カテゴリ:日々のことなど( 5 )

たいていは夜中に雨が降ったその朝。
植え込みの土から這い出てくるのでしょう、
ミミズが道路のアスファルトをウロウロしているときがあります。
そのままでは、太陽が昇っても土に帰ることが出来ず、
干からびてミイラになってしまう。

そこで、時間に余裕のある朝は、
ただちにNPOミミズ救助隊を組織して(と言っても隊員はひとりなのですが)、
シャベルでミミズをすくっては、土のあるところへ戻す。
なんていうことが、時々ありました。

ところが、その夜はいい月夜で、雨は一滴も降りませんでした。
にも関わらず、駐車場の隅に、ミミズ発見。
その朝に限って、一匹だけ。
どこをどうして歩いて来たのか、土のあるところからはだいぶ離れています。

いや、つくづく思ってしまいました。
なんて馬鹿なんだろう。
というのも、彼は、土のある方向には向かわず、
反対方向の広い駐車場を目指してせっせか、せっせか、歩いている──、
いえ、這っているのでした。

彼にとっては大陸ほどもありそうな広さの駐車場です。
本格的に日が昇るまでの数時間のうちに横断出来るとはとても思えません。
日干しのミイラになるか。
はたまたスズメのエサとなるか。
もしくは駐車場にやってくる車にひかれてセンベイになるか、です。

しかも駐車場の向こうの植え込みは、ブロックの壁に囲まれていて、
たとえ横断出来たとしても、そこには垂直の壁が待っている。
どうがんばっても、絶望的です。

あ。
馬鹿ではないのか。ミミズには目がないんだっけ。
と気づきましたが、いや、しかし、
目がなくても、目のはたらきをする細胞はついているそうです。
光は感じられるはず。

いやいやしかし、考えてみれば、たとえ目が見えたとしても、
彼は、地上から推定4~5ミリの高さでまわりを見渡しているわけです。

「虫瞰」「鳥瞰」という言葉があります。
「虫瞰」──地面を這いずり回る虫の視点で見ること。
細部をしっかり丁寧に見る。
対して「鳥瞰」は、空飛ぶ鳥の視点で見ること。
空高くから、地図や見取り図をながめるようにして、大局を見る。

ホモ・サピエンス一族の中では背の低い部類に入るおれでも、
ミミズに比べればはるかに背が高いわけで、
「鳥瞰」でながめることが出来ます。
その目から見れば、駐車場を横断しようと死の方向へ向かっている彼の行動は、
とんでもなく馬鹿げた暴挙です。

けれど、「虫瞰」のミミズの目からはわからない。
アスファルトの荒野の先に、
ミイラになるか、エサになるか、センベイになる運命が待っているのか、
それとも奇跡的に安息の土の場所にたどり着くことが出来るのか、
神のみぞ知るというところなのでしょう。

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「古事記」に、仲哀天皇のこんなくだりがありました(1)

別名、帯中津日子(足仲彦・タラシナカツヒコ)。
お父さんがヤマトタケル。
奥さまが神功皇后。
息子さんが応神天皇です。
有名人ファミリーに囲まれているわりには存在感の薄い方のような気もします。
というのも、道半ばで急死されたからでしょう。

仲哀天皇が熊襲(クマソ)討伐のため、九州の筑紫に滞在中のときのこと。
シャーマンである奥さまの神功皇后は、
神懸かりして住吉大神(=墨江(すみのえ)大神)の神託を告げます。

そして宣(のたま)うには、西の方角、海の彼方の先に、金や銀や宝物に満ちた国がある。
その国を属国として、天皇に授けてあげようというのです。

ところが仲哀天皇は、
「いやいや、高いところに登って西を見ても、ただ大海があるばかりで、
国土なんか見えません」
うそつきの神さまだなあと言って、琴を弾くのをやめてしまいます。

皇后が神託をするとき天皇は、神聖な楽器である琴を弾いて、
妻の神懸かり状態を盛り上げるのが、儀式のルールだったそうです。
その琴をやめて、黙ってしまう。

そこであわてたのが、大臣の建内宿禰(タケシウチノスクネ)。
「弾き続けて下さい、弾き続けて下さい」と強く促したので、
渋々天皇はまた弾き始めます。

と思ったら、ふつと音が途切れて、声もしなくなる。
そこで灯火を差し上げて様子をうかがうと、
すでに仲哀天皇の息は事切れていたというのです。

お告げの言葉を信じようとしない天皇に、
神さまが怒って命を絶たれたのだと伝えられています。

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西の海の彼方の国というのは、当時、朝鮮半島にあった新羅(しらぎ))です。
対馬に渡れば、天気のいい日には肉眼で見えるそうですね。
が、筑紫からではさすがに「高いところに登っても」見えないでしょう。

しかし、神さまがどう言おうと、
九州・熊襲(クマソ)の併合さえままならない不安定な時期に、
わざわざ他国へ侵略に出かけるべきではないというのは、
賢明な選択だったのではないでしょうか。

国を理想的に統べるためには、国土があまり大き過ぎてもいけない。
国家というのは、高いところにのぼってひと目で見渡せるくらいの広さがちょうどいい。
──と言っていたのはアリストテレスでした(2)
見渡せない他国を侵略するよりも、見渡せる国土の充実をはかろうとしたことは、
むしろ評価されていいように思われます。

経済の利があるからといって、他国の島を我が国の領土だと強引に主張するのは、
昔も今も得策であるとは思えません。

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しかし、まあ、歴史的にいえば、当時の天皇が、新羅の存在を知らなかった
ということはあり得ないでしょう。

が、もしも、神話の通り、新羅という国の存在さえ知らず、
海の向こうにどんな国があるかもわからなかったとしたら……。
そんな大海原に乗り出すのは、
これはそうとうな勇気がいるんだろうなと思います。

ひょっとしたら、どこまで行っても島なんかないかもわからない。
ひょっとしたら、嵐にあったり、
当時のことだから、龍だとか、海坊主だとか、
未知の生物に出くわすと考えたかもわかりません。

無茶苦茶な航海をすることで有名なマンガ「ワンピース」の主人公一味でさえ、
「ログポーズ」などというような磁石が必需品です。
そんな磁石も持たずに、
ばかりか、海図や地図さえ持たずに、
ましてや、島があるんだかないんだか、情報も不確かなところを航海するというのは、
これは死を覚悟することだったに違いありません。

もしも神さまのお告げも何もなかったとしたら、
未知の海へ船を漕ぎ出そうだなんて、これは暴挙以外の何ものでもない。

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それを考えると、大航海時代の人々はすごいですね。

いくら羅針盤や航海技術があったとしても、
地球はきっと丸いんだろうという推測があったとしても、
黄金や香辛料や功名心に駆り立てられ、欲望に目が眩んでいたとしても、
新しい航路開拓が、当時、国家的な事業であったとしても、
生きて還れる確率は何パーセントだったでしょう?
なのに彼らは、出かけていった。

