カテゴリ:よんだり、みたり、きいたり( 4 )

ずいぶん前。
東京・立川市近くのある施設で夜間警備の仕事をしていました。
そこは甲州街道に面していて、昼も夜もなく車通りが激しい。
が、渋滞することはなく、どの乗用車もどのトラックもその付近に来ると、
ひときわ加速するようにブイブイ走っておりました。

その街道に猫の死骸を見つけたのは、夕方、出勤途中のこと。
そういう場所だから、交通ルールなんか無視の猫がひかれてしまうのは仕方がなかったのでしょう。
道路中央の猫はのびたまま。
車がひっきりなしに通るので、死骸を道路の端へ移動させるのは簡単ではなさそうでした。
ドライバーは前方の異物に気づいたとしても避けられないのか、その上を次々に通り過ぎて行く。
かわいそうな気がしましたが、おれは出勤を急いでいて、横目で見ながら通り過ぎました。

そして、そんなことはすっかり忘れて一晩。
仕事を終えた朝の帰り道。
その場所を通りかかると、何かぬいぐるみの切れ端のようなものを道路に見つけました。
しかし、死骸自体は、探してみてもありません。
ただその切れ端のようなものと、毛のような、ほこりのようなものがあちらこちらに散らかり、
それがブイブイ通り過ぎる車の風にあおられて低く舞っているのでした。

どうやら猫は一晩中、この場所に置かれたままだったらしいのです。
次々ひかれるまま、タイヤに砕かれ、千切られるまま。
もしかしたら、国道を管轄する事務所とかが対応して回収し、
それとわかるような塊(かたまり)を忘れていったのかもしれません。
いえ、もしかしたら、中身のおおかたはカラスなどが持って行ったのかもしれない。
あるいはもしかしたら、誰か近所の方が土に埋めるなど葬られたのかもしれない。

けれどおれの目には、車にひっきりなしにひかれるうちに、ミンチにされ、
ほこりとなってしまったように見えたのでした。
たぶんその日の昼頃までは、すました顔で毛づくろいなどしていたかもしれない猫が、
一晩でほこりに変わり果てる。
そのことに愕然とした記憶があります。

まさしく、人も獣もみんな、塵(ちり)から生まれ出て、塵に帰る。
人間は、神さまが土の塵からつくったものだから、最期には土の塵になるのだと、
聖書では語られていましたっけ(1)
今の日本のように火葬の習慣があるところでは、灰になる。
いったん灰になってから、塵となり、そして土に帰る。

生きものというのは、大地に還るものなんですね。
他のものに食われたものは、エネルギーとなり糞となり、細菌に分解されて塵となる。
倒れて地に伏したものもまた、その体を虫や微生物や他のものに食われ、分解され、塵となる。
そうして有機物となることで土を肥やし、植物の栄養となっていく。
その植物を生きものが食べ、それをまた他の生きものが食べ……。

そうした輪っか(サークル)の中に、生きものであるおれたち人間もいて、
塵やほこりもあるのかもしれません。

そう考えると、ふだん、道端で風に吹かれている塵だって、
誰かの変わり果てた姿である可能性だってないわけではない。
どこからかやって来ては吹きだまりの隅っこにたまるほこりだって、
もしかしたら何か生きものの痕跡であるのかもしれないわけです。

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映画「四つのいのち」の中で、古い教会の建物の中のほこりが描かれていました。
逆光の中でキラキラと舞う、しかし何の変哲もない、ただのほこり。
ただのゴミです。

けれど、やぎ飼いの老人にとってそれは、聖なるほこりなのでした。
老女に掃き集められ、雑誌のページを包み紙にして丁寧に折り畳まれたそれを、
老人はうやうやしく教会からもらい受けます。

一日中ずっと、いやな感じのせきをし続けたその晩、
老人は粉をコップの水に散じ入れてゴクリゴクリと飲み干していました。
てっきり薬だと思われていたその粉の正体こそ、何と、教会の床のほこり。
その地方では(あるいは老人個人の中では)、
教会のほこりは、病気を治す聖なる薬だと信じられているようなのです。
(実際には、映画の舞台となったイタリア・カラブリア州ではなく、
近くのシチリア島で信じられている信仰だそうです。)

だから、せきをし続けてもやぎの世話を休むことの出来ない老人はありがたく飲み干す。
いわゆる「イワシの頭も信心」式の、前近代的な迷信といえばそれまでです。
汚染されているかもしれない雑菌だらけのゴミを飲むだなんて、
現代医学からすれば言語道断でしょう。
けれど、映画の中では、そのプラシーボ効果たるや、あなどれないことになっています。
プラシーボ効果──薬理作用のまったくない薬でも、
「これは効く」と言われて服用すると、実際に治療の効果を発揮する。

やぎを放牧の最中、老人は野グソをする際に、そのほこりの包みを落としてしまいます。
今までは聖なるほこりを飲みさえすればおさまっていた病気の症状が、
そのために夜になってもおさまらない。
そこで教会へもらいに行くのですが、すでに夜中でもらうことが出来ない。
それがために老人は、死んでしまうのです。

まあ、常識的に考えれば、そのゴミのほこりこそが病気の遠因かもしれず、
病院に行かなかったため、病気がそうとうに進行していたことが死因だったかもしれません。

けれど、聖なるほこりを飲みさえすれば病気は治るという絶対的な信念が
それまでの彼の頑健な体を支えていたわけで、
それがなくなってしまえば、気力も健康もいっきに崩壊してしまうというのも
うなづけなくもありません。

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「ほこり」と、「老人の死」という、一見何も関係のないような2つの事柄が、
仏教でいう「因果」のように結びつけられます。
原因が起こって、結果が生じる。
つまり、
「老人が病気を治すために、教会のほこりを飲んでいる」
→「ほこりを落としてなくす」
→「老人が死ぬ」

映画では、こうした「風が吹けば桶屋がもうかる」式の因果の連鎖のようなことが
全編にわたって語られます。

たとえば、
「老人がカタツムリを拾って、たぶん食用にするため、鍋に入れておく」
→「逃げ出さないよう、重し代わりの小石をふたの上にのせていたのに、
帰ってみるとカタツムリが外へ飛び出している」
→「そこでふたをヒモで縛りつけることにして、いらなくなった小石を2階の窓から捨てる」
→「イースター祭りの行列のために衣装や十字架を運んできた小型トラックが、
坂道の途中で駐車して、その小石を車止めに使う」
→「やがて行列が通り過ぎ、それを追いかけて子どもが来ると、犬が吠えかける」
→「怖がる子どもは、自分への関心をそらせるため、道端の小石を拾って投げる」
→「ボールを取ってくる遊びをするように、犬は小石をくわえて取ってくる」
→「が、その小石は車止めで、小石を外されたトラックは坂を下り、
やぎたちを囲っていた塀にぶつかって壊す」
→「やぎたちは村へくり出す。そのうちの一匹は老人の2階の部屋に乗り込み、
わがもの顔でテーブルに乗る」

