カテゴリ:子どもたちのこと( 6 )

いやあー、「パピー・ウォーカー」って、初めて知りました。

将来、盲導犬になろうという子犬たちを、
まだ生まれて間もない2ヶ月の頃から約10ヶ月のあいだ、
ふつうの家庭で預かって育てるというボランティアのことなんだそうです。

ワンコたちもこれからプロを目指すんだったら、
それこそ“早期英才教育”を施して、幼児のうちから専門訓練を積めばばいい、
訓練を始める時期が早ければ早いほど、いい盲導犬に育つのではないか……と思うと、
それが違うんだそうですね。

まずふつうの生活の中で、人間とふれあい、ふつうに暮らす。
その中で、ふつうの生活環境に慣れたり、
また、人間との愛情とか、信頼とか、そういう関係を学んでいく。
その土台がしっかりしていないと、
いくらその後で訓練を積み重ねてもうまくいかないのだとか。

けれど、ふつうの生活というその「ふつう」っていうのがきっと難しい。

中にはかなり激しいやんちゃな子もいて、
家具や家の壁をガリガリかじったり、夜中に鳴いたり、
いろんなところに粗相をしたりもする。
しかしそんな彼らに、腹立ちの感情にまかせての叱責はNGなんだそうです。

かといって、いいわいいわで甘やかすのも大きなNG。
やりたい放題を容認するということは、子犬にしてみれば、
自分は人間よりも群れの中の上位である、というメッセージを受け取ることになる。
そうなると、自分が群れのリーダーの責任を負わなければいけなくなり、
下位である人間を率いるために、威嚇してうなったり、かみつくようになったりする。

何をしていいか、何をしてはいけないのか、
その「Yes」と「No」をきちんと伝えなければいけない。
叱責するにも、ただ感情にまかせて怒るのではなく、
これは「No」なのだと、きちんと叱らなければいけない。
躾けひとつ教えるにしても、「ふつう」に飼うということは、これはタイヘンな仕事だと思います。

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そんなとき、たとえば「アタッチメント」ということをするんだそうです。
これは、パピー・ウォーカーに限らず、
一般に犬をしつけるときの基本的な訓練法。

いわゆる「スキン・シップ」とも言えるでしょうか。
犬を後ろから抱きかかえて座らせ、
おなかや手足の先っぽ、耳や鼻先などを触って撫でてあげる。

よく犬や猫が、飼い主の前でころんと寝転び、おなかを見せるのは、
気を許したしるしだと言いますよね。
攻撃されたら致命傷ともなりかねない、弱点の「腹」をさらすというのは、
相手を上位と認め、信頼するという意味を持つのだとか。

そもそも、犬は下位のものに後ろを取られることを嫌がるそうで、
だから人間に後ろから抱きかかえられるのは、人間を上位と認めることでもある。
その上、急所のおなかや、神経の敏感な手足の先や鼻先を撫でまわされるというのは、
よほどの信頼感がないと出来ません。
しかし、相手が心から信頼している存在で、その彼(彼女)に身を委ねるとしたら、
これは心地よい愛撫ともなるでしょう。

「アタッチメント(attachment)」という言葉は、「付属品」という意味でも使われる通り、
「くっつくこと」というのがもともとの意味です。
この言葉を心理学者・ボウルビィは、
とくに幼児期の人間が、母親や周りの人々にくっつきたいと思う気持ちとして用いました(1)
だから日本語では、「愛着」と訳されることが多いのですが、
「愛情」といってもいいと思います。

人間と犬がくっつきあうこの「アタッチメント」という訓練法も、
ただ単に「支配ー服従」の関係性を強いるために行われるのではなく、
やっぱり「愛情」というやつが必要なんでしょうね。
互いの「愛情」を育てるためのスキン・シップでもあるかもしれません。

そんな「愛情」をもってパピー・ウォーカーさんたちは、
しつけひとつ、叱り方ひとつにも苦労しながら、子犬を育てておられるのでしょう。
その苦労が楽しさであったりするのかもしれない。

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「パピー・ウォーカー(Puppy Walker)」って、
パピー(子犬)を歩かせる人──つまり“子犬を散歩させる人”という意味なのかもしれません。

しかしもしかしたら、
育てる側も、育てられる側も、互いにくっつき合いながら、
互いにいろいろ学び合いながら、
日々を子犬といっしょに“歩いていく”という意味でもあるかもしれないと思いました。

犬の子育てと人間の子育てとを、もちろん一緒くたにすることは出来ませんが、
わたしたちが人間の子どもたちと対するときにも、
なかなかに示唆に富む話だよなあと、いやあー、思わず感心してしまったのでした。







《参考文献》
(1)J・ボウルビィ、黒田実郎・大羽蓁・岡田洋子訳「母子関係の理論(原題:Attachment and Loss)」岩崎学術出版社
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正義の味方は死んだのか?


1960年代の終わり、
当時、「あしたのジョー」などのヒットの影響があったのでしょう、
それまでお子様向けと思われていた「週刊少年マガジン」
大学生が読んでいるという現象が話題となったんだそうです。

それ以降、青少年が少年少女向けマンガを読むという光景は当たり前となりました。
そしてマンガの内容も、対象とする年齢層が引き上げられていきました。
子どもの頃、マンガに夢中になっていた団塊の世代やそれに続く世代が成長する。
それに合わせてマンガもおとな化していったということもあるかもしれません。


1971年、「ルパン三世」がおとなを対象にしたおとな向けアニメとして放映されます。
当時子どもだった筆者にとっても、これは画期的なおもしろさでした。

しかし、視聴率は思わしくなく、途中で演出家が交代となり、
路線にも変更が加えられたものの、視聴率は低迷のまま、最終回を迎える。
ところが、その後、再放送されるうちに評判が高まっていき、
その人気に後押しされるかたちで、
6年後の1977年、第二シリーズが新たに作られます。

1974年、「宇宙戦艦ヤマト」放映。
こちらも、子ども向けというより、おとなが楽しめる本格的なSF作品。
けれどこちらも、放映当時には視聴率的には生彩を欠き、失敗作といわれました。
ところがその後、評判が評判を呼んで、3年後のやはり1977年、
TV放映作品を再編集しただけという映画がヒットし、ブームが起こります。

どちらもそこへ至るには、もちろん何といっても作品のおもしろさがあったわけですが、
1977年当時、高年齢層もアニメを見るようになったという時代の流れも
追い風として働いていたように思います。


そうして1980年代になると、
中高生を中心として、青少年やおとなが見るマンガやアニメが増えていきます。

そうした作品からは、「正義のヒーロー」は消えます。
しかし、その要素はかたちを変えて継承されていきました。

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「アクション活劇」という要素は、
ドラマ全般といってもいいほど、多くのドラマに欠くことのできない共通のものですね。
「格闘アクション」や「バトル」などのかたちにもなります。

「宇宙を舞台にしたSF」という要素は、
たとえば、「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」などの物語につながりました。

「鉄人28号」に始まる巨大ロボットは、
遠隔操作で動く武器というよりもキャラクター的な存在となり、
「マグマ大使」では、人格を得ていました。
主人公の少年と、強大な力を持つロボットが、ともに戦うという図式です。
そして、「マジンガーZ」では、
操縦者の少年がロボット内部に入って戦うというスタイルが確立します。

操縦者の肉体の延長であるような巨大ロボットは、
自己の拡大された分身。
これは心理的には、
力を獲得したセルフイメージと言えるかもしれません。

「変身」で強い自分になるという仕掛けもそうですが、
巨大ロボットの操縦席に座りさえすれば、強大な自分になれるという
無意識的な願望があったかもしれません。

そして、男の子たちが、なぜか幼児の頃から
自動車や電車やメカを好むという性質も影響しているでしょう。

巨大ロボットの系譜は、
「機動戦士ガンダム」「新世紀エヴァンゲリオン」へと
つながっていきました。

「機動戦士ガンダム」(第1作)では、
相対的な「正義」が当たり前となっていました。
また、すでに戦うことが運命づけられており、
その戦う理由に疑義をさしはさむことは大きく扱われませんでした。
そんな中で、反発を持ちながらも内向的で傷つきやすい主人公が、
──つまり、思春期にありがちな傾向をもつ少年が──
社会の厳しい洗礼を受けつつ、
仲間を得て、自我を獲得し、成長するドラマに眼目があった気がします。