何があるかわからない未知の海へです。

その航海の果てに何かしらの島にたどり着けた者は、ほんの一握りでしょう。
ヴァスコ・ダ・ガマのように成功したらヒーローですが、
それ以外の大半の人々は、途中で引き返してくるのが関の山。
海の上で餓死や病死をした人も多かったとききます。
嵐にでも出くわせば海の泡と消え果てる。
犬死にです。
これはリスクの大き過ぎる危険な賭けと言わざるを得ません。
馬鹿と呼ばれてもしかたがありません。

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ミミズも、ずっと土の中にいれば平穏無事な人生であったろうに。
わざわざ地面の上へ顔を出すことはなかったのにと思います。

まさしく盲滅法、目隠しをしたスイカ割り状態。
ただ、やみくもに歩く(這う)。
死が待っているばかりだとも知らずに、そんな方向へ懸命に向かってしまう。

しかし、彼らの馬鹿な暴挙がなければ、ミミズ社会に明日はないという話もあります。

ミミズの仲間の大半は、オスでもメスでもない雌雄同体ながら、
誰かしらとくっついて交配をして増えます。
でも、狭い場所のご近所同士ばかりで、代々近親交配を繰り返していたら、
遺伝子の多様性がなくなり、劣った遺伝子をもって生まれる確率が高くなる。
ミミズ社会が活性化するためには、新陳代謝が必要です。
遠く離れた地に住むものたちの、新しい血を導入していかなければならない。

だから一部のミミズ連中が故郷のご近所から旅立って新天地へ向かおうとするのは、
これは本能なのでしょう。
人間が地面をアスファルトやコンクリでおおいさえしていなければ、
有効な自然のシステムです。
たとえ9匹無駄死にしようとも、1匹どこかの異国にたどり着ければ、
もしかしたらじゅうぶんなのかもしれません。

大航海の時代だって、馬鹿と呼ばれるその他おおぜいの彼らが海へ出かけなかったら、
ヨーロッパとアフリカやアジアを結ぶ交易は起こりませんでした。
アメリカ大陸の発見もありませんでした。
それが後世には、先進国が後進国を侵略するという帝国主義につながったわけですが、
そうしたマイナス面も含めて、歴史の進展はなかったでしょう。

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けれど、ひとりひとりのミミズの身になってみれば、これはたまったものじゃない。
無駄死にするために、この世へ生まれて来たわけではないはずです。
いや、それとも、たとえ無駄死にであっても、
結果的にミミズ社会に貢献できればいいと考えているのでしょうか。

ミイラか、エサか、センベイになる運命とも知らず、
懸命に全身をうねうねさせて、せっせか、せっせかと進むその姿は、
滑稽でもあり、そして哀しくもあります。

鳥瞰の眼からは「そっちの方向じゃないよ」と思わず声をかけてやりたくなるってもんです。
たとえ目隠しをして目が見えず、鳥瞰の目を持っていなくても、
周りから「スイカはそっちじゃないよ」と言われれば、方向転換することが出来る。

仲哀天皇に声をかけた住吉大神の心境も、こんな感じだったのかもしれませんね。

神さまにはスイカが見えていて、つまり海の向こうの国が見えていて、未来が見えていた。
山の上から見渡すよりも遥かに上空からの「鳥瞰」の目を持っていた。
天の視点にいる神さまからすれば、自分の言う通りの方向へ行こうとしない態度は、
きっともどかしくてしょうがなかったのでしょう。

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夫の死後、神功皇后は妊娠中にも関わらず、神さまの言う通り、
女性ながらに、海の彼方へ戦争に出かけていきます。
すると神さまが請け合った通り、新羅は降参して属国となる。
その最中、子どもが生まれそうになったため、お腹に石を当てて出産を鎮めて遅らせ、
筑紫へ帰り着いたところで応神天皇を産みます。
まさしく「母は強し」。

……ということに、神話ではなっています。
しかしながら、実際の歴史では、新羅(しらぎ)征伐はなかったともいわれています。
そもそも、仲哀天皇や神功皇后が実在したかどうかさえあやしいという説もあるのだとか。

しかし「侵略=正義」だった帝国主義の時代、
神功皇后は「戦うお母さん」のイメージとともにスター的なヒロインとなり、
明治の頃には、紙幣や切手のデザインになってもてはやされました。

神話の中では、神さまのご託宣があってそれに従いさえすれば、100%の成功が約束され、
確実に英雄(ヒーロー、ヒロイン)となることが出来るようです。

が、現実はたぶんそうはいかない。

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誰でも、Aの道を行くべきか、Bの道を行くべきか、
選ばなければならないY字路に立たされることがあります。

卵は、目玉焼きにするか、生でごはんにかけるか。

なんていう選択はどうでもいい問題かもしれませんが、
たとえば、仕事を優先するか、家庭を優先するか、とか。
職場を辞めるか、続けるか、とか。

どちらが正しいか、どちらがプラスとなるのか、
わかっていれば苦労はありません。

そんなとき、住吉大神のような神さまがいて、
「こっちの方向へ行きなさい」と指示してくれるといいんです。
殺されてはたまりませんが、決断する責任を誰かが請け負ってくれると、気が楽です。

占いは迷信といいながらも、現代人が占いに頼って、
背中を押してもらおうとする理由も、そこにあるのかもしれませんね。
おれも、一時は占いに凝ったりしたのでした。

「鳥瞰」は、“空間”を全体的に見渡すことですが、
神さまには、どうやら歴史という“時間”を「鳥瞰」してその先の結果が見えるらしい。
「そっちの方向じゃないよ」とか「そっちの方向へ行け」とか言えるわけです。

アメリカ・インディアンのチーフ(酋長)のひとりポカゴンという人は、彼の一族の行く末を案じ、自問自答するようにこう語っています。

「まだ生まれていない時のベールをあげ
未来をのぞき見る力は、われら人の身にはありません。
さような力をおもちなのは、神だけです。
しかも、その神でさえ、過去と現在とを念入りに調べてのち
はじめて未来を見分けることができるのです」

(サイモン・ポカゴン、ポタワトミー族)(2)

そしておそらく神さまだって、
選んだその道がほんとうに正しかったのか、正しくなかったのかを見分けることは、
そうとうに難しいのではないでしょうか。
見当違いの方向へ進んだとして、
そのために被害をこうむり、よしんば死に至ったとしても、
それが正解ではないと言い切れるのか、どうか。

むしろ回り道をしたり、無駄な道草をすることが、いいことである場合だって
きっとあると思います。
正解が一つとは限らない。
そう考えると、たとえよくない結果が待っているとわかっていたとしても、
馬鹿だ、無茶だ、やめろと言えるのか、どうか。

ミミズにとって自滅だと思われる暴挙も、
もしかしたら彼自身にとっては意味のあることなのかもしれない。

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神話ではない現実では、われわれ人間は誰でも、時間的には、虫瞰の眼しか持てません。
あるのは、目の前にある「今」だけです。

毎日、同じ時間に起きて、飯を食べて、出勤するというプログラミング通りの生活だとしても、
その先に想定外のことが起こるかもしれない。

一寸先は闇、一秒先は闇。
一秒後に、地震が起こるかもしれないし、
一秒後に、何かしらトラブルが生じたり、
一秒後に、たとえば相手の気持ちが急に変わったりするかもしれない。

