪がないように思えますが。

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河合隼雄さんは、こうしたやまんばや、やまんばの親戚筋にあたるおばさんたちの二面性について、
「山姥の仲人」の類話を引いて説明しています(7)
そのはなしでは、おばあさんが孫をかわいがる。
もう、かわいくてかわいくて、ぺろぺろとなめてしまうほどのかわいがりよう。
すると、なめているうちに、孫を食べてしまったというのです。
それ以来、おばあさんは鬼婆になってしまったのだとか。

母親は、子どもを慈しみ、包み、ひたむきに愛する。
しかし、そのひたむきさがマイナスの面をあらわすことにもなるんですね。
ひたむきにかわいがることが、成長と自立を阻むことになる。
いつまでも自分から離れないでほしい、小さいままでいてほしい。
自分との一体感を継続させたいということが、相手を取り込んで自分の一部にしようとする
──つまり、「食う」「飲み込む」「包み込む」「おしつぶす」という
やまんばの典型的な行動パターンにつながっていくというわけです。

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ここに、“母なるもの”の二面性があります。
母うさぎが、やさしい母親となるか、やまんばとなるか。
それは、子どもたちの成長の段階によって、その心の揺れ動きによって変わってくる。

子どもたちは最初、母親のまなざしのもとで、
小さな冒険へ「行って帰ってくる」をくりかえします。
冒険に飛び出して母親のもとから離れても、
すぐに不安になって戻ってきて、母親につかまえてもらいたいと願う。
しかしやがて、そこから成長した子どもたちは、さらに大きな冒険へと踏み出していきます。
母親から自立して離れていこうとする。

発達的には、探索活動が、冒険ごっこや探検遊びに発展していく。
そして、おとなに対して秘密をもち、仲間同士で秘密を共有するようになり、
秘密基地やそうした隠れ家で遊ぶようにもなっていきます。
そうした旅立ちのときになっても、つかまえにやってくる母親は、やまんばなわけです。

桃太郎がいざ鬼退治に出かけようとするとき、
おばあさんがきびだんごなど持たせようとはせずに、
「そんな危ないところに行ってはいけません! 鬼退治なんてとんでもない。何が不満なの? 
なんであなたがわざわざ行く必要があるの? 
桃太郎や。あなたはまだまだ子どもなんだから、
家の中にいて私たちと安らかに暮らしていればいいの。
私はあなたのためを思って言ってるのよ。どうして私の気持ちがわからないのかしら。
猿やキジだなんて、あんな悪いお友だちといっしょに遊んではいけません。
隠れて出かけようとしても、私はつかまえに行きますからね」
などというようなものです。

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子うさぎも、母うさぎに追いかけられて息がつまりそうなどと言っているうちはいいのですが、
食われてしまうこともありうるわけですね。
「食われてしまう」──つまり、母親との一体感の中にとりこまれて、成長を止められてしまう。

精神分析のユング派は、これを“グレートマザー(太母)”という概念で説明しています。
これは、“母”そのものではなく、“母なるもの”ともいうべき無意識の概念だそうで、
誰でもが根源的にもっているもの。
つまり、母親に限らない。
父親や保育者という立場であっても、
わたしたちおとなは、 こうした面を子どもたちに対して持っているのかもしれません。

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《引用・参考文献》
(1)谷川健一「鍛冶屋の母」河出書房新社
(2)柳田國男「山の人生」「柳田國男全集4」ちくま文庫・所収
(3)松谷みよ子「民話の世界」講談社現代新書
(4)松山義雄「山国の神と人」未来社
(5)吉田淳彦「昔話の考古学」中公新書
(6)グリム、桜沢正勝・鍛冶哲郎訳「ドイツ伝説集」人文書院
(7)河合隼雄「昔話と日本人の心」岩波書店
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f0223055_1524287.gifビルボ・バギンズとフロド・バギンズは、行って帰ってくる


J・R・R・トールキンの「指輪物語」と、その前史ともいうべき「ホビットの冒険」
どちらも、冒険を描いたファンタジーに違いないのですが、
それぞれの主人公、フロド・バギンズとビルボ・バギンズは、
どちらもおおよそ冒険にはふさわしくないキャラクターであるところがおもしろいと思います(1)(2)