「エヴァンゲリオン」では、
人型兵器エヴァに乗り込むパイロットとなれるのは、14歳の少年少女限定。
まさに、思春期の内面世界の物語の印象がありました。

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1990年代、2000年代になると、
さまざまなジャンル、さまざまなテーマが多様化し、複雑化し、
青少年やおとなを対象とする作品が一般化します。
そうした高年齢層向けの作品では、「正義の味方」の物語ではなく、
「正義」というテーマをシビアに扱った物語が作られるようになりました。

「ガンダム」シリーズの、
「新機動戦記ガンダムW(ウィング)」
「機動戦士ガンダムSEED」
などでは、
戦争と平和の意味を問い、
「正義」の意味を問うていました。

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マンガ「デスノート」(2003年)では、
悪魔の力を持つことになった主人公が描かれます。
が、その力は、肉体や武力による暴力ではなく、
ノートに名前や言葉を書き込むことで、
殺人が現実になるという暴力です。

主人公・夜神月(やがみライト=通称・キラ)は、
司法で裁けない悪人を殺すことで
「正義」を遂行しようとします。
しかし強大な力を得ることによって、
自分こそが絶対的「正義」であると主張し、
暴走していきます。
ついには、追求を逃れる自己保全のために
犯罪者ではない人々も次々に殺していく。

「正義」という大義のためには、
人を殺すこともやむを得ない、
それは手段であり、小さなことに過ぎない、
となっていく。
「正義」のための殺人が行われるわけです。

ここでは、犯罪者は、ほんとうに悪人だったのか
という個々の真実については問題にされませんでした。
冤罪(えんざい)はないのか?
ほんとうに、死に値する罪なのか?
一度罪を犯せば、更生する余地は与えられないのか?
感情や風評や、いっときの世間の尺度で、
裁いていいものなのか?
そのために、司法という制度があるはずです。

しかし、殺す殺さないは、主人公・キラの主観に委ねられる。
彼は検証することもなく、書き込むだけ。
ただ書き込み、糾弾するだけです。
そして悪人とされている人の存在を否定し、
排除することが「正義」だという。

そこには、人が人を裁くということの
責任と痛みがありません。
ノートに文字を書き込むだけの彼の行為は、
生身の人間の生命を奪うにもかかわらず、
その重みを背負うことはない。
データを消去するだけのような、
抽象的、脳内的なものでした。

ここには、いかにもネット社会らしい、現代性が
あったと思います。

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そしてもしかしたら、彼は、
アニメやマンガなど二次元の世界でくりかえし語られてきた、
「正義の味方」のヒーローの戯画でもあったかもしれません。

振り返ってみれば、「月光仮面」に始まる「正義の味方」たちは、
絶対的な正義を振りかざしていたというわけではありません。
未熟・未完成であったり、
悪にも揺れ動く存在であったり、
正義は相対的だからこそ、悩み、葛藤し、壁にもぶつかり、
それでも立ち向かい、正義に味方をしようとする。
そんな姿に、子どもたちは喝采を送っていたように思います。

しかし、「正義の味方=正義そのもの」というイメージがひとり歩きして、
「正義は必ず勝つ」「正義は絶対なんだ」というような観念を、
意識的・無意識的に育てた側面もあると思います。

もしもそうした「絶対的な正義」を為そうとしたらどうなるか。

それがノートであれ、超能力や巨大ロボットであれ、
また、腕力や武器であれ、組織や権力であれ、
たとえ仲間うちの小さな権力であれ、
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」
意識することなくその力を使うとすれば、
正義を謳うヒーローは、夜神月となり得ます。
キラ(killer=殺人鬼)となる可能性が誰にでもあるわけです。

知らなかったとはいえ、
多くの命を奪ってしまったトリトンのように。

そして、もしも自分の間違いに気づかず、間違いを認めず、
絶対的な正義をただ為そうとすれば、
「正義のために」人々をむやみに殺害する殺人鬼となります。
そうした意味では、夜神月は「正義の味方」のダークなパロディといえるかもしれません。


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さて、対象とする年齢層が引き上げられた作品は、小学校高学年、中高生、青少年など、
各年齢層に向けて分化し、テーマも複雑化していきました。
そこに、パロディではない「正義の味方」の姿を見つけるのは困難です。
死んだと言っていいでしょう。

しかし、その一方で、幼児や小学校低学年を対象とする作品では、
「正義の味方」が、今も生き続けています。


1960~1970年代に登場した
「ウルトラマン」「仮面ライダー」「秘密戦隊ゴレンジャー」などは
シリーズ化し、定番化されました。
そこには、玩具や関連業界との提携など、
商業的な構造の利点があったりするのかもしれませんが、
子どもたちから、長年にわたって支持されているというのは事実です。

もちろん、その時代その時代によって趣向を変え、
新味を加えることによって、多様化し、
時にはその対象とする年齢層も変わるようです。
シリーズの中には、冠した名前は同じでも、
中身はまったく別内容に思えるものもあります。

しかし、「仮面ライダー龍騎」のように例外はあっても、
「悪いやつをやっつける」というシンプルな骨格は
基本的に変わりません。
むしろその部分に、低年齢層をひきつける魅力があるのだと思います。

幼い子どもにとって、高度に複雑化したドラマは難しいです。
たとえどんなにおもしろがっていたとしても、
その複雑に入り組んだストーリーを正確に把握しているとは考えにくい。
正義とは何か、欲望とは何かといったようなテーマがドラマで語られたとしても、
そのすじみちを幼児が的確に理解できているとは思えません。

しかしながら、直感的には、非常によく理解している。
「カッコいい」「かわいそう」「おもしろい」など、
それは子どもたちなりの言葉ですが、
子どもたちなりの次元で、
物語の機微をかなり深く理解できているのではないかと思われます。

彼らは、彼らなりの物語として、消化し、
ストーリーの単純な骨格を抽出し、その原形を楽しむ。


特に「ゴレンジャー」を原点とする「スーパー戦隊」シリーズや、
「アンパンマン」(絵本は1969年から。アニメは1988年から)などは、
いわゆる「正義の味方」として、幼児からの支持を集め続けています。

これらの作品の中では、勧善懲悪のストーリーが毎回繰り返されます。
いわゆるワン・パターン。
しかし、そこにこそ原形があり、意味があるのだと思われます。

ユングがいうところの「元型」にもつながるその原形(おおもとのかたち)について、
次に考えてみたいと思います。

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※参考:「正義の味方」のジャンルの歴史を、おおまかに年表にしてみました。
「正義の味方」の系譜


殺戮者となった正義の味方



1972年(昭和47年)、
「正義のヒーロー」像を問い直し、修正するような作品が
時を同じくするようにして登場しました。
「人造人間キカイダー」「海のトリトン」「デビルマン」
です。


その前年の1971年、石ノ森章太郎原作「仮面ライダー」が誕生しています。
いわゆる「変身」ブームが巻き起こる。
彼は、悪の組織に改造された“改造人間”。
しかし改造される途中で、良心ある科学者に救われ、脱出し、組織と戦うことになる。
この構図は、同じく石ノ森章太郎作「サイボーグ009」と同じです。

その組織「ショッカー」は、絶対的な悪という象徴的な存在で、とにかく悪いやつら。
ストーリーは、ただその悪をやっつけるという、シンプルな勧善懲悪です。
しかし、「仮面ライダー」の「仮面」のデザインは、
どこか気味の悪いグロテスクさをたたえています。
また、主人公は、品行方正な、完璧な紳士というわけではありません。
自分が、いったんは悪の組織にとらわれた身であり、
人とは違う改造人間であるということに
コンプレックスと孤独感を感じていたりもします。

そうした人間としての影の部分がうまく描かれていたのが、
「仮面ライダー」と同じ原作者、同じスタッフによってつくられた
「人造人間キカイダー」でした。

彼は、悪の組織に拉致された科学者が、悪に対抗するためにつくった人造人間。
このあたりは「仮面ライダー」と似ています。
しかし、善の心である「良心回路」を取り付ける途中で組織にじゃまをされ、
不完全な「良心回路」をもって世に出ることとなる。
そこで、彼は、善か悪かに揺れ動くこととなります。
悪事を犯したりもする。

