カテゴリ:紙芝居/演じるとき( 15 )

f0223055_9481732.gifコミュニケーションをひきおこす3つのこと


さて、これまで、まついのりこさんが言われる
コミュニケーションをひきおこす紙芝居の3つの要素(「紙芝居~共感のよろこび」(1))について
考えてきました。

1、演じ手の表情
2、演じ手の文章を読む間
3、演じ手の画面をぬく間

の3つです。

以下にちょっと整理してみます。


1、演じ手の表情

紙芝居は、ただ一方的に演じられるものではない。
紙芝居の演じ手と観客は、ボールの見えないキャッチボールをしている。
演じ手は声や言葉や、そして表情を投げかけ、観客は拍手やブーイングなどの仕草だけでなく、
態度や表情を投げ返す。

観客は基本的には画面の絵をながめ、演じ手も観客が絵に集中するように促す。
が、観客は視界の端で演じ手の表情や視線を感じており、確認している。

そうして時々、合間合間で、演じ手と観客のあいだにアイ・コンタクトが結ばれる。
こうした生ライブのキャッチボールを通して、物語がいきいきと伝えられる。

2、演じ手の文章を読む(語る)間

聞き手が発するあいづちは、語り手にとっては、
言葉が届いているか、物語が伝わっているか、その反応具合を確認するフィード・バックでもある。
句読点などの区切りに入れる短い「間」は、あいづちを促すことになる。
紙芝居ではあいづちを打つ習慣はないが、
観客が発するそうした呼吸を感じとりながら、演じ手は物語を進める。

逆に、あいづちを促すような「間」をとらずに、ただ言葉をたれ流すだけだとしたら、
観客は受け取った言葉を咀嚼し、味わい、考え楽しむことが出来にくくなる。

「間」は、観客が物語のイマジネーションをふくらませ、味わい、
主体的に考え楽しむ時間を用意する。
「間」によって観客は想像し、そうすることによって、ただ物語を受け取るのではなく、
物語へ参加するように促される。

「間」が緊張を生み、さらに盛り上げたり、逆に緩和を受け入れさせたりもする。
それが演じ手と観客のあいだに呼吸のやりとりを生じさせる。
それによって、「間」が笑いを生んだり、スリルやサスペンスの効果を生むことになる。

こうした「間」などによる緊張と緩和のコントロールは、観客同士の呼吸をそろえさせ、
それがまた、その場の一体感の楽しみとなる。

3、演じ手の画面をぬく間

紙芝居の場面には、次の展開を予期させ、興味を引っ張る「引き」と、
その「引き」に対応して展開の結果をしめす「受け」がある。
「引き」から「受け」への場面転換は、
「文章を読む(語る)間」と連動する「間」をつくることで、
ワクワクと想像を高め、劇的な効果と楽しさを生じさせる。

それは、遊ぶ者同士が「おしたり、ひいたり、はぐらかしたり」するような
「いないいないばあ」に代表される遊びの原型に根ざしたものであり、
紙芝居は、そうしたやりとりの「間」を遊び、「間」を楽しむものである。

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これらは、別々にはたらくわけではありません。
互いに重なり合い、入り混じりながらはたらいたりもします。

そして、これらがひきおこすコミュニケーションは、
上っ面をなでるだけのものではないと思うのです。
なぜなら、このコミュニケーションの本質は、物語を手渡すことだからです。

演じ手と観客がひとつの物語を共有して、いっしょに物語の世界をつくり出して、遊び合い、
その楽しさを分かち合う
──そこに、紙芝居というコミュニケーションの本質があるのだと思います。

それは、いわゆる「参加型紙芝居」でも同じですね。
ここで言う「物語」というのは、ストーリーという意味だけでなく、
広い意味での「物語」ということ。
「参加型紙芝居」でも、たとえばそれは、きげんの悪いコックさんと仲良しになったりという、
ひとつの物語をつくることであるわけです。

子どもは 、その物語に参加し、共感し、遊び戯れ合いながら、
そうして演じ手とみんなで協力し合いながら、物語をつくっていく。

そうした「参加型紙芝居」でも、演じ手の「表情」「読む間」「ぬく間」というのは、
大事な役割を果たすのだと思います。

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保育者である清水エミ子さんが、「心で握手」という言葉を使われています(2)
保育の現場で子どもたちに言葉かけをするとき、それは心で握手をするようだというのです。
いい言葉だなあと思います。
つくづく。

誰かから誰かへ言葉を伝えることは、その声で心に触れるということなのかもしれません。
生の声でことばを手渡し、物語を手渡す紙芝居もまた、その心に触れることなのでしょう。
それは単純に、「遊ぶ」ことでもあります。
また、心の深いところへ届くことも、たぶんある。

それは、知識や情報として頭にインプットさせることではありません。
理解・学習させることでもありません。
感覚的に刺激するだけでもない。
感情的に反応させるだけでもない。
子どもたちは、まるごと物語の中に入り込んで遊ぶ。
体験する。
というより、物語を生きる。

そして演じ手もまた、演じるとき、物語を生きるんでしょうね。
演じ手と観客がお互いに協力し合いながらひとつの物語をつくっていく。
そのとき、遊びに参加する同士として、心の中で握手したり、時には突っつき合ったり、
時には肩をたたきあったりする。

たとえそれが、どんなにくだらない、たわいのない馬鹿ばなしであったとしても、
たとえ演じ手が、途中途中でつっかえては言葉につまり、
どんなに下手くそな演じ方であったとしても、
物語を遊ぶことで、子どもたちと「心で握手」……。
紙芝居というのは、そんなふうなコミュニケーションのひとつのかたちではないかと、
筆者には思えてなりません。







《引用・参考文献》
(1)まついのりこ「紙芝居~共感のよろこび」童心社
(2)清水エミ子「園児と心で握手」学陽書房
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f0223055_8553355.gifおしたり、ひいたり、はぐらかしたり



「いないいないばあ」遊びを、「おしたり、ひいたり、はぐらかしたり」する関係という視点で
もう一度見直してみましょう。

まず、おとなが「○○ちゃん」と声をかけたり、アイコンタクトをとる。
「遊びをしようよ」と提案し、「始めるよ」と相手にはたらきかける。
このときが、相手に対して押し出す──「おしたり」のところですね。

そしていったん押し出した後、「いないいない……」と言いつつ、顔やからだを隠す。
このときが、「ひいたり」のところです。
つまり、引く。

こちらが引くと、今度は相手の方が押し出してきます。
関心を寄せてくる。
前回の動画では、ぬいぐるみが隠れたとき、赤ちゃんは
「どうしたの?」とでもいうように、まさしく身を乗り出して近寄ろうとしていました。

ここで「間」をとる。

今まで滔々(とうとう)と語り次ぎ、声を連ねて押し出していた後で、
「間」をとり沈黙をつくることは、「引く」ことでもあります。

落語家・古今亭志ん生師は、「間」をとると、観客の気持ちが自分の方へ寄って来るのがわかる、
と語っていたそうですが、
演じ手が引くことによって、観客が寄ってくる。押し出して来る。
赤ちゃんは、まさに体まるごとで押し出して来ていましたね。

これはまた、絵本や紙芝居でいえば、まさしく「引き」の場面です。
関心を「引き」つける。
興味を「引き」つける。
これからどうなるだろうかと想像させ、予期させる。予想をさせる。

▼図8:いないいないばあの「引き」
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そうして赤ちゃんの気持ちがこちらへ寄って来たところへ、
今度はこちらから「ばあ!」と押し出す。
寄せては返す波のように、押して引いて、再び押すわけです。

両手をどけて、「ばあ!」と顔が飛び出す。
絵本のページをめくって、さっと絵が飛び出す。
紙芝居の画面をぬいて、ぱっと絵が飛び出す。
「引き」の場面を受けての「受け」です。

▼図9:いないいないばあの「受け」
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「いないいないばあ」をモチーフにした絵本には、

「いないいないばあ」(松谷みよ子文、瀬川康男絵)童心社
「いない いない ばあ」(あかちゃんのためのえほん)(いもとようこ作)講談社
「いないいないばああそび」(あかちゃんのあそびえほん)(木村祐一作)偕成社
「いないいないばあ! ~めくってあそべて鏡つき」(フランチェスカ・フェリッツ絵)世界文化社

などがあります。
紙芝居でも、

「みんなでいないいないばあ」(なかむらとおる作、中村陽子絵)教育画劇

などがあります。

これらはすべて、「いないいない……」と隠れる「引き」、
そして「ばあ!」と飛び出す「受け」の場面のくりかえし、
もしくはヴァリエーションで構成されています。

両手をどけたり、物陰から「ばあ!」と飛び出す一連の動作が、
ページをめくったり、画面をぬくという場面転換の動作に置き換えられているんですね。

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この「引き」から「受け」へと場面転換する間合い、タイミング。
絵本の場合、このタイミングは、読者自身や読み聞かせるおとなに任せられていますが、
あまり重要視されることはないように思います。
しかし、紙芝居の場合、この間合い──つまり「演じ手の画面をぬく間」は、
演じるときの大切な要素のひとつです。

その「間」。その呼吸。
これはそのまま 、「いないいないばあ」を遊ぶ呼吸でもあるわけですね。
場面をぬくという、ただそれだけの動作は、「間」がつくられることによって、
いろいろなニュアンスを持つようになります。

たとえば、「間」をゆっくりとためて、次の場面に興味をもたせながら、
そろりそろりとぬいていく。
あるいは、あえて「間」をつくらずに、とんとんとたたみかけるようにぬく。
不意をついて突然、「間」をおかずにさっとぬいて、意外な展開にびっくりさせる。
または、ふんわりとぬいてほっと安堵させたりする。
またあるいは、これからの展開はどうなるかと、じらして気をもたせて、
じゅうぶんに「間」をとった直後に、さっとぬく。
あるいは、はぐらかして、またじらす。

これは、今か今かと待たせたところで予測通りに「ばあ!」と顔を出したり、
あるいははぐらかしたりする「いないいないばあ」といっしょです。
──そう、赤ちゃんと「peekaboo」で遊んでいた男性が行っていたヴァリエーションのように。

またたとえば、観客が「気を詰めて(息をこらして)」、
「ああ、もうすぐ画面をぬくぞ、もうすぐ絵が変わるぞ」と
緊張して固唾を呑んでいるようなときには、そっとぬく。
逆に、観客がのんびりと構えているようなときには、気合いをしっかり入れて、きっと力強くぬく。
──などと世阿弥が説いていたような、観客の裏をかくやり方も、「面白し」と言えるかもしれませんね。

に紹介した
図4~5(まどみちお脚本、片山健絵「て て て」童心社)や、
図6~7(岡田ゆたか脚本/絵「さとり」~シリーズ「日本の妖怪ぞろ~り」童心社)などでも、
「引き」から「受け」へ、どんなふうに「間」をとってぬくかによって、
物語の印象や楽しさが変わってくるでしょう。

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よく知られているポピュラーな昔話「浦島太郎」の、たとえばこんな場面。
竜宮城から故郷の浜へ帰ってきた太郎は、
変わり果てた村の景色と、家族も知り合いも誰もいないことに愕然とします。
すでに両親は墓の中。
近所の人に話を聞けば、自分は300年前に行方不明ということにになっている。
竜宮城にいた3年の間に、こちらの世界では300年が経ってしまったらしい。
呆然とする太郎のかたわらに、
乙姫さまから「けっして開けてはならない」と言って渡された玉手箱があります。

▼図8:引き 「うらしまたろう」(15場面)より、模写。(1)
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「さびしさのあまり、たろうは
おとひめさまとの やくそくを つい
わすれて、たまてばこの ふたに てを かけた。
 ──さっとぬきながら──
それを あけた とたん」
(1)

この次の瞬間どうなるか?
──は、年齢の小さい子を除いては、おそらくみんな承知のことかもしれません。

(もっとも最近では、「浦島太郎は誰の背中に乗って行ったのかな?」という質問に、
「アンパンマンに乗って行った」と答える子も増えているそうなので、
必ずしも知っているとは言えないかもしれませんね。)

次の瞬間、煙が出てきて太郎が白髪のおじいさんになるということを、
観客のみんなが知っていたとしても、けれどおもしろさには変わりありません。
何世代にも渡って語り伝えられて来た昔話には、ストーリーがわかっていたとしても、
だからこそ引きつけられる魅力があります。

脚本のト書きでは、「──さっとぬきながら──」と書かれていますが、
これは演じ手によって、いろいろな工夫が出来る箇所です。

たとえば、「……ふたに てを かけた。」の後でゆっくり「間」をとった後で、
「それを あけた とたん」と言いながら場面をぬいていく。
このとき、「それを あけた とたん~~」などと語尾をのばすような言い方もあるでしょう。
あるいは、「それを あけた とたん!」と強く言い放ってから、そこで「間」をとってじらす。

また場面のぬき方にしても、あえてト書きに逆らっていいと思います。
さっとはぬかずに、緊張感をたたえながら、ツツツーーッと静かにぬいていく。
あるいは、じらすように、ゆっくり、ゆっくり、ぬいていく。
あるいは、煙がわきあがる様(さま)を擬して、
モックラ、モックラというように動きに変化をつけながらぬいていく。

▼図9:受け 「うらしまたろう」(16場面)より、模写。(1)
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こうしたぬき方や、ぬく「間」のヴァリエーションは様々で、
どれが正解とは言えないと思います。
「いないいないばあ」でおとなと赤ちゃんがいろいろな「間」を遊ぶように、
演じ手と観客の子どもたちが自由に「間」を遊ぶことは
紙芝居の醍醐味のひとつではないでしょうか。

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もうひとつ、例を見てみます。
渡辺享子脚本/絵「トラのおんがえし」(2)です。

中国の昔話。
イエン先生というお医者さんが、ある日、山奥の村へ診療に行った帰り、道に迷います。
そこへ現れた二人の若者兄弟。
母親が病気で苦しんでいるので助けて欲しいと言う。
そこで先生は兄弟の家へ行き、母親に手術を施し、その日は家に泊めてもらいます。

翌朝目を覚ますと、家の中には1匹の老いた雌のトラと2匹の若いトラが寝ている。
雌のトラには、昨日行った手術の跡。
「ああ、病気の母親のためにトラの兄弟が人間に化けてきたんだな」と先生は悟り、
薬をそっと置いて家路に着きます。

それから数年後。
山を通りかかった先生が、オオカミに襲われてしまう。
たちまち押し倒され、ガブリと食われようとしたまさにそのとき。

▼図10:「トラのおんがえし」(8場面)より、模写。(2)
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「ガオーッ」
と、とどろき吠える声があたりの山を揺るがしたかと思うと、
ドッドッドッドッと二匹のトラが地響きをたてて駆け下りてくる。

模写では伝わりませんが、実際の絵では、
勢いのある筆致で迫力満点のトラが描かれ、迫って来ます。

▼図11:「トラのおんがえし」(9場面)より、模写。(2)
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さしものオオカミも、トラに蹴散らされ、たちまち逃げ去る。
が、しかし、「前門の狼、後門の虎」のたとえそのままに、
危難去ってさらにまた大きな危難、
今度はトラに食われてしまうのかと、覚悟を決め、目をつぶるイエン先生。

▼図12:「トラのおんがえし」(10場面)より、模写。(2)
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ところが、トラはなかなか襲ってきません。
そこで、おそるおそる、目をそっと開けると……。

▼図13:「トラのおんがえし」(11場面)より、模写。(2)
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トラたちがニッコリと微笑みかけ、イエン先生をのぞきこんでお辞儀をしている。
そこで先生は、二匹のトラがあの時の兄弟であり、
母親を助けた恩返しにオオカミから救ってくれたことを理解します。

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ここで、絶体絶命のピンチ、オオカミに襲われてどうなってしまうのかという8場面(図10)は、
「引き」です。
「オオカミに食べられてしまうぞ」ということを予期させ、興味を引きつける。

そこへトラが登場する9場面(図11)は、オオカミが四散する10場面(図12)と連動して、
8場面の「引き」に対する結果の「受け」をあらわします。
とりあえずは、トラがオオカミを追っ払ってくれた。
しかしさらに、この2つの場面は、
今度はトラに襲われてしまうかもしれないという「引き」でもあります。
「受け」と「引き」の両方のはたらきを担うわけです。

この「引き」に対して、トラが微笑む11場面(図13)は、
トラは実は助けに来てくれたのだったということが判明する結果の「受け」です。
危機また危機の緊張の連続が、ここでホッと緩和する。


しかしながら、物語の前半で、人間の姿をしていた兄弟が実はトラであったことは
すでにわかりやすく絵としても明かされています。
だから、トラがドッドッと登場する9場面(図11)の時点で
「あ、あのときのトラが助けに来たんだ」
と気づく子どもたちも多いと思います。
このときのトラは、恐怖の対象というより、
勇猛な、頼れる味方として、子どもたちの目に映るのではないでしょうか。

そしてやはり、物語でいちばんの山場は、この9場面でしょう。
なので、絶体絶命のピンチ(8場面)から、颯爽と登場するトラ(9場面)への転換は
たっぷり「間」をとって劇的な効果を演出し、
後の場面転換はもったいつけずにさほど「間」をとらず、さらりと流していいかもしれません。

一方、もうひとつのやり方として、
トラは味方だと観客が知っていたとしても、
トラに食べられるかもしれないと怖れた主人公の心理に沿って、
後の場面転換も、あえて丁寧に「間」をとるのもアリだと思います。
年齢の小さい子が観客であれば、こちらのやり方の方がわかりやすい。

