カテゴリ:絵を見せて語るメディア( 26 )

化粧坂から高麗山へ


柳田國男は、道祖(さえ)の神を奉ずる人々が、「さよ」姫伝説と関連するのではないかと
いいました(1)
そして全国各地に伝わるそうした伝説の周辺に
「化粧坂(けわいざか・けしょうざか)」という地名が多いことを指摘しています。
祭祀をとり行い、歌舞を演じるときに女性が化粧をしたその印象が、
地名に残っているのではないかというのです。

大磯にも「化粧坂」があります。
f0223055_23332519.jpg

この写真は、「化粧坂」の交差点。
後ろには、高麗(こま)山と、それに連なる八俵山、二子山があり、
山へ登ろうとすると確かに坂になります。
が、現在、周辺には、特筆できるような坂は見当たりません。
当時の地形では坂があったのでしょうか?

「化粧坂」に限らず、坂は、「境(さかい)」の「さか」でもあるともいわれます。
坂や河原は、村や町の境界にあることが多く、それがシンボル化される。
もしかしたら、坂がなくても坂といわれたかもしれません。

「化粧坂」は、境界に位置することが多いと石井進さんはいいます(2)(3)
有名な鎌倉の「化粧坂」を中心に論じて、
はずれの境界であるがゆえに、そこが刑場となり、葬送の場となりやすい。
また、内と外が接する場所でもあるがゆえに、そこに交換が生まれ、商業が栄えやすい。
そして、遊女なども集まりやすいというわけです。

鎌倉の化粧坂の名前の起こりには、
平家の武将の首に化粧を施して首実検をしたといういかにも刑場らしい言い伝えと、
化粧をした遊女たちがたむろしていたからという言い伝えの両方があります。

仮名本「曽我物語」では、曽我ブラザーズの弟である五郎時致(ときむね)の恋人で、
後には出家する「化粧坂の遊君(女)」が登場します。
鎌倉の化粧坂の麓(ふもと)にあったという遊郭の女性でした。

そして一方、大磯の化粧坂にも遊郭があったといい、
ブラザーズの兄・十郎祐成の恋人である虎は、そこの遊女であったともいわれます。
彼女が朝な夕なにお化粧の水に使ったといわれるのが、この井戸。
f0223055_23485272.jpg

今でもこの井戸の水を使ってお化粧をすれば美人になれるかもしれませんが、
残念なことに埋められています。

ところで、この井戸を説明した立て札に、
このあたりは大磯の中心であったと思われると記されていました。
はて。
境界ではなかったのでしょうか?

江戸時代の東海道のようすを詳細に記録した「東海道分間延絵図(繪圖)」という
絵地図があります(4)
この絵図には、「傍示杭(ぼうじぐい)」という高さ3mほどの木の杭の位置も記されています。
「傍示杭」は、主に町の境界を示すための目印となっていたものです。

▼「東海道分間延絵図」のスケッチ
f0223055_17581514.gif

この周辺を見てみると、画面の左側、
大磯宿の境界を示したと思われる「御料傍示杭」があります。
このスケッチでは省きましたが、見切れた左側にはいかにも宿場町らしく、
密集した家々がずらりと並んで描かれています。

そして画面の右側、
高麗寺町の境界を示したと思われる「寺領傍示杭」が、虚空蔵の隣りにあります。
下の写真は、国道1号線の横に今も残っている虚空蔵。
ここには下馬標というしるしも建っていて、
東海道を往来する大名行列は、ここで馬を降りて高麗権現を礼拝したそうです。
昔はここに「傍示杭」が立っていて、高麗寺の領地の境を示していたわけです。

(※絵図では、虚空蔵の見切れた右側にも、町らしい家々が描かれています。)
f0223055_14423768.jpg

この2つの「傍示杭」のはざまのほぼ中間地点に化粧坂があるのです。
つまり、大磯宿の境界と高麗寺町の境界との間、どちらにも属さない境界領域に
化粧坂があったと考えられます。

さらに「絵図」では、化粧坂と記された道のかたわら、
周りに家のない閑散とした場所にぽつりと、「非人小屋」が描かれています。
非人や遊女は、どこにも属さない、境界の住人でした。
江戸の頃には、ここは境界領域だったのでしょう。

では、大磯宿もなかった中世の頃はどうだったのでしょうか?
当時、遊女のいた遊郭は、身分的にも文化的にも格式の高いところで、
地方の豪族なども運営していたといいます。
このあたりに遊郭があったとすると、繁華街のように開けた場所だったかもしれません。
が、栄えた場所ではあったとしても、
町の中心ではなかったように筆者には思われます。

非人や遊女、そしておそらくは、柳田國男が言っていた、
道祖(さえ)の神を奉ずる人々も、この近くに出没したのではないでしょうか。
道祖神は、まさしく「境の神」でした。
境界にいて、外から来る悪霊や邪なものをさえぎることから、
「障(さえ)の神」とも、「塞(さい)の神」とも呼ばれます。
「塞」とは、外敵の侵入を防ぐとりでを意味する言葉です。
だから道祖神の石碑は、村や町の道の境に置かれることが多いのだといいます。

ここを訪ねたときも、道路脇に道祖神を見かけました。

f0223055_1115963.gif


さてところで、折口信夫は、「曽我物語」は熊野系統の語りに関わりが深いと述べています。
関東においての熊野の中本山とされるのは、箱根と伊豆山。
中でも、箱根に深く関わっているといいます(5)(6)
確かに、弟の五郎は、子どもの頃に僧侶となるべく箱根で修行し、
幼名を箱王(筥王丸)ともいいました。
ワイルドで力持ちであり、それが自慢でもあった五郎の伝説が箱根に残されています。
また、兄弟の没後、虎は箱根で出家します。
兄弟の墓は、小田原の曽我にあったり、各地にあるのですが、箱根にもあります。

福田晃さんは、さらに進んで、
箱根権現とつながりのあった高麗(こま)権現の影響を指摘しています(7)
箱根権現と高麗権現を往来する修験者がいて、
そして巫女、または修験比丘尼がいたというのです。

化粧坂から歩いて4〜5分のところに高来(たかく)神社があります。
ここが昔は、高麗寺の一部でした。
f0223055_11444988.jpg


高麗寺は、朝鮮半島の高句麗から来日して帰化した高麗若光(こまのじゃっこう)に由来するとも
いわれています。
高麗山の南側のふもとから海岸にかけて、現在の唐が原を含む広い地域が
「もろこしが原」と呼ばれていたのも、帰化人が住んでいたからというそうです。

下の写真は、花水川にかかる花水橋からながめた高麗山。
安藤広重「東海道五十三次」の「平塚宿」に描かれた高麗山も、
こちらの方向から描かれたものでしょう。
おわんを伏せたような、まるっこい姿は、ゆったりと穏やかそうな山に見えます。
f0223055_11414764.jpg

▼安藤広重「東海道五十三次〜『平塚宿』」
f0223055_19843.jpg

ところが、ふもとの高来神社の裏手から登ってみると、これがなかなかにハード。
男道と女道の2つのコースがあって、
女道から行くと、階段もしっかりと設営されていて勾配も比較的ゆるやかなのですが、
男道のコースは、足場も心もとなく、筆者はヒイヒイいってしまいました。
さすがに修験者が登り下りしたという山だけのことはあります。
写真は、頂上近くの石段です。
f0223055_12553667.jpg

とはいうものの、標高168mという、東京スカイツリーより低い山ではあり、
2〜30分ほどで頂上へ。

上宮があったとされる頂上には、今は小さな祠(ほこら)がひっそりとあるだけです。
明治のとき、廃仏毀釈の波にのみこまれ、
特に徳川幕府にゆかりのある権現を祀っているということで、壊されてしまったのです。

【補足】
……と、てっきり思っていたのですが、
コメントで、みちさんにご指摘をいただきました。
明治のときに、山のお堂や塔が壊されたことは事実のようですが、この上宮は残り、
昭和40年代頃まで保存されていたようですね。

現在に伝えられていないのは残念です。
祠の近くで、ヤマガラがしきりに鳴いていました。
f0223055_12555753.jpg

そして高麗寺は廃寺となり、その一部の「高麗(こま・こうらい)神社」が
山のふもとに「高来(たかく)神社」として残り、隣りの慶覚院とともに
いにしえの面影を今に伝えています。
f0223055_12561080.jpg

さて。
福田晃さんがその著書(7)で展開されているのが、
「虎は、箱根とつながる高麗の修験比丘尼だった」説です。

虎は、この今はなき高麗寺にいたかもしれないというのです。

f0223055_20152532.gif




《引用・参考文献》
(1)柳田國男「妹の力」〜「柳田國男全集・11」ちくま文庫・所収
(2)石井進「石井進著作集・第9巻〜中世都市を語る」岩波書店
(3)石井進「石井進の世界・5〜中世のひろがり」山川出版社
(4)児玉幸多監修「東海道分間延繪圖・第3巻 平塚・大磯・小田原」東京美術
(5)折口信夫「東北文学と民俗学との交渉」〜「折口信夫全集・第16巻」中央公論社
(6)折口信夫「室町時代の文学」〜「折口信夫全集・第12巻」中央公論社
(7)福田晃「曽我物語の成立」三弥井書店
[PR]
虎御前をめぐる女性たち──松浦佐用姫

さて、「曽我物語」のクライマックスとなる仇討ちの
“その前夜”ともいうべき場面です。

兄・十郎祐成は、虎を連れて、故郷である小田原の曽我の郷へと戻り、
短い間ですが、二人のときを過ごします。
そして別れの時がやってくる。
すでに死を覚悟している十郎ですから、
その別れは、もう生きては会えないことを意味していました。
人目を忍びながら二人馬を並べて、
山彦山(現・小田原市曽我山=不動山)の峠まで十郎が見送ります。

「遠近(をちこち)のたづきも知らぬ山中に、道もさやかに見え分(わか)ず、
かの松浦佐用姫が領布(ひれ)振る姿は石になる、それは昔の事ぞかし。
今の別れの悲しさに、駒(こま)近々とうち寄せ、
手に手を取り組み、涙に咽(むせ)ぶばかりなり。」
(1)

というところです。
この場面、「遠近の…」の箇所は、「古今和歌集」(巻第一・春哥上)の

「をちこちのたづきも知らぬ山中におぼつかなくも喚子鳥(よぶこどり)かな」(2)

をふまえています。
遠くと近くの見当さえつかない山の中で、心細そうに鳴く喚子鳥よ、といった意味でしょう。

喚(呼)子鳥(よぶこどり)は、山彦を返す鳥であるという伝承もあります。
「山彦山」というこの山の名にひっかけてもいるでしょうか。
実際には、何の鳥なのか、はっきりとはしないものの、
カッコウやヒヨドリではないかともいわれます。

「子を呼ぶ鳥」といって思い出されるのは、カッコウを題材とする昔話。
父親が、死んだ子どもを「かっちょかっちょ」と言って探すうちに鳥になった、
などの話があります。
また、「子が親を呼ぶ」話もあって、
母親を亡くした子どもが、鳥になって「かこう」と鳴いている、
という話もあります(3)

カッコウは唐突に威勢よく鳴く鳥ですが、しずかな山の奥で聞くと、
そんな親子の物語も想像できるような寂寥感があるのでしょう。
なるほど、閑古鳥ともいわれるわけです。

そうした悲話のニュアンスさえ感じられるような、呼子鳥の哀切な鳴き声が、
あるいはこの場面のBGMとなっていたかもしれません。

遠くと近くの見当さえつかない、道さえはっきりとわからない山の中、
(これからどうなるか、明日の道をも知れぬという意味合いもあるでしょうか)
別れのときにあの松浦佐用姫は、領布(ひれ)を振って石になった、それは昔のこと。
今は、馬を近づけて手を取り合い、泣きむせぶばかり。
──というような意味かと思います。

近くには、芭蕉が句を詠んだという六本松の跡があり、
西から鎌倉へ向かう旅人がここを通ったという鎌倉街道の峠です。
人目を忍んだ二人は街道を避けて、
はっきりと道とはわからない道を行ったのかもしれません。

このくだりの佐用姫のイメージからでしょうか、
おそらく十郎と虎が別れたとされる峠の地点に、現在、
「忍(しのぶ)石」といわれる石があります。
後代になって、二人をしのんだ里人が設置したと考えられるそうで、
この石に二人が腰掛けて別れを惜しんだと伝えられています。
現在は、食用のための梅林が近くにあり、農道が走るそのかたわら。
f0223055_188992.jpg

撮影したときには、呼子鳥のカッコウは鳴いていませんでした。
カラスの声とヒヨドリの声が聞こえましたが、なかなかにぎやかで、
淋しい「おぼつかない」感じではありませんでした。

この忍石は、十郎が力試しの力石として持ち上げたそうで、
その手形(のようなくぼみ)の跡があるとのこと。
よく見ると、確かについているような気がします。
f0223055_1816261.jpg

また、この石は縁結びのご利益があり、意中の人をこよりに書いて結んでおくと
願いがかなう。
──という言い伝えもあるそうなのですが、こよりをどこへ結べばいいのでしょう?
こよりは、石の周りにも見当たりませんでした。
今は、恋心をこよりに託す純情は流行らないのかもしれませんね。
ただ、お賽銭が置かれていたのには、やはり何かしら効験あらたかなのでしょうか。
かわいらしい花も供えられていました。

この「忍石」は、曽我にいた十郎が大磯の虎のもとへ通うことが出来ない夜、
ひとり来て、ここから見渡せる海の漁り火を見ながら、虎を「しのんだ」ともいうそうです。
たしかに、このあたりからは相模湾が遠く望めます。
f0223055_19405448.jpg

あるいは一説には、仇討ちをとげて十郎が死んだ後、
虎と、十郎の母である満江御前がここに腰掛けて、亡き十郎を「しのんだ」ともいいます。
それで、「しのぶ石」というのだと(4)

実は、この「忍石」、もともとは「姥石」と「姫石」の二対あったのだそうで、
それを考えると、後者の説に軍配をあげたくなります。
今この峠にあるのは、大きな姥石の方です。
現在、ふもとの方の城前寺に移されている、小さな方の姫石がこちら。
f0223055_195202.jpg

お寺には保育園があって、子どもたちが遊んでいたずらしたりするので、
現在は立て札などは立てていないということでした。
立て札がないと、ふつうの石と見分けがつきませんね(笑)。

こちらもやはり「忍石」という名前なのですが、
こちらの方は、十郎と虎が笛を吹いて腰掛けた石だと伝えられています。
ただ、2人が腰掛けるには、少々、サイズが小さめな気がします。

