カテゴリ:絵を見せて語るメディア( 26 )

清姫は、はたして悪女だったのか?(1)


安珍清姫の物語が、文献として初めて登場するのは、
平安時代に書かれた「法華験記(ほっけげんき)」という説話集です。

法華経にまつわる国内の仏教説話を集めたもので、
正式には「大日本国法華験記」(1)といいます。
比叡山延暦寺の鎮源というお坊さんが、その頃の書物や、口伝てに聞いた話、
そして自分の創作も若干交えて書き著したのだそうです。
その下巻の第129に収められたエピソードのタイトルが、
「紀伊国牟婁郡(むろのこおり)の悪女」

この時点では「清姫」という名前もまだありませんが、
紀伊の国(現在の和歌山県)の牟婁郡という所に住むこの物語のヒロインは、
「悪女」(悪しき女)であるというのです。

が、しかし。
彼女は、はたして悪女だったのでしょうか?

f0223055_511556.gif


ほぼ同じ内容が、「今昔物語集」にも収められていて(2)
「今昔物語」の編者は物語の終わりに、

「女人(にょにん)の悪しき心の猛(たけ)きこと、既にかくのごとし。」(2)

と、コメントしています。
女性は悪心が強いので、仏(ブッダ)も、女性に近づくことを戒めている。
だからこれをわきまえて、むやみに女性に近づいてはいけないよと書いています。

これら「法華験記」と「今昔物語集」では、
ヒロインは、熊野詣で旅人が行き交う道の辺りにある家の主で、
未亡人(寡婦)であったと説明されています。

同様の物語を伝える「道成寺縁起」(3)では、
紀伊国の室郡(むろのこおり=牟婁郡)の真砂(まなご)村に住む
庄司清次という人の「娵(よめ=嫁)であったといいます。
彼女は一家の主婦だった。

年齢はわかりませんが、この未亡人もしくは主婦が、
真夜中、若くてイケメンの僧の寝ているところへ忍んで、誘惑する。
僧は、修行中の身だからとこれを拒み、
嘘の約束をして逃げようとします。
その嘘を後に知った彼女は、裏切られ、女心を踏みにじられたことに怒り、
僧を追いかけ、大蛇となって道成寺へと至ります。

まさに、ストーカー。
また、彼女がもしも主婦であったとすれば、これは不倫に走って起こした事件です。
相手のことも考えず、自分の家庭も省みず、ただ己が情欲に走り、
一方的に恨んで追いかけ、相手を焼き殺す──。
これは悪女と非難されても仕方がないかもしれません。

文字として書かれたこれらの物語は、仏教説話でもあります。
非業の死を遂げた二人は、その後、
道成寺の老僧による「法華経」の書写供養を受けて、
忉利天(とうりてん)へと生まれ変わり、安寧を得たことになっています。
そうした仏教のありがたさを説くため、また僧侶に落ち度がないことを示すためには、
女性は、僧を誘惑する悪女である方がわかりやすいとも言えます。

けれど、人々の口から口へ、口承によって和歌山県各地に伝えられる伝説からは、
上の物語とはまた違うヒロイン像が浮かび上がってきます。

f0223055_511556.gif


清姫の出身地である真砂村(現・田辺市中辺路町真砂)に伝わる話では、
清姫は、庄司清次の娘ということになっています。

熊野詣に来た僧・安珍が、真砂村の清次の家に、一夜の宿を乞う。
すると、その夜、当時8歳になる家の娘が熱病にかかったと大騒ぎ。
騒ぎを聞きつけた安珍が、護摩をたいてご祈祷したところ、娘は見事、快癒。
清次は、娘の命の恩人だと喜び、
そうして安珍は、毎年のように熊野詣へ来るたびに、清次の家へ招かれるようになります。
そして数年。
いつしか娘の清姫は、安珍に恋心を抱き、二人は夫婦となる約束を交わします。

旧・那賀郡貴志川町(現・紀ノ川市貴志川町)などに伝わる類話では、
熊野へ詣でる旅の僧が、毎年のように泊まる宿の一人娘に、
大きくなったらお嫁さんにしてあげようと言う。
成長した娘は約束を信じて、僧を慕って待ちわびるようになります。
いずれにしろ清姫は、恋をする少女として語られます。

ところが、安珍が泊まりに来たある晩、屋敷の手洗い口に、
草履が濡れているのを見つける。
不思議に思った安珍が、次の晩、寝ないでいると、
真夜中、清姫が家を出て行くのを見ます。
後をつけると、清姫は、着ていた小袖を脱いで川のほとりの大きな松に掛けた。
かと思うと、ざんぶと川の淵に飛び込み、するすると泳ぎだしました。
驚いた安珍が先に帰って寝たふりをしていると、
清姫は何食わぬ顔で、自分の部屋に戻って寝ている。
その部屋を見ると、寝ている清姫の髪の毛が蛇となって、
ザラザラ、ザラザラ、遊んでいたといいます。

そもそも清姫の母親というのは、清次に命を助けられた白蛇。
姿をお遍路さんに変えて清次のもとへ訪れ、お嫁さんとなったのでした。
清姫は、人間と蛇のあいだに生まれた子だったのです。

恐怖を感じた安珍は、朝早くに熊野三山へお参りに出かけ、
その帰りに清姫の家へ寄る予定だったのを回り道して逃げ出す。
それに気づいた清姫が追いかけて、道成寺へと至ります(4)

その後、大蛇となって安珍を焼き殺すなど、
ストーリーとしては「法華験記」などとそれほど変わらないのですが、
テーマは、純情一途な少女が裏切られる悲恋というニュアンスが濃いようです。

類話によっては、清姫は大蛇にはならず、安珍を追いかけるということもせず、
裏切りを知って、川へ自ら身を投げて死んでしまうことになります。
燃える情念は、安珍に対する恨み憎しみへと向かわず、
絶望の悲しみに自分の身を焼いてしまう。

ところで、道成寺を訪れた筆者は、「道成寺縁起」の絵解きを拝見した後
(絵解きについては、別の稿で改めてレポートしたいと思います)、
その足で、熊野古道の中辺路へと向かったのでした。

その滝尻王子(田辺市中辺路町栗栖川)を巡ったとき、
語りべ“ヨッシー”こと水本好則さんにお会いすることが出来ました。
昔、熊野へ参詣する人々は、「先達」と呼ばれる人に道案内を頼んだといいます。
お参りのしきたりを教えてくれたり、解説もしてくれた、いわばガイドさん。
ヨッシーさんは、現代の先達さんともいえるでしょうか。
案内だけでなく、現代の語り部として、熊野にまつわるおもしろい話をしてくださる。
短い時間でしたが、筆者もその一端をお聞きすることが出来ました。

そのとき、ヨッシーさんが語ってくれた安珍清姫の物語のさわりでは、
清姫は、やはり真砂村の庄司の娘で、
小さい頃に「お嫁さんにしてやる」と約束した安珍を信じて恋をするというものでした。
途中で、クラシック音楽にからんだ解説が語られるなど、
いやあー、ヨッシーさんのロマンチックで、エネルギッシュな語りに
すっかり魅せられてしまいました。
やっぱり物語は、生で聞くべきものですねえ。

【※ヨッシーこと水本好則さんのホームページは、こちら。】

これら口承で伝えられた物語には、
もしかしたら、地元出身のヒロインを贔屓(ひいき)して語るという心理が
働いてないとは言えないかもしれません。
が、しかし、それだけではないように思われます。

f0223055_511556.gif


さて、筆者は、熊野古道の中辺路へと向かいました。
というのも、その近くに清姫の生まれ故郷である旧・真砂(まなご)村があったからです。

清姫は、その真砂村から安珍を追いかけ、約60㎞離れた道成寺へとひた走ります。
42.195㎞のマラソンよりなお遠い。

その道は、熊野詣の行程と重なっていて、
平安時代の貴族、中御門(なかみかど)の右大臣である藤原宗忠が、
約4日をかけてこの道を旅したことを日記に記しています(藤原宗忠「中右記」(5))。
この距離を、清姫は一気呵成で駆け抜けます。

「道成寺縁起」絵巻では、彼女がその道程を爆走するようすが、
いきいきと描かれています(3)

はじめは、被衣(かずき)を頭からすっぽりかぶった美しい姿。
それが、若い僧を追いかけて、
「きりん、ほうわふなんどのごとく(=麒麟、鳳凰などのごとく)ビュンビュン走るうちにやがて、
被衣を半脱ぎにして、裾をからげ、
人目もはばからぬ格好となって、走る、走る。

詞書きでは、ヒロインは走りながら、
「うらなしも、おもてなしも、失せふ方へ失せよ」
と叫んでいます。

「うらなし(裏無し)というのは草履のこと。
草履はふつう2枚重ねて作るものですが、
それを1枚で作った裏のないのを「裏無し」と呼ぶのだそうです。
絵巻の絵では、ヒロインは片方の草履が脱げ落ちるのもかまわず、
裸足になって駆けています。

「おもてなし」は、「面無し」と書くかもしれません。
「おもなし」ともいい、「恥ずかしい」「面目ない」といった意味。

つまり、草履も、体裁を恥ずかしがるような体面も、
失せるんだったら、どこへでも失せてしまえ! ええいっ!
と、やけくそになってるんですね。
なりふりなど、かまっていられない。
それを、「裏」なしと「表」なしにひっかけて、ちょっと洒落ているわけです。

また、絵巻には、そうやってひた走りに走る彼女が通過する、その土地の名が記されています。
真砂村(現・田辺市中辺路町真砂)から出発し、
切目川を渡る。
切目五躰王子(切目王子神社:日高郡印南町西ノ地)の前を通り過ぎ、
上野(現・御坊市名田町上野)、
塩屋(現・御坊市塩屋町)へと着く頃には、髪振り乱し、
顔つきを蛇のように変じて、ついには火を吐いています。
そうして巨大な毒蛇と化して日高川を渡り、
道成寺(日高郡日高町鐘巻)へとやって来るのです。

→参照:清姫が駆けぬけた道のり(googleマップ)


筆者は、清姫が駆け抜けたその逆のコースを、
電車とバスを乗り継いで、約2時間をかけてたどりました。

そうしてたどり着いた旧・真砂村。
そこに流れる富田川の渓谷。
心洗われるような新緑に囲まれた、清々しいところでした。
f0223055_15313131.jpg

清姫が、脱いだ小袖を掛けたという大きな松は、
「衣掛(きぬかけ)松」と呼ばれ、ずっと残っていたそうです。
が、1889年(明治22年)、十津川大水害(熊野川大水害)が起こったとき、
ここ富田川も洪水に襲われ、松は流されてしまったのだとか。

その後、道路工事などもあって川の地形も変わり、浅瀬となっていますが、
清姫が泳いだという「清姫淵」は、この辺りだと思われます。
f0223055_15503526.jpg
f0223055_971036.gif






《参考・引用文献》
(1)井上光貞・大曽根章介校注「大日本国法華経験記」〜「往生伝・法華験記」(日本思想大系7)岩波書店・所収
(2)馬淵和夫・国東文麿・今野達校注・訳「今昔物語集一」(日本古典文学全集21)小学館
(3)小松茂美編「桑実寺縁起・道成寺縁起」(続日本絵巻集成13)中央公論社
(4)渡辺昭五編、丸山顕徳執筆(和歌山担当)「日本伝説大系・第9巻」みずうみ書房
(5)藤原宗忠「中右記・長治三年~天仁二年・3」〜増補史料大成刊行会編「増補・史料大成・第11巻」臨川書店・所収













[PR]
その舞台──道成寺。


安珍清姫の物語の絵巻を、「絵解き」して見せてくれる。
──と聞いて、これはぜひとも見てみたいものだと思いつつ、幾月。
そして5月の連休日、とうとう行ってきました、和歌山県は道成寺。

夜行バスで行って朝に着き、その夜、夜行バスで帰ってくるという短い旅ではありましたが、
天気は快晴、風薫る新緑の中、物語を一日楽しむことが出来たのでした。

f0223055_2137523.gif


その道成寺にまつわる、こんなわらべ唄があります。

トントンお寺の道成寺
釣鐘下ろいて 身を隠し
安珍清姫 蛇(じゃ)に化けて
七重(ななよ)に巻かれて一廻り 一廻り
(1)

