カテゴリ:紙芝居/絵を描く( 16 )

2. 輪郭を、くっきり。

画面から離れて遠くからながめるとき、
何が描かれているか見えにくいという理由のひとつは、
輪郭がぼやけて、かたちがわかりにくいということでしょう。
輪郭がぼんやりしないよう、くっきり、鮮明に描くことで
遠くから見てもわかりやすくなる。
つまり、遠目をきかせることになります。

そのための効果的な手段としてまず思い浮かぶのは、
黒や濃い色、あるいは目立つ色を使った“輪郭線”を入れることです。

もののかたちを輪郭線によって表すことは、
ラスコーの壁画に腕をふるった旧石器時代の人々の頃からの定番です。
幼い子どもたちでも、何かもののかたちを描こうとするとき、
まず紙に描き入れるのは輪郭線ですね。
輪郭線を描くことは、原初的な、何かしら本能的な表現なのかもしれません。

いわば、クロッキー。
いわば、マンガ。
かたちを光の粒子や色でとらえようとしたり、
面や塊(かたまり)でとらえようとする印象派やキュビスムの画家たちの技は、
ちと難しかったりする。
かたちを輪郭線でとらえるやり方は、お手軽でもあります。

水墨画でいうと、線だけで描く「白描法」とか、
輪郭線を描いてその内側を塗る「鉤勒(こうろく)法」とかいわれる技法。

たとえば、下の絵は、色をベタ塗りしたものだから、輪郭の境目は明確です。
けれど、背景が類似色なので、輪郭がとらえにくく、遠目で見るとわかりにくい。

▼図01
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そこに輪郭線を入れると、輪郭がくっきりとして、遠目で見てもかたちがわかりやすくなります。

▼図02
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黒い輪郭線をはっきりと描いてわかりやすいといえば、
全般的にマンガがそうです。

版画や切り絵やステンドグラスなどは、
基本的に黒い輪郭線を使って表現をする画法と言えるでしょうか。

元ステンドグラス職人であったジョルジュ・ルオーや、
装飾性の高いアルフォンス・ミュシャなどなど、
輪郭線を強調した絵画やイラストも多々あります。

絵本でも、ミッフィーのシリーズで知られるディック・ブルーナなどは
黒く、極太の輪郭線が特徴的です。
骨太の輪郭線といえば、
和歌山静子さん(作品に「あいうえおうさま」(1)、紙芝居「はいはいあーん」(2)など)の
絵でもおなじみですね。

ただ、こうした描き方も、単に輪郭線を入れればいい、
単に輪郭線を太くすればはっきりするというものではなく、
描きすぎたりするとゴチャゴチャして、遠目で見ると逆にわかりにくくなる。
また、シンプルな線であればあるほど、
その選び方、かたちや動きの表し方が大切になってくるのでしょう。
デザイン的なセンスが求められるのだと思います。

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ところで、手作り紙芝居の絵を描く場合には、
どんな画材で描くかということも、ひとつのポイントになります。
遠目で見てわかりやすく、くっきりと描けるのは、
 ポスターカラー、 リキテックス絵具、カラーインク、ペンキ、泥絵具
などといえるでしょうか。

水彩絵具の場合だと、不透明水彩の方が、はっきりしますよね。

油彩絵具版画切り絵なども、くっきりと描けそうですが、
用紙や手間の問題など、手作り紙芝居にする場合は大変そうです。
が、大変そうだけどおもしろいかもしれません。

輪郭線など、部分的に使うとしたら、
 マジックインキ、フェルトペン、墨、クレヨン
なども有効でしょう。

反対に、全画面が色鉛筆だけだと、どんなに美しくはあっても、
薄くぼおーっとして、遠目がききにくくなります。
パステルクレヨン、また、水彩絵具でも透明水彩だと、
描き方によっては、ぼんやりしがちです。

こうした画材を使うプロの画家の方たちは描き方を工夫しているのだと思います。
──たとえば
鈴木幸枝さん(作品に「すてきなバスケット」(3)、紙芝居「ペンギンのタウタウ」(4)など)は、
紙芝居の作品でもパステルを使って描かれたりしています。
輪郭線を多少描くことはあっても、輪郭線を強調する画風ではありません。
しかし、パステルのソフトさを生かしながら、
その上で構図や空間のとり方など、いかに遠目をきかせるかを計算されているため、
非常に見やすい画面となっています。

下の絵は、試しに色鉛筆調で描いてみたんですが(ホントはCGソフト)、
なんだかボケボケです。
パソコン画面で見ると、ああ、ブタのような生物だとわかると思うんですが、
2メートル以上も離れた遠目だとわかりにくくなる。

▼図03
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しかし、こうした画材で描いても、
輪郭線をくっきりと描けば、わりあいだいじょうぶかもしれません。
くっきりした輪郭線を入れると、遠目でもわかりやすくなってくると思います。

▼図04
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さてしかし、必ずしも輪郭「線」に頼らなくても、
輪郭がくっきりとしていれば、遠目がきくわけです。
たとえば、輪郭線なしでも、かげをつけ立体感を出すことで、
ちょっとばかり輪郭がくっきりと見えやすくなります。

▼図05
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また、輪郭線なしでも、背景の色が違えば、くっきりとしてきます。
単純なことですが、このやり方がいちばんの基本なのかもしれません。

▼図06
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また、色鉛筆のような画材を使ったぼんやりした絵でも、使い方によって、
たとえば背景をはっきりとさせることによって、
輪郭が明らかになり、遠目がききやすくなります。

▼図07
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伝えたいかたちと、その背景を明確に分けることで、浮き立たせる。
輪郭線なしでも目立たせることができます。

輪郭線なしで、キャラと背景を明確に色分けする。
こうしたやり方としては、貼り絵の画法がぴったりです。
シンプルなかたちを、背景の違う色と組み合わせることで、
効果的に際立たせることが出来ます。

貼り絵の紙芝居といえば、高橋五山「ぶたのいつつご」(5)が代表的でしょうか。
他にも「ベニスズメトウグヒス」(6)など、
高橋五山は“貼り絵紙芝居”をいろいろ作っています。
また、貼り絵は、
瀬名恵子さん(作品に「おばけのてんぷら(7)」、紙芝居「おさじさん」(8)など)が
よく使われている画法ですね。

ちぎったり切り抜いたりした色紙や、作った折り紙をそのまま画面に貼り付けるなど、
子どもたちでも、制作に参加が出来やすい。
紙芝居を見ているうちに、子どもたち自身で作ってみたくなるかもしれません。

手作り紙芝居では、画面をぬくときに紙がこすれるため、
のりづけをしっかりしなければいけないものの、
しかし、遠目をきかせる絵には、貼り絵という技法がピッタリ。

高橋五山は、第二次大戦中、モノが不足して、
紙や画材も満足でなかった時代にこの「貼り絵」を考案したそうですが、
この画法は、本質的に紙芝居に適していると思われます。

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ちなみに、「遠目がきく」ということとは関係ありませんが、
絵本の絵の場合の輪郭線について、佐藤公代さんが調査されています(9)

この調査は、3~5歳の幼児たちが、
輪郭線のはっきりしている絵と、輪郭線のはっきりしていない絵のどちらが好きか、
どちらが理解しやすいか、などを調べたもの。
(形式的には紙芝居のかたちを用いて調べたそうです。)
それによると、全体的に子どもたちは輪郭線のある絵を好む。

ただ、年齢があがって4、5歳児になると、
輪郭線のはっきりしていない絵でも理解して思い出すことができる。
これは、ぼんやりしていてわかりにくいために、逆に「何なんだろう?」と興味をひいて、
思い出すことの出来る再生率や理解度を高めたのではないかといいます。

もっとも、おのおの個人の好みもあるでしょう。
また、物語と絵が合っているか、雰囲気や絵のよしあしなど、
いろいろな条件を見る必要もありそうです。

必ずしも輪郭線にこだわる必要はないのですが、
遠目とは関係ないとしても、
小さい子ども向けでは特に、輪郭線を描く絵が親しみやすいということは、
ある程度言えそうです。

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《引用・参考文献》
(1)寺村輝雄作、和歌山静子絵「あいうえおうさま」理論社
(2)和歌山静子作・絵「はいはいあーん」童心社
(3)森山京作・鈴木幸枝絵「すてきなバスケット」フレーベル館
(4)わしおとしこ作・鈴木幸枝絵「ペンギンのタウタウ」童心社
(5)高橋五山「ぶたのいつつご」童心社
(6)高橋五山「ベニスズメトウグヒス」全甲社(※1943年に制作された作品の復刻版。)
(7)せなけいこ「おばけのてんぷら」ポプラ社
(8)松谷みよ子作、瀬名恵子絵「おさじさん」童心社
(9)佐藤公代「絵本の挿絵の役割に関する研究、発達」近代文芸社
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紙芝居の絵は、「遠目がきく」ということが要求されます。
このへんが、他のメディアの絵と大きく違うところでしょうか。

絵本の絵と比較すると、その特徴がはっきりします。
絵本を読むとき、読者は、手に持ったりひざに置いたり、
テーブルや床や布団の上に置いたり、
あるいはバスタブに置いたりして読みますよね。
(え? 風呂場では読まない?)

自分でめくる場合でも、誰かに読んでもらう場合でも、手が届く距離。
せいぜい20~50センチほどでしょうか。
そのため、ディティールが細かくても、目にとまる。
とくに子どもたちの目は、
画面のすみっこに描かれたほんの小さな小道具や脇役も見つけだします。
それが楽しい。

たとえば、背景の部屋の壁の小さな額縁の肖像画など、
おとなは気づかずに通り過ぎてしまいがちなんですが、
子どもたちは目ざとく見つけて、満足そうにうなずいたりして物語を楽しんでる。

また、絵本のページをめくる速度は、読者自身の意のままです。
お気に入りの絵には、何分もじーっと見入ったりもします。
読み聞かせの場合でも、読み聞かせるおとなたちは次のページを急がず、
そんなふうに浸る子どもたちの時間を待ってあげたりする。
次のシーンが待ちきれずに、早く絵を見たいときには、
自分で手を出してページをめくったりする子もいますよね。
途中で引き返して、見たい絵を何度でも見返すこともできます。

ところが、紙芝居の場合、
絵との距離は、少なくとも1~2メートル以上になるでしょうか。
演じる場所や観客の人数にもよりますが、
いちばん後ろの人が20メートルくらい離れて見るということもあります。
そうすると、細かく描かれた絵だと、わかりにくい。

さらに、場面をぬく速度は、演じ手次第。
1、2秒もしないうちに次の場面へ行ってしまうこともあるわけで、
子どもたちの絵を見る時間は、お気に召すままというわけにはいきません。

そこで、パッと見ても、遠くから見ても、内容や印象を伝えやすい絵
──つまり「遠目がきく」絵が求められるんですね。

では、遠目をきかせるためには、どうすればいいのでしょう?
勉強中、試行錯誤中、修行中の身の筆者ではありますが、
筆者なりに考えてみると、次のようになるのではないかと思われます。

 1. 大きく、しっかり。
 2. 輪郭を、くっきり。
 3. コントラストを、はっきり。
 4. かたちを、すっきり。
 5. 背景を、あっさり。
 6. 窓を、ぽっかり。


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1. 大きく、しっかり。

遠目をきかせるいちばん手っ取り早い方法は、
大きく描くことではないでしょうか。

携帯画面の大きさのワンセグの映像は、せいぜい一人か二人しか見られませんが、
映画館のスクリーンの大きさの画面なら、5〜600人の観客が見られます。
遠目がきくわけです。
ナスカの地上絵のように大きな絵であれば、成層圏の高さの距離からでもわかります。

手作り紙芝居では、
画面自体を大きくすることも、遠目をきかせるひとつの方法となるでしょう。
大きい紙に描けば、遠くからでも見やすい。
出版紙芝居の場合でも、
通常(24.5㎝×34.6㎝)より大きい大判のもの(40.8㎝×57.3㎝)があります。
また、その大きさ専用の舞台もあります
(参考:「童心社」ホームページ・大型紙芝居舞台の紹介ページ)。