さまざまな言い伝えが付随しているわけですが、
力石、また、峠にあって結びの神でもあるという道祖神的な要素など、
虎御石の伝説と似ているところもあります。
あるいは、伝説化していく過程に、共通するものが反映しているということでしょうか。

そしてここで注目されるのが、松浦佐用姫です。
この場面で、別離に涙する虎は、
別離の悲しみのために石と化する佐用姫と重ねられているのです。

f0223055_652358.gif


彼女の伝説をたどると、文字としては「肥前風土記」までさかのぼれるそうです(5)
「肥前風土記」での名前は、「佐用姫」ではなく、「弟日姫子(おとひめこ)」。

時代が「古墳時代」からやがて「飛鳥時代」へ移り変わろうとする537年、
朝廷の命を受けて、大伴磐(いわ)、大伴狭手彦(さでひこ)らが朝鮮半島へ出兵します。
いわば青年将校である狭手彦は、軍を率いて朝鮮へと渡ろうと、
現在の佐賀県唐津市の篠原の村に駐留します。
そこで狭手彦は、弟日姫子と出会い、結ばれる。

※弟日姫子(=松浦佐用姫)は、篠原長者(または笹原長者)の娘で、
内陸の山間部にある現・厳木(きゅうらぎ)町の長者原(ちょうじゃばる)の館で
生まれたという伝承も伝わっています。

狭手彦は、当時は銅でできた鏡をプレゼントします。
が、いよいよ軍が出発する日がきて、別れの時が訪れる。
別れねばならないと頭でわかっていても、後を追おうとしたのでしょうか、
弟日姫子は泣きながら川を渡る。
そのとき、鏡の緒が切れて川に落としてしまいます。

やがてすでに港を離れた船を、せめて見送ろうと小高い山を駆け上り、
船の上の彼に向かって褶(ひれ)を振ります。
そうして遠くなる船の姿が水平線の彼方に消えるまで、
いつまでも、いつまでも、振り続けたということです。
それゆえ、この山は「褶振りの峯」と名付けられたのだと「肥前風土記」は記しています。
現在の鏡山です。

f0223055_652358.gif

この褶(ひれ=「領巾」「巾」とも書きます)というのは、
薄い布を使った細長い肩掛け──いわば「ロング・スカーフ」。
一般に女性がまとっていたそうですが、
特に「釆女(うねめ)」と呼ばれる女性たちには欠かせぬもので、
釆女の代名詞のようなアイテムだったそうです(6)
f0223055_17554701.jpg

釆女は、皇族に仕え、食事や雑事の世話をする
メイドさん的な仕事をする官職です。
が、実は、巫女的な職種であったといいます。
彼女たちがふだんから褶(領巾)を身につけて離さなかったのは呪術のためで、
神に供物を捧げたり、皇族に食事を供する上で障りとなるものを予測し、
除去するためだったといいます。
褶(領巾)は、呪術的なパワーをもつアイテムでもあったのです。

「古事記」で、オオクニヌシがピンチに陥ったとき、スセリ姫(須勢理毘売)が助けて手渡したのが、
この褶(ひれ)でした。
褶を3回振ると、獰猛なヘビも、ムカデも、ハチも、みんなおとなしくなる。
折口信夫によれば、褶(領巾)は、霊を呼び迎えるとともに、
邪悪な霊を追いはらうものでした(6)

やがて、一般の成人女性も身につけるようになり、それが盛装となり、
ファッション化していきます。
が、弟日姫子(松浦佐用姫)が褶(領巾)を身につけていたのは、
狭手彦が朝廷の使いであり、彼に仕える釆女の役割を彼女が果たしていたからだと
折口信夫はいいます。

f0223055_652358.gif


一途にひたすらに領巾(褶:ひれ)を振り続けた少女のイメージは、
名前を松浦佐用姫と変え、万葉集にも詠まれるようになります。
そして時代が移り変わるにつれて、伝説に次々と尾ヒレがついていくのです。

室町時代になると、佐用姫は、悲しみのあまり石に化すことになります。
連歌の本の「梵灯庵袖下集」に、「船かくれて後やがて石となりぬ」と書かれる。
もともと中国に、夫を慕うあまりに石となった「望夫石」伝説があり、
その影響による発想ではないかといわれます。

それが伝承になると、こうなります。

◎佐用姫は、領巾(ひれ)を振り続けた後、
なおも船を追いかけて、領巾振り山(現・鏡山)からドスンと飛び降りる。
(その飛び降りた足跡のついた岩が、「佐用姫岩」として今も唐津市和多田に残っています。)

◎川をジャブジャブ渡ったので、途中で濡れた衣を乾かす。
(その干した山が、今の衣干山(唐津市西唐津)です。)

◎なおも追いかけ、海岸へと出て、狭手彦の名前を呼び続ける。
(名前を呼び続けたので、この場所が「呼子」という地名になったといわれます。
そこが、現在の唐津市呼子町です。)

◎そうして玄界灘に浮かぶ加部島へと渡り、
そこで7日間泣き続け、石になってしまうことになります。
その石は「望夫石」として、現在も加部島の田島神社に置かれています。


もしも流布本「曽我物語」の作者が当時、こうした伝承を知っていたとしたら、上述の
「遠近(をちこち)のたづきも知らぬ山中に」
の箇所は、「呼子鳥」につなげて「呼子」という場所を想起させるための
一種の枕詞(まくらことば)のような意味合いになってくるかもしれませんね。

そして様々に尾ヒレのついた伝説に影響を与えているのが、あの領巾(ひれ)です。
領巾という呪術的なアイテムをかざして振る
「釆女」という、ほとんど「巫女」のキャラクターとしての佐用姫です。

f0223055_652358.gif


「肥前風土記」では、弟日姫子が狭手彦を見送ったその後、「蛇婿入り」話となります。
弟日姫子は、狭手彦に化けたへびに魅入られ、沼に引きずり込まれて命を落とすのです。

これは、「古事記」の三輪山神話で、へび(=オオモノヌシノ神)の花嫁となった
イクタマヨリ姫(活玉依毘売)の話に似ています。
が、彼女は、そうして神の子を生むことで、
神職を奉ずる氏族の祖先になるというハッピーエンドになります。
しかし「日本書紀」の三輪山神話では、やはりへび(=オオモノヌシノ神)の花嫁となった
ヤマトトトビモモソ姫(倭迹迹日百襲毘売)は箸に貫かれて死んでしまう悲劇となります。

昔話では、「蛇婿入り・苧環(おだまき)型」に分類されていて
さまざまなヴァリエーションがあるのですが(7)
この「肥前風土記」や記紀の伝説では、
ひとつには、“神の花嫁”である巫女の運命が語られているように思われます。
“神の花嫁”になることは、名誉なこと。
ですが、神が荒ぶるときには、その身を捧げても鎮めなければなりません。
身を犠牲にすることが、巫女の役割のようにもなっていく。

中世になると、「松浦佐用姫」という個人を離れて、
ある意味、ブランド化した「さよ姫」という名前の女性たちの伝説が各地で生まれます。
柳田國男が列挙しているのですが(8)
たとえば、現在は福島県郡山市日和田町にある蛇骨地蔵堂に伝わる話。

今は水田となってもうありませんが、かつて安積(浅香)沼という沼があり、
そこに大蛇がすんでいました。
この大蛇、実はもともと領主の娘のお姫さま。
家臣の邪しまな横恋慕によって一家を殺されるという目に合い、恨んで大蛇となり、
天変地異をひきおこす。
鎮めるために村人たちは、毎年、人身御供を捧げなければなりませんでした。
そうして32人の娘が犠牲となり、33人目は長者の娘の番となる。
そこで長者は、松浦長者の娘で今は没落した佐用姫を金で買って身代わりにたてます。
人身御供の祭壇へと捧げられた佐用姫が一心に経を唱えていると、
近づいてきた大蛇は、その功徳をもって成仏することになります。

ストーリーとしては、説経節の「まつら長者」とよく似ています。
(説経の方では、龍(大蛇)は、人柱にされた女性が恨みをもったもので、
これまで999人の人身御供の娘を取ったことになったりしています。)

こちらの話では、大蛇(領主の姫)は蛇骨を残して成仏し、
その蛇骨で、32人の犠牲者と大蛇のために33体の観音像を彫る。
それが今も蛇骨地蔵堂に伝わる三十三観音像だと伝えられています。


たとえばまた、現在の福岡県三井郡大刀洗(たちあらい)町の床島堰に伝わる話。

水不足に苦しんだ村人たちは、筑後川に堰を築き、用水路を引く工事に取り組みます。
ところが、工事は困難をきわめ、そこで人柱を立てることになります。
その人柱となって俵につめられ水底に沈められたのが、
9歳の女の子である「おさよ」でした。
沈められたおさよはその後、現われた白髪の老人の手によって生き返ることになります。

「佐用姫」「佐世」「小夜」「さよ」など、表記も呼び方もいろいろですが、
「さよ」という女性が人身御供や人柱になって水に沈むという、伝説のヴァリエーションが
九州から東北まで各地に伝わっているというわけです。

f0223055_652358.gif


「さよ」は、高貴な出であったり、長者の娘ともいわれ、
また、遊女であるともいわれます。

世阿弥作の謡曲「松浦」では、名を「小夜姫」という遊女であり、
狭手彦からもらった鏡を抱いて海へ入水自殺をすることになっています。
その小夜姫の幽霊が、諸国行脚の僧に物語を語り伝えるという筋立て。

そもそも朝廷から来た狭手彦の接待をするという“釆女”的な立場は遊女に近く、
また、折口信夫にいわせると、巫女と遊女とは、
それほど遠い関係というわけではなかったようです(9)

巫女は口寄せをして、神語りをするわけですが、その語りから、
物語が生まれ、歌が生まれ、舞が生まれたとする説があります。
歌舞を奉じる巫女が、民間へ下ると、歌舞の芸を売る遊女ともなります。
そして時代とともに、巫女のように口寄せをしたり、神事を行ったり、
遊女のように歌舞を行ったり、物語を語る女性たちが、
各地を歩き、遊行するようになります。

彼女たちは、たとえば水害に苦しむ地域では、水難除けを祈念したり、
橋や灌漑の工事をしている地域では、その安全と成功を祈念して、
神事をとり行ったり、歌舞を奉じて、演じたりもしたことでしょう。
時には、謡曲や説経や伝承に伝えられているような人身御供の物語を演じたかもしれません。
その演じた女性の印象が、各地の「さよ」姫伝説につながったのではないか、
というのが、柳田國男の論です。
彼らは、道祖(さえ)の神を奉る人々でした(8)

高貴の生まれとも、長者の娘とも、遊女ともいわれ、その実、正体は定かでなく、
道祖(さえ)の神信仰ともどこかしら脈略がありそうで、
松浦佐用姫が石になったごとく、自身も石になったといわれる虎御前。

何か、匂いそうな気がしてきます。

f0223055_16294580.gif







《引用・参考文献》
(1)佐々木信綱・久松潜一・竹田復監修「曾我物語 下」いてふ本刊行会
(2)佐伯梅友校注「古今和歌集」〜「日本古典文学大系8」岩波書店
(3)関敬吾「日本昔話集成・第一部動物昔話」角川書店
(4)立木望隆「城前寺本 曽我兄弟物語」曽我兄弟遺跡保存会
(4)近藤直也「松浦さよ姫伝説の基礎的研究 古代・中世・近世編」岩田書院
(5)佐伯順子「遊女の文化史」中央公論社
(6)折口信夫「宮廷儀礼の民俗学的考察ー釆女を中心としてー」〜「折口信夫全集・第16巻」中央公論社・所収
(7)関敬吾「日本昔話集成 第二部本格昔話」角川書店
(8)柳田國男「妹の力」〜「柳田國男全集11」ちくま文庫・所収
(9)折口信夫「巫女と遊女と」〜「折口信夫全集・第17巻」中央公論社・所収

[PR]
石をめぐる5つの伝説


「小栗判官照手姫」の絵解きを聞いて、瞽女が淵を訪ねてみると、
もうひとりのヒロインが気になってきました。
虎御前。
「曽我物語」の主人公、曽我ブラザーズの兄、十郎の恋人です。

「小栗判官」のヒロインの照手姫が、照手といわれた語り手であったように、
「曽我物語」のヒロインの虎御前もまた、物語の語り手であったといいます。

照手姫は、貴族の出とも、横山大膳の娘とも、遊女ともいわれましたが、
虎御前もまた、貴族の落とし胤とも、長者の娘とも、遊女ともいわれます。

そして2人とも、出身は関東、相模の国の東海道沿い。
照手の生まれた藤沢から、虎御前の生まれた大磯までは、
江戸の東海道でいうと、宿場2つめの距離。
今のJR東海道線でいうと、駅4つめの距離です。

「曽我物語」は、曽我ブラザーズが、殺されたお父さんの仇を討つ物語です。
お父さんの名は、河津三郎祐泰(祐重と語る話もあるようです)。
河津三郎は、殺される前、狩り場の余興で、相撲をとりました。
そのとき、元祖「河津掛け」の決め技で勝った相手が、俣野五郎景久。
「平家物語」にも登場する武者です。

花應院や遊行寺周辺の住所である「俣野」は、その俣野五郎が住んだ場所でした。
その子孫には、俣野五郎景平がいて、彼は遊行上人4代目の呑海上人のお兄さん。
呑海上人が俣野に遊行寺を開いたときに助力したといわれています。

つまり、「小栗判官」と「曽我物語」という2つの物語の舞台となった土地は、
ご近所同士で、何かとつながりがあるわけです。

2つの物語は時代も異なり、直接的な関連はないかもしれませんが、
中世の時代が生んだ伝説的なヒロインとして、照手と虎御前の境遇や面影には、
どこか似通っているようなところが見えます。

そこで他日、足を伸ばして、大磯を訪ねてみることにしたのでした。

f0223055_7495282.gif


江戸の頃、弥次郎兵&北八が、わいわいおしゃべりしながらの「東海道膝栗毛」珍道中、
大磯を通りかかって、北(きた)さんが狂歌を一首。

「此(この)さとの虎は薮にも剛(こう)のもの おもしの石となりし貞節」(1)

当時は、
「野夫(やふ/やぶ)にも功の者」(=田舎者にも手柄を立てるやつがいるもんだ)
という、ことわざみたいな語句があったんだそうです。
それを薮にひそむ虎にひっかけ、
さらに「香の物(漬け物)」と「おもしの石(漬け物石)」にひっかけてる。

この里の虎というのは、田舎者出身にしては、なかなかの女だ。
貞節を誓って、石になってしまったというんだから。──というんですね。
大磯の虎が、恋人・曽我十郎の死を悲しんで石になったという伝説は、
江戸の当時には、観光的な風物にもなっていたようです。