これは、手鞠唄です。
清姫が見初めた僧・安珍を追いかけて蛇になり、
彼が隠れた釣り鐘に巻き付いて焼き焦がすという道成寺の物語は、
子どもたちにもおなじみだったのでしょう。
しかし、子どもたちは、トントン手鞠をついて歌いながら、
恋に狂うという、ちょっと大人な物語をどう思っていたのかな。

同じメロディ、同じ「道成寺」というタイトルで、
次のような唄も伝わっています。

此処(ここ)から鐘巻十八町
六十二段の階(きざはし)を
上りつめたら仁王さん
左に唐金(からがね)手水鉢(ちょうずばち)
右は三階塔の堂
護摩堂に釈迦堂に念仏堂
弁天さんに稲荷さん
裏へ廻れば一寸八分の観音さん
牡丹桜に八重桜
七重(ななよ)に巻かれて一廻り 一廻り
(1)

こちらは、旧矢田村(=旧川辺町、現在の和歌山県日高川町・小熊近辺)に伝わる手鞠唄。
旧矢田村は、道成寺のある日高川町・鐘巻から18町(約2km)離れた距離にあります。
その地点からみれば、道成寺は、
「此処(ここ)から鐘巻十八町」ということになります。

この唄は、さながら道成寺の観光案内。
今回の旅で実際に道成寺へ足を運んでみると、
まさしく、ほとんど、この唄の通りでした。

「六十二段の階(きざはし)を」
f0223055_14354926.jpg

参道を抜けると、石の階段。
62段、あります。

「上りつめたら仁王さん」
f0223055_14375942.jpg


f0223055_18555347.jpg階段を上ったところに、仁王門。
右に、口を開いた
阿形(あぎょう)の仁王さん。
f0223055_18561225.jpg























左に、口を閉じた
吽形(うんぎょう)の仁王さん。
こめかみの血管もリアルな、
迫力のある金剛力士像です。
























「左に唐金(からがね)手水鉢(ちょうずばち)」
f0223055_1930529.jpg


「右は三階塔の堂」
f0223055_19453421.jpg


「護摩堂に」
「護摩堂」は、護摩をたいて修法を行うお堂。

f0223055_204775.jpg


「釈迦堂に念仏堂」
「釈迦堂」は、
江戸時代後期の1811年に出版された「紀伊国名所図会」にははっきり描かれているのですが、
お寺の方にたずねると、現在はないとのことでした。

下の写真は、「念仏堂」。
江戸の頃、お寺の宗派が天台宗となったとき、
本格的にお念仏をするようになり、このお堂が建てられたそうです。
f0223055_20393627.jpg

この念仏堂には、「五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀如来」という
ちょっと珍しい阿弥陀さんがいらっしゃるとのこと。
「五劫」というのは、
落語「寿限無」で、「五劫のすりきれ」と語られるアレのことですね。
時間の単位。
10里四方もある大岩に、100年に1度、天女が舞い降りてきて、
羽衣で撫でていく。
それが繰り返されるうちに大岩がすり減り、しまいになくなるまでが1劫。
それが5劫というのですから、途方もない時間です。

若い頃の阿弥陀さんは、
生きとし生けるものすべてを苦しみ悲しみから救うという48の大願をたてて、
その5劫のあいだじゅう、必死で思惟──つまり考えをめぐらせた。
床屋に行く暇もなかったため、髪は伸び放題でこんもり厚く、
顔もむくんで四角ばったお姿となる。
それが、「五劫思惟」の阿弥陀さん像なのだそうです。
無念ながら、筆者はこのとき拝観出来ませんでした。

「弁天さんに」
f0223055_20414854.jpg弁天さん(弁財天)は、
住吉さん(住吉大明神)、
天神さん(天満宮)とともに、
「三社」として、
絵馬の奉納所ともなっています。























「稲荷さん」

f0223055_2054588.jpg

そしてこちらが、本堂。
f0223055_22391796.jpg

ご本尊は、千手観音。
両脇の日光菩薩・月光菩薩とともに国宝とされ、現在は、宝仏殿の方で公開中です。
高さは3.20mだそうで、拝観すると、見上げるようなお姿でした。

ところが、わらべ唄では、
「裏へ廻れば一寸八分の観音さん」
とあります。
「一寸八分」は、約5.5㎝。
親指ほどの大きさしかありません。

実は、南向きに安置されたご本尊の千手観音像の裏に、
もう一躰、北向きの千手観音像があったのだそうです。
こちらの観音さんは、今も本堂にいらっしゃるということですが、
秘仏として、ふだんはお姿を拝することはかないません。

が、33年に1度、ご開帳されるのだそうで、
最近では2005年に公開されたとのこと。
だから、次にわたしたちがお遇いできるのは、2038年ということになりますね。

しかし、こちらのご像は、伝えられるところによると一丈二尺。
「一丈二尺」は、
天平時代の単位1尺=約30.6㎝として計算すると約3.67mとなりますが、
実際には、2.4mだそうです。
北側の「裏へ廻れば」確かに観音さんがいらっしゃるのですが、
一寸八分という身軽なご体格ではありません……。
──いえ、いえ。
その千手観音の胎内に、確かに一寸八分の観音さんがいらっしゃるんだそうです。

小さな胎内仏をその中に納める仏像のことを、
刀身を包んで納める刀のさやになぞらえて「鞘仏(さやぼとけ)」というのだとか。
裏にいらっしゃる千手観音さんは、鞘仏なんですね。

そもそも道成寺のはじめは、宮子姫。
一説によれば、宮子姫は、ここ道成寺の近く、海辺に住む浦人の出身。
後に姫となったこの女の子は、しかしどういうわけか、
生まれてから成長してもずっと髪の毛がはえてこなかったといいます。
丸坊主のままに日を過ごしていましたが、
ある日、海女(あま)である母親が、海深く潜っていたところ、光り輝くものを見つけます。

それが一寸八分の観音さま。
海底から拾い上げ、お祀りして願をかけたところ、宮子姫の髪はみるみるうちに伸びはじめ、
年頃となるころには、7尺(約2m)の美しい黒髪に。
いつしか「髪長姫」と謳われようになり、都の藤原不比等に見出されて養女となる。
そして文武天皇の后となり、聖武天皇をお産みになります。

が、都での暮らしに心労も多かったのか、
現在で言うところの“心的障害”にだいぶ悩まされたのだそうです。
そんな后への気づかいもあってでしょう、天皇は姫の故郷の地に寺を建立するように命じ、
そうして出来たのが、道成寺。
そして本尊の千手観音を作るとき、
姫の護持仏である一寸八分の観音さまを秘仏として納めたのだそうです(2)(3)

親指ほどの観音さまが、裏に廻った北向きの千手観音の胎内にいらっしゃる。
その伝承が、「裏に廻れば一寸八分の観音さん」と、
わらべ唄に歌われているのでしょう。

f0223055_2137523.gif


さて、わらべ唄では、続けて
「牡丹桜に八重桜」
とあります。
辞書を引くと、「牡丹桜」は、「八重桜」の別称とある。
つまり、同じものです。
それが、「牡丹桜に八重桜」と別物のような言い方をされているのは、
どういうわけなのでしょうか?

境内に牡丹桜(=八重桜)を探してみましたが、花の季節を過ぎたこともあってわかりにくく、
このときは見つけられませんでした。

ふつうの桜の木はありました。
中でも目をひいたのは、「入相桜(いりあいざくら)」とよばれる一本の木。
「江戸彼岸(エドヒガン)」という品種なんだそうです。
f0223055_0581693.jpg


立て看板の説明によると、こちらの入相桜は、二代目。
初代は、樹齢数百年という巨木でしたが、
昭和の初期、台風のために折れてしまい、
その根っこから、現在の二代目がはえて来たとのこと。

この桜にちなんだタイトルで知られるのが、
人形浄瑠璃(文楽)の「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」です。
やはり安珍清姫の伝説を扱っているのですが、
皇位継承争いや藤原純友の反乱など、複雑なドラマが盛り込まれています。
そして清姫は、恋に狂うというより、嫉妬のために蛇となって日高川を渡ります。

それにしても、「桜」を、なぜ「花王」と書いて「さくら」と読ませるのでしょう?
立て看板の説明によれば、
古来、花の王さまといえば、中国では牡丹、日本では桜なのだとか。
江戸時代の辞書「書言字考節用集」には、
「支那は牡丹をもって花王とし、日本は桜をもって花王とす」
とあったりします。

筆者の個人的なイメージでは、桜は王さまというより、たおやかなプリンセスですが、
かつて、6間(=約10.9m)離れた本堂の縁側にまでその枝を届かせていたという初代の入相桜は、
花の王とよぶのにふさわしかったかもしれません。

ひょっとすると、わらべ唄で歌われた「牡丹桜」は、八重桜という品種のことではなく、
その名前に「桜」と「牡丹」という日中の花の王を二つ並べて重ねたキング・オブ・キングス──
つまり、入相桜のことではなかったか?
……なぁーんていう勝手な想像をしてしまいました。

今の二代目は、王と呼ぶには少々迫力に欠ける大きさです。
が、萌え立つ若緑の元気さは、将来の成長が楽しみな王子様のようにお見受けしました。

f0223055_2137523.gif


そして、
「七重(ななよ)に巻かれて一廻り 一廻り」

これは、手鞠唄です。
「一廻り(ひとまわり)」のところは、もしかしたら、
鞠をついてから跳ね返ってくる間に、体をクルリとひと回りさせるなどの
技があったりするのかもしれません。
が、歌詞の内容としては、
清姫が大蛇に化して、安珍が隠れた釣り鐘に巻きつく有名な場面を歌ったものですね。
道成寺のあるこの辺りの地名が「鐘巻」といい、その由来ともなっています。
また、能楽「道成寺」の原曲とされる謡曲のタイトルが「鐘巻」です。

その鐘が取り付けてあった鐘楼の跡と言い伝えられているのが、こちら。
建てられた石には、「鐘巻之跡」という文字が刻まれています。
f0223055_4312615.jpg


その釣り鐘の場面は、後世の能や歌舞伎でも扱われ、
道成寺といえば釣り鐘のイメージが思い浮かぶほど。
地元では、釣り鐘の形をかたどった「つりがねまんじゅう」というお菓子も作られていて、
参道の店で売られていました。
(筆者は出来立てのホカホカをいただきましたが、これがなかなかの美味。)

ところが、おまんじゅうにはなっても、
その肝心の釣り鐘は、道成寺には存在していません。
“幻の釣り鐘”なんですね。

能の「道成寺」では、大蛇の吐き出す炎により、
「鐘は則(すなはち)湯(=金属の溶けた液体の状態)となつて」
と謡われています(4)
釣り鐘は、ドロドロに溶けてしまった。

道成寺縁起の異本である「賢学草子(日高川草紙)」(酒井本)では、
大蛇は、鐘に巻きついてギリギリと締め上げ、
ついには木っ端微塵、「みじんに」壊してしまうことになっています。
そうして、中の僧(こちらは安珍ではなく、名を賢学といいます)をつかみ出して
川へと引きずり込み、二人はともに深みへ沈んでいきます(5)
ここでは、釣り鐘は、粉々に破壊されてしまった。

いやいや、釣り鐘は、大蛇の炎に焼かれたものの
無事に残ったのだとする話もあります。
事件後は、道成寺境内の「鐘巻の跡」のすぐ隣りにある「安珍塚」に、
安珍の遺体とともに埋められたとも伝えられています。

いずれにしろ、事件が起こったとされる西暦928年(延長6年)以来、
道成寺に鐘の音が響きわたることはありませんでした。
そうして、釣り鐘不在のまま、約400年の歳月が流れる。

それが、1359年(正平14年)。時は南北朝時代の世となって、
当時の矢田庄(やたのしょう)の領主となった源万寿丸清重の寄進を受け、
釣り鐘が再興されます。

そこで、鐘供養がとり行われる。
“供養”といっても、これは、新しい鐘を鋳造したときにそのつき初めを行う、
いわば落成式のような法会(ほうえ)を営むことなのだそうです。

その鐘供養の最中。
どこからともなく白拍子がやって来て、女人禁制の法会にも関わらず、
その場へ飛び入りで舞を舞うことになります。
実は、この白拍子こそ、清姫の怨霊。
彼女は狂おしく舞い踊って鐘へと近づき、釣り鐘の落下とともに中へ飛び込む。
そうして、大蛇の正体をあらわします……。
──という場面を描いたのが、能楽「道成寺」です。