ちなみに、筆者が手作りでやっている紙芝居は、約38㎝×55㎝ほど。
今、手元にあるそのサイズ用の舞台は、1つは、お師匠さんから譲り受けたもの。
仏壇作りの職人さんに頼んで作ってもらったのだそうです。
もう1つは、手先が器用でもの作りの得意な友人が作ってくれました。

紙(画面となるボードや板など)さえ用意できれば、
人間の背の高さを越えるような、超特大ジャンボ紙芝居も可能です。
そうした紙芝居をつくっている方たちもいらっしゃいます。
観客が大人数の場合には、その“超”遠目のききやすい画面が効果的。
が、遠目がききやすいというだけでなく、迫力満点で、
これは、パフォーマンスとしても楽しいものです。

が、一般的には、手作り紙芝居であっても、
出版紙芝居とほぼ同じ、B4(25.7㎝×36.4㎝)程度の画面でつくる場合が多いようです。
そのくらいの大きさがオーソドックスとされているのは、
手作りで描くときの手頃さや、抜くときの扱いやすさということがあるでしょう。
そして、実は、ただ大きければいいというものでもなく、
そのくらいの大きさであっても、
じゅうぶんに遠見をきかせることが出来るということがあるのかもしれません。

そしてその遠目をきかせるための画面構成や構図の工夫は、
画面の大小に関わらずに求められるものです。

「大きく、しっかり」描くことで、遠目をきかせるわけですが、
では、単純に画面を「大きく」すればいいのでしょうか?
それも有効であるかもしれませんが、ただそれだけではなく、
ここでは、何を「大きく、しっかり」描けばいいのかも問われると思います。

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ところで、皆本二三江さんによれば、
絵というのは、描くのが男か女かで、その特徴があらわれるといいます(1)

その性差は幼い頃から認められるものだそうで、
男の子の絵、女の子の絵には、色彩や構図、描線の描き方など、
生理的ともいえるようなそれぞれの違いが出てくる。

で、女の子の絵の特徴のひとつは、「等価分散型」なんだそうです。
たとえば、ひとつの絵の中に、自分や友だち、家、花、小動物といったモチーフを描くとき。
女の子は、それらを“等価”──つまり分け隔てなく同じような大きさで描き、
それを画面の中に均等に“分散”して配置する。
自分も、友だちののりこちゃんも、家も、花も、ちょうちょうも、
同じような大きさで描かれ、全体が調和するような和やかさで等しく並べられたりします。

▼女の子の絵に多い「等価分散型」の典型例を模したもの
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こうした“等価分散型”の傾向は、
成人となってからの女性たちの作品にも垣間みられるのだそうで、
そうした女性作品はまた、静的、平面的になる特徴があるといいます。
それはしかし、中心がない、
アイ・キャッチともなるような中心点がないということにもなります。

対して、男の子や男性たちの描く絵では、
中心となるようなものがまず描かれる傾向が見られる。
ややもすると、それしか描かなかったりする。
その中心を軸として、中心を強調するような、
動的でダイナミックな構図の絵になりやすいといいます。

男性の絵によく見られるこうした傾向を、皆本二三江さんは
「一点拡大型」と呼んでいます。

▼男の子の絵に多い「一点拡大型」の典型例を模したもの
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どちらがよく、どちらが悪いとはもちろん言えません。
それぞれにそれぞれのよさと、また作者の個性があることは言うまでもありません。
が、しかしながら、遠目がききやすいのはどちらか。というひとつの観点だけから見れば、
これはどうやら「一点拡大型」の絵の方が適していると言えそうです。

女性たちの等価分散型は、ゆったり、じっくり、絵の世界に入り込み、
雰囲気を味わい楽しむ場合に効果的です。
個人で楽しむ「絵巻」や「絵本」向きと言えるでしょう。
しかし、遠くから見ると、焦点がはっきりしない。
パッと見には、何が描かれているかがわかりにくい。
遠目がききにくい。
その反対の一点拡大型の絵のように、中心となるモチーフがまず目に飛び込んでくると、
瞬間的にも、遠目にもわかりやすくなります。

「大きく、しっかり」描くのは、その中心モチーフです。
中心モチーフを、大きく、しっかり描くことが、
遠目をきかせる要素のひとつということが言えそうです。

たとえば、紙芝居のその場面で描きたい中心のモチーフが、
友だちののりこちゃんのことだとすれば、のりこちゃんを真ん中にデーンと置く。
のりこちゃんが何をしているか、大きく、しっかり描いて、
あとの自分、花、ちょうちょう、家……といった他のモチーフは小さく、
あるいはまったく省いてもいいわけです。
モチーフすべてを等しい大きさで均等に配置するとしたら、
描きたい中心であるのりこちゃんがかすんでしまいます。
遠目では、のりこちゃんの存在がわかりにくくなる。

中心モチーフというのは、その場面の画面で、
いちばん伝えたいものということですね。

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絵巻の多くは、たいていロングショットで、場面の全景が描かれます。
いわばパノラマともいえるようなワイドな画面で描かれることもあります。
たとえば、合戦絵巻などに多いのですが、
広く景色を見わたせる眺望の中に、馬に乗った武者やら、槍を持った兵士やら、
旗を背負った兵士やらがいろいろ細々と描かれている。
絵巻をスクロールして展開することで、そのひとつひとつをたどっていくわけです。

絵本の「とこちゃんはどこ」(2)、「 ウォーリーをさがせ」シリーズ(3)なども、
パノラマのようですね。
「ウォーリーをさがせ」のいちばんの楽しみは、もちろん、
パノラマのような見開きの絵の中にウォーリーの姿を探して発見することです。
が、そればかりではありません。

たとえば、海中のようすを描いた次のような場面──。

「あっ。魚の矢印にお尻を突かれている」

「上半身が魚で、下半身が人間の人魚がいるぞ」

「小さな魚たちが集まって大きな魚になって泳いでいるよ。絵本の『スイミー』(4)みたい」

などなど、荒唐無稽ないろいろの姿や不思議な光景をパノラマの中に見つけることも
大きな楽しみのひとつです。

▼絵本「新ウォーリーのふしぎなたび」(3)を模写(部分)。
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さらには、たとえば、本物ののこぎりを付けたノコギリザメがいたり、
アシカやアザラシのことを英語で「シー・ライオン(sea lion)」といいますが、
本当に文字通りのライオンがいたりと、
ひとつの画面の中に、10や20のおもしろい発見がある。
子どもたちは自分の人差し指で、そのひとつひとつを指差していきながら、
絵本を楽しんでいたりします。
また、友だち同士でわいわい指差し合いながら読むというのも、
楽しみのひとつでしょう。

昔のマンガでも、こうしたパノラマのような場面が使われることがありました。
たとえば、初期の手塚治虫作品「メトロポリス」(5)には、
2ページ見開きで、大都会メトロポリスの混乱ぶりが描かれる場面があります。
(※こうした群衆を描く場面を「モブ・シーン」というそうです。
手塚治虫は特にモブ・シーンを好んで描いたようです。)


▼マンガ「メトロポリス」(5)を模写(部分)。
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凶悪な犯罪者で、変装の名人のレッド公爵が街に潜入したというニュースが流れる。
彼は、巨大な鼻の持ち主ということで、大きな鼻をもった人々が疑われます。
そこで、鼻の低くなる薬を求めて薬屋に駆け込む人、
鼻が高いためにケンカを始めるカップル、
鼻が大きいために自殺をはかって窓から飛び出す人……などなど、
マンガチックな場面を、読者はパノラマの景色の中にたどっていきます。

しかし今は、こうしたパノラマのような手法をマンガに使うことは少ないでしょう。
スムーズにスピーディに読みやすくするため、
コマ一つの中に、伝えたい絵の情報を三つ四つ以上と盛り込むことは
基本的には少ないのではないかと思われます。
大きなコマでも、小さなコマでも、
コマ一つに、伝えたい絵の情報は、せいぜい一つか二つ。
そうしたコマが次々に連続していって物語が展開するわけです。

それに対して、立ち止まって、じっくり、ゆっくりながめることのできる
絵巻、絵本、昔のマンガの一部などでは、
一つの絵の中に伝えたい情報がたくさん盛り込まれていたりする。
むしろ、それが楽しみなんですね。
こうしたパノラマの中に事物を並列的に配する絵は、つまり“等価分散型”です。
いろいろなモチーフが、同じように並べられている。
その中では中心となるモチーフが見えにくい。
主人公は見つけにくい。
「ウォーリーを探せ」や「とこちゃんはどこ」は、
その見つけにくさを逆に利用した絵本ということができます。

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絵図や絵巻を見せながら、物語を語る「絵解き」というメディアがあります。
「絵解き」では、昔は「楚(しもと)」という笞を使ったり、
「おはねざし」と呼ばれるようなキジの尾羽のついた棒などを使い、
絵を指して物語を語り聞かせます。

たとえば、その昔、熊野比丘尼は、
「地獄六道図」などの絵図を持ち歩いて「絵解き」をしました。

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これは、生まれ変わったり死に変わったりしたときに魂が行くとされる、
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という、仏教が説く六つの世界をパノラマのように描いたもの。
この中でたとえば「地獄」について物語り、
「地獄に行ったらば、恐ろしい鬼がおって……」
などと語っているとき、
観衆の目がうろうろと「天」の美しい蓮の池あたりに向いていたら困るわけです。
だから、「地獄」の世界を語るときには「地獄」の絵を、
「修羅」の世界を語るときには「修羅」の絵を、おはねざしでひとつひとつ指差していく。

絵本やマンガなどでは、パノラマのような“等価分散型”の絵のどこを見るかは、
読者の自由にまかせられています。
絵図も、どこをどう見てもかまわないのですが、
これを語るという場合、語り手は、伝えようとする絵に観衆の目を向けさせなければなりません。
今何を物語っているか、観衆にどこに注目してもらいたいか、
語り手は、ひとつひとつを指差し、視線を誘導する必要があるわけです。
そのために、笞やおはねざしが必要なんですね。

紙芝居でも、パノラマのような絵は可能です。
可能ですが、しかし、遠目をきかせようとする場合には難しい。
紙芝居では、視線を誘導する笞やおはねざしを使いません。
その代わり、ちょうど現在のマンガの一コマと同じように、
一つの場面の画面には、伝えようとする絵の情報は一つか二つ。
それが抜かれ、次の場面があらわれる。
そうして次々に連続していって、物語が展開します。

たとえば、もしも、六道輪廻の物語を紙芝居にするとしたら、
一場面の中に六道の世界すべてをパノラマ式に描いて
ひとつひとつを指差しながら長々と物語ることはしないでしょう。
一場面あるいは数場面を地獄の世界、次の場面で餓鬼の世界、次に畜生の世界……と、
六道の中の光景を、ひとつひとつ場面場面に割り振ったりしながら、
何場面にもわたって展開させることになると思います。

この一場面の中で伝えようとする、一つか二つの絵の情報。
これを「大きく、しっかり」と強調することが、遠目をきかせることになります。

たとえば、その場面で描きたいのが、主人公の気持ちだったりするとき。
主人公の顔を大写しのアップにして、
その気持ちを伝える表情を大きくしっかり描くといいかもしれません。
またたとえば、その場面で描きたいのが、物語のキーポイントとなる小道具だったりするとき。
小道具だけをアップにし、中心モチーフとして、大きくしっかり描くのも方法の一つであるでしょう。
主人公の行動を伝える姿。
気持ちを伝える物。
状況を伝える風景……。
いちばん伝えたいそうした中心モチーフを、「大きく、しっかり」描くことが、
遠目をきかせつつ、物語を劇的に展開させていく紙芝居の絵に求められるのではないかと思います。

が、しかし、ただ単に大きく描けばいいというものでもありませんよね。
面積として大きく描かなくても、中心モチーフを大きくアピールすることができます。
そんな他の要素について、次に考えてみます。

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《引用・参考文献》
(1)皆本二三江「だれが源氏物語絵巻を描いたのか」草思社
(2)松岡享子作、加古里子絵「とこちゃんはどこ」福音館書店
(3)マーティン・ハンドフォード作/絵、唐沢則幸訳「新ウォーリーのふしぎなたび」フレーベル館
(4)レオ・レオニ、谷川俊太郎訳「スイミーーちいさなかしこいさかなのはなし」好学社
(5)手塚治虫「メトロポリス」(手塚治虫漫画全集(44))講談社