すると弥次さん、返して詠むには、

「去(さり)ながら石になるとは無分別 ひとつの蓮(はちす)のうへにや乗られぬ」(1)

落語家・古今亭志ん生師の「品川心中」で、心中をしようと誓った二人が、

「そうだ、あの世で一緒ンなろう、蓮の葉の上で所帯をもとう」
と、アマガエルみたいな料簡ンなって……。


という場面があります(2)
極楽へいった恋人たちは、睡蓮の葉っぱの上で寄り添うものと相場が決まっていたのでしょう。
せっかくあの世でいっしょになっても、石になったんじゃ蓮の葉に乗れないよというわけです。

そんな弥次さん北さんに詠まれた石がこちら。
小石くらいの石ころなら蓮の葉っぱにも乗っかるでしょうが、
確かにこれほどの大石となると、無分別といわれてもしかたがありません。
f0223055_8234386.jpg

JR大磯駅から徒歩5分くらいにある延台寺に伝わる「虎御石」です。
本来は拝観のみで、撮影は不可なのだそうですが、
お寺の方にご許可をいただきました。

どうやら、この石には、さまざまないわれがあるようです。


その1「石はイケメンが好き」伝説

力石(ちからいし)というのは、力試しをするための大石です。

下の写真は、延台寺からそう遠くない大磯の高来神社の境内にある力石。
大磯海岸の漁師たちが力持ちの名誉をかけて持ち上げようと競ったんだそうです。
f0223055_145389.jpg

筆者も踏ん張ってみたんですが、数センチずらすのがやっとでした。
こうした力試しは一種のスポーツみたいな楽しみでもあったようで、
全国各地に伝わっています。

ところが、延台寺の虎御石の方は、ひと味違います。
「よき男のあぐれはあがり、あしき男のもつにはあがらずという、
色好みの石也…」
(柳亭種秀「於路加於比(おろかおい)」)
と言われていたのだとか(3)

どんなに怪力であろうと、いい男でなければビクともしない。
たとえ「金と力はなかりけり」でも、色男なら、ひょいひょい持ち上がるというんですね。
f0223055_7523119.jpg

旅人が試しているこの絵では、道端に置いてあることになっています。
形状も違いますね。
画家が、うわさをたよりに想像して描いたか、
あるいは、茶店が客寄せのために置いたにせものがあったのではないかといいます。
お寺の方の話だと、実際の虎御石は移動させるのにもおとな5〜6人がかりだそうです。

石が「色好み」というのは、虎御前が遊女であったことから派生したうわさとも思われます。
が、その起源は、力石に霊力が宿ると考えた古代の人たちの
石占(いしうら)という占いにあるのではないかという説もあります。

柳田國男によると、奈良の大峰山龍泉寺に、「オイトシボ石」というのがあって、
踏みつけてから持つと重くなり、撫でてから持つと軽くなるというそうです(4)
こちらの石は、「いい男」よりもやさしい人が好みのようですね。
現在は「なで石」と呼ばれています。

「オイトシボ」という言葉が何を意味するのか、
大阪・住吉大社の「おいとしぼし社」とも関連がありそうです。
こちらで祀られている石は「重軽(おもかる)石」といい、
昔飛んで来た隕石だという俗説もある。
2回手に持ち、2回目が1回目より軽く感じたら願いがかなうという占いをするそうです。
恋占いとして今も人気なのだとか。

ただ、大磯の虎御石は、いい男の前だと軽くなっちゃうだなんて、
石なのにちょっとかわいく思えてきます。
筆者も撮影のとき、お寺の方の目さえなければ、片手でちょいと持ち上げてみせたんですが。


その2「石は成長して大きくなった」伝説

延台寺に伝わる「虎御石畧縁記」によると(3)
相模の国は淘綾(ゆるぎ)の郷に、名を藤原実基という人が住んでいて、
山下長者と呼ばれていました。
その長者屋敷の跡と伝えられているのが、ここです。
現在は、神奈川県平塚市山下。
f0223055_10501431.jpg

その山下長者、子どもがいなかったため、近くの虎が池弁財天にお参りしたところ、
一個の美しい石を授かり、ほどなくして女の子が生まれます。
「虎」と名付けられたその子が、後の虎御前。

弁財天は、明治の頃まで、現・大磯町東町の池の中島にあったといいます。
今は池も埋め立てられ弁財天もありませんが、その碑が、延台寺の境内に移されています。
f0223055_12345836.jpg

弁財天に授かった石は最初は小さかったそうで、あるいは蓮の葉にも乗ったかもしれません。
ところが不思議なことに、お虎ちゃんの成長とともに
ずんずん大きくなって、今のような大きさになったというのです。

こうした生き石伝説は各地にあるそうで、
たとえば、「君が代」で歌われる「さざれ石」もそのひとつ。
小石=「細(さざれ)石」が、だんだん大きく成長して、
巨大な岩=「巌(いわお)」になると考えられています。
やはり石には霊力があって生きているということなのでしょう。


その3「石が身代わりとなって命を救った」伝説

美しく成長したお虎さんは、歌舞に優れていたため、高貴な人々の宴席に招かれることも多く、
そこで曽我十郎祐成と知り合います。

以上までの経緯を真名本の「曽我物語」では、
◎藤原基成の乳母の子である宮内判官家長と、
平塚宿の遊女・夜叉王との間に生まれた子が虎である。
◎大磯宿の遊郭の主人(=長者)である菊鶴にもらわれ養育された。
──と説明します。
(「長者」は、一般に「富裕者」のことをいいますが、
「撰集抄」などでは遊女の長である女性のことをいっています。
が、遊女の長(おさ)であるということで、遊郭を運営する主人も
長者と呼ばれたようです。)

仮名本(流布本)の「曽我物語」では、単に山下長者の娘であり、遊女であるとし、
藤原実基の「一夜の忘れ形見」としています(5)
いずれにしろ、虎は十郎と恋に落ち、彼の仇討ちの宿望を知ることとなります。

やがて、仇である工藤祐経は、兄弟の不穏な気配を察知して、
十郎が足しげく訪れる山下長者の屋敷へ刺客を放ちます。

闇に乗じて刺客が十郎を弓で射かけ、もうひとりがとどめとばかりに太刀を浴びせかける。
ところが、矢は弾かれ、刀は歯がたたず、驚きあわてた刺客たちは逃げ帰ります。
そして翌朝見ると、十郎の身代わりとなった石には、
矢傷と刃傷の跡が穿たれていた──。
と、「虎御石畧縁記」には記されています(3)

見ると、確かに傷の跡がくっきり。
f0223055_16272894.jpg

ところが、この形、改めて見直してみると、
実は、エロティックなものであることに気がつかされます。


その4「石は陰陽石である」伝説

この石は、陰陽石であるといいます。
すなわち、男根形の石に7つの女性性器がついている。
陽石と陰石が一体となったかたち。
全体は平べったいものなので気づきませんでしたが、
真横から見ると、なるほどです。
ただ、7つというのは無理があるように思え、
筆者には、男女一対のもののように見えました。
陽石のかたちは、天然の自然による造詣のように、
陰石のくぼみは、人工的に彫られたもののように、
素人目には思われました。

▼「虎御石畧縁記」の図を模写
f0223055_62744100.gif

陰陽石の多くは、道祖神信仰として祀られているものです。
賽の神、塞の神、どうろくじんなどなど、様々な呼び方をされる、
いわゆるサエの神。

ところで、大磯海岸には、セエノ神サンの火祭り、「左義長」が伝わっています。
地方によっては「どんど焼き」とか「三九郎」などとも呼ばれ、
福島や富山では、「サイノカミ」というところもあるように、道祖神のお祭りとされます。
(神奈川県で行われているのは、ここ大磯1カ所だそうです。)

1月14日、浜辺に、天高く立てた竹を中心にしてお正月飾りの門松やワラを積み上げる。
各町内が作る、この塔のような飾り物を「サイト」というそうです。
「サイト」とは、穢れをきよめ、魔をはらう火、「斎灯(さいとう)」のことで、
それが修験道に入って「柴灯」などと書かれるようになったのではないかと
五来重さんはいいます(6)
魔をはらう火。
夜になるとこのサイトに火が放たれ、燃え上がる。
この火で焼いただんごを食べると風邪をひかないのだそうです。

今でも毎年行われている名物行事ですが、簡略化されているとのこと。
戦前はもっと盛んで、祭りは前の年の12月8日から始まったそうです。
子どもたちが「ゴロ石」と呼ばれる石を縄で結んで持ち歩いて町内を回る。
未婚の男女がいる家にくると、
年長の子がそのゴロ石を地面にたたきつけ、
「○○さんにいいお嫁さん(お婿さん)が来るようにっ! 一番息子!」
と叫ぶ。
そして「二番息子」「三番息子」と他の子どもたちが言いはやしたそうです。
そのゴロ石が、陰陽をかたどったものだというのです(7)(8)

もちろん、「虎御石」と「ゴロ石」を単純に結びつけることはできません。
が、「虎御石」は、さまざまに形を変えてきた道祖神信仰のその原始的な部分と
何かしらつながりがあるのではないかとも思われてきます。

※「ゴロ石」は、五輪塔の「五輪石」が起源だという説があります。
形状を見ても、真ん中が少しくびれた短い棒という素朴なもので、
必ずしも陰陽を想起させるものではないように思います。
が、山崎省三さんが書かれていたように、「陰陽をかたどる」という
宗教的な意味合いにつながる要素があるかもしれません。


その5「虎御前が石に変身した」伝説

さてそして、虎御前がこの石になったのだという伝説。
実は、この伝説が伝わるのは、大磯だけではありませんでした。
虎御前は、全国各地に足跡を残し、九州にまで足を運んでいるというのです。
そして、虎が化した石というのが、各地に残されていたりする。

柴又帝釈天の寅は日本中を旅して歩いたものですが、
虎が池弁天の虎もまた、旅して歩いたらしいのです。

はたして、虎御前とは何者だったのか?
謎は、いよいよ深まるのでした。

▼延台寺に伝わる虎の木像
(お寺の方に許可をいただき、撮影させてもらいました)
f0223055_929555.jpg


f0223055_743881.gif





《引用・参考文献》
(1)十返舎一九「東海道中膝栗毛」〜中村幸彦校注「日本古典文学全集49」小学館・所収
(2)古今亭志ん生「品川心中」〜飯島友治編「古典落語 志ん生集」ちくま文庫・所収
(3)延台寺護持会編「宮経山延台寺縁起」
(4)柳田國男「巫女考」〜「柳田國男全集11」ちくま文庫・所収
(5)佐々木信綱・久松潜一・竹田復監修「曾我物語 上」いてふ本刊行会
(6)五来重「石の宗教」講談社学術文庫
(7)大磯町編「おおいその歴史」
(8)山崎省三「道祖神は招く」新潮社

[PR]
そして物語はつくられた


実は絵解きの当日、始まる時間に遅刻しそうになり、あわててタクシーをつかまえたのでした。
その運転手さんが、やたら地元の歴史にくわしい。
義経伝説や、藤沢宿の遊女を弔ったお寺、化粧地蔵のことなどいろいろ教えてくれながら言うには、
「このあたりは昔から豊かなところでねえー」。

お米もよくとれたんだそうです。
なるほど近くに川があり、水に困らない。
また、川の運んでくる土砂が、肥沃な土地をもたらしていたのでしょう。

「ただ、水害にはずいぶん悩まされたようだね」。

その境川。
f0223055_0335365.jpg

今でこそまっすぐ、護岸工事もきっちり、まわりの用水路も整備されています。
が、昔は蛇行する川がよく氾濫したんだそうです。

そんな1847年、江戸は幕末の頃、ここを訪れた旅の浪人が、
水難を鎮める人柱として、川に身を投げ自殺する。
村人たちは手厚く葬り、水難除けの石仏を建立。
「土手番さま」と呼ばれるその石仏がこちらです。
f0223055_0341157.jpg

その隣りにあるのが、瞽女(ごぜ)が淵の碑。
f0223055_0343555.jpg

1673年。
といいますから、説経の正本「おぐり」が刊行される2年前の江戸時代前期の頃。
川が蛇行して出来た池に、ここを通りかかった瞽女さんが落ちて溺れ死んでしまう。
あわれんだ村人たちは、池を埋め立て、ここを「瞽女が淵」と名付けます。
が、その後も川はたびたび氾濫して地形も変わったようです。

2012年の今年、1月16日の花應院・閻魔祭では、ご住職が今も
瞽女さんとご浪人を手厚くご供養しておられました。

f0223055_7464457.gif


瞽女は、盲御前(ごぜん)から「ごぜ」と呼ばれるようになった女性の旅芸人。
「耳なし芳一」などで知られる琵琶法師は、琵琶を弾いて物語を語った盲目の僧ですが、
瞽女もまた盲目で、主に三味線を弾きながら唄い、語りました。

盲目であっても、グループで助け合いつつ、年中旅を続ける彼女たちは旅のベテランで、
少々の悪路には慣れていたでしょう。
うかつに水にはまるとは考えにくい。
不幸な事故であったとしても、
そうした水の事故というのは、目の利く周辺の住民のあいだでも、
そうそう珍しいことではなかったのではないでしょうか。
それが、語りぐさとなり地名となり、大正時代にはこの石碑が建てられたのには、
何かしらの理由があったように思います。

不幸な魂がたたりを為して災いをもたらす。
そのため、災難を回避するため、魂を鎮め、慰めようとする。
これは日本の各地の習俗に見られます。
水害にたびたび苦しめられていた村人たちの中にはそうした気持ちもあったでしょう。

また、人柱を志した浪人がわざわざ瞽女が淵を選んで身を投げ、
同じ場所に「土手番さま」と「瞽女が淵碑」が並んでいるというのも
何かしらの脈絡があるようにも思われます。

柳田國男は、道祖(さえ)の神を奉じて、芝居がかって舞いを踊る遊行の巫女が、
人柱となって水難を鎮める「さよ」姫伝説につながったのではないかといいます(1)
もしかしたら、やはり遊行の徒であった瞽女と関連があったりするのでしょうか。

あるいはまた、村人たちの中に、瞽女さんに対する
独特なシンパシーがあったということなのでしょうか。
瞽女が語り唄う物語を村人が歓迎し、時には涙を誘われ、親しんでいた文化があったからこそ、
この事故を語り伝えてきたということもあるかもしれません。

いずれにしろ、当時、瞽女さんたちがこのあたりを往来していたということは確かのようです。
そして彼女たちのレパートリーの中には「小栗判官照手姫」の物語もありました。

f0223055_7464457.gif


改めて周辺の地図を見直してみると、
関連史跡の多くが、国道1号線、つまり東海道の道沿いにあることに気づきます。
しかも、近くにかまくらみちが通っており、
このあたりは交通の要(かなめ)でした。
旅人が行き交っていた。
その中に瞽女さんの姿もあったのでしょう。
f0223055_6263887.gif