安珍清姫の後日譚ともいえるこの物語では、僧侶たちの必死の祈念によって
大蛇は調伏されて川へと帰り、清姫の執着心は消え去ることとなります。

ところがしかし、能の舞台を離れた実際の道成寺では、
彼女の祟りは消え去らなかったようです。
その鐘の音は割れて、響きがよくなかったのだとか。
そしてちょうどその頃、お寺の近在に災禍が次々に起こったそうです。

この二代目の釣り鐘には、

「聞鐘聲 智恵長 菩提生
 煩悩軽 離地獄 出火坑……」


というような銘文が彫られていました(6)(7)

鐘の声を聞いたら、知恵に長けて、悟る心が生まれ、
煩悩は軽くなり、地獄から離れ、火坑(かきょう:火の燃える地獄の穴)からも抜け出せる。
そして、生きとし生けるもの(衆生)を救い導くといいます。

しかし、銘文の通りには行きませんでした。
鐘の声は、人々を救うどころか、逆に災いを呼ぶ。
近所で起こった災禍は、
みんな祟りを受けたこの鐘のせいだと考えられてしまいました。

そのため、二代目の鐘は竹林に捨て置かれ、
かくして約200年の歳月が流れます。

そして1585年(天正13年)。時は戦国、安土桃山時代。
織田信長が本能寺で倒れた後、豊臣秀吉は天下統一を果たすべく、
紀州攻めへと手を伸ばします。
雑賀衆、根来寺を攻める一方、道成寺のある紀南も制圧していく。

その際に、秀吉の家臣である通称・権兵衛こと千石秀久が、
道成寺を訪れて二代目の鐘のことを伝え聞き、
陣鉦(じんがね=軍隊を動かす合図に鳴らす鐘)に使おうと
林に眠っていた鐘を掘り起こします。
そうして京都へと持って帰り、それが、京都・妙満寺に奉じられる。

そこで妙満寺の当時の大僧正がお経を読んで供養したところ、祟りは解かれ、
鐘は清澄な響きを取り戻して、現在に至るのだとか(8)

人を閉じ込めて焼き殺す凶器に使われた初代に続き、
災厄の元凶という濡れ衣を着せられたり、
戦(いくさ)の道具に使われたりと、
さんざんな目に遭った二代目の釣り鐘ですが、ここに至って
銘文の通り、“人々を救い導く”という本来の役目に帰ることが出来たようです。

f0223055_2137523.gif


さてところで、初代の釣り鐘のあった鐘楼は、実は、
言い伝えられている「鐘巻の跡」にはなかったという話があります。

昭和60年代に道成寺境内の発掘調査が行われた際、
伽藍の配置は、法隆寺の配置を左右さかさまにしたものであることがわかったそうです。
そこから推し量ると、鐘楼は、現在、入相桜が植わっている辺りにあったらしい。
その周囲からは、焼けこげた土も見つかったとのこと。
それがはたして、大蛇の炎によるものなのかはわかりませんが、
昔、そこで何か火災のようなことが起こったのは確かなようです。

すると、お寺が釣り鐘を失って後、その鐘楼の跡地に
桜が植えられたのでしょうか。
それが数百年を経るうちに、入相桜(初代)という巨木になったのでしょうか。

一般的に、お寺の鐘は、一日に二回鳴らされます。
朝の日の出の刻を告げる「明け六ツ」の鐘と、
夕方、日の入りの刻を告げる「暮れ六ツ」の鐘。
この「暮れ六ツ」の鐘が、「入相の鐘」といわれます。

童謡の「夕焼け小焼け」(作詞:中村雨紅)では、
「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る」
と歌われていましたっけ。
日暮れ時に鳴らされるあのお寺の鐘が、「入相の鐘」なんですね。

鐘を失った道成寺では、そんな夕方、
本来であれば入相の鐘を打たなければならない時刻が来るたびに
人々は鐘楼跡の桜の木を見上げ、
それが「入相桜」という呼び名の由来になったのではないか──。
と、道成寺の現住職であり、
「絵解き」の語り手でもある小野俊成さんは推されています(9)

f0223055_2137523.gif


道成寺は、夕景の似合う古刹として、
また、小高い奥の院から見る日の入りが絶景だそうで、
「和歌山県の朝日・夕陽100選」に選ばれています。

入相桜は、その名の時刻の夕景色にきっと似合っているのでしょう。
残照に照り映えた桜色は、ほの赤く染まり、
いつしか夕闇に溶けるシルエットの中で、淡く白くけぶっていく──。
そんな花景色が目に浮かぶようです。

おそらくその夕景は、たとえ鐘の声が聞こえなくとも、
二代目の鐘の銘文にあったように、
現代を気ぜわしく生きているわたしたちの煩悩を、ひととき、
軽やかにしてくれるのではないでしょうか。

またこの地を再訪する機会があれば、
今度は花の季節の夕暮れに訪ねてみたいと思いました。


山寺の 春の夕暮 来てみれば 入相の鐘に 花ぞ散りける

(※「新古今和歌集」に収められた能因法師のこの歌は、
能楽「道成寺」に引用されて謡われています(4)。)

f0223055_2137523.gif


さて、そんなゆったりとした夕景の似合う道成寺。
こんな穏やかな平和な場所で、
清姫は、なぜ狂おしくも激しい炎を
ひとり吐かなければならなかったのでしょう?

f0223055_971036.gif






《引用・参考文献》
(1)町田嘉章・浅野健二編「わらべうた〜日本の伝承童謡」岩波文庫
(2)小野宏海述、藤原成憲画、小野成寛編集「道成寺絵とき本」道成寺護持会
(3)「道成寺」ホームページ〈http://www.dojoji.com/〉
(4)「道成寺」〜西野春雄校注「謡曲百番」(新日本古典文学大系57)岩波書店・所収
(5)内田賢徳「『道成寺縁起』絵詞の成立」〜小松茂美編「桑実寺縁起・道成寺縁起」(続日本絵巻集成13)中央公論社・所収
(6)吉田友之「『道成寺縁起絵』の表現」〜小松茂美編「桑実寺縁起・道成寺縁起」(続日本絵巻集成13)中央公論社・所収
(7)ゆーちゃんさんのホームページ「百姓生活と素人の郷土史」〈http://www.ojiri.jp/〉
小野俊成「歴史講座〜道成寺のすべて」(万寿丸が残した兄弟鐘)
(8)「総本山・妙満寺」ホームページ〈http://www.kyoto.zaq.ne.jp/myomanji/〉
(9)ゆーちゃんさんのホームページ「百姓生活と素人の郷土史」〈http://www.ojiri.jp/〉
小野俊成「道成寺の七不思議」(四、鐘楼の位置)

[PR]
絵巻/日本


日本の伝統的な絵巻は、ひとりで鑑賞するようにできています。

だいたい肩幅くらいの長さ(60〜80㎝くらい)に、画面を広げる。
基本的には右手で巻き込み、左手で広げながら、スクロール。
場面は、右から左へと展開していきます。
f0223055_9261142.gif

絵と文章が交互に配されているもの。
絵の中に文章が書かれているもの。
──などなど、その形態はいろいろですが、
多くは文章を読みながら、絵をながめつつ、ひとりで物語の展開を楽しみます。

が、「源氏物語絵巻」の中で冊子の読み聞かせをしていたように、
絵巻を繰り広げて画面をながめる人のかたわらで、
侍女などが文章を読み聞かせていたということも想像できます。

f0223055_7411129.gif


下の絵は、江戸時代後期の1804年に出版された山東京伝「近世奇跡考」の挿し絵。
当時は世俗化して「歌比丘尼」といわれていた熊野比丘尼の
絵解きをする様子を描いています。
熊野比丘尼は、たいてい1枚の掛け軸絵を見せながら語りますが、
こうして絵巻を用いることもあったようです。
f0223055_1623228.gif

②の女性は、髪型や服装から、「上臈」といわれるような
身分の高い武家の女性であることがわかります。
①の熊野比丘尼が、武家の屋敷に招じ入れられ、絵解きを語っているところです。

絵巻の画面には閻魔大王が描かれていて、語っているのはたぶん地獄の絵解きです。
切々と哀れを催すくだりを語っているのでしょうか、
②の女性は袖で涙をぬぐい、かたわらの侍女も顔をおおって泣き出しています。

絵巻は、基本的に座敷の2次元的な平面に置かれて広げられるものですから、
鑑賞する人数はひとりか、せいぜい3〜4人が限度となります。

平安時代の貴族社会であれば、それもOK。
しかし、一部の少人数の人々の楽しみとするだけでなく、
より多くの民衆に語り聞かせようとすれば、
室内でも野外でも、絵を立てて、多くのひと目に触れさせる工夫が必要です。
「絵解き」の多くが、掛け軸絵を立てて掲げて語ったひとつには、
そうした理由もあったと思われます。

江戸時代でも、こうした屋敷の室内で、2〜3人の観客相手であれば、
絵巻は、有効なシステムであったでしょう。
が、武家の屋敷によばれて少人数相手に語るというようなケースは、
それほど頻繁ではなかったかもしれません。

f0223055_7411129.gif


同じ絵巻でも、インドネシアの「ワヤン・ベベル(Wayang Beber)」は、
大画面で、そして画面を垂直に立てるというやり方をすることで、
多くの人数にアピールしています。

また、インドの「ポトゥア(Patua)」は、
横にスクロールさせるのではなく、縦にスクロールさせる絵巻。
そうして床にべったりと置くのではなく、
画面を持ち上げて3次元的に立たせることで、
より多くの人々に見せることが可能です。

f0223055_7411129.gif


一方、日本スタイルの絵巻も、今は多くの人が鑑賞できるような工夫がなされています。

「安珍清姫」の物語で知られる和歌山県の道成寺
こちらでは、お寺に伝わる「道成寺縁起絵巻」を描き写した写本を使って、
絵解きを行っておられます。

この「絵とき説法」は、数百年の昔から伝わり、
現在も、年間に3000回以上行われているそうです。
そうした長い口演の歴史の中から、絵巻をより効果的に見せる工夫が生み出されたのでしょう。

木の台を使って、絵巻を立てかけ、聴衆が見やすいように画面を起こす。
左端の軸をはめ込むようにして、台に固定させる。
「説法」の語り手は物語を語りながら、
右端の軸をくるくる回して巻き込み、スクロールさせて画面を展開させるというわけです。
f0223055_8334020.jpg

筆者は、生で見たことがなく、
これはぜひとも行って拝見したいなあと思っています。




《参考文献》
榊原悟監修「すぐわかる絵巻の見方」東京美術
武者小路穣「絵巻の歴史」吉川弘文館
高畑勲「十二世紀のアニメーション ー国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるものー」徳間書店
[PR]
パルデ・ダーリー/イラン


イランに伝わる「パルデ・ダーリー(Pardehdari)」は
「絵語り」と訳することができるでしょうか。
「パルデ(pardeh)」は、「幕」というような意味であるようです。
幕に描かれた絵を見せながら、物語を語る。

「パルデ・ハーニー(Pardekhani)」=「絵芝居」とも呼ばれます。
これは、イランにある伝統的な語り、「ナッガーリー(Naghali)」の
ひとつなのだそうです。

幕──横長の大きな布──に描かれた絵を見せて語るというスタイルは、
インドの「ボーパ(Bhopa)」と同じです。
「ボーパ(男性の語り手)」は、
「パド(phad)」という布に描かれた絵を見せて語ります。

「パルデ・ダーリー」や「ボーパ」は、まったくの静止画です。
舞台の書き割りのように、絵は固定されたまま動かない。
場面が次々に展開するというわけでもありません。

そのため、これらのメディアでは、
絵を見せることが、どちらかといえば副次的となり、
唄うように語ったり、あるいは、まったく歌ったり、
または声明を唱えるように語ったりというような語り芸が
メインになっているように思われます。

f0223055_8161532.gif


「パルデ・ダーリー」の動画がありました。
街頭で行われているもの。
観光ツアー向けでもあるようです。

Naghali, traditional Iranian story telling, Shiraz, uppersia tours


次の動画は、なにかの会場内で行われたものでしょう。
PARDE-KHANI / NAGHALI (STORY TELLING) _ TEHRAN _ 1
PARDE-KHANI / NAGHALI (STORY TELLING) _ TEHRAN _ 2
PARDE-KHANI / NAGHALI (STORY TELLING) _ TEHRAN _ 3

①の動画中、街頭で演じられていた方が、
②〜④では、二番目の語り手として登場されています。
幕の絵は、どちらの動画も同じもの。
なにか英雄叙事詩の物語のように見えます。