そんな事件が起こっているというのに、老人はやぎの勝手を叱るでもなく、
その横のベッドでこんこんと眠り続けている。
そこで観客は、老人の息が途絶えてしまったかもしれないことに気づかされるのです。

かくて人間(老人)の視点で語られていた物語は、ここからやぎの世界へと移り変わります。

こんなふうに書き出してみるといかにも不自然ですが、
行列のシーンなどは、10分近い長回しで撮影された遠景の1カットで描かれます。
説明のためのカットバックやクローズアップも使われますが、頻繁ではない。

シチュエーションはもちろん意図的に、かなり人工的に作られたものです。
(もっとも、やぎのアクションなどは演出通りではなく、
たぶん意図から外れた撮影時の偶発性がうまく取り込まれています。
それが巧まざるユーモアをかもし出したりしているところもミソですね。)

しかし全般的には、台詞もナレーションもない風景が淡々と映し出されるだけであり、
いかにも自然に起こった作為のない出来事のように思わせられてしまいます。

だから、画面の中の何に注目するかは観客の自由。
上記の因果の連鎖にしても、どう解釈するかは観客の想像に任せられることになります。
それがフランマルティーノ監督のねらいでもあるのでしょう。

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公式サイトのフランマルティーノ監督のインタビューによると、
この映画を発想するきっかけとなったのは、
イタリアのカラブリア州の山奥で、牧夫や炭焼きの人たちと生活をともにしたことだったそうです。
そもそも監督自身の先祖の出身地がカラブリアで、そこは彼のルーツのような場所でもあった。

調べてみると、カラブリア州はイタリアの南の端っこ。
ブーツの形をしたあのイタリア半島のつま先あたりにあります。
イオニア海をはさんで、ギリシアと対している。

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この辺は、紀元前、ギリシアの植民地だったそうで、その植民国家はクロトンと呼ばれました。
そのクロトンが、現在のカラブリア州、クロトーネ。

クロトンは、当時、ピタゴラスが移り住んで教団を設立したところとしても知られています。
昔、このカラブリア州をギリシア人のピタゴラスたちが闊歩(かっぽ)していたというわけです。

映画には、どこか異教的な、そのピタゴラス的なものが大きく反映されているようです。
監督いわく、タイトルの「四つのいのち」という言葉は、ピタゴラスが語っていた。

ピタゴラスといえば「ピタゴラスの定理」で有名ですね。
数学や幾何の業績を残した数学のエライひと。大数学者。
ですが、本来は、この世界すべて──万物の原理は数であると考えた
神秘主義の思想家だったようです。

ピタゴラスにとって「1、2、3、4」は基本となる数字で、
全部たし算すると、神聖な数である「10」となる。
それを形として表すと、美しい正三角形となる。
音楽でも、弦の長さと和音には比例関係があり、
やはり「1、2、3、4」を基礎として成り立っている。
そこに美しい調和の秩序があるといいます。

そうした数の原理は宇宙にもあるとされ、ピタゴラスによれば、
宇宙の中心には生命の源である「かまど(火)」があって、
その周りを太陽や月や地球など10個の惑星が円を描いて回転している。
そこにも、美しい調和の秩序を見いだしていたのでしょう。
星と星との距離には、音階の比例にも似た関係性があって、
惑星たちは回転しながら壮大な音楽を奏でていると考えていたようです。

東京を離れた空気のきれいなところで、夜、空をながめると、
星々のあまりのきらきらしさに、
なるほど壮大な交響曲のような感覚に圧倒される時があるものです。

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円環(サークル)を描くこの物語を象徴するように、
映画の冒頭とラストに炭焼きの風景が登場します。
物語は炭焼きの煙から始まり、
最後にまた炭焼きの煙(さらには炭を使って煮炊きする村の家庭の煙)へ帰ってくる。

この炭焼きは、古来からのやり方だそうで、炭焼き窯は使われません。
炭にする木材を小山のように積んで干し草をかぶせ、さらに土でおおって大きな山にする。
そうしてじっくり時間をかけて炭にする。
山肌のあちこちから煙が立ち昇るのですが、その穴をふさぐために土をパンパンとたたく。
このやり方は、ギリシアでもよく見られるのだとか。
ギリシアでは、足で踏みつけて煙の出る穴をふさぐそうです。

その小山のように積まれる木材の組み上げ方が美しい。
監督は最初、これを見たとき、現代芸術を見ているような感銘を受けたそうです。

火が真ん中に置かれる。
このとき、もしも木材が無秩序に置かれたとしたら、
火からの距離はばらばらで、ところどころ生焼けのものが出来てしまう。
そこで、すべて中心の火から同じ距離になるように配置するため、
組み上げた造詣は円形となります。
土山は球体となり、実際には球体を半分にした形で盛られることになる。
その美しさには、こうした実際的な自然の法則にもとづいた機能としての美があるというわけです。

それはちょうど、火(かまど)を中心として惑星が円を描くと考えた
ピタゴラスの宇宙に通じるものがあるのだと思います。

自然の中に内在する美しさ。
数学的な原理によって機能されるその仕組みのハーモニー(調和する美しさ)。

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ところでピタゴラスは、魂の輪廻転生を考えていた人でした。

数字の「1」が始まりであるように、最上であり、唯一無二の「1」が根源となる。
その最上のものから、「神」「悪鬼」「英雄」が派生して、4番目に「人間」の魂が派生する。
その人間の魂は、死んだときに肉体から離れ、
誰か他の人間や動物に宿って生まれ変わるというのです。
そうして何回も生まれ変わって浄化され、清められた末に、
始まりの根源である「1」へと帰っていく。

ピタゴラス自身、自分の前世は、パントスの息子エウポルボスだったといいます。
それがトロイア戦争のとき、メネラオスという者の槍で殺された。
生まれ変わってピタゴラスとなってから、アルゴスの町のヘラの神殿を訪ねたら、
そこの記念品の中に、エウポルボスだった当時に愛用していた楯があるのを見つけたそうです。

だから人間にしろ、獣にしろ、その生命を奪ってはいけない。
なぜならそれは、わたしたち自身の血族であるかもしれないのだから。
──そのようにピタゴラスは弟子たちに語ったということです(2)

仏教に馴染みのある日本人にはあまり違和感がない考え方だと思います。
輪廻がほんとうにあるのかという議論はともかく、
動物や、そして木や草にも魂のようなものがあるのではないかというアニミズムは、
たぶん日本人が誰でも無意識的に持っているのではないでしょうか。