江戸の頃には、説経などを通して「小栗照手」の物語は人々の中に定着していたと思われます。
むしろ古くさいと思われていたかもしれません。
それがフィクションであっても、物語にまつわる話が伝説化していた。
ここを通る旅人は、この土地に伝わる伝説やうわさも、
旅のみやげ話として方々へ拡散させたことでしょう。

ただしかし、江戸以前、この物語が生まれたと考えられる中世にはまだ、
国道1号線にあたる東海道はありませんでした。

近くを通るかまくらみちを北上すると、
瀬谷(現・横浜市瀬谷区付近)へと至り、
鎌倉街道のひとつともいわれる中原街道にぶつかります。
中世には、この中原街道がメインとして使われていたようです。
f0223055_9114973.gif

さらに北には、律令時代の東海道が平行して走り、
小高駅(現・川崎市中原区小田中付近)あたりで中原街道とほぼ交わります。
(ここに多摩川を渡るための「丸子の渡し」場があります。)
この古代の東海道の道の先が、
常陸の国の国府(現・茨城県石岡市)へとつながっている。
その国府から筑波山をはさんだ向かい側に、
小栗城のあった小栗村(現・茨城県筑西市小栗)があります。

小間物屋・後藤左衛門は、このルートを行き来して商売をしていたのでしょう。
そして常陸の小栗と、相模の照手の橋渡しをすることになる。
あるいはまた、小栗城の落城後、小栗満重の子、小次郎助重は、このルートをたどって
三河の国へ落ち延びて来たかもしれません。
その途中で、相模の国のこのあたりを通りかかった。

その常陸の国と相模の国が、物語としてどうして結びついたのか?
──国文学・民俗学の福田晃さんが、興味深い説を展開しておられます。

f0223055_7464457.gif


青森・恐山で有名な東北地方の「イタコ」という巫女の人たちがいます。
「口寄せ」といって、死霊や生霊、ときには神仏の霊を自分の体に乗り移らせて
その霊の言葉を語るものです。

日本では、古くからこうした口寄せが行われてきました。
「古事記」では、シャーマンでもあった神功皇后が、
住吉大神の口寄せをする場面があったりします。
そして時代が下ると、「歩き巫女」「遊行巫女」と呼ばれるような女性たちが、
各地を旅しながら口寄せをしつつ、託宣をしたり、祈ったり、勧進をしたり、
そして芸を披露したりするようになります。

中には、戦場となった場所や、災害の被災地に留まり、
報われなかった死者の魂の声を語り、供養する女性たちもいました。
恨みを残し、不幸な死を迎えた魂たちは、怨霊となってたたりをなし、災いをもたらすため、
慰め、鎮めなければなりませんでした。
「怨霊」を「御霊」へと変える。
いわゆる「御霊信仰」です。

常陸の国の「小栗満重の乱」で、満重らが非業の死をとげたとき、
その死者たちの言葉を語り、その霊を慰めた遊行巫女がいたのではないか。
と、福田晃さんはいいます。
そして死者たちの言葉が、物語化していくようになる。
「平家物語」は、滅亡した平家の霊を慰めるために琵琶法師が語ったものですが、
「小栗判官」の物語もまた、小栗の霊を慰めるために、
巫女が語ったのが始まりではないかというのです。

遊行巫女たちは「照日」「朝日」「万日」、そして「照手」というような呼び方をされました。
その彼女たちが拠点とした場所が、太陽寺の前身になったといいます。
太陽寺は、現在廃寺となっていますが、
茨城県筑西市の小栗城跡の小山からすぐ近くの井出蛯沢にありました。
その小栗の郷は、伊勢神宮領。
伊勢神宮が所有し、管轄していた荘園でした。
巫女たちは、伊勢神宮ゆかりの神明巫女であったのです。

一方、藤沢には、大庭御厨(おおばみくりや)という広大な荘園がありました。
茅ヶ崎市・藤沢市にまたがる広大さで、
遊行寺や花應院周辺の俣野や上野が原もすっぽり含まれています。
大庭御厨には、馬を放牧させて飼う牧(まき)も5〜6カ所あったそうで、
鬼鹿毛山もそのひとつだったかもしれません。
その大庭御厨が、平安末期、鎌倉景政によって寄進された伊勢神宮領だったといいます。
そこにもまた、伊勢神宮ゆかりの神明巫女がいた。
小栗と大庭には連絡があったというわけです。

やがて、藤沢の俣野に時宗の道場が開かれます。
時宗の開祖・一遍は、ブッダと同じく、出家してより後は遊行に生き、
遊行の途で息をひきとり、最後まで寺という定住の地を持ちませんでした。
方々を旅し、善光寺や四天王寺などで修行した後、
熊野本宮で夢のお告げを得て時宗を開いています。

その志しを継いで、後年、呑海上人が俣野に道場を開くわけですが(後の遊行寺)、
だから神仏習合で、熊野権現を奉っている。
そのとき、その地の神明巫女が習合され、
念仏比丘尼と称されるようになったのではないかといいます。
神道ではなく、仏教の呼び名となった。
各地を遊行しながら、戦場や野辺の死者を弔った時宗の徒である「時衆」たちは
遊行巫女に近しい存在であったでしょう。

小栗の物語には、時宗が色濃く反映されています。
主要な脇役のひとりとして遊行上人が登場するだけではありません。
たとえば、小栗が地獄から帰ってきて名付けられた「餓鬼阿弥陀仏」というネーミングも
時宗っぽいのだそうです。
時衆たちも、物語の生成に大きく関わっていたとされます。

小栗の地の神明巫女が語る小栗御霊の話が、大庭の神明巫女に伝えられる。
そしてそれが念仏比丘尼へと受け継がれる。
そこへ、大庭御厨の牧にいた馬(鹿毛)というモチーフがとり入れられる。
そうした「初期の語りを、世間話ふうに事実譚として伝えていた」のが、
あの「鎌倉大草紙」の物語ではなかったか。
というのが、福田晃さんの説です(2)

f0223055_7464457.gif


そしてさらに、旅をして歩く遊行巫女や、比丘尼、時衆の僧たちによって、
やがては説経師たちによって、物語は各地を運ばれながら発展していきます。

たとえば、相模川に流された照手は、現在の横浜市金沢区・六浦近くの浜に流れ着きます。
ふつうに考えれば、
相模川が注ぎ込む相模湾に面する鎌倉や逗子に漂着してもよさそうなものです。
反対側の東京湾に面する六浦へと至るためには、
三浦半島をぐるっと周回しなければなりません。

まあ、しかし、当時、港として栄え、知名度のあった六浦が物語の舞台となるのは
当然ともいえます。
が、福田晃さんは、照手の物語を伝える六浦の専光寺(千光寺)の存在を指摘しています。
長生院の「小栗小伝」にも、
「此地に日光山専光寺といふ観音の霊場あり」
と、わざわざ紹介されているお寺です。
そこの観音さまが照手を救うことになる(3)
(※「小栗小伝」では、照手は走って逃げた後に追っ手につかまり、
現・横浜市金沢区を流れる侍従川へ投げ込まれ、六浦へ流れ着くことになっています。)

この専光寺は、海難事故などで海岸に流れ着いた死者を弔っていたところで、
ここに死者の声を聞き慰霊する神明巫女、比丘尼が関わっていた。
さらに時宗とも関連があったのではないかと福田晃さんはいいます(2)


また、照手が売られて下働きをする(別の話では遊女となる)美濃の国の
青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓町)。
ここは、歩き巫女ともつながりのある
傀儡子(くぐつ)といわれる旅芸人の伝承が伝えられるところです。
歌舞の芸をして歩いた遊女もここにいました。
後白河院に気に入られた遊女が、この美濃(青墓)に滞在した来歴のあったことが
「梁塵秘抄」に記されたりしています(4)
遊行巫女や遊行僧、遊行比丘尼も、頻繁にこの宿を行き来していたことでしょう。

さらに、土車の小栗を照手が引いて歩いた二人の道行きの終着点、関寺。
ここは、百人一首で、
「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」
とうたわれた逢坂の関にあるお寺です。
歌の作者、蝉丸は、盲目の琵琶法師であり音曲の名人であったとか、
はたまた乞食であったともいわれる人物。
芸の神さまとして蝉丸神社にまつられています。
その蝉丸を慕って、関寺は、旅をして歩く説経師たちの聖地となりました。
遊行の巫女や比丘尼たちも立ち寄ったことでしょう。

つまり、旅をする語り手たちが、当時行き来していた場所や、ゆかりのある場所を舞台として
物語が発展し、つむがれていったと想像されるのです。

※参照:「小栗照手に関する全国伝承マップ」(googleマップ)

f0223055_7464457.gif


そして、道行きのゴールは、小栗がその湯につかって蘇生した熊野。
京都、大阪から熊野三山へ至る熊野街道は、物語にちなみ、小栗街道といわれました。

熊野権現のお告げによって開かれた時宗の徒である念仏僧や念仏比丘尼にとって、
熊野は当然、関係の深い場所でした。
特に、時宗が熊野の勧進権を独占するようになってからは、
「熊野比丘尼」と呼ばれる女性たちが、勧進をして国々を回るようになります。
その前身は、山伏の妻の巫女か、時衆の比丘尼ではなかったかと
五来重さんは推察しています(5)
遊行の巫女や比丘尼が熊野比丘尼となった。

彼女たちは、勧進──つまり、熊野三山への信仰を勧め、
神社への寄付金を募って、絵解きをしたり、歌を歌ったといいます。
それは同時に、熊野詣(もうで)の観光案内とPRの役目も果たしていました。
熊野比丘尼たちが行った絵解きの中に
「熊野那智参詣曼荼羅」という絵があるのですが、
それはさながら、“熊野参詣のためのガイダンス”というべきものです。
「熊野にはこんな場所がある」「こんなご利益がある」と案内されているうちに
「わたしを熊野へつれてって」と行ってみたくなる。

どんな病気でも熊野の湯で治ってしまうというこの小栗の物語もまた、
観光PRにはうってつけであったでしょう。

f0223055_7464457.gif


ただ、熊野は峻険な山であり、
軽い物見遊山のノリで気軽に立ち寄れるところではなかったようです。
それでも多くの人々が、熊野を目指しました。
救われると考えたからです。

熊野勧進をするときに時衆がつかったキャッチフレーズは
「不浄をきらわず」
というものだったそうです。
「黒不浄」といわれる死のケガレもきらわない。
「赤不浄」といわれる産褥や月経のケガレ、つまり女性であることもきらわない。
そして、身分が最下層であってもきらわず、
社会的に白眼視されるような病気であってもきらわない。

「小栗判官」と同じ説経のひとつに、「信徳丸」という物語があります。
主人公の信徳丸は、義母に憎まれ呪いをかけられたために、
両目がつぶれて「人のきらいし三病者」となり、家を追い出され捨てられる。
「三病」とは、必ずしもハンセン氏病とは限らないが、
一般にハンセン氏病のことをいう──と、注にあります(6)

しかし、「人のきらいし」病気でも、熊野権現はきらいませんでした。
観音さまが告げていうには、熊野の湯に入れば病気は治る。
そこで信徳丸は、足元もおぼつかない体で熊野を目指します。
ストーリーとしては、結局、信徳丸は熊野には赴きませんでした。
けれど、熊野という地は、半ば死人である小栗を受け入れたように、
どんな病者も受け入れたところであったことがわかります。

五来重さんはこう書かれています。
「おそらくこの小栗街道には数多くの癩者が鼻も耳も頬もくずれおちて、
唇だけはれあがった顔を白布につつんで
ただ一縷(いちる)の熊野権現のすくいを無理にも信じようとしながら、
たどっていたことであろう。
小栗判官のように足腰も糜爛(びらん)し去って躄(いざり)になったものは、
箱に丸太を輪切りにしただけの車輪をつけた土車に乗り、
道行く人に引いてもらうか、自力で下駄をはいた両手で這うように
山坂をこえていったらしい。」
「熊野ではたびたびそのような患者が中辺路をあるいていた記憶を、
老人からきくことができた。」
(5)

そしてその姿は、「一遍聖絵」の絵巻の中に描かれているというのですが、
なるほど、見ると描かれています。

▼一遍聖絵(一遍上人絵伝)部分
f0223055_18135095.jpg
f0223055_18133810.jpg

映画「もののけ姫」の作中、エボシ御前のタタラ場で顔に布を巻き、
「業病」といわれていた人々の姿です。
(もっとも病気ではない非人の人々もこうしたかっこうをしていたといいます。
ただ、非人の中には病気の人も多く、見分けがつけにくいそうです。)

社会からも家族からも疎外されたそうした人々とともに一遍は旅をしました。
そしてそうした人々を、熊野はこころよく受け入れていた。

──リアルだったのです。
小栗判官が地獄から戻って土車に乗って熊野へ旅するという、
おおよそ荒唐無稽と思われたその光景は、実はリアルなものだったのです。

業病の人たちは、人の目に触れぬよう、街道や表通りを避けて旅をしたといいます。
太平洋戦争の頃、四国の山中、人の通らないような険しい山道を、
業病の老婆が旅していたという農民の目撃談を、宮本常一が聞き書きしています(7)
が、あえて人の目にさらされる道を行くことを選ばざるを得なかった人もいるかもしれません。
歩くことが出来ず、土車を使うとすれば、
整備された、けれど人目につく道を行かなければならなかった。

街道を歩き、名もなき道を歩き、熊野へ足を運んだ比丘尼や説経師たちは、
昭和という時代に熊野の老人や四国の農民が目撃して記憶していたように、
そんな光景を、幾度となく目にしていたのではないでしょうか。

社会の底辺にあった彼らの視線は、病者の心情に寄り添っていたかもしれません。
それが、小栗の物語となり、物語る“語り”の表現になった。

f0223055_7464457.gif


小栗をめぐってつむぎ出されたいくつかの物語は、
その核に史実を持っていたとしても、非現実的なフィクションです。
しかし、物語の中で小栗や照手が直面した試練──
盗賊に殺される。死にかける。
病気にかかってやせ細り、異形のものとなる。歩けなくなる。
いわれのないイジメにあい、折檻される。
人買いに売られる。
重労働で休みなく働かされる。
──これらの苦難は、当時の語り手や、その語りに聴き入った民衆にとって、
心情的にも身近な、非常にリアルなものだったのではないでしょうか。