わたしたちは誰でも、どんな瞬間も、
先の見えない闇へ手探りで舟を漕ぎ出そうとしている存在なのでしょう。
その未来の彼方には、何が待っているかわからない。

なので、AかBかの大きな岐路に立ったとき、悶々と悩む。
大きな仕事をしたり、大きな決断をしなければいけない人ほど、
大きな悩みや苦しみを抱えていたりするのかもしれません。

おれたち凡人は、ほんのちっぽけなことでも、悩む。

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ミミズは、たぶん自分の決断で、のそのそ地上へ這い出て来たのでしょう。

あるいは彼には神さまのお告げが聞こえたりしたのでしょうか。
このアスファルトの向こうには、金や銀や宝物があるとか、ないとか。

いえ、もしかしたら、神さまの命じる通り──
つまり自然が与えてくれた本能の命じる通りに、ただ、出て来ただけなのかもしれません。

ミイラか、エサか、センベイかという自分の未来を、彼は不安に思っているのか。
あるいは、まったく何も考えていないのか。

いずれにしろ、やっぱり、馬鹿です。
ただ、ただ、ひたすらに懸命にせっせと体をうねらせてアスファルトの荒野を行く。
結果が無駄死にだろうが、何だろうが、自分の行きたい方へ、ひたすらに歩く。
──ひたすらに這う。



おれはリスペクトをもって彼をシャベルにすくい、
花壇の土の上へと丁重に投げ入れたのでした。











《引用・参考文献》
(1)福永武彦訳「古事記」~「日本国民文学全集1」河出書房
(2)エドワード・S・カーティス写真、井上篤夫訳「ネイティヴ・アメリカンの教え」ランダムハウス講談社
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古代中国では、周の時代以来、「服喪三年」ということが儀礼として行われていたといいます。
人が近親者、特に父母を亡くしたときには、3年間、喪に服すというのです。
(もっとも3年といっても足かけ3年で、
実際には2年と1ヶ月、一説には2年と3ヶ月ほどだそうです。)

礼について細かに記した書「礼記(らいき)」には、次のように書かれています。
父母の死後1年間は粗末なめしと水のみを食する。
約1年後の小祥忌(しょうしょうき)が終わって、野菜や果物を食べることができる。
足かけ3年目の大祥忌(たいしょうき)を終えてはじめて、肉や酒が許され、通常の生活となる。
そのあいだ、礼式に参加することはもちろん、遊びに興じたり、笑うこともつつしみ、
つまり「謹慎」します。
そのつつしみを破ることが、「不謹慎」なんですね。

「しかし3年だなんて、まあ、足かけにしたって、これはちょっと長過ぎるんじゃないですかね?」
と言ったのは、孔子の弟子の宰予(さいよ)でした。

喪の期間には、家に引きこもり、礼式や音楽などに関わることもない。
文化の中心であり担い手である君子が、3年もの間、礼や音楽から離れれば、
礼はすたれるし、音楽文化だって盛り上がらなくなる。
去年の穀物がつきたとしても、年が改まればまた新しい穀物が実るもの。
1年もたてば気持ちも新しくなる。
喪に服するのは、1年くらいでいいんじゃないでしょうか。
──と、宰予は主張するわけです。

問われた孔子は、逆に聞き返します。
1年で通常の生活に戻ったとして、しかし、だからといって、うまいご馳走を食い、
きらびやかなファッションを着飾ったとしたら、おまえのこころは安らかでいられるかい?

「いられます」
と、宰予はケロリと答える。

すると孔子は言います。
──君子は、父母を喪ったらそのかなしみのあまり、うまいものを食べてもうまいと感じられない。
音楽を聴いても、楽しいと感じられない。
立ったり座ったり、日常のことをしていても、安らかではいられない。
だから、自然に服喪の生活にこもることになるのだ。
だが、もしもおまえのこころが安んじていられるのであるならば、そうするがよかろう。

孔子はそう答えたものの、しかし、宰予が辞去してその場を去った後、こう漏らします。
──宰予は不人情なやつだ(1)

宰予という人は、弟子の中でも弁舌の才人として知られたそうですが、
どうも孔子と相性がよくなかったのか、しばしば孔子の不興を買っています。

けれどこのくだりの場面では、宰予の意見も一理あるという気がします。
実際、服喪三年は長過ぎるとして、周から数百年も経った孔子の時代には、
すでにあまり守られていなかったようです。
墨家では、孔子ら儒家を批判して、「服喪三月」と言い、3ヶ月間の喪を主張している。

しかしこれは、守らなければならない“しきたり”というよりも、
孔子が言ったように、近親者を喪った遺族のためにあるシステムであるように思われます。
だから孔子も、「礼を守りなさい」と宰予に迫るのではなく、直接的には、
「あなたがそう思うようになさい」と告げたのではないでしょうか。

「喪に服す」という慣習は、かたちを変えながらも、世界の各地で行われている。
それは、共同体が遺族のために用意した知恵であるようにも思われるのです。

公(おおやけ)の集まりとか、世間のつき合いに出向いて、
宴会や音楽や笑いや楽しみの場に参加すること。
しかしこれは、「悲嘆の仕事」のプロセスを歩む、
まさにかなしみのまっただ中にある人にとっては、楽しめるものではないでしょう。
苦痛だったりします。

だから遺族は、そうした社会のつき合いから一線を引いて、
社会の日常からある一定の距離をおくことを許される。
「喪に服す」期間を設けるというのは、遺族が「悲嘆の仕事」を行い、
そのために社会から距離をおくことを、社会が認めることでもあるわけです。

日本でもやはり、死を「けがれ」として忌み、
故人の遺族は、外部との接触を避けるという習慣があります。
そして一定期間、生産的な日常の社会から隔離されてこもります。
つまり、喪失を経験してこころの危機にある人が、「悲嘆のプロセス」に専念して
取り組みやすいよう、環境を整える。

しかし距離をおくことを認めるといっても、突き放すわけではありません。
その時期その時期が来たら、小祥忌や大祥忌など、故人をしのぶ会をとり行います。
(仏教では四十九日や一周忌などの法要。神道では五十日祭や式年祭など。
キリスト教では追悼ミサや記念式などが、これに当たります。)

そのとき、遺族を囲んで、社会のみんなが集まるということにも意義があるのでしょう。
そうして、段階的に、遺族が日常の社会へ復帰することを促します。

日本では、忌みこもる人のために、周囲が食事を用意し、世話をするという習慣もあったそうです。

しかしながら、今回の震災では、そうも言っていられませんでした。
古代中国では、故人の死後は粗末なめしと水のみの食事でしたが、
今回は当初、めしどころか水さえ飲めなかった地域があります。
いまだに、野菜も果物も満足に食べられない地域があります。

「悲嘆の仕事」以前に、まず、水を飲む、食べる、寝るという、
最低限の生活のための仕事にかからなければならなかった。
そして今も、ふつうの日常をふつうに営むための仕事が山積みしている。
こころが「悲嘆の仕事」に専心することは難しく、余裕もなく、
それゆえ、こころのケアということが、より求められるのだと思います。