この場合、年齢の高い観客には、最後の「受け」の11場面(図13)での意外性はありませんが、
「やっぱりね」と予想の通りに展開する楽しさの効果があることになります。

言葉だけで「引き」をあらわしたり、
1枚の画面で「引き」と「受け」の両方をあらわしたりと、
「引き」と「受け」のかたちは様々です。

そこに「間」を入れるか入れないか、入れるとしたらどれくらいの長さの「間」にするか。
それは、演じ手の物語に対する解釈や演出のし方によります。
そしてそれはまた、演じ手と観客との「おしたりひいたり、はぐらかしたり」という
「いないいないばあ」に通じる遊びのやりとりにもよります。

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けれども、ひとつの紙芝居の場面場面すべてに「引き」と「受け」があるわけではありません。
物語の進行に合わせて機械的にぬくばかりという場面もあるでしょう。
この稿ではくわしく触れませんが、余韻を味わったりするような「画面をぬく間」もあります。
また、話の流れを変えたり、情景場面が変わったりするような場面転換のときにも、
長い「間」を入れたりします。

しかし、小さな「間」から、「ここぞ」というクライマックスでの大きな「間」まで
(小さい大きいは、時間の長さではありません)、
「ぬく間」は、どんな紙芝居にもあります。
もしかしたら隠れていたりする。

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たとえば、紙芝居を始める導入時。

どんな作品を演じるのか、子どもたちにまだ知らせていないような場合。
「今日は、とっても怖~い紙芝居を持って来ました。さて、どんなはなしかな?」
などと前置きを言う。
これが「引き」になります。

そうしてたっぷりと「間」をとってじらしてから、子どもたちのおしゃべりや反応を引き出し、
想像させ、期待を高めてから、おもむろに舞台の窓を開け、表紙を見せる。
表紙を見せるところが「受け」です。

あるいはまた、
「これからやるのは『やさいむらのあかたろう』(3)です。
この紙芝居には、赤い色の野菜が出てくるよ。さて、どんな野菜が登場するでしょう?」
などと言って「間」をとり、子どもたちのおしゃべりを聞いてから、
「うーん、それじゃ、そのトウガラシとかが出て来るかしら?」
などと言いつつ、おもむろに表紙を見せる。

あるいはまた別の紙芝居。
表紙を見せたところで、
「この紙芝居の題は、『ぴょんぴょんにょきにょき』(4)って言います。
ヘンテコな題でしょう?
『ぴょんぴょんにょきにょき』って、いったい何のことだろうねえ?」
などと言って「間」をじゅうぶんとって、子どもたちにあれこれ想像させたり、
おしゃべりさせてから、やおら脚本を読み始める。

などなど、これからどんな物語が始まるのか、導入部でも「間」をとることによって、
いろいろ想像と期待をかきたて、ワクワク感を盛り上げたりすることも出来ます。

「間」を意識することによって、
「舞台の窓を開く」
「画面をぬく」
などの単なる作業が、観客の子どもたちとの遊びのかけひきとなるのです。
それが、物語をよりおもしろくする。

あ、いえ。
そんなことを意識しなくても、紙芝居を楽しんでいるというときには、
無意識的にこの「間」をつくったやりとりをしているのではないでしょうか。
ちょうど赤ちゃんとおとなが、「いないいないばあ」を遊ぶように。

この「間」の遊びは、人間が赤ん坊の頃からつちかってきた
原初的なコミュニケーションのひとつのかたちでもあるんですね。

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《引用・参考文献》
(1)若林一郎脚本、西山三郎絵「うらしまたろう」~シリーズ「日本名作おとぎばなし・むかしむかしあったとさ」童心社
(2)渡辺享子脚本/絵「トラのおんがえし」童心社
(3)中村ルミ子脚本、久住卓也絵「やさいむらのあかたろう」童心社
(4)荒木文子脚本、山口マオ絵「ぴょんぴょんにょきにょき」童心社
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f0223055_7401056.gifいないいないばあの「間」を遊ぶ


演じ手が演じている最中というのは、たいてい緊張するものです。
ふだんより時間が速くゆき過ぎるような感覚がある。
そのため、自分ではたっぷりすぎるほどの「間」をとったつもりでも、
実際には、存外に短いということが多いようです。
しかしながら、「間」をただ長くすればいいというものでもない。
「文章を読む(語る)間」でもそうですが、あまりに長いと、「間」がもてなくなる。

それでは、どのくらいの長さの「間」をとればいいか?
それは、観客との呼吸の見極めということになるのではないでしょうか。

……なーんてエラそうに書いちゃいましたが、
要するに、
「ほおら、行くよ行くよ。いや、じらしちゃおうかな? どう? もっと間をとっちゃおうか?」
と、相手の呼吸をはかるように遊ぶ感覚。
これがないままに、ただ機械的に「間」をあけるだけでは、「間延び」がする。
相手が飽きて、興味がなくなったことに気づかないままに「間」を延ばし続けたとしたら、
意味も緊張も失せ、「間」であったはずの時間は単なる「空白」に変わってしまうでしょう。

この、演じ手と観客が戯れて遊ぶという感覚。
これは「いないいないばあ」遊びにつながるのではないかと、筆者は考えます。

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「いないいないばあ」で遊んだことのない人はいないのではないのでしょうか。
すっかり忘れてしまったおとなは多いかもしれませんが、赤ちゃんの頃には、きっと誰もが遊んだ遊び。
おそらく、世界中のどの赤ちゃんにインタビューしても、
「ああ、あれね。あの遊びなら知ってるよ」と答えてくれるのではないかと思われます。
(参照:当ブログ「『いないいないばあ』in the world」

「いないいない……」(チェコでは「budliky budliky……」)
と言いながら、おとなの側が、両手で顔を隠す。
あるいは、ハンカチやタオルや柱やテーブルや何かの物陰に顔だけ隠す。
あるいは全身を隠す。
その後、
「ばあ!」(英米では「peekaboo!」、フランスでは「coucou!」など)
と言って、顔や全身を現して驚かす。
──というのが基本的なパターンですね。

この動作を赤ちゃん側がやるパターンもあります。
その場合には、顔や全身を隠すというよりも、目だけを隠したりうつ伏せになったりして、
自分の視界をさえぎるだけのことも多いようです。

同じパターンの遊びが、自然発生的に、これだけ世界的に分布し浸透しているというのは、
やはり赤ちゃんの生理──つまりは人間の生理に合っているのでしょう。

教育心理学者のブルーナーは、この遊びに相手(養育者であるおとな、主に母親)の顔の
「消失」「再現」という深層構造があることを指摘しています。

子どもがよくやる(おとなも時々やる)イタズラに、曲がり角やドアの後ろなど、
物陰に身を隠しておいて、いきなり飛び出してビックリさせるというのがあります。

が、「いないいないばあ」では、そういったサプライズはありません。
これから飛び出して現れることを予告してから隠れます。

遊び始めるとき、たいてい二人はまずアイ・コンタクトをとります。
視線を交わして、お互いを確認する。
おとな側が、赤ちゃんの名前を呼んだり、言葉をかけて注意を促すことも多いですね。
遊びをしかける側にとっては、
このアイ・コンタクトが「これから遊びを始めるよ」という合図になり、
「これから隠れるからね」という予告となります。

そして、おとなが「いないいない……」と、両手や物陰に顔を隠す時、
子どもは一時的に「消失」感を味わいます。

でも、ものが隠されたとしても、そこに存在しているということは理解出来る。
発達心理学者ピアジェが説いた「対象物の永続性」というやつです。
やはり発達心理学者のスペルケによれば、
生後4ヶ月の乳児であれば、物理的な理解ができるのだそうです(1)

あ、隠れてる、と頭ではわかる。
しかし、心理的には「消失」です。
なれていなければ、後追いしようとすることもあるかもしれません。
しかしそこで、「ばあ!」と登場。
おとなの顔の「再現」です。
ここで再び視線を交わしあい、二人のつながりを再確認することになるんですね。

赤ちゃん側からしかけるパターンでも同じです。
目を閉じたり、顔をそむけたり、自分で毛布にもぐったりする。
それはもちろん対象(母親などのおとな)が失われるわけでなく、
単に自分の視界から外れるだけのことですが、
一時的な「消失」がつくり出される。

そして「再現」がなされ、再び視線を交わし合った瞬間、
おとなから「ばあ!」と声をかけられることで、
その「再現」がよりドラマチックな楽しい遊びとなります。

そもそも、赤ちゃんは、
「人の顔、とくに表情のある顔や、動く顔を見せられるといった刺激に対しては
強い反応を示して笑ったりする」

のだそうです(2)

さらにそれが親しい顔や、愛着のある顔であれば、この「再現」の喜びと笑いは、
倍にも十倍にもなるのでしょう。

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そしてまた、その喜びと笑いには、
「予期」したことが当たるという楽しさも関与するのではないかと思われます。

保育所の保育活動に参加するかたちで調査された友定啓子さんが、
6ヶ月の赤ちゃんについての観察を書きとめておられます(3)

赤ちゃんのベッドの上でおもちゃがメリーゴーランドのようにくるくる回る玩具、メリー。
ベッドで目覚め、そのメリーの回るのを見た彼は、口を開け、あごを出し、
「楽しそうに長い間声を出し」
「今にもよだれを流さんばかりにして」
熱心に見つめていたのだそうです。
そのメリーは、つり下げられた四つの動物がゆっくりと回転をくりかえすだけの単純なもの。
けれどたとえばウサギならウサギが、向こうへ行ってしまったかと思うと、
やがてまたやって来る。
あるいはもしかしたら、彼の視界から「消えてはあらわれる」動きをする。

そのくりかえしの中で、
「そおら、また耳の長いアイツがやって来るゾ、やって来るゾ」
と予期出来るようになり、
そうしてしばらく待っていると、やっぱりやって来て
「ほら、来たア!」
と心の中で快哉を叫ぶことになる。

つまり、彼の中で
「くりかえしの中に含まれる予期と合致という知的な活動」
が繰り広げられており、それは乳児にとって「この上ない喜び」であるというんですね。

「いないいないばあ」遊びもまた、「予期と合致」の喜びを味わえる体験です。
くりかえし遊ぶ中で(おとなは、子どもが喜んでくれるのでついくりかえしてしまうのですが)、
お母さんがカーテンの裏に隠れたとしても、
「また出て来るゾ、出て来るゾ」
と「予期」します。
そして予期した通りに、
「ばあ!」
とお母さんの顔が飛び出て来る。
「ほおらね、お母さん、やっぱり出て来た」
と予想が当たる喜びというのは、「いないいないばあ」の醍醐味のひとつでしょう。

赤ちゃんにとっては、わかるということ自体が大きな「快」であり、
それは、脳内のドーパミンや報酬系神経系とも関係するのではないかとも筆者には思われます。

この「いないいないばあ」遊びの中に、「間」があります。

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「いないいないばあ」を言って遊ぶときに、
ただ続けて「イナイイナイバーッ」といっきに言うことはありません。
「いないいない」と「ばあ!」のあいだに若干の「間」をつくります。

「いないいない」と言いながら、お母さんの顔が消失したときの不安。サスペンス。
そして、ここでちょっとした「間」。
くりかえし遊ぶ赤ちゃんは、
お母さんの顔が、やがて「ばあ!」と飛び出してくることを知っています。「予期」しています。
「予期」していながら、この「間」のあいだ、
「さあ、これから出て来るゾ、もうそろそろ出て来るゾ」
と、ドキドキ、スリルを味わいつつ、期待しつつ、待つわけです。

こうした「緊張」の引き延ばしの「間」というのは、前回までの稿で触れてきた通りです。
その後で、「ばあ!」と出て来る。
それは驚きというさらなる「緊張」ではありますが、あらかじめ予期されていた驚きであり、
予想通りという意味では「緩和」であるでしょう。

「間」の時間をとらずに、機械的に「隠れる」と「飛び出す」をくりかえすだけなら、
おもしろさは半減します。
かといって、あまりに「間」を取り過ぎて長引いても、集中力が失せる。
間延びがしてつまらなくなります。

そのちょうど良い「間」のとり方、その呼吸は、
赤ちゃんとおとなの両者がくりかえして遊ぶ中でつちかっていくものなのかもしれません。
それは、ほんとに数秒、もしかしたらコンマ何秒ほどの違いかもしれない。
が、相手の集中力をはかりながら、呼吸をはかりながら、
無意識的、意識的に決めていくのだと思います。

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そしてくりかえしていくうちに、ヴァリエーションが生まれます。
何事もくりかえしが好きな赤ちゃんは、
もしかしたら同じことのくりかえしでも満足かもしれませんが、
おとなは、赤ちゃんが飽きないように、
くりかえしの中にいろいろと付け加えていくことになります。

下の動画では、おそらくお父さんであろう男性が、
ぬいぐるみの人形を使って「いないいないばあ」をしています。

▼「Peek-a-boo baby」~「You Tube」より~


遊び慣れているのか、男性の工夫によるのか、いろいろなヴァリエーション。
ぬいぐるみが「Peekaboo(ばあ)!」と飛び出す場所も一定ではありません。
隠れているおもちゃのトラックの上から飛び出してみたり、横から飛び出したり。
しまいには、ぬいぐるみの代わりに手を出したり、
ぬいぐるみを隠しておいて赤ちゃんの背後から姿を現す……。

この男性の遊ぶ動きはスピーディーですが、
ヴァリエーションの中で「間」を変えていることがわかります。

赤ちゃんが「ああ、もう出てくるな」と思うような瞬間に出ていかない。
ちょっとじらして、気をもたせる。
あるいは、「Peekaboo」の「Pe」まで言ってフェイントをかけるようにじらす。
そうして「間」をはぐらかして、「あれ? どうしたんだろ?」と思うような瞬間に
いきなり「ばあ!」と飛び出して驚かせるようなことをしたりします。
かと思うと、逆にタイミングを前へずらす。
「間」をじゅうぶんにとらず、すかさず「ばあ!」と飛び出して驚かせる。

「間」のとり方、呼吸の合わせ方を遊んでいるのです。

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予想通り、予期していた通りに顔が飛び出してくると、
「ほおら、やっぱり出てきた」と、それが楽しい。
そして、予期がはぐらかされ、
「わあ、そう来るか」と予想を裏切られる展開もまた楽しいんですね。

こうした「いないいないばあ」遊びのかけ引きの中に、西村清和さんは、
「遊び」というものの原初的な「祖型」(=おおもとのかたち)を見いだしています(4)
すべての遊び、エンターテイメントの中に、この「いないいないばあ」の原理があるというのです。

たとえば、歌舞伎。
歌舞伎には、徹底した遊戯性がある。
そこには、

「舞台に用意されるその場その場の趣向を介して、役者と観客とのあいだをゆききする一種の呼吸、
一方が目あてのものをまちかまえ、これにあてこんで期待どおりのものを見せ、
あるいは目先をかえてはぐらかし、予想外の目あたらしさで大当たりをとるといった、
おしたりひいたりする関係」


があるのだといいます(5)

歌舞伎の見せ場で、役者が大見得を切ったりする。
すると、すかさず客席の大向こうから「いよっ! ○○屋!」などと掛け声がとんで盛り上がる。

そうした客席とのやりとりの中で、役者は、今度はどう演じて観客をうならせてやろうとか、
スタッフは、 たとえば、
よーし、立ち回りのときの血のりを増やしてビックリさせてやろうなどと工夫していく。

こうした“受けねらい”の芸を、嫌がる方、否定する方もいます。
しかし、もともとは、いかに趣向や見せ場を楽しむかという茶屋遊びから発生した歌舞伎は、
そうしたエンターテイメント性が強い。
むしろ、そのけれんみを洗練させていったのが歌舞伎の歴史だともいえます。

その、役者と観客が「おしたりひいたりする関係」──、
一方が興味を持って待ちかまえ、そこに予想どおりに登場してよろこばせる。
あるいは、はぐらかして、予想外の登場で驚かせてよろこばせたりする。
それは「いないいないばあ」に通じると、西村清和さんは言うわけです。

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こうした演者と観客とのやりとりは、歌舞伎以前の能にも見られます。
世阿弥の著作には、
「見る人」「見物衆」「見所」などといわれる観客とのかけ引きについて述べた文章が数多くあります。
たとえば、世阿弥の講釈を息子が聞き書きしたという「世子六十以後申楽談儀」のこんなくだり。

観客には、「気を詰めて(息をこらして)見る時」もあり、
あるいは、「あら面白やと見る時」もあるといいます。

その観客に対して、たとえば演じ手が「止むる」という場合。
(この「止むる」は、演技の所作などを止めるということだと思います。)

観客が息をこらして、
「ああ、もうすぐ止める、もうすぐ止めるぞ」
と緊張して固唾を呑んでいるようなときには、そっと止める。

逆に、観客が「面白いよねえ」とのんびりと構えているようなときには、
気合いをしっかり入れて、きっと止める。
観客の気の入れ方の裏をかいてわざと力強く止めれば、それが「面白し」というのです。

「これ、人の心を化かすなり」と、述べられています(6)

つまり、観客の予想や期待をはぐらかす。
世阿弥の他の著作では、「予想外の目あたらしさで大当たりをとる」といったエンターテイメントの工夫が、
「面白さ」「花」というような美学にまで高められ、論じられています。