動植物はもちろん、火や水もカムイ(神)であり、魂があると考えていたアイヌの人々にも
近しいかもしれません。
ショーペンハウアーは、水や石などの無機物にも生命への意志を感じていたそうですが、
宮沢賢治あたりはおそらく、石ころにも生命を感じていたはずです。

映画の「四つのいのち」とは、
人間(やぎ飼いの老人)、
動物(やぎの子ども)、
植物(モミの木)、
鉱物(炭)
の4つだと思われます。

が、これがピタゴラスの言うような輪廻転生の物語かというと、違うでしょう。
老人が死んだ後に、やぎの子が生まれますが、そこに因果関係はありません。
老人の魂がやぎに生まれ変わったと、むりやり想像できなくもありませんが、
それが強調されているわけでもありません。

放牧の途中、生まれて間もない子やぎが溝にはまって、群れから取り残され迷子になります。
親や仲間を探し回りますが、探し疲れ、やがて鳴き疲れ、
モミの大木に抱かれるようにその根元で一夜を過ごす。
子やぎを追っていた物語が、その場面からモミの物語へと移り変わります。

たぶん翌日には、老人から仕事を引き継いだやぎ飼いの男性が、子やぎを探しに来たと思われます。
しかし、もしかしたら、
たとえば一晩の寒さのために子やぎが絶命したと考えられなくもありません。
その魂がモミの木へ移り宿ったと、むりやり想像できなくもないかもしれない。
が、むりやりです。

そのモミの木は、ちょうど長野の諏訪大社の御柱祭のように切り出され、
村人たちの手で山から運ばれます。
監督のインタビューによれば、イタリアのその地方では「ピタ」の祭りというそうで、
その期間中、柱として村に飾られる。
祭りが終わると木材となり、炭焼き職人たちの手で炭にされる。
つまり「モミの木=炭」なわけで、ほんとうは「三つのいのち」であるのかも。

いえ、しかし、モミの木が焼かれることで、ひとつの生命が終わります。
そして炭になることで、新たなもうひとつの生命として生まれ変わる。
「モミの木」と「炭」は、別の生命となる。
だから「三つのいのち」ではなく、「四つのいのち」となるんですね。
もしもピタゴラスの輪廻が語られているとしたら、
この場面にこそ語られているのかもしれません。

つまりこれは輪廻の物語ではなく、
人間、動物、植物、鉱物という4つの世界が語られる4つの物語。
老人、やぎの子、モミの木(炭)は、因果の連鎖で結ばれているわけではありません。
必ずしも何か直接的な関係を持っているというわけではない。

それぞれの魂は、それぞれの円環(サークル)を巡っている。
その円環同士が、カラブリアの山奥の村というこの土地で共存共生し、
時には直接的に、時には間接的に、関わり合っています。

人間はやぎを飼いミルクを得て、モミの木を祭り、炭となして暖を得る。
子やぎはモミの木の元に安らぎを見つけます。
──四つのいのちだけでなく、村の人々、炭焼き職人、犬、草、ほこり……、
みんな、何かしらつながり合っている。
秋→冬→春とうつろう季節の円環の中で、
あるものはこの世に誕生し、あるものは死を迎える。
それぞれの円環が響き合っている。
そこに一種のハーモニー(調和)を感じられる気がするのです。

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その自然のハーモニーの輪のひとつとして、人間の輪が含まれている。
これは幸せなことだと思います。
やぎや犬と共に暮らした老人は、自然のハーモニーの中で生を営み、生を終える。

日本の花を代表するサクラ。
サクラはいっきに花開き、咲き乱れ、そして散り、地面へと落ちて土となり養分となります。
古来、その円環(サークル)を繰り返してきました。
けれど、現在の街路樹であるサクラの花は、土に還ることができません。
周りがすべてアスファルトでおおわれているからです。
美しく散った花びらは、やがて変色し、車の風にあおられるまま。
清掃処理されなければならない厄介者のゴミとなり、その多くがゴミ袋に詰められ、
焼却所へ送られます。

道路で死んだ猫もまた、たとえほこりと化しても、土に還ることは出来ないのです。
円環(サークル)をまっとうすることが出来ない。
おそらくは、都会で暮らす人間もまた。


「インディアンの行うことのすべてが円環(サークル)をなしていることに、おまえは気がついただろう。
それは宇宙の力が、つねに円をなして働いているからであり、あらゆるものは円環になろうと努めているのだ。」

(ブラック・エルク〈オガララ・ラコタ族〉)(3)

なるほど、自然と共存するインディアンの人々もまた、
自然の営みの中に円環(サークル)を見い出していました。
しかし、都会にあっては、いのちの円環(サークル)を見ることも感じることも
難しいのではないでしょうか。

宇宙を回転する天体たちは、動くときに音響を生じさせ、美しい音階をなすと、
ピタゴラスは考えていました。
けれどそれは、あまりに幽玄なために、人間の耳で聴くことが出来ないのだといいます。
しかし、ひょっとしたらピタゴラスは心の耳で、
大自然が奏でる音楽の旋律を何か感じとっていたのではないかとも思うのです。

そしてもしかしたら、おれたちもまた耳をすましさえすれば、
この映画に描かれた、おおよそエキサイティングとは言えない片田舎の風景の中に、
──BGMのない沈黙の画面の中に──
いのちの円環(サークル)がおりなす音楽の美しい旋律のかけらを、
何か感じとることが出来るかもしれません。





《引用・参考文献》
(1)旧約聖書「創世記」第3章19節、「伝道の書」第3章20節
(2)ブルフィンチ、野上弥生子訳「ギリシア・ローマ神話」岩波文庫
(3)ジョゼフ・ブルチャック編、中沢新一+石川雄午訳「それでもあなたの道を行け」(めるくまーる)









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f0223055_17455451.gif未来からの手紙


異星人ナヴィの死生観や自然観は、われわれ日本人に近しいところがあります。
おれは日本人ですが、残念なことに俳句は詠めません。
が、読むことは好きです。
森を散策したり自然と交流することで詩と向き合う俳句などは、きっと心に「フィーラー」を残していないと出来ないに違いないと思います。

日本人は、西洋の文明に生きて来た人々よりはナヴィに対して違和感が少ないのではないでしょうか。
豊穣な、母なる自然。
その恐ろしく残酷でもあるマイナスの側面が描かれることが少なかったりするのは、まあ、映画の常ですね。
映像には、イマジネーションを縦横に広げて描かれる華やかさがあり、そこでの生活は現実離れのした、まあ、つまりは仮想現実。
「夢のような」非現実の体験ではあります。
が、やっぱり魅力的。