「照手」と呼ばれた語り手であった巫女が、作中のヒロインとなった。
こうして語り手が物語の登場人物となるパターンは、「曽我物語」などにも見られるものです。
物語が成立してかたちを整え、出来上がってから後の時代になっても、
語り手は、作中人物に自分を投影していたでしょう。

これは、説経の物語に多いのですが、ヒロインは、苦難にめげず、
恋人にひたすらつくし、つくしぬいて、最後には神仏のおかげで救われます。
そんな「照手姫」の物語を切々と語った語り手たちは、自身もまた、
いつか救われることを願っていたのではないでしょうか。

身分低く、時には乞食とさげすまれ、時には盲目や病気といった障害を背負い、
厳しい旅を続けた遊行の巫女や比丘尼、僧や説経師であったら、なおさら、
ヒロインが救われることを切実に願ったに違いありません。

藤沢の瞽女が淵に沈んだ瞽女さんも、
おそらくは、そんなひとりであっただろうと思います。







《引用・参考文献》
(1)柳田國男「妹の力」〜「柳田國男全集・11」ちくま文庫・所収
(2)福田晃「中世語り物文芸・その系譜と展開」三弥井書店
(3)「小栗小伝」(〜小川泰二「我がすむ里」藤沢市文書館蔵に写し書かれたもの)
「白旗神社ホームページ」内・藤沢市史料集2/「我がすむ里・巻の中」のページ
(4)西郷信綱「梁塵秘抄」筑摩書房
(5)五来重「熊野詣 三山信仰と文化」講談社学術文庫
(6)「信徳丸」〜荒木繁・山崎吉左右編注「説経節」東洋文庫・所収
(7)宮本常一「忘れられた日本人」岩波文庫

[PR]
物語の伝説を歩いてみる


小栗が地獄から舞い戻ってきた塚(=墓)は、「上野(うわの)が原」にあったと
説経では語られていました。
上野が原は当時、風葬のように死体がそのままにされて置かれているような
荒涼とした場所だったようです。

手元の地図ではわからないのですが、藤沢市今田に、上原というところがあるそうです。
が、今田や西俣野あたりの広い地域を「上野が原」と呼んだという説もあり、
今田からはややずれたその西俣野に、①「小栗塚跡」の碑があります。
f0223055_8502186.jpg

伝説によれば、小栗塚のてっぺんにはくぼみがあった。
不思議なことに、そのくぼみをいくら埋めようと土を盛っても、
いつのまにかまたくぼんでしまったそうです。
埋めた土はどこへ吸い込まれてしまったのか?
くぼみは、地獄に通じていたのでしょうか。

今は、その塚もくぼみもすっかり整地されて、福祉施設が建っており、
その塀の道路脇に碑だけが残されています。
f0223055_8505464.jpg

おそらくはこの場所で、カラスが群れて鳴き騒ぐ中、
塚が四つに割れて小栗が息を吹き返したのでしょう。

土まみれのその体の土ぼこりを小栗がはらったという「土震塚」が
道路をはさんだところにあるというのですが、筆者にはわかりませんでした。

f0223055_9345960.gif


この近くに花應院、そして小栗が建てたという②閻魔堂の跡があります。
今は花應院におわしますあの閻魔大王像が元いらっしゃったところです。

明治の頃、火災で焼失したというそのお堂の跡は、
今は林に囲まれた小さな敷地になっていて、小栗の墓といわれる石塔もありました。
小栗判官のものといわれる墓は、こちらの他にも全国にいくつかあるようです。
f0223055_9432049.jpg

この西俣野から、境川を渡って今は横浜市戸塚区へ行ったところに、
あの“人喰い馬”鬼鹿毛を飼っていた原があったという④「鬼鹿毛山」があります。
現在は、老人ホームが建っている裏山あたり。
そこには、「鬼鹿毛坂」という坂もあったそうです。

鬼鹿毛は、説経では、
あたりに食った人間の骨や毛が散らばっていたと描写される人喰い馬です。
が、近松門左衛門の浄瑠璃ヴァージョンでは、ずっとソフトナイズされていて、
「人喰い馬」ではあるけれど、三国無双の名馬。
「春は梅花の香をくらい、夏は卯の花あやめ草。
今は折りから秋草の露をそのまま秣(まぐさ)に飼う」
(1)
と、花の香りや露を食する風流ぶりを見せています。
昔は、そんなのどかな草花が咲いていた山だったかもしれません。

f0223055_11103369.gif
参照:小栗判官照手姫をめぐる藤沢市周辺(googleマップ)

その鬼鹿毛山の南あたり(戸塚区東俣野町)に「殿久保」というところがあり、
横山大膳の住居があったと伝えられています。
毒殺事件の舞台となったところです。
古地図を調べればよかったのですが、筆者は、どのへんがどのあたりなのかわかりませんでした。

※追記:後日、調べてみると、「殿久保」は「戸ノ久保」ともいい、鬼鹿毛山より約400mほど南、
現在は龍長院のあたりだったといいます。

ただ横山大膳は、当時、横山党が本拠地にしていた武蔵の国の横山の庄(現・八王子)に住んでいた
という説もあります。

ちなみに、鬼鹿毛山のあたりは、「ウィトリッヒの森」と呼ばれているそうです。
日本在住のスイス人、ウィトリッヒ氏が所有し、故郷スイスに似た景観を愛していたそうで、
現在、市に寄贈され、市民の森として人々に親しまれているとのことです。

f0223055_9345960.gif


さて、花應院から境川を下っていくと大鋸(だいぎり)橋(現・遊行寺橋)があり、
遊行寺(清浄光寺)があります。
そしてその門前町として栄え、東海道の宿場町としても栄えた藤沢の宿があります。

遊行寺は、小栗の蘇生にひと役買った「藤沢の御上人」「遊行上人」のお寺。

「遊行上人」といえば時宗の開祖・一遍のことですが、
このお寺の法主(ほっす)も代々「遊行上人」と称されます。
正式な名称は「清浄光寺」。
しかし遊行上人が法主をつとめるお寺ということで、
「遊行寺」という呼び方が浸透しているのだそうです。

「遊行寺」から「小栗塚」までは、だいたい2〜3kmの距離。
上人は、ここから「小栗塚」までテクテク歩いていったのでしょう。

この遊行寺の裏手の方に、⑤長生院(ちょうしょういん)があります。
晩年の照手姫は、小栗が亡くなった後、遊行上人をたよって尼となり、この小院を建てて
小栗と家臣10人の霊をとむらったといわれています。

その境内の庭にあるのが、小栗と10人の家臣(十勇士)の墓。
f0223055_12221131.jpg

照手姫の墓。
筆者が訪ねた1月16日は季節がちょっと早過ぎましたが、
梅が咲くと華やかなんでしょうね。
f0223055_12224348.jpg

鬼鹿毛の墓。
鬼鹿毛は、説経では馬頭観音にまつられたとされています。
f0223055_12273565.jpg

目洗いの池。
地獄から戻ってきた小栗が、ここで目を洗ったそうです。
「古事記」のイザナギは、黄泉から戻って目を洗うと
アマテラス(太陽)やツクヨミ(月)が生まれたものでしたが……。
f0223055_1617436.jpg

f0223055_9345960.gif


ところでこの長生院でも、昭和30年代頃まで、
人が集まると、おばあさんが絵解きをして下さったんだそうです。
絵は、それほど大きくはない白黒の「小栗判官一代記畧圖(略図)」というもの。
が、語られていたストーリーは、花應院のものと一部違っていたようです。
おそらく、江戸時代後期の長生院の住職が記したという
「小栗略縁起」または「小栗小伝」がもとになっているのではないでしょうか。

※《追記》
長生院のおばあさんの絵解きは、
昭和50年(1975年)頃までやっておられたという話もあるようです。
1970〜1971年に小沢昭一さんが現地で録音したという「日本の放浪芸」(4)のCDに、
絵解きをしているおばあさんの声が残されています
(「小栗判官照手姫」──「説く芸と話す芸〜絵解の系譜」に収録)。

f0223055_9345960.gif


そもそもこの物語は、次の史実がもとになっていると考えられます。

頃は、室町時代中期。
現在の茨城、常陸真壁郡・小栗の領主、小栗満重。
当時、関東の権力者、鎌倉公方・足利持氏に反発して、領地の一部を没収されます。
そこで満重は、1422年(応永29年)、反乱を企て挙兵。
が、しかし、足利持氏の大軍に攻め滅ぼされて、ついには小栗城で自刃します。
これが世にいう「小栗満重の乱」です。

自ら果てた満重には、息子・助重がおりました。
この小栗助重は、現在の愛知、三河の国へ落ち延びて家を再興し、その後、
茨城・太陽寺(現在は廃寺)に、
父と10人の家臣(十勇士)のための供養塔を建立したりしています。

ところが、物語はこれで終わりません。

戦国時代が始まらんとする室町時代の関東の歴史を記した「鎌倉大草紙」に、
「小栗満重の乱」の記述があり、その後の小栗助重の記事が載っています(2)

それによると、小栗城の落城後、満重の息子の小次郎助重は関東に潜伏。
そして相模の国の権現堂というところに宿をとったときのこと。
あたりの盗賊が、金品をねらってワナを仕掛けます。
近隣のきれいどころ(遊女)を集め、宴会を開いてもてなし、
その酒に毒を盛って殺そうというわけです。

そのはかりごとを知った遊女のひとり、「てる姫」は、
お酌をするときに、助重に耳打ちをして狙われていることを知らせます。
そこで助重、酒を飲むふりをして、すきを見て外へ出る。
と、そこにつないであったのが「鹿毛」という暴れ馬。
その鹿毛に乗ってひた走り、藤沢の道場(現在の遊行寺)へ駆け込み、
上人に助けられることになります。

助重の家人と、お酌をした遊女たちは毒殺され、川へ流される。
が、てる姫は酒を口にしなかったので、流された後、川下からはい上がり助かります。

一命をとりとめた助重は、その後、三河へ。
そうして後日、あらためて相模へと戻って盗賊たちを討ち殺し、
助けてくれたてる姫を探し出して褒美を与えたということです。

ここには説経の物語となったその原形があるわけですが、
史実そのものというわけではないでしょう。
史実から物語化していったその萌芽が見られると思われます。

その「鎌倉大草紙」をもとに書かれたのが、「小栗実記」
が、こちらでは、小栗判官と家臣11人が毒殺され、
それを上人が解毒の術で、すぐによみがえらせることになっています。

そしてこの「小栗実記」のストーリーは、前半を「鎌倉大草紙」に拠り、
後半の、照手姫の苦難のくだりや、
小栗が熊野の湯で蘇生するところなどは説経に拠っているようです。
ただ、小栗は毒殺されるのではなく、ふつうに病気にかかって瀕死となります。(3)

また、「鎌倉大草紙」と「小栗実記」では主人公が小栗小次郎助重なのに対し、
「小栗略縁起」では、自刃したはずの父、小栗満重が主人公です。
小栗城落城のとき、満重はからくも生き延びて10人の家臣とともに脱出し、
三河の国をたよって落ち延びたというわけです。

f0223055_9345960.gif


歴史の事実が人から人へ伝わるうち、
話に尾ヒレがつき、背ビレがつき、物語がさまざまに生まれていったのでしょう。
それが時代の流行に合わせるように、
説経、人形芝居、歌舞伎というメディアに合わせて、さらに色を変えていった。
そして絵解きとなった。

では、どんな人々が語り伝え、物語にしていったのでしょうか?

ところで花應院のご住職が話をして下さった中に、
③「瞽女が淵」という場所が話題にのぼりました。
花應院の近所にあるというのです。
そこで、訪ねてみることにしたのでした。

f0223055_10144597.gif





《引用・参考文献》
(1)近松門左衛門「当流小栗判官」〜近松全集刊行会編「近松全集・第14巻」岩波書店・所収
(2)「鎌倉大草紙」〜近藤圭造編集兼校訂「改定史籍集覧・第5冊通記類」(=明治33年版の近藤瓶城編『史籍集覧』を改定したもの)臨川書店・所収
(3)畠山泰全「小栗実記」〜京都大学文学部国語学国文学研究会室編「京都大学蔵大惣本稀書集成・第5巻軍記」臨川書店・所収
(4)小沢昭一取材・構成「ドキュメント・日本の放浪芸〜小沢昭一が訪ねた道の芸・街の芸」CD7枚組/ビクターエンタテイメント

[PR]
いにしえより語られし物語


神奈川は藤沢の、花應院に伝わりますこの「小栗判官照手姫絵巻」、
ご住職が語って下されし文言(もんごん)を、
一言一句、ここへ記したいのはやまやまなれど、
なにせ筆者のポンコツな記憶力。
そこで手元にあります東洋文庫「説経節」(御物絵巻「をくり」を底本とする)(1)
を横目で確かめつつ、
ここへしばし、つづってみたいと思います。
固有名詞などのもろもろも、違っていたならご容赦を。

※参照:「小栗照手に関する全国伝承マップ」(googleマップ)

f0223055_9472498.gif


そもそもこの物語の発端は、京の都におわします二条大納言兼家さま。
子どもの出来ないことを嘆いて、鞍馬山にお参りして授かったのが、幼名・有若、
頭脳明晰、成績優秀、すくすくと成人し、常陸小栗どのとお成りある。

ところがこの小栗、気に入る女がおらぬと嫁を嫌って独身を通しております。
あるとき、鞍馬に詣でる途中、
一興にと横笛を吹いていたところ、近くの深泥(みぞろ)ヶ池にすむ大蛇、
その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身。
小栗とちぎりを結びます。
f0223055_855897.jpg

それが都じゅうのうわさとなって、父の兼家さまは大激怒。
小栗は今の茨城、常陸の国へと飛ばされます。
そこで官職を与えられ、判官(はんがん)とお成りある。

さてそこへ、化粧品や薬をセールスして歩く小間物商人、
後藤左衛門が訪ねてまいります。
彼が、評判の美人の話をすると、小栗は、その姿を目にしていないのに一目惚れ。
その美人こそ、武蔵・相模(現・神奈川県)の国の郡代、横山大膳の娘、照手姫、
後藤左衛門は橋渡しとなって、小栗のラブレターを姫に届けます。

下の絵は、その文を姫が読んでいるところ。
撮影の腕が下手くそで、照明が映り込んでしまってスイマセン。
f0223055_8552729.jpg

照手姫も、その文をすっかり気に入り、二人は相思相愛。
ところが、姫の父親の横山大膳は、この結婚に猛反対。
しかし、そのことは表に出さず、三男の三郎がはかりごとを巡らし、
ひそかに小栗を殺そうと企てます。