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斜線構図の順勝手と逆勝手


ここでちょっと「順勝手」「逆勝手」という言葉について整理してみます。

これは、もともと絵巻で使われていた言葉で、
絵巻では、
「順勝手」といえば、「順勝手の斜線構図」のことを、
「逆勝手」といえば、「逆勝手の斜線構図」のことを
限定で意味することも多いようです。

ちなみに、絵巻では、登場人物が左に向かって進んだり、左を向く(←)ことを
「左向(さこう)」といいます。
反対に、右に向かって進んだり、右を向く(→)ことを
「右向(うこう)」といいます(1)

こうした「左向」「右向」なども含めて、
斜線構図だけに限らず、
物語の展開する方向に順(したが)う動きや表現を「順勝手」、
反対に、逆らう動きや表現を「逆勝手」
ということもあります。

この斜線構図だけに限定しない絵巻の用語を、
絵本作家の長谷川集平さんが、絵本を語る上で使っておられました(2)
それにならって、笹本純さんが同じ用語の使い方をしています(3)

これがとてもわかりやすい。
それでこの稿でも、長谷川集平さんの使い方にならい、
紙芝居や絵本、絵巻、マンガなど、
物語の展開に方向性がかかわるメディアに共通する表現として、
この用語を使うことにしたのでした。

では、絵巻の「順勝手の斜線構図」「逆勝手の斜線構図」とは
どういうものなのでしょうか。

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「源氏物語絵巻」に代表されるように、
平安時代に作られた王朝の物語を映像化した絵巻の舞台となるのは、
主に室内です。
室内をどう描くかというとき、多用されたのが、
「吹抜屋台(ふきぬきやたい)」という手法でした。
屋根や天井を取っ払い、斜め上の俯瞰から建物の室内をのぞき込むという描き方です。
また、家の中をのぞくために、正面の壁も取っ払われて描かれることが多くなります。

このとき画面には、
柱、
長押(なげし:柱と柱を水平につなぐ木材)、
縁(えん:縁側)、
畳の縁(へり)、
襖障子(ふすましょうじ:現在のふすま)、
几帳(きちょう:部屋を仕切るつい立て、パーテーションのような道具)
などなど、
建物や調度類の直線が頻繁に描かれることになります。

この直線をどう描いてデザインするかによって、
画面の印象も変わってきます。
そしてそれによって、心理的な表現もされるようになりました。

この「吹抜屋台」を描く手法には、2種類があるといいます(4)
ひとつは、「水平構図」。

「吹抜屋台」で描くとき、室内の奥行きを表現するため、
奥行きの方向を斜めに描くことがよく行われます。
この奥行きの方向を斜めにとる斜線に対して、建物の間口の方向を水平に描くやり方が
「水平構図」です。
(水平構図は、奥行きの線だけが斜めなので、「片斜め構図」ともいわれます(5)。)

▼水平構図(片斜め構図)
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もうひとつは、
奥行きの方向を斜めに描くのは同じなのですが、
それに対する間口の方向も、斜めに描くやり方。
これは、「斜め構図」といわれます。
(斜め構図は、奥行きも間口も両方斜めなので、「両斜め構図」ともいわれます(5)。)

この斜め構図は、建物の一角から対角線の方向へ見下ろすアングルになりますね。

▼斜め構図(両斜め構図)
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同じ部屋の風景でも、「水平構図」で描くか、「斜め構図」で描くかによって
画面の雰囲気が変わって見えます。

「水平構図」は、安定感があり、落ち着いた感じ。

「斜め構図」は、ちょっとエキセントリックなおもしろさがあるでしょうか。
水平構図とは反対に、不安定で、落ち着かない感じになります。

たとえば「源氏物語絵巻」の「柏木(一)」の場面。

主人公・光源氏に嫁いだ女三宮(おんなさんのみや)が、
柏木という貴公子と浮気をして、子をなす。
その浮気相手の柏木が死んでしまったため、
出産してからまだ間もない女三宮が、
光源氏という夫がいるにもかかわらず、出家したいと父に願い出るところです。
光源氏にしてみれば、妻を寝取られた上に出家までされて去られるわけです。
これまで、女性たちに愛され、栄華への道を歩んできた光源氏が、
晩年につれて、悲劇に満ちた物語の後半へと向かうところ。

この場面が、「斜め構図(両斜め構図)」で描かれています。
そのことによって、
「心理的な不安や人物間の葛藤の表現を強く感じさせることになった」(5)
と評されます。

▼「源氏物語絵巻」(「柏木(一)」)
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なるほど、畳の縁(へり)の斜めの直線と斜めの直線が交錯することによって、
緊張感が高められている。
さらには几帳の直線が4本、渦を描くように並べられ、
まさに波乱の幕開けといった感じですね。

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また、「斜線」の描き方の角度によっても、画面の印象は変わってきます。

斜線の角度の傾斜が、緩やかな場合。
こちらは安定感があり、ゆったりとした印象があります。
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対して、斜線の角度が急な場合。
こちらは、不安定な印象です。
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たとえば、「源氏物語絵巻」の「御法(みのり)」の場面。
ここは、光源氏の最愛の妻である紫の上が、死の床につき、
最期の別れを源氏と交わすところ。

この場面では、奥行きの斜線が急角度で描かれているため、
「画面に安定感を欠き、それがいっそうこの場面の不安な悲劇性を強調している」(1)
といいます。

▼「源氏物語絵巻」(「御法」)
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右から左へと(←)視線を進ませる絵巻では、
人間の営みの場であり、生活の営みの場である室内の風景がここで途切れて終わり、
その先に、きらびやかな宮中とは対照的に、
余白をいかした、どこかもの寂しげな草々の風景が広がります。
その自然の風景と室内の風景が、急角度の斜線で区切られることによって、
しかも、ここには縁側も描かれていないため、
隔絶感を生んでいる。
生活の場がフッツリ途絶えるように区切られるという印象です。

そして、主人公・光源氏はその区切りの際で、
右を向いている(=右向)──流れとは反対の逆勝手の方向を向いている、
というのも暗示的です。
その背中に広がる余白が、空虚さを演出し、
自然の営みである“死”ということを感じさせるようにも思います。

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さてそして、絵巻のように、物語の展開に方向性が関わる場合、
斜線の方向が影響することになります。

このとき、右上から左下へと引かれる斜線が「順勝手の斜線」と呼ばれます。
右から左へと(←)物語が展開する絵巻では、
この方向の斜線が、流れに順(したが)うように見えるからです。

▼順勝手の斜線構図

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これは、立体を描く斜投影図の「右面構図」に対応します(6)
立体の右面が、こちらから見えるかたち。

▼斜投影図「右面構図」
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反対に、左上から右下へと引かれる斜線は「逆勝手の斜線」と呼ばれます。
右から左へと(←)物語が展開する絵巻では、
この方向の斜線が、流れに逆らうように見えるのです。

▼逆勝手の斜線構図

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これは、斜投影図の「左面構図」に対応します(6)
立体の左面が、こちらから見えるかたちになります。

▼斜投影図「左面構図」
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右から左へ(←)と進む人物の視点から見れば、
彼の前方には立体の右面があり、彼は右面をながめることになります。
左へ(←)進む絵巻では、鑑賞者も同じく左へ(←)視線を移動させるので、
立体の右面を描く順勝手の斜線構図が自然で、これが基本になります。

反対に、逆勝手の斜線構図で描かれる立体の左面は、
右から左へ(←)進む人物の視点からは、
見ることの出来ない裏側ということになりますね。

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そしてこの斜線の方向は、流れのイメージに影響します。
これは、たとえば下図のように考えるとわかりやすいかもしれません。

たとえば人物が、傘もささずに雨の中、
右から左へ向かって(←)走っているとき。

このとき、右上から左下へ向かう順勝手の斜線を描く雨は、
イメージとしては、スムーズ。
進行に対して邪魔をすることなく、むしろ背中を押して、
スピードの加速を助けているかのように見えます。
雨は、風の影響を受けているわけで、
これは、風でいうならば、「順風」ということになります。

▼順勝手の斜線の雨
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対して、左上から右下へ向かう逆勝手の斜線を描く雨は、
進行を妨げ、スピードを奪うかのようなイメージです。
これは風でいうならば、「逆風」ということになります。

逆風の雨に立ち向かって走るという図は、
負けずに走る力強さを演出することにもなるでしょう。

▼逆勝手の斜線の雨
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順勝手の斜線構図は、物語の展開の方向に沿って、
そして読者の視線の方向に順(したが)っているので、
流れがスムーズとなり、流動感があります。

そのため、物語を描いた絵巻では、基本的に、
順勝手の斜線構図が多用されることになります。

「一遍上人絵伝」は、生涯にわたって遊行を続けた一遍の旅をつづった絵巻で、
その道行きの舞台となるのは、室外です。
室内を描くための吹抜屋台は使われません。
登場する民家や寺社の建物は、屋根付きの俯瞰で描かれるのですが、
このとき、順勝手の斜線構図が頻繁に使われています。

▼「一遍上人絵伝」(部分)
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ここで、順勝手の斜線構図が多く使われているのは、
「一遍が右から左に向かって遍歴をつづける進行にあわせて、
流動的な効果をあげることを意図したものだろう」
(1)
と、奥平英雄さんは述べています。

が、しかし、順勝手の斜線構図ばかりでは、画面が単調に見えてしまう。
そこで、単調さを避け、ところどころ変化をつけるために、
逆勝手の斜線構図を用いたりもしているといいます。

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順勝手と逆勝手の斜線構図は、
こうしたイメージや心理的な表現を伴っているわけですが、
すべてにあてはまるわけではありません。
上述のように、単調さを避けるために変えられたり、
また、後年の絵巻では、斜線構図の形式だけを踏襲しているものもあるようです。

そんな中、逆勝手の斜線構図の表現の好例として、奥平英雄さんが挙げているのが、
「源氏物語絵巻」の「宿木(三)」の場面です(1)

▼「源氏物語絵巻」(「宿木(三)」)
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これは、「斜め構図(両斜め構図)」でもありますね。
「斜め構図」自体が、
順勝手の斜線と、逆勝手の斜線の組み合わせということになります。
ここでは、その逆勝手の斜線が効果的に使われています。

琵琶を優雅につま弾いているのは、貴公子・匂宮(におうのみや)。
「源氏物語」後半の主人公・薫のライバルでもあります。
その音色に聴き入る女性は、彼の妻であり、妊娠中の中君(なかのきみ)です。

一見、弾き語りに耳を傾ける仲睦まじいカップルに見えるのですが、
彼らの胸中にかかえている想いは複雑です。
匂宮は、中君の他に妻をめとり、右大臣の娘婿となってそちらに入り浸っています。
そんな夫の行状に思い悩む中君は、薫に相談を聞いてもらって慰められるのですが、
匂宮は、その二人の仲を疑っている。

こうした両者の錯綜する感情が、逆勝手の斜線構図で描かれることによって、
微妙な緊張感をかもし出しているというわけです。

ここでは、室内と室外を隔てるところに縁側があり、
それがクッションとなって調和され、
枯れ尾花がたなびく外の余白が、叙情的な余韻となっているように見えます。

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ところで、この「宿木」の帖の場面は、
(一)も(二)も、逆勝手の斜線構図で描かれています。
下図は、「水平構図(片斜め構図)」の逆勝手ですね。

▼「源氏物語」(「宿木(一)」)
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ここで逆勝手の斜線構図が用いられているのは、
物語の内容とは無関係のように思われます。

ただ、物語絵巻では、
物語が始まっていく前半に、順勝手の斜線構図が描かれやすく、
物語が終息に向かう後半に、逆勝手の斜線構図が描かれやすい、
という傾向があるようです。

源氏物語の後半である「宿木」が逆勝手の斜線構図であるのは、
もしかしたらその傾向によるかもしれません。

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絵巻は、巻いた紙をスクロールさせながら右から左へと(←)読み進みますが、
ページをめくって読み進む綴じ本形式の「草子(草紙)」もまた、
右から左へと(←)物語が展開するメディアです。

この草子である「御伽草子(渋川版)」の挿し絵が、
やはり順勝手と逆勝手の斜線構図を巧みに使い分けていることを
黒田日出男さんが指摘しています(7)