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第二次大戦の頃、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ評議会の指導者であるアダム・チェルニコアウは、
ナチスからの厳しい警告を受けながらも、子どもたちを遊ばせようとしました。
“遊び”推進派。

しかしそれは「不謹慎」であるという反対派から、
伝統的な喪の週間には「パーティ、また音楽や歌曲の発表」を一切禁じるべきだ
という請願書を受け取ります。
ちょうど中国で、服喪のあいだ、「礼」「楽」が禁じられていたように。

その反対派を説得しようと、チェルニコアウは彼が気に入って
いつも繰り返していた作家ディケンズの言葉を投げかけます。

「涙で時計のネジは巻けない」

すると反対派のひとりはこう答えたといいます。

「ユダヤ人の時計は、まさに涙で巻かれるのだ」(2)

ユダヤ人の歴史と当時の状況を考えれば、確かにネジは涙で巻かれていたのでしょう。
けれどもユダヤ人に限らない。
涙でネジを巻かなければならない「仕事」をするときが、誰にもあるのだと思います。

大切な人、大切なものを喪失したときは、くよくよしていい。
めそめそ泣いていい。
いや、めそめそしなければならない。

「悲嘆」を無理矢理忘れようとするのでなく、「悲嘆の仕事」から目をそむけず、
やり遂げること。
そのネジは、まさに涙で巻くものであるでしょう。

しかしながら、その一方で、その最中にも、遊びや笑いが必要なのだとおれは思います。

なぜなら、大きく左へ揺れた振り子のおもりはやがて折り返し、そして力強く右へと振れるように、
たとえ過酷な寒さと大雪に見舞われても、
一陽来復、冬至になればその大雪の下の土の中では、春へ芽吹く準備が始まるように、
そうした生命のしくみが、どんな人間にもあると思うからです。

とくに、生命自然のかたまりであるような子どもたちには必要なのではないでしょうか。

じゅうぶんに涙でネジを巻く必要がある。
一方で、少しずつ、微笑みで巻くネジもある。

それは時に、軽佻浮薄な、お馬鹿な、不謹慎な笑いであるかもしれません。
けれど、そうした笑いや微笑み、それらをもたらす遊びや音楽や物語もまた、
ネジを巻く力のひとつとなるのではないかと思うのです。

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A・デーケンさんは、「にもかかわらず」笑うということの大切さを説かれていました。

しかし、かなしみに打ちひしがれている人のまさにその目の前で、
歯をむきだしにして馬鹿笑いをするような、高笑いをするような、
そんな笑いは憚(はばか)れるでしょう。
軽佻浮薄に浮かれて、歓ぶように楽しむように、遊びに興じることもやはり憚れる。
「不謹慎」だと思います。

今回の震災は、国を揺るがす大きなことでした。
非常にたくさんの方が、今、悲嘆のプロセスを歩んでおられます。
同じ地を共有するものとして、同じ国を共有するものとして、あるいは同じ人間として、
同情するのでなく、同調するのでもなく、
そうした方たちのかなしみにいくらかでも想いを馳せることは、これは自然なことだと思います。
そこから、「不謹慎」だと思う感情も生じてくる。

もしかしたら宰予のこじつけかもしれませんが、
彼は、社会を担う人々が長期にわたって「喪に服す」ことで一線から退き、
そのあいだ、社会や文化を衰退させることを心配していました。

しかしながら、社会は、「喪に服す」というシステムを設けることで──
“かなしみ”と“日常”を切り離し、セパレート化することで、
衰退を食い止めてきたのだと思います。

つまり、社会まるごと全部で、喪に服するわけではない。
かなしみの仕事に従事する人々のエネルギーを欠く分、
そのあいだ、残りの他の人々がサポートして社会を回す。
そうして遺族がその仕事を終えたとき、社会の日常へ復帰が出来るように、
社会を盛り立てておく。

今回のように大規模な不幸に見舞われた場合、
国全体でかなしみを分かち合おうという気持ちも生じてきます。
けれど被災された方々は、被災しなかった人々に対して、サポートしてくれること、
気持ちを知って認めてくれること、忘れないでいてくれることを望みこそすれ、
必要以上に、社会の全員で暗く淀むことを望んではいないのではないでしょうか。
必要以上に、気分だけで同調して自粛することは望んでいないのではないかと思います。

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今回の震災のように、突然の、衝撃的な恐怖の出来事によって喪失がひき起こされた場合、
グリーフ(悲嘆)体験は、複雑化し、しばしばトラウマ体験になるといいます(3)

悲嘆は、その体験を言葉にすること、誰かに話すことでこころの整理をし、
それが救いになったりもする。
しかしトラウマは、言葉にすることが難しく、なかなか表現がしにくい。

子どもたちの場合、何が起こったか、実態がよく理解できないため、
それが余計に不安を高めることもあるそうです(4)
不安を感じたとしても、おとなや周囲がまだ緊張しているような状況のときには、
それを表そうとしない。
そして安全な状況となり、安心感が確かめられるようになってはじめて、ぐずったり、
赤ちゃんがえりをするなど、不安を表現するということもあるそうです。

また、起こった現実を、イメージとして、感情として、消化することができない。
あまりにも圧倒的な出来事であるため、自分の中に取り込むことができない。

ナチス・ドイツの収容所やゲットーでは、
しばしば子どもたちが憲兵隊ごっこをして遊ぶ光景が見られたといいます。

今回の震災でも、地震ごっこや、津波ごっこをする子どもたちの姿が見かけられるそうですね。
こうして遊びの中で悲劇を繰り返すことは、ショッキングで異質な出来事を、
自分の中で消化しようとする反応なのだそうです。

そして、あまりにも圧倒的な出来事であるため、自分に対して自信がなくなる。
とくに子どもたちは、無力感にとらわれやすい。
自分が信じられなくなる。
そして、この世界自体が信じられなくなる。

対人関係療法の視点からすると、
トラウマというのは、自分への信頼感、身近な人への信頼感、
そして世界への信頼感が揺らいでしまい、この世界に生きていくことが怖くなる。
──恐怖感や絶望に圧倒されそうな状態になることだといいます(5)

そのとき、トラウマ克服のカギとなるのは、身近な人の支えがあるかどうかということ。
ヨブがすべてを失い、孤立無援となったとき、三人の友人が駆けつけてきてくれました。
結果的にはヨブを追いつめることになりましたが、
しかし、話しをするとか、寄り添うとか、そうした支えが大切なのでしょう。

それは身近な人ばかりに限らないのかもしれません。

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過酷な試練を課す神さま(あるいは、もしかしたら自然)に対して、ヨブは怒り、
自分の正当性を主張し、論戦を挑みます。
ヨブは強い人だと思います。
けれど、もしも彼が日本人だったらそういうことはしないだろうなという気がします。
ユダヤ教やキリスト教が生まれた地は、緑も水もわずかな、
砂漠という厳しい自然の中にありました。
それに比べると、日本は温暖な気候と、水や草木や豊かな自然に恵まれています。