完全な良心ではなく、“不完全な良心回路”という設定は、
人間の存在そのもののようでもあります。

これはコッローディの「ピノッキオの冒険」(1)がモチーフとなっていて、
原作マンガには、引用するかたちでピノッキオの物語が登場します。
不完全な心をもつ木製の人形ピノッキオが、
善と悪に迷い、失敗しては学び、
ディズニーのアニメ版では良心(コオロギ)の声に耳を傾けることによって、
ついにはほんとうの子どもとなる物語。

手塚治虫「鉄腕アトム」の最初にも「ピノッキオ」が取り入れられていました。
子どものいないゼペットじいさんが、ピノッキオを作る。
息子を事故で喪った天馬博士が、アトムを作る。
そして息子を殺された光明寺博士が、キカイダー(ジロー)を作る。

神や自然が造り給いし人間という存在ではなく、
人間が自ら作った人間という存在。
それは、これから自ら自我を得ようとしている子どもたちに
ピッタリなキャラクターといえるでしょう。

誕生したばかりのロボット、アトムは、
善も悪もわからない、“白紙”のような存在。
アトムは、ピノッキオ同様、サーカスに売られたりもします。
が、お茶の水博士に引き取られ、
いろいろなことを学ぶことによって、人間的な心を獲得する。
劇中、「ロボットは成長しない」とされているのですが、
この過程は成長と言っていいと思います。

人造人間もロボット同様、成長しないものなのかもしれませんが、
キカイダー(ジロー)の物語もまた、彼が善と悪の葛藤を通して
成長する物語と言っていいでしょう。
視聴する子どもたちにとっては、身近な、大きなテーマです。

もっともアトムは、善と悪を見分けることが出来る賢い電子頭脳を
内蔵しているという設定でした。
善か悪かで揺れ動くキカイダーとは違うところです。

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「月光仮面」は、あくまでも正義の「味方」であるという作者の意図にも関わらず、
ポピュラーになることで、
月光仮面自身が「正義」であるようなイメージがひとり歩きしていきます。

「鉄腕アトム」もまたポピュラーになることで、
「正義の味方」→「正義の象徴」
というイメージが定着していきます。

が、作者・手塚治虫さんは
そのことに少なからず不満を抱いていたようです。
アトムは、ただ単に悪いやつらをやっつけるのではありませんでした。
手塚治虫さんは当時から、他の作品で、
悪の権化のような悪漢が主人公のピカレスク・ロマンや、
善か悪かで自己が引き裂かれるようなテーマなども描いています。
単純な勧善懲悪ではありません。

1972年にアニメ化された手塚治虫原作の「海のトリトン」
その最終回は、
「ヒーローは正義の味方である」
と信じていた当時の子どもたちに衝撃を与えます。

ドラマでは、主人公トリトンが、ポセイドン族という海の種族と戦い、
倒すための旅が描かれます。
ポセイドン族は、トリトンの一族を絶滅させようと両親を殺し、
海の平和を乱す暴虐者でした。
そして最終回、
イルカや魚など海の仲間と敵陣に攻め込んだトリトンは、
ついに両親を殺した仇である半魚人を討ち取ります。

しかし、そこでポセイドン族の来歴が明かされます。
彼らは昔、人身御供として幽閉されたアトランティス人の生き残り。
なぜ人身御供とされたのか、そこに正当な理由があるとは思われず、
彼らはむしろ、不条理な横暴に虐げられてきた人々のようなのです。

その閉じ込められた地下から解放されるためには、
アトランティス人の末裔であるトリトン族がもつ短剣を
処理しなければならない。
そのために、トリトンの両親を殺し、トリトンをつけ狙っていたというわけです。

地下の遺跡へ降りたトリトンは、トリトンと同じ人間の姿の、
子どもや母親を含めた多くの死体を目にします。
トリトンが短剣の力を発揚させたため、
1万人余りのポセイドン族が虐殺されたのでした。

未熟な少年が短剣の力を借りつつ、成長しながら、
強大な敵に立ち向かっていく。
──そんなこれまでの戦いは、
相手を殺し、相手の家族を殺す行為でしかなかったのか?
トリトンの両親を殺した敵と、やっていることは同じだったのか?

聖なるアイテムだと思われていた短剣の力が、
まるでボタンひとつで核爆発をひき起こすように、
意識も責任も伴わないままに大量虐殺をひき起こす。
それが、海の平和というものなのか?

鬼が島の鬼を退治した英雄・桃太郎は、
鬼たちを皆殺しにした殺戮者なのか?

主人公トリトンと視聴者は、
「大いなる力には、大いなる責任を伴う」
とスパイダーマンが悩んでいた命題を考える暇もなく、
最終回でいっきに疑問の渦中に放り込まれたわけです。


実は、この最終回は、予定の脚本と違っていたのだそうです。
監督である富野由悠季(当時は喜幸)さんが、
絵コンテの段階で、予定とは違う物語に変えていった。
戦いの理由と設定の構想は、前から考えていたそうですが、
番組が予定より早い打ち切りとなったため、
最終回になって急遽明かすことになる。

この場面が、唐突で、説明的だったのはそのせいでしょう。

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アニメ化された「トリトン」は、原作マンガと違います。
原作者・手塚治虫さんは、当時、富野由悠季さんに
ストーリーを自由に改変することを許していたそうです。

後年、自身の全集の「あとがき」(2)で、
アニメには原作者としてしか関わっていないと断り書きしています。
が、しかし、手塚治虫さんはこの最終回の結末を、もしかしたら
否定はしていなかったのではないでしょうか。

原作マンガには、1970年当時、内戦で揺れていたカンボジアとベトナムの確執が
テレビのニュースとして登場します。
それを見たトリトンの母親(人間である育ての母)が、

「(カンボジア人とベトナム人は)
いったいなぜ憎みあってるんでしょうねえ」
(3)

とつぶやく。
すると、実の親を含めた一族を皆殺しにされたトリトンは、
トリトン族とポセイドン族の確執になぞらえて
「理由なんかない、ただ憎み合うだけだ」と吐き捨てるように言います。

なぜ憎しみ合わなければならないのかというこのテーマは、
物語の中で、くりかえし語られます。

ポセイドン族の一人は、戦い合うことをきらい、
トリトンを助けるために自殺する。
過去の恨みや憎しみを忘れることはできないかと、
海の歴史を見守ってきた巨大ウミガメに諭されたりもする。

が、結局、卑怯なポセイドン王とは和解ができず、
永遠の生命をもつ彼を地球外に追放するため、
トリトンもまた宇宙の星屑となる。
──というのが、マンガの方の最終回の結末です。
自己犠牲によって地球を救うという筋立ては「アトム」と同じですね。

なぜ戦い合わなければいけないのかというテーマを、
手塚治虫さんは他の作品でもくりかえし描いています。
異国間同士、異民族同士、異星人同士、異生物同士、人間とロボット同士、
なぜお互いに理解し合うことができないのか。
そうしたディスコミニュケーションという問題は、手塚作品の大きなテーマのひとつ。
そんな手塚治虫さんだからこそ、
アニメが選んだ結末もアリだと、どこかで認めていたような気がするのです。

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筆者は、当時、「トリトン」を毎週楽しみに見ていました。
が、最終回の当日、家族全員で田舎の祖父の家へ行くこととなり、
見逃した悔しさに臍(ほぞ)をかんだ思い出があります。
(当時はビデオもDVDもなく、録画ができませんでした。)

最終回を見る機会に恵まれたのは、おとなになってからですが、
この結末は、「正義の味方」になれ親しんでいた当時の自分には
ショックだったろうと思います。

当時、中学生だった大塚英志さんやササキバラゴウさんにとっても
やはりショックだったそうで、
これはアニメ史に残る衝撃だと、大塚英志さんは記しています(4)(5)

幼い子には、ショック。
しかし、ストーリーの意味をじゅうぶんに理解できる年代の子どもたちにとっては、
大げさにいえば、
ほろ苦さとともに、おとなの階段への一歩を促すような体験だったかもしれません。