翼竜のようなマウンテン・バンシーを乗りこなす試練は、一人前になるための通過儀礼のようです。
一歩足を踏み外せば奈落へ真っ逆さま。
そんな場所で暴れる野生の鳥をロデオのように乗りこなすのは、スリルどころではなく、生死を懸けた試練です。
それをやり遂げたときのジェイクのよろこびを、観客もまたちょっと分けてもらうことが出来る。
野生の獣であるマウンテン・バンシーと「フィーラー」を通わせ合い、その背中で風を切る爽快感。
崖の間を滑空し、空を飛び回る心地よさ。自由感。
それは、一人前のナヴィとして生きていくことのよろこびと重ねられます。

そして自然人ネイティリがまた、魅力的なんだよなあ。
演じた女優であるゾーイ・サルダナのことをこれまで知りませんでした。
俳優の動きを取り込み、CGに移し替えるパフォーマンス・キャプチャーという技術によって、彼女は全編、青い肌のナヴィとなって登場するため、素顔を見せません。
が、撮影までの半年間、武術や馬術、弓矢の技術を学んだというその動きは、ヒョウやオセロットのようにしなやかで美しく、セクシーです。

俳優がスクリーンや舞台で演じるということは、文字通り「アバター(分身)」にたとえられます。
ナヴィの女戦士ネイティリという「キャラクター=アバター」に映された姿は、余計な粉飾のないせいもあってか、純粋で、心もしなやかで美しく感じられたものでした。
「アヴァターラ」がヒンドゥーの神の魂を映した化身であるように、「アバター」もまた俳優の素顔を映しているのでしょう。
映画を観た後、ネットでゾーイ・サルダナの素顔を見たら、これがまた想像通りに美しく、チャーミングでした。

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さてしかし、ナヴィの「アバター」となることは、ナヴィそのものになることではありません。
そして物語のこの状況で「アバター」となることは、地球人類(マジョリティ)とナヴィ(マイノリティ)が対立するその切っ先の狭間に身を投じるということです。

おれは海外旅行というものをしたことがありません。
が、自国を離れて外国というものを少しでも経験すると、はじめて自分の国がわかった気がするという話を友だちからもよく聞きます。
人は、他者という鏡に自分の姿を映すことで、はじめて自分というものを知ることが出来るのでしょう。
異なる側に立って、外側から客観視することで、自分の姿というものが見えてきたりする。
他人の身になって、他人の側からながめたとき、自分のひずみや歪みも見えてくる。
ジェイクがアバターとしてマイノリティを生きたとき、自分の属するマジョリティ社会のひずみや歪みが彼の前に立ちはだかることになります。

大多数の人間の幸福のためなら、少数の人間を犠牲にしてもやむを得ない。
それがマジョリティ社会が選択して来た正義です。

かつて北米の西部開拓時代、人々は西へ西へと未知の土地へ行き、苦労して耕し、苦労して家を作り、苦労して町を作った。
確かに苦労を重ねたのだと思います。
しかし、では、その土地に代々住んで来た人々はどうしたか。
排除されました。

この映画では、「赤い人(赤色人種と呼ばれた北米インディアン)」が「青い人」に置き換えられているように見えます。
地球人類は、最初は異文化を理解しようとし、交渉を試みました。
が、結局、地球人類は地下に眠る鉱床資源を手に入れるため、「青い人」を排除し、その土地を奪おうとする。
かつて「白い人」が、利のために「赤い人」を悪と決めつけ、その土地を奪ったように。

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そうした構図は、100年前の過去でも100年後の未来でも、そして21世紀の今の世も変わらないのかもしれません。
「産業の発展」「国益」という利のためなら、数年前までは他国のものと認めていた島を突如、自分のものだと主張を始める国。
かつて隣りの国を侵略して仏教の指導者を追い出し、今は併合というかたちで、自国の圧倒的に多数の人数に比べれば少数の民族を制圧している国。
その某国の当局は今は否定していますが、一時、この「アバター」という映画の上映期間の短縮やPRの禁止を指示したというニュースが流れたことがあります。
その真偽はともかく、当局が危惧したということはじゅうぶん理解出来ます。
この映画は、大多数の富のためなら、少数は犠牲になってかまわないというマジョリティ側の論理に異議を唱え、告発する物語でもあるからです。

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映画では、グレイスら、親ナヴィ派以外の地球人類は、悪役として描かれます。
侵略を主導するカリスマ的なボスキャラは登場しません。
主導者がいないというのは現代的と言えるでしょう。
主導者が見えないまま、組織が侵略へと動いていく。
舵をきるのは、会社の資源開発部門の責任者、セルフリッジ。
彼はオフィス内ではおそらくデキる優秀な社員で、武力による強行ではなく穏便な交渉を望んでいます。
が、それというのも問題を起こすことを嫌い、上司や株主の評価を得るため。失敗したら自分が切られます。
彼は、ナヴィの身になって考えるということなど、想像したこともないでしょう。
大事な決断を下すという場面では、いかにも小物らしく尻込みをする。

そんな彼を煽るのが、根っからの軍人で、幾多の戦闘経験を積んできた、いかにも強者(つわもの)なクオリッチ大佐。
味方にとっては、経験を重ねた頼れるオヤブン。
彼はただ、会社の傭兵部隊の指揮官として、プロとして、仕事に忠実なだけです。
彼にとってナヴィは、憎むべき敵というよりも、障害となるから排除すべきものであるという「it(それ)」に過ぎないのかもしれません。
決戦の地へ向かう大型飛行艇の中で、コーヒーをすすり、「早いとこ、仕事を終わらせよう」などとつぶやくシーンなどは、いかにも悪役らしい。憎々しげに見えます。
原始的な武器しか持たず、簡単に蹴散らせるはずだったナヴィ軍によって、部隊がまさかの壊滅状態となれば、怒り心頭。
この映画ではボスキャラの役割を担い、最後までしぶとく主人公を追いつめることになります。

ナチュラルだとかエコだとか、今、時代の趨勢は自然志向に傾いています。
自然破壊を「悪」として糾弾しやすい。
また、自然と共生して生きるマイノリティを排除するマジョリティの横暴も、「悪」としてわかりやすい。
観客は主人公のアバターとともに、マイノリティ側に共感しているから、いっそうわかりやすい。
そんな「悪」に打ち勝ってみせるラストは、だからエンターテイメントとしてのカタルシスがあります。
溜飲が下がる。