しかしながら台風の通り道であり、地震大国であり、しばしば天変地異に襲われる。
神さま、あるいは自然は、和魂(にぎみたま)という恵み深い優しい顔をもつ一方で、
荒魂(あらみたま)という残酷で荒々しく祟りをなす顔をもっているのです。

けれど、荒魂である神さまが暴虐のかぎりをつくし、人間をさんざんに苦しめたとしても、
わたしたち日本人には、神さまに抗議するという発想があまりないような気がします。
神さまが、時にそうすることもやむを得ないという、締念のようなものがどこかある気がする。

だから、禍(わざわい)が起こったとき、それに対して戦いを挑むとか、征伐するというよりも、
追い払ったり、流したりしてやり過ごす。
つまり神道で言うところの「祓(はら)う」、
水に流して「禊(みそ)ぎをする」ことで、「けがれ」を払い、流す。

それは、身を清浄にすることであると同時に、
荒ぶる神さまをなだめ、荒魂を和魂に変えることであるわけです。
つまり自然の荒々しく残虐な側面に圧倒され、とらわれるばかりでなく、
優しく豊かな側面も認めて受け入れようとする。

ところで、江戸時代後期の辞書である「倭訓栞(わくんのしおり)」では、
「けがれ」は「気枯れの義」であると述べられています。
「けがれ」は「穢れ」と漢字で書くように、忌むべき汚れものというイメージもあるのですが、
これは「ケ」が枯れるという意味合いもあるというのです(6)

「ケ」は、「気」であり、「褻」でもある。
「褻」という漢字は、もともとは「肌着」や「普段着」のことを意味します。
そして、下着や普段着を洗濯もせずに毎日ずっと繰り返し着ていると汚れてくることから、
「汚らしい」「けがらわしい」という意味になりました。
「猥褻(わいせつ)」という言葉にもこの漢字が使われていますね。

しかし本来は、ふだん着るもののこと。
そこからふだんの慣れた日常のことを表すようになり、「な(れる)」と訓読みしたりします。
つまり「ケ(褻)」とは、ふだんの日常の状態のこと。

民俗学者・桜井徳太郎によれば、日本語の「ケ」とは、
語源的には、稲を成長させる霊力のことであったといいます。
ふだんの日常の営みを成り立たせる活力、霊気のような、
「気」のようなエネルギーのことを「ケ」であるというわけです。

その「ケ」が枯れて弱まった状態が、「けがれ(気枯れ・褻枯れ)」。
「気枯れ」は「気離れ(けがれ)」に通じ、
つまり、霊力が離れていってしまうことでもあるといいます(7)

日常の営みを毎日毎日繰り返していると、まるで肌着がうす汚れて「けがれ」てくるかのように、
だんだんエネルギーが離れてしまい、枯渇してくる。
行き詰まって、息が詰まりそうになってくることもあるのでしょう。
そこで人々は「けがれ(穢れ)」を払い、洗い流すことで、
清浄な「ハレ」の状態を呼び込もうとします。

「ハレ」というのは、雲が払われて、青い空に太陽が満ちている「晴れ」の状態のこと。
清浄な、聖なる状態であり、これは非日常的な状態でもあります。
ふだん日常で身につけている肌着や普段着ではなく、
「ハレ」のときに着るのが「晴れ着」であるわけです。

日常の次元からいったん非日常の次元へ飛び出て、「褻」(=肌着、普段着)の洗濯をする。
命の洗濯をする。
そうして、霊力というか、元気というか、エネルギーを取り戻して、
また日常の営みである「ケ」へと帰っていくんですね。

その「ケがれ」から「ハレ」へと移行するきっかけとなるのが、神事であったり、
儀礼であったり、つまり祭りの起源であったといいます。

世の中のそこかしこで不安感がふくらみ、不安が不安を招き、暗く淀んで「ケ」枯れた状態のとき。
そういうときこそ、祭りが必要なのではないでしょうか。
たとえば、音楽。
たとえば、遠足だとかレジャーだとか。
たとえば、スポーツ。

ナチスの圧力の中、ヴィルナ・ゲットーで行われたスポーツの試合は、
「不謹慎」だとして、一部の人々の顔を曇らせました。
その気持ちはわかるのですが、しかし同時にその「歓びと祭り」が、
人々に過酷な現実に抗していく気力とエネルギーを与えたのではないかと思うのです。

たとえそれが一時(いっとき)に過ぎなかったにせよ、
「ハレ」の時間がきっと元気と勇気をもたらした。

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今、被災された人たちと、被災しなかった人たちが手を組んで
何かに取り組む試みが始まっているようです。

東京の銭湯のような居酒屋のようなお店が、
被災された水産加工会社や酒造と組んで、イベントを行ったり
「さばの湯」http://sabanoyu.oyucafe.net/)。

被災した商店に、1口数万円で個人が投資するシステムが出来たり
「セキュリテ被災地応援ファンド」http://oen.securite.jp/)。

東北の手仕事──民芸品や工芸品、特産品を紹介するフェスティバルが横浜で開かれたり
「手仕事フェスタ4+東北の手仕事」http://kizashinoj.exblog.jp/)。

こうしたムーブメントには、かつて人々が集い、ともに笑い、ともに祈り、
ともに遊び興じた「祭り」の原型のような面影がどこかあるような気がします。
やがてこれらの取り組みが根付いていったとき、
豊かな実りある「ケ」(日常の仕事)へと変わっていくのでしょう。

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今回の震災では、被災しなかったおれたちもまた、
日常の営みの大切さに改めて気づかされたように思います。

朝起きて、新聞を読んで。
ごはんを作って食べて、仕事に出かけて。
あいさつをして、どうでもいい天気の話や馬鹿話をして……。
こうした日常(ケ)を何気なく送れることって、実はとても幸せなことだったんですね。

けれど、「ケ」の時もあれば、「ケがれ」の時もある。
「ケ」が枯れて、まったく消滅してしまったかのように見えたとしても、
新たなかたちで「ケ」は再び必ず生まれてくる。
その力となるのが、「ハレ」の時間であり、人とのつながりであり、
時には遊びであり、笑いであるのだと思います。
特に子どもたちにとっては。

涙でネジを巻く仕事はとても大切です。
けれど、こうした遊びや笑いの力もまた、大切な一方のネジを巻くのではないでしょうか。
紙芝居というのもまた、きっと。
ほんのわずかな、アリの小指ほどの力かもしれませんが、
きっと何かネジを巻く手助けのひとつになるんじゃないかなあと……。
おれは思いたいです。








《引用・参考文献》
(1)吉川幸次郎「論語」朝日選書・朝日新聞社
(2)ジョージ・アイゼン、下野博訳「ホロコーストの子どもたち」立風書房
(3)ピーター・リヴァイン、マギー・クライン、浅井咲子訳「子どものトラウマ・セラピー~自信・喜び・回復力を育むためのガイドブック」雲母書房
(4)八木修司「阪神淡路大震災と心のケア」〜杉村省吾、本多修、冨永良喜、高橋哲編「トラウマとPTSDの心理援助」金剛出版・所収
(5)水島広子「対人関係療法でなおすトラウマ・PTSD」創元社
(6)谷川士淸「倭訓栞」名著刊行会
(7)宮田登「ケガレの民族誌」ちくま学芸文庫
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先日、こちらの記事「ホロコーストの子どもたち」(1)という本を紹介したところ、
kangamiruさんからコメントをいただきました。
子どもたちが遊ぶアート系のワークショップを避難所に届ける活動を始められたとのこと。
しかし、そうした活動は不謹慎だというような風潮に悩んでおられるとのことでした。