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昔話にもまた、語り手と聞き手のあいだに、
「おしたり、ひいたり、はぐらかしたり」という呼吸の楽しさがあります。
昔話では、聞き手に予期させ、予想させるような仕掛けがあります。

たとえば、先述したような「くりかえし」。
桃太郎は、犬に出会い、猿に出会い、そしてキジに出会います。
はぶらしちゃんは、カラスに出会い、カバに出会い、そしてワニに出会います。
同様のストーリーがくりかえされることで、
次も同じようなことが起こるだろうという展開の見通しが出来るようになる。

また、物語の中に「予言」が使われることもあります。
グリム童話の中から例を挙げると、たとえば、
14年後、この赤ちゃんは、王様のお姫さまと結婚するだろうなどと予言が語られる
「金の毛が、三本あるおに」(7))。
予言の通りになるのか、ならないのか、聞き手は期待してストーリーの展開を待つことになります。

あるいはまた、アドバイスによる予告。
「この道をまっすぐに行くとお城があるから、そこにお入りなさい……」
などと、主人公はきつねにアドバイスされ、その通りそのままに行動します。
そんなストーリーにも、物語の展開を先回りする仕掛けがはたらいています(グリム童話「金の鳥」(8))。

また、
「この小さい部屋だけはけっして開けてはいけない」
などという「禁止」も、禁止されればされるほど、聞き手にとっては、心惹かれてしまう仕掛けです
(グリム童話「青ひげ」(9))。
「部屋を開けたらどうなってしまうのだろう?」という好奇心を刺激され、
「開けてはいけない」と思う一方で、
主人公が開けてしまうことをひそかに期待し、想像してしまう。

昔話のこうした仕掛けを、松岡享子さんは「話の先取り」といい(10)
百々祐利子さんは「アンティシペイション」と呼んでいます(11)
「アンティシペイション(anticipation)」とは、
「予想。予測。期待。先回りすること。見越すこと」などと訳される言葉なのですが、
こうした訳語全体を意味する日本語がないため、英語をそのまま使ったということです。

聞き手が、物語の展開を予想し、先取りし、想像して考える。
期待してワクワクする。
それに対して語り手は、予想通りの展開を語ります。
あるいはまた、予想外の、意表をつく展開を語って、聞き手にアッと言わせる。

つまり、予想の通りになるにしろ、予想を裏切るにしろ、
その予想を投げかけられる道すじがあること。
それが物語を遊ぶ楽しさを生むんですね。

ここにも、
「一方が目あてのものをまちかまえ、これにあてこんで期待どおりのものを見せ、
あるいは目先をかえてはぐらかし、予想外の目あたらしさで大当たりをとるといった、
おしたりひいたりする関係」
(5)
があるわけです。

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現代でもまわりを見わたしてみれば、こうした関係は、いろいろなエンターテイメントの中に、
ほとんどと言っていいくらい、見つけられるのではないでしょうか。

予想通りの時刻に、予想通りの登場をして
「この紋所が目に入らぬか」と “印籠 ”をかざすドラマ。

ヒロインは必ずと言っていいほど恋に勝利し、仕事でも勝利し、
ハッピーエンドとなるハーレクインの小説。

ラストはたいてい、波が打ち寄せる崖の上に真犯人が追いつめられ、謎が明かされ、
罪を認めることになるサスペンス・ドラマ。

──“定番”や“お約束”といわれる物語は、観客・視聴者・読者の予想の通りに展開し、
その期待に応えます。

一方、サスペンスやホラーなどは、いかに観客(視聴者・読者)が抱く予期の裏をかいて
ビックリさせるかが主眼となります。
推理小説などは、読者の予想をいかに超えるかがミソですね。

一般的に物語は、観客・視聴者・読者にこれからどう展開していくかの予想を喚起し、想像させ、
そして期待通りに展開する。
あるいは逆にその予想を裏切ります。
そのかけひきが、物語をおもしろくするのだと思います。

それはストーリーとして、紙芝居の物語の中にもあります。
そして生のライブの中で、演じ手と観客の呼吸のやりとりとしても、ヴィヴィッドに存在します。
「いないいないばあ」に通じるかけひき、遊びが、紙芝居の物語をさらにおもしろくするのです。

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《引用・参考文献》
(1)無藤隆「赤ん坊から見た世界」講談社現代新書
(2)小林登「こどもは未来である」岩波書店・同時代ライブラリー
(3)友定啓子「幼児の笑いと発達」勁草書房
(4)西村清和「遊びの現象学」勁草書房
(5)西村清和「電脳遊戯の少年少女たち」講談社現代新書
(6)観世七郎元能「世子六十以後申楽談儀」~世阿弥、田中裕校注「世阿弥芸術論集」新潮社・所収
(7)グリム「金の毛が、三本あるおに」~高橋健二訳「完訳グリム童話集・1」小学館・所収
(8)グリム「金の鳥」~高橋健二訳「完訳グリム童話集・2」小学館・所収
(9)グリム「青ひげ」~高橋健二訳「完訳グリム童話集・5」小学館・所収
(10)松岡享子「語るためのテキストをととのえる――長い話を短くする」東京子ども図書館
(11)百々祐利子「昔話の聴き手がもつアンティシペイション」~「飛ぶ教室・第9号・1983年冬号」光村図書
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「引き」から「受け」へと変わるとき


3、「演じ手の画面をぬく間」について

出版紙芝居、長野ヒデ子脚本/絵「はぶらしちゃんと」(1)は、
歯ブラシのはぶらしちゃんが旅をする物語です。
はぶらしちゃんは、歯みがき嫌いの人間の男の子、まあちゃんの手から逃亡を企て、
空をビューンと飛んでいく。
そして、鳥や動物たちと出会うことで、彼らがくちばしや歯をケアするしくみを学んでいきます。

最初にカラスと出会い、次にカバと出会い、そして……。

「……はぶらしちゃんは、ビューンと とんで とんで とんで、
ワニさんの せなかに ゴツン!」


ここの箇所をそのまま読んでも、それはそれでいいかもしれません。
が、ここで「間」を使うと、おもしろさの伝わり方が違ってくることも確かです。

「はぶらしちゃんは、ビューンと とんで とんで とんで……」の後にちょっとした「間」を入れる。
すると、その「間」のあいだに子どもたちは、
「え? はぶらしちゃんは、飛んで今度はどこへ行くの? 誰に会うの?」
と、あれこれ考えるようになります。

昔話でもおなじみの「くりかえし」のパターンですね。
たとえば「桃太郎」では、犬、さると出会いがくりかえされることで、
次も誰かと出会うに違いないぞと聞き手に予感させます。
そして次は誰に出会うのだろうかと予想させ、興味を引きつける。

そうした予期(予感・予想)や興味を、「間」をとることによって倍加させ引き延ばすわけです。
「はぶらしちゃんは次も誰か動物のところに行くんだな、きっと」
「今度は誰が出てくるのかな?」
と、子どもたちは想像をふくらませます。
「間」の想像を促すはたらきでもって、緊張を引き延ばし、興味を引っ張る。
こうした引き延ばし作戦の「間」については、
「クイズ$ミリオネア」司会のみのもんたさんの例などなど、
これまで見てきた通りです。

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ちなみに、「間」とは違いますが、
1990年代あたりからテレビ番組で見られるようになった「CMまたぎ」
にもちょっと似たはたらきがあると思います。

たとえば、クイズの問題を読み上げたところで、「答えはCMの後で」と言ってCMに入る。
そのあいだ、視聴者は正解が何なのか、ああだ、こうだと考えて、気をもたされ、じらされます。
興味を引っ張り続けられるわけです。

バラエティ番組などの進行でもこうした手法が使われますね。
これからどう展開するか、何が登場するか、という途中のところでプツンと切ってCMに入る。
たとえたいした内容があるわけでないとわかっていても、
視聴者は気になってCMのその後を見続けてしまうことになります。

もっとも、最近はあまりに頻繁にこのテが使われるため、視聴者は少々食傷気味かもしれません。
番組やドラマが山場を迎えたところでプツンと切ってCMに入るので「山場CM」とも言われますが、
こうした「山場CM」は、興味を引き伸ばして引きつける一方で、
安易に使われすぎるため、最近では、視聴者からの好感度が低いという調査もあるようです。

昔の街頭紙芝居でも、同じような手法が使われていたといいます。
物語が佳境となり、さあ、いよいよこれからどういう展開になるかと期待させておいて、
「この続きはまた明日」と打ち切る。
観客である子どもたちは、次の日も見たい気持ちにさせられる。
おあずけを食って、じらされるわけです。

まあ、これは伝統的とも言えるでしょうか。
寄席で毎晩続き物が演じられていた頃の落語や講談などでも使われていたそうです。
さあ、これからどうなるかという最高潮の場面で、
「この続きは明日申し上げます」
などと、途中でぶつんと打ち切って終わりにする。
「山場CM」といっしょです。

週刊誌や月刊誌などのマンガや小説の連載も同様のやり方をします。
いよいよクライマックスというその直前で「つづく」になる。
緩和出来ないまま、緊張が続く状態。
おあずけを食った読者は、これからどうなるのだろうかと緊張を引っ張られ、
興味を引かれ続けるままに、次回の連載を待つことになります。

途中で切られたり、あいだを開けられるとその先を知りたいと願うのは、
ひとつには、わたしたちに物語を好む本能的な心理があるのでしょう。

たとえば、TVや新聞や雑誌をにぎわすニュースでも、三面記事でも、
「起承転結」の「起承転……」までしか報道されていない宙ぶらりんの状態だと
気になってしかたがありません。
真犯人が見つかった。関係者が謝罪した。問題が解決した。
など、どんなかたちであっても、ひとまずの決着を知ることで、
そこにひとつの物語の完結を見てホッとしたりする。
何らかの結果がわかるまで、その先を知りたがる興味が続くことになります。

「間」をあけることは、それがたとえわずかな時間であっても、
そうした興味の緊張を引っ張るということでもあります。

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さて、はぶらしちゃんは、次は誰に出会うのか? 
そうした興味を引っ張る「間」の後で、
「ワニさんの せなかに ゴツン!」
と告げられます。

実は、先に説明しなかったのですが、このくだりは、場面が変わるところでもありました。
つまり、
「ワニさんの せなかに ゴツン!」
のところで、
パッと場面がぬかれて次の場面、ワニが観客の目に飛び込んでくる。


▼図1 「はぶらしちゃんと」(6場面)より、模写。(1)
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「文章を読む(語る)間」と、「画面をぬく間」が連動して、
「間」のはたらきをより劇的にするんですね。
紙芝居では、画面をぬくというこの場面転換のシステムが、独特のはたらきをします。

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これからどうなるかと想像させ、興味を引っ張る画面。
それを受けて、結果を示す画面。
この2つを、絵本ではそれぞれ、「引き」「受け」と呼んでいます。

たとえば、笹本純さんが「絵本の方法~絵本表現の仕組み」(2)で、紹介している例。
笹本純さんは同書で、「引き」を、

「読者にページをめくって次の画面を見たいという欲求を抱かせるような画面の作用」

と、説明しています。
下の絵は、その「引き」の場面です。


▼図2:引き 「ノンタンのたんじょうび」(16~17頁・見開き)より、模写。(3)
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白い猫の主人公・ノンタンの誕生日のために仲間たちはサプライズを計画し、
ノンタン本人には秘密にして部屋の準備を進めます。
家から締め出されたノンタンは、中を裏窓からのぞこうと、

「そーっと そーっと、
ぬきあし さしあし、
こっちから……。」
(3)

という場面。
遠景に描かれることで静けさが表現され、緊張感が高められます。

そして文章は、
「こっちから……。」
という途中のところでぷつんと途切れて省略される。
これからどうなるのだろうという展開への期待がいやがおうにも高められます。
そして、ページをめくると……。


▼図3:受け 「ノンタンのたんじょうび」(16~17頁・見開き)より、模写。(3)
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「ばあ!」
「べえー!」

とみんなに驚かされる。
ノンタンといっしょに、読者も驚かされることになります。

これは、先の「引き」に対応する「受け」。
笹本純さんの説明によれば、「受け」は、「文字通り『引き』を受け止める作用」であり、

「『引き』によって呼び覚まされた期待に応える働き」(2)

というわけです。

こうした「引き」と「受け」の組み合わせによる展開は、絵本だけでなく、
もちろん紙芝居においても頻繁に使われます。

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たとえば、まどみちおさんの詩を紙芝居化した作品、片山健絵「て て て」(4)
※「て て て」は、当初、童謡の歌詞として発表された作品でした
(初出:渡辺茂作曲集「こどものうた たきび」音楽之友社)。


▼図4:引き 「て て て」(1場面)より、模写。(4)
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これは表紙の1場面め。

「て て て にぎった て
にぎった ては」

と、読む文章はここで区切られます。

「にぎった手をどうするの?」
「げんこつ山のたぬきさん?」
などと、あれこれ観客に想像させる。
問いかけ、ある種の謎を観客へ投げかけることになります。

そしてこの「引き」の場面を受けて、次の2場面。


▼図5:受け 「て て て」(2場面)より、模写。(4)
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「かあさんの かたを
とん とん とん」


これが「受け」ですね。
握った手は、実は肩たたきをする手だったという、謎に対して答えるかたちの展開です。
まどみちおさんの詩はもともと、紙芝居として作られたものではなく、その一節は、

「て て て にぎった て
にぎった ては
かあさんの かたを
とん とん とん」


というひとまとまりです。
これを主部と述部に分け、二つの場面に振り分けることで、
一種のなぞなぞ遊びのようなやりとりを楽しむかたち。
詩の言葉のもつ想像力をいっそうに引き出していると言えるでしょう。

作品ではこの後、

「て て て ひらいた て
ひらいた ては」
(3場面)

「ねんどの おだんごを
ころ ころ ころ」
(4場面)

とヴァリエーションがくりかえされていきます。
作品全体が、「引き」と「受け」のくりかえしで構成されているんですね。

古内ヨシ脚本/絵「あったかくてだいすき」(5)
のように観客へ問いかけるかたちや、
古川タク脚本/絵「なんだ・なんだ?」(6)
のようにクイズ形式そのもののかたちなど、
全体が、問いの「引き」と答えの「受け」で構成されている紙芝居も少なくありません。

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こうした「引き」と「受け」は、もちろん物語紙芝居でも効果的に使われます。
たとえば、岡田ゆたか脚本/絵「さとり」(7)の中のこのシーン。


▼図6:引き 「さとり」(2場面)より、模写。(7)
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きこりが、人っ子一人いないはずの山奥で、ボソボソ何やら声を耳にします。
気味が悪くなって「化け物でもいるのか……?」と心の中でつぶやくシーンです。

森閑とした山の中にひとりきり。
いかにも何か恐ろしい存在が登場するにふさわしいお膳立ては調っています。
そこで主人公が化け物を予感したように、観客もその存在を予感する。
そうして緊張が高められ、この先何が出てくることかと興味を引かれる「引き」の画面です。

そこへ。
誰にも聞こえないはずのきこりの胸の内の言葉に呼応するように、
「化け物だと?」
という声がしたかと思うと……。

▼図7:受け 「さとり」(3場面)より、模写。(7)
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姿を現したのは、毛むくじゃらの化け物、さとり。
「引き」に対する「受け」の場面。
予感は的中します。
観客にしてみれば予想通りですが、予想通りに驚かされることになります。

この場合は、緊張にさらに緊張を重ねるサスペンスやホラーのパターンですね。
「引き」から「受け」への場面転換が、劇的な効果をもたらします。

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「はぶらしちゃんと」の先の例(図1)では、「引き」が絵の場面としては描かれず、
文章が「引き」のはたらきを担っていました。
「はぶらしちゃんは、ビューンと とんで とんで とんで」
というこのくだりは、場面の絵としては描かれていません。
けれど、この文章が語られることによって、観客に
「次の画面を見たいという欲求を抱かせるような」作用をもたらすのです。

構成上の理由でこのように「引き」の画面が省略される例も多いのですが、
「引き」と「受け」のはたらきは変わりません。

さて、紙芝居では、この「引き」と「受け」の場面転換のあいだに「間」があります。
「間」をつくることで、
「引き」と「受け」のはたらきをより効果的に演出することが出来るのです。

つまり、「演じ手の画面をぬく間」というやつです。

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《引用・参考文献》
(1)長野ヒデ子脚本/絵、細谷亮太監修「はぶらしちゃんと」(シリーズ「からだってすごい」)童心社
(2)笹本純「絵本の方法~絵本表現の仕組み」~中川素子・今井良朗・笹本純「絵本の視覚表現~そのひろがりとはたらき」日本エディタースクール出版部・所収
(3)キヨノサチコ文/絵「ノンタンのたんじょうび」偕成社
(4)まどみちお脚本、片山健絵「て て て」童心社
(5)古内ヨシ脚本/絵「あったかくてだいすき」童心社
(6)古川タク脚本/絵「なんだ・なんだ?」童心社
(7)岡田ゆたか脚本/絵「さとり」(シリーズ「日本の妖怪ぞろ~り」)童心社
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f0223055_20321284.gifほんの少しのこと



暉峻康隆「落語藝談」(1)には、
名人といわれた噺家たちが、「間」と格闘した苦労が語られています。

芸は生き物であり、ナマモノである。
演じ手のコンディションによっても違ってくるし、観客によっても違ってくる。
観客の反応、感じ方は、男女によっても、年齢によっても、
またその土地によっても違うといいます。