そんな現実もあるのだということを知る。

主人公側には、主人公側の「正義」があり、
敵側には、敵側の「正義」がある。
正義は相対的なものであるというこの「正義」観は、
「機動戦士ガンダム」「伝説巨神イデオン」など、
その後の富野由悠季作品に反映されることとなります。
そして、それが、マンガやアニメの主流となっていきます。

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同じく1972年放映の永井豪原作「デビルマン」も、
シンプルな勧善懲悪ではありませんでした。

アニメ「デビルマン」もまた、原作マンガとは違います。
が、主人公の基本的な設定は同じです。
彼は、人間の滅亡をたくらむ悪魔が、人間と合体して生まれた存在です。
悪魔の力を持ちながら、それでいて人間の心も合わせ持つ。
それがひとりの少女と出会ったことにより、悪魔一族を裏切ることになります。

彼にとって、人類愛とか博愛的な「正義」はどうでもいいこと。
少女を守るため、
そして少女の家族や友人を守るために彼は戦います。
それは、国のため、人類のため、イデオロギーのためというような抽象的な理由ではなく、
具体的即物的で、はるかに切実で、納得ができやすい理由です。
そして少女を守るために戦う彼は、
アニメ版では、結果的には「正義」に貢献することになります。

しかしこのことは、たとえば、
一方が、自分の愛する者を守るために戦う。
敵対するもう一方もまた、彼らの愛する者を守るために戦う。
──としたら、それぞれの「正義」と「正義」がぶつかるような状況をひき起こすことになります。

グローバルな視点から見れば、
それぞれの「正義」はエゴイズムでしかありません。

原作マンガの方では、極限状況の中、
互いに信じ合うことができず、狂気に駆られた人々によって
愛する少女を殺され、絶望に陥るデビルマンの姿が描かれます。
が、アニメでは、シビアにテーマは語られませんでした。

ただ、戦う理由の根本に、
「愛する者のため」「仲間のため」というような純粋な心情があることは、
たとえば「ワンピース」の主人公ルフィがそうであるように、
多くの共感を集めることになると思います。

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また、ここでおもしろいのは、
ヒーローが悪魔の力を身につけるという設定です。

日本神話のスサノオノミコトが、「荒ぶる神」といわれたように、
ゲルマン神話のオーディンが、怒りや凶暴さをもつ「嵐の神」であったように、
アステカ神話のテスカトリポカが、獰猛なジャガーに変身するように、
英雄神は、野蛮な、野獣的なエネルギーやグロテスクを持つことがあります。

また、中国神話の女媧や伏義は、頭は人間、体が蛇。
エジプト神話のトートは、頭は鳥(トキ)、体が人間。
マヘスは、頭はライオン、体が人間。
インド神話のガネーシャは、頭はゾウ、体が人間です。
原初的な神は、しばしば野性の動物との合体した姿で描かれます。

太古の時代、自然の荒々しい力は、
生命をおびやかす危険の源泉であると同時に、
生命を活性化させるエネルギーや知恵の源泉でもありました。
そこから、野性の動物たちからパワーと加護を得ようとするトーテミズムも起こります。

自然の本能的な、非理性的な力は、
克服し、コントロールしなければなりませんが、
打ち負かすためには、その大きな力を取り込むことも求められます。
また、負の側面、影の側面を取り込むことは、
人格形成への大きなテーマでもあったりします。

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街頭紙芝居の「黄金バット」が、初めて世に出たのは、脇役としてでした。
当初、主人公だったのは、「黒バット」という悪者。
白い髑髏(どくろ)の顔に黒いマントという、グロテスクな異形の怪人です。
ふらちな悪行三昧を行う、いわゆるピカレスク(悪漢)の物語。

当時は、いきあたりばったりで物語を書き進めていて、
黒バットがあまりに強くなりすぎてしまう。
そしてとうとう、悪人だというのに、誰も倒すことができなくなります。
収拾がつかなくなる。
そこで、物語を終わらせるため、
間に合わせで考え出されたのが、黄金バットなんだそうです。

黄金の髑髏(どくろ)に、赤いマント。
黒バットを色違いにしただけの彼が、
終わりの3場面に突然、脈絡もなく登場して黒バットを倒し、幕を引く。
それが拍手喝采で、受けに受ける。
正義の怪人、黄金バットの誕生です(6)

▼黒バット(左)と黄金バット(右)の模写。色を変えただけです。
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無意識的だったかもしれませんが、
とめどなく悪がふくらんだ状況の中、
子どもたちは正義の存在を待ち望んでいたことでしょう。
彼は、偶然のように生まれたキャラクターでしたが、
子どもたちの心の中にいきいきと印象づけられる。

つまり、彼の出自はもともと黒バットという“悪”であり、
その力を持って、黒バットという“悪”を倒すべく作られた存在だったわけです。
ちょうど悪の組織に取り込まれて改造された仮面ライダーが、
組織から抜け出て、その力を持って悪と戦ったように。

「仮面ライダー」の原作者、石ノ森章太郎さんは、キャラクター作りの段階で、
髑髏(どくろ)の顔をした自分の作品、「スカルマン」のイメージを取り入れることを提案していたそうです。
(後年、「仮面ライダー・スカル」という髑髏(どくろ)そのものの
キャラクターが作られたりもしています。)

まさに、黄金バットですね。
ところが、気持ち悪いといわれ、営業的にマイナスといわれて、ボツになる。
そこで考え出されたのが、昆虫のバッタをモチーフにした、あの仮面ライダー。
そのデザインには、髑髏(どくろ)のイメージが反映されているようです。

後のシリーズ「仮面ライダー・アマゾン」(1974年)は、
第1作の原点に帰ろうと企画されたもの。
「野性」が思いきり強調され、オオトカゲがモチーフになっています。
(筆者はてっきりアマゾン河のピラニアだと思っていました。)
グロテスクな異形の仮面という仮面ライダーの要素が大きく強調されています。

髑髏(どくろ)=しゃれこうべ。
オオトカゲ。
コウモリ。
蜘蛛(くも)。
──これらは一般的には忌み嫌われるものです。
しかし、そのグロテスクを取り込み、異形のものとなることで、
ヒーローは力を得る。
わたしたちの無意識にビビッと訴えてくるものがあるのでしょう。
黄金バットしかり、
仮面ライダーしかり。
バットマンしかり、
スパイダーマン、しかり。

そしてデビルマンもまた、魔を取り込むことによってヒーローとなりました。
彼も黄金バットと同じく、“悪”の出身であり、
その力を持って、“悪”と戦う存在。

彼は、アンチ・ヒーローと呼ばれますが、
案外、正統的なヒーローといえるかもしれませんね。

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《引用・参考文献》
(1)コッローディ、杉浦明平訳「ピノッキオの冒険」岩波少年文庫
(2)手塚治虫「海のトリトン(4)ー手塚治虫漫画全集」講談社
(2)手塚治虫「海のトリトン(2)ー手塚治虫漫画全集」講談社
(4)大塚英志、ササキバラゴウ「教養としての〈まんが・アニメ〉」講談社現代新書
(5)大塚英志「キャラクター小説の作り方」講談社現代新書
(6)加太こうじ「紙芝居昭和史」立風書房
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変わりゆく時代、変わりゆく正義の味方たち


ところで、これは映画の話なのですが、
ひとつのジャンルが成長し、発展していく過程には、4つの時代区分があるのではないかと、
「映画技法のリテラシー2」(1)という本に述べられています。

ギリシアのオウディウスは、時代の興亡や文化の流れを
「黄金の時代」「銀の時代」「青銅の時代」「鉄の時代」
という4つに分けていましたっけ。
この種の分け方は、よくあるのかもしれません。

が、なるほどなと思います。
これは映画のジャンルに限らず、音楽のムーブメントや個人の作品などなど、
いろいろなことにあてはまるのではないでしょうか。

以下、同書に取り上げられている「西部劇」のジャンルを例にちょっと紹介してみます。


1)「最初期の時代」
いわば、黎明期。
すでに見慣れているような既存のものとは違います。
新鮮。
そして異質です。
だから、耳目をひきやすい。注目を集めやすい。
とともに、一部からは反発を招くことになります。