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その点、歴史的な事実を背景とした「ダンス・ウィズ・ウルブズ」とは違いますね。
マイノリティ側の部族の一員となって友情を結ぶ”ダンス・ウィズ・ウルブズ”ことジョン・ダンバー(ケビン・コスナー)は、ジェイクの立場そのままです。
彼もまたマジョリティからは裏切り者とされ、拘束される。
インディアンに救出され部族に合流するも、結局、自分のせいで部族が窮地に陥らないよう、妻とともに部族を去るところでラストとなります。
インディアンが騎兵隊をやっつけてラストとはなりません。

最後に字幕で、その20数年後、スー族が騎兵隊に投降したと語られますが、
そこへ至るまで20数年の間にどれだけの悲劇があったか、われわれは知っているわけです。
「いいインディアンは死んだインディアンだ」
とする蛮行が、女性や子どもにも及んだ。
主人公たちもまた、その蛮行から逃げおおせることが出来たか、どうか。
部族のその先の運命を知っているから余計に、主人公と部族の仲間との別れが哀切を帯びて迫ってきました。

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また、この映画のラストは、映画「もののけ姫」とも違います。
「もののけ姫」では、サン(=もののけ姫)をはじめとする山犬やイノシシらの獣たち「自然」と、エボシを筆頭に、自然を開拓して産業を興して生きようとする「人間」の対立が軸となっていました。
自然を克して産業を興す。
これは、昔から人間が行ってきたことです。
たとえば、足尾鉱毒事件。
明治の当時、「富国強兵」のスローガンのもと、足尾銅山の採掘事業は、日本の「産業の発展」「国益」のための原動機の働きを担っていました。
が、精錬のための煙やガスは、付近の山の動物、植物、微生物をも死滅させる。
荒れ果て、緑を失った山々は洪水を引き起こす。
排水に含まれる鉱毒は川の下流へと流れ、人々の健康と田畑に甚大な打撃を与える。
これは暴挙に行き過ぎた例ですが、足尾には、エボシたちが行っていたタタラ場(製鉄所)の発展した姿、人間の業(わざ)の行く末の姿があったと思います。
彼らは森を切り拓いてタタラ場を作っただけでなく、そこから吐き出される煙は、付近の森を丸坊主にしていました。

そして、さらにその行く末に、今のおれたちの社会があります。
エボシたちや足尾銅山が自然を切り拓いて産業を興したように、まさにその通りの道を歩んで来ました。
封建制の中、権力に屈せず、病気の仲間に心を砕き、共同体を守り率いるエボシは、理想的なリーダー像です。
厳しい自然に立ち向かい、懸命に仕事をして、稼ぎ、生活を営み、共同社会を営む。
北米の西部開拓民もまた、同じ道を歩んで来ました。
そうした人々の労苦の上に、文明が築かれ、今の社会が成り立っている。
わたしたちの今がそうした文明の恩恵にあずかっていることを忘れてはならないでしょう。

「もののけ姫」では、どちらかを「悪」と決めつけるわけではありません。
その服装や「エミシ(蝦夷)」という出身の里の名前から、マタギやアイヌとのつながりを感じさせる主人公アシタカは、縄文時代の狩猟文化を継承する、自然と共生する民だと思われます。
彼は、サンたち「自然」側にも、エボシたち「人間」側にもどちらにも与(くみ)せず、害せず、
「曇りなき眼(まなこ)」によって両者を理解し、見定めようとします。
物語は、「神殺し(あるいは母殺しとも呼べるかもしれません)」へと展開し、その死と再生の力によって、丸坊主の山に緑がよみがえるところで幕を閉じます。
結局アシタカは、どちらにも帰属することなく、両者がいかに共生出来るかを探る道──つまり悩み続けることを選びました。
自然と共生する民らしい選択です。
おれはこの選択に、宮崎駿監督の誠実さを感じる気がします。
が、ここにわかりやすいカタルシスはありません。
われわれ観客にはモヤモヤが残ります。
どっちつかずにも見えるアシタカの選択は、「あなたはどういう道をとるか?」という問いを観客に投げかけることにもなる。

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ジェイクは、アバターとしてナヴィ側に身を置きますが、やっぱり意識や行動原理は地球人のままです。
巨大翼竜・レオノプテリックスを従えて伝説の英雄「トゥルーク・マクト」になるというのも、言い替えると、これは力を獲得することです。
獲得した権力をもって、全星の部族の天下統一をはかり、迫り来る武力に対して武力で応じる。
いわば、パワー・ゲーム。
絶体絶命のピンチのところで、「エイワ」という自然がエネルギーと力を貸してくれるという展開は重要だと思いますが、
原理としては、パワー・ゲームであることに変わりありません。

そのゲームに勝利し、悪をやっつけ、ハッピーエンドを迎えることがカタルシスとなるわけで、
エンターテイメントとしては納得の結末といえるでしょう。
が、しかし、その枠組みから抜け出せないところに、ハリウッド映画としての、引いてはアメリカの文化(文明)の限界があるような気もします。
パワー・ゲームとか経済とかも大切なことですが、しかし、そういう枠に縛られないところから、自然との共生や文化を発想し、勝ち負けではなく、解決の糸口を模索していくことが、今求められているのではないかとも思えるからです。

1977年、国連議会に応じて、アメリカ・インディアン、イロコイ族オノンダガ国のエルダー(長老)でありチーフであるオレン・ライオンズは世界に向けて声明を述べました。

「……創造神は我々を互いに平等なものとしてつくった。
そのことを私はあなた方に警告する。
しかも人間だけではなく、あらゆる生き物が平等なのである。
我々の生命が平等であることを、あなた方は理解しなければならない。そしてそれは、この世界の未来のために、あなた方が守り通さなくてはならない原則なのだ。
経済と技術があなた方を手助けしている。
しかし、あなた方が平等の原則を用いないならば、経済と技術によって、いずれあなた方は破壊されるだろう。
目先の利益や損失などは、未来の世代にとってはなんの意味もない。……」
「……悪事をなすのは我々、この二本脚の動物である我々だけだ。
そしてこの悪事を、我々の兄弟である自然に対して、あるいは他の人間に対して犯すならば、創造神の目から見て最悪のことをしでかしていることになる。」
(1)

この言葉が語られた当時からおよそ30年を経た「未来の世代」であるおれたちは、目先の利益や損失が意味のないことをいいかげん理解していいはず、です。
22世紀の未来から届いたこの映画の物語もまた、同じことを語っているように思われます。
自然に対して、マイノリティだったりする他の人間に対して、未来を台無しにするような最悪のことをしでかしてはいないだろうか。
「他人の身になる」ことで、そんなことも考えさせられた映画でありました。

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《引用・参考文献》
(1)ジョゼフ・ブルチャック編、中沢新一+石川雄午訳「それでもあなたの道を行け」(めるくまーる)
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f0223055_1532922.gif他人の身になってみる