桂文楽師は、会場のそうした客層や空気感をみて、演じ方を変えたのだとか。
だから、同じ演題(ネタ)でも、東京で演(や)るときと、大阪で演るときとでは変わってくる。

「世の中に、いくら評判がよくてもなんでも、お客にわからないくらいつまらないものはないんですから。
それじゃ、わからせるように間のびでやったら、から、だらしがなくなっちゃうんですよ。
数(かず)出向いておりますと、その“間”を覚えますな。その土地柄のね。」
(1)

たとえば、東京の「間」と、大阪の「間」とは違うのだそうです。
文楽師は、それを演じ分けた。

文楽師といえば、噺が何分かかったかを弟子に時計で計らせたなどのエピソードでも知られます。
寸分もゆるがせにしない、カッチリと緻密に計算された、職人芸的な完璧主義者。
というイメージが筆者にはありました。
だから観客に関係なく、自分の完璧な芸をカッチリと披露することに腐心した方ではないかと、
筆者は勝手に思い込んでおりました。
ところがトンデモナイ、噺はカッチリとはいかないナマモノであるということを、
実は知り抜いていた方だったんですね。

師はこう言います。

「(聴衆と)息が合わないと、どんなにいい咄(はなし)をしても、盛り上がりませんね。」(1)

そこで息を合わせるため、「間」を使い分けるというような工夫も積み重ねていたのでしょう。

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柳家小さん師もまた、高座という実践で噺をみがいたといいます。
そうして重ねていく実践の中で、いつも受ける場所が受けなくなったり、
どういうわけか全体の呼吸が変わってくるようになることがある。

小さん『それで受けなくなったのを受けさせなくちゃいけないと工夫する。
ここのところで客が笑ったのに、どうして今度は受けないのかと。
そうすると、つまり間(ま)とか声の出し方、強弱、そんなところで違ってくるんです。』

 暉峻 『ほんの少しのことで……。』

 小さん『弱く出すと受けるやつを、強く出しちゃってるな、とそういうことに気がついてくるわけです。』

 暉峻 『だから聞き手の呼吸のわからないテレビやラジオばかりでやっていると、
それがわからない、どう受けているか。』

 小さん『だからやっぱり直接客にぶつからなくちゃいけない。客と勝負ですよ。』」
(1)

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三遊亭円生師の言葉。

暉峻『やっぱり、咄ってものは、生きた聞き手が目の前にいて、反応を見ながら育っていくんですからね。』

 円生『われわれが何十年やっていても、てめえ一人で壁へ向かってしゃべってるときと、お客さまのまえへ出て
しゃべったときとは、思ったことがくいちがうんですよ。』」
(1)

三遊亭円生師はまた、ご自分の著書で、「間」は人によって違うと言っています。

「その人の息の長さ、声の性質などによって独特の口調というものが出来てくる。
だから人のまねでなく自分の噺をしなきゃァいけないということは、
間の問題でも言えることです。」
(2)

なるほど、たとえば古今亭志ん生・金原亭馬生・古今亭志ん朝の三師は、親子兄弟です。
が、「口調」というものはまるっきり違います。
親子とはいえ、体格も違い、個性が違うのだから当たり前ですね。
先人からバトンを手渡されるように、馬生・志ん朝兄弟は、
父親・志ん生師の演目(ネタ)を演ることも多かったようです。
が、その「間」は、三者三様に違うものでした。

ものまねで、「間」のポイントを定め、コンマ何秒の単位で長さを測り、
そのコピーを演じたとしても、その「間」を再現することはできない。
名人であろうが、凡人であろうが、どんな人にもそれぞれに個性があり、天性があり、
どうやらそのあたりに「間」は関係するのでしょう。

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すると、天性持って生まれてくる「間」は「魔」と書き、
人に教えることが出来ないと言った九代目市川団十郎おぢさんの言葉が思い出されてきます。
理屈ではない。

この稿では、何とか理屈めいたことを並べ立てて、
その捉えどころのない「間」というやつの輪郭を描こうとして来ました。
が、結局、試行錯誤の七転八倒、なかなかに捉えにくいという結論に落ち着きそうです。

では、われわれ凡人はどうすればいいか。

やはり先人と同じく、「てめえ一人で壁へ向かって」ではなく、
観客へと向かって演じることを重ねていくしかないのかもしれません。
そうした中で、「間(ま)とか声の出し方、強弱」とか、
そういう「ほんの少しのこと」を工夫し続けていくしかないのかもしれません。

そういう「ほんの少しのこと」が、
もしかしたら笑いを生み、あるいは共感を生み、あるいは感動を生む。

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ロシアのブラロフという画家が、教師として、
生徒の描いた絵に手を入れて直したことがあったそうです。
すると、直された絵を見て生徒は、ビックリ。
「ほんのちょっと手を加えてもらっただけなのに、
まったく別の絵のように見違えてしまいました」。

すると、ブラロフは言ったそうです。
「芸術は、そのほんのちょっとが始まるところから始まるのだよ」

デール・カーネギーが「心を動かす話し方」(3)という著書で紹介しているエピソードです。

カーネギーは、それは絵を描くことに限らず、「話し方」にもあてはまると述べていますが、
それはもちろん、紙芝居にもあてはまるのでしょう。

「ほんのちょっと」のこと。
その工夫に、柳家小さん師は、骨身を削っていました。

紙芝居の場合、いろいろなテーマがあり、
「笑い」という目に見える反応だけを求めるわけではありません。
何か感じてもらえたか、どうかという反応は、わかりにくかったりする。

が、子どもたちの場合、おもしがっているか、どうかという態度は正直です。
また、定期的な公演や、保育や教育の現場では、気心の知れた子たちが観客であることが多く、
その点では「間」もつかみやすいと言えるでしょうか。

結局、「直接客にぶつか」るしかない。
「客と勝負」ということが、紙芝居でも言えるのかもしれません。

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物語は、みんなで呼吸を合わせながら歩く山登りにたとえられます。
ゆっくり歩きはじめる。
途中で何かを追い求め、あるいは何かに追いかけられて早歩きしたり、駆けたり、
ひと休みをしたり。
時には全力疾走をしながら、山を登る。

ずっと駆け足だったら疲れてしまう。
ずっとノロノロ歩きだったら、だれてしまう。
そうした、緩急のリズム、テンポがあります。

また、緊張の度合いも、ゆるやかな坂を登ったり降りたり、時には急に段を飛び上がったり、
がけをよじ登ったり。
あるいは、ストーンと直滑降で飛び降りたり。
そうした緊張と緩和を繰り返しながら、大きなヤマ場へと向かいます。

歩調も呼吸も、みんなバラバラだったりするのですが、緊張と緩和を繰り返すうちに、
だんだんそろっていく。
さらに要所要所にある「間」によって、呼吸を調え、そろえるんですね。
それぞれバラバラにしていた呼吸が、その息をのむ「間」、あるいは息を吐きだす瞬間に
一致するわけです。

その「間」は意図的につくるというよりも、物語に沿って、物語を楽しみ、
物語の山を歩いていく呼吸によって、自然に生まれてくるものでもあるかもしれません。

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絵本や本、テレビなどと違って、
物語を直接語り伝える昔語りやストーリーテリング、落語、そして紙芝居には、
みんなで同じテンションと呼吸を共有する“場”の楽しさがあります。

それは、演じ手(語り手)と観客(聞き手)、また、観客同士で感じ合うことでもあるでしょう。
その空気感の中に、共感のよろこびもあると思います。

「あ、今、同じ呼吸してる」
と思う瞬間、その一体感というのは、
いやあー、下手くそなバンド演奏をしていても、実に気持ちのいいものです。
邦楽のセッションのような絶妙さはなくても、楽しいものです。

引っ越しのときなど、重いタンスやピアノをみんなで運ぶ際、「いっせいの、せ!」の合図で、
みんなの呼吸を合わせますよね。
呼吸を合わせることで力を合わせる。
綱引きのときの「オーエス、オーエス」という掛け声も、呼吸を合わせるもの。
みんなの呼吸を合わせることで、みんなの力や気を合わせる。
それは作業として効果的なばかりでなく、楽しいことでもあるんですね。

カラオケでも、コーラスやみんなで歌を歌うとき、たとえばそれが知らない同士だったとしても、
なぜか場が盛り上がってしまうのは、呼吸を共にしている楽しさがあるのかもしれません。

音楽でも芝居でも、舞台やライブの大きな楽しみのひとつは、
演じ手と観客、演じ手同士、観客同士……つまり同じ空間を共有する者同士が
呼吸を合わせるこの瞬間ではないでしょうか。

それは、とりたてて意識することがないかもしれませんが、紙芝居を演じている方も、
見ている子どもたちも、なにげに感じていたりすることだと思います。
そのときに、「間」が大事な役割を果しているんですね。

そうしてひとつの紙芝居が終わったとき、ひとつの物語が結末を迎えたとき、
ひとつの山を、演じ手や観客のみんなといっしょに登ったような、そんな満足感があると思います。
そんなコミュニケーションのかたちにも、「間」が働いているのでしょう。

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小さん師は、「客と勝負」とおっしゃっていましたが、
剣道の達人でもある師らしい言葉であると思います。
もちろん勝負は「真剣」勝負ですが、その勝負の駆け引きは、実は、
遊ぶということにもつながるのではないでしょうか。
「間」を遊ぶ。
それは「いないいないばあ」遊びにつながるものではないか。
……ということについて、次に考えてみようと思います。

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《引用・参考文献》
(1)暉峻康隆「落語藝談」小学館ライブラリー
(2)六代目三遊亭円生「寄席育ち」青蛙房
(3)デール・カーネギー、山本悠紀子監修、田中融二訳「心を動かす話し方」ダイヤモンド社
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f0223055_13425114.gif呼吸を合わせる「間」


さてところで、に触れたように、柳家金語楼師は、笑いのコツを

「人が息を吐く寸前におかしなことをいうことです」

と言っておられました。
これはつまり、相手が息を吐いているその最中には、ギャグは言わないということになります。
息を吐いて緩和しているところでギャグを言っても、落差の笑いの効果は半減するでしょう。

わかりやすいのは、たとえば、相手が笑っているときです。
笑うとき、明らかに息を吐くわけですが、その最中に、次のギャグを言っても相殺してしまう。
その最中ではなく、タイミングを少しずらす。
笑いがすうっとおさまり、あるいはおさまりかけ、
息を吸い込んでまた吐こうとするその直前に言うから、
文字通り、再び“吹きだして”しまうことになるんですね。

この笑いが落ち着くのを待つために「間」をとることがあります。
野村雅昭さんが「聴衆の笑いのしずまるのをまつ間」と分類していたものです(1)

この「間」は、これまで見てきた「緊張を引き延ばす間」「緊張を持ち上げる間」などとは違います。
たとえば、演説や講談などで、観客(聴衆)の拍手が鳴り止むのを待つ「間」にも似ています。
「間」をとることで、じゅうぶんに笑わせる。
「間」をとることで、じゅうぶんに感動させる。

こうした「間」は、いわば「緩和を味わわせる間」であるとも言えるでしょう。
「間」自体が、緩和させるわけではありません。
生じた緩和を、じゅうぶんに味わわせ、受け入れさせる時間。

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笑いに限りません。
たとえば、説経では「道行き」、落語や講談では「道中づけ」といわれるくだり。

「下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下へ出て、三枚橋から上野広小路へ出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ堀様と鳥居様のお屋敷の前をまッすぐに、筋違(すじかい)御門から大通りへ出まして、神田の須田町へ出まして……」
(五代目古今亭志ん生「黄金餅」(2)

……などと、登場人物が歩いて通った道筋を調子よく延々と並べ立てていきます。
これは、歩いた道の長さや労苦を表現するところ。
観客は地理や内容への興味というよりも、
演じ手の記憶力に支えられた口舌のなめらかさを楽しむことになります。
よくこれだけ覚えたものだと感心しつつ、最後まで言えるだろうかという半ば興味の緊張も続く。

そして言い終わると、観客もほおっとため息をついて緩和する。
このとき、演じ手はすぐに次の段へとは急がずに「間」をとり、その緩和を待つことになります。

もっとも、志ん生師は、ここで、
「……大黒坂をあがって、一本松から麻布絶口釜無村の木蓮寺にきたときには、ずいぶんみんなくたびれた……あたしもくたびれた。」(2)
とやって、笑いをとっていました。

「道中づけ」では拍手が来たりすることもあり、
「間」をとることで、そうした笑いや拍手が止むのを待つことにもなるようです。

またたとえば、サスペンスという緊張の連続である事件が一山(ひとやま)越えて解決し、
ふっとひと息ついたようなとき。
あるいはまた、激しいアクションやドタバタの緊張が一段落して、ほっと落ち着いたようなとき。
そうしたとき、すぐに次の展開へは進まないで、「緩和を受け入れさせる間」が使われます。
これは、「余韻の間」と呼ばれるような「間」のはたらきにも通じるでしょう。

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これまで落語の噺を例に、笑いを生み出す緊張と緩和の関係を見てきました。
が、これは、笑いばかりではなく、物語やおはなしを構成する大切な要素であると思います。

「昔話では緊張と弛緩が大きな役割を演じている」

というのは、マックス・リューティ「昔話の解釈」(3)の一節でした。
が、昔話に限りません。

昔話には、物語の原型があります。
現代の小説や、マンガ、映画、ドラマ、ゲーム……そして紙芝居を含めた物語に、
昔話の原型的な要素が脈打っていて、
そのすべての物語の中で、「緊張と弛緩が大きな役割を演じている」のです。
物語は、緊張と緩和(弛緩)の大きな波、小さな波が組み合わさって成り立っている
と言っていいと思います。

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民俗学者ウラジミール・プロップは、ロシアの魔法昔話を分析して、
そこに共通する機能と構造を見いだしました(4)
それは世界中の昔話にも共通するといわれ、
北米先住民の昔話を分析したアラン・ダンダスも同様の基本構造を見ています(5)

そのいちばんおおもとの中核となるのは、「欠乏」「欠乏の回復」
「欠乏」または「過剰」によって「不均衡」となった困難な状態を、
「回復」させ「均衡」へ向かわせることが物語の根本にあるというのです。

たとえば、インディアンに伝わるこんな話。
ある日、少年が罠で太陽を捕まえたため、異常な暑さになる(過剰)。
別の場所では、暗闇になる(=日光の欠乏)。
つまり、「不均衡」
そこでネズミが、罠から太陽を救い出し、異常な暑さは除かれる(過剰の回復)。
別な場所では、光が戻る(欠乏の回復)。
つまり、世界は「均衡」を取り戻す。

……という具合です。
こうした「欠乏」「欠乏の回復」という中心となるモチーフの要素に、
「課題の達成」「禁止」などなどの要素が加わり連鎖して
物語が織り紡がれているというんですね(5)
こうしたモチーフの要素、物語の機能が、世界中の昔話に見いだせる。
そして昔話だけでなく、いろいろな物語に生きている。

大塚英志さんは、たとえば村上春樹さんの小説、ハリウッド映画、宮崎駿監督のアニメーション、
ゲーム「ドラゴングエスト」などなど、
現代の物語の中にもそうした機能と構造があることを論じています(6)(7))。

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この「欠如」というのは、すなわち「緊張」の状態です。
それが「欠如の回復」へ移行することによって、「緩和」する。
「不均衡」はつまり「緊張」であり、それが「均衡」を取り戻すことで「緩和」する。

物語の骨格には、こうした「緊張→緩和」の流れが内在しています。
たとえばプロップが見いだした機能にその流れを見てみると、次のようになります。

【緊張】「加害」を受けての困難や「欠如」 →【緩和】「加害あるいは欠如の回復」
【緊張】「出発」             →【緩和】「帰路」
【緊張】「難題」             →【緩和】「解決」
【緊張】「闘争」             →【緩和】「勝利」による平穏
【緊張】「追跡」を受けての逃亡      →【緩和】追跡からの「脱出」
【緊張】偽の主人公による「偽りの主張」  →【緩和】偽の主人公の「露見」

この他にも、物語をかたちづくる要素の中に、「緊張→緩和」を見ることができます。

【緊張】「スリル」「サスペンス」などの不安→【緩和】不安の解消=安心
【緊張】恐怖               →【緩和】恐怖の解消
【緊張】「ミステリー」の謎        →【緩和】謎解き
【緊張】試練               →【緩和】試練の克服
【緊張】目的               →【緩和】目的の成就
【緊張】過ち、偽りの選択         →【緩和】正しい選択
【緊張】欲求               →【緩和】欲求の充足

大なり小なり、これらの要素が絡み合い、物語の大きな骨格を成しています。
また各場面各場面、あるいは細部の叙述でも、こうした緊張と緩和の流れが物語を展開させ、
牽引していくバネとなっています。

宇宙を舞台にしたSFであれ、日常を舞台にした恋愛ものや青春ものであれ、
激しい葛藤や争いを描いたドラマであれ、穏やかなほのぼのとした物語であれ、
それは変わりません。

また、フィクションではないような、
史実に取材した歴史ものでも、事実に取材したドキュメントの中にも
こうした要素が見いだせます。
というのも、人の世はなべて「緊張」と「緩和」で成り立っているからだと思います。