第二次大戦中、ナチス・ドイツに迫害を受けながらも、
ゲットーや収容所の出口の見えない過酷な生活の中で、
おとなたちは子どもたちを遊ばせようとしました。
しかし、全員が諸手を挙げて賛成したというわけではなかったようです。
そんな活動は不謹慎だとして反対する意見があり、住民を二分していたといいます。

おれは、子どもたちを遊ばせようとした人々の気持ちが、とてもわかる気がします。
けれど一方で、ゲットーの人々や、そして今の人々が、
遊びを不謹慎だ考える気持ちも理解出来るように思います。

リトアニアのヴィルナ(ヴィリニュス)・ゲットーでは、初期の頃に住民の半分が処刑されました。
その後も、繰り返し「特殊作戦」という名の処刑が行われる。

そんな中、それでも野外競技場でスポーツの試合が行われたそうです。
ツェーリッヒ・カルマノヴィッチという方が、そのときのことを日記に記しています。
試合の中で自然にわき起こる大喚声に、自由を感じ、人間らしくありたいと願う。
が、そのとき、傍らの友人が嘆いて言ったそうです。

「大ぜいが悲しみ、大ぜいが死んでいる。それなのにここでは歓びと祭り!」(1)

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今回、震災から1週間も経たない頃だったでしょうか、
プロ野球のセ・リーグが、予定通りペナント・レースを行い、
予定通り東京ドームで開幕戦を行うと決定を下しました。

関東の人々が節電を心がけ、計画停電の無理を甘んじて受けようとしたひとつには、
震災地を想ってのことがあったと思います。
その最中、いくら照明を減らすとはいえ、
東京ドームで華々しく開幕戦を行うということには強い違和感がありました。

あくまでも喩えですが、飢餓で死ぬ人も出る中、
みんなで我慢して食糧を分け合おうとしている隣りで、
飲めや食えやの宴会を開こうとするような不謹慎さを感じたものです。

「大ぜいが悲しみ、大ぜいが死んでいる。それなのにここでは歓びと祭り!」(1)

経営としての皮算用や権力の横暴がチラチラと垣間見えていたことも、違和感の理由でした。
強行しようとする経営側に対して、実際に野球を行う現場の選手たち選手会は反対しました。
その背中を世論が後押しして、
また政府の抵抗にもあい、結局延期になりました。

それに比べ、電力への配慮はもちろん、
まず第一に被災された人たちに配慮して執り行われた、甲子園での高校野球や、
サッカーのチャリティ試合はさわやかでした。
そして延期の結果、セ・パ、足並みを揃えてプロ野球も開幕。

それらの競技で選手たちが見せてくれた心意気は、スポーツが人々を元気づけるということを、
大義名分などではなく、信じさせてくれたように思います。

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家族やパートナーや近しい友人──愛する人が亡くなったとき、人は
「グリーフ・ワーク[grief work]」というプロセスを歩むといいます。

「グリーフ・ワーク」は、「悲嘆の仕事」「悲哀の作業」などと訳され、
「喪の作業[mourning work]」とか「悲嘆(悲哀)のプロセス[grief process]」
というような言い方もされます。

J・ボウルビィは、そのプロセスは個々の状況や個人個人によって違いがあるものの、
共通のパターンのような一連の段階をたどるとして、4つの段階をみています(2)
アルフォンス・デーケンは、その段階をさらに12の要素に分け、次のようにみています(3)

〈1〉精神的打撃と麻痺状態:ショックを受けて、一時的に現実の感覚が麻痺する。

〈2〉否認:起こった現実が信じられない。否定しようとする。

現実を受け入れられずに茫然とする〈1〉〈2〉の段階を、ボウルビィは「無感覚の段階」とし、
数時間から1週間ほど連続するとしています(2)
(それ以上続いて長期化する場合には、不安定な理由が考えられる。)
この時期は一見冷静にも見えますが、緊張に満ちている。
そして次の〈3〉以降の段階で打って変わって強い感情に襲われることになります。

〈3〉パニック

〈4〉怒りと不当感:何も悪いことをしていないのに、
どうして「不当な」苦しみを負わなければならないのかという怒り。
人的災害や犯罪による死であれば、怒りの対象はその原因となった人物へ向けられるが、
天災の場合、運命や神に向けられたりする。
また、怒りの表出が妨げられると、内攻して怒りを自分自身へ向けることもあるという。

韓国では、胸をたたいて泣き叫んだり、しゃにむに怒りをぶつけて怒鳴ったり、時には卒倒するなど、
激しい感情表現が見られることがありますね。
それに比べると日本は抑制的と言えるかもしれません。
が、表に出さないだけで、感情の強さの度合いが小さいということではないと思います。

〈5〉敵意とルサンチマン(うらみ):やり場のない感情を、周囲の人々に敵意というかたちでぶつける。
たとえば、最期を看取った医療関係者や救助者がどんなに最良のケアをしたとしても不満に感じて、
まるで死の責任が彼らにあるように思ってしまうなど。

〈6〉罪意識:故人に対して、こうしてあげればよかった、あんなことをしなければよかったなど、
現実のことや、あるいは想像上のことなども含めて、悔恨の情に苛まれる。
故人の死の責任が、自分にあるのではないかという罪悪感も。
それはしばしば非論理的で、子どもの場合には特に飛躍しやすい。
たとえば、「自分がいい子ではなかったからこんなことになったんだ」
というような思い込みをすることにもなる。

広島の原爆被災地で生きる女性を描いた「父と暮らせば」(4)という戯曲があります。
作者井上ひさしさんは、執筆にあたって、被爆された方々の膨大な手記を渉猟されたそうです。
その多くに見られたのが、「なぜみんなが死んで、自分だけが生き残ったのか」という罪悪感。

欧米では〈4〉怒りの感情が大きいといいますが、
日本では〈6〉罪意識となることが多いような気がします。
今回の地震でも、同様の話をされている被災者の方をニュースでお見かけしました。

「父と暮らせば」のヒロインもまた、そうした負い目に悩み、一歩を踏み出せないでいる。
その苦悩は、劇中、被災して幽霊となったヒロインの父親から
「“後ろめとうて申し訳ない”病」という病気だと名付けられます。
自分だけ生き残ったことが後ろめたく、死んだ方々に対して申し訳ないという。