この映画「アバター」は、2009年公開当時、「3D」作品として話題になりました。
興行的にも成功したらしいですね。
2011年現在、映画だけでなくテレビやゲームの「3D」化も普及しています。
専用メガネなしでも見られるそうな。
「3D」が当たり前となる日もそう遠くないような勢いです。
となると、この映画は興行的な記録とともに、「3D」の先鞭をつけた作品として歴史に刻まれ、記憶されるのかもしれません。
けれど、おれは「3D」云々と関係なく、ぜんぜんおもしろく観ました。
そしてその物語のおもしろさは、しかしどうやら、やっぱり「3D」の技術とも密接に関係がありそうなのでした。

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「他人の身になって考えてみろ」
子どもの頃、しばしば言われたもんです。
なるほど、自分をヒトの身に置き換えて考えると、ヒトが何を考えているかが理解出来やすくなる。
また思いやることも出来るのかもしれません。
他人の身になって考える「想像力」というやつは、きっと大切です。
けれど、これって難しい。
自分に余裕がないと出来ません。
利害や感情がからんだり、立場が違ったりしていると、もっと出来ません。
けれど、この「他人の身になって考える」ということを、「アバター」という映画はやってみせてくれるわけです。

そもそも「アバター」とは、ヒンドゥー教で言うところの「化身」「肉体の顕現」をあらわす「アヴァターラ」が語源。
神が、人間や動物のかたちに肉体化することでこの世に下った、その化身した姿をいうのだそうです。
ヒンドゥー教では、人間となるアヴァターラは青い色をしているといい、
それが青い肌のナヴィをデザインする発想のひとつのきっかけとなったと、ジェームズ・キャメロン監督は語っています。
意識は自分のまま、他人の肉体にリンクし、分身──つまり「アバター」になる。
文字通り、「他人の身になる」わけです。

主人公ジェイクが、初めてアバターにリンクしたとき、まるで試運転をするように、囲みを破り、スタッフの制止をふりきって外へ飛び出し走るシーンがありました。
戦争のために下半身不随となり車椅子生活を強いられていた彼にとって、足の裏に土を感じ、風を感じ、思いっきり走ることはこの上ない喜びだったでしょう。
観客にもそれは伝わりました。
アバターの視点のカメラワークがうまく使われ、走るにつれて躍動する景色が新鮮。
初めて自分の足で歩いた赤ん坊の頃の記憶はもちろんありませんが、
初めて自分でこいで自転車に乗れたときの景色は、確かこんな感じだったよな。と、思わせられる。

つまり、主人公ジェイクがアバターにリンクして、異星人ナヴィの身になって体験を重ねていくように、
観客も主人公にリンクして、体験を重ねていく。
ジェイクが他人の身になって体験するように、観客も主人公の身になって体験する。
聞き手が主人公に感情移入して物語を体験する、というのは、遠い昔話の時代から行われてきた「物語」というものの伝統的な特質です。
それをこの映画は拡大してみせてくれる。
このとき、3Dという映像システムが、実に効果的なんです。

たとえば空中に浮遊する小さな灰や、ガラス窓に付着した汚れ。
こうした細かいモチーフが遠近感の中で浮き上がって見えると、それが気配として感じられる。
3Dというと「映像が飛び出る」というフレーズで語られることが多いけれど、
むしろ「映像に入り込む」と言っていい。
立体的な景色の中へ分け入ることで、気配を体感出来る。
ヴァーチャルな錯覚とわかってはいても、視覚・聴覚だけでなく、五感さえ刺激される気がするのです。
リアルな臨場感。
その後も、3D映画を何本か観ましたが、そうした感覚はあまりありませんでした。
これは、この映画の綿密な映像演出のせいという要素も大きいかもしれません。

惑星パンドラのその立体的な世界は、エンターテイメントとして美しく描かれ、また世界観の設定が緻密なこともあって、深い奥行きが感じられます。
細部に至るまで見事。
空飛ぶ島、巨大樹、六本足の獣たち、夜になると発光する植物、浮遊するクラゲを思わせる植物の胞子……。
神秘的な謎にも満ちた確固たる世界が、リアル感を伴って確かに目の前に感じられる。
それだけで飽きません。

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では、主人公ジェイク(そしてジェイクにリンクした観客のわれわれ)が「他人(ヒト)の身になって」体験するその「他人」とは誰か?
彼とわれわれ観客は、どんなアバター(分身)となってこの映画の物語を体験するのか?
──それは、異星人ナヴィ。
先進諸国から見れば異文化の体現者であり、マイノリティ(少数民族)になぞらえられる存在です。


初めてジェイクが森に入ったとき、仲間とはぐれ、猛獣に襲われる。
結果、猛獣を殺すことになったわけですが、ナヴィの女戦士であり、狩人であるネイティリはそのことを責めます。
自然の中では襲われないためのルールともいうべき自然の処し方があり、彼はそれを破った。
身を守るためとはいえ、無益に生命を奪うことは自然の調和やバランスを破壊すること。
部族では当たり前のそうした自然の理を知らない彼を、何も知らない「赤ん坊」と呼んでネイティリは非難するのです。

やがてジェイクはネイティリに学び、狩りの仕方を教わるようになる。
初めて獲物を仕留めたとき、師である彼女が教えたのは、奪った生命に対して祈りの言葉を捧げることでした。
生命を奪い、その生命を自分の糧とすること。
それは自然の摂理であり、狩りということの本質であり、生きるということの現実。
そのことに感謝し、奪った生命の魂の平安を祈ることを教えるわけです。

こうした儀式の習慣は、世界各地の狩猟民族のあいだに見られます。
日本の東北や北海道の伝統的な狩猟集団であるマタギたちも、同じような祈りを捧げていましたね。
マタギとの脈絡があるといわれるアイヌもそうです。
アイヌ民族の世界観によれば、熊や鹿などのけものたちは神であり、本来の魂は山奥深く(あるいは天上)にある神の国(カムイ・モシリ)にいる。
それが人間の国(アイヌ・モシリ)へ時々やって来て、食糧となる肉や毛皮を人間にもたらしてくれるのだといいます。
だから、彼らを仕留めたときには、感謝して彼らの魂を神の国へ帰す祈り(カムイノミ)を捧げる(1)

ナヴィでは、死んだものの魂は、「エイワ」に帰ると言っていました。
「エイワ」というのは、どうやら惑星パンドラに生きとし生けるものすべてを結ぶネットワークの総和で、惑星生命体のようにひとつの意思を持ち、神に近いような存在であるらしい。
動物であれ、植物であれ、ナヴィであれ、すべてがネットワークに結ばれているというのです。
仏教でいうところの「縁」の概念に近いかもしれません。
北米インディアンには、