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物語を口頭で伝える落語やストーリーテリングや、そして紙芝居の場合、
ストーリー上の「緊張」と「緩和」をよりいきいきと表現するためのシャベリの技術が
要求されます。
声を駆使することによって「緊張」と「緩和」を演出するのです。
それはたとえば、おおまかな基本として次のように考えられます。

緊張させる
◎テンポ(スピード)が速い
◎声のピッチが高い
◎声が大きい
◎抑揚が激しい

緩和させる
◎テンポ(スピード)が遅い
◎声のピッチが低い
◎声が小さい
◎抑揚に乏しい

(※これはあくまでもおおまかな基本であり、テンポを遅くしたり、声を低くすることで
逆に「緊張」を演出することもあったりします。)

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この「緊張」と「緩和」の演出に関わるのが、「間」です。

概して、テンポをゆっくりにして「間」を多用すると、
興奮を鎮めて落ち着かせたり、リラックスさせる効果があります。
緩和させる。

落語では、登場人物として武士やご隠居などを演じる場合、「間」を多用することで、
落ち着いた雰囲気を醸し出すことになります。

けれど「鎮める」ことは同時に、「沈める」ことでもあります。
場合によっては気分を滅入らせる。

鬱病の人の場合、はなしの中で「間」をどれくらいあけて話すかは、
症状を診断する目安のひとつとさえなるそうです(8)
「間」を多く、長くとるほどに、憂鬱の度は深い。
そうした気分は、聞き手にも伝わるでしょう。

逆に、「間」をあけずにスピードを上げるほど、躁状態。
喜びであれ、悲しみであれ、怒りであれ、感情のポジティヴ・ネガティヴに関わらず、
緊張を盛り上げることになります。

そしてこうした「間」のはたらきとは別に、その放り込むポイントによって、
「間」が緊張を引き延ばしたり、緊張を持ち上げたりする。
あるいは緩和をじゅうぶんに味わわせたりするはたらきがあることは、これまで見てきた通りです。
そのはたらきは、落語だけでなく、口承で物語を伝えるメディアに共通するものです。

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松岡亨子さんは、こうした「間」のはたらきには、

「語り手と聞き手の呼吸を共調させる働き」

もあると言っています(9)


筆者が、アマチュア・バンドをやっていたときのこと。
みんなのリズムを合わせるということがなかなかうまくいかないことがありました。
いや、メンバーは名手ぞろいだったのですが、練習時間も少なく、
おまけに下手くそな筆者が足を引っ張ったのでした。
自分の音を出すのにイッパイイッパイで、仲間の音を聴く余裕がなかったりするんですよね。
すると、ドラムスとベースがしっかりリズムを刻んでいても、
ギターが走りすぎたり、ヴォーカルが暴走したり。
逆に、周りに合わせることばかりを考えると、音が小さくまとまっちゃったり。
ライブで緊張すると、特にリズムがバラバラになりやすいのでした。

そんなとき、曲の中に、全員ミュート(無音)してブレイクする箇所があるとよかったんです。
曲の途中で、楽器もヴォーカルも、一瞬、息つぎするみたいに音をストップさせる。
すると、それまで、みんながどんなにドシャメシャのリズムだったとしても、
そこで全員の呼吸を合わせて持ち直すわけです。

まあ、バンドはリズムをそろえるのがふつうで、
ブレイクでリズムをととのえるなんていうのは、三流どころの証しなのでしょう。
しかし、ブレイクという「間」には、みんなの呼吸を合わせるというはたらきがあったわけです。

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こうした音楽とはまったく別物ですが、
口承で物語を伝える紙芝居や落語やストーリーテリングなどの「間」にも、
みんなの呼吸を合わせるはたらきがあります。

もっとも、「間」に限らず、緊張と緩和の演出が、呼吸を左右するのでしょう。
緊張の場面で、息をのむ。
息をとめる。
不安で、息がつまる。

緩和の場面で、ほっと息をつく。
フッと息をもらす。
おおーと感嘆する。
わあーっと歓声をあげる。
プッと吹き出す。
アッハッハと笑う。

演じ手は、物語によって、また声を駆使することによって、緊張と緩和を演出し、
観客の呼吸を演出します。
そうした流れの中で、観客同士、バラバラにしていた呼吸が次第にそろってくる
ということもあるでしょう。

生のライブではこうした観客の呼吸を、演じ手は肌で感じとることが出来るのだと思います。
すると、
「お客さんの呼吸が全部わかって、
指揮者みたいな気持ちになる時があるんですよ。」

と語っていた春風亭昇太師の心境も何だかわかるような気がしてきます。

しかしながら、その心境へと至るには、やはり一朝一夕にはいかないようです。

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《引用・参考文献》
(1)野村雅昭「落語の話術」平凡社
(2)五代目古今亭志ん生、飯島友治編「古典落語~志ん生集」ちくま文庫
(3)マックス・リューティ、野村泫訳「昔話の解釈」ちくま学芸文庫/
マックス・リューティ、野村泫訳「昔話の本質と解釈」福音館書店
(4)ウラジミール・プロップ、北岡誠司・福田美智代訳「昔話の形態学」水声社
(5)アラン・ダンダス、池上嘉彦訳、池谷清美・田沢千鶴子・友田由美子・日景敏夫・前田和子・山田眞史共訳「民話の構造ーアメリカ・インディアンの民話の形態論」大修館書店
(6)大塚英志「キャラクター小説の作り方」講談社現代新書
(7)大塚英志「ストーリーメーカー」アスキー新書
(8)アン・カープ、横山あゆみ訳「『声』の秘密」草思社
(9)松岡亨子「たのしいお話・お話を語る」日本エディタースクール出版部
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f0223055_7532175.gif緊張と緩和と「間」のカンケイ・その4



前回の図6では、オチを言われてから、現実に引き戻され、
おかしさに気づくまでのあいだを「間」として書き入れています。
わずかでもそこに「間」の時間があれば、これはつまり「考えオチ」と同じパターンです。

▼前回の図6:「ヘン」オチ・その1
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オチを言われてから、考える「間」があり、そこで現実に返って気づき納得し、一気に緩和する。
あるいはツッコミ、あるいはムスビの言葉や、頭を下げておじぎをするなど、
終了を告げられることによって、
現実に引き戻され、気づき納得し、一気に緩和する。

しかし、「間」の時間がないということもあります。
緊張と緩和が同時にやってくるというパターンです。
実際には、こちらのパターンの方が多いかもしれません。

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たとえば、「首提灯」という噺。

江戸の昔には、辻斬りやら、追い剥ぎやらで、
お侍が刀を振り回しての殺傷事件などということがありました。

町人の男、酔っぱらった勢いで通りがかりのお侍につっかかってからみ、
挙げ句には紋服にタンを吐きかける。
大切な御紋を汚され、堪忍ならぬとお侍、男の首をまっ二つ。
が、腕がいいと、斬り口も鮮やか、本人も斬られたことにさえ気づかないというやつで。

都々逸なぞを鼻歌に夜道を歩いているうちに、どうも首ががたついて納まりが悪い。
襟元に手をやって、やっと斬られたことに気づき、両手で頭をおさえる。
と、そこへ、半鐘が鳴り、「火事だ、火事だァ」の声。
そこで男、

「自分の首をひょいと差し上げて……、
『(はずした首を左手に載せ、右手で上を押えて、前方高めへかざしながら)
はいごめんよ…はいごめんよ……』」

(八代目林家正藏「首提灯」(1)

首を斬られる事態というのは、もう緊張度の針を振り切るのではないかと思うのですが、
それすら笑いに変える落語のすごさ。
もっとも、大きな緊張があるからこそ、笑いが生きるのかもしれません。

本人にしてみれば、まあ、つまりは生命を喪うわけですから、大いなる緊張。
描き方によっては、ホラーやサスペンスとなるところです。
が、それに気づかず、女のノロケ話などを一人ブツブツ言い、のんきに都々逸を口ずさむ姿は、
客観的に見れば、大いなる緩和です。

斬られた後、首の位置を何度も直すあたりから、
そうした緊張と背中合わせの緩和がないまぜになって笑いを誘います。
観客はすでにこの時点で、現実にはあり得ない「うそ話」として物語を受け入れつつ、
話術によって巧みに描き出された、
ひょっとしたらあり得るかもしれない光景を目の当たりに見て(実際には思い浮かべて)、
その「ヘン」さを楽しみます。

そうして、自分の首を提灯代わりに走り出すというナンセンスの極地で、
緊張と緩和の盛り上がりがさらに押し上げられ、オチとなるわけです。

▼図7:「ヘン」オチ・その2
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(この図はデータをどうこうして数学的に作成したものではなく、あくまでもイメージです。)

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さて、結末のオチで「間」を入れることは少ないと再三書きましたが、
「間」が入ることももちろんあります。

この稿でも触れた三笑亭可楽師の「二番煎じ」、桂枝雀師の「愛宕山」がそうでした。
「拍子オチ」のように「序破急」と盛り上がってトントンと追い込んでストーンと落とすパターンではない噺。
──穏やかに結末を迎えるような噺には、特に多いと思います。


たとえば、「芝浜」という噺。
これは人情噺の趣(おもむ)きのある噺です。

天秤棒をかついで売って歩く、いわゆる棒手売(ぼてふり)の魚屋さん。
酒に溺れて商売に身が入らず。
「明日から働く」「明日から働く」と言って、商いに行こうとしない。
とうとう女房にたたき起こされ、魚河岸へ。
が、時間を間違え、問屋はまだ始まっておらず。
そこで、夜明け前の浜へ出て一服していたところ、
波に打ち寄せられた大金の入った財布を見つけます。
男は大喜びで家に持って帰って近所の連中を集めて大酒盛り。そのままグウスカ寝てしまう。

ところが目をさますと、また女房に「商いに行け」とたたき起こされる。
女房の話によれば、財布を拾ったのは夢。
夢を見てその気になって、酒盛りしたのは現実だったという。
そこで思い知らされた男、料簡を改め、酒を断ち、商売に精を出す。
そうして三年。一生懸命働きに働いて、表通りへ小さいながらも店を構えるようになる。

その大晦日。
女房が改まって告げるには、あの日、財布を拾ったのは夢じゃなかった。
が、拾い物をネコババすればお上に咎められかねない。
男が一寝入りしたあいだに大家さんへ相談に行き、財布をお上に届け、
拾ったのは夢にすることにしたのだと言う。
結局落とし主は見つからず、お上から財布はお下げ渡しになっていたが、
嘘をついていたと言い出せないままだったと女房が謝ります。

いったんは気色ばんだ男、しかし、いや、よくだましてくれたと両手をついて女房に感謝する。
そうして久しぶりに酒を飲もうということになり、
女房に湯吞みへ酒をついでもらったところで、次の台詞になります。

「おい、え? 飲んでもいいのかい? 
(女房に)おい……あァ、ありがてえなァ、ど……(しばし考えて、すらりと湯吞を下へ置き)
よそう、また、夢になるといけねえ。」

(三代目桂三木助「芝浜」(1)

「ありがてえなァ、ど……」の次に(しばし考えて)と入れられたこの「間」を、野村雅昭さんは、
「心中の複雑な経緯をあらわす間」
であると述べています(2)
「三年のあいだすきな酒をたって商売に一心にはげんだ男の思いと女房への感謝の気持ち」が、
この「間」の中に込められているというわけです。

この稿ではくわしく触れませんが、
このような心理的な表現の「間」というのは頻繁に見られると思います。

逡巡。驚き。喜び。感極まる。悲しみ。気まずさ。恥じらい。怒りをこらえる。
思案。回顧。たくらみ。退屈……。
などなどによって、「間」ができる。
また、感情や気分の変わり目や、話しの接ぎ穂を失って自然に生じる「間」というのは、
わたしたちが日頃、日常会話で身近に体験し、見知っているものです。

演劇や口承文芸では、そうした「間」を加減したり誇張することで、登場人物の心理をより明確に、
より豊かに表現しようとします。
割合で言えば、このような種類の「間」が大半であるかもしれません。

が、この稿では、
語り手(演じ手)と聞き手(観客)のあいだでやりとりされる「間」について考えてきました。
その観点で、オチということを重要視すると、また違った「間」の入れどころが考えられます。


枝雀師の分類によれば、この「芝浜」の噺は「謎解き」オチのパターンとされます。
米朝師の言葉で言えば、

「一つの疑問が続いている、あれは何なのかという緊張がおこる、それがサゲの言葉ではっきりする。
『アッソウカ』と緩和の状態がおこって笑いが生まれる。」

「落語と私」(3)

というやつです。
図にすると、こうなります。

図8:「謎解き」オチ
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この噺では、「よそう」のところで、疑問がおこる。
夫婦の情愛、懸命に働いて手に入れた充実感、さらに新しい年を前にしたすがすがしさの中で、
もう酒でしくじることはないだろう、余裕として酒を楽しめるだろうというところ。
なのに、
「え? よそうってどういうこと? なんで?」
という疑問がおこります。つまり「謎」です。

それが、
「夢になるといけねえ」
という解答がもたらされ、つまり「解き」を得ることで、「アッソウカ」と得心し、緩和するわけです。

このとき、「謎」と「解き」のあいだに「間」があると、よりはっきりします。
「謎」による緊張が、「間」によって観客の想像を呼び、さらに高められる。
つまり、「よそう」の後で「間」をためる演り方もアリだと思います。

またここで、その「間」の代わりに、相手の会話をはさみ込む演り方もあります。

「『おれ、飲むのよすよ』
『どうしてさァッ?』
『また夢ンなるといけねェや』」

(三代目古今亭志ん朝「芝浜」(4)

「どうしてさァッ?」とはさまれた女房の疑問の言葉が、観客の気持ちを代弁して、
「謎解き」オチの「謎」を強調することになります。

小三治師はその疑問に、夫婦のあいだの情を加味して次のように演っていました。

「『…おっかあ、やっぱりおれは、よすぜ』
『あたしのお酌じゃ気に入らない?』
『また夢になるといけねぇ』」

(十代目柳家小三治「芝浜(5)

しかしながら、オチによる笑いは二次的、副次的なこととし、
人情噺風な物語の結末として男や女房の心情の方へ主眼を置けば、
三木助師のように「間」を置き、オチはさらりと付け加える程度ということにもなるでしょう。

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この「謎解き」のパターンは、笑いではないところでもよく使われますね。

たとえば、クイズ番組。
「謎(問題)」が出題されてから、「間」が置かれる。
視聴者はそのあいだ、あれこれ考え想像して緊張が高まる。
そして「解き(解答)」がもたらされると、「アッソウカ」などと納得し、緩和する。

みのもんたさんの「クイズ$ミリオネア」ではしかし、
クイズの問題そのものの「謎」はあまり大きく取り扱われません。
出場者が答えたその解答が、
果たして「正しいのか、正しくないのか?」という点が「謎」だったわけです。

出場者が「成功するか、失敗するか」という「謎」がスリリングに強調される。
だから出場者が最終的に決断し、「これがファイナルアンサーだ」と認める解答を出した後に、
じっくり、たっぷり、「間」が置かれていました。
「サスペンス」の要素が加味され、引き延ばされていたわけです。
そうして視聴者は想像し、さんざんジラされ、つまり緊張が盛り上がったところで、「正解」か「不正解」かが告げられ、ほっと緩和する。

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この「謎」の答え(解き)が、たわいなかったり、馬鹿馬鹿しかったり、
あるいは思わぬ意外性があったりというときには笑いになります。
いわゆる“頓知(とんち)”の利いた「なぞなぞ」などが典型的ですね。

ただ、「謎」自体は、基本的にはエモーショナルなものではないので、
何か情動的な演出が伴わないと、大きな笑いにはならないような気がします。

ちなみに、最近、漫才のWコロンのねずっちさんが注目され、
改めてスポットライトが当たるかたちとなった「謎かけ」という伝統的な演芸の形式も、
この「謎解き」オチのパターンです。

たとえば「『紙芝居』と掛けて何と解く?」などとお題が出される。
そのお題に対して考えがまとまると、演者は「調いました」と言い、
「『すじ模様が入った傘』と解きます」
などと答えます。

観客にはこのとき、「謎解き」の「謎」が投げかけられることになります。
「紙芝居」と「すじ模様の傘」という、一見するとまったくかけ離れた両者に、
いったい何のつながりがあるのだろうか、という「謎」です。

そこで出題者は、今一度、
「『紙芝居』と掛けて『すじ模様の傘』と解く」
と、繰り返します。
繰り返すことで「間」の代わりに引き延ばし、改めて観客に考えさせ、緊張を若干高める。

そして出題者が「その心は?」と問うたところで、
「えを開くと、すじが広がります」
と、答える。

つまり、「謎解き」の「解き」です。
何の関係もなさそうな両者に、
「絵の場面を開くと物語の筋が広がる」
「傘の柄(え)を開くとすじ模様が広がる」
という共通項があったというわけです。

……いや、確かに大きな笑いにはならないと思います。
……あ、いえ、うぅぅ……これは例が悪かったですね。
あの……。小さな笑いにもならなくて、スイマセン。

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《引用・参考文献》
(1)八代目林屋正蔵・三代目桂三木助、飯島友治編「古典落語~正蔵・三木助集」ちくま文庫
(2)野村雅昭「落語の話術」平凡社
(3)三代目桂米朝「落語と私」文春文庫
(4)三代目古今亭志ん朝、京須偕充編「志ん朝の落語・5」ちくま文庫
(5)十代目柳家小三治「柳家小三治の落語・3」小学館文庫
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f0223055_7224359.gif緊張と緩和と「間」のカンケイ・その3