この「御伽草子」の挿し絵にも、
物語が始まっていく前半に、順勝手の斜線構図が描かれやすく、
物語が終息に向かう後半に、逆勝手の斜線構図が描かれやすい、
という傾向があるといいます。

たとえば、
「小町草紙」の最初
「小敦盛」の最初
には、物語の始まりの場面として、順勝手の斜線構図。

反対に、
「蛤の草紙」の最後
「猫のさうし」の最後
は、物語の終結の場面として、逆勝手の斜線構図が使われています。

以上を基本としてふまえた上で、それに対する変則的な表現が見られます。

「文正さうし」の最後
「唐糸さうし」の最後
などは、本来ならば、逆勝手の斜線構図が使われるところです。
しかし、これらの物語は、とびきりのハッピーエンド。
その「末広がりのめでたさ」を強調するため、
流れの前向きな順勝手の斜線構図が、わざわざ使われているというのです。

またたとえば、「木幡狐」の最後。

▼「御伽草子(渋川版)」〜「木幡狐」挿し絵
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これは、斜め構図(両斜め構図)ですが、
縁側の斜線など、順勝手の斜線が強調されています。
また、主人公の狐の尼僧も、左(順勝手の方向)を向いていますね。

一匹の美しい女狐。
姿を人間に変じて、都へ上り男性と結婚します。
一子をもうけ、幸せに暮らしていましたが、その家で犬を飼うことになる。
狐である彼女は、家に犬が居ては、いられません。
泣く泣く子をおいて家を出て、故郷に帰ってくるのですが、
子と夫への想いやみがたく、出家して尼となり、
来世で結ばれることを願い、物語は幕を閉じます(8)

ここは、修行に励み、来世の未来に想いを託そうとする場面。
物語は閉じられるのですが、そうした開かれた感じを描くため、
最後にも関わらず、順勝手の斜線構図が用いられているというわけです。

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また、物語の途中は、展開をスムーズにするため、
順勝手の斜線構図で描かれるのが基本です。
しかし、意図的に、逆勝手の斜線構図で描かれることがある。
そうした例を、黒田日出男さんが挙げています(7)

「文正さうし」……場面転換となるところ。
「鉢かづき」……鉢がとれるという劇的な事件が起こるところ。
「唐糸さうし」……主人公が死を覚悟して行動に踏み切るところ。

▼「御伽草子(渋川版)」〜「唐糸さうし」挿し絵
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たとえば、その「唐糸さうし」。

源頼朝と木曾義仲が、同じ源氏でありながら争っていた時代。
鎌倉御所に仕えていた唐糸という女房が、木曾義仲の命令で頼朝の命を狙います。
しかし、事が発覚し、土牢に幽閉される。
その娘・万寿姫は母親を救い出そうと、鎌倉御所に乗り込みます。
そして一歩間違えれば殺されるのを覚悟で、頼朝の前で、得意の舞いを披露する。
その舞いの素晴らしさに感激した頼朝が、母親の唐糸の罪も許すという物語です(8)

決死の覚悟の万寿姫は、逆勝手の方向を向いて舞いを舞っている。
そのドラマチックな場面が、やはり逆勝手の斜線構図で描かれているんですね。
(こちらも斜め構図(両斜め構図)ですが、逆勝手の斜線の角度が印象的です。)

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以上を整理してみると、
順勝手の斜線構図は、
 始まり・順調・前向き・活発・積極的・動的・未来へ向かう
などのニュアンスがあるようです。

対して、逆勝手の斜線構図は、
 終息・逆境・変化・停滞・不安・葛藤・劇的・後ろ向き・消極的
などのニュアンスがあるようです。

これらの要素は、斜線構図に限らず、
右を向く・左を向くなども含めた順勝手・逆勝手に共通するもので、
下図の要素とも重なるところが大きいと思われます。

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絵本「アンガスとあひる」(9)の中で、
好奇心いっぱいの子犬・アンガスが、
庭の境にある生垣の向こうから聞こえてくる声に興味を抱く場面があります。

屋敷の中で暮らすアンガスにとって、生垣の向こうは、未知の世界。
そこに何がいるか、アンガスは知りたくてたまらなくなる。
そのとき、障害となる生垣が、順勝手の斜線の方向で描かれているのです。

(この絵本は、左開きですから、絵巻や草紙とは逆に、
左から右へ(→)展開します。
その方向から見れば、左上から右下への方向が、順勝手の斜線となります。)

▼絵本「アンガスとあひる」(9)の部分を模写

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右へ(→)進むアンガスの目線から見れば、生垣の左面が見えるわけで、
順勝手の斜線構図で描かれるのは、ごく自然です。

生垣は急角度で描かれており、行く手を阻む障害であることは明白です。
が、しかし、逆勝手ではありません。
順勝手の斜線構図で描かれることによって、
乗り越えていけそうな、その先に進んで行けるという
開かれた可能性のあるニュアンスをかもし出しているような、
そんな気が、筆者はします。

結局、アンガスは生垣の下をくぐって、未知の世界へ飛び出します。
そして声の正体があひるであるのを知り、ひどい目に合って家に逃げ帰る。
そのとき、アンガスは3分間のあいだ、何も知りたいと思わなかったと語られます。
けれど3分後には、きっとまた、生垣の向こうへの冒険に想いを馳せたに違いありません。
順勝手の斜線構図で描かれた生垣は、
「また乗り越えて行けるよ」と言っている気がします。

ちょっと“牽強付会”気味ですが、
生垣が順勝手の斜線で描かれているのを見て、そんなふうに感じたのでした。

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《引用・参考文献》
(1)奥平英雄「絵巻物再見」角川書店
(2)長谷川集平「絵本づくりトレーニング」筑摩書房
(3)笹本純「絵本の方法ー絵本表現の仕組み」〜中川素子、今井良朗、笹本純「絵本の視覚表現ーそのひろがりとはたらき」日本エディタースクール出版部・所収
(4)佐野みどり「じっくり見たい『源氏物語絵巻』」小学館
(5)若杉準治編「絵巻物の鑑賞基礎知識」至文堂
(6)高畑勲「十二世紀のアニメーション ー国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるものー」徳間書店
(7)黒田日出男「歴史としての御伽草子」ぺりかん社
   黒田日出男「御伽草子の絵画コード論」〜黒田日出男・佐藤正英・古橋信孝「御伽草子ー物語・思想・絵画ー」ぺりかん社・所収
(8)市川貞次校注「御伽草子」岩波文庫(上・下)
(9)マージョリー・フラック作・絵、瀬田貞二訳「アンガスとあひる」福音館書店

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アラビア語の翻訳絵本にみる右・左




東京・板橋区に、「いたばしボローニャ子ども絵本館」があります。

北イタリアのボローニャ市では、毎年「ボローニャ国際児童図書展」が開催されています。
その一環として、日本での「国際絵本原画展」が板橋区立美術館で行われたのをきっかけに、
ボローニャ市と板橋区の交流が始まる。
そうしてボローニャ市から板橋区へ寄贈されたのが、世界の絵本や児童書2,3000冊あまり。
その一部を、同館で一般公開しているのだそうです。

小学校の元校舎を改造したところへ、世界約80カ国の絵本がズラ〜〜ッと並び、
どれでも読み放題というのは魅力です。

で、その中に、アラブ首長国連邦(UAE)の絵本もありました。
この国の公用語はアラビア語ですが、英語も一般に広く使われているのだそうです。
そのため、同じ絵本でも、アラビア語版と英語版の両方があるものもあります。

たとえば英語版の「You're Too Little!」(2)という絵本。
この文章は当然、英語のアルファベットで、左から右へ(→)読み進み、
絵本の展開も右へ進む(→)左開きの本となります。

ところが、アラビア語は、右から左へ(←)読み進む文字。
絵本の展開も左へ進む(←)右開きの本となります。

英語版とアラビア語版は、どちらも原画は同じです。
が、印刷では、部分的に左右そのままの同じ絵になっている箇所があるものの、
基本的に、左右反転になっていました。

ストーリーの流れとしては、まったく違和感がないのですが、
登場する人物がみんな左利きとなるのは、やむを得ないところでしょう。
また、ふつうに景色を描いた絵でも、左右反転すると、
なんとなくバランスが悪いような、どことなく居心地が悪いような印象があるのは、
これは筆者の個人的な感覚のはなしです。



こうした左右反転は、マンガを翻訳する場合にもあるそうです。
日本のマンガは、縦書きで右から左へ読み進み(←)、
表紙が右の右開きが、一般的。
対して、英語などのアルファベットは、右へ読み進む(→)ので、
マンガのコマの絵は、左右反転にしないとつながらなくなる。

ただ、ヒットを放った野球選手が三塁へ走るという珍現象が起きたりするみたいですね。



同館には、日本の絵本が、外国向けに翻訳されたものもありました。

たとえば、五味太郎作「きんぎょがにげた」(1)
何カ国語かに翻訳されていましたが、エジプト向けに翻訳されたものもあります。

エジプトの公用語は、アラビア語。
日本のオリジナルは、文章が右へ読み進む(→)横書きで、左開きで、
アラビア語版は反対の右開き。
これはやはり、中の絵が、左右反転になっていました。

文字が読めないながらにページをめくってみても、
まったく違和感がありませんでした。



しかし、それにしても残念だったのは、
日本の「いっすんぼうし」(文・石井桃子、絵・秋野不矩)(3)が、エジプト向けに翻訳された絵本です。

これも、オリジナルは、文章が横書きで左から右へ(→)展開するので、
アラビア語版では、反対のつくり。
ところが、絵は、左右反転しないままなのです。
そのため、主人公の一寸法師は、逆勝手のまま、物語を進むことになる。

たとえば、都へと旅立つ一寸法師を、おじいさん・おばあさんが見送るシーン。
オリジナルの原画では、左下の手前に、おじいさん・おばあさん。
右上の彼方に、小さな一寸法師という、グランス・カーブを描く構図です。
左下から右上へと描かれる読者の視線に合わせるように、
旅をする蝶々の群れの軌跡が、グラフィカルに美しく添えられています。

ところが、アラビア語版となると、これが左右反転しないままなので、
こちらの一寸法師は、逆勝手の方向を向いて歩いていくのです。
これでは、
おじいさん・おばあさんと別れる一抹のさびしさや、
ちょっと不安感も入り混じった旅立ちのワクワク感もわいてこない。
──ように感じてしまったのは、筆者だけの感覚でしょうか。

秋野不矩さんの流麗な絵はそのままなのですが、
左右が反対なために、
物語を読み進むおもしろさが半減するように思われたのでした。



やはり、右か、左か。
順勝手か、逆勝手か。
というのは、大切なもんだよなあと、改めて思った次第でござります。







《参考文献》
(1)五味太郎「きんぎょがにげた」福音館書店
(2)Caroline Borthwick 文、Judi Barret-Lennard 絵「You're Too Little!」Jerboa Books
(3)石井桃子文、秋野不矩絵「いっすんぼうし」福音館書店

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順勝手と逆勝手──空間表現から心理的な表現へ


物語が展開する流れの方向に対して、順(したが)う表現が、「順勝手」。
逆らう表現が、「逆勝手」です。
これらは、一般的には、空間的な表現となります。

たとえば、「行って帰ってくる」という構造の物語。
この構造は、昔話や童話やファンタジーなどに広く見られるものです。
(参照:当ブログ「『行って帰ってくる』物語」

古典的ともいえる絵本、ワンダ・ガアグ作「100まんびきのねこ」(1)も、
「行って帰ってくる」の構造を含んでいます。

年をとったおじいさんとおばあさん。
二人だけではさびしいと、飼う猫を一匹探すため、
おじいさんが丘を越えて谷間を越えて出かけていきます。
「行って帰ってくる」の「行って」の場面です。


「100まんびきのねこ」(1)の部分を模写スケッチ

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この模写スケッチでは割愛しましたが、
上図の左のページには、おじいさんとおばあさんの家、
そしておじいさんの歩いた道が丘や谷間をぬって描かれています。
道は、左下のおじいさんの家を起点として右上へと伸びていきます。
その途中に、右を向いて歩くおじいさんの姿があります。
これは横書きの絵本(左開きの絵本)ですから、展開する方向は右向き。
おじいさんは、順勝手の右方向へ進んでいるわけです。