そんなことともつゆ知らず、十人の家臣と横山家を訪れた小栗。
そこで横山大膳は、馬の鬼鹿毛(おにかげ)に乗ってみよと誘います。
この鬼鹿毛は、小山ほどもあるという暴れ馬。
人間を秣(まぐさ)代わりに食べている人喰い馬で、
これに殺させようというわけです。
ところがこの暴れ馬、今にも小栗を踏みつぶすかと思いきや、
小栗に言葉をかけられた途端、すっかりおとなしく従順となる。
小栗を背中に乗せて、碁盤の上に乗るという曲芸までやってのける。
f0223055_8554829.jpg

腕ではかなわないと踏んだ横山大膳は、三男の三郎に言われるまま、
宴会の酒に毒を盛り、小栗と家臣十人を毒殺します。

これでは都の聞こえが悪いと考えた横山大膳、わが娘照手姫まで殺そうとする。
そこで家来の鬼王・鬼次兄弟に、姫を川に沈めよと言いつけます。
牢輿(ろうごし)という罪人を入れる乗り物に姫を閉じ込め、舟に乗せ、
相模川のおりからが淵へ。

ところが兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。
沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。
かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。
f0223055_856610.jpg

そうして流れ着いたところが、海の浜。
その浜「ゆきとせが浦」は、現在の横浜市金沢区野島あたりかといいます。

発見した漁師たちは不審に思い、不漁続きはこいつのせいだと打ち叩こうとする。
そこへ割って入ったのが漁民のリーダーである村君の太夫(たゆう)。
太夫は姫を助けて家へ連れ帰ります。
f0223055_8563044.jpg

しかし、それが気にくわないのが太夫の奥さん。
照手姫の白い美肌も気にくわない。
そこで太夫が仕事で留守のあいだ、姫の雪の肌を黒くすすけさせてやろうと、
松葉をくべて煙責め。
けれども、姫は無事に過ごします。
というのも、姫のかげに寄り添っている観音さまのおかげなのでした。
(照手は日光山の申し子ゆえ、本尊の千手観音が護ってくださったといいます。)
f0223055_856507.jpg

そこでいよいいよ腹を立てた太夫の奥さん、太夫に内緒で、
姫を六浦が浦(現・横浜市金沢区六浦あたり)の人買い商人に売ってしまいます。

姫はその身を売られては買われ、流れ流れてたどり着いたのは、
美濃の国は青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓)の宿屋でした。

その美貌から遊女にさせられそうになるところを病気と偽って、下働き。
今は亡き夫の故国(常陸の国)にちなんで、「常陸小萩」と名を変える。
井戸の水を汲み上げて運んでは、お客の世話やら馬の世話やら、
下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。
f0223055_857671.jpg

さてところで、もう一方の主人公、夫の小栗がどうしたかといえば……。
この場面は、こちらの絵巻には描かれていませんが、
毒殺された彼は十人の家臣とともに地獄へ下ります。

閻魔大王が裁いて言うには、
「小栗を悪修羅道へ落とすべし、
家臣には罪がないゆえに、娑婆へ生き返らせるべし」。
すると家臣たち、「われらはどうなっても、主の小栗を助けてほしい」と懇願します。
そのこころに感じ入った大王は、十一人を生き返らせようとする。

ところが、小栗は土葬で、家臣は火葬。
家臣は生き返ろうにも体がない。
そこで十人は、そのまま地獄に残り、閻魔大王を補佐する十王となって
末世の衆生のために今もはたらいている──と、説経では伝えています。
地獄の十王は、実は小栗判官の家臣だったんですね。

閻魔大王は、「藤沢の御上人」へと手紙を書き、小栗に付してよみがえらせる。
すると、上野(うわの)が原の小栗塚、かっぱと卒塔婆が倒れたかと思うと、
塚が四方に割れて開き、カラスが群れて騒ぎ立てる。

ちょうど近くを通りかかった藤沢の御上人、何事かとみれば、
そこに変わり果てた小栗の姿を見つけます。
(このくだり、ご住職が語ってくれた話では、「小栗略縁起」と同様に、
上人の夢枕に閻魔大王が立ってメッセージを伝えたということになっています。)

「藤沢の御上人」とは、
藤沢市にある時宗の総本山・遊行寺(清浄光寺)で、代々「遊行上人」と称される法主(ほっす)。
大空上人とも、呑海上人ともいわれます。
また、相模原市にある同じく時宗の当麻道場(無量光寺)の上人(明堂智光)とも混同され、
説経では、「明堂聖(ひじり)」とも言っています。

さて、小栗はといえば、髪はぼうぼう、手足は糸より細く、
腹には毬(まり)をくくりつけたよう。
目も見えず、耳も聞こえず、立つこともできず、あちらこちらを這い回る。
姿が、餓鬼に似ていることから「餓鬼阿弥陀仏(餓鬼阿弥)」と名付けられます。

下は、「餓鬼草紙」の中に描かれた栄養失調の“餓鬼”の姿。
f0223055_1644293.jpg

閻魔大王が御上人宛に書いてよこした文を読めば、
小栗は、熊野の湯の峯の温泉につからせれば、蘇生できるとある。
そこで、御上人、餓鬼阿弥(小栗)を土車に乗せ、土車には綱を付け、
「この者を、一引き引いたは、千僧供養、
二引き引いたは、万僧供養」
と書いた看板を首にぶら下げます。

つまり「供養になるので、どなたか引っぱって車を動かして下さい」
ということですね。

土車とは、土を入れて運ぶ車のようですが、
多くの部分を土でこしらえた車ではないかと折口信夫は言っています(2)
当時は、病気や障害で歩けない人が乞食となり、
こうした車に乗るということがあったようです。
また、癩病の人が乗ることが多かった。
だから後に、「餓鬼阿弥(あみ)」が「餓鬼やみ」と言われ、
「餓鬼病み=癩病」というイメージが出来てしまったということです。

供養を想う善意の人々の手に引かれ引かれつつ、少しずつ、少しずつ、
東海道を西へ上り、熊野を目指す道行きが語られます。

そして青墓の宿へと着いたとき、今は常陸小萩となった照手姫が目をとめる。
餓鬼阿弥が、まさか自分の夫の変わり果てた姿とは気づかぬまま、
しかし気になってしかたがない。
亡き夫の供養のため、家臣10人の供養のためと、
渋る宿の主人に何とか5日間の休暇をもらい、車を引く手伝いをいたします。

女性が付き添うとなれば余計な詮索も受けたくないと、
わざわざ古い烏帽子をかぶって巫女に扮し、もの狂いのフリをして、
引っぱる子どもたちを囃し立てているのが下の絵です。
こちらの絵の餓鬼阿弥は、肉付きがいいですね。病人のイメージでしょうか。
f0223055_8572271.jpg

御物絵巻「をくり」の方では、いかにも「餓鬼阿弥」というネーミングにふさわしい姿で描かれています。
下の絵は、近江の国は逢坂関の東にある関寺まで送り届けた常陸小萩が、またの再会を約束して、
餓鬼阿弥への一文をしたためているところ。
5日の休暇はあっという間で、この後、常陸小萩は、青墓の宿へと急いで引き返します。
f0223055_17025368.jpg

一方、餓鬼阿弥の土車は、人々の善意に引かれるまま、関寺からさらに西へと進み、京都、大阪へ。
そして大阪から熊野へ。
彼が通ったその道は、物語にちなんで「小栗街道」と呼ばれます。
ところがいよいよ熊野へとやって来たものの、峻厳な山道を土車でゆくことは出来ません。
そこで屈強の山伏たちにかついでもらい、とうとう湯の峰の温泉へとたどり着いたのでした。
そうして温泉に浸かること49日。
7日目には両の目が開き、14日目には耳聞こえ、21日目にはものが言えるようになる。
薬湯の効能はもとより、熊野権現のご加護もあったのでしょう、49日目になると、
6尺の偉丈夫、元の小栗へと復活を果たします。

蘇生した彼が最初に向かったのは、実家の京都、二条大納言兼家の屋敷。
しかし、小栗と名乗られても、ゾンビではあるまいし、
まさか死んだはずの息子が訪ねてきたとは信じられず、
「失礼だが、試させてもらうぞ」と兼家は、
障子越しに小栗をめがけて弓をひき、ひょうとぞ放つ。

すると、二条家に代々伝わる「矢取りの術」の秘伝、
幼い頃より教えられ修練してきたその技で、
小栗、一の矢を右手ではったとつかむ。
続いて放たれた二の矢を左手ではったとつかむ。
さらに飛んでくる三の矢を、歯でがちとかみしめ受けとめる。
f0223055_8574035.jpg

この「判官矢取りの段」は、物語のひとつの見せ場ですね。

この技が出来るのは小栗しかおらぬと、兼家は大喜びして勘当を解き、
御門(みかど)からも領地を賜ります。
そして、青墓の宿で働く常陸小萩──照手姫と再会。
横山大膳を討とうと取り囲みますが、姫の言葉で思いとどまり許します。
が、計画の首謀者である三男の三郎は罰して死罪に。

こちらの絵では、三郎に切腹を命じているところでしょうか。
f0223055_858255.jpg

かくして、京都、常陸、藤沢、青墓、熊野と、各地を結ぶ物語は
大団円を迎えます。
そして物語は、各地に伝説を残しました。

次回、藤沢市周辺の伝説を歩いてみます。

f0223055_23402738.gif




《参考・引用文献》
(1)荒木繁・山本吉左右編注「小栗判官」「説経節」東洋文庫/平凡社・所収
(2)折口信夫「小栗外伝」「古代研究Ⅰー祭りの発生」中公クラシックス・所収

[PR]
流浪の人々が育てた物語


「おぐり」ときいて、パッと頭に思い浮かぶのは、
今なら、キラリとこぼれる白い歯もまぶしい俳優・小栗旬さんでしょうか。
競馬ファンならオグリキャップ、
推理小説ファンなら小栗虫太郎の名前を連想するかもしれません。

が、昔は「おぐり」といえば小栗判官でした。

小栗判官の物語は、歌舞伎の演目にもなってヒットし、
明治の初め頃まで演じられたそうです。
ところが、それ以降は演じられることなく、年月が過ぎます。

大正15年、民俗学者・折口信夫(しのぶ)は、
「世の中は推し移って、小栗とも、照手とも、耳にすることがなくなった。」
と書いています(1)
明治20年生まれである彼が子どもの頃には、
大阪・道頓堀の芝居の看板を目にしたり、祭文語りで耳にしていたといいますが、
大正の頃には遠い“ナツメロ”的な話だったのでしょう。

とはいえ、江戸時代には奈良絵本になったり、絵巻になったり、
昭和10年代には講談社の絵本になったりしているそうなので、
荒唐無稽なお伽噺として親しまれたり、
あるいはビジュアル化もしやすい物語だったのかもしれません。

絵巻の「をくり(小栗判官絵巻)」は、日露戦争の時代、明治天皇が広島に滞在した折り、
備前の大名、池田家から借りたのを天皇が気に入って、
そのまま召し上げてしまったのだとか(2)
それが献上ということになり、今は宮内庁に保管されています。
平安の昔、宮中のお姫さまがお供の女房に詞書を読ませて冊子や絵巻を楽しんだように
明治天皇も、侍従に詞書を読ませて、「をくり」絵巻を楽しんだんだそうですね。
いわば、絵解きです。
天皇は絵解きのファンであらせられた。

歌舞伎ではその後、昭和49年、
武智鉄二企画による「小栗判官車街道」が約70年ぶりに復活。
さらに、三代目市川猿之助さんによる「当世流小栗判官」、
スーパー歌舞伎「オグリ」などが注目を集め、
近藤ようこさんがマンガで取り上げる(「説経小栗判官」)など、
最近では「小栗」とか「照手」とか、ときどき耳にするようにはなりました。

そんな歌舞伎となる以前、江戸の元禄の頃に、
近松門左衛門が、人形浄瑠璃を書いています。
その書き下ろした浄瑠璃のタイトルは、「当流小栗判官」、あるいは「今様小栗判官」
(初演は1698年)。
「当流」「今様」。──つまり、近松が暮らしていた
元禄時代当時の「ナウ」な流儀でアレンジされたものでした。
「当流」ではない、それ以前の昔から伝わっていた「小栗判官」の物語があって、
それを下敷きにしているとうわけです。

それは、主に説経節を主とする語り物。
説経本としては、正本「おぐり判官」(江戸時代前期の1675年刊)などなどが伝わっていますが、
それ以前、正本としてまとめられる前に、物語を語り伝えた人々の歴史がありました。

中世、国から国を巡り歩き、勧進をしたり、唱導や芸を生業としていた人々。
説経師はもとより、
念仏聖(ひじり)や高野聖、善光寺聖、六部ともいわれた廻国聖。
御師(おし)や、山伏、歩き巫女。
盲僧に、昔は盲御前といわれていた瞽女(ごぜ)。
こうした名もなき下級宗教家や芸能者が、「おぐり」の物語を語り伝え、発展させたらしいのです。
その中には、折口信夫が幼い頃耳にしたという祭文語りもいたでしょう。
そこには熊野の修験者や比丘尼の姿もありました。

そしてどうやら、絵解きをして歩いた熊野比丘尼の姿も見え隠れしています。

f0223055_1294159.gif


さて、この「おぐり」の物語の主要な舞台となった地である神奈川県・藤沢に
花應(応)院というお寺があって、
そこに、「小栗判官照手姫縁起絵巻」が伝わっています。
毎年2回、1月16日と8月16日の閻魔祭に開帳されていて、
先日、その1月16日に絵解きの会があって、行ってきました。

これまでは史跡保存会の方が絵解きをされていたそうなのですが、
今回はご高齢のため、かなわず、
代わって花應院のご住職自らが口演して下さったのでした。

花應院に伝わる絵巻。
(※撮影の腕が下手すぎてスイマセン。
額のガラスに、部屋の照明の光が映り込んでしまいました。)
f0223055_1344323.jpg

絵巻は一般に、横長の巻物に描かれるものですが、
こちらのように縦に連ねて掛け軸絵のかたちにすることもあります。

また、当初は横長の巻物として描かれたものを、後に切断して、
掛け軸絵として装幀し直すこともあります。
が、こちらはどうやら最初から1枚の絵として描かれたもののようです。

f0223055_1294159.gif


18年前、「小栗」の絵解きをやはり、ここ花應院でご覧になった方が、
往事のようすをブログに書いていらっしゃいます。

「穴あき日記〜奈良漬のブログ」〜「小栗判官一代記」

絵解きの光景は18年前とあまり変わらないのですが、
今年2012年ヴァージョンでは、口演されるご住職はパソコンの前に座り、
取り込んだ絵巻の映像をプロジェクターのスクリーンで見せておられました。
絵を指し示すのは、絵解きで使われる棒の「おはねざし」ではなく、
マウスというわけです。