そんな彼女に、幽霊の父親はメッセージを送ります。
「生きよ」と。
自分の分まで、生きよと。

映画化された「父と暮らせば」(監督・黒木和雄)では、幽霊の父親を原田芳雄さんが演じていました。
彼は広島弁で、宮沢りえさん演じる娘に語りかけます。

「わしの分まで生きてちょんだいよぉー」

ちょっぴりコミカルな、けれど切実なその台詞は、胸にしみとおるものでした。

〈7〉空想形成、幻想:故人がまだ生きているように錯覚したり、空想する。
たとえば、故人の分の夕食を作って用意して、彼の帰りを待ってしまう、など。

〈8〉孤独感と抑鬱

〈9〉精神的混乱とアパシー(無関心):空虚さがこころを占めるようになり、どうしていいかわからず、
人生のあらゆる面に無関心になる。

ボウルビィによれば、以上のような混乱や絶望や追慕の段階を経て、
次の〈10〉〈11〉〈12〉のような、
つまり「さまざまな程度の再建の段階」に至るとされます(2)

〈10〉あきらめ──受容:日本語の「あきらめる」という言葉には、
本来、「明らかにする」という意味があるように、
自分の状況を明らかにし、つらい現実を直視しようとする。
「受容」とは、運命に身をまかせるという消極的な意味ではなく、
現実を積極的に受け入れていこうとする行為だという。

〈11〉新しい希望──ユーモアと笑いの再発見:ユーモアと笑いは、健康的な生活に欠かせないものであり、
それを復活させることは、悲嘆のプロセスを乗り切ることでもあるという。

筆者は以前、上智大学の市民向けのセミナーに参加し、
アルフォンス・デーケンさんの講演を聴く機会がありました。
そのときにも、ユーモアと笑いということを強調されていて、
死を考える上でもそれが役立つと話されていたのが印象的でした。

彼の故国ドイツには、
「ユーモアとは、にもかかわらず笑うことである」
という言葉があるそうです(5)

〈12〉立ち直りの段階──新しいアイデンティティの誕生:悲嘆のプロセスを乗り越えることで、気持ちを整理し、
新たなアイデンティティや人間関係を再構築して、より成熟した人格を獲得することが出来る。


以上、12の段階は、すべての人がたどるというものではなく、
人によっては途中の段階をとばしたり、順番が前後したり、
また、複数の段階が同時に重なって現れたりすることもあるそうです。
行きつ戻りつということもあるかもしれません。

これは身近な人を喪った場合ですが、他のものを失ったときのかなしみということもあります。
喪失してしまったものが、愛着のある有形・無形の何か所有物だったり、
自分のからだの一部だったり、健康だったり。
自分が安息できる家だったり、故郷だったり、
あるいは仕事を失うことは自分の役割を失うことでもあるでしょう。
それはアイデンティティの喪失にもつながります。
こうした対象喪失のかなしみもやはり、12の段階と似たようなプロセスを経ると思われます。

今回の大地震では、被災されたみなさん一人一人が、何かしらを失われました。
しかもその喪失は、突然に不意をつかれてひき起こされた。
身近な人を喪うとき、それが予期しない突然の死別だった場合、
9~36%の人がPTSD(心的外傷後ストレス障害)になるというデータもあるそうです(6)

身近な人を喪うと同時に、家や田畑や仕事や故郷も失うというケースも多い。
そうした場合、先が見えない中、「悲嘆の仕事」が複雑化、長期化しやすくなるのは当然でしょう。
その上、身近な人がいまだ行方不明で、その死が予想されてはいても、
きちんと知らされることなく、はっきりと確認出来ないケースさえある。
心理的には、「悲嘆の仕事」のプロセスにとりかかることさえ出来ません。

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人はうれしいときに笑う。怒ったときに怒鳴る。かなしいときに泣きます。
それが自然で、「悲嘆の仕事」のプロセスもそうした反応のひとつだとされます。
“心理的”な反応というよりも、“生理的”な反応に近い。

しかしフロイトによれば、そうした反応を表に出さないよう、意識しないよう、
抑圧して無理矢理に押さえ込んだ場合、
──つまり「悲嘆の仕事」をちゃんと消化して通過しないと、
後々、その無理が何かしらのかたちで人生の障害となったり、
あるいは病的な症状となって表れてくるといいます。

たとえば目の前の忙しさに追われて、「悲嘆」と向き合わないことがある。
忙しさに追われることで、気を紛らわせたいということもあるでしょう。
また、周囲から
「いつまでもくよくよしないで、前向きになりなさい」
「あなたはそんな弱い人間ではないはずだ。元気を出してがんばりなさい」
「他の人に比べたら、あなたの受けた状況はまだましなのだから、我慢しなさい」
「そんなに気にすることはないじゃないか」
というような言葉かけや、また、言葉ではなくてもそうしたプレッシャーを受けることもあります。

そうして自分でも、
「こんなことに負けていては恥ずかしい」
「がんばることの出来ない自分は、だめな人間なのではないか」
などと考えるようになり、「悲嘆」と向き合わずに回避することがある。

「悲嘆」がそれほど重くない場合や、すでに〈10〉〈11〉〈12〉の回復へ向かう段階に至っているときには、
周囲からのそうしたメッセージが励ましとなることもあるでしょう。
しかし、「悲嘆の仕事」のまさに渦中にある人にとっては、
針のむしろとなって追いつめることになったりもする。
「悲嘆の仕事」を歩むその過程を妨げることにもなるかもしれません。

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旧約聖書の「ヨブ記」(7)の中で
ヨブは、正しく、信仰のあつい人であると語られます。

しかし彼は、突然続けざまに起こった盗賊や火災や嵐の来襲によって、
牛や羊など財産である家畜や、雇い人や、息子や娘たち家族の生命を奪われます。
さらに病気に襲われ、足の裏から頭の先まで腫れものにおおわれ、
かきむしらずにはおれない痒みと苦痛に苛まれます。
こんな仕打ちを受けるなら神を呪って死ぬべきだと、妻は出ていく。

この相次ぐ不幸は、神とサタンの賭けから生じたと聖書の物語では語られるのですが、
おれはずっとそのことが理解出来ませんでした。
けれど、詩人・評論家の吉本隆明さんが、この「ヨブ記」の中の「神」は
「自然」として考えることも出来ると言うのを聞いて、腑に落ちた気がしました。

なるほど、自然は残酷な試練を「これでもか、これでもか」とでもいうように
人間へ課すことがある。
今回の震災では、非常に多くの方がそうした体験をされたように思います。

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そんなヨブのもとへ、三人の友人が彼を慰め励まそうと訪れます。

ヨブが体験したのは、近親者の死だけではありませんでした。
しかし、もしも「悲嘆のプロセス」に当てはめるとしたら、
〈4〉怒りと不当感の段階にあったと言えるでしょう。
彼はこの世界に生まれてきたことを呪い、突然に自分にもたらされた不当な運命に抗議します。

すると、三人の友人はそれを咎めます。
絶対である神が正しくないわけがない。神に抗議するのは不遜だ。

三人の言うことは、ある意味、正論のようにも思われます。
しかし、ヨブの“今”や、ヨブの現実から離れた位置に身を置く
傍観者としての論であるように思います。

それがたとえ正しく、ヨブを励まそうとする発言であったとしても、
ヨブを傷つける針となって、彼を追いつめることになる。


けれど、しかしながら、ヨブの災いを伝え聞き、慰めいたわろうと、
それぞれの地からやって来た三人の友情は、ヨブにとって支えにならなかったでしょうか?
彼らは見捨てなかった。