「この時期はたいていその形式的な斬新さのために
感情に訴える衝撃は大きいが、
通常未熟な状態にとどまっている」

とされます。

形式や主題はシンプルな傾向があり、
未熟ではあっても、荒々しいエネルギーが魅力だったりします。
ジャンルの約束事の多くは、この時期に確立されていくといいます。

西部劇でいえば、
「大列車強盗」(1903年)など。
まだ映画というメディア自体が黎明期であった頃、
アメリカで初めて本格的なストーリー映画として作られたのが「大列車強盗」でした。
以降、フォロワー的な作品が作られ、
西部劇というジャンルが成長していくことになります。


2)「古典時代」
いわば、成熟期。
ブームが定着していき、
「ジャンルの価値は観客から認められ、
広く共有されるようになる」

ひとつのジャンルとして浸透して、一般化します。

ここに「最初期」のような危うさはありません。
安定感が出てくる。
そして様式は定番化します。

この時期においては
「安定、豊かさ、調和というような古典的な理想」
が体現されます。

西部劇でいえば、
「駅馬車」(1939年)を始めとする
ジョン・フォードの作品など。
「西部劇といえば、これ」といわれるような定番の作品が作られます。


3)「修正主義の時代」
いわば、爛熟期。
ジャンルは新鮮味を失い、
感情的には温度感を失います。
飽きられるということも起きてくるでしょう。
醒めてくる。
そして感情よりも、知性に訴える傾向が進む。

これまで支持されてきたジャンルの約束事や価値観への反省が生まれ、
批判や疑問が投げかけられる。
それだけ、主題が深く掘り下げられることにもなります。
そうして修正が求められる。
この時期には、形式や主題が複雑化する傾向があります。

西部劇でいえば、
「真昼の決闘」(1952年)など。

悪漢に立ち向かう保安官といえば、「古典時代」であれば、
ジョン・フォード作品のジョン・ウェインのような、無敵なタフガイのイメージでした。
しかし「真昼の決闘」の、ゲイリー・クーパー扮する保安官は、
暴力を恐れるふつうの人間として描かれ、古典時代の価値観に疑問を投げかけます。

そうした懐疑的な形式は、
「ワイルドバンチ」(1969年)などへと続きます。


4)「風刺的模倣の時代」
いわば、衰退期。
感情の温度差はさらに進み、
ジャンルの約束事は「紋切り型」として茶化されることになります。
パロディ化されたり、時代の錯誤ぶりがおもしろおかしく表現され、
笑いの対象となったりもします。

ここで思い出されるのは、セルバンテスの
「ドン・キホーテ」(2)です。
16世紀、「騎士道小説」というジャンルがヨーロッパで隆盛を誇る。
騎士が武者修行の冒険に出かけ、貴婦人に愛を捧げ、巨人やドラゴンを倒すという
いわば、ヒロイック・ファンタジーです。

17世紀を迎える頃には衰退していたのですが、
そんな1605年に登場したのが、「ドン・キホーテ」。
彼は「騎士道小説」のマニアで、
自分は騎士だという妄想にとりつかれて冒険に出る。
当時の読者にとっては、流行遅れのその錯誤ぶりがおかしかったのでしょう。

村の醜い農婦を貴婦人として愛を捧げ、
風車を巨人だと思い込み、突っ込んでは叩きのめされ、
ふつうの商人を敵の騎士だと思い込み、
戦いを挑んでは袋だたきにあうというパロディ小説でもありました。

西部劇でいえば、
「ブレージングサドル」(1973年)など。
西部劇を風刺したメル・ブルックスのコメディ映画です。
これを、西部劇映画の終焉と位置づける批評家もいるそうです。

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こうしたサイクルが、同じジャンルの中でくりかえされることもあるでしょう。
また、そのサイクルは、年々短くなっているように思います。

時代区分の長さはおおまかなもので、
作品によっては、時代がずれたり、あてはまりにくいものもあったりしますが、
こうした基本的な流れが、いろいろな分野に共通してあるように思います。

さて、この時代区分を、
いわゆる「正義の味方のヒーローもの」とでもいうようなジャンルにあてはめると
どうなるか。


1)「最初期の時代」(黎明期)

勧善懲悪のヒーローの源流は、神話や昔話の英雄に始まり、
滝沢馬琴などの読本や歌舞伎、
講談や、その講談を文章にした立川文庫、
少年倶楽部などの少年小説や、絵物語、マンガ、
そして紙芝居などに遡ることができるでしょう。

が、時代は新たなヒーローを求めました。

1950年代後半、神武景気が起こり、「もはや戦後ではない」といわれます。
ここから、戦後の高度経済成長が始まっていく。
ポジティブな可能性が信じられた時代。
消費者には、三種の神器(白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機)がもてはやされ、
テレビが普及していきます。
また、1950年代後半は、旧ソ連による人工衛星打ち上げを機に、
宇宙時代の幕開けといわれた時代。
人類は宇宙への一歩を踏み出し、科学が持つ無限の可能性と力が信じられました。

そんな1956年、
日本の白黒テレビに登場した「スーパーマン」は、宇宙からやってきた存在。
超人的な力と無限の可能性を持っていました。

そのヒットに刺激されて、
翌1957年、劇場映画「スーパージャイアンツ」
さらに1958年、「和製スーパーマン」として
TVドラマ「月光仮面」が作られます。

宇宙からやってきた「遊星王子」(1957年)や
「ナショナルキッド」(1960年)は、
無敵の力を持っていました。
「少年ジェット」(1959年)は、
少年でありながらおそらく無免許でオートバイを乗り回し、
かけ声で敵を倒すというような超人的な力を持っていました。
彼らは、荒唐無稽ともいえるほどの力を持ち、超人となることで正義に味方します。


2)「古典時代」(成熟期)

1963年、日本で初の国産テレビアニメ「鉄腕アトム」が放映。
原子力(アトム)の平和利用を象徴するような少年ロボットである彼は、
「ラララ 科学の子」であり、科学の力、未来の可能性そのものでした。

消費者の三種の神器は「カラーテレビ・自動車・エアコン」に変わり、
「新・三種の神器」と呼ばれました。
1964年、東京オリンピックの放送をきっかけに、白黒テレビはカラーへと普及が進みます。
翌年の1965年、
最初のカラーテレビアニメ「ジャングル大帝」が放映。
その1965年から、いざなぎ景気が始まります。
日本を経済大国へと押し上げたその右肩上がりは、大阪万博開催の年、1970年まで続きます。
万博のテーマは「人類の進歩と調和」でした。
まさに人類の「進歩」が信じられた時代だったと思います。

アトムに続くヒーローたちは、「進歩」の体現者であり、
「正義」の体現者でした。

彼らは、ロボットであったり(「エイトマン」)、
サイボーグや改造人間であったり(「サイボーグ009」「仮面ライダー」)、
異星人であったり(「ウルトラマン」)、
タイムスリップで現代へやってきた未来人であったり(「スーパージェッター」)、
そうすることで強大な力を持ち、「正義の味方」となりました。

もっとも、「鉄腕アトム」では、
弱者や虐げられるものをいかに救うかという色合いが濃く、
正義を声高に叫んでいたわけではありません。
また、「鉄人28号」という巨大ロボットは、
その科学の力を人間がいかに使うかで、
悪にもなれば正義にもなるというところがミソでした。

ニュアンスは、それぞれ違います。
しかし典型的に、それぞれが「正義の味方」の役割を担っていたように思います。


3)「修正主義の時代」(爛熟期)

「スーパーマン」といえば、正義の味方の古典です。
もともとアメリカでは、すでに戦前の1938年にコミックとして生まれ、
実写ドラマとして1952年にテレビ・シリーズ化。
それが1956年に日本に輸入され、ヒットしたわけです。

彼は文字通り、人間を超越(super)した力で、悪者をポンポンとやっつける。
神の力を与えられた英雄が、難題を次々に打ち破っていくギリシア神話のようです。
強大な力を得ることで正義が為される。

しかし、1960年代になると、冷戦やベトナム戦争など、
力を持つアメリカ社会の病んだ側面があらわになります。
権威や権力への反発が盛んに叫ばれる。
そんな1963年、悩めるヒーロー、「スパイダーマン」が登場します。