どんな物語を語っているのか、言葉もわからないのですが、
観客とのやりとりの様子が、実にいきいきと感じられますね。

f0223055_743881.gif
[PR]
カヴァド/インド


インドには、絵解きや絵巻など、
絵を見せながら物語を語る伝統的な芸能が、現在も各地で行われています。
「カヴァド(Kavad、Kaavad)」もそのひとつ。
ラージャスターン州に伝えられ、
その歴史は300年とも400年ともいわれています。

一般的に「絵」は、紙や布に描かれるものですが、
カヴァドでは、木の板で作られた箱に描かれます。

箱には扉があり、それが折りたたみ式になっていて、
たたんだり、開けたりしていくと、次々に場面が展開していく。
その絵を指さしながら(クジャクの羽根を使うこともあるようです)、
物語を語っていくというわけです。

あるいは、あらかじめ布で板を覆っておいて絵を隠しておき、
それをずらして取り外すことで、場面場面の絵を見せていくということも
しているようですね。

そうして次々に扉を開いていき、最後の扉を開くと、
その奥に、神さまの神像が置かれていたりします。
この神さまは、物語の結末で登場し、救い主のはたらきを担ったりするのだそうです。

さながら箱の奥にご本尊を奉った厨子とか仏壇の、からくり仕立て
といったような風にも見えます。
宗教に関する物語を扱うことも多く、
演じる人は、芸人というよりも宗教家とみなされることもあるそうです。

ちょっとしたタンスほどの大きなものもありますが、
たいていは持ち運びに便利な、小さいサイズ。
これを携えて、語り手は村から村へと、旅をしながら語って歩く。
なので、「Portable Shrine(持ち運び可能な聖堂)」とも説明されます。

これは筆者のうろおぼえの記憶なので恐縮なのですが、
ずっと以前、ブータンの寺院を紹介したTV番組の中で見たような気がします。
こうしたからくりの箱を、
日本の修験者が背負っていた「笈(おい)」のようにかついで歩いては、
その絵を見せながら、人々に語っていたような……。

ブータンは仏教の国ですが、
ラージャスターン州のカヴァドはヒンドゥー教なので、
カヴァドがブータンで行われているというわけではないでしょう。
が、もしかしたらその形式が伝わったのではないかと思うのですが……、
不確かな情報でスイマセン。

f0223055_504194.gif


どんな物かは、画像を見た方がわかりやすいですね。
グーグルの「kaavad」の画像検索


「YouTube」に、手作り工芸のひとつとして紹介している動画がありました。



下の動画は、カヴァドを生業(なりわい)としている人々を追ったドキュメント。
Kaavad_Make_Tales - Part1
Kaavad_Make_Tales - Part2

f0223055_504194.gif


題材は、「ラーマヤーナ」や「マハーバーラタ」など、神話や英雄、または父祖の物語。
語り手は、物語を記憶していて暗誦するのだといいます。

最近では、このからくりの形式を使って、
子どものための教育に使おうという試みがなされているそうです。

Nina Sabnaniさんという方が、幼児向けの教材に関わられていて、
動画の中で紹介しています。
→「YouTube」の紹介動画

こちらの素材は、板ではなく、厚紙。
仕掛け絵本の「カヴァド」版といった感じでしょうか。

f0223055_504194.gif


小西正捷さんによると、
1988年、国際人形劇連盟「ウニマ」の関連行事で、
日本の人形劇団が「カヴァド」形式の「モモタロウ」を演じたんだそうです(1)
どんな試みだったんでしょうか?

いやあー、おっもしろそうですねえ。

f0223055_743881.gif









《引用・参考文献》
(1)小西正捷「インド民俗芸能誌」法政大学出版局
[PR]
 冊子[源氏物語絵巻]


「源氏物語」、そしてそれを映像化して絵巻にした「源氏物語絵巻」に、
絵本の原形とも思われる冊子形式のメディアが登場します。
「東屋(あずまや)」(一)の場面。

「源氏物語」を彩るヒロインのひとりである浮舟(うきふね)は、
身分は高くないものの、裕福な家の娘。
が、母親は子連れで再婚したので、父親の実子ではありませんでした。
財産目当てで彼女と婚約した男は、その事実を知って、
父親の実子である彼女の妹と結婚してしまいます。
不憫に思った母親は、浮舟を、
彼女の異母姉である宇治の中君(なかのきみ)のもとへ預けます。

ところが、中君の夫である匂宮(におうのみや)には浮気癖があり、
偶然、彼女を見つけて強引に迫る。

この後、浮舟は、
この匂宮と、そして「源氏物語」後半の主人公・薫との板挟みになり、
自殺へ追い込まれることになります。

が、この「東屋」の場面の時には、事なきを得ます。
しかし、男性経験のない浮舟にはショックでした。
そんな妹に気をつかって、慰めるために中君が用意してすすめたのが、
絵物語の冊子です。

中君が、
「絵など取出させ給ひて、右近に、詞(ことば)読ませて」(1)
──というくだり。

「右近」は、浮舟に仕える侍女(女房)です。

中君は、浮舟といっしょに絵を見ます。
恥ずかしげに物怖(ものお)じしていた浮舟は、やがて物語に夢中になったのでしょう、
いつのまにか前に乗り出して絵に見入っている。
そんな異母妹の美しい横顔をながめて、中君は感慨にふけります(2)

このシーンを「絵巻」では、姉妹二人ではなく、
浮舟ひとりで絵を見るという構成で描いています。
f0223055_171054.jpg

絵の冊子に見入っている浮舟()。
その手前で、詞書(ことばがき)の冊子を朗読しているのが、右近です()。
f0223055_1747.jpg

つまり、絵が描かれている冊子と、
文章が書かれている冊子という、2冊に分かれた1組の絵本。

たいていは高貴な人のために、侍女(女房)などが文章を読み聞かせる。
その読み聞かせに合わせて、ページをめくって絵をながめていくというわけです。

「絵巻」の他に、こうした仕組みのメディアが、
平安の当時、貴族社会の中にあったことがわかります。

f0223055_743881.gif






《引用・参考文献》
(1)紫式部、石田穣二・清水好子校注「源氏物語」〜「新潮日本古典集成」新潮社
(2)紫式部、与謝野晶子訳「源氏物語」〜「日本国民文学全集4」河出書房新社
   佐野みどり「じっくり見たい『源氏物語絵巻』」小学館
[PR]
女たちの曽我物語


さて。
はたして虎御前は実在した人物だったのでしょうか?
それとも……?
f0223055_198083.jpg

この稿では、主に福田晃さんの「曽我物語の成立」(1)を道しるべとしながら、
民俗学や歴史の先生たちが書いた著作という地図を広げつつ、
大磯、曽我を訪ね、
中世を歩いてきました。
これら研究の分析の見事さと労苦には、ほんと、頭が下がる思いがします。
しかしながら、後世の人々が推理と証明を積み重ねたとしても、
虎の正体は××だというような、
完璧な結論に至ることは難しいようにも思われます。

が、それでいいのかもしれません。
ミステリーは、ミステリーのままであっていい。

「吾妻鏡」は、兄弟が事件を起こした後、兄弟に関わったとされる女が鎌倉に呼ばれ、
詮議を受けたことを記しています(2)
彼女は、その記述の通り、遊女だったかもしれない。
あるいは、長者の娘だったかもしれない。
あるいは、身分の下層な者だったかもしれない。
ひょっとしたら、宿河原で巫覡(ふげき)を行い、歌舞に長じた比丘尼であったかもしれない。
いずれにしろそんな女性が、自分の人生をかけてひとりの男と恋に落ちた。
その恋を背負って、一生を生きた。
そんな想像も許されるのではないでしょうか。

そして、物語に耳を傾け、虎御前の面影を想い描いた人々の心の中にこそ
真実はあるのでしょう。

f0223055_313134.gif


曽我兄弟は、英雄とされました。
御霊信仰にも関連するでしょうか、神としても祀られています。
仮名本「曽我物語」(3)には、源頼朝が神として祀るよう指示し、
「よう行上人」(=藤沢の遊行寺の遊行上人といわれます)を開山として
社を建てたとあります(現・静岡県富士市の曽我八幡宮)。

しかし、「地蔵菩薩霊験記」には、こんな話も伝えられています(1)

地蔵信心の聖(ひじり)が、善光寺へと詣でる途中、富士の裾野の荒野に迷い込む。
やっとお寺を見つけて一夜の宿をたのむと、美しい女が出てきて渋る。
と、そこへ、修羅の亡霊が二人、つい今しがたまで戦(いくさ)をしていたのか、
松明(たいまつ)と、べっとりと血のついた刀を持って、
はあはあと息も荒く、駆け込んでくる。
この二人こそ、世を去った曽我兄弟。
六道のうちの修羅道におちて、夜昼なく殺し合い戦うこと、日に22回。
それが今は追善の功徳によって、12回に減り、
こうして寺に寄り、わずかなあいだでも休息ができるようになったというのです。
そしてすぐにまた二人は飛び出して行く。

出てきて応対した美しい女というのが、十郎を追って同じく修羅道におちた虎。
虎は、そんな兄弟をひたすら見守っているのでした。

思わず聖が心のうちで経を唱え、合掌して目を閉じると、
ふいに風を感じ、
気づくと、草原の塚のもとに、ひとりうずくまっていたといいます。

これは、追善供養の必要を説く勧進聖がつくった物語だろうといいます。
が、胸を打たれます。

f0223055_313134.gif


「吾妻鏡」によると、
将軍・源頼朝は、兄弟が母宛に送った手紙を証拠物件として読んだところ、
感動して涙を流し、長く文庫に保存したとあります。
仮名本に、「曽我への文かきし事」として、
兄弟が仇討ちの直前、仇討ちへと至る軌跡を幼少の頃からくわしく振り返り、
母への手紙にしたためる場面がある。
おそらくその手紙を読んだということなのでしょう。

弟・五郎は、兄・十郎が斬られた後、
頼朝の宿所を襲撃するようにも見える“侵入”をして捕まるのですが、
そんなことをされながら、頼朝は兄弟に対して好意的です。
兄弟の霊を弔いなさいと、
曽我の庄の「乃貢(のうぐ:この時代でいう年貢)」を免除したとあります(2)

為政者である頼朝のこうした態度は、史実だったのか?
むしろ幕府は、この事件のことを隠そうとした節があるという説もあるようです。
もしかしたら「吾妻鏡」の書かれた当時、
すでに「曽我語り」が広まっていたとしたら、
その人気を意識してのものだったかもしれません。

しかし、仇討ちというのは、当時、
公(おおやけ)には認められないとしても、
人々から「あっぱれ、よくやった」と礼賛されるものだったのでしょうか?

曽我兄弟には、十郎と五郎の他にも兄弟がいます。
二人を含めると、全部で5人。
そのひとりに、腹違いの原小次郎(京の小次郎)がいて、
十郎と五郎は“仇討ち計画”を打ち明け、いっしょにやらないかと持ちかけます。
すると彼は騒ぎ出し、
こんな時節だから、親の仇というのは頻繁にいるものだ、
だからといって、仇討ちなどもっての外(ほか)だといいます。

当時は、源平合戦という戦争がやっと終息したという時代。
戦争中には、同族であっても平家と源氏に分かれて戦ったこともあったわけです。
しかし今となっては、仇だからといって勝負を決しようとせず、
仇であろうが肩を並べ、鎌倉幕府というひとつの体制に従おうとしている。
貴族政治から武家政治へと移り変わり、
主(あるじ)に奉公することで領地を与えられるという、新たな時代。
こんな時代に仇討ちをするのは、
「剛の者」と言わず「痴(しれ)者」(=馬鹿者)というべきだ。
それでも不満があるというなら、朝廷や幕府に申し立て(訴訟)、
正当な手続きを踏んで主張するといい。
──と、小次郎は説きます(3)

十郎と五郎にすれば、
いや、訴訟が出来ないからこういう手段を選ぶのだというわけですが、
これは当時のふつうの人々が抱いていた、一般的な認識ともいえるのではないでしょうか。

そしてこれは、筆者の感想なのですが、
仇となる工藤祐経は、どうもそう悪い人間には見えません。
もとはといえば、所領争いのいざこざ。
京に行かされ、自分の土地を離れているあいだに、
義理の叔父で後見人であり、妻の父親である伊東祐親(=兄弟の祖父)が裏切って
土地を横領してしまう。
さらには、妻を離縁させて他家へ嫁がせてしまい、土地も妻も奪われるということになる。
だからといって、暗殺を企て、伊東祐親の息子・河津祐泰を殺すのは悪行に違いありませんが、
非を問うならば、どっちもどっちという気がしてしまいます。

寝込みを襲うという兄弟の仇討ちも、やっていることは暗殺に近い。
私怨のための殺人傷害であることには変わりなく、
事件は、周囲の人々を巻き込みます。
義父の曽我太郎祐信は、自ら申し出て隠退。
5人いる曽我兄弟のひとり、末っ子である律師(幼名・御坊=伊東禅師)は、
遠く越後(新潟県)の国上寺にいて事件とはまったく無関係でしたが、
詮議の末に自殺に追い込まれています。

そうした周囲の犠牲も、兄弟は覚悟していたでしょうか?