ところで、桂枝雀師は、オチ(サゲ)の分類を独自に考えておられました。
その4分類をここで説明する余裕はありませんが、なるほどと思わず膝を打つおもしろさです。
興味のある方は、ぜひ「らくごDE枝雀」(1)をご覧下さい。

また、こちらのブログ(小言幸兵衛さんによる「噺の話」)が、わかりやすく要点をまとめておられます。
http://kogotokoubei.blog39.fc2.com/blog-entry-73.html

さて、その分類によれば、先に取り上げた「愛宕山」という噺は、
「ドンデン」オチということになります。
結末のシーンを細かくみると、突然、オチになるわけではありません。
幇間(たいこ)の一八(いっぱち)は、谷底から崖の上へと何とか無事に生還してくる。
旦那から「えらい」とほめられる。
ここでいったん安心があるというのです。
通常の物語であれば、無事に帰って来たこの時点で、
「めでたし、めでたし」のハッピーエンドで終わってもおかしくありません。

ところが、この後、肝心の金を忘れてきたというドンデン返しで、安心がひっくり返る。
ただ単に「アホやなあ」と思うよりも、
いったん「うまいこといったなあ」と安心した後で、「アホ」な状況が露呈されると、
「アホ」さ加減が鮮やかに強調されるんですね。

図にすると、次のようになります。

▼図5:「ドンデン」オチ
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無事に戻って旦那にほめられ、「ドン」。
ほっと安心し、緊張度はいったん緩和へと傾きます。
それが実は金を忘れたで、「デン」。
「ありゃあ、何ということをしてるんだい、もう」と、緊張が高められ、
それを「まったくアホやなあ」と客観視して得心したところで笑いとなり、
一気に緩和へ下降します。
このときの時間は、物理的な時間というよりは、心理的な時間の流れで、
ほとんど瞬間的であったりするかもしれません。

(※枝雀師は、特に理論を発表し始めた最初の頃、
「ドン」で緊張し「デン」で緩和すると発言したりもしています。
が、筆者は、「ドン」で緩和し「デン」で緊張するという、
師が後年語っていたような前述の方がわかりやすいと思います。)

枝雀師自身の実演では、縄をなって竹をしならせ飛ぶまでを大熱演で演じた後、
「だんさん、ただいま」
と、気のぬけた軽い言い方(無我夢中の後の呆然とした心持ち)で肩すかしを食わせて笑いをとり、
いったん緩和して、「ドン」。

これは拍子オチのパターンの噺ですが、ここで枝雀師は、ちょっと「間」を入れています。
この「間」は、これまで見てきた「緊張を持ち上げる」はたらきではなく、
笑いが引くのを待つかのような「緩和を受け入れさせる」はたらきであるかもしれません。
(これについては、また後述したいと思います。)

「ドンデン」オチでは、いったん緩和するときに、こうした「間」もアリかなと思われます。
ただ、この小さな「間」のすぐ後、枝雀師はスピード感を失わない短い言葉で続けます。
「上がって来よったぁ。金は?」
「忘れて来たぁー」

で「デン」。
そして体ごとズッコケて落としていました。
(二代目桂枝雀「愛宕山」~ABC「枝雀寄席」1981年5月17日放送/
DVD「枝雀の十八番」EMIミュージックジャパン・第九集に収録)

また、別の高座では、この結末を、「忘れて来た」の言葉も言わずに、
「あああああ~~~~~」と、
見台(=上方落語で使われる小型の机)を抱えながらひっくり返るという、
ダイナミックなアクションで落とす、いわば「仕草オチ」をすることもあったようです。
(1994年6月2日口演(2)

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「千両みかん」という噺があります。
これもやはり、江戸小咄が元になっています(木室卯雲「鹿の子餅」(3))。

大金持ちの息子が病気で床につく。
昔話の「梨とりの兄弟」では、病気の母親は梨を食べたいといい、
中国の「二十四孝」では、病気の母親は筍を食べたいといいましたが、
この病気の息子はみかんを食べたいという。

ところが、頃は6月、夏のこと。
ハウス栽培も冷蔵庫もない当時でしたから、季節外れのものがあるわけがない。
それでも、神田須田町の問屋で腐らずに残った一個をやっと見つける。
なにせ激レアな品。千両の値がつけられる。
が、さすが金持ち。一個千両のみかんを買ってきて、息子に食べさせる。

一個に十袋あったうちの七袋まで食べた息子、
残りの三袋を、おふくろ様に食べさせてほしいと、手代に手渡す。

一個千両の十袋だから、一袋百両、三袋で三百両の計算。
そこで落語版では、次のようになります。
(落語では、「手代」が「番頭」に変わっています。)

「『……三百両だ。
私はこの家に十三のときにお世話になって、もうそろそろ頭がはげ上がるという来年、
暖簾(のれん)分けをしてくださると言う。
そのときにいただけるお金が、たかだか二十両か、三十両。まさか五十両はいただけないだろう。
三百両。
これから一生、汗水を垂らして働いたところで、
三百両なんてえお金がこの手の上に載るもんじゃない。
三百両…三百両…三百両っ』
番頭、みかん三袋持って、いなくなりました。」

(十代目柳家小三治「千両みかん」(4)

物語は、うその世界です。
うその世界と知りつつ、わたしたちはほんとうの現実であるかのように、物語世界を遊びます。
そのために噺家は、心理的なリアル感や、日常的によくあるというようなアルアル感、
あるいは現実のモチーフなどを混ぜ込んで、いかにもほんとうらしさを演出します。

先の「愛宕山」では、山登りのしんどさの描写、投げた土器(かわらけ)を追う目の動き、
人物描写や感情の動きなどなど、
綿密に積み重ねられたリアル感があるからこそ、
たわいのないナンセンスさを本気で楽しめるわけです。

この「千両みかん」でも、番頭(手代)の心の動きが、いかにもというリアルさで語られ、
観客は番頭の心情を理解し、同情することになります。
が、最後、「三百両」という金額につられて持ち逃げする。
現実的な常識の枠から、一歩、踏み越える。
つまり、日常感覚から外れた、ヘンな、おかしいことをするわけです。
それが、可笑しい。
そこでこの噺のオチは、枝雀師の分類では、「ヘン」オチということになります。

また、この噺は「考えオチ」ともいわれます。
渦中の番頭には、自分がおかしな、ヘンなことをしているという意識はなかったでしょう。
本人は必死です。
「三百両」しか見えず、近視眼的に視野が狭くなっている。

番頭の主観的な心情に寄り添っている観客もまた、ヘンだとは思わずに聞きます。
ですから、ポオーンとオチを言われても、一瞬、どこがおかしいのかわかりません。
しかし次の瞬間、我に返って、現実の常識感覚に戻ったとき、これはおかしいと気づきます。
「みかん3房=300両」という主観にとらわれていたのが、
視点がポーンと現実に切り替わったとき、客観的にその姿をながめることになるのです。

たとえ「三百両」に値がついたとはいえ、たかがみかんの三袋。
二~三日のあいだにはカビるかパサパサになるであろう、
そんなものを後生大事に抱えて人生を踏みあやまる滑稽さ。
お金の価値ということについて考えさせられつつ、
「何をアホなことをやっているんだろう」と吹き出してしまいます。

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枝雀師の師匠である桂米朝師は、サゲ(=オチ)についてこう述べています。

「サゲ……というものは一種のぶちこわし作業なのです。
さまざまなテクニックをつかって本当らしくしゃべり、サゲでどんでん返しをくらわせて
『これは嘘ですよ、おどけ話ですよ』という形をとるのが落語なのです。
落語は、物語の世界に遊ばせ、笑わせたりハラハラさせたりしていたお客を、
サゲによって一瞬に現実にひきもどす。」
(5)

現実の常識からずれたり、離れたりする笑いの要素を、桂枝雀師は「離れ」と呼んでいます。
現実から「離れ」てヘンテコなことをするから、おかしい。つまり、可笑しい。
「離れ」の典型的なオチが「ヘン」オチです。

しかし、この「離れ」は、緊張をもたらします。
日常的な常識から外れることは、不安定な緊張を呼び起こすことでもあります。

持ち逃げという犯罪に手を染め、逃亡する番頭は、これからどこへ行くのか?
これまでの長年の奉公も台無しにして、彼の行く末はどうなるのか?
そう考えると、これは不安であり、緊張です。

ところが、そのサゲ(オチ)自体によって観客は現実に引き戻される。
がらりと視点が変わる。
そうして、主観にとらわれていた見方がぶちこわされ、第三者的に、客観的にながめると、
その姿が漫画的に見えてきて、その緊張さ加減が、アホさ加減に変わる。
一気に緩和へと落下することになります。
つまり、笑いとなる。

主観にとらわれていた番頭も、もしも自分の姿を客観的に写してみせる鏡があったとしたら、
自分で自分を笑ってしまったかもしれません。
「離れ」そのものは緊張ですが、
それを改めて現実の視点から客観視することによって緩和し、笑いとなるわけです。

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サゲ(オチ)によって、観客が現実(常識)に戻され、おかしさ=可笑しさに気づく。
このとき、おかしさ=可笑しさに気づくのは、観客自身です。
が、こうしたはたらきを、演じ手側が用意する場合があります。

いわゆる「ツッコミ」というやつもそのひとつです。

「ボケ」が、ボケる。
──つまり、現実の常識からずれた、おかしな、ヘンなことを言う。
あるいは行う。
そのボケを、他の者が常識的な、ごく普通な視点から、「そんなアホな」と、
そのおかしさを指摘するのが「ツッコミ」です。
そうした「ツッコミ」によって現実の視点に引き戻され、観客はおかしさに気づき、
可笑しくなるわけです。

もちろん観客自身でもヘンだと気づくでしょう。
が、「ツッコミ」によってきちんと指摘されることで、
現実の常識とのずれ具合、離れ具合をわかりやすく、鮮明に感じとることができます。

「ボケ」と「ツッコミ」は、2人で行う漫才で用いられるパターンですが、
1人の落語でも、「アホなことを言いなさんな」などと
登場人物同士の会話の中で語られることによって使われます。

「ボケ」担当は、たいてい非常識的な人物であり、独特の世界観を持っていて、
どこか変わっている。
どこか「ヘン」。どこか「おかしい」。
それが常識的で普通な「ツッコミ」担当から指摘を受けることで、「可笑しい」に変わるわけです。

コント・グループ、ネプチューンの堀内健さんは「ボケ」担当です。
彼の「ボケ」は、あまりに日常の意味と「離れ」ることが多い。
もしも日常の場で、彼が突然
「パラグライダー!」と意味不明の雄叫びをあげたとしたら(彼の一発ネタのひとつです)、
これは緊張します。
ヘンだからです。
ヤバい人なのではないかと、周囲は緊張し、引くでしょう。

しかしそのとき、
「何、ふざけとんのや」
と、「ツッコミ」担当の名倉潤さんが、一般常識的にツッコミを入れることで、
「ああ、ふざけてるのか。これはおどけ話なんだ」
と周囲は納得し、緩和することになります。

まあ、しかし、あまりに現実の常識的な意味からかけ「離れ」過ぎると、
つまり緊張が勝ちすぎて、普通のツッコミでは収拾がつかなくなります。
笑いの緩和が消化不良となり、場に緊張が残るということにもなるようです。

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また、現実に引き戻すはたらきとして、オチだけでなく、
オチの後で噺が終わりましたよときちんと告げることがあります。
野村雅昭さんが「ムスビ」と呼んだものです(6)

たとえば、

「毎度ばかばかしいお笑いでございます」
「おなじみ、○○というお噺でございます」
「○○という一席でございます」

などの、終わりを告げるあいさつの言葉。

一般的には、オチというものが基本的にはない人情噺や、
講談ネタが落語化された噺などに使われます。

長い噺を上・下の二回、または上・中・下の三回に分けて演じたり、
あるいは途中で打ち切るような場合には、

「『品川心中』の上(じょ)でございます」(五代目古今亭志ん生「品川心中」
「これから鶴屋へ宿りをもとめます、『三人旅』のなかばでございます」(五代目柳家小さん「三人旅」

などと、その回での口演が終わったことを告げる言葉も、一種のムスビと言っていいでしょう。

寄席では、共演者やいろいろの都合で、
噺を長く延ばしたり、短く縮めたりすることがあるそうです。
短くする場合、途中のギャグをオチ(サゲ)として、そこで打ち切る。
「二十四孝」などは、落としどころのギャグの箇所(=切れ場)が五、六カ所あって、
そのうちのどこで切るかによって、5分にもなったり1時間にもなるという
融通の利く演題(ネタ)です。
そのため、次の出演者の噺へのつなぎとして演じられることも多く、
「つなぎ噺」と言われたりもします。

たとえば、自分の後へあがる出演者がまだ楽屋に到着していないとき。
そんな場合には、延々と噺をつなげる。
が、はなしの半ばであっても、出演者が到着すると(脱いだ羽織を引くのが合図)、
途中の切れ場でオチを言った後、

「おなじみ、『二十四孝』という一席でございます」

などとムスビの言葉を加えて、自分の噺の終了を告げることになります。

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ところが、これらとは違って、噺の最後まで演(や)って、その結末のオチ(サゲ)を言った後、
ムスビの言葉を付け加えることがあります。

たとえば、桂枝雀師が「池田の猪(しし)買い」という噺で、
「どうじゃ、客人。あの通り、新しい」
というオチの後へ、
「…という、『猪買い』というお噺でございます」
と、続けたことがありました。

師自身の解説によれば、これは「ヘン」オチの“ヘン”さ加減が弱く、
噺の結末としての収まり感がいまいちのために、
こうした言葉を付け足したのだということでした。
(TV「EXテレビ」、上岡龍太郎氏との対談にて)

「これは嘘ですよ、おどけ話ですよ」と説明し、
そのうその世界が終了したことを告げ、現実世界へと引き戻す。
非常にわかりやすいです。

しかし、「サゲによって一瞬に現実に引き戻す」という、オチ(サゲ)の本質である役割効果を考えれば、
これはわかりやすいけれど、本来的ではない、念に念を押すような蛇足にも思われます。

そのため立川談志師は、
このように噺のもともとのオチ(サゲ)の後でムスビを付け加えるのはやめた方がいい
と述べています(7)
枝雀師も、上の例では、キッパリと自信をもってムスビを付け加えたという体(てい)ではなく、
付け加えざるを得なかったという雰囲気で、
どこか照れたような、言葉を濁しているようにも見えます。

オチの後へムスビを加えることは、そう多くはないようです。

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けれど、枝雀師の例のように、“ヘン”さが弱いような場合には、
こうしたムスビ言葉で終了であることを強調し、締めくくるのもアリだと思います。

また、逆に緊張が強すぎるような場合にも、
わかりやすい言葉で終わった方が、現実感へと引き戻しやすく、
つまりは笑いを引き出しやすいのではないでしょうか。

以上を図にすると次のようになります。

▼図6:「ヘン」オチ・その1
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先日、新宿で紙芝居の催しがあり、みる機会がありました。
出演者のひとり、とどすずき(とど鈴木)さんは
「間」の使い方が実にうまいなと感心させられる方です。
その日演じられた中に、ご自身が作られた「プラグ」という作品がありました。
ネタばれで申し訳ないのですが、ちょっとご紹介します。

男の子が、地面に何か落ちているのに気づく。
拾おうとすると、それは地面に埋もれていたものの一部で、男の子は何だろうと引っ張り出す。
引っ張り始めると、これが実は、東京タワーかスカイツリーかと見まがうほどの長いもので、
男の子はとうとう、それを引っこ抜いてしまう。
すると地球は、栓(プラグ)を抜かれた風船状態となり、
シュルルル……と空気を漏らしながら宇宙を飛び回り、
最後にボンッ!と、破裂してしまうのでした。

突然あっけなく訪れた“地球滅亡”という壮大なラストシーンに、観客はあっけにとられたまま。
そうしてしばらくの「間」の後で、とどすずきさんが、
「というおはなしでした」
と、いわばムスビの言葉を言って終了を告げ、場面を切り替えたところで、
観客はハッとして我に返りました。
つまり、現実に引き戻されたのです。

地球破裂という、緊張が強すぎる事態のためか、爆笑とはなりませんでしたが、
あまりのナンセンスさに、おおいに緩和してしまいました。
落語のオチとは違いますが、ちょうど図6のような状況であったと思います。

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《引用・参考文献》
(1)二代目桂枝雀「らくごDE枝雀」ちくま文庫
(2)二代目桂枝雀「桂枝雀爆笑コレクション5」ちくま文庫
(3)興津要編「江戸小咄」講談社文庫
(4)十代目柳家小三治「柳家小三治の落語・3」小学館文庫
(5)三代目桂米朝「落語と私」文春文庫
(6)野村雅昭「落語の言語学」平凡社/平凡社ライブラリー
(7)七代目立川談志「現代落語論」三一新書
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f0223055_8585764.gif緊張と緩和と「間」のカンケイ・その2