彼は完璧な存在ではなく、たまたま力を手にしたふつうの男子学生に過ぎません。
そんな等身大の彼は、正義とは何かを自問自答し、悩みながら、犯罪と戦います。
彼の胸には、
「大いなる力には、大いなる責任を伴う」
という、死んだ伯父さんが遺した言葉がいつも響いていました。

池上遼一作画で翻案された「スパイダーマン」が日本に上陸するのは、1970年。
安保闘争など、怒れる若者たちが権威や権力に異を唱え、社会を揺さぶった時代。
日本版の「スパイダーマン」もやはり悩めるヒーローでした。

この頃から日本でも、紋切り型の「正義」に疑問符を打つ作品が作られます。

そして1973年、第一次オイル・ショック。
右肩上がりだった経済成長は、混乱の時期を迎えます。
果たしてこのままでいいのだろうか、というような疑問は、
それまでの価値観に修正を加えようとする。

また、地域に甚大な被害をもたらしていた水俣病や光化学スモッグなど、
公害が深刻化して社会問題となり、
科学や文明の弊害が、大々的に指摘されたのもこの頃です。

科学による人類の「進歩」は、すべて正しいといえるのか?
むしろ人類は、いかに自然と「調和」していくかを見直すべきなのではないか?
──そうした疑問も投げかけられました。

そうして、1970年代に入ったあたりから、
「正義の味方」のヒーローを懐疑的に見直し、
単純な「勧善懲悪」に異を唱える作品が生まれてきます。
つまり、「修正主義の時代」。

たとえば、1972年に作られた
「人造人間キカイダー」「海のトリトン」「デビルマン」
という3作品に、その典型が見られます。

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やがて「正義のヒーローもの」というジャンルは衰退期へと向かっていくのですが、
一方、この1970年代前半、
「スポ根もの」というジャンルが台頭し、「古典主義の時代」(成熟期)を迎えます。

野球やサッカーなどなど、スポーツ選手は
いつの世でも庶民や子どもたちのヒーローです。
マンガでも、1950年代頃から、
「バット君」(1949年)
「イガグリくん」(1951年)
「スポーツマン金太郎」(1959年)
などがありました。
そうした「最初期の時代」を経て、
1968年、「巨人の星」がヒット。
「スポーツ根性もの」が時代を席巻します。

そんな1969年、アニメの原作となったマンガの「海のトリトン」がサンケイ新聞に連載されます。
当時、すでに大御所だった作者・手塚治虫さんに、編集部が要望した注文は、
「熱血・スポコン的なアクションを、なるべく強く入れてほしい」
というものだったそうです(2)
「スポーツ根性もの」が、それ以外のジャンルにも波及していたんですね。

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スポーツの世界ではもちろん、正義と悪の葛藤はありません。
主人公の対立者は、悪である敵ではなく、ライバルに置き換えられます。
そして敵を倒すための武器や必殺技は、
“魔球”などの得意技に置き換えられます。

「敵を倒す=正義」、「ライバルを倒す=勝利」
の図式は同じですが、
ここでは、勝利へ至るまでの過程である「努力」や「根性」、
そして、「友情」や「チームワーク」に焦点が当てられました。

これらは、1970年代の「正義のヒーロー」ものでも
大きな要素となります。
「愛の戦士レインボーマン」は、
努力して修業をすることによって、力を獲得する。
「超人バロム1(ワン)」は、
二人の少年が、友情によって合体し、超人に変身する。
また、「科学忍者隊ガッチャマン」「秘密戦隊ゴレンジャー」など、
チーム同士の友情をパワーとするような物語も生まれます。

少年向けのマンガ雑誌、「週刊少年ジャンプ」が、
「友情」「努力」「勝利」
という3つのキーワードを編集方針にしていることはよく知られています。
これらは、小学校4~5年生を対象としたアンケートから導き出されたそうですが、
普遍性を持っている言葉だと思います。
人生の上昇面、ポジティブな局面を描く物語や、
成長しようとする子どもたちにとっては大きなテーマです。

古典を含めて、どの作品にも共通する要素ですが、
特に1970年代は、この3つのテーマが確立されたように思われます。

しかし、「正義」というテーマからは離れていきました。


4)「風刺的模倣の時代」(衰退期)

時代を少しさかのぼりますが、1967年、
2つの「正義のヒーロー」のパロディ作品が、時を同じくして作られました。
アニメ「パーマン」とマンガ「パットマンX(エックス)」です。
(「パーマン」の原作マンガは、1966年から連載が始まっています。)

内容は異なりますが、ほぼ同時期に生まれたということには、
何らかのシンクロニシティがあったと思われます。

藤子・F・不二雄作「パーマン」は、「スーパーマン」のパロディ。
実写ドラマの「スーパーマン」は、1956年の日本での放映から約10年が経過しており、
ヒーローを客観的に笑うことのできる余裕と時代の空気があったのでしょう。

ジョージ秋山作「パットマンX」は、「正義の味方」全般のパロディですが、
あえて特定するなら「バットマン」のパロディです。
こちらの実写ドラマは1966年に日本で放映されており、
ヒットの渦中にパロディ化されたことになります。

もっとも当時の「バットマン」の実写ドラマは、コミカル色が強く、マンガ的。
主人公と相棒のロビンは、時にはお茶目な失敗もやらかします。
また、アクションのたびに
「BIFF! 」「KAPOW!」「ZZZZAP!」など、
コミックで使われる擬音がポップな活字で画面に踊る。
そんな軽いノリが受けていました。
このドラマ自体に、正統派ヒーローのパロディという要素があったかもしれません。

こうしたアメリカン・ヒーローのパロディである日本の2作品は、
どちらもダメダメな少年が正義のヒーローになろうとして頑張る、
その失敗ぶりがギャグになっていました。
それでも正義を守ろうと悪戦苦闘する彼らには、
どこかドン・キホーテの哀愁がありました。

もしかしたら、この1967年頃が
「風刺的模倣の時代」という見方をすることも出来るかもしれません。

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そうして「スポ根」ブームが巻き起こった1969〜1970年あたりには
「正義の味方のヒーロー」はすっかり影をひそめます。

そこへ、1971年、「仮面ライダー」が登場。
「中興の祖」ともいえるでしょうか、
先述のように、再び「ヒーロー」ブームが盛り上がります。
この「修正主義」の時代では、「パーマン」や「パットマンX」で語られていた
ヒーローも不完全な人間であるという、そうした人間性が描かれていたように思います。

「スーパーマン」では、あまり風采のあがらない主人公クラーク・ケントが
電話ボックスで早変わりして、スーパーマンのコスチュームに着替える。
「ウルトラマン」では、人間であるハヤタ隊員がカプセルを掲げて点火させ、
巨大化してウルトラマンとなる。
そうした「変身」は、それまでのヒーローものでも見どころのひとつでしたが、
「仮面ライダー」では、歌舞伎で見得を切るような決めポーズで「変身」を誇張し、
それが当時の子どもたちにウケました。

いくら想像の世界とはいえ、超人やロボットとして生まれることは難しい。
しかし、「変身」と叫んでポーズを決めさえすれば、
弱い自分でも、すばらしい力を手に出来るのではないか、
ヒーローになれるのではないかという無意識的な願望が、
もしかしたら人気を呼んだのかもしれません。

以降、「変身する」という物語の装置は、いろいろな作品に受け継がれていきます。

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やがて1980年代になると、「正義の味方」という立ち位置のヒーローは、
幼児向けの作品を除いて、主流からは姿を消します。
むしろ、「正義の味方」はダサい、というような空気になっていく。

この頃を「風刺的模倣」の時代とするとらえ方も出来ると思います。
そのわかりやすい典型と言えるような作品はなかなか見つからないのですが、
あえて言えば、「タイムボカン」シリーズでしょうか。
悪役トリオをやっつけるパターン的ストーリーや
お決まりの決め台詞や決めポーズのギャグ化は、
「正義の味方」ものの約束事を踏襲したパロディであると言えなくもありません。

また、「Dr.スランプ・アラレちゃん」(1981年)の
キャラクターの一人である「スッパマン」は、もちろん「スーパーマン」のパロディ。
「ドラゴンボール」(1986年)に登場した
「ギニュー特戦隊」は、ヒーロー戦隊もののパロディでした。
その後も、「クレヨンしんちゃん」(1993年)に登場する「アクション仮面」や、
「おじゃる丸」(1998年)に登場する「コーヒー仮面」、
「ごぞんじ! 月光仮面くん」(1999年)など、
正義のヒーローは、パロディとしてちょくちょく登場しています。