道とそれを取り巻く畑や森や丘、そして空が、ややS字を描きながら、
左下から、対角線上に右上へと向かい、連なっている。

そして、いちばん右の端の雲はだんだん小さくなって遠く彼方へ続いていき、
さらに、その下の道も、遠く彼方の山へ越えて続いているのがわかります。
手前から遠くへという距離感が、実にうまく描かれている。

これは、人の目線の意識は、左下の手前から右上の奥へ移行するという
「グランス・カーブ理論」にぴったり符合します。
(→参照ページ

おじいさんの歩く道とその周辺の丘や林や空の雲は、グランス・カーブの通り、
左下の手前から、右上の奥へと続いているわけです。

そして、その道をたどる読者の目線もグランス・カーブを描き、
道のその先には、何が待っているのだろうと、
右上の奥の彼方に思いを馳せて、ページをめくることになります。

1946年に没した作者のワンダ・ガアグが、
1950年に発表されたグランス・カーブ理論を知っていたとは思われません。
これは、絵本を読む目線を熟知していた絵本作家がその直感に従って描いた絵が、
理論の通りだったということなのでしょう。

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そうして、猫のいっぱいいる丘にたどりついたおじいさんは、
猫をいっぱい引き連れて、家へ帰ります。
「行って帰ってくる」の「帰ってくる」場面です。

空間の方向としていえば、右へ行って、帰ってくるのですから、
その帰りの方向は、左へ向かわなければなりません。
つまり、「逆勝手」。

だから、帰り道の場面を、逆勝手で描く絵本の作品も多いです。
「かいじゅうたちのいるところ」(2)でも、
かいじゅうたちのいる島から、主人公マックスがヨットで帰ってくる絵は、
逆勝手で描かれていました。
後述しますが、絵本作家ブルーナの作品は、ほとんど、
帰ってくる場面が逆勝手で描かれています。

が、この「100まんびきのねこ」の物語では、帰り道の途中で、
猫たちが水を飲んだり、草を食べたりするというエピソードが
6ページにわたって描かれます。
帰り道であっても、事件やエピソードや、そうした物語の展開がある場合、
意識としてはまだ旅の途中であるでしょう。
この帰り道の6ページは、まだ旅を進んでいるという意識として、
右へ進む「順勝手」で描かれるのが、やはりふさわしいと思います。

また、行く道では、左から、右へと描かれていたのに対し、
帰り道では、左から、右へと描かれます。
丘を下っているのだというイメージが加えられ、
順勝手であっても、帰り道だというニュアンスが伝わってきます。

そうして、ようやく家へとたどり着く場面。
ここで、ようやく
おじいさんと猫たちは、左を向いた「逆勝手」で描かれます。


「100まんびきのねこ」(1)の部分を模写スケッチ

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こちらの模写も、右のページを割愛しました。
見開きで見ると、模写の絵の右に、
おじいさんに付いてきた1兆匹(!)の猫たちが並んでいます。

読者の視線は、やはり、左から右へ。
まず、帰って来たおじいさんと、迎えるおばあさんを見ることになる。
それから、あらあら、こんなにいっぱい付いて来ちゃったのか、
どこまで並んでいるんだろうと、
延々と列をつくる猫たちを、右の方向へながめていくことになります。

帰宅の場面が、逆勝手というのは、物理的な方向の通りなのですが、
心理的・象徴的にも合致することになります。

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左方向は、「内」であり、「ホーム」であり、
外へ旅して、ねこたちを連れてきたおじいさんは、
その「ホーム」へ帰って来たことになります。


これは、絵本を紙芝居化した
高橋五山脚色の「ひゃくまんびきのねこ」(3)でも同じです。

紙芝居は、左向きに展開するメディアですから、
猫を探しにおじいさんは、左へ進み、順勝手の通り、「行き」ます。
そして1兆匹の猫を連れて家へ「帰って」くる9場面は、
おじいさんたちが右へ進む逆勝手で描かれています。

本来のグリュンワルドの象徴図式とは左右が逆になるわけですが、
ここでは、物語が展開する流れに引っぱられ、
左が「外」で、右が「内」になると、筆者は考えます。
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紙芝居に触れましたが、
物語の展開の流れが、右から左へ向かうメディアの場合でも共通です。
紙芝居や絵巻、また、文章が縦書きの絵本(右開きの絵本)などでは、
「行って帰ってくる」の「行って」の順勝手が、左方向となります。

せなけいこ作「うさぎちゃんつきへいく」(4)は、文章が縦書きで、
表紙が右にある絵本。
主人公うさぎちゃんが、宇宙人の円盤に乗って月へ「行く」場面は、
左へ向かう順勝手で描かれます。


「うさぎちゃんつきへいく」(4)の部分を模写スケッチ

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※絵本の原画は、貼り絵の独特な味わいが楽しいものですが、模写では伝えられません。スイマセン。

そして月へ「行って帰ってくる」、その「帰ってくる」場面は、
右の地球へ向かう逆勝手で描かれます。
円盤の向きと、流線がどちらに付いているかで、
飛んでいる方向の右左がわかりやすく描き分けられています。


「うさぎちゃんつきへいく」(4)の部分を模写スケッチ

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さてしかし、この「行って帰ってくる」の「帰ってくる」のところが
逆勝手ではなく、順勝手で描かれる場合もあります。

絵本の「はじめてのおつかい」(5)もそのひとつです。

同名タイトルのテレビ番組もそうですが、
子どもたちの「初めてのおつかい」という体験には、
「行って帰ってくる」冒険の、原初的な、典型的なかたちがあると思います。

その大きな冒険に立ち向かう主人公みいちゃんのドキドキ感が、
絵本には巧みに描かれています。

そうしてみいちゃんが、牛乳を買ってくるという使命をやり遂げた、帰りの場面。
みいちゃんを迎えに家の近くへ出たお母さんの待つ場所へ、
走って向かっているところです。

この場面では、みいちゃんは家に帰り着いて、ホッと安らいでいるわけではありません。
まだ冒険の途中。
ここは、順勝手で描かれるのがふさわしいでしょう。


「はじめてのおつかい」(5)の部分を模写スケッチ

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いわば冒険のゴールである、お母さんの待つ場所は、
象徴的に、「目的」「未来」である右端に位置しています。
しかも、右「上」。

物語の設定では、買い物をするお店は、坂のてっぺんにあり、
みいちゃんの家は坂の下です。
お母さんは坂の下で待っています。
わかりやすく描こうとすれば、お母さんを画面の右「下」に描いたことでしょう。

右「下」は、グリュンワルドの象徴図式では、
「敗北」とか「取り消し」などの意味が与えられている方向でもあります。
もしも、お母さんが右下に描かれていたらと筆者が想像すると、
物語が終息するというイメージが濃くなると思います。

しかし、絵本画家の感性は、
お母さんというゴールを、画面の右「下」に描くことを拒んだのかもしれません。
アングルを変えることで、まったく自然に、
坂の「下」にいるお母さんが、画面では、右「上」に位置して描かれます。
そしてそのことによって、画面は、グランス・カーブ理論の
「グランス・カーブ」の構図を描くことになりました。

ゴールのお母さんが右上に描かれることによって、
読者の子どもたちは、みいちゃんといっしょにラスト・スパートする高揚感とともに、
やり遂げるという気持ちを共有するのだと思います。

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「行って帰ってくる」の構造を含む物語において、
主人公は、

「行って」→《順勝手の右向き》
「帰ってくる」→《逆勝手の左向き》

──という動きで描かれる(左開きの絵本の場合)。

このことを、絵本作家ブルーナは、
まるでルールのように、非常に律儀に遵守しています。

それには、年齢の小さな子どもたちを対象にしているため、
あくまでもわかりやすくという配慮があるのでしょう。

ミッフィー(うさこちゃん)のシリーズから例をあげれば、
たとえばこんな具合。

「うさこちゃんとゆうえんち」(6)
◎うさこちゃん(ミッフィー)、とうさん、かあさんの3人が自動車に乗って
遊園地に行く→《順勝手の右向き》
◎3人が自動車に乗って、遊園地から帰ってくる→《逆勝手の左向き》

「うさこちゃん ひこうきにのる」(7)
◎うさこちゃんがおじさんに、飛行機に乗せてもらう→《順勝手の右向き》
◎「そろそろ帰ろうか」とおじさんが言って、飛行機で戻ってくる→《逆勝手の左向き》

「うさこちゃんとじてんしゃ」(8)
◎うさこちゃんが、自転車で遊びに出かける→《順勝手の右向き》
◎時間が遅くなってきたので、坂道を下りて帰る→《逆勝手の左向き》
帰る坂道を下りるときに転ぶ→《逆勝手の左向き》
帰り道の途中で雨が降ってくる→《逆勝手の左向き》

ミッフィー(うさこちゃん)のシリーズ以外でも、
ブルーナ作品では、こうしたルールが守られています。
ところが、このルールに反する例外中の例外ともいうべき作品があります。
「こねこのねる」(9)です。

子猫の「ねる」は、
うさこちゃんや、子犬のくんくん(英語名:スナッフィー)、子熊のボリスなど、
ブルーナの他のキャラクターたちが、シンプルな点々な目なのに対し、
いかにも猫らしい猫目をしていて、ちょっと変わった印象です。

その彼女が魚に乗って、インディアンのいる国へ出かけるとき、
逆勝手の左向きに描かれるのです。


「こねこのねる」(9)の部分を模写スケッチ

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彼女の後を追って、3羽の鳥がついていくのですが、
彼らもやはり、逆勝手で左に向かって空を飛んでいます。
インディアンの国は、左方向にあるらしい。
が、インディアンの国から帰ってくるときもまた、逆勝手の左向きに描かれます。

「行って」→《逆勝手の左向き》
「帰ってくる」→《逆勝手の左向き》

となっているわけです。

空間的な整合性に欠けています。
ブルーナの作品に親しんでいる読者であれば、違和感を感じるはずです。
これは、なぜなのでしょう?

物語を見てみると、「こねこのねる」は、その個性的な目だけでなく、
他の作品群と異なっていることがわかります。

ブルーナの作品は、子どもたちの現実に根ざしたモチーフを
扱っていることが多い。
うさぎが服を着て言葉を話すということ自体は、非現実的ですが、
扱っているモチーフは、
「海へ遊びにいく」(10)
「赤ちゃんが生まれてお姉さんになる」(11)
「大事なものをなくしてしまい、探しまわる」(12)などなど、
小さな子どもたちの生活に密着したものです。

「外国人と友だちになる」(13)
「万引きをしてしまう」(14)
「祖母が死ぬ」(15)など、
一般的とは言えないかもしれない特殊なケースもありますが、
現実にあり得ないことではありません。
「異文化交流」「罪」「死」というようなテーマは、
子どもたちの生活や人生を考える上で大切なことであるでしょう。

それらに対し、「ねる」の物語は、
まるっきり非現実的なファンタジーです。
「インディアン」の人々も、ネイティブ・アメリカンとしてではなく、
架空の国のキャラクターとして登場します。

ブルーナ作品では、「空想」も大事なテーマですが、
「ねる」以外の作品群では、「空想」そのものよりも、
「空想する」という子どもの行為が主眼となっています。
たとえば、
「魔法が使えたらなあ」(16)
「おかしの国へ行けたらなあ」(17)
と、想い描いて空想する子どもの姿が描かれる。
“空想好き”という特性をもつ子どもたちの現実が描かれるわけです。

対して「ねる」が抱いた望みというのは、
インディアンのおじさんに会いたいという、幻想へのあこがれです。
彼女が今まで会ったことのない人物──「今、ここ」には存在しない人物へのあこがれ。
その幻想への道行きが、逆勝手に描かれるんですね。

ここには、猫が魚に乗って行くというような、チグハグさを楽しむ、
ナンセンスのおもしろさもあります。
そのために、わざと逆さまの方向である左へ向かわせたと考えられなくもありません。

が、ここで作者は、逆勝手に描くことで、空間的な整合性をあえて破り、
心理的な表現を意図したと考えることも出来るように思うのです。
逆勝手の方向である左は、内なる方向であり、
内なる無意識へ沈潜した向こう側に、幻想があります。
その方向へ、子猫のねるは、「行く」わけです。