最近は、iPadで紙芝居をされる方もいらっしゃいますし、
テクノロジーを使ったこうした試みは増えていくでしょう。

ただ、このスタイルだと、物語を味わうというよりは、
解説の講義を聴講するような気分ではありました。

しかし、口演されたご住職は、関連する史料や、近くの史跡の写真など
さまざまな映像も駆使して、おもしろわかりやすく語ってくれたのでした。

f0223055_1294159.gif


そして次に場所を移して、
これも花應院に伝わる「地獄変相十王図」の絵解き。

小栗判官の物語の中で、小栗は10人の家臣とともに命を奪われ、
地獄の閻魔(えんま)様のもとへとやって来ます。
その閻魔大王とともに亡者を裁く裁判官の役割をつとめているのが、
泰山王や秦広王、平等王といった10人の王たち──十王です。

計11幅の掛け軸絵には、
十王それぞれの肖像と、地獄の様(さま)が描かれています。
f0223055_1339230.jpg
f0223055_13383479.jpg

こちらの絵解きは、ご住職も演じ慣れているのか、
悲惨な絵柄ではありますが、おもしろ楽しく語って下さいました。

わたしたちおとなの聴衆が集まる前の午前中、
近所の幼稚園の子どもたちが訪れて、やはり絵解きを聴いたそうです。
どの子も、目をまるくして神妙に聴き入っていたのだとか。

わたしたちおとなも、その心持ちが想像できました。
ときに笑いを誘われながら、ときに身につまされながら、
たぶん目をまるくして神妙に聴き入っていたと思います。

f0223055_1294159.gif


そんな地獄へと墜ちた小栗でしたが、
10人の家臣たちの主人想いの心に感じ入った閻魔大王のはからいで、
この世へと戻ってまいります。
その閻魔大王の恩に感謝して小栗が建てたといわれているのが、
ここ花應院の、ご近所にあります法王院。
その閻魔堂に代々、閻魔大王の木像を伝えておりました。

ところが、1840年といいますから、江戸時代は天保の頃、法王院が火事にあい、
閻魔堂だけが残される。
さらに1881年(明治14年)、その閻魔堂まで火事にあう。

「えんま様が一大事っ!」とばかりに駆けつけた村人が、
まさに火事場の馬鹿ぢから、1mはあろうかという重いご像をかつぎだし、
あわやというところを救い出す。
そうしてこの花應院へと、命からがら運び込まれます。
地獄の業火も恐れぬ閻魔様ですが、
いかめしげなお顔の中にも、ほっとひと息安堵の色。

今はここ花應院を住居と定められ、そのご紅顔もご健在、
21世紀のこの世の善悪を見極めんと、はたとにらみつけておられるのが、下の写真です。
f0223055_13592742.jpg

さてさて、かような次第で地獄からこの世へとよみがえったは、小栗判官。
が、しかし、彼を待っていたのは、さらなる生き地獄でありました。
その地獄とは、いかなるものであったのか、
次回、小栗と照手の物語をかんたんに振り返ってまいります。チョーン!

f0223055_1592260.gif






《参考・引用文献》
(1)折口信夫「餓鬼阿弥蘇生譚」「古代研究Ⅰー祭りの発生」中公クラシックス・所収
(2)辻惟雄・佐野みどり「対談ー絵巻の遊戯性と楽しみ方ー」〜若杉準治編「絵巻物の鑑賞基礎知識」至文堂・所収
[PR]
摩耶夫人、降臨


沙羅双樹の樹上、空にたなびく雲に乗り、
天女に付き添われて降りて来るのが、
ブッダの生母のマーヤー(摩耶)です。
一般に、摩耶(まや)夫人(ぶにん、ふじん)と呼ばれるようです。

彼女はブッダを生んだ後、7日後に亡くなりました。
その後、忉利天(とうりてん=または、三十三天)という、
神々が住む天上の世界に生まれ変わったといいます。

そこへ、ブッダの弟子であるアヌルッダ(阿那律)がブッダの入滅を知らせにきたので、
彼の案内で、ここクシナガラへ降りてきたのでした。
f0223055_14455142.jpg

マーヤーの死後、ブッダは、
マーヤーの妹であるマハー・プラジャーパティー(摩訶波闍波提:まかはじゃはだい)に
養われて育ちます。

この養母であり、義母であるマハー・プラジャバティーは、後年、
ブッダの妻であるヤソーダラー(耶輸陀羅)らとともに出家します。
比丘尼となった彼女は、ブッダ入滅のときには、かなりな高齢。
一説には彼女は、ブッダの命脈のそう長くないことを知り、
その終焉に立ち会う悲しみを避けて、
ブッダが入滅する3ヶ月前に入寂したと伝えられています。
その説にしたがえば、すでに死去していて「涅槃図」には描かれていないことになります。

ちなみに、同じく比丘尼となっていたヤソーダラーはどうしていたのでしょうか。
夫が死の床にあり息子のラーフラがその枕元にいたとき、
彼女はどんな状況にいたのか気になったのですが、筆者の調べたかぎりではわかりませんでした。

f0223055_22235634.gif


ところで、マーヤーに危篤を知らせ、案内しているのはアヌルッダ(阿那律尊者)です。
また、前回触れましたが、アーナンダ(阿難尊者)を介抱し、励ましているのも
アヌルッダ(阿那律尊者)です。
つまり、1人の人物が、同じ絵の中で、複数描かれているわけです。
f0223055_1352332.jpg

これは、絵巻などでよく使われる「異時同図法」というやつですね。

時間が異なる場面は、
絵本や紙芝居であれば、複数のページや場面に割りふって描きます。
マンガであれば、複数のコマに分割して描きます。
絵巻でも、基本的には複数の場面に分割して描きますが、
同じ場面の絵の中に描きこむことがある。
だから同じ人物が、「分身の術」のように絵の中に複数描かれることになります。

掛け軸絵のように1枚の絵の中でこれを使うと、
不自然に感じられることがあるかもしれません。
しかし、「絵解き」として語る場合には、
「異時同図法」を多用しても、まったく違和感がありません。

おはねざしでその場面の部分の絵を指し示して注目を促すと、
それが、いわばズームアップのはたらきをします。
そうして物語の展開や時間の推移を語りながら、
次々に場面を指していくことで、コマ割りと同じような表現になるんですね。

もっとも、この「大涅槃図」では、2人の服装も顔つきも異なっているようなので、
絵の作者は、マーヤーを案内した人物とアーナンダを励ました人物を
別人として描いているかもしれません。
マーヤーを案内したのはアヌルッダ(阿那律尊者)ではなく、
やはり弟子のひとりのウパーリ(優婆離)であるという話も、中国・敦煌の写本などにあるそうで、
そうした伝承の違いがあるものと思われます。

f0223055_22235634.gif

さて、そして摩耶夫人(マーヤー)の物語が語られます。
先にも触れた薬を入れた包み袋の話です。

忉利天で暮らしていた摩耶夫人のもとに、ブッダ入滅が知らされ、
何とかして救おうと、霊薬の入った錦の薬袋をもって駆けつけたものの、
鳥たちがじゃまをして、地上へ降り立つことができない。

そこで「エイッ」とばかりに投げ下ろしましたが、
それが運命だったのか、薬袋は沙羅双樹の枝に引っかかってしまい、
ブッダはついにその薬を口にすることがかなわなかったということです。
f0223055_13555114.jpg

この袋包みには、もうひとつの説があるそうです。

死を悟ったブッダは、最後にアーナンダ(阿難尊者)に教えを説き、
自分の唯一の持ち物である錫杖(杖)と、托鉢のための鉢を包んだ袋を
アーナンダに託します。
それが、サーラの樹の枝に引っ掛けられているというのです。

手の届かないような高さに掛けられていることを考えれば、
この絵では、前者の説で描かれているといえます。
しかし、袋包みと錫杖がセットになっていることを考えれば、
後者の説で描かれているといえます。
これは、どちらでも解釈できるように描かれているのではないでしょうか。

ひとつの絵から、いろいろな解釈や物語を紡ぎ出し、
いろいろな想像を誘ってくれるのも、「絵解き」の魅力のひとつだと思います。

f0223055_22235634.gif


そうしてまた、摩耶夫人のもうひとつの物語が語られました。

忉利天で、なぜか悪夢を見続けていた摩耶夫人。
ブッダの入滅を予感します。
そうして、はたしてアヌルッダ(阿那律)が迎えにくる。
いったんは気絶したものの、気をとり直し、
「生まれて7日であちらの世を去り、
この手で抱きしめてあげられなかったことが心残り、
わが息子を抱きしめてあげたい」
と、クシナガラへ向かうのでした。
f0223055_1352526.jpg


かつて、ブッダが、生きとし生けるものすべてに対して慈悲心を持ちなさいと法を説いたとき、
そのたとえとして述べられていたのは、
「母が己(おの)が独り子(ひとりご)を命を賭けて護るように」
という言葉でした(1)
母親が命を賭けて子どもを護るように、他の人や生きものを慈しみなさいというのです。

まさしく、この場面で語られているのは、
母親が子どもを命を賭けて護ろうとする、美しく感動的な姿です。

しかしながら、ここでもまた、わたしたちの耳には、再び、
「論理的追求を突き詰めるよりも情緒的な救済の方に直行する」ような日本人的な仏教解釈があるのではないか、
という池上洵一さんの言葉が聞こえてくるように思います(2)

父性的な論理よりも母性的な情緒を好む傾向が、わたしたち日本人にはあって、
それが、摩耶夫人の物語をいくつも語り伝えているのかもしれません。
それは美しいものですが、そこには危うさをはらんでいるとも言えます。

慈悲の愛は尊いものです。
が、しかし執着に過ぎれば、盲目となる。
「子への思いに迷う」こととなる。
愛するものを失った時には執着から離れられず、
時には憎しみとなったり、絶望となったりもする。

駆けつけた摩耶夫人。
が、その時すでにブッダは事切れたあとで、棺の中でした。
その安置された金の棺にすがって、夫人が泣き崩れたときのようすが、
「摩訶摩耶経」という経典に書かれていて、
それが「今昔物語」にも綴られています(3)

それによれば、摩耶夫人の悲しみようは激しく、
遺品の衣と錫杖を右手に持って地面に投げたので、
ガッシャーンとでも響いたのでしょうか、大きな山が崩れるような音がしたといいます。
半狂乱と言ってもいいと思います。

すると、突如、すでに入滅したはずのブッダがその神通力をもって、
棺のふたを開け、身を起こして立ち上がる。
そうして、千の光を放ちながら合掌して夫人に向かい、
嘆き悲しみたまうことなかれ、すべてのことは無常なのだからと
真理を説いたというのです。

生まれたものは必ず滅ぶもの。もろもろのすべては無常である。
それを覆すことはできないものなのだ。
それはこの「涅槃図」の物語の中でブッダがくりかえし語っていたことであり、
入滅の際に弟子たちへ語った最後の言葉でもあります。
その師の言葉をもってアヌルッダは、アーナンダや他の弟子たちを励ましていました。

すると、その言葉を聞いた摩耶夫人の顔が、蓮の花のように和らいでいく。
それを確かめて安心したのか、
ブッダは、再び棺の中に身を隠し、棺のふたは元のようにしまったということです。
この場面は、「釈迦金棺出現図」という絵のモチーフとなっているのだそうです。

愛情と、愛著(執着する愛情)の違いは何なのか、その境がどこにあるのか、
筆者にはなかなかわかりません。
しかし、おそらく摩耶夫人の愛情が、愛著へと変わろうとしていた。
「子への思い」が、「子を思うがゆえの迷い」に陥ろうとしていたのでしょう。
そのとき、ブッダが涅槃の中から出現する。

そうして彼が母親にかけたのは、慰めの言葉ではありませんでした。
ではなく、理を説くことによって、夫人の迷いが消えていく。
救われることになる。

ここには、救済を得ようとする情緒的な母性と、
真理を求めようとする論理的な父性とが結合したかたちがあります。
そしてここにおいて、物語が完結を迎えるように、筆者には思われます。

f0223055_22235634.gif


もしも人の死にざまが、その人の生きざまを写すとするならば、
ブッダの「涅槃」を描いたこの絵と物語は、
ブッダの生きた様(さま)を語っているのでしょう。
そしてそれを語る「絵解き」もまた。

「涅槃(ニルヴァーナ)」とは、
もともとは「火を吹き消す」という意味だそうですね。
そこから、煩悩を吹き消して、安らぎを得る悟りの意味となる。
そこから、命の火を吹き消す意味にもなった。

かくてブッダの命の火は吹き消され、
物語を語り継ぐための燭台の火も吹き消されることとなります。
が、「絵解き」を体験した筆者の胸には、
ほっこり、小さな火が灯っているようなのでした。








f0223055_9301752.gifただ単に「涅槃図」の絵をながめたときには、何が描かれているかもわからず、
大きいなあとか、ゴチャゴチャ描き込んであるなあとしか、正直、思いませんでした。
しかし、「絵解き」を体験した後で、改めて「涅槃図」の絵をながめたとき、
感じ方も、おもしろさも、印象が180°変わりました。
構成にしろ筆致にしろ、実によく描かれているものだという感動になりました。

また、ブッダという人への興味も変わってきたようです。
昔は、こうした「絵解き」を楽しみながら、仏教に親しんだんでしょうね。

いやあー、おそるべし、絵解き。

こちら常保寺の「大涅槃図」は、2月15日まで公開しているそうです。
常保寺のHPは、こちら

小林玲子さんは、この2月、長野や富山での口演を予定されているようです。
くわしくは、こちらのブログへ。

また、関東近辺では、2月15日(13時30分より)、
東京・西多摩郡瑞穂町の圓福寺で口演されるそうです。
圓福寺のHPは、こちら



《引用・参考文献》
(1)中村元訳「ブッダのことば 〜スッタニパータ〜」岩波文庫
(2)池上洵一「『今昔物語集』を読む(15)」神戸大学文学部・大学院人文学研究科同窓会「文窓会」HP
(3)「今昔物語集」巻三第33話「仏入涅槃給後、摩耶夫人下給語」〜山田孝雄・山田忠雄・山田秀雄・山田俊雄校注「今昔物語集・一」(日本古典文学大系22)岩波書店



[PR]
そのとき、ブッダの弟子たちは


さて、ブッダの弟子たちの物語が語られます。

ブッダの床のすぐ近く、画面の中央あたりに倒れているのが、
弟子のアーナンダ(阿難:あなん)です。
師を喪うという悲しみの衝撃に直面し、気を失っています。
f0223055_16461948.jpg