ことに「ホビットの冒険」は、竜を倒し、宝を手に入れるという典型的な骨格をもった冒険譚です。
にも関わらず、竜を倒す勇猛果敢なヒーローは別にいて、
主人公ビルボは、冒険の主人公らしい勇壮な仕事をするというわけではありません。
どっさり宝を持ち帰るということもしません。

ビルボ、そして甥のフロドは、どちらも温厚な平和主義者。
どちらかといえば家にいて庭の手入れをする方が好き。
歌を作ったりするのが好きで、暴力は見るだけでも怖じ気づいてしまうというタイプ。
(それでいて、いざというときに勇気とか魂の気高さが垣間見えるところがミソですね)。

読者にも親しみやすいそんな彼らが冒険に巻き込まれていくうちに、
読者もまた、物語に巻き込まれてしまうようです。

その 「ホビットの冒険」のサブタイトルが、「行きて帰りし物語」です。
(原題は、“ The Hobbit, or There and Back Again”)

冒険といえば、冒険を求めて「行く」物語だと思いがちですが、
彼らは行った後に、また「帰って」くるのです。

「指輪物語」の冒険の最中、作者はサムという登場人物にこう言わせています。

……(冒険の物語の)めでたしめでたしというのは、
家に戻って来て、そして何も変わりがないってことを見つけるこってすからね、
すっかり同じっていうわけにはいかなくってもね……」
(1)

スリルと波乱に満ちた冒険の物語は、
退屈な日常から逃れることのできるエンターテイメントでもあります。
しかし、それだけではない。
冒険はわたしたちの心の内的な欲求から必然的に生まれくるテーマでもあるでしょう。
彼らは冒険に行って、冒険を乗り越える。
そして行ったきりの片道切符ではなく、再び家に「帰って」くるのです。


f0223055_1525645.gif子どもたちは、行って帰ってくる

この「行って帰ってくる」ということは、子ども向け文学の大きなテーマのひとつではないかと、
「ホビットの冒険」の訳者でもある児童文学者の瀬田貞二さんは書かれています(3)

「行って帰ってくる」動作や遊びは、 子どもたちが日常的にくりかえしていること。
子どもたちは、ひとつの場所にじっとしているということはありません。
どこかへ行って、また戻る。
そうした単純な運動として、身体的にもなじみやすい。
そしてそれは、子どもたちの「発達しようとする頭脳や感情の働き」にも即していて、
受け入れやすい形なのではないかというのです。

そして瀬田貞二さんは、昔話や創作作品の例をあげ、
ことがあって、また元に戻るという物語の構造について言及しています。

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この文字通りの「行って帰ってくる」遊びが、子どもたちの日常でよく見かけられます。

2~4歳ごろでしょうか、
「行ってきまーす」と言って、部屋から出たかなと思うと、
すぐに「ただいまー」と戻ってくる。
「どこへ行ったの?」ときくと、「お買い物」などと答える。

こうした遊びが、保育士さんたちの研究会で話題になったそうで、
そのようすを、汐見稔幸さんが書きとめられています(4)

「『どうしてイッテキマーチュが好きなのかしらね』
『多分ね、親との心理的距離が少しとれるようになって、親や大人から離れても大丈夫という感覚が育ってきたからじゃないかなあ。
大人のまねをしながらその自立心を表現するんだと思うんだけど、でもそんなに1人で遠くへはまだ行けない。
すぐ不安になって安心できる世界へもどってくるんだけど、少し1人で難れるスリルが楽しいんじゃないかな』」


なるほど、出発してはまた戻るという「プチ冒険」の遊びをくりかえしながら、
子どもたちはほんとうの出発への練習をしている──自立への準備をしているというわけですね。

ところでこの話し合いの中で、
「行って帰ってくる」遊びをする子と、しない子の2通りがあることが指摘されています。
そうした遊びをしない子は、わりあい、母親との親子関係のきずなが薄く、
離れていても、それほど不安に思わないのではないかという意見も出されています。

が、筆者は、必ずしもそうではないように思います。
きずなが薄く母子関係に不安を感じている子ほど、
逆にしがみついて離れたがらないということがあるのではないでしょうか。

安定した親子関係のきずなが築かれてはじめて、子どもは離れることができる。
親という安心できる港があるからこそ、
子どもたちの小さな船は荒れる外海の冒険へも出航することができます。
もしも帰るべき港が不安定で、不安を感じさせるような場所であれば、
子どもたちはしがみつくように港から離れようとはしない。
ほんの浅瀬の距離でも船を出そうとしなくなります。