「ミタケ・オアシン(すべては関わり合っている)」

という言葉があるといいます(2)
星に生きるすべての生きものたちが「関わり合」うその糸のひとつひとつの総和が「エイワ」ということなのでしょう。

その糸、きずな、その結びつきが可視化されて描かれる。
そういうところが、映画のおもしろいとこですね。
神経繊維のニューロンのような、植物の根のネットワークが星じゅうに張り巡らされている。
動物たちもまた、それぞれ、先端が触手状の神経の束のような「フィーラー」といわれる器官を持っている。
(これはちょうどアニメ映画「風の谷のナウシカ」の王蟲(オウム)の触手を思わせます。
この映画には他にも、「空飛ぶ島」「獣の暴走」など、ジブリ作品をヒントにしたと思われるようなモチーフがあちこちで登場します。
キャメロン監督は、宮崎駿監督のファンであり、影響を受けているんだそうです。)

ナヴィもまた髪の毛の一部に「フィーラー」を持っていて、馬のようなダイア・ホースや、翼竜マウンテン・バンシーと意思を通わせ、乗りこなすときに互いの「フィーラー」を絡み合わせる。
また、大地に根を伸ばす「魂の木」は端末のような役目をしていて、
その木に「フィーラー」を絡みつかせることで、ナヴィは惑星の「エイワ」のネットワークにアクセスすることが出来る。
「魂の木」にアクセスすることは先祖と一体化することなのだともいいます。
ネットワークには、今は亡き先祖たちの記憶も蓄積されているということなのでしょう。
北米インディアン・アラバホ族に、

「植物はひとの兄弟姉妹。耳を傾ければ、語りかける言葉を聞くことができる」

という言葉がが伝わるそうです(2)
ナヴィもまた、植物や動物や自然の語りかける言葉を聞くことが出来るのでしょう。
耳ではなく、「フィーラー」によって。

自然と共生するナヴィの生き方が、「フィーラー」というモチーフが設定されることで、わかりやすく描かれることになりました。
地球に住むわれわれ人類も、かつてはそうだったのかもしれません。
「フィーラー」のような感受性を持ち、自然を畏れ敬い、自然からの声を聞き、感謝し、自然とともに生きていた。
が、人類はやがて自然から離れ、むしろ自然を克し、支配することで文明を築き、進歩を果たしました。
いつしか「フィーラー」をなくし、自然にアクセスすることを忘れてしまった。
けれど、前世紀にはまだ、心に「フィーラー」を持った人々が生きていた。
文明化の大きな波から取り残され、あるいは抗い、マイノリティ(少数民族)化していった人々もそうです。

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北米インディアンもまた、獲物であるバッファロー(野牛)を狩りで仕留めたときには感謝の儀式を行います。
アイヌにとって熊が神であったように、
彼らにとってバッファローは、敬意を込めて「あなた(thou)」と呼ぶ存在だったといいます。
大量の毛皮を売って利を得るため、かつインディアンへの食糧供給の道を断って追いつめるため、白人がバッファローの大量虐殺を行ったとき、
バッファローは「あなた」ではなく、「それ(it)」と呼ばれました。
利益になる舌と毛皮をはいだあとの食肉などは、腐るままにまかせたといいます(3)

白人に殺され皮をはぎとられ、肉塊(it)となったバッファローのいたましい光景は、映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ」でも描かれていましたね。
伝統的な狩猟では、「わたし」と「あなた(thou)」が向き合う中で、生命のやりとりが行われる。
その尊さを知るからこそ、生命を奪ったときには肉の一片すらもおろそかにしないで「いただく」というのが、ひとつの掟(ルール)のようになります。
肉や毛皮や角はもちろん、革はティピー(テント)にする。腸は煮詰めて膠(にかわ)にする。背中のこぶは楯に使う。
無駄にするものは何もない。

北西部海岸沿岸に暮らしていた部族では、食糧とするサケを必要以上に穫ったり、後でそのサケを捨てたり無駄にしたりすると、霊界が怒って、たとえば火山を噴火させ人間たちに報復するのだといって戒める。
それが説話のかたちで残されています(4)

植物に対しても同じです。
篭(かご)を編むため、杉の木の根の皮を採る際には、杉の木に向かって

「私はあなたに、長い生命を与えてくれるこの大切なものを
ゆずってくれるようにお願いに来たのです。」
(クワキュートル族の伝承歌)

と、儀式の歌を親しく歌いかけて感謝し、皮をはぎとります(5)

アイヌでもまた、動物や植物を理由なく傷つけたり、おろそかにすれば、飢饉に襲われると伝えられる。
しかし、近代の功利的な経済社会では、敬意も感謝も自然観も生命観も無視されます。
利となる毛皮(it)の質や数量こそが必要目的であり、その他のことは問題とされない。

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映画の舞台となる22世紀。
地球は、エネルギー問題が深刻化し、自然資源も枯渇し、どうやらそうとう悲惨なことになっているらしい。
地球にはもう、自然とともに生きるような種類の人々は、転向するか滅びるかして、とっくにいないかのもしれません。
地球を台無しにし、そうして宇宙に進出した人類は、そこで自然と共生する生き方をする種類の人々と、たぶん2世紀ぶりの遭遇を果たすのです。
異星人ナヴィという生き方をする人々と。

自然を征服し文明を発展させ、そのテクノロジーで遠い宇宙へ進出してきた地球人類は、その時代、おそらく勝者でありマジョリティ(多数派)なのでしょう。
対して、原始的な狩猟を営み、自然と交信しながら生きるナヴィは、マイノリティ(少数派)であるのでしょう。

21世紀の今、先進国では多くの人々が、自然と隔絶した町の中、冷暖房付きの季節のない建物で暮らしています。
お金さえ払えば、食糧はコンビニやスーパーにあふれている。
食糧として動植物が店頭へ並ぶまでの、育てたり殺したりする過程は、すべてブラックボックス化されています。
おれたちは「それ(it)」の中に生まれ、「それ(it)」に囲まれ、育ってきました。
稲の苗を「あなた(thou)」と呼んで育てたり、豚を「あなた(thou)」として育て、その「あなた」を殺すという経験をしている人は限られています。
われわれ観客の多くもまた、マジョリティ(多数派)の側。

そしてもちろん、主人公ジェイクはマジョリティの社会で育ち、その社会の価値観を持ち、その社会で生きてきた男です。
その彼と観客であるわれわれは「アバター」という分身を通して、異質な文化と異質な価値観を持つマイノリティの社会の中に放り込まれる。
「他人の身になる」というその「他人(ヒト)」とは、ここではつまり、マイノリティを生きる「人」たちになるということ。
マジョリティ側にいるおれたちは、この物語でマイノリティを生きる生き方を体験することになるわけです。