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幻想という点では、ちょっと似たような表現を、たとえば、
絵本「ちいちゃんのかげおくり」(18)に見ることが出来ます。

この絵本は、文章が縦書きなので、左向きに展開します。
仲のよい4人家族。
けれど、戦争のために、父は戦場に送られ、
残った母、兄と、幼いちいちゃんは空襲に見舞われます。
混乱の中、ちいちゃんは母や兄とはぐれた末に、
近所のおばさんに連れられ、今は廃墟と化している家のあった場所へ帰ってくる。
が、そこでひとり、1日待っても、2日待っても、
母も兄も帰って来ないところをみると、もう亡くなっているのでしょう。
そして朝、ちいちゃんは空のいろの花畑に立っている。
──と、ここまでが基本的に、左向きの順勝手で描かれます。

そして、はるか向こうに父、母、兄の姿を見つけて、
ちいちゃんが花畑の中を駆け出す。
この場面のちいちゃんが、右方向へ向かう、逆勝手で描かれるのです。

空いろの花畑に立っている時点で、ちいちゃんは幻想の中にいるのかもしれません。
が、離ればなれになった家族と再会できる安らぎでもあり、
それは“死”でもある幻想の最奥部の場面で、
ちいちゃんは、逆勝手に走り出すんですね。

ここは、逆勝手に描かれなければならなかったと思います。

そうして次のページ──
「小さな女の子のいのちが、空にきえました。」という場面には、
廃墟の中、ちいちゃんが左向きの順勝手に突っ伏している現実の姿があります。

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順勝手に描くか。
逆勝手に描くか。
──は、基本的に空間的な表現としてあるわけですが、
そこに、主人公の気持ちや、作者の意図をあらわす心理的な「表現」を
読み取ることが出来ます。

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《引用・参考文献》
(1)ワンダ・ガアグ文/絵、いしいももこ訳「100まんびきのねこ」福音館書店
(2)モーリス・センダック、神宮輝夫訳「かいじゅうたちのいるところ」冨山房
(3)ガァグ原作、高橋五山脚色、川本哲夫絵「ひゃくまんびきのねこ」童心社
(4)せなけいこ「うさぎちゃんつきへいく」金の星社
(5)筒井頼子作、林明子絵「はじめてのおつかい」福音館書店
(6)ディック・ブルーナ、石井桃子訳「うさこちゃんとゆうえんち」福音館書店
(7)ディック・ブルーナ、石井桃子訳「うさこちゃんひこうきにのる」福音館書店
(8)ディック・ブルーナ、松岡享子訳「うさこちゃんとじてんしゃ」福音館書店
(9)ディック・ブルーナ、石井桃子訳「こねこのねる」福音館書店
(10)ディック・ブルーナ、石井桃子訳「うさこちゃんとうみ」福音館書店
(11)ディック・ブルーナ、松岡享子訳「うさこちゃんとあかちゃん」福音館書店
(12)ディック・ブルーナ、松岡享子訳「うさこちゃんのさがしもの」福音館書店
(13)ディック・ブルーナ、松岡享子訳「うさこちゃんとにーなちゃん」福音館書店
(14)ディック・ブルーナ、松岡享子訳「うさこちゃんときゃらめる」福音館書店
(15)ディック・ブルーナ、松岡享子訳「うさこちゃんのだいすきなおばあちゃん」福音館書店
(16)ディック・ブルーナ、松岡享子訳「うさこちゃんまほうをつかう」福音館書店
(17)ディック・ブルーナ、松岡享子訳「おかしのくにのうさこちゃん」福音館書店
(18)あまんきみこ作、上野紀子絵「ちいちゃんのかげおくり」あかね書房

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ミッフィーはなぜ子どもたちの心をつかんで離さないのか


「一人称映画」
という映画の試みがあります。

登場人物(たいていは主人公)が見る風景が、そのまま、カメラの写す映像となる。
主人公が歩けば、その移動に応じて風景も動く。
主人公が何かを見つければ、その何かが写される。
主人公が出会った人物に関心をもって子細に観察したとすれば、
カメラの視線も、そのような動きをすることになります。

観客は、つまり主人公の視点で、物語を体験する。
全編ではなく、部分的にこの手法を使う映画も少なくありません。

たとえば、映画「アバター」(1)の1シーン。
主人公ジェイク(サム・ワーシントン)の意識が、
仮の肉体であるアバターの中へ初めて入り込んだとき、
彼はその体を試運転するかのように走り出し、施設の外へと飛び出す。
このとき、あわてる周りのスタッフたち、走るにつれて揺れる景色など、
ジェイクの眼に映る映像がはさみ込まれていました。

またたとえば、映画「ブラックスワン」(2)
こちらは、主人公ニナ(ナタリー・ポートマン)が目にしているであろう映像を
彼女の背中をなめての肩越しで映しており、
厳密には、「一人称」の手法といわないかもしれません。
が、幻想も含めて、彼女が何を見ているのか、何を見ていないのかという
彼女の「主観」的な一人称の映像がスリリングに描かれていました。

この手法は、ホラー映画にも使われているそうです。
筆者はホラーが苦手で未見なのですが、
たとえば「13日の金曜日」(3)では、人々を襲う殺人鬼の視点から、
「死霊のはらわた」(4)では、死霊に取り憑かれた女の子の視点から見た映像によって、
ストーリーが語られる。

このようにいろいろな文脈で使われるのですが、
ひとつには、主人公の見る主観的な世界を、
主人公の身になって観客に追体験させるというような意図があるように思われます。
つまり、同一化を促す。

ところが、この「一人称映画」のやり方で観客を同一化させることは難しいと
映画監督フランソワ・トリュフォーはいいます。

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一人称映画の元祖といわれるのが、1947年に作られた「湖中の女」(5)です。
レイモンド・チャンドラーのハード・ボイルド探偵小説の映画化。
私立探偵フィリップ・マーロウを主人公にしたこの小説シリーズは、
主人公の「わたし(翻訳によっては『おれ』『ぼく』)」によって語られるスタイルで、
この映画はその一人称話法を映像化したというわけです。

当時、その実験的な手法が一部からは絶賛されたものの、
全体的に評判はあまりよくなかったようで、トリュフォーからは酷評されています。
筆者は、この映画も未見なのですが、
一人称映画は同一化を促さないというトリュフォーの主張はわかる気がします。

「ブラックスワン」のダーレン・アロノフスキー監督による作品「レスラー」(6)で、
やはり同じ手法が部分的に使われていました。
こちらもやはり、主人公ランディ(ミッキー・ローク)が目にしているであろう映像を、
手持ちカメラを使って彼の背中をなめての肩越しで映すものです。

この物語は、人気レスラーだった主人公が年齢を経て落ちぶれる姿を描いています。
ハードな試合で肉体を酷使し、さらに長年のステロイド剤投与がたたって心臓発作を起こす。
それでもレスラーへの復帰を目指すのですが、
そんな彼の視点で描かれる映像を見ても、
しかし筆者は、彼に同一化する気持ちを持つことが出来ませんでした。

一人称映画の映像は、むしろ彼を突き放して客観視するように促し、
彼が見ている世界であることは観念として客観的に理解させるものの、
その背中が彼の老いた現実を浮かび上がらせていたように感じられました。
もしかしたら、同情やセンチメンタリズムを排除するような演出の意図があったのでしょうか。

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では、観客が登場人物に同一化してしまうような映像手法があるとすれば、
どういうものなのか?

その問いに、トリュフォーはこう答えています。
佐藤忠男「小津安二郎の芸術」(7)からの孫引きになりますが、引用します。

「俳優のまなざしが観客のまなざしと交叉するとき
主観的シネマというものが生まれる。
従ってもし観客大衆が同一化する必要を感ずるならば、
大衆は自動的に彼が一番多く映画の中でまなざしを交叉した顔、
即ち一番多く止まって真正面から撮影された俳優と同一化するだろう」
(8)

トリュフォーは、この法則というか理論を、
自分の作品「大人は判ってくれない」(9)にたどっています。

いたずら好きで映画好きの少年アントワーヌ(ジャン=ピエール・レオ)が、
母の浮気や義理の父とのすれ違いから、家庭での居場所をなくしていく。
高圧的な教師の叱責から、学校での居場所もなくしていく。
そうして家出の果てに、タイプライターを盗もうとして捕まり、
“非行少年”として鑑別所へ送られる──。

原題の「Les Quatre Cents Coups」は直訳すると、「400回の打撃」。
映画には、父親から殴られるシーンもありますが、これは精神的な打撃ということでしょう。

「大人は判ってくれない」という邦題は、大人たちの非を責めるような言い方ですね。
しかし400回の打撃は、すべて大人の無理解のせいばかりとは限りません。
アントワーヌ自身の行動が招き寄せてしまった打撃も多々ある。
(そうした失敗を繰り返してしまうのが少年時代というものかもしれません。)

トリュフォーの幼少の頃を描いたとされるこの半自伝的なストーリーの中で、
彼は、彼の分身である主人公の少年を擁護して、ただ大人を非難し、
一方的に同情を求めるような描き方は望みませんでした。
少年を憎らしいとする見方と、少年に同情するという見方の
両方のバランスをとろうと意図していたといいます。
脚本の段階では、むしろ少年を憎らしいとする感想の方が多かったのだとか。
にも関わらず、上映の結果、少年は観客からの同情を集めることになってしまった。

というのも、無意識的に、少年の顔を正面から撮影したカットが多くなってしまったからだと
トリュフォーは自己分析しています。

つまり、「一番多く止まって真正面から撮影された」少年は、
スクリーンの中から観客と相対して視線を交わし合うことになった。
そのため、観客は少年に同一化し、少年の立場に身を置くことによって感情移入し、
少年に同情を寄せることになったというんですね。

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同様の効果をもたらしている作品に、たとえば「初恋のきた道」(10)があります。

舞台は、中国の小さな田舎の村。
老父が急死したため、都会から故郷の村に帰った息子が、
若き日の両親のなれ初めをものがたるというかたちでストーリーが展開します。

40年ほど前、父は20歳そこそこの若さで村の学校へ赴任してきた教師で、
母は、彼に恋した村の娘でした。
そうして2人のみずみずしいやりとりが交わされるのですが、
この回想場面のほとんどの映像が、
当時18歳の少女だった母親チャオ・ディ(チャン・ツィイー)をとらえたカットでつづられます。

初めて彼と出会ったとき。
遠くから彼をながめるとき。
彼と言葉を交わしたとき。
彼のために想いを込めて機(はた)を織るとき。
──その場面場面で、主人公の少女ディが、
ロングショットよりも、ミディアムショットやクローズアップで映されます。
カメラは、彼女の心情に近づくように、寄っていく。

ふつう、人物が草原を駆けている姿などを撮影する場合、
ロングショットで描かれることが多く、その方がわかりやすいと思います。
ところが、この映画では、丘を駆ける少女ディは、
ニーショット(膝から上を写す)や、ウエストショット(腰から上を写す)で描かれる。
そして、カメラは彼女を大きく写し、彼女に焦点を当てたまま、
走る彼女の動きに合わせて追いかけるのです
(この撮影のし方は「フォロー・パン」といわれるものですね)。

この草原のシーンは、村を出ていく彼の後を、少女ディが追いかけるところです。
もしかしたら、もう彼は帰っては来ないかもしれない。
それでも想いを込めて作った手料理を、せめて一口でも食べてもらおうとして、
懸命に走って走って追いかける。
それが、こうした撮影のし方で描かれることによって、
彼女のひたむきな心情が、観客に伝えられることになります。


また、会話のシーンでも、カメラは彼女から離れようとはしません。
たとえば、少女ディといっしょに暮らす盲目の母親との会話シーン。

基本的に会話の場面は、台詞をしゃべっている人物が映されるものです。
Aという人物がしゃべったら、そのAを映す。
その会話に答えて、次にBという人物がしゃべったら、今度はBを映す。
そうやってカットバックなどで交互にAとBを切り替えながらシーンをつづったりします。

しかし、このディと母親の会話のシーンの中には、母親を映さない場面があります。
母親の声だけが聞こえて、けれどしゃべっている母親の顔は映らず、
カメラはディだけをずっと見つめているのです。