兄弟が殺した工藤祐経にも幼い子どもがいました。
その子(犬房丸)は五郎を処刑するよう嘆願し、仇である五郎を死なせはするのですが、
幼くして父親を殺されるという、兄弟と同じ境遇となります。
今度は自分たちが仇となり、その子から恨みを買ったことに対して、
兄弟はどう思ったでしょう?

そして復讐を果たすことで、兄弟は自分の人生に満足できたのでしょうか?
──平成時代に住む筆者の目線で見ると、そんな疑問もわいてきます。

しかし、十郎と五郎は、修羅の道をひた走りに走り抜けました。

そんな兄弟の事件を、女性たちはどう見ていたのか。
仮名本「曽我物語」(3)に沿って、ちょっとたどってみます。

f0223055_313134.gif


兄弟の母親の満江御前は、夫を殺された直後、悲しみに打ちひしがれ、
当時5歳と3歳だった兄弟に、
大きくなったら仇を討って、その首を見せてくれるようにと言います。

が、時代は変わり、状況も変わります。
兄弟の祖父である伊東祐親の事情で、源頼朝の怒りを買い、
兄弟はいったんは処刑されそうになる。
結局、処刑は免れるのですが、そうした経緯もあって、
満江御前は、仇討ちうんぬんの以前に、二人には生き延びてほしかったのだと思います。

十郎は武士になってしまいましたが、
せめて弟の五郎は僧侶にしようと、満江御前は、息子を箱根権現に預ける。
が、五郎は意にそむいて、元服して武士になってしまう。
それを知った母は、五郎を勘当します。
そして兄弟の仇討ち計画を知ったとき、満江御前はこんこんと言い聞かせます。
今は、仇討ちは「謀反」「悪事」である。
死んだ父への孝行も大事だが、
それより、恩になった人や、今、生きている人たちをないがしろにしてはいけない。
仇討ちをすることは、周りの人たちを不幸にする。

しかし、兄弟は母に隠したまま計画を推しすすめ、最後まで打ち明けませんでした。
いよいよ仇討ちの場となる富士野へ向かうとき、十郎は、
富士野の巻狩りにお供するためといって、小袖を乞います。
小袖はもともと下着でしたが、当時は内に着るファッションとして流行していたようです。

けれど、五郎の勘当を、母は解こうとしません。
なかなかに気丈です。
が、兄・十郎の必死の説得に、とうとう折れて許すことになります。
そこで母は舞いを所望し、十郎が横笛を吹き、五郎が舞いを舞う。
そして舞いが終わったとき、満江御前は兄弟に小袖を与えます。

富士野へ向かうと聞いて、最初、満江御前は、
狩り場というのは父親・河津祐泰の討たれたところで縁起がよくない、
できれば行ってほしくないと言っていました。
何か予感していたのでしょう。
そしてたぶん、兄弟の態度と表情から、
死を決して仇討ちへ向かうのだということに気づいたのだと思います。
兄弟の舞いを舞う姿が、今生で見る最後であることを、たぶんわかっていた。
小袖を与えるということは、
それを黙認する、認めるという意味を持っていたのではないでしょうか。
けれども兄弟には、この小袖をなくすことなく、必ず返しに来なさい、と言いおく。
それが母親としての気持ちであったでしょう。

しかし、兄弟が生きて返しにくることはありませんでした。
小袖は、兄弟の死を伝える侍従の手によって、母の元へ返ることになります。

f0223055_313134.gif


母親・満江御前が、兄弟の仇討ちをずっと反対し続け、
葛藤の末に、半ば黙認という態度をとったのに対し、
虎御前は、兄弟の行動を最初から認めているように見えます。
仇討ち計画を打ち明けられても、計画の是非には何も触れず、
彼女はただ、何があろうと十郎につき従おうとしただけでした。

それは、もともとはこの物語の語り手の立場であったとすれば当然で、
また、女性が男性に意見するということは、この時代、あり得ないでしょう。
ましてや虎は、遊女の身で十郎に従う者であり、
そして恋をする女性でした。

ヒロインが遊女であるということは、
この物語にいきいきしさを与えているように思われます。
この時代──というより日本の歴史の中で、
特に武家の女性たちは、家やいろいろなしがらみに縛られ、
自分の意志で行動することは基本的にありませんでした。
恋愛はもとより、結婚や離縁も、父や祖父、家によって決められる。
満江御前をはじめ、この物語の多くの女性たちも例外ではありません。
しかしこの時代の遊女(あそびめ)は、その点については自由といえます。

もっとも遊女は「流れの身」「流れを立つる身」であり、
世の流れに浮き沈みする定めのない稼業。
さまざまな現実には縛られています。

十郎が大磯の遊郭で虎と逢っていると、
ちょうど和田義盛一門が居合わせ、別の間で酒宴をはじめます。
和田義盛は美人の評判高い虎を指名しますが、なかなか現われない。
客であればどんな相手にも応じねばなりませんが、恋人の手前、虎は行き渋る。

和田義盛はこれまで、身をやつしている兄弟の正体がバレそうになるのを救ったり、
兄弟の計画をお上に知らせようとする者をとどめたりと、
陰ながら、兄弟を援助しています。
しかし、遅れている原因が十郎の相手をしているせいだと聞いて、緊張感が走ります。
一門のひとりが部屋を訪ね、十郎と虎を丁重に酒宴に招くのですが、
そこで和田義盛は虎に、十郎と自分のどちらの盃(さかづき)に酒をつぐか、
誠に思う方を選ぶようにと迫ります。
まさに一触即発、一歩間違えれば血を見る乱闘となるところ。

ここで虎は、十郎に盃をさすのです。
遊女であれば、そして場の空気を読むとすれば、和田義盛に盃をさしてとりなすべきです。
が、あえて十郎を選ぶ。
これで殺されたとしても本望と覚悟したのかもしれません。
女の意地なのかもしれません。
和田義盛の大人な態度と、この後、心配して来た五郎が加わったこともあり、
結局事なきを得ることになります。
が、つまらないことで刃傷沙汰となれば、多くの命が失われ、
兄弟の宿望も断たれるところでした。

虎のとった選択は、プロフェッショナルな遊女のすることとは思えません。
しかし、愚かといわれたとしても、恋する女性の率直な強い意志、
そしていきいきとした自由な心意気を感じさせてくれる場面です。

f0223055_313134.gif


兄弟の没後、物語のエピローグの主人公となるのは、虎をはじめとする女性たちです。
そして登場する女性たちのほとんどが、出家することとなります。

十郎の恋人である虎御前。
兄弟の母である満江御前。
(※満江御前と、兄弟の姉である“二ノ宮の姉”は、
仮名本では、仏の教えに救われ、念仏する場面しか描かれていませんが、
満江御前は、事件から2年後の1195年、夫の曽我祐信とともに出家したといわれます。)
仇の工藤祐経の愛人であった遊女、手越の少将。
五郎の恋人であった遊女、化粧坂の遊君(少将)。

──彼女たちがみんな仏教に帰依して出家してしまうのは、
この物語の語りが、女性層に向けた勧進のためのものでもあったからだといわれます。

虎は、諸国をめぐったときに法然に出会って教えを受けたといいます。
法然は、流罪にあって讃岐(香川県)へ行く途中、
舟の上の遊女から問いかけられて、人生相談に答えた人です。
罪深い女性でも救われるという彼の「女人往生」の教えを、
虎は法然から聞いたとして、物語の中で滔々(とうとう)と語ります。
物語に耳を傾けた聞き手の女性たちは、きっと感銘を受けたんだろうなあと思います。

しかし、彼女たちの祈りは、女人の往生を願うばかりでなく、
修羅道におちた男たちを救うものでもあったでしょう。

f0223055_313134.gif


ユングは、人間は男女ともに、その心の中に男性性と女性性の両方の要素を
もっていると説きました。
そして男性が心の中に抱く内なる女性像を「アニマ」と呼びます。

「曽我物語」は、ときに「戦記もの」のジャンルとして扱われるくらい、
戦闘シーンも豊富で男性的です。
また、仮名本では、やたらに学識のありげな中国の故事がさしはさまれていて、
そんなところも、男性的な筆致を感じさせます。
しかし、ストーリーとしては、
文字として書かれる以前、もともとが「女語り」であったんだろうなという部分も
ところどころに感じられます。
女性の語りからはじまって、男性も語るようになっていった。

物語が成立していくこうした過程の中で、
虎というヒロインは、修羅におちゆく兄弟の「アニマ」となっていったのでは
ないでしょうか。
男性性に傾く中で、女性性が求められた。

ダンテが、「アニマ」であるベアトリーチェに導かれて
地獄から天上へと旅したように(「神曲」)、
「アニマ」はしばしば「魂の導き手」という役割を担います。

兄弟は、苦労の末に目的を成就することができて、もしかしたら満足したかもしれません。
もしかしたら戦いの中で充実感を得たのかもしれません。
が、恨みの果てに仇を殺すことで、心は癒えたのでしょうか?

人々は、彼らの人生を悲劇と感じ、彼らが怨霊となることをおそれました。
もしかしたら、本当の意味で心は満たされていなかったのではないでしょうか。
だから「地蔵菩薩霊験記」で語られていた後日譚のように、
今も修羅の世界で、24時間、戦い続けなければならないのかもしれない。
安らぐことなく。
深呼吸をする暇もなく。
戦いに追われるまま、心に空っぽを抱えたまま。

もしも救われる道があるとしたなら、彼らを救うのは、
修羅の世界にまでつき従いやって来て、ただひたすらに祈り見守る虎ではないか。
魂の導き手である、そんな「アニマ」としての姿が、
出家の身となって祈る女性たちの中に見出せるような気がします。

それはまた、荒ぶる魂を鎮めるために語った
「とらん」「とら」と呼ばれた女性たちの姿に重なります。

そして、私怨による刃傷沙汰だったこの事件は、
虎という「アニマ」を得て、語られることによって、
物語としての普遍性を獲得したようにも思われるのでした。











《引用・参考文献》
(1)福田晃「曽我物語の成立」三弥井書店
(2)永原慶二監修、貴志正造訳注「全訳吾妻鏡・第2巻」新人物往来社
(3)佐々木信綱・久松潜一・竹田復監修「曾我物語 上・下」いてふ本刊行会



[PR]
「宿河原」という場所


大磯宿の東、高麗山の周辺を「東海道分間延絵図」(1)で見渡してみると、
下のようになります。

▼「東海道分間延絵図」をもとに作成した略図
f0223055_5552292.gif

→参照:現在の地図(Googleマップ)

この略図の左(西)に、大磯宿があり、虎御石が伝わる延台寺があります。
高麗山の北側──この略図の方向から見れば裏側に、山下があり、
荘厳寺や山下長者屋敷跡、虎御前の住居跡があります。

そして高麗山の南側──この略図では手前となる海岸に続く一帯を「もろこしが原」といい、
現在、その一部が「唐ヶ原」という住所になっています。

仮名本の「曽我物語」に、
曽我の里に帰っていた十郎が、虎に暇乞いをするため、大磯へ向かい
「宿河原、松井田と申す所より、大磯にこそ行きにけれ。」(2)
というシーンがあります。
「松井田」という地名も現在はわからないのですが、
問題となるのが、この「宿河原」と申すところ。

「宿河原」は、日本各地に見られる地名で、
神奈川県では、川崎市の多摩川沿いの「宿河原」が有名です。
そのため、川崎市の「宿河原」へ寄ったのだと解されることもあるようです。
が、明日には仇討ちの場となる富士野へ向かうというときに、
それでも恋人にひと目あっておきたいというときに、
わざわざ悠長に多摩川まで足を伸ばすのは、どう考えても不自然です。