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かくて、子どもたちがあこがれるヒーロー像は時代の中で変貌し続け、
子どもたちを取り巻く社会の「正義の“見”方」もまた変貌してきました。

その「修正主義の時代」には、「正義」というテーマが深く掘り下げられ、
問い直されたのではないかと思います。
そうした時代の1972年という同じ年に作られた3つの作品について、
次に考えてみます。

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参考:「正義の味方」のジャンルの歴史を、おおまかに年表にしてみました。
「正義の味方」の系譜





《引用・参考文献》
(1)ルイス・ジアネッティ、堤和子・増田珠子・堤龍一郎訳「映画技法のリテラシー2」フィルムアート社
(2)セルバンテス、堀口大學訳「ドン・キホーテ」新潮社
(3)手塚治虫「海のトリトン(4)ー手塚治虫漫画全集」あとがき・講談社
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月光仮面は、正義そのものではない


近頃とんと見かけなくなった言葉のひとつに、
「正義の味方」というのがあります。

マンガ「ONE PIECE(ワンピース)」では、
海軍の幹部たちが、その制服コートの背中に「正義」の文字を掲げています。
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海軍は、海賊である主人公ルフィにとっては、取り締まる敵側。
しかし敵だからといって、悪の組織というわけではありません。
海軍がみんな悪いというようなオキマリな描かれ方もされません。
ルフィの祖父や、友だちの少年は、海軍に在籍して活躍中。
いいやつも、いっぱいいます。

人々の生活を守るためには、正義を為させばならないとして、
自分の命を張ってでも正義を貫こうとする海軍の主張が描かれたりもします。

一方、「正義を守るため」に、人の自由を奪い、人間性を踏みにじり、
「正義を守るため」に、殺人どころか、大量殺戮を行ったりもする。
そんな非道を行う場所が、
海軍本部の「正義の門」であるというような皮肉が描かれたりします。


力こそがすべてという海賊のひとりは言います。

「海賊が悪? 海軍が正義?
そんなものはいくらでも塗り替えられて来た…!」
「頂点に立つ者が善悪を塗り替える。」
「正義は勝つって? そりゃそうだろ。勝者だけが正義だ!」
(1)

勝てば官軍。負ければ賊軍。
勝利さえすれば、それが正当化されて正義となる現実も描かれます。

「ワンピース」の中で描かれるこうした正義についての様々な「見方」は、
今という時代の「正義」観を反映していると思われます。

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そもそも、「正義」の「正」という漢字。

古代中国で生まれたこの文字は、
「一」と「止」で成り立っています。
「一」は、もともと「囗」で、
四角い城壁に囲まれた邑(まち)のこと。
「止」は足跡をかたどったもので、進むことを意味します。
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壁に囲まれた集落に向かって人が足を踏み込み、攻め進む。
つまり戦争を仕掛けて侵略することが、「正」という漢字なのです。

そして戦いに勝利し、征服することになった集落の人々から、
税を取り立てるそのやり方を「政」といい、
政(まつりごと=政治)の意味となる。

そうした行為は正当であるというのが、
つまり、「正義(正しいすじみち。正しい道理)」。
そこから「正しい」という意味が生まれます。

が、やがて「正しい」という意味で使われているうちに、
本来の「侵略して征服する」という意味が忘れられたため、
征服という意味を表すには、改めて「彳」(ぎょうにんべん)をつけて
「征」という文字が使われるようになったということです。(2)(3)

戦争に勝って征服さえすれば、どんなに税金をしぼり取っても、それは正しい。
それが古代中国の「正義」でした。

まさに、「勝者だけが正義」。
その理(ことわり)は、人間社会の営みの現実として、
現代でもあまり変わらないのではないでしょうか。

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正義は相対的。
こうした「正義」観は、今、マンガやアニメやいろんな作品に描かれています。

その傾向が特に顕著になったのは、やはり2001年の9.11以降でしょう。
アメリカ同時多発テロの衝撃は世界を揺るがしました。

テロという暴力に非があるのはもちろんですが、
しかしこの事件とその後の動きをきっかけに、
テロリスト側にはテロリスト側の「正義」があること、
アメリカ側にはアメリカ側の「正義」があること。
“世界の警察”を任ずる米国の「正義」も絶対的ではないことが
浮かびあがってきた気がします。

その半年後につくられた2002年の仮面ライダー・シリーズ
「仮面ライダー龍騎」では、
それぞれ異なる生き方を持ったライダーが、13人登場。
ライダー同士が殺し合い、
最後に生き残った一人の願いが叶えられるというルールのもと、
「バトルロワイヤル」が繰り広げられます。

そんな中、いろいろな問題が問われました。
──自分の野望のため、自分の幸福のためには、他人をないがしろにしていいのか?
──多くを救うためには、一人を犠牲にするべきなのか?
──愛する者を守りたい。が、そのためには他人を顧みないでいいのか?

これらは、ベストセラーとなった
マイケル・サンデル「これからの『正義』の話をしよう」(4)
取り上げられている問題といってもおかしくないかもしれませんね。

主人公の仮面ライダー龍騎は、
「戦いは止めるべきだ」と不戦を主張し、
けれど、そのためには戦わなければならないというジレンマの中、
最終回を待たずして息を引き取ります。
最期まで不戦を主張した彼の意志は、他のライダーに引き継がれるのですが。

13人の中には、暴力衝動のままに戦う仮面ライダー、
不正悪事を行う仮面ライダーもいました。
仮面ライダーの「正義」も、絶対ではない。

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昔のヒーローはみんな、「正義の味方」だったような印象があります。
筆者も子どもの頃、仮面ライダーは「正義の味方」だと思って育った世代です。

いつの世にもヒーローがいて、子どもたちはあこがれます。
その物語を、まるで養分にするかのように自分の中にとりいれて育つものです。
しかし今、時代が変わっている。
正義の“見”方が変わっている。

こうした傾向は、子どもたちに影響を与えるのでしょうか。
与えるとしたら、どんな影響を与えるのでしょうか。

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「正義」をテーマに戦ったヒーローたち。
「正義を守る」とか、「正義のため」とか、表現はいろいろですが、
「正義に味方をする」
というのは、言い得て妙です。

この「正義の味方」という言葉は、ウィキペディアによると、
実写ドラマ「月光仮面」の主題歌(作詞・川内康範)で初めて使われたと書かれています。

なるほど、その川内康範さん(原作・脚本も手がけた)は
インタビューにこう答えています。

「アメリカの『スーパーマン』がありましたよね。
これが大変人気だった。
超人的な力を持って弱者を助ける。
その点においては月光仮面と一致するんです。
でもそれ以外では別物なんだ。
人間の限界の中で正義の味方でなければいかん、
俺はそう思ったんだ。
だから月光仮面の実体は人間でなくちゃいけない」

「月光仮面は月光菩薩に由来しているんだけれど、
月光菩薩は本来、脇仏なんだよね。
脇役で人を助ける。
月光仮面もけっして主役じゃない。裏方なんだな。
だから『正義の味方』なんだよ。けっして正義そのものではない。
この世に真の正義があるとすれば、それは神や仏だよな。
月光仮面は神でも仏でもない、まさに人間なんだよ」
(5)

絶対的な正義はない。
ましてや自分自身が正義のような顔をして力を駆使することは
はたして正しいのだろうかという問いがあります。
完全ではないひとりの人間として、それでも
正義の側に味方をすることでよりよい社会を築こうとする。
それが月光仮面なんですね。

川内康範さんは若い頃、暴力が支配する不条理な労働現場や、
陰湿ないじめの横行する軍隊を体験したそうです。
そして、戦争の悲惨さを体験する。
戦争では、アジアの平和を守らなければならぬという
日本の「正義」は絶対でした。
それが敗戦によって崩壊する。
そうした絶対的な「正義」への疑問もあったでしょう。