何とか意識を取り戻させようと、水をふりかけているのが、
同じ弟子のアヌルッダ(阿那律:あなりつ)です。

やっと目を覚ましたアーナンダに、アヌルッダは言ったそうです。

「アーナンダよ。悲しんではいけない。嘆いてはいけない。
尊師はあらかじめ、おっしゃっていたではないか。
すべてのことは無常であり、愛する人とも別れなければならないときがくると。
おまえには、今、しなければならないことがあるのではないか?」

それを聞いたアーナンダは、はっとします。

アーナンダは、ブッダの近くにつかえて、その言葉を誰よりも聞いた人でした。
そのため、弟子の中では、
いちばん多く聞いた──「多聞(たもん)第一」といわれています。
これからブッダ亡き後、教えを守り、人々に伝え、後世に伝えるためには、
ブッダの言葉を文字に書きとめることが必要です。
その仕事のいちばんの適任者は、「多聞第一」のアーナンダをおいて他にはいないのです。

そこでアーナンダは心を落ち着け、横たわったブッダにたずねます。
「これから、尊師のお言葉を書き残そうと思うのですが、
最初の書き出しは、どう書いたらよいでしょう?」
すると、ブッダは答えたそうです。

「アーナンダよ。まず『如是我聞(にょぜがもん)』と書きなさい」

「如是我聞」──「わたしは、このように聞いた」という意味です。
「わたし」とは、アーナンダのこと。
アーナンダが、「わたしは、お釈迦さまの言葉をこのように聞きましたよ」といって
書きとめたものが、後世の今に残るお経なんですね。
そうして、一般に、お経の最初は「如是我聞」で始まるのだということです。


その後、アーナンダは、ラージャガハの郊外で、
「結集(けつじゅう)」という会議を開き、
他の弟子たちと記憶を確かめ合いながら、相談をし合いながら、お経を編纂したそうです。

そのお経を求めて、中国の玄奘(三蔵法師)たちが、過酷な砂漠やヒマラヤ山脈を越えて
はるばるインド(天竺)を訪ねたり(「西遊記」)、
日本では、空海(弘法大師)たちが海を越えて中国に渡ったりしたんですね。

もっとも、アーナンダの没後に書かれたお経も、
「如是我聞」で始まるという形式を踏襲したりしているそうです。

f0223055_8571915.gif


さて、絵の中、ブッダを前にして膝に顔を伏し、
体をふるわせているように見えるのは、ラーフラ(羅睺羅:らごら)です。
彼は、ブッダの長男。
たった一人の子どもです。
f0223055_1041070.jpg

その出生については、いろいろな説があるのですが、
一説には、ラーフラが生まれたその夜、
または、生まれてから7日後、ブッダは出家したといわれています。

幼い子と、母親ヤソーダラー(耶輪陀羅:やしゅだら)を残して出て行った
ブッダの心境はいかばかりだったか。
また、成長して後、自分の父親がブッダであると知った
ラーフラの心境はいかばかりだったか。

──わたしたちにはわかりません。

ただ、少年だったラーフラが、母親(一説には周囲の者たち)に促され、
ブッダに財産の相続を認めてくれるよう、頼みにいったところ、
ブッダはその場では何も答えなかった、と伝えられています。

物質的な財産ではなく、
法の真理こそがわが子に残してあげられるものと考えたブッダは、
弟子のサーリプッタ(舎利弗:しゃりほつ)に託して、
ラーフラを出家に導きます。

そうしてブッダの弟子となったラーフラは、
年若い頃には慢心があって、サーリプッタらの兄弟子を軽んじ、
ブッダに叱られたこともあったようです(1)
が、改心して後には尊敬の念を忘れることなく、また精進して、後世に
「密行第一(細かいことも違わず、綿密な修行にかけてはいちばんである)」
あるいは
「学習第一(よく学ぶことにかけてはいちばんである)」
と謳われるようになりました。

そのラーフラが今、師であり、父であるブッダの死を目の前にしているのです。
f0223055_8505058.jpg

「平安時代に書かれた『今昔物語』には、こんな話があるそうです……。」
と言いおいて、「絵解き」では、「今昔物語」に取り上げられている物語が語られました。

ブッダ入滅の悲しみに耐えきれず、ラーフラはその場を離れ、
神通力で別の世界へ飛び去ります。
が、その世界の仏にさとされて、元の世界へ戻ってくる。
すると、待っていたブッダは、その手を握りしめて、言ったそうです。
f0223055_1248520.jpg

「ラーフラよ。おまえは、わたしの子だ。
十方の仏たちよ。
ラーフラを護りたまえ」
(※「今昔物語」の原文では「哀愍(あいみん)したまえ」と言っています。
「哀愍」とは、悲しみ、あわれむことだそうです。)

「今昔物語」では、この言葉が、ブッダの最後の言葉とされています。

小林玲子さんは、

「このようなお話は、実はお経にはありません。
わたしたち日本人の先祖は、
お釈迦さまも羅睺羅尊者(ラーフラ)も、われわれと同じような
親子の情を持っていたに違いないと思ったのでしょう。」


と、このエピソードをしめくくります。

f0223055_8571915.gif


「今昔物語」のこの物語のもともとの出典は経典ですが、
経典から派生した説話に拠るところが多く、経典とは違うところがあるようです。
では、もともとの経典の話はどんなものだったのか。

ブッダ入滅のとき、ラーフラ(羅睺羅)は、その場から離れます。
沙羅双樹の林を出て東北に向かい、涙にむせびますが、思い直して帰ってくる。
また別の話では、別世界に行ってそこの仏にさとされ、
さらに上方の別世界に逃げてそこの仏にさとされて帰ってきます。

ここまではだいたい同じなのですが、経典では、
戻ってきたラーフラに「嘆くことはない」と言って、ブッダが語ります。

「おまえは父に対してなすべきことをなし、
わたしもおまえに対してなすべきことをなした。
わたしとおまえはいっしょに、一切(すべて)の人々のために勤めた。
わたしは他の人の父親とはならないし、
おまえも他の人の子ではない。
わたしたちは悩ませ合うこともなく、争うこともない。
すべてのことは無常であり、
そこからただ解き逃れること(解脱)を求めなさい」

というようなことを説いたそうです(2)

つまり、父としての役目、子としての役目を果たして、
父ひとり子ひとりのきずなは変わらないとしても、
師と弟子であり、同じ道を求め行く修行者の立場は変わらないということだと思います。

それに対して「今昔物語」では、「絵解き」に語られていたようなドラマ。
描かれているのは、修行者(修行完成者)としてのブッダではなく、
子を想うひとりの親としての、いかにも人間的な姿です。

「今昔物語」の編者はこの話の終わりに、
仏であっても、父子(おやこ)の関係となれば、ふつうの師弟の関係とは違ってくる、
ましてや世の衆生は、子への思いに迷うものだ、と付け加えています(3)


「子への思いに迷う」──それは、仏教の修行においては否定されることでした。
「スッタニパータ」にはこうあります。

「子や妻に対する愛著(あいじゃく)は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。
筍(たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、犀(サイ)の角のようにただ独り歩め。」
(1)

この箇所だけを引用すると誤解を招くかもしれませんが、
ブッダは子や妻への愛情を否定しているのではなく、
執着することを避けよと言っているのだと思います。

そう考えると、ブッダが経典でラーフラに語った言葉は、また違って響いてきます。
父親として子として相手を認めつつも、
しかし、余計な枝をからませて、まつわりつかせてはいけない、
まつわりついてもいけない。
わたしが死んでからも、
筍のように、犀の角のように、まっすぐに歩めよと促しているように聞こえます。

それが正しい道なのでしょう。

しかしながら、親子のしがらみにからみつかれて、しがらみに流されて、
子への思いに迷い、情に迷ってもしかたがないじゃないか。
人間だもの。
と、「今昔物語」の編者は、入滅というクライマックスの場面に、
経典にはないこうした説話をわざわざ持ち出してきたんですね。

そこには、
「論理的追求を突き詰めるよりも情緒的な救済の方に直行する」ような
日本人的な仏教の理解のし方があるのではないかと、
池上洵一さんが述べられています(4)

確かに、小林玲子さんの切々とした語りを聞いていた筆者は、
思わずこの場面でウルッとしそうになりました。

幼い日に父親に捨てられたラーフラは、父親を恨まなかったのでしょうか。
父親と日々を過ごすことになっても、
おそらく肉親としての親しい言葉はかけてもらわなかったのではないか。
晩年でこそ、ブッダの子である自分を「幸運なラーフラ」と呼んでいますが(5)
嫉妬ややっかみや、世間の風当たりもあったでしょう、
偉大なブッダの子であるがゆえの重圧もあったでしょう。
それが最後の最後に、宗教者としては非難されることも甘んじて、
父親としての情を吐露してくれたのです。

ラーフラにとって、これはうれしかったに違いありません。
筆者は、何だか救われた気になったのでした。

まあ、こんなふうに情緒的に単純に考えてしまった筆者も、
端っこのはしくれながら、日本人なのだということなのかもしれませんね。

f0223055_144529.gif







《引用・参考文献》
(1)中村元訳「ブッダのことば 〜スッタニパータ〜」岩波文庫
(2)木津無庵編「新訳仏教聖典」大法輪閣
(3)「今昔物語集」巻三第30話「仏入涅槃給時、遇羅睺羅語」〜山田孝雄・山田忠雄・山田秀雄・山田俊雄校注「今昔物語集・一」(日本古典文学大系22)岩波書店
(4)池上洵一「『今昔物語集』を読む(15)」神戸大学文学部・大学院人文学研究科同窓会「文窓会」HP
(5)中村元訳「仏弟子の告白 〜テーラーガーター〜」岩波文庫
   山折哲雄「ブッダは、なぜ子を捨てたか」集英社新書
   石井公成「仏教史のなかの今昔物語集」〜小峯和明編「今昔物語集を読む」吉川弘文館・所収
[PR]
ネコだって描いてほしいモン


こうして生きものたちは、一説には52類やって来たといわれているそうですが、
おそらくはもっと、何百、何千とやって来ていたのではないでしょうか。

ところが、わたしたちの身近な動物、ネコだけは、この場に描かれませんでした。
いえ、動物がいっぱいすぎて、絵に描ききれなかったというわけではありません。

どうしてネコが描かれなかったのか。
というのも、こんなお話があるそうです……。

と、「絵解き」では、十二支の話が語られます。

確かに「涅槃図」の絵には、十二支の動物たちがそろっています。

子。ネズミ。
f0223055_1131215.jpg

丑。ウシ。
f0223055_11303279.jpg

寅。トラ。
f0223055_11383554.jpg

卯。ウサギ。
f0223055_11452355.jpg

辰。たつ。りゅう。
f0223055_1239473.jpg

巳。ヘビ。
f0223055_1146814.jpg

午。ウマ。
f0223055_11462717.jpg

未。ヒツジ。
f0223055_11464784.jpg

申。サル。
f0223055_11482190.jpg

酉。ニワトリ。
f0223055_1147827.jpg

戌。イヌ。
f0223055_11483543.jpg

亥。イノシシ。
f0223055_1148478.jpg


けれどネコは、ネズミに意地悪をされたために、ブッダの最期に間に合わなかった。
駆けつけた順番で十二支が決まったので、その十二支にも入れなかったという話です。

以来、ネコはネズミを恨んで、姿を見かけるたびに
追いかけ回すようになったとうことです。

この話は、日本に伝えられている昔話にもなっています。
(関敬吾の分類によると「十二支由来」の動物昔話に含まれます。(1)

絵解きの語りは、仏教の経典がもとになっていますが、
そこから派生したインドや中国の仏教説話、
さらに日本の民間伝承や昔話なども取り込まれているようです。

難しい話ばかりでなく、
お寺にあまり馴染みのない筆者のような素人にも
わかりやすく、おもしろく語ってくれるんですね。

小林玲子さんが語り出すと、絵の中の人物や動物たちが
いきいきとした表情を持っているように見えるのが不思議です。

f0223055_1522074.gif


また一説には、こんな話もあるようです。

後述しますが、このとき、ブッダの生母である摩耶夫人が、天上から降りて来ます。
そして、ブッダを救うための霊薬の入った袋包みを投げ下ろす。
ところが、途中、沙羅双樹の樹の枝に引っかかってしまいます。

そこで、ネズミがスルスルと樹を登って取りにいこうとしたところ、
日頃のクセでしょうか、ネコが追いかけてじゃまをしてしまう。
そのために薬は間に合わず、ブッダが入滅を余儀なくされることとなり、
ネコは「涅槃図」に描いてもらえなくなったというのです。

f0223055_1522074.gif


さて、ところが、全国にある「涅槃図」の中には、
ネコが描かれているものもあります。
小林玲子さんがよく「絵解き」をされる長野・善光寺世尊院釈迦堂所蔵の「釈迦涅槃図」でも、
ネコが絵に登場しているそうです。

なぜネコが描かれている絵があるのか?
それには、こんなお話があるのだとか。

京都・東福寺には、15m×7.3mという巨大な「涅槃図」があります。
それを描いたのが、吉山明兆(きつさん・みんちょう)というお坊さんの画家です。

彼が、その「涅槃図」の制作中、赤い絵具が足りなくなって困っていたとき、
一匹のネコが、袖を引っぱって裏山の谷へ連れて行く。
そこには絵具の材料となる赤い土があり、感激した明兆が、
ネコの姿を「涅槃図」の中に描き添えてやったというのです。

一説には、裏山の谷からいろいろな染料をくわえてきて手伝った、
お釈迦さまの口紅の色に悩んでいると、ぴったりな色を探して来てくれた
などとも言われているようです。

いずれにしろ、今でも東福寺「涅槃図」の中には、
描いてもらって、ちょっぴりうれしそうなネコが、
しっかりチョコンと座っています。

▼京都・東福寺「涅槃図」(明兆作)部分
f0223055_14485058.jpg



こちら、常保寺の「大涅槃図」にも、
実は、ネコらしき動物が描かれています。
f0223055_23442180.jpg

小林玲子さんは、これはネコではないのではないかしらと
おっしゃっていたのですが、
筆者には、どうもネコのように見える気がしないでもありません。
f0223055_1456296.jpg


こちらの正面を見て口を少し開いている謎の生物は、
はたしてニャアと鳴いているのか、それとも……?

──まあ、ネコであれ、ネコではない動物であれ、
たとえ死に際に駆けつけなかったからといって、
あるいは、薬を飲むのをじゃましたからといって、
お釈迦さまは、生きとし生けるものすべてを
けっして見捨てたりはしないということには変わりがないのでしょう。

f0223055_1553118.gif








《引用・参考文献》
(1)関敬吾「日本昔話集成 〜第一部・動物昔話〜」角川書店
[PR]