福田晃さんは、花水川の西側の岸、花水橋を渡って「もろこしが原」に入るあたりが、
「宿河原」であるといいます(3)
曽我から山道を通り、高麗山の北側から迂回してくると、
ここへ出るというわけです。
ちょうど善福寺を含むあたりということになります。

▼現在の善福寺
f0223055_8252077.jpg

福田晃さんが史料として引用している江戸時代の「新編相模風土記稿」。
そこに、善福寺のあたりは昔、「宿河原」と称されていたと書かれています。
そして善福寺を開いた了源上人は、この「花水の辺宿河原」に、
「幽居」「幽栖」した(=俗世間から離れて静かにひっそりと住んだ)といいます。
昔は、世間から一歩離れた場所だったわけです。

f0223055_1248496.gif


「宿河原」という地名は、「宿川」などと同じく、境を意味すると
柳田國男は述べています(4)
そして「宿」は、「夙(しゅく)」に通じるともいいます。

白土三平さんのマンガ「カムイ伝」の主人公カムイは、
「夙(しゅく)のカムイ」と呼ばれていました。
彼が、夙谷というところの非人村の出身だからです。
歴史的な考証からいえば、ツッコミどころもあるそうなのですが、
本百姓や下人よりもさらに下層の身分である、穢多も含めた広義の意味での非人。
そのカムイたちが住んでいたのが、「夙」谷でした。

「坂」「河原」「夙」などの境界の領域には、最下層の人々が暮らしたといいます。
彼らは「坂の者」「河原者」「夙の者」、
あるいは「犬神人(いぬじにん)」「放免」「清目」など、
その地域、その時代、その職分によっても、さまざまに分かたれて称されたようです(5)
そうした中に、芸能を職能とする人々もいました。

今でも、俳優や芸能人が「河原乞食」と揶揄されるのは、
近世、京都・鴨川の四条河原(現在の四条大橋付近)で、出雲の阿国が、
歌舞伎の元祖といわれる「かぶき踊り」を始めたことに由来するといわれます。
が、それ以前の中世の頃から、河原者という人々がいて、
牛馬の解体や皮革加工業、造園業などに従事し、そして芸能に従事する人々もいました。
彼らは身分が低いとみなされて蔑視され、
それが「河原乞食」という言葉につながったのだともいいます。

「坂」や「河原」、「宿(夙)」など、どこにも属さない境界の領域に
下層の人々がいて、芸能を行う人々がいた。
現在の歌舞や演劇や語りなどの芸能も、その源流を彼らにたどることができるでしょう。
そうした彼らが信仰していたのが、「宿神」という神だったといいます。
「宿(夙)の者」は、「宿神」を信仰する者でもあるというのです。

京都の山科川の四宮河原(現・山科区四ノ宮周辺)。
「四宮」は、平安の頃、仁明天皇の第四皇子の「四の宮」である
人康親王にちなむという説があります。
彼は、出家してこの地に隠棲したといいますが、
なぜ都から追放され、隠棲せざるを得なかったか、そのいきさつはわからないのだそうです。
が、後に、両目を患った病気のせいだとか、
また、琵琶の名人だったと伝えられるようになっていく。
そうして、琵琶法師たちが彼を祖と仰ぎ、毎年のようにここへ集まっては、
道祖神を祀るように石を積み、神事を行い、彼の霊を慰めたのだそうです。

ところが柳田國男は、この「四ノ宮」は後からのこじつけであるといいます(4)
「四宮」は「しく」の当て字であり、
もともとは「しく河原」──つまり「宿河原」という境の地であったというのです。
そしてその「宿河原」で、琵琶法師たちが石を積んだりした「石塔会(積塔会)」などの神事が、
実は「宿神」を祀る祭儀であったと、福田晃さんはいいます(3)

f0223055_1248496.gif


服部幸雄さんによれば、宿神とは、
表舞台に現れることのない「隠れ神」「隠され神」であり、秘されて祀られる神。
シャグジ、サクジン、シュクシ、スクウジンなど、さまざまな呼び方をされ、
表記のし方も、守宮神、左宮司、斎宮神、石神、四宮神など、さまざまな書き方をされる。
なかなかに複雑です。
祟りなす荒ぶる神としての面と、柔和な、しかし強さをもった守護神としての面の
両方をもつともいわれ、
また、憑依をしやすい神でもあるということです。
技芸的な芸能の神というよりも、芸能に携わる人々が拠り所とした神であったようです。
能につながる猿楽の芸能民や、
また、琵琶法師や盲僧、盲御前、説経師など、各地を放浪した芸能民たちの、
それぞれの信仰の核にこの「宿神」信仰があったといいます(5)

たとえば「蝉丸」は、琵琶法師にも信仰されましたが、
説経師たちにも、祖神として祀られました。
その背後には、宿神の存在があったといいます。
蝉丸が祀られている逢坂の関の「関明神」は、もともとは、
坂の神・境の神である「坂神」としての道祖神でした。
そこへ、蝉丸が神話化されて組み入れられ、合祀されることとなった。

同じ境を守護する神である「宿神」と「道祖神」には通じるところがあり、
宿神の多くは、道祖神に習合するかたちで残されているといいます。
四宮河原で琵琶法師が行った祭儀が、道祖神を祀るようであったと伝えられるのも、
そうした理由からでしょう。

また、近世の瞽女は、嵯峨天皇の第四の宮である「サガミの姫宮」を祖神としていました。
が、これは、蝉丸の姉であり、
蝉丸とともに祀られている「サカガミ(逆髪)の宮」であるといいます。
そして実は、弁財(才)天を守護神としていた。
この弁財天もまた、宿神と関わりがあるようなのです。

この「宿神」を奉るグループが、大磯の宿河原にもいたのではないかというのが
福田晃さんの説です(3)

f0223055_1248496.gif


宿河原の西には、遊郭があったとされる化粧坂。
近世の地図(「東海道分間延絵図」)には、非人小屋が描かれていました。
同じ境の地として、何か交流があったでしょうか。

そのやや西には、虎が池弁財天。
もともとはここに虎御石があったといわれ、
また、「益軒吾妻路之記」などの書では、虎御石は宿河原にあったというそうです。
陰陽石という「道祖神」的な特徴をもつ石が、
「弁財天」に祀られていた。
「道祖神」、「弁財天」。──宿神とのつながりを思わせます。

宿河原の南には、もろこしが原、そして海。

世阿弥の「風姿花伝」に、猿楽能の祖として秦河勝の伝説が書かれています(6)
彼は、日本に来日した帰化人であるといい、
世阿弥によれば、芸を子孫に伝えた後、うつぼ舟に乗って海へ出る。
流れ着いた坂越(現・兵庫県赤穂市坂越)で、
「諸人に憑きたりて奇瑞(きずい)をなす」
そして国を豊かにして、
大きく荒れると書いて「大荒(おおさけ)大明神」という神になったといいます。

坂越(さこし)には、「しゃくし」とふりがなが振られていて、
「シャグジ」──つまり、「宿神」であることがわかります。
人に取り憑く荒ぶる神、秦河勝は、宿神でした。
宿神は、河原など内陸の水辺だけでなく、海浜にも示顕するというわけです。

大磯は、帰化人・高麗若光を受け入れた地で、
帰化人が住んだといわれる場所が「もろこしが原」といわれました。
そうしたところに、海から流れ来る荒ぶる霊を受け入れ、
鎮魂するようなはたらきが期待されたかもしれません。
福田晃さんは、そのようなはたらきを担う、
宿神を祀る巫女のような巫覡(ふげき)の徒、それに連なる芸能を行うグループが、
ここ「宿河原」にいたのではないかといいます(3)

そして宿河原の北には、高麗寺、高麗権現。
宿河原は、境の地でありましたが、高麗権現のお膝元であり、
その統制と影響を受けていたとも思われます。

f0223055_1248496.gif


今、善福寺を訪ねると境内の脇に、築山のような、ごつごつの岩山にくりぬかれた横穴を
見ることができます。
f0223055_20207100.jpg

これは、大磯に点在する横穴墓古墳群のひとつで、
古墳時代後期のものとされるそうです。
そんな穴の中にお地蔵さん。
大昔の人々の墓穴は、お地蔵を祀るのにぴったりだったかもしれません。
f0223055_20202286.jpg

道祖神が地蔵信仰に習合し、仏教化していったのは早く、鎌倉時代の頃だったといいます(7)
村のはずれ(境)や峠に建っている地蔵尊は、「境の神」である道祖神であることが多い。

また、死者の霊を鎮魂する祭儀は地蔵をたよりになされることが多く、
霊が集まり、鎮魂の場であった箱根には、地蔵信仰の地として、
多くの石仏や石塔が残されています。
大磯でも、あるいはこうしたところで、鎮魂の祭儀が行われたのでしょうか。

「宿河原」という地に、宿神を祀っていた巫覡・芸能のグループ。
その中心に、高麗の修験者にしたがう巫女でもあるような比丘尼がいて、
悲劇的な死を迎えた曽我兄弟の霊を招じ入れ、
口寄せを行って鎮魂し、「死霊語り」を語っていたのではないか。
と、福田晃さんは推されています。
その比丘尼は、「とらん」あるいは「とら」と呼ばれていたかもしれない。

f0223055_1248496.gif


善福寺を開いた了源上人という方は、平塚の入道と称された方。
その出自と来歴には、大きく2説あるようです。

ひとつは、曽我兄弟のいとこにあたる、伊東四郎祐光だったというもの。
伊豆河津の庄を治めていましたが、仇討ち事件より32年後の1225年に、出家。
大磯の高麗寺の別当を務めていたところ、
近くの国府津(こうづ)を訪れていた親鸞と邂逅。
その弟子となって了源となのり、
1239年、現・南足柄市壗下(まました)に阿弥陀堂を建立。
それが現在の南足柄市の善福寺の前身となり、
一方、草庵を結んでいた大磯に、善福寺本院を建立したといいます。

いまひとつは、曽我十郎と虎とのあいだに生まれた子どもだったという説です。
成人して河津三郎信幸(之)といいましたが、
やはり親鸞と出会って弟子となり、了源となる。
大磯の善福寺の地に草庵を結ぶ一方、
1227年、現・平塚市に阿弥陀堂を建立。
それが現在の阿弥陀寺です。
戦国時代になって比叡山との対立があり、そのため本尊を横須賀市浦賀にうつし、
現在の乗誓寺となったといいます。

虎は出家の身とはいえ、当時の比丘尼はふつうに夫を持っていましたから、
子育てをしてもおかしくはないのかもしれません。
真相はわかりませんが、もしも後者だとすれば、
虎の人生にも、母親としての幸福をかみしめた時代があったということでしょう。
了源上人は、母親である虎(あるいは虎と呼ばれた女性)をしのぶ宿河原という場所に
庵を結び善福寺を建立したということになります。

f0223055_1248496.gif


そうして曽我兄弟を物語る「曽我語り」は、口寄せの「死霊語り」から、
「芸能の語り」へと発展し、成長していきます。
いろいろな人の口から口へ、やがて世代から世代へと伝えられていく。
「女語り」だったのが、男性が語るようにもなっていく。
時宗僧や、善光寺聖(ひじり)などの勧進聖たちにも語られていく。
念仏比丘尼や女盲、やがては瞽女たちにも語られていく。

そして「絵解き」もまた、「曽我物語」を語りました。

f0223055_1248496.gif


とんち小坊主「一休さん」で知られる一休宗純は、若い頃、
華叟(かそう)という厳しくも理解ある老師の弟子でした。
一休26歳のとき。
兄弟子の養叟(ようそう)が、師の華叟の肖像画(=御影)を描きました。
その絵に付す詩(=賛)を、華叟自身に頼んで書いてもらいます。
その中に、
「頤(やしない)来たって的々(てきてき)児孫(じそん)に付す」
という句がありました。
これは、心をやしなって来たことで、
大事なことを明らか(=的々)にして、子や孫に伝えたいという意味。

ところが、兄弟子の養叟は、「頤(やしない)」は「養(やしない)」、
「養」叟という自分の名前に掛けた言葉で、養叟を子孫に伝えたい、
──つまり、師が弟子の悟ったことを認める=印可を下さったのだろうと解釈します。
それを周りの人々にひけらかして、絵を見せながら言いふらす。
華叟がそれを伝え聞き、「カン違いするな」と怒って絵を燃やそうとするところを、
一休がとりなすということがあったといいます(「東海一休和尚年譜」)。