戦後13年を経た1958年(昭和33年)当時、
すでに戦争のいたみを知らない世代の子どもたちも増え、
何が正義で、何が悪かの基準があいまいになっていたといいます。
絶対的な正義はないとしても、正義のためには力になりたい。
そこで、正義に味方をする月光仮面の誕生ということになったのだそうです。

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あれ? 
「正義の味方」って、「黄金バット」でも使われていなかったっけ?
街頭紙芝居の「黄金バット」は、月光仮面が生まれるずっと前に誕生していたはず……。
と思って、故・森下正雄さんの遺された録音を確かめたら、
やっぱり使っておられました。
「正義の味方、黄金バット!」と高らかな名調子で語っている(6)

そもそも「黄金バット」(戦後に作られたもの。戦前のものは焼失しています)の
裏書きの脚本に「正義の味方」と書かれています(7)

また、1930年(昭和5年)の「黄金バット」誕生当時のいきさつを
加太こうじさんが描写したくだりを読んでも、
「突如としてあらわれた正義の味方、黄金バット。ウハハハハ」
と、初めて登場したときの台詞が書かれています(8)

これは、1930年の紙芝居でも使われていた伝統的な言葉だったのでしょうか?
それとも、ウィキペディアの通り、
「月光仮面」のときに発明された言葉だったのでしょうか?
だとすれば、「月光仮面」放映の1958年以降、世間に出回ったこの言葉を、
紙芝居の作者加太こうじさんや、あるいは演じ手たちが取り入れて
後付けしたということになりますね。

今のところ、筆者にはちょっとわかりません。

ただ、いずれにしろ「正義の味方」という言葉は、
ヒーローのキャッチフレーズとなりました。
そこに川内康範さんが込めた真意が伝わっているかどうかはともかく、
広く世間に浸透していきました。

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《引用・参考文献》
(1)尾田栄一郎「ワンピース」五十六巻・集英社
(2)阿辻哲次「漢字の字源」講談社現代新書
(3)白川静「常用字解」平凡社
(4)マイケル・サンデル、鬼澤忍訳「これからの『正義』の話をしよう 〜いまを生き延びるための哲学」早川書房
(5)竹熊健太郎「篦棒(ベラボー)な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝」河出文庫
(6)森下正雄「黄金バット(怪タンク出現/怪獣編)」~CD「日本の大道芸ー紙芝居のすべて」キングレコード・所収
(7)加太こうじ作・画「黄金バット(ナゾー編)」~アサヒグラフ別冊「戦中戦後・紙芝居集成」朝日新聞社・所収
(8)加太こうじ「紙芝居昭和史」立風書房
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「いないいないばあ」遊びは、世界のいたるところで行われているようです。

英語では、「peekaboo」あるいは「bo-peep」と呼ばれるやつですね。
「peek」も「peep」も「のぞき見する」というような意味。
「boo」は、いわゆる「ブーイング」するときに発する擬音の言葉で、
スポーツの試合運びが不満なときなどに、
観客が「ブー!」と言って野次ったりします。
が、その他にも、人を驚かそうとする場合に「ブー!」と言うのだそうです。
日本で「バア!」と言って驚かせるのにそっくりです。
つまり、チラチラ「のぞき見」して、「ブー!」と驚かす。

けれど、遊ぶときには、
「いないいない……」で隠れて、「ばあ!」と飛び出すのではなく、
かけ声はないままに隠れて、飛び出すときに「peekaboo!」と言っています。






ドイツでは、「ばあ」にあたる部分を「kuckuck(ココック)」というそうです。
これはカッコウの鳴き声で、英語では「cuckoo」といいます。

「cuckoo」といえば連想されるのが、「cuckoo clock」。
日本で言うところの「鳩時計」。
日本では、カッコウ(閑古鳥)が鳴くのは縁起が悪いということで「ハト」に変えられてしまいましたが、
ほんとは「カッコウ時計」なんですね。

この「カッコウ時計」の発祥の地は18世紀頃のドイツだそうで、ドイツでは
「Kuckucksuhr」
と呼びます。

そういえば、扉の裏に身を隠しておいて、時が来ると「クックー!」と飛び出して驚かす。
あのカッコウ(日本ではハト)の仕草は、「いないいないばあ」にそっくりです。

すると、カッコウ時計が発明されて普及してから、
赤ちゃんたちが「Kuckuck!」と言い出したのでしょうか?
それとも、赤ちゃんたちが「Kuckuck!」と言って遊んでいるのを見て、
カッコウ時計を思いついたのでしょうか?




上の動画では、日本の「いないいない……」の部分を「Kuckuck」と言って、
「ばあ!」の部分を「Da(ダー)!」と言ってますね。


フランスでも、「ばあ」にあたる部分を、「coucou(ココゥ)」というそうです。
やはり、カッコウの鳴き声です。
フランス語で「隠す」は「Cacher」だそうで、「いないいないばあ」は
「Cache cache coucou (カシュ・カシュ・ココゥ)」
と言うのだそうです。




スペインでは、「cucú(ククー)」というそうです。
やはり、カッコウの鳴き声。
だから、「いないいないばあ」遊びをするというのは、「hazle cucú」というそうです。
(“hazle”は、英語の“do”の意味で、つまり「ククー」遊びをやる、という意味になります。)




オランダでもやはり、カッコウの鳴き声「koekoek(ククー)」を使って、「いないいないばあ」遊びをしています。



イタリアでは、
「Bubu settete」
と言っています。
「Bubu(ブー・ブー)」が、「いないいない……」と隠れるところで、
「Settete!(セッテテ)」が、「ばあ!」と驚かせるところ。



この「Bubu(ブー・ブー)」のところを変えて、
「Cucu settete(クー・クー・セッテテ)」ということもあるようです。
「Cucu」というのは、やはりカッコウの鳴き声を思わせます。



以上、カッコウの鳴き声に関連がありそうなヨーロッパ諸国の例を見てきましたが、
お隣りアジアの韓国でも、「kkakkung(カックーン)」と言っています。
これもやはり、カッコウの鳴き声を連想させる言葉で、
「もしかしたらヨーロッパの影響があるのでは?」と、素人は単純に当て推量してしまうのですが、
さて、どうでしょう?




カッコウの鳴き声が主流のヨーロッパですが、しかしチェコでは言わないようです。
日本の「ばあ!」に当たる部分を言わないで、「いないいない……」に当たる部分を、
「budliky budliky」
と言うようです。
意味はわかりません。



スウェーデンでは、「Tittut(ティトゥ)」と言うようですね。
けれど、下の動画では、ときどき「ククゥ」とも言っています。
するとやはり鳥の鳴き声と関連があるのでしょうか?




中国では、「いないいないばあ」遊びを、「躲貓貓遊戲」と訳します。
「躲貓貓(デュオ・マオ・マオ)」と発音するようですが、遊ぶときには定型の唱え文句はないようです。
が、日本の「ばあ!」の部分を「ジャア!」と言うこともあるようです。
「躲」は、「躱(かわ)す」で、「かくれる」の意味。
ネコが物陰にかくれるイメージでしょうか。
しかし、「躲貓貓」は、かくれんぼのような遊びのことを意味する言葉でもあるようです。




タイでは、「จ๊ะเอ๋」というようです。
言葉も、何と読むかもよくわかりません。
が、動画を見ると、「ダ・エー!」と言っているようですね。
「いないいない……」が「ダ」、「ばあ!」が「エー!」に当たるようです。




インドネシアでは「ciluk baa」または「ciluk ba」というようです。
動画では「チル・バア」と言っているように聞こえます。
「ciluk」は、インドネシア語でやはり「peek」「チラッとのぞく」を意味するそうです。
下の動画は、照明が暗いのがちょっと残念ですね。





以上、「いないいないばあ」を「You Tube」で探してみました。
アジアや、南米、アフリカなど、もっといろいろなヴァリエーションがあるかと思います。

遊びの唱え文句としてカッコウの鳴き声を言うなど、伝えられる文化の影響もそれぞれに感じられます。
が、やっていることは、どの国もあまり変わりがないようですね。
遊ぶ赤ちゃんの姿に、どうやら国境はない。
時に明るく激しく、時に穏やかに、どの子も、「いないいないばあ」遊びの良きプレイヤーだなあと思います。
みんな、いい顔してるなあ。
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