笑いは、緊張の緩和。
緊張から緩和へ至る、その落差をいかに際立たせるか。
そのためには、オチ(サゲ)の切れ味も必要です。

三遊亭円生師はこう言います。

「いざサゲへ来ましたら、むだなことはもう、ひと言もいわず、そのサゲをさッと言わなくちゃいけない。
あれは競技でいう決勝線だと思うんです。
泳ぎでもマラソンでも、最後の決勝点が見えてきて、ばッとはいる時ですね。
その、ラストスパートてんですか、それが利(き)かなくちゃいけない。
あすこでよたよたとゴールインしたんでは……やはり最後に、ばッとゴールインする、
その勢いで競技がいっそうあざやかなものに見えるわけでしょう。」
(1)

そのために円生師は、たとえば「三年目」という演目のサゲの言葉を刈り込んだそうです。
先達の師たちから習い覚えた言葉を詰められるだけ詰め、字数にして10幾字を詰めて演じた。

「電報うつんじゃないけれども、サゲへ来たら本当に一字でも少なくして、さッとすべり込まなくちゃいけない。
もたもたしていてサゲを悟られてはいけないんです。」
(1)

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同様の工夫、努力は、各師それぞれされているようで、
たとえば、「夢金」という噺。

これは、いわゆる“夢オチ”というやつで、
せしめた小判を「百両、二百両……」と数えていたら、それは寝言で夢だったというはなしです。

三遊亭遊三師(二代目)は、「痛い」と言って夢から目を覚ましたら、
自分の急所を握っていたというオチ。
円生師や古今亭志ん朝師もこの系統で落としていましたね。

これを三遊亭金馬師(三代目)は、

「『百両、二百両ォー』
『(階下にいる親方が、寝言の大声なのをたしなめて)オイ、熊ァ静かにしねえな』」


という短い言葉で、ポーンと切って落としたそうです。

立川談志師はこれを継承しつつも、しまいには、

「『百両、二百両ォー』
『……(階下にいる親方が、うるさいぞという顔で上を見上げる。)』」


と、オチの言葉さえカットして、無言の仕草で落とすようになったのだとか(2)
オチの言葉が短いほど、それだけ切れ味鋭いオチとなり、急転直下で落ちることになるのでしょう。


もっとも、その逆をいって成功した例もあるようです。
無駄な言葉を省いて追い込むように落とすのが、正攻法。
が、柳家三語楼師(初代)は、オチのところでわざともたもたと延ばし、
長々と演じることがあったそうで、
それがまた可笑しかったのだそうです。

ただこれは、三語楼師の力があるから出来ることで、他の人がやったらこうはいかないと、
円生師は言っています(1)

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落差をいかに際立たせるか。
そのためには、また、オチの直前までに、いかに緊張を盛り上げるかもカギになります。
最後のオチへ向かってテンション(緊張度)を上げていく。
そうした緊張や興奮を高めるための話術のひとつとして、
テンポ(スピード)を高めるということがあります。

話す速度は、文化や時代によっても感じ方が違ってきます。
が、一般に、遅い速度は、神経を落ち着かせる。
緩和の方向にはたらきます。
ゆっくりの速度で「間」を頻繁に、また長くとるほど、気分を下降させます。

逆に、「間」をあけずにスピーディに話すほど、気分を高揚させる。
それが喜びであれ、不安であれ、興奮を高めることになります。
つまり、緊張を盛り上げる。

このテンポをうまく使って人々を奮い立たせた例が、たとえば、
アメリカの公民権運動で知られるマーティン・ルーサー・キング牧師の演説です。
1963年8月28日。
ワシントンD.C.のリンカーン記念館にて。
「I have a dream(私には夢がある)」と題された有名なスピーチです。
もちろん、聴衆の琴線に訴えかけたのは、語られた内容自体だったでしょう。
が、どういうように語ったか、その語り方も、聴衆の琴線をふるわせるのに
一役買ったと思われます。

最初はゆっくり。
演説には、聴衆の拍手を促し、その拍手がおさまるのを待つ「間」がありますが、
その「間」もたっぷりです。
それが話していくにつれてだんだんペースを上げていき、声もしだいに大きく、
そして若干、高くなっていく。
感情の昂(たかぶ)りとともに、声の抑揚も緊張感を高めていく。
時に歌うような心地よいリズムで、尻上がりに加速していき、クライマックスの結語へ向けて盛り上げています。

このときの話す速度は、
始まりが、1分間に92語の言葉を話す速さ。
それがしだいに速くなり、
しまいには、1分間に145語を話す速さへと高まっているそうです(3)

これは、技法として意識的に行われたというよりも、
もしかしたら、気持ちの高まりに伴って自然にスピードも高まっていった。
あるいは、それだけスピーチに熟達していたのかもしれませんが、そう思わせられてしまいます。

筆者は英語がチンプンカンプン。
内容は、日本語訳のテキストを読んで初めてわかったという状態ですが、
声のニュアンスだけを聞いても、人々が心を動かされ万雷の拍手を送った気持ちが
わかる気がします。

「You Tube」~「Martin Luther King - I Have A Dream Speech - August 28, 1963 (Full Speech)」

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このように速度をはやめることで緊張を盛り上げるやり方は、落語でも使われます。
もちろん落語の演目(ネタ)にもよりますが、
たとえば、柳家小三治師もよくやるやり方です。

最初はゆっくりと語り始め、前半の特にとっかかりは「間」を多用する。
やがて、物語の展開とともにペースを速め、
後半、最後近くは、「間」をとりません。
むしろ「間」を排除して、とんとんとたたみ込んで結末へ盛り上げる。

まあ、お米の炊き方を伝える言葉になぞらえると、
「はじめチョロチョロ、中パッパ。ブツブツ、トントン、火をくべて、
(ラストは)赤児泣くとも『間』をとるな」
というような具合でしょうか。

そして、緊張が盛り上がったクライマックスで、オチとなり、ストーンと落とす。
だからこそ落差が際立って、笑いが効果的に引き出されるんですね。

小三治師の師匠である柳家小さん師(五代目)は対談で、

「三分の二まで持ってきて、あとの三分の一が、勝負どころです。
そこのところがいちばん肝心で、だんだんとたたみ込んで持ち込む呼吸ですね。
そして咄(はなし)のテンポを速めて、客に隙を見せずに、ひと息にサゲまで持っていくこと。」

と語り、聞き手の暉峻康隆さんは、

「能の序破急だね。」

と応じています(4)

「序破急」のように、だんだん緊張を盛り上げていくという、こうしたはなしの骨組みは、
落語の多くの噺に共通するものです。
いわゆる「拍子オチ」といわれるパターンに典型的です。

「拍子オチ」は、
「とんとんと調子よくはこんでいき、さっとおとすもの。」
と説明されます(5)
そのため、別名、「とんとんオチ」とも呼ばれます。

▼図4:拍子オチ
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たとえば、「愛宕山」という噺。
この噺では、最後のオチがメインであり、後半は、そのクライマクックスへ向かって、
とんとんとはなしを盛り上げていきます。

昔から、土器(かわらけ)投げという遊びがあります。
酒の席の座興から広まったとされるゲームで、
高台などから、日干しや素焼きなどの安価な土器の皿を、フリスビーのように投げ落とし、
しつらえた的の仕切りの中へ通したりして遊ぶ。
その昔、京都の愛宕山には、崖の上からこの土器投げをするところがあったのだとか。

とある旦那、芸妓や舞妓や幇間(たいこ=太鼓持ち)たちを引き連れて、
愛宕山へと野駆け(ハイキング)にやって来る。
そうして座興で、土器の皿の代わりに、なんと二十枚もの小判を谷底へ投げ入れます。
それを見た幇間の一八(いっぱち)、小判を拾えば「拾た者のもんや」と言われて、
大きな傘をパラシュート代わりに崖を飛び降りる。

無事に着地し夢中で小判を拾い集めたはいいが、上ることができない。
そこで苦し紛れの知恵、自分の長襦袢を裂いて縄を綯(な)う。
その端に石を結びつけ、投げる。
近くの竹へキリリと巻きつける。
縄を引っ張り、竹を満月のようにたわめて、地面を蹴ると、飛んでツツツツツツー。

「『へい、旦那、ただいま』
『上がってきよった。えらい奴やな。ようお前上がってきたなァ、ほいで金は』
『ああ、忘れてきた』」

(三代目桂米朝「愛宕山」(6)

番傘を持って崖から飛び降りてもケガがない。
竹をしならせて80尋(約150メートル)を飛び上がって来る。
などなど、これはまるっきり非現実的です。
あり得ません。

が、このナンセンスなくだりはしかし大真面目に、拍子にのって、
「とんとんとーーん」とテンポよく語られます。
「間」は取り払われる。
息をもつかせずたたみかけられることによって、
「現実にあるわけないじゃん」などと考える余裕も与えられない。
最後のオチへ向かって、緊張がどんどん、どんどん盛り上げられます。

桂枝雀師ヴァージョンの「愛宕山」では、
長襦袢をシューッと引き裂くところ。
その布切れで縄をなうところ。
ビュンビュン振り回すところ。
フングフングと竹を引っ張るところ……。
などなど、漫画チックなオノマトペと言葉の繰り返し、そして大熱演のアクションによって、
緊張がさらにさらに盛り上げられていました。

そうして、崖の上へと着地し無事に生還してきたものの、その安堵にため息つく暇もなく、
クライマックスで、「ああ、忘れてきた」という間抜けなオチ。
ストーンと真っ逆さまに「落ち」て緩和することになります。
とんとん拍子で緊張を盛り上げ、急転直下に落とす。
「拍子オチ」の代表例といわれる由縁です。

こうしたオチの場合には特に、「間」はいけません。
「間」を入れると、盛り上げたスピードを殺しかねないからです。
(もっとも後述のように、枝雀師は、安堵にため息をつくところで、
若干の「間」を入れたやり方をしています。)

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古今亭志ん朝師は、このような盛り上げ方の実にうまい方でした。
始まりや中盤は、だいたい普通な速度。
古今亭志ん生師や柳家小三治師のようにスタートをスローにして
「間」をたっぷりとることはありません。
しかしそれが後半のたたみ込む場面となると、
切れのいい、いかにも江戸っ子な、いなせな語り口で、
「とんとんとぉーーーん」と拍子にのってクライマックスへ加速する。

たとえば、「火焔太鼓」という噺。

ある古道具屋。
汚くて値打ちがないと思っていた太鼓の音を、たまたま通りがかりの武士が聞きつけて、
買いたいという。
実はこの太鼓、「『火焔太鼓』とか申して、世に二つというような銘器」
それを大金で売って大もうけして帰ってきた亭主に、女房、

「『まあー、よかったね、お前さん、よくあんな汚いものが三百両なんぞで売れたね、ええ? 
音がしたからだよ。今度っからお前さん、音のする物(もん)に限るね』
『そうよ、音だよ。おれ、今度ァな、半鐘買ってきて鳴らすよ』
『半鐘はいけないよ、おじゃんになるから』」
(7)

半鐘の「ジャン」という鳴り音に引っ掛けた地口(駄ジャレ)オチです。

もしも、この駄ジャレが噺の途中のギャグであったなら、
「半鐘はいけないよ」の後で、ちょっとした「間」を入れると効果的だと思います。
「え? なんで半鐘がいけないの? どうしてさ?」と観客に考えさせ、想像させ、
心持ち緊張を高める。
ほんの短い時間でも、ひと呼吸止めるその「間」の後で、
「おじゃんになるから」とオチを言う。
つまり、前回の図2のパターン。

が、これは、噺の結末のオチです。
口述筆記の文章ではわからないのですが、
志ん朝師の高座では、このオチへ来るまで、
大金を手にした亭主の驚きよう、喜びよう、
さらにそれを聞いた女房の興奮が、ギャグをまじえつつ、
「とんとんとぉーーーん」と調子よく鮮やかに語られます。

まさに「笑わせるのは体力です」という師の言葉どおりの熱演。
そうして観客の興奮もグングン盛り上げられたところで、ストーンと切って落とされる。
つまり、テンション(緊張度)としては、図4のパターンですね。
このやり方で、この結末に「間」を入れてしまったら、
せっかくの噺が「おじゃん」になるでしょう。

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さてしかし、結末で「間」を入れずに、
けれど「間」と同じようなはたらきを効かせることがあります。
会話を相手にふるというやつです。

上の例だと、

「半鐘はいけないよ」
「どうしてさ?」
「おじゃんになるから」

というように、疑問を投げかける言葉や、鸚鵡(おうむ)返しのように繰り返す言葉などを、
会話の相手の台詞として、ワンクッションはさみ込むのです。


たとえば「馬のす」(上方では「馬の尾」)という噺。
これは、多くの落語と同様に、江戸時代の小咄が元ネタになっているそうです。

ある男、釣りをしようと道具を取り出したが、糸が切れている。
そこへ田舎馬が通りかかり、これ幸い、釣り糸に使おうと馬の尻尾の毛を抜き取る。
それを目撃した友だち、
「おい、馬の尻尾をぬくなんて、とんでもないことをするな」
「え? 尻尾をぬくと、どうなるんだ?」
「どうなるどころか、とんでもないことだ」
男は、祟りでもあるのかと心配になり、聞き出そうとする。
すると、友だちは「酒をおごってくれるなら話してやろう」。
そうして酒を一升おごり、さんざん待たされた挙げ句、
友だちが言うには、
「そんなら言おう。馬の尻尾を抜くと、馬が痛がる」
(烏亭焉馬「詞葉の花」(8)

この小咄に肉付けをしたのが、落語の「馬のす」です。
が、骨格は変わりません。
友だちは、最後の一言を出し惜しみしてじらしにじらし、酒をおごらせ、
肴の枝豆をおごらせ、飲み食いします。
馬の尾を抜くといったいどんなことになってしまうのか?
観客は、男といっしょになって、何とか答えを知りたい気持ちにさせられ、
ジリジリと気をもみます。
その答えこそがオチとなるわけで、そこへ至るまで、友だちは、時に気をそらせたり、
「間」をとりながら、興味を引き延ばしに引き延ばす。

ちなみに、こうした引き延ばしのテクニックは、
小説では、「遅延」(または『妨害』)と呼ばれます(9)
クライマックスや、答えを明かす寸前に、
それとは関係のないような文章を書き連ねて、答えを遅らせ、
読者を焦(じ)らすのです。
そうした末にやっともたらされた答えは、読者にカタルシスを与えることになる。
主に、ミステリーの効果のある技巧とされます。

こちらの落語では、男が、友だちの口車にまんまと乗せられるように、
観客は、演者の話芸の技に乗せられることになります。

そうして友だちは酒を飲み干し、枝豆もきれいに食べ終わり、

「『……ごちそさんッ! …さあ、馬の尻尾の訳、教えてやろう』
『(嬉しそうに)ありがと。馬の尻尾ォ抜くとどうなるんだい?』
『馬の尻尾ォ…抜くとね』
『うん』
『馬が痛がるんだよ』」

(八代目桂文楽「馬のす」(10)

これまでさんざん引き延ばされ、緊張が盛り上げられ、やっとこさ、
「さあ、いよいよ答えがわかるぞ」という最後の段になって、
さらにダメ押しで緊張が引き延ばされ、心持ちアップするわけです。
もしもこれが、

「……ごちそさんッ! さあ、馬の尻尾の訳、教えてやろう。馬の尻尾ォ抜くと馬が痛がるんだよ」

と、平板にただ単にスラスラと語られたとしたら、オチの効果は半減するでしょう。
そこで、次のように「間」を入れると効果的だと思います。

「……ごちそさんッ! …さあ、馬の尻尾の訳、教えてやろう。馬の尻尾ォ…抜くとね……。
【間】
……馬が痛がるんだよ」

しかし、噺の最後で「間」を使ってモタモタするのは良策ではないかもしれません。
また、ここに来てさらにもったいつけるように「間」をためるのは、わざとらしく、
ちょっといやらしさが残る気もします。
そのため、劇中の相手に会話をふり、改めて疑問を投げかけたり、
同じ言葉を繰り返したりして、ワンクッションをおくわけです。
そうすることで、流れの自然さを損なわずに、
緊張を引き延ばし、緊張を若干高める「間」と同様のはたらきをさせることができます。

上の例を、もっとしつこく引き延ばすとこうなるでしょうか。

「……ごちそさんッ! …さあ、馬の尻尾の訳、教えてやろう」
「ありがと。馬の尻尾ォ抜くとどうなるんだい?」
「馬の尻尾ォ…抜くとね」
「うん、どうなるんだい?」
「抜くとね」
「うん」
「抜くとね」
「だから、どうなるんだよッ!」
「馬が痛がるんだよ」


しかし、まあ、これではくどすぎますね。
やはり、文楽師の引き延ばし具合がちょうどいいようです。

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こうした例では、たとえば「三人絵師」という噺。

上方へ旅に出た江戸っ子が、泊まった宿で京都の絵師と大阪の絵師と隣り合わせになる。
江戸っ子は自分も絵師だと嘘をつき、
三人で一両ずつ出し合って絵を描いて、いちばん上手いのが三両を取るという賭けをもちかける。
そこで二人の絵師が絵を描くと、江戸っ子は難クセのつけ放題。
とうとう「あんたも描いてみろ」と言われ、江戸っ子は、なんと紙を真っ黒に塗りたくる。

「『……さァ、どうだ、うめえだろ』
『なんやこれ、真っ黒や。真っ黒に塗っちゃって、なんで、これが絵や?』
『これか、真っ黒だろう。この絵はな……』
『なんの絵やね?』
『暗闇から、牛を引きずり出すとこだい』」

(五代目古今亭志ん生「三人絵師」(11)