それから歳月は流れ、一番弟子の養叟が大徳寺を継ぎます。
よほど相性が悪いのか、一休はこの養叟のことを悪口雑言、めちゃくちゃに攻撃します。
そうして書かれたのが、「自戒集」。
刊行したときには一休は61歳になっていましたが、このことを覚えていて、
今でも人が来れば、養叟のやつ、あの絵と賛を見せびらかしているのだろうというのです。

その様子を、
「影を指して画説(えと)きす鳥箒(とりぼうき)の手」
と漢詩に詠み、
「画説(えと)きが琵琶をひきさして鳥箒(とりぼうき)にてあれば、
畠山の六郎これは曽我の十郎五郎なんど云うに似たり。」

と、「絵解き」にたとえているというわけなのでした(8)

「鳥箒」は、絵解きが絵を指すのに使っていた、いわゆる「おはねざし」ですね。
そうして「影(=肖像画)」を指しながら、人々に説明しているところは、
まるで「絵解き」が「鳥箒」で絵を指しながら語っているようではないか。
絵の人物を指しながら、
「これは畠山六郎(畠山重忠の息子・重保)で、
これは曽我十郎、五郎で……」
などと、得意げに語っているのにそっくりだ──というわけです。

思わず説明が長くなってしまいましたが、この一節をもって、
つまり、この時代、「絵解き」が「曽我物語」を語っていたことがわかる。
と、岡見正雄さんが指摘しているのだそうです(3)(9)

どんな絵を見せて語っていたのか、残念ながらその絵はどうやら残ってはいません。
が、絵解きが「曽我物語」を語ることは、たとえに使われるくらい、
当時は一般的な光景だったのでしょう。

f0223055_6352325.gif






《引用・参考文献》
(1)児玉幸多監修「東海道分間延繪圖・第3巻 平塚・大磯・小田原」東京美術
(2)佐々木信綱・久松潜一・竹田復監修「曾我物語 下」いてふ本刊行会
(3)福田晃「曽我物語の成立」三弥井書店
(4)柳田國男「毛坊主考」〜「柳田國男全集・11」ちくま文庫・所収
(5)服部幸雄「宿神論 ー日本芸能民信仰の研究ー」岩波書店
(6)世阿弥「風姿花伝」〜田中裕校注「世阿弥芸術論集」新潮社・所収
(7)五来重「石の宗教」講談社学術文庫
(8)石井恭二訓読・現代文訳・解読「一休和尚大全 上・下」河出書房新社
(9)岡見正雄「絵解と絵巻・絵冊子」〜「国語国文・23巻8号」(昭和29年・8)中央図書出版社・所収
[PR]
梅の里紀行


今回、大磯、それから小田原の曽我を廻ったのですが、
その曽我を訪ねたときの写真をちらほらと載せてみます。

f0223055_15122585.gif


小田原市曽我谷津の「宗我神社」。
作家の尾崎一雄は、ここの神主さんの家に生まれたそうです。
曽我の里は、おだやかそうな自然に恵まれたところで、
尾崎一雄はいい環境で育ったんだなあと思いました。
f0223055_15291878.jpg

城前寺にある曽我兄弟のお墓。
f0223055_1550239.jpg

その隣りにある、
兄弟の義父である曽我祐信と、母親満江御前のお墓。
f0223055_1605110.jpg

「曽我物語」の周辺には、“石”がよく登場します。
ヒロイン・虎御前が化したという「虎御石」。
兄・十郎が、恋人である虎御前を忍んだ、
あるいは、十郎亡き後、母である満江御前と虎御前が彼を忍んだという「忍石」。
兄弟が力比べをしたという二宮町・川匂(かわわ)神社の「力石」。
箱根・芦ノ湖の「舟つなぎ石」。
弟・五郎が刀でまっぷたつにしたという岩のある箱根の「割石坂」──などなど。

これもそんな石のひとつ、沓(くつ)石です。
五郎が足を患ってやっと治ったとき、体がなまっていないか力試しをするために
石の上で踏ん張ったところ、石がくぼんで足形がついたといわれています。
城前寺のすぐ近く。
f0223055_16244241.jpg

曽我の里を流れる剣沢川をたどっていくと、弓張りの滝があります。
そこで、近くの山道脇の竹林をボランティアで整備されているという方に会いました。
話をしているうちに、お宅へ車で連れて行ってもらうことに。
f0223055_16443977.jpg

ご自宅の庭のみごとなしだれ梅。
絶景です。
f0223055_17294498.jpg

その方は、趣味で凧を作っていらっしゃるとのこと。
竹を割るところからはじめて、骨を組み立て、自分で絵も描く。
写真に載せられないのが残念ですが、すてきな大凧でした。
お孫さんのために作った凧もよろこばれている様子。
また、横笛や尺八なども器用に自作されていて、
悠々自適を楽しんでいらっしゃる風でした。

その方のお名前が、曽我さん。
およそ800年前、曽我兄弟の義父となった曽我太郎祐信は、温厚で、誠実で、
領民から慕われた人だったと伝えられているそうです。
名前が名前なだけに、
そんなDNAを持っておられるのではないかと思わせられる方でした。

その曽我太郎祐信の供養塔。宝篋印塔(ほうきょういんとう)。
曽我山の山道脇にあります。
f0223055_1724112.jpg

その祐信の奥さんとなった、兄弟の母、満江御前が住んでいたという住居跡。
今は公民館になっています。
兄弟が仇討ちへと出立する別れのとき、満江御前は小袖を贈ります。
その場面の謡曲「小袖曽我」の舞台となったのが、ここだといわれているそうです。
f0223055_18273756.jpg

近くに、満江御前のお墓。
f0223055_1846929.jpg

満江御前のお墓へ寄る途中、梅の木の下に生きもののような物を見つけました。
よく見ると、やつれた犬のようだけど、犬ではない。
じっと動かないまま、こちらをうかがっています。
しばらく互いに顔をぼーっと見合わせたまま、数十秒間、
やっとタヌキだと気がつきました。
「あ。カメラ」
と思ったときには時遅く、しかし彼の方は、あわてるでもなくのそのそと、
近くの物置き場の廃屋のようなところへ消えていきました。

昼間から、梅林の下にタヌキとは…。
タヌキは満江御前の御使いだったのだろうか……。
と、いぶかっていたところ、近くのお店屋さんの話では、
「よく見かけますよ」とのこと。
人間を見ても驚かず、平然と歩いているのだそうです。

そんなタヌキものんびりと暮らす曽我の里。梅の里。
f0223055_18511545.jpg

尾崎一雄にしろ、曽我兄弟にしろ、
いい環境で育ったよなあと、つくづく思ったのでした。

[PR]
虎御前をめぐる女性たち──都藍尼


江戸の頃につづられた「東海道名所記」に、
絵解きをした熊野比丘尼を描写するくだりがあります。
そこで「比丘尼」を説明するのに、史上初の比丘尼であり、ブッダの養母であったインドの
喬答弥(きょうどんみ)〈=摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)=マハー・プラジャーパティー〉
から説き起こして、日本の比丘尼の起源をざっと述べています。
その中で、光明皇后が比丘尼となり、「都藍」と呼ばれたとあるのです。

どうやら、この箇所は熊野の「比丘尼縁記」に拠ったらしく、
「比丘尼縁記」にも、光明皇后が尼となり、「とらんニ」となったと書かれています(1)

光明皇后といえば、悲田院の福祉活動など、さまざまな伝説に彩られている方ですが、
「都藍尼」という比丘尼になったという話は、
この記述以外にはあまり見当たらないようです。
仏教に帰依し、法華寺という尼寺を開いたとされる光明皇后が、
比丘尼に関連する有名人として、伝説を加味されて取り上げられたのかもしれません。

ここで注意をひかれるのは、「都藍」という名前です。

f0223055_4511058.gif


「都藍尼」は、大江匡房「本朝神仙伝」では、
奈良県の吉野山のふもとに住む尼として登場します(2)
同じ話を、柳田國男は「元亨釈書」から紹介しています(3)

彼女は仏法を修行して、仙女のように不老不死を得、数百歳であったといわれます。
その神通力をもって、奈良県の女人禁制である金峯山(きんぷせん)へ登ろうと
足を踏み入れる。
と突然、天変地異に見舞われ、持っていた杖はたちまち大樹となり、
岩は割れ、泉が噴き出します。
そうして、とうとう登ることはかなわなかったというのです。
(別の書では、殺されたともいいます。)

金峰山の一画である山上ヶ岳(大峰山)の山道入口には、
オイトシボ石(なで石)のある龍泉寺がありましたね。

また、「とらん」という比丘尼は、
滋賀県の比叡山延暦寺の「叡山略記」にも顔を出しているそうです。
こちらでは「都蘭之尼」と書かれ、
最澄に恋慕してフラれた仕返しに嘘をつく困り者として登場します。
この話は女人禁制の由来を説明するものでもあるようです。

さらに、役小角(えんのおづぬ)のお母さん。
金峰山で活躍し、龍泉寺を開いたともいわれ、
修験道の開祖といわれる、あの役行者(えんのぎょうじゃ)のお母さんの話です。

彼女は息子に会いに、山上ヶ岳(大峰山)へやって来たのですが、
山へ登ろうとすると大蛇が現われて邪魔をします。
そこで、山道入口の天川村洞川で庵を結んで祈っていると
阿弥陀如来があらわれ、息子の修行の邪魔をしてはいけないとさとされます。
彼女は、その場所より上には踏み込もうとしませんでした。
やがて役小角が山を降りてきて、その場所で会うことがかなう。
その庵を結んだ場所が、現在の「母公堂」で、
女人禁制の結界の境界点となっていました。
(現在は、結界の範囲が変わっているとのこと。)

空海のお母さんにも、高野山(和歌山県)に同じようなエピソードがあります。
その話では、空海に会いにきたお母さんは、女人結界の境界点にあった寺務所に留まり、
そこが後に「慈尊院」となったと語られます。
また、泰澄のお母さんにも、同様のエピソードがあって、
越前・平泉寺(福井県)近くに「七難の岩」があるそうです(4)

その役小角のお母さんの名前が、「白専女」。
「専女(とうめ)」は老女の意で、一般に「しらとうめ」「しらたらめ」などといわれます。
が、「とらめ(刀自女)」という名前も伝えられているというのです(2)

つまり、巫女や比丘尼たち、山に関わる宗教に関連する女性が
「とらん」とか「とらめ」などと呼ばれたらしい。
そして、結界の境界の地点でエピソードを多く残しているらしいのです。

f0223055_4511058.gif


そうしたエピソードが、石というモチーフを伴って語られることが多いことを
柳田國男が述べています(3)(4)
例のごとく、博覧強記の情報収集力でもって伝承を並べているのですが、
その中から、いくつかかいつまんでメモしてみます。
いずれも、女人禁制の山に女性が登ろうとする話です。

◎「斗宇呂(とうろ)の尼」という者が2人の尼を伴って、
立山(富山県)へ登ろうとしたところ、石になってしまった。
これを「姥石」という。

◎「融(とおる)の尼」は、美女を同席させ、酒を売る商売上手。
(なんだか遊郭を思わせます。)
白山(富山県・岐阜県)の山の上の神社で参詣者を相手に酒を売ろうと登ったところ、
美女が美女坂で「美女石」となり、融の尼は姥坂で「姥石」となる。

◎巫女が登ったところ、「巫女岩」となる。
(新潟県、佐渡島の金北山(きんぽくさん))

◎巫女が犬を連れて登ったところ、巫女が「イタク杉」となり、犬が「犬子石」となる。
(秋田県男鹿市の赤神山(真山・本山・毛無山))
◎守子(モリコ)が登ったところ、「守子石」となる。
(秋田県横手市の保呂羽山)
◎巫女が登って、「一位墓(イチイバカ)」という自然石になる。
(埼玉県秩父郡の両神山)
※「イタク(コ)」「モリコ」「イチ」は、巫女の通称です。

◎比丘尼が登って、「比丘尼石」となる。
(長野県長野市の戸隠山)

これらの話では、巫女や比丘尼という女性の宗教家が、
女人禁制の山に足を踏み入れて石(または樹木など)になったと語られます。
これはつまり、女人禁制の結界の境界点に、
目印となるような特長的な石が置かれているということです。
役小角や空海のお母さんの例では、
「母公堂」や「慈尊院」という建物が、境界のしるしとなっていました。