これは「大人は判ってくれない」でも同様で、
主人公の少年アントワーヌが、鑑別所の女性係官に訊問されるという会話のシーン。
このとき、カメラはアントワーヌだけを見すえて、
女性係官の声だけが聞こえたりしていました。

こうしたカメラワークの結果、観客は、少女ディの心情に寄り添うことになります。
彼女は、恥じらいのために視線をそらせたりして、
必ずしも正確にカメラのレンズと真正面から向き合っていたわけではありません。
けれど、ほぼ正面を向いて、まなざしを送っていることはわかる。

観客は彼女とまなざしを交わし合い、彼女に「同一化」するように感じる。
そうして、彼女のときめきや、とまどいや、ひたむきさを身近に感じ、
ああ、自分にもこんな初恋の時代があったよなあなどと、
自分の胸に手を当てることになるわけです。

ちなみに、ところどころで、若き教師である彼の姿は、
彼女の視点から見た映像として映されていました。
彼が村人たちに囲まれた中、その彼の姿だけを目で追うシーン。
彼に食事を供するために台所に立ちながら、食卓の彼をのぞきこむシーンなど。
つまり彼女の視点からの「一人称」のカットがはさみこまれていたわけです。

この場合、観客の心は彼女と同一化していて、
あるいは同一化する準備がすっかり出来あがっているため、
彼女の心に寄り添いながら、いっしょに彼をながめることになるのだと思います。
「一人称映画」の手法も、
ストーリーの文脈や使い方によってはたらきが違ってくるのでしょう。

正面から撮影するやり方も、
ただそうすれば観客に同一化を促すというわけではなく、
そこにはストーリー上の理由や俳優の魅力など、いろいろな要因も絡まってきます。
しかし基本的に、トリュフォーのいう効果があるのだと思われます。

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映画評論家の佐藤忠男さんは、
映画を撮る監督の意図として、2つの方向性を挙げています(8)

一つは、観客に「異化」を促そうとする方向。
これは劇作家ブレヒトの影響があるのだそうです。

いつも見慣れている景色やものごと。
あまりにも当たり前過ぎて、考えるまでもないと見すごしていたり、
パターン化してしまった見方や考え方。
そういうものに対して、
「あれ? これは何かおかしいんじゃないの?」と違和感を与えることで、
改めて別の角度からながめてみてはどうだろうかと提案を投げかける。

もしも観客が、ただ感情や雰囲気に流されて同調したり、
安易に陶酔に浸るようだったとしたら……。
もしも映画を、ただ無防備に、感情的・主観的に見るだけだったとしたら……。
見慣れたその世界のおかしさに気づけなくなる。
無批判に受け入れて、取り込まれることになります。

だから登場人物に感情移入したりすることなく、距離をおいて見るよう、
理性的・客観的な、そして批判的な目で見るよう、
観客に促すのだというわけです。

ブレヒトが亡命した当時のドイツでは、ナチスが台頭していました。
ナチスの思想が当たり前で、ナチスこそが絶対的な正義であるという風潮が、
熱狂的に、感情的に、大衆に支持されていました。
そうした中では、理性的・客観的な目こそが求められたはずです。

わたしたちが当たり前のように過ごしている社会や日常も、わたしたちが気づかないだけで、
どこか歪んでいたり、間違っているところがあるかもしれない。
「異化」の視点が必要であるわけです。

こうした「異化」を目指そうとする場合、
たとえばフランスの映画監督ジャン・リュック・ゴダールが
登場人物を真正面から撮影しても、
その演技とぶっきらぼうな台詞のせいで、観客は「同一化」することは出来ません。
むしろ「異化」の効果で、スクリーンから問いつめられ、迫られる印象を受けると
佐藤忠男さんはいいます。
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その反対となるもう一つの方向が、観客に「同一化」を促そうとするもの。
その典型が、小津安二郎作品です。

テレビでは、基本的に、
バラエティでは、カメラを直接見る「カメラ目線」がアリで、
ドラマでは、「カメラ目線」はいけないとされます。

バラエティの中で、ネタでもちょっとした体験談でも、何かを視聴者に語りかけようとするとき、
カメラへ顔を真正面に向けると、伝わりやすくなる。
ニュースなどの情報を伝えたり、あるいは意見を主張したり訴えかける場合でも、
カメラ目線が効果的です。
しかし、ドラマの中で視聴者に向けて目線を送るというのは、
通常は、ありえないこと。
不自然です。

ところが小津作品では、会話の場面で、真正面を向くショットが多用されます。
目線をカメラに向ける──つまり、観客に目線を送る。
それはまったく自然で、違和感がありません。
というのも、これは、会話の相手に目線を送ってしゃべりかける人物を、
そのしゃべりかけられた相手の側から、カメラが撮影するというかたちだからです。

そのため、観客は、
スクリーンの向こうから、正面を向いてこちらへ語りかけてくる登場人物と
まなざしを交わすことになります。
しかも、ジャン・リュック・ゴダール作品の人物たちと違って、
会話の内容は、親しい家族や友人とのあいだに交わされる、主に親和的なものであり、
その顔は、親しみやすいあの笠智衆さんだったりするわけです。

観客は、家族や親しい友人の一員となったように「同一化」し、
感情移入したり、共感したり、
自分の胸に手を当てて考えたりすることになる。

小津作品では、
人物を撮るときは、基本的に、ほぼ全身を映すフルショットで、
その動きを撮ろうとするときはロングショット、
会話はバストショット
──というようなかたちが、まるで厳格なルールのように決まっているようです。

「これらはすべて機械のように正確であり、
あまり正確であるためにかえって自然になったのである」

と、佐藤忠男さんは述べています(8)

そして、カメラに正面を向いて話すという会話の自然なショットが
リズムよく積み重ねられることで、
観客は、その会話の輪の中にいつのまにか入ってしまっているような
「同一化」を促されるのだと思います。

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子どもたちを対象とする作品ではどうでしょうか?

子ども向けであっても、「異化」を促すような視点というのはたいせつかもしれません。
が、しかし、この世界に生まれ落ちて間もない子どもたちは、
この世界に確固たる居場所を見つけているわけではありません。
世界はまだ知らない未知のものに満ちていて、つまり「違和感」だらけです。
当たり前の世界が、まだ当たり前とは言えません。
幼少の時期では、「異化」については、それほど必要とされないのではないでしょうか。

また、とくに小さな子どもたち──年少の子どもたちは、
ほとんど主観で生きているといえます。
発達のこの段階の子どもたちが、客観的に見るというのは、難しい。

そして子どもたちは、物語に対するときも、主観的な見方をします。
登場人物に感情移入して、「同一化」しやすい。

ときには、すっかりヒーローやヒロインになりきることもよくありますね。
筆者も、子どもの頃には、ヒーローに同一化して、よく変身したものです。

子どもたちは、登場人物に同一化して、物語を主観的に体験する。
それが物語のおもしろさのひとつだと思います。

このとき、登場人物に同一化しやすいよう、
その心情に寄り添いやすいよう、
親しみやすいようにする方法のひとつが、
トリュフォーのいう、真正面から撮影するというやり方です。
人物を、正面に向かせて描く。

このやり方を使った、絵本での典型的な例が、ミッフィーです。

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オランダ生まれの彼女は、オランダ語の本名を「ナインチェ・プラウス」。
石井桃子さんの翻訳では、「うさこちゃん」。
英語名が「ミッフィー」で、
彼女は、子どもたちにも、おとなたちにもおなじみですね。

彼女を立体的に造詣したアニメでは、横向きやななめ向きも描かれますが、
原作の絵本では、基本的に正面ひとすじです。
正面にしか描かれない。

▼「ちいさなうさこちゃん」(11)の表紙を模写。
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絵本作家の長谷川集平さんは、
このミッフィーと、小津安二郎作品を取り上げて、
「正面性」ということを指摘しています(12)

正面を向くということは、トリュフォーが言うように、
「まなざし」ということが大きく関係しているのだと思います。
まなざしとまなざしを交叉させる。
視線を交わし合うということ。

以前、当ブログで、
紙芝居の演じ手は、観客である子どもたちとのあいだで
視線を交わし合うことがたいせつなのではないかと書いたことがありました
(→参照ページ)。
それがコミュニケーションの基本であるからです。

ここではつまり、
ページの中の登場人物(キャラクター)が、
読者である子どもたちとのあいだで、擬似的なかたちではありますが、
視線を交わし合うことになるわけです。

赤ちゃんは、生後約1ヶ月という早い頃から、
母親やまわりのおとなと、視線を交わし合う──
つまり、アイ・コンタクトのようなことをしはじめるといいます。

そして2〜3ヶ月頃になってくると、
アイ・コンタクトや言葉かけに応えて、
微笑みを返したり、声を上げたり、手足やからだを動かすなど、
何らかのアクションを返すようになる。

言葉を交わすわけではありませんが、
まるでお互いに会話を交わし合うようなやりとりになる。

これは相手の感情を察することであり、
こうしたやりとりによって、他人と情動的に一体感を感じたり、
愛着を感じたりするようになるのだといいます。
(これを難しい言葉でいうと、『第一次間主観性』というそうです。)(13)

こうしたコミュニケーションの基本となるアイ・コンタクトを、
読者である子どもたちは、ページの中のミッフィーと交わすわけです。

ミッフィーは、それに応えるように、ページの中から、
あの点々の目で、子どもたちに視線を送ってるんですね。
もしも横を向いていたら、それが出来なくなります。

そしてそのことによって、子どもたちはミッフィーに
一体感を感じ、感情移入して、親しみや愛着を感じるのだと思います。

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もっとも、ただ、顔を正面に向け、視線を読者や見る人に向けて描いたとしても、
それがすべて親しみにつながるわけではありません。

視線と視線を交わすアイ・コンタクトでは、
「好意」と「敵意」という相反する両方の意味がありました(→参照ページ)。
また、映画のスクリーンでも、顔を正面に向けるカメラ目線は、
「同一化」を促す、親和的な小津安二郎作品の例と、
「異化」を促す、威嚇的なゴダール作品の例の、両方があったわけです。
絵本や紙芝居の絵、あるいはイラストでも、そうした両方の効果があると思われます。

たとえば、防犯ステッカー。
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これは、警視庁と東京都が「動く防犯の眼」としてすすめている防犯活動に使われているイラストです。
歌舞伎の隈取りをあしらったこの印象的な眼のステッカーが、
地域を往来する車両やバイクに貼られることによって、しっかり人は見ているぞとイメージさせ、
犯罪を抑止するというわけです。

厳しくにらみつけてくるこの人物に、信頼感を感じたとしても、
ミッフィーのような親しみやすさを感じる人は少ないでしょう。
この場合は「敵意」ではありませんが、真っ正面から視線を投げ掛けられることによって、
監視の眼の厳しさ、圧迫感を感じます。

当たり前のことですが、
同じ正面を向いている構図でも、そのキャラクターや表情、背景となる物語や文脈によって、
どういう感情をひきおこすかの効果は違ってくるということなのでしょう。

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顔を正面に向けてのバストショットや、クローズアップ。
こうしたシンプルな構図は、当たり前すぎて安易なように感じてしまい、
紙芝居の絵を描くときに、つい避けてしまいがちです。

が、こうした構図の場面をはさみこんだりすることで、
子どもたちに物語をより身近に感じさせることが出来るかもしれません。








《引用・参考文献》
(7)佐藤忠雄「完本・小津安二郎の芸術」朝日文庫
(8)フランソワ・トリュフォー、岡田真吉訳「ヌーヴェル・ヴァーグの回顧と将来」〜雑誌「映画評論」1963年7月号・所収
(11)ディック・ブルーナ文/絵、いしいももこ訳「ちいさなうさこちゃん」〜「1歳からのうさこちゃんの絵本セット1・子どもがはじめてであう絵本」福音館書店
(12)長谷川集平「絵本作りトレーニング」筑摩書房
(13)麻生武「乳幼児の心理〜コミュニケーションと自我の発達」サイエンス社