これは、医師でもあるJ・ボウルビィが詳細な分析を通して指摘していることでもありました。
子どもは愛着の対象である家族や保育者との信頼関係を安全基地とすることで、
前線へと足を踏み出すことができるというのです(5)

発達的には、1歳半頃までに、
自分を甘えさせてくれる、自分を受け入れてくれる信頼関係が成り立つことで、
自立へと続く探索活動につながっていくとされています。

が、これは年齢に関係ないのかもしれませんね。
小学生になっても、思春期になっても、はたまたおとなになっても、
ほんとに自立するためには、 信頼関係という依りどころがないとだめなのでしょう。

そうして子どもたちは一歩を踏み出し、「行って帰ってくる」遊びをする。
「行って帰ってくる」物語を好む。

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探索活動という面では、子どもたちは生まれながらの冒険者です。
最初は、寝たまま。
手を伸ばしても数10センチの世界です。

目は見えていても、
生後2~4か月ごろまでは、目の焦点をじゅうぷんには合わせることもできないので、
視覚の範囲は限られています。
が、いろんなものを見てますよね。
目で追ったり。
いろんなものをさわったり、しゃぶったりもする。

「はいはい」で移動が可能となると、世界は、10メートル四方へと拡大する。
(もっとも10メートル四方なんて、これは広い部屋のある家の場合ですが。)
そして移動しながらの探索が開始されます。
ゴミを拾ってはなめまわし、何かを拾ってはなめまわし、たしかめる。

発達心理学のシェーファーによると、
6ヶ月の赤ちゃんは、見なれたものと見なれないものを自分で区別できるにもかかわらず、
好奇心のおもむくまま、無差別に近づいていくのだそうです。
ところが8ヶ月になると、見なれないものに対して警戒心が生まれる。
そして1歳児では、なじみのないものを確かめようとするとき、
母親の方を振り向くという態度が見られるといいます。
母親の反応を見て、それが危険なものか、安全なものかを確かめようとするんですね。

ひきだしをあけて、冷蔵庫をあけて、何かを発見。
化粧品をこぼしたり、マヨネーズをしぼったり、電気のスイッチをいじったり。
彼らのこうした好奇心と冒険の成果は、
いやー、われわれおとなには単なるイタズラとしか見えません。
このとき、その活動のほとんどが、母親のいるところで行われるというのはおもしろいと思います。

今井和子さんが、1歳~2歳半ころの子どもたちの家庭での探索活動を調べたところ、
その活動は、台所、居間、鏡台の周辺で行われることが圧倒的に多かったといいます。
つまり、母親がいつもいるような場所で、子どもたちは小さな冒険を重ねる。
またその行動は、身近なおとな(特に母親)のまねをすることが多く、
おとながよく使うものを好んでさわりたがるという特徴があるんだそうです(6)

今井和子さんは、探索行動は、「母親と子どもの親密なかかわりを軸にひきおこされる」といいます(6)

そうして、あちこちをひっかきまわして、そんな一騒動をひきおこしておきながら、
何か発見があると、母親を呼んでその成果を見せるということもあります。
見てもらいたいんですね。
高級化粧品をそこら中にふりまき、あたりをベタベタにして暴虐の限りをつくした末に、
その犯行現場(彼にとっては成果)をニコニコしながら母親に見せる
──なんていうことをするのもこの頃です。

やがて母親の反応を確認しながら、やっていいことか、いけないことかを学んでいく。
母親のまなざしを確かめながら、未知のものに触れ、
母親のまなざしを確かめながら、冒険をくりかえす。
それがやがて「行って帰ってくる」遊びにもつながるのでしょう。


f0223055_1642414.gif子ウサギは、行って帰ってくる

この「行って帰ってくる」遊びに見られるような、
母親(保育者)と子どもの心理的な距離感がうまく描かれてるなあーと思う絵本に、
マーガレット・W・ブラウン「ぼくにげちゃうよ」(7)があります。
(この物語はストーリーテリングとしても語られていて、「ストーリーテリングについて」(8)の小冊子にも
『いたずらこうさぎ』として紹介されています。)