それはひとつの快感でもありますね。
いやあーー、気ン持っちいいんだ、これが。

……って、このエキサイト・ブログって、本文の字数が制限されてるんですよね。
書ききれなくなっちゃった。
次回に続きます。

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《引用・参考文献》
(1)中川裕「アイヌの物語世界」(平凡社ライブラリー)
(2)エリコ・ロウ「アメリカ・インディアンの書物よりも賢い言葉」(扶桑社文庫)
(3)ジョーゼフ・キャンベル+ビル・モイヤーズ、飛田茂雄訳「神話の力」(早川書房)
(4)C・バーランド、松田幸雄訳「アメリカ・インディアン神話」(青土社)
(5)ジョゼフ・ブルチャック編、中沢新一+石川雄午訳「それでもあなたの道を行け」(めるくまーる)
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もう1ヶ月前のことになりますが、会期終了ぎりぎり、「デューラー展」に行ってきました
(東京上野・国立西洋美術館「アルブレヒト・デューラー版画・素描展『宗教/肖像/自然』」)。

緻密。
よくも、悪くも、緻密な印象でした。
今回は版画、素描がメインで無彩色の展示ばかりだったから、真面目で緻密な追求というような印象が余計に目についたのかもしれません。
理詰めで自然を観察し、理詰めで風景を測定し、理詰めで象徴を構築していくような、そんな追求。

だからたとえば、アダムとイブをモチーフに、美しい理想的な女性の裸婦像を描いたとしても、筋肉や骨格がしっかり追求されている。
けれどあまりに正確なために、優美さやエロス的なものがすっかり削げ落とされている。
物質としての肉体に見えてしまいました。
もっとも、神聖な聖書の物語に、情念やエロスを求める方がおかしいんでしょうね。

謹厳実直なマルティン・ルターと同じ時代の、同じドイツの人で、影響もずいぶん受けたらしいと聞いて、なるほど納得。
いかにもドイツ人らしい。

が、かといって、しかつめらしいものばかりでもありません。
たとえば「ライオンを引き裂くサムソン」という絵は版画なのですが、線が力強く、いきおいというか、情感がみなぎっていて、惹きつけられました。
そしてどれも緻密に描かれているのですが、細かく描き込まれていても、明暗の対比や構図の妙で、それが邪魔にならない。
中間のトーンの美しいものもありました。

また、踊る村人の光景とか、ちょっとユーモラス。
男性性器を暗示するように、男性の腰のそばに水道の蛇口をわざわざ描いたものなどもありました。
しかし、いかにも「象徴的に描いて遊んでみました」感があり、洒脱さに欠ける。
全体的なテーマともチグハグだったので、これは変という印象で終わってしまいました。

そんなデューラーにとって、恋と情熱の国イタリアへの旅行という異文化体験は大きかったのでしょう。(当時、レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめとするルネサンスの画家たちに出逢ってるんですね。彼にはないものが、イタリア美術にはあったような気もします。)
今回の展覧会にはありませんでしたが、二度目の旅行の帰国後に描かれた「アダムとイブ」には優美さとエロス的なものを感じます。
まあ、版画と違って、油彩という違いもおおいにあると思うんですが、今回のものとはずいぶんと違うように思われました。

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右と左の稿でデューラーの作品に触れたので、筆者はどうもそういう目でもながめてしまいました。

展覧会には、版画のための下書きが展示されていました。
版画は刷るものですから、当然、左右が反転します。
作家が肉筆で描いたものと、右と左が逆になるわけです。
しかし、職人的でもあるデューラーはそのことを熟知していたように思われます。

彼の生きた15〜16世紀は、グーテンベルクの発明した印刷技術が急速に発展した時代でした。
聖書が印刷されることにより、人々が身近に聖書という原典を手にすることが出来やすくなった。
それがルターの宗教革命を導いたともいえます。

デューラーは、神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世の肖像を油彩でも描いていますが、
まず版画で肖像を描いて評価されたようです。
そのエラのはった肖像も展示されていました。
油彩ならばたった1枚を、限定された場で限定された人に見せるだけ。
しかし、版画を印刷すれば、より多くの人々にアピール出来る。
彼の肖像は印刷されて、街のあちこちに貼られたんだそうです。
ちょっとしたブロマイドですね。

「マクシミリアン1世の凱旋門」という作品は圧倒的でした。
印刷された1枚はふつうの大きさ。
しかし、それを50枚近くつないで貼り合わせて3メートル四方の大画面を現出させるのです。
ハプスブルグ家の栄光を描いたそれは、ひと時代前であったら、実際に彫刻を施した凱旋門を建てるとか、油彩の大作として描かれたのでしょう。
しかし当時の権力者は、印刷技術を使い、より多くの人々の目にふれさせることで、威光の顕現を企図したわけです。

デューラーは、当時では最新の、そうした印刷技術をうまく使って作品を手がけた人だったんですね。
多くの本の印刷にも関わっているそうです。
聖書のポピュラー化とともに、その映像化も望まれたのでしょう、デューラーはイエスの生涯を描いた「受難伝」の連作をいく種か描き、それが本にもなっています。
本になることを想定して描いた。
活字は横書きで、左綴じ。
右へとページをめくる流れが意識されていたと思われます。
「受難伝」では特にそうでした。

しかし、右への流れは西洋美術の基本なのでしょう。
他の作品でも、それが版画であっても1枚ものであっても、総じて右方向へ進むものが多いように思いました。(例外もありますが。)
デューラーの全作品をあたったわけではありませんが、その中にあって、左方向へと進む「騎士と死と悪魔」はやはり異質といえるのかもしれません。
だからこそ、イングリット・リーデルもその著「絵画と象徴ーイメージ・セラピー」(1)で取り上げていたのでしょう。

彼女は、死の方向へと向かう騎士の姿を論じて、
「この銅版画の成立時期が、すでにデューラーの生命線の最期へと向かう致命的な疾患の時期と合致するかどうかは、よく考えてみなければならないだろう。」
(イングリット・リーデル「絵画と象徴ーイメージ・セラピー」(1)
と述べています。
「騎士と死と悪魔」の制作が、1513年。
デューラーはこのとき、42歳。
15年後の1528年、彼はマラリアでその生涯を閉じることになるわけですが、制作当時、その肉体としての死を意識していたかどうか(無意識的にもとらえていたかどうか)は、おおいに疑問です。
やはりこれは、よく「考えてみなければならない」でしょう。

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展覧会は、いぶし銀の職人の逸品を見させてもらったという感慨がありました。



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《引用・参考文献》
(1)イングリット・リーデル、城眞一訳「絵画と象徴ーイメージ・セラピー」青土社
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