《映画作品リスト》
(1)「アバター」監督:ジェームズ・キャロン、出演:サム・ワーシントン他。2009年公開。
(2)「ブラックスワン」監督:ダーレン・アロノフスキー、出演:ナタリー・ポートマン他。2010年公開。
(3)「13日の金曜日」監督:ショーン・S・カニンガム、出演:エイドリアン・キング他。1980年公開。
(4)「死霊のはらわた」監督:サム・ライミ、出演:ブルース・キャンベル他。1981年公開。
(5)「湖中の女」監督・主演:ロバート・モンゴメリー。1947年公開。
(6)「レスラー」監督:ダーレン・アロノフスキー、出演:ミッキー・ローク他。2008年公開。
(9)「大人は判ってくれない」監督:フランソワ・トリュフォー、出演:ジャン=ピエール・レオ他。1959年公開。
(10)「初恋のきた道」監督:チャン・イーモウ、出演:チャン・ツィイー他。1999年公開。







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ロングショット・ミディアムショット・クローズアップ


紙芝居の絵は、物語をものがたる絵なので、
当然、物語に登場する人物(もしくは動物や植物、幽霊・妖怪、宇宙人、または器物その他)を
描くことになります。

その登場人物たちをどう描くかという構図を考えるとき、
参考になると思われるのが、映画などの映像技法で使われるショットの基本です。

次のショットの種類は、ごくおおまかなもの。
映像制作の現場によって、また人によって、呼び方や分類のし方が異なることもあるようです。
(参考:ルイス・ジアネッティ「映画技法のリテラシーⅠ」(1)

(1)ロングショット
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「ロングショット(long shot)」における被写体とカメラの距離は、あいまいなものですが、
一般的に、演劇においての舞台と観客の距離と同じだといわれます。
まあ、舞台といっても、膝と膝を突き合わせるような小劇場から、
オペラグラスがなければ見えないというような大型劇場まで、種々さまざまで、
この言い方自体、あいまいですね。

ただ、一般の舞台がそうであるように、
物語の中で、登場人物はどんな場所にいるか、何をしているか、周りはどんな状況かが
見渡してわかるような距離だといえるでしょう。
そうした場所や状況を、背景としても描き込みやすい構図です。

「ロングショット」の中でも、「フルショット(full shot)」というのは、
登場人物の全身が画面におさまるくらいの大きさ。
これでは、まわりの状況などを描き込むスペースはあまりありませんが、
登場人物自身や、その服装、かっこう、動作を強調したいときなどに適しています。

(2)ロングショット/フルショット
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また、「ロングショット」の中でも、「超ロングショット(extreme long shot)」となると、
登場人物は米粒ていどの大きさ。
それでも、大自然を伝えたいとか、草原の広さを強調したいなどというときに
よく使われますね。

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物語の絵として、場所や状況や登場人物の行動をわかりやすく伝えるためには、
こうしたロングショットの絵がぴったりです。
昔から多用されてきました。

昔の絵巻なども、たいていロングショット。
また、戦前のマンガや紙芝居も、ロングショットが主流だったようです。

たとえば、マンガ「のらくろ」(2)などは、
舞台の額縁がそのまま、マンガのコマ割りのフレームになったかのよう。
その中で、のらくろたち登場人物(犬)が、
舞台上の俳優のようにロングショットで描かれるというのが基本的な構図です。

「のらくろ上等兵」(2)の部分を模写
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場所や状況も描き込まれ、わかりやすいのですが、
ともすれば説明的になったり、画面展開が単調になりやすいきらいがある。

戦後、そんなマンガに、映画的な手法を持ち込んで一種の革命を起こしたのが、
手塚治虫さんだといわれます。
その手法のひとつが、ロングショットだけではない、
次に掲げるような多様・多彩な構図でした。

紙芝居も自由に映画の手法を取り入れ、発展しましたが、
ひとつには、手塚治虫さんらのマンガの影響もあると思われます。

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「ミディアムショット(medium shot)」は、
「ロングショット」と「クローズアップ」の中間のような構図です。

よく使われるのは、胸から上を写す「バストショット(bust shot)」ですね。

(3)ミディアムショット/バストショット
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ミディアムショットには、この他にも、
腰から上の上半身を画面におさめる「ウェストショット(waist shot)」、
膝から上をおさめる「ニーショット(knee shot)」
などがあります。

これは、画面の中に2人の登場人物をおさめたり(=ツーショット)、
あるいは3人をおさめたり(=スリーショット)して、
会話ややりとりを描くときなどにもよく使われます。

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そして、「クローズアップ(close-up)」。
「クローズアップ」という言葉は、「近づいて見る」という意味で、
「大写し」などと訳されます。

手足や小物なども、もちろんクローズアップされたりしますが、
一般的には、登場人物の顔に近づいて「拡大」する構図がよく使われます。

(4)クローズアップ
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さらに、目や口元など、小さな部分を「拡大」しようとするショットは
「超クローズアップ(extreme close-up)」とよばれます。

(5)クローズアップ/超クローズアップ
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舞台と観客の距離では、俳優は顔をクローズアップで見せることはできません。
だから舞台俳優は、微妙な表情のニュアンスよりも、
オーバーなアクションや、誇張した表情、そして台詞の声による演技が求められます。
しかし、その舞台で、クローズアップの表現をしている演劇がある、
それが日本の歌舞伎だ──
といったのは、旧ソ連の映画監督、エイゼンシュタインでした。

パタンッ、パタンッ、パタッ、パタッ、パタ、パタパタパタパタパタパタ……。
だんだん高まるテンションとともに、板で木を打つ「ツケ」という効果音が響きわたり、
役者は気を盛り上げながら、やおら腕を大きく開いたり、大きくガッと足を踏み出したりする。
そして、決めのポーズで、ストップモーション。
気合いの極まった瞬間、そのまま、ピタッと静止する。
──いわゆる「見得を切る」という歌舞伎の演技です。

この「見得を切る」瞬間、観客の視線は、吸い寄せられるように役者の顔に集中します。
観客の視界いっぱいに、隈取りの化粧をしたその人物の表情、そしてその心情が
大写しとなって迫ってくる。
こうした演出効果を、エイゼンシュタインは「クローズアップ」と捉えたのでした。

戦前、二代目市川左團次がモスクワ海外公演を果たしたとき、
その「見得を切る」場面を目にしたエイゼンシュタインが、
「これは、映画でいえばクローズアップだ」と、感想を述べたのだそうです。

ただ、これは、観客の眼が突然サイボーグ化して、
カメラのズームアップ機能を行うというわけではもちろんありません。
しかし、心理的に、象徴的に、実に的確な指摘だと思います。

「見得」を切る人物の心情に、観客の気持ちが寄り添うように、
クローズアップには、観客の気持ちを引きつけるものがあります。

ハンガリーの作家であり、映画理論家であるバラージュ・ベーラー(ベラ・バラージュ)は、
「顔や、顔の表情に表れるものは魂の経験である」
として、映画のクローズアップは、
まわりから人間の顔を切り離して、その魂に入り込むことだといいました(1)

魂が入り込んでしまうくらい、観客はクローズアップの人物に共感し、寄り添い、
引きつけられる。

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基本的に、
ロングショットなど、
カメラと被写体との距離が離れるほど、客観的に見るようになる。
逆に、ミディアムショットやクローズアップなど、
カメラと被写体との距離が近づくほど、主観的に見るようになるといいます。

もっとも、あまりに近づき過ぎて、超クローズアップになると、逆効果。
たとえば、単に鼻だけをアップに映したとしても、
それは物理的に部位として見えるだけで、
そこに主観的な視点や、心情をくみとるようなことは出来にくいでしょう。

表情の見える顔のクローズアップは、
観客の心をとらえ、主観的に見るように促す。
観客は、スクリーンの中の俳優に、共感し、同一化するようになります。

絵本のページの中のキャラクター、
紙芝居の場面の中のキャラクターもまた、
クローズアップで描かれることで、同じ効果を得ます。

これには、顔の中の目──まなざしということが
深く関わっているのではないかと思われます。

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《引用・参考文献》
(1)ルイス・ジアネッティ、堤和子・増田珠子・堤龍一郎訳「映画技法のリテラシーⅠ〜映像の法則〜」フィルムアート社
(2)田河水泡「のらくろ上等兵」〜「復刻版のらくろ漫画全集1」講談社
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f0223055_1254426.gifひとつの仮説


さて、これまで、
右から左へ(→)の方向が「すすむ」で、未来は左にあるのか。
それとも、左から右へ(←)の方向が「すすむ」で、未来は右にあるのか。
もしそういう無意識的な傾向があるとすれば、それは人間の生理的なものに根ざしているのか、
それとも文化によって異なるものなのか。
──ということを、右往左往しながら、あれこれ勉強して考えてみました。

その結果──。
「わからない」というのが、筆者の結論です。
さんざん回り道をして、結局「わからない」というのも情けない話ですが。

が、わからないなりに、考えてみたひとつの仮説(笑)があります。
まあ、仮説というほど、たいそうなものではないのですが、
以下にちょっと整理してみたいと思います。

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グリュンワルドやスーザン・バッハといった心理学の専門家は、象徴的に、
左から右へ(→)の方向が「すすむ」であり、未来があるとしています。
それは、大半の人々──特に欧米の人々にあてはまると考えられており、
心理テストや臨床の場にも応用されています。

図にすると、下の通りです。

▼グリュンワルドの空間図式をもとに、横軸だけを取り出して作成
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一方、カンディンスキーなど一部の人々や、また一部の日本文化には、その逆
──つまり、右から左へ(←)の方向が「すすむ」であり、未来があるとする感じ方があります。

その違いは、脳機能などの生理的なものなのか、
文化によるものなのか、文字を読み書きする方向の違いによるものなのか、
それとも個人的な感性によるものなのかは、はっきりとわかりません。
そのあたりは、専門家の方がこれからはっきりとさせてくれるかもしれません。

筆者が思う仮説というのは、紙芝居や絵本限定です。
連続する絵(映像)によって物語を表現するメディアにおいてのみの話です。
つまり、絵本や、マンガ。
絵巻や、冊子、草子。
そして紙芝居などといったメディアでは、
象徴の図式が変わってくるのではないかということです。

こうしたメディアでは、物語が展開する方向が自然に定められています。
くりひろげられるメディアの世界の中ではその力が強烈なので、
たとえ、仮に、人が生理的にあるいは文化的に、右へ向かおうとする性向を持っていたとしても、
もしくは、仮に、左へ向かおうとする性向を持っていたとしても、
ちょうど、強力な磁場がはたらいている空間では、重力さえ無力に感じられるように、
その方向に引っぱられてしまう。

そして引っぱられるがゆえに、象徴の図式が塗り替えられるように思うのです。
つまり、こんなふうに。

物語や絵が右向きに展開するメディアの場合
■文章が横書きの絵本・本・冊子(左開き・左綴じ)
■台詞が横書きのマンガ(左開き・左綴じ=欧米のコミックなど)
■コンピューター・ゲーム
■ウェブなどの電子メディア

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これは、グリュンワルドの空間図式の横軸そのものです。
が、しかし、展開する方向が左向きになると、
これとは逆の、下図のようになると思われるのです。

物語や絵が左向きに展開するメディアの場合
■文章が縦書きの絵本・本・冊子・絵草紙(右開き・右綴じ)
■台詞が縦書きのマンガ(右開き・右綴じ=日本の一般的なコミック)
■絵巻
■紙芝居

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「順勝手」「逆勝手」というのは、もともと「絵巻」で使われていた言葉です。
日本の絵巻では、左(←)に進むという方向が明確に決まっています。
その流れに順(したが)う表現を「順勝手」といい、
その流れに逆らう表現を「逆勝手」といいます。

※絵巻では、「順勝手となる構図」のことを、慣用的に「順勝手」と呼び、
「逆勝手となる構図」のことを「逆勝手」と呼ぶこともあるようです。
これについては、後述しようと思います
(後述:「斜線構図の順勝手と逆勝手」)。

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たとえば、登場人物が右を向いているか、左を向いているかだけで、
「順勝手」「逆勝手」の表現となることもあります。

左(←)に進む「絵巻」において、左を向いている人物は「順勝手」。
主人公の多くは、「順勝手」に描かれます。
それに対して逆の右(→)を向いている人物──つまり「逆勝手」の人物が登場することは、
主人公が出会う相手であったり、あるいは敵対する人物であったりします。

こうした