ここでは、「なんの絵やね?」とはさみ込まれた会話の台詞がワンクッションとなり、
「間」と同じ役割を果たしています。
こうした台詞は、「間」の最中に観客の心の中に生じる言葉を
代弁するものでもあるかもしれません。

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《引用・参考文献》
(1)六代目三遊亭円生「寄席育ち」青蛙房
(2)七代目立川談志「談志の落語・一」静山社文庫
(3)アン・カープ、梶山あゆみ訳「『声』の秘密」草思社
(4)暉峻康隆「落語藝談」小学館ライブラリー
(5)野村雅昭「落語の言語学」平凡社/平凡社ライブラリー
(6)三代目桂米朝「桂米朝コレクション・1」ちくま文庫
(7)三代目古今亭志ん朝、京須偕充編「志ん朝の落語・5」ちくま文庫
(8)興津要編「江戸小咄」講談社文庫
(9)筒井康隆「創作の極意と掟」講談社
(10)八代目桂文楽、飯島友治編「古典落語~文楽集」ちくま文庫
(11)五代目古今亭志ん生「志ん生滑稽ばなし・志ん生の噺1」ちくま文庫







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f0223055_14425076.gif緊張と緩和と「間」のカンケイ・その1


落語家・古今亭志ん生師は「間」の使い方がうまかったと聞きます。
時々、絶句したような「間」をおく。
が、その後に意表をつくギャグでもって笑わせる。

弟子や関係者のはなしによると、実は噺の途中で次に何を喋るか、
本当に忘れて絶句したという「間」が七、八割ではなかったかということで、
そのあたりも、何だかいかにも、らしくて笑ってしまいます。
残された録音には、そうした絶句のような「間」はあんまりないように思いますが、
それでも「間」のうまさがわかる気がします。

柳家小三治師もまた、実にどうも「間」の使い方がうまいなあと思ってしまいます。

たいていは高座の前半、そのとっかかりのところ。
小三治師は、スロースターター。
ゆっくり、たっぷり「間」をとって話し始めます。
すると、それほどに可笑(おか)しくないようなところでも、その「間」でもって笑いが起こる。

「毎度、この、商売ってものは、やさしいものがないなんてことを言いますが、
確かにそうで、
えー、
なかなか商売と名がつくもので、やさしい商売……
『あれァ、やさしいよ。ありゃァ、やれば誰だって食えるよ。楽なもんだ』
なんてね、
人からそう見える商売もありますが……。
われわれも、ま、そうですけれどね。
えー、なかなかね、これでね、ええ。
ここへ上がってきて、なんか気楽に話してるようですがね、
ほんとはね、

【間】
……気楽なんですよ、これが。」
(十代目柳家小三治「出来心」~NHK「日本の話芸」1995年11月10日放送)

「落語家は、他人から見れば気楽な商売に見えますが、実は……」
と言われて「間」が開けられれば、そのあいだに観客は、
「ああ、そうだろうな。楽じゃないだろうな。気疲れもするだろうしな」
などと考え、想像し、そうした言葉を待つことになります。

ところが案に反して、
「気楽なんです」
と言われ、肩すかしを食う。
「おいおい、気楽なのかよ」とツッコミを入れたくなる気持ちと相まって、
観客は思わず笑ってしまうわけです。

……なーんて、いやいや、笑いを理屈で説明しようとするくらい、野暮なことはありませんよね。
まあ、しかし、その野暮天を、ここでちょっとやらかしてみようと思います。

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笑いは、緊張の緩和。
「オチ(サゲ)」を言うことは、緊張度を緩和の方向へ「落とす(下げる)」ことになります。
これをおおまかにイメージとして図式化してみると、次のようになります。

▼図1
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落語で「オチ(落ち)」「サゲ(下げ)」と言えば、本来は、噺の結末にくるギャグのことです。
落として終わるという“落語=落としばなし”という名の由来でもありますね。
が、ここでは便宜上、結末ではなく、噺の途中に入るクスグリであっても、
笑わせるギャグの言葉を「オチ(サゲ)」と呼ぶことにします。

上の小三治師のように「オチ」の前に「間」を入れる場合、次の図になります。

▼図2
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「ほんとはね」の後、「間」が入る。
そのあいだ、観客は想像し、若干、緊張度が持ち上がります。
そうして「気楽なんですよ、これが」のすかし技で一気に緩和され、その落差が笑いを生むわけです。

この場合、「間」を入れなくても図1のように笑いは成立しそうです。
が、「間」が入ることによって緊張と緩和の落差は大きくなり、
笑いがいっそう効果的に引き出されます。
こうした、オチの前に「間」をためるパターンは典型的だと思います。

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たとえば、「粗忽の釘」(上方では「宿替え」)の一節。

そそっかしい男。
引っ越しをすることになり、女房に大きな風呂敷を持って来させる。
箪笥(たんす)を風呂敷に包んで持って行くという。
箪笥を包んで背中を向け、その風呂敷の端をつかむと女房に、
ついでだから火鉢もいっしょに載せろという。
「重いから持ち上がらなくなるよ」
という女房の言葉にも耳貸さず。
ついでに針箱を載せろと、載せさせる。
瓢箪(ひょうたん)を載せろと、載せさせる。
そうして載っけさせると、
「持ち上げる最初だけちょっと手伝え、弾みで持ち上げるんだから」と女房に頼み、
「一(ひ)の二(ふ)の三(み)!」
と気張るが、びくともしない。

「『そらっ、よぉ。一(ひ)の二(ふ)の、三(み)っ…一の二の、三っ…。みぃい。みぃ」
『だから、言わないこっちゃない』
『うるせぇな。いいか、おい。一の二の…おまえねえ、『三』っつうときに押さえてんじゃねえの、おまえ。びくともしねえじゃねえかよぅ。『三』っつったら持ち上げんだよ、おい。いいか、おい。一の二の、みぃぃん、んがぁぁっと。ほぅぅ』
『うるさいね、この人は。おまえさんみたいな人のこと言うんだよ、菜っ葉の肥やしってぇの』
『何だい、その菜っ葉の肥やしってぇのは」
『かけごえばかりてんだよぅ。んなものぁ、持ち上がんないのかね』
『うるせぇな、おれがやってんだよ。おめえが、がたがた言うこたねえんだ。おい、ちょっと、あの、あぁ、そうだ。あのよ、ちょっとあの、瓢箪下ろしてみてくんねぇかな』」

(十代目柳家小三治「粗忽の釘」1987年5月29日口演(1)

この同じ演目を、同じ小三治師が、数年後(たぶん)に演じた高座がテレビで放映されました。
すいません。
録画したとき、メモを怠ったため、収録日や番組名、放送日も不明です。
が、内容は次の通り。

「いいか。さ、持ち上げるぞ。
一(ひ)の二(ふ)の三(み)っつったらな、三(み)っつたら、
ホイッとおれもな、下っ腹(ぱら)に力を入れるから、
おめえもグッと持ち上げるんだ。いいか。
いくぞ。
一の二のみっ!
……一の二の、みぃーっ!
みいぃーーーッ!!
……何してんだよ、おまえ。押さえてんじゃないのか? 
持ち上げんだよ。
いいか。
一の、二の、みいぃぃぃーーーッ!
[持ち上がらないため、ちょっと吐息をついて背中にいる女房をチラ見する。]

【間】
ちょっと、瓢箪を下ろすかな。」
(十代目柳家小三治「粗忽の釘」

前者の高座はDVDにもなっているそうなので確認すればいいのですが(スイマセン)、
文章をみた限りでは、後者のように「間」をとっているとは思えません。
後者では、「掛け声=かけ肥え」というクスグリもなく、全体に言葉も短くなっています。
それが、テレビ用に短くしたものなのか、
工夫して言葉を削った結果のものなのかどうかは、筆者には、はっきりとはわかりません。

が、しかし、後者の、短い言葉の中にポーンと放り込まれた「間」が抜群だと思います。

瓢箪を下ろしたくらいではもちろん持ち上がる訳はない。
それでも強がる男の可笑しさが、「間」でもってくっきり浮かび上がる。
女房に強がりを言い、頑固で我を通そうとする男の、裏腹の情けなさというか、
可愛さみたいなものも見える気がします。

もちろん、「間」を入れない前者のような演じ方もアリでしょう、
が、「間」を入れることによって、可笑しさや味わいがグッと引き立つことも確かだと思うのです。

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ちなみに、この「粗忽の釘」の上方版である「宿替え」を桂枝雀師が演じています。

細部のディティールは違っていて、男が風呂敷で一度に運ぼうとするのは、
櫓炬燵(やぐらごたつ)、漬け物の重石(おもし)、布地の端切れを入れたボテ箱、オマル、
稲荷さんと金神(こんじん)さんの道具、針刺し……瓢箪。
そして、竹とんぼ。
これらを風呂敷でまとめたところへ、バラけて崩れないよう、細帯で胴ぐくりを掛ける。
さあ、そうして持ち上げようと力を入れるが、びくともせず。
そこで女房に、竹とんぼを取ってくれと言って下ろさせる。
針刺しやらオマルやらも取れと言って下ろさせる。
が、微動だにもせず、男、ついには、なんと泣き出してしまいます。
するとその大騒動をながめていた女房、

「待ちなはれ、これ。あんた最前、『胴ぐくりを掛ける』ちゅうて、後ろの柱、いっしょにくくってるやないかい。そんなもんが担(かた)げていけんのか?」
(二代目桂枝雀「宿替え」~ABC「枝雀寄席」1980年8月24日放送/DVD「枝雀の十八番」EMIミュージックジャパン・第一集に収録)

この箇所は、「間」をとらずに語られています。
同じ80年代の高座の口述筆記(1984年3月5日口演(2))でも、「間」をとっていません。

ところが、90年代に演じられた高座(TBS「落語特選会」1997年1月13日放送)では、
男の騒ぎを横でながめる女房を描写しつつ、「間」をじっくり、たっぷりとった後で、上述の台詞。
大爆笑でした。
枝雀師が工夫し、進化させて獲得した「間」だと思います。

どこに「間」を入れるか。
どのくらい「間」を入れるか。
入れどころを違えても受けなかったりする。
時間が長過ぎても、ダレたりする。
はなしの流れや、その場の雰囲気によっても、効果は違います。
おそらくは永遠のテーマとも言えるこの課題は、
笑いの現場で、日々工夫され続けているのでしょう。

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古今亭志ん生師の小咄にこういうのがあります。

「えー、むかしはてえと、どこの橋にも橋番というのがいて、その橋から間違いが起こると、橋番の責任でございまして、
『あー、このように、毎晩身投げがあっては困るではないか。そのほうはそこにいてわからんのかァ』
『へえッ、どうも相すみませんでございます』
上役に叱られて、その晩、こう見ていると、一人バタバタと駆け出して行って、えー、欄干につかまって、とび込もうとしていた奴がいる。そいつの襟ッ首ィつかまえて、
『え、てめえだろう、毎晩こっから身を投げるのはッ!』
自然にはなしになってくるンでございまして……。」

(五代目古今亭志ん生「小咄春夏秋冬」(3)

この場合、ヒョイとオチを言われても、即笑いとはならないように思います。
「え? どういうこと?」と考えてしまう。
そして、考える時間が一瞬、二瞬あってから、
「身を投げて死ぬのを毎晩くり返すなんて、出来ない、出来ない。
身投げにやって来たのは、毎晩別の人に決まってるじゃん」
とやっと合点し、そして橋番の強引な決めつけが可笑しくなって笑ってしまいます。

いわゆる「考えオチ」と呼ばれるパターン。
これは、
「なかなか考えんとわからんてな噺」(by 桂米朝師)
などと説明されますが、
野村雅昭「落語の言語学」(4)では、次のように定義されています。

「オチだけをきいた瞬間にはわかりにくいが、伏線がはってあったり、隠喩がきいていたりするので、
よくかんがえれば、納得され、笑えるもの。」


筆者は、上の小咄を生でも録音でも聴いたことはありませんが、志ん生師はおそらく、
「え、てめえだろう、毎晩こっから身を投げるのはッ!」
というオチを「間」をとらずに言い、言った後で「間」をとったのだと思います。

その「間」のあいだで、観客は考え、想像をめぐらせ、緊張を高める。
そうして理解納得し腑に落ちたとき、笑いが起こり、一気に緩和する。

その後で、落ち着いてから、あるいはやや笑いにかぶせ気味に、
「自然にはなしになってくるン……」
と、続けたのではないでしょうか。

▼図3:考えオチ
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このパターンは、欧米のジョークなどにも多いような気がします。
たとえば、こんなはなし。

「精神病院で。
医師が患者にたずねた。
『こんにちは、あんたは何になっているのだね?』
『法皇だ』
と、彼(※)はいった。
『ほう。誰がそういった?』
『神様がそういわれた』
するとちょうどとおりかかった、白いひげを胸までたらした老人の患者が、口をはさんだ。
『そんなことはない。わしはこの男に話しかけたことはないぞ……』」
(5)
(※引用した原文の言葉を一部変えました。)

これが会話の中で話されたとしたら、やはり、オチの後で「間」がおかれ、
その一瞬か二瞬の後で聞き手がニヤリ、ということになると思います。

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さて、しかしながら、「落としばなし」である落語のそのおしまいのオチで
「間」が長々と入れられることはそう多くはないようです。
特に、オチの前に「間」をためる図1のパターンは、噺の結末には多くはありません。

「間」を入れる例がないわけではありません。
たとえば、三笑亭可楽師の「二番煎じ」という噺。

拍子木なぞをカチカチとたたきながら「火の用心!」と声をかけて町内を回る、夜回り。
その夜回りを、町内の旦那衆が回ることになります。
そうして寒さのつのる冬の晩。
一回りして番小屋へ戻る。
と、体の中からあったまろうと酒を持ってきているやつがある。
夜回りの仕事の最中に酒はいけないが、いや、これは煎じ薬だといって、
土瓶で燗をしてみんなでやり始めた。

ところへ、番小屋を回る見廻り役人。
その土瓶は何だと問われ、「煎じ薬です」と差し出せば、
役人、煎じ薬を飲み放題。
全部飲み干しそうな勢いに、旦那衆、

「『せっかくでございますが、煎じ薬はそれだけになったんでございます。もう、一滴もございません』
『ない? ないとあればしかたがない。拙者、もうひとまわり、まわってくるあいだに、

【間】
二番を煎じておけ』
(八代目三笑亭可楽「二番煎じ」(4)

筆者はこの噺を柳家小三治師でききましたが、
師は「二番を煎じておけ」というオチを、そのまま登場人物である役人の台詞として、
ややトーンを落としめにして、ごく自然に語っていました。

ところが、可楽師は、
「ない? ないとあればしかたがない。拙者、もうひとまわり、まわってくるあいだに、」
までを、役人の台詞として語る。
そこでたっぷりと「間」を入れて、それから地に返って、
「二番を煎じておけ」
とオチを言ったそうです。

「地」とは、登場人物の会話の台詞ではなく、演者自身が観客に向かって語る言葉。
いわゆる、叙述。
いわばナレーションでもあり、説明や描写をするト書きのはたらきもする、
講談でいえば本文のところ。
地に返り調子を変えることで、オチ(サゲ)であるということが非常にわかりやすくなります。

はっきりと地に返ってオチ(サゲ)を言うこうした演り方は、
三遊亭円生師の述懐によれば、「扇派のサゲ」と言うのだそうです。
昔、船遊亭扇橋を祖とする、都々逸坊扇歌といった「扇派」といわれる人たちが
行った演(や)り方なのだとか。(6)
野村雅昭さんは、「地口オチ」と呼んでいます(4)

しかし三遊派(初代三遊亭円生や三遊亭円朝をはじめとする一派)は、地に返らず、
登場人物としての心持ちで下げるのだそうで、
円生師は、こちらが噺の本道ではないかと言っています。

確かに、地に返って落とす演出は、形式的で、
いかにも“つくりもの”めいていて不自然かもしれません。
小三治師が演(や)ったように、現在では、三遊派の演出が主流のようです。
可楽師も、いつもこうした演出をしたわけではなかったそうです。

しかし素人目にもわかりやすいのは事実で、
「可楽ほどではなくても、オチを普通よりゆっくりしゃべったり、声を一調子はりあげたりするなどのくふうは、
多少の差はあれ、他の演者にも共通にみられる」

と、野村雅昭さんは指摘しています(4)

また、オチ(サゲ)の前に、「間」を入れるということは、図2のように、
緊張と緩和の落差が際立ちやすい。
「間」には、「間」の次にくる言葉に注意を促し、強調するはたらきがあるのですが、
そのため、ここでは「間」を入れることで、オチの言葉を目立たせ、印象づける
という効果も加わります。

にも関わらず、結末のオチ(サゲ)で「間」が入れられることは、多くありません。
それには、長々と「間」をとってもたつくと、
クライマックスでストーンと小気味よく落とす効果が半減するということがあるのでしょう。

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《引用・参考文献》
(1)十代目柳家小三治「柳家小三治の落語2」小学館文庫
(2)二代目桂枝雀「桂枝雀爆笑コレクション3」ちくま文庫
(3)五代目古今亭志ん生「志ん生艶ばなし・志ん生の噺2」ちくま文庫
(4)野村雅昭「落語の言語学」平凡社/平凡社ライブラリー
(5)磯村尚徳編著、荻野弘巳訳「フランスジョーク集」実業之日本社
(6)六代目三遊亭円生「寄席育ち」青蛙房
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