子うさぎが、あるとき家出をしたくなって、
「ぼく、にげちゃうよ」と母うさぎに言います。
すると、母うさぎは、“ぼく”をつかまえちゃうという。
そこで、子うさぎは魚になって「ぼく、にげちゃうよ」。
すると、母うさぎは、漁師になって、 “ぼく”をつかまえちゃうという。
子うさぎが山の岩になって逃げると、母うさぎは登山家になる。
小鳥になれば小鳥が止まる木の枝に、
船になれば帆を張る風になって、そのたんびに追いかけると言います。

絵本では、お母さんうさぎが、ニンジンを餌にした釣り竿をもった漁師に扮したり、
綱渡り嬢になったり、風を起こす雲に変身したりという絵がなんとも楽しい。

そして結局子うさぎが、
「子どもになって、家の中ににげちゃう」
というと、母うさぎは、
「お母さんになってその子をつかまえて抱きしめますよ」。
そこで、子うさぎはどこにも出かけませんでしたというはなしです。

子どもは成長とともに、もっと遠くへ行きたい、冒険をしたいと願うわけです。
それまでは、母親のまなざしのもとで小さな冒険を重ねていたのが、
母親からもっと離れて外へ出ていきたいと思うようになる。
自立したいと思う。
けれど、まだ一人では不安で、すぐに母親のもとへ帰りたくなる。
母親につかまえてもらいたいとも思うんですね。

鬼ごっこをして逃げるのだけれど、鬼が追ってこないとさびしい。
鬼につかまえてもらいたいという気持ちがある。
揺れ動く、そうした矛盾した気持ちが、「行って帰ってくる」遊びにもあるのだと思います。

筆者は、小学生の頃、小さな家出をしたことが何度かありました。
たいていは、お腹がすいて、夕食どきには帰ってくるというたわいのないものでしたが、
ある日の夕方、衝動的に飛び出したことがあります。

そのときは、本人もわけがわからない。
家族はもっと、わけがわからなかったでしょう。
しかし、結局、飛び出してはみたものの、近所の資材置き場になっている空き地の土管で、
真っ暗な夜の中をぼおーっとしていただけ。

今、考えてみると、とにかく逃げ出してしまいたい気持ちと、
その一方、家族が探しにきてくれるのを待つような、
ほんとに探しにきてくれるかどうかを試すような、そうした気持ちがあったのだと思います。

なんとも幼い気もしますが、
「ぼく逃げちゃうよ=つかまえて」ゲームをしていたのかもしれません。

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松井るり子さんが、「ごたごた絵本箱」(9)という本で、この「ぼくにげちゃうよ」の絵本を取り上げています。
そしておもしろいことに、この母うさぎが、昔話の「牛方と山姥」のやまんばみたいに見えると書かれているんです。

つかまえにくるのも程度の問題で、こんなにしつこかったら息がつまってしまうというんですね。
どこへ逃げても必ず追いかけてきて、自分より大きな存在となってつかまえる母うさぎ。
絵本では、いかにもやさしそうな顔に描かれている母うさぎですが、
なるほど、そう考えてみると、たしかにやまんばに見えるかもしれません。

母うさぎが、やさしい母親となるか、やまんばとなるか。
それは、子どもたちの成長の段階によって、
その心の揺れ動きによって変わってくると筆者は思います。

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《引用・参考文献》
(1)J・R・R・トールキン、瀬田貞二・田中明子訳「指輪物語」評論社
(2)J・R・R・トールキン、瀬田貞二訳「ホビットの冒険」岩波書店
(3)瀬田貞二「幼い子の文学」中公新書
(4)汐見稔幸「ことばを通じて探る心の世界一保育の場での言語発違研究法」~保育の科学「別冊・発達6」1988年8月・ミネルヴァ書房・所収
(5)ジョン・ボウルビィ、黒田実郎・岡田洋子・吉田恒子訳「母子関係の理論」岩崎学術出版社
(6)今井和子「自我の育ちと探索活動」ひとなる書房
(7)マーガレット・W・ブラウン文、クレメント・ハード絵、いわたみみ訳「ぼくにげちゃうよ」ほるぷ出版
(8)ユーラリー・S・ロス、山本まつよ訳「ストーリーテリングについて」子ども文庫の会
(9)松井るり子「ごたごた絵本箱」学陽書房

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