三人は最初、遠くの方からヨブを目にします。
病気で変わり果て、今はヨブかどうかもわからなくなってしまったその姿を見たとき、
彼らは声を失います。
あまりの悲惨さに、かける言葉がみつからない。
そうして一言も話しかけぬまま、七日七夜、その場所で座り続けたと物語では語られます。

その沈黙は、三人の無力さの結果だったかもしれません。
が、しかし、そこに居続けたこと。
逃げ出すことなく、見捨てることなく、
そして儀礼的な励ましや、生半可な慰めの言葉を発してとりつくろうことなく、
ヨブを見守り、そこに、ただ、居続けたこと。
それは、財産を失い、家族を失い、健康を失い、こころの平安を失い、
信仰まで失おうとしていたヨブにとって、大きな救いとなったに違いありません。

そのおかげで、わずかでも安心さを得たからこそ、
ヨブも自分のこころを包み隠さず吐露する気持ちになったのではないでしょうか。

「悲嘆の仕事」においては愛する人を喪うわけですが、けれど、けっして孤独になるわけではない。
誰かがいてくれる、誰かが想ってくれているという人とのつながり。
そのつながりが、そのプロセスを歩む上で重要だといいます。

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《引用・参考文献》
(1)ジョージ・アイゼン、下野博訳「ホロコーストの子どもたち」立風書房
(2)ジョン・ボウルビィ、黒田実郎・岡田洋子・吉田恒子訳「母子関係の理論」岩崎学術出版社
(3)アルフォンス・デーケン「悲嘆のプロセス──残された家族へのケア」~アルフォンス・デーケン、メヂカルフレンド社編集部・編「〈叢書〉死への準備教育ー第二巻『死を看取る』」メヂカルフレンド社・所収
(4)井上ひさし「父と暮らせば」新潮文庫
(5)アルフォンス・デーケン「ユーモアは老いと死の妙薬~死生学のすすめ」講談社
(6)水島広子「対人関係療法でなおすトラウマ・PTSD」創元社
(7)「口語・旧約聖書」日本聖書協会

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第二次大戦の頃、ナチス・ドイツはユダヤ人を強制的に狭い地域へ追いやり、住まわせ、
その居住区は「ゲットー」と呼ばれました。

ゲットーでは、食糧は極度に制限され、人口があまりに過密なために衛生状態が悪化。
住民は数年後には収容所へ送られ、大量虐殺にもつながるわけですが、
それ以前にゲットーでの生活の中、飢餓と伝染病によって多くの命が奪われました。

そんな中、おとなたちは子どものためにどうしたか。
出来得る限りに食料をかき集め子どもたちの給食所に送った。
その他、いかに最低限の生活を確保するか、いかに生き残るかの戦いに迫られました。

が、一方で、子どもたちを遊ばせるための努力を惜しまなかったといいます。

明日食べるパンさえままならぬ生きるか死ぬかの過酷な時代に、遊ばせる余裕など……、
と思ってしまいます。
が、危険にさらされたそんな時代だからこそ、おとなたちは子どもがいきいきと遊ぶことを願った。

ポーランド・ワルシャワのゲットーの住民たちの自助組織「子どもと孤児救援センター(CENTOS)」は
教育プログラムを掲げる際、

「あらゆる種類のゲームを子どもたちに教えてやらねばならない。」
「あらゆる機会をとらえ、エンタテイメントや子どもの祭典を計画すること。」


といった項目を記しています(1)

そうして、遊び場の失われた瓦礫の山の中、
ほこりだらけの中庭の小さなスペースにわずかな草花を植えて「子どもコーナー」を作る。
いろいろな施設で、遊びとして、芸術や音楽、ダンスを教える。
子どもたちに楽しんでもらうために、マリオネットの常設劇場まで作る。

また、ゲットー内のユダヤ共同体の指導者たちは、苦労の末に、
子どもたちを遊ばせるための運動場(公園)を開設します。
ワルシャワ・ゲットーでは、1942年に開設。

当時ゲットーで、孤児院のために奮闘していたヤヌシュ・コルチャックとその子どもたちも、
たびたび訪れたそうです。
その数ヶ月後、同年の8月、コルチャックと子どもたち200人は強制収容所に移送され、
虐殺されることになるのですが、
それまでのわずかなあいだ、一時(いっとき)でも夢中で遊べる場があったことは、
大きな救いだったと思います。

子どもたちを迎え入れるとき、運動場のある女性スタッフは、助手にこう言ったそうです。

「さあ、笑いなさい! 笑いなさい!
子どもたちを大笑いのお風呂に入れてやらなくちゃ。」
(1)

スタッフたちは、目一杯な満面の笑顔だったのでしょう。
笑顔を忘れてしまいそうな現実の中で、おとなたちの笑顔に見守られながら、
子どもたちは「大笑いのお風呂」に浸って遊んだのでしょう。


当時16歳だったマリー・ベルクという少女は、日記にこう記しています。

「ゲットーの小さな囚人たちのために、この小さな避難所(運動場)を作った人たちにとって、
笑う子どものバラ色の頬は、多分何よりの報酬だったに違いありません。」
(1)

不安を忘れて心から遊ぶことの出来るその場所は、確かに過酷な現実からの「避難所」だった。
そして子どもたちの笑顔は、周りのおとなにとっての「報酬」であるとともに、
救いであり、希望でもあったのではないでしょうか。

上のエピソードをはじめ、収容所や隠れ家で遊んだ子どもたちの姿を追った
「ホロコーストの子どもたち」(1)の著者ジョージ・アイゼンは、
子どもたちの遊びは、生き残りのための戦いでもあったと述べています。


日本ユニセフ協会が、遊具や知育玩具やスポーツ用品なんかが詰まった
「箱の中の幼稚園(幼児向け)」や「レクリエーションキット(児童向け)」を
被災地に届けているそうですね(→記事)。

また、医療NGO「AMDA(アムダ)」の方の発案で、
避難所の脇に「プレイルーム」が設けられたり(岩手県大槌町・県立大槌高校)、
NGOの方が避難所にやはり「プレイルーム」を開設したり(宮城県石巻市・渡波小学校)(→記事
というようなニュースが伝わってきています。
プレイルームでは、高校生や中学生も集まって来て、
年少の子どもたちの遊び相手になってあげていたりするのだとか。

ほんと、心強いです。





《引用・参考文献》
(1)ジョージ・アイゼン、下野博訳「ホロコーストの子どもたち」立風書房
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3.11。
ほんとうに大変なことでした。
何というか、言葉がなかなか見つかりません。
被災された方々にとって、「大変」は今も進行形のかたちで続いています。

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今、被災した子どもたちに児童書や紙芝居を届けようと、日本ユニセフ協会が募っているそうです。
(絵本は、いったん停止だそうです。)

締め切りは4月5日(火)。

http://www.unicef.or.jp/kinkyu/japan/2011_0401.htm
http://resemom.jp/article/2011/03/28/1738.html
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