それが、母親の愛情を語る話であるにしろ、
驕慢を戒められて罰せられる話であるにしろ、
女人禁制であることを説明し、その範囲を知らしめる伝承であるようにも思われます。

巫女や比丘尼は、その結界の境の地点までやってきて、
石の向こうの山頂の方にある社殿や本尊を礼拝したかもしれません。
あるいは、石そのものを祀って礼拝したかもしれません。
そうしてそこから引き返すことになる。
このような行法があったことが、これらの伝承につながったのではないかと
柳田國男はいいます。

また、巫女や比丘尼が、石を運んだということもあるようです。
熊野比丘尼は、熊野の地の小石をご神体として遊行の際に携帯し、
各地へ持ち運んだそうです。
岐阜県郡上市美並町杉原の熊野神社には、
俊応という熊野比丘尼がたもとに入れて運んだ“袂(たもと)石”を
「弥勒石」として祀っています。
が、弥勒石は、人間の背丈ほどもある巨大な自然石。
これはたもとの中の小石が、成長して大きくなったものというのです。
(彼女の杖が杉の木になったともいわれ、現在、天然記念物の巨木になっています。)

虎御石やさざれ石が成長して大きくなったという話も思い出されます。
比丘尼が石をご神体として重んじたということと、
何より石への信仰がこうした伝承を生んだのかもしれません。
比丘尼が運んだ石によってはじまったという神社も少なくないそうです(5)

f0223055_4511058.gif


そして、このような行法を行う巫女や比丘尼たちは
「とらん」「とらめ」「とうろ」「とおる」などと呼ばれていたわけです。
もしくは、名乗っていた。

柳田國男は、これらの言葉が、古代の「タル」に由来するのではないかという推論を
ちらっと記しています(6)
太陽や吉日のことを「生日足日(いくひのたるひ)」と言ったり、
長野県上田市の生島足島(いくしまたるしま)神社が
「生島大神」と「足島大神」を祀っている、その「足(タル)」と関係があるのではないか
というのです。

また、「タル」は「タラシ」となり、「帯」と書くそうです。
この「足」や「帯」は、大昔の貴人の名前に使われることが多く、
八幡様の元になった御名が「大多羅志女(おおたらしめ)」といい、
この名は、国の神々に多いといいます。
そういえば、神託を伝えるシャーマンでもあった神功皇后が、
「おおたらしひめ」といい、「大帯比売」とも「大足姫」とも表記されていました。

この「タル」「タラシ」が、時代が下るとともに
「トラン」や「トウロ」につながったのではないかと、柳田國男はいうのですが、
素人の筆者にはわかりません。
ただ、「虎(とら)」という名前が、その「とらん」に由来し、
虎が石に化したという伝説の要因になったと考えると、
いろいろなことが符合してくるように思われます。

虎は、熊野系統の箱根権現につながる高麗権現の修験比丘尼という
福田晃さんの説も、なるほどと思われてきます。

f0223055_4511058.gif


白土三平さんのマンガ「忍者武芸帳」で、主人公・影丸は、
殺されても殺されても、いつのまにかまた生き返っているという不死身の男でした。
というのは、“影丸”とは一族の名前であり、
ひとりが殺されても、また影武者のような別のひとりが“影丸”になるというのです。
同じ作者のマンガ「サスケ」でも、
“猿飛”というのは個人の名ではなく、術の名であり、
その術を継承する一族が“猿飛”と呼ばれているという設定でした。
だから、“猿飛”は、全国に何人もいるというわけです。

もしも「都藍」とか「とら」という名が、個人のものではなく、
ある行法に関連した巫女や比丘尼たちの名だとすると、
“虎”が全国に何人いてもおかしくないわけです。

山梨県南アルプス市の芦安安通には、
この地に虎御前が生まれ、没したという伝承があるそうです。
芦安芦倉の伊豆神社には、曽我十郎と虎を祀り、「虎女の鏡石」が伝わっていたのだとか。
伊豆神社は大正時代に倒壊したため、
現在、十郎と虎の木像は、近くの諏訪神社に移されているそうです。

滋賀県の虎御前山(虎姫山)には、
「曽我物語」の虎とは無関係の、虎御前(虎姫)がいます。
彼女はふもとの里の「世々聞(せせらぎ)長者」と結婚するのですが、
顔はへびで、体が人間という子を産んだため、嘆いて淵に身を投げた、
もしくは、へびとなって淵に沈んだといいます。
「さよ姫伝説」の要素と「虎御前」の名前が混ざり合っているような気もします。
これなども、「とら」と呼ばれた女性たちと関係がありそうです。

鹿児島県志布志市の大慈寺の境内には「虎が石」があり、
虎がここへ立ち寄った際に建立したと伝えられているそうです。
イボの治癒に効果があるのだとか。

虎の足跡は、九州にまで及んでいる。
兄弟の没後、虎が箱根で比丘尼となり、
その後、全国を旅して廻るのは、まったく不可能というわけではないのですが、
「とら」という女性たちが全国を巡っていたと考えると、
これらの数々の伝承も自然に思えてきます。

f0223055_4511058.gif


先日、小林玲子さんの「十界図」の絵解き口演を拝見したとき、
郷土史家であるご主人の小林一郎さんともご一緒に、少しお話しすることが出来ました。
そのとき、ご夫妻が善光寺の近くにお住まいであることを思い出して、
虎御前のことを聞いてみると、虎御前石が近所にあるというのです。

それで帰って調べてみると、以前のブログに書かれていました。
「小林玲子の善光寺表参道日記」
http://blog.livedoor.jp/naganoetokino1/archives/962018.html
http://blog.livedoor.jp/naganoetokino1/archives/981004.html

小林一郎さんによると、「とら」や「とらん」と呼ばれ、
遊行していた女性宗教家が拠点としていたひとつが善光寺だそうで、
そのため、善光寺周辺や、各地の善光寺ゆかりの寺にも、虎の痕跡があるということです。
たとえば、長野県佐久市鳴瀬の時宗寺には、虎御前石、
長野県上水内郡飯綱町芋川の健翁寺には、虎御前の墓があるそうです(7)

f0223055_4511058.gif


「曽我物語」が物語として成立する以前、
初期の語りは、口寄せによる「死霊語り」だったのではないかといいます。
「小栗判官」の場合もそうでしたが、
無念のまま命を落とした死者の魂の声を、口寄せ巫女が語る。
そうして声を聞いてあげることによって、祟りをなさぬよう、慰める。

現在でもときどき、成仏できない不幸な霊が祟ったために、眠れなくなったり、
体調を崩したりするという“霊障”が、テレビ番組で取り上げられたりしています。
霊能者という人に依頼して、除霊を行ったりする。
昔も、そういうことがあったのでしょう。
不幸な魂が「怨霊」となって、この世に災いをなすと考えた。
そこで「怨霊」が「御霊」と変わるように供養する。
いわゆる「御霊信仰」です。

曽我ブラザーズの弟・「五郎」のネーミングは、
「ごりょう(御霊)」からきたのではないかとする説もあります。
仇討ちを果たした後、20歳そこそこの若さで果てた十郎と五郎は、
悲劇の兄弟として、くりかえし語られたことでしょう。

口寄せ巫女であるイタコに男性の霊がとりつくと、男性言葉と男性の口調になります。
が、若干の不自然さは否めません。
やはり、女性の声で語られるのは、女性の霊である方がしっくり来て、
また、聞く者の心にも響きやすいと思われます。
そこで、兄弟の行動を見守り、兄弟と半ば生活をともにした愛人という存在が、
物語を語るにふさわしい女性としてクローズアップされることになります。

たとえば、こんな想像をしてみます。
霊がとりつくと、口寄せ巫女は、こう語り出したかもしれません。
「ううう……わらわは……、十郎祐成殿と、ひとつ蓮(はちす)の縁を誓い合うたものなり」
そして、
「そう、あの晩は今宵の雨と違(ちご)うて、降る雨は車軸のようであった……」
などと物語ったかもしれません。
つまり、一人称。

物語の骨格が定まってきてからも、一人称で語るスタイルがあったとみられ、
その語りに聴き入った人々は、
十郎の愛人と語り手の女性が同一人物であるように錯覚したと思われます。
物語を管理し、各地へ持ち運んだ語り手が、「とらん」と呼ばれていたとしたら、
十郎の愛人は「とらん」→「とら」ということになっていく。

当時、人が死ぬと、その霊は霊山へ向かうものと考えられていたといいます。
曽我兄弟の霊も、霊山である箱根に向かったと考えられた。
その箱根で「死霊語り」が行われたのではないかと福田晃さんはいうわけです(8)

柳田國男によれば、箱根その他の修験道場では、近代まで巫女は比丘尼であり、
山伏の妻であることも多かった(9)
比丘尼はもちろん仏教の宗教家ではありますが、
箱根の比丘尼は実質的には、歌舞を行ったり、口寄せを行う巫女であったというのです。

その箱根の修験比丘尼、そして箱根に深いつながりのある高麗の修験比丘尼によって、
「死霊語り」が行われ、物語がかもし出されていったのではないか。
というのが、福田晃さんの説です。

やがて物語が成り立って三人称で語られ、虎というキャラクターが定着した後も、
出家して兄弟の菩提を弔うために各地を歩いたという虎は、
各地を歩いて物語を語る巫女や比丘尼と重ね合わされ、
同一視されることがあったかもしれません。

そうして各地に種がまかれ、各地の「虎」伝説が育っていったものと思われます。

f0223055_4511058.gif


では、「虎御前」は、まったくのフィクションだったのでしょうか?

基本的には史実とされる「吾妻鏡」で語られているように、
19歳で箱根で兄弟の供養をし、出家して、善光寺に参詣したという虎御前は、
語り手であった巫女や比丘尼の投影なのでしょうか?

もっとも、曽我兄弟の仇討ち事件が起こったとされるのが、1193年。
虎が出家したのも、同じ1193年とされます。
が、「吾妻鏡」が編纂された時期は、1290年から1304年のあいだとされ、
事実から記事となるまでに約100年以上のタイムラグがあったということになります。
100年のあいだに、「伝聞」が「伝説」となってもおかしくはありません。
その頃には、物語がある程度、拡散していたとも考えられます。

神奈川県大磯市周辺の伝承によれば、晩年の虎は、
虎が池弁財天のところに「法虎庵」という庵を結んで住んだ。
その法虎庵が、今の延台寺に移されたといわれます。

また一方、仮名本「曽我物語」で語られているように、庵を結んだのは「高麗寺の奥」。
それは高麗山の北のふもとにある高麗寺の末寺の荘厳寺近くであるともいわれます。
荘厳寺には、虎の持念仏であった地蔵が伝えられているそうです。

▼現在の荘厳寺
f0223055_7141027.jpg

荘厳寺は、虎が生まれたともいわれる山下長者の屋敷跡の近所で、
その近くに、晩年を過ごしたといわれる住居の跡があります。
(現在の住所は、平塚市山下。)
f0223055_17554672.jpg

これらの伝承や史跡も、
高麗寺の修験比丘尼で、「とらん」と呼ばれたうちの誰かの投影であると
言えなくもないかもしれません。

しかし、その後の虎を語っていたのは、こうした伝承ばかりではありませんでした。
曽我十郎とのあいだに子どもをもうけたという伝承もあったのです。
そして、福田晃さんが論及しているその伝承の場所は、
道祖神信仰や弁財天とのつながりを示唆するキーワードでもあるようなのでした。
そのキーワードとは……。

「宿河原」です。

f0223055_1123577.gif








《引用・参考文献》
(1)根井浄・山本殖生編著「熊野比丘尼を絵解く」法蔵館
(2)阿部泰郎「女人禁制と推参」〜大隅和雄・西口順子編「シリーズ女性と仏教・4ー巫女と女神ー」平凡社・所収
(3)柳田國男「妹の力」〜「柳田國男全集・11」ちくま文庫・所収
(4)柳田國男「史料としての伝説」〜「柳田國男全集・4」ちくま文庫・所収
(5)五来重「石の宗教」講談社学術文庫
(6)柳田國男「おとら狐の話」〜「柳田國男全集・6」ちくま文庫・所収
(7)小林一郎「熊野観心十界図の絵解き ー善光寺と熊野を結ぶものー」〜長野郷土史研究会「長野・第268号(2009年の6号)・所収
(8)福田晃「曽我物語の成立」三弥井書店
(9)柳田國男「『イタカ』及び『サンカ』」〜「柳田國男全集・4」ちくま文庫・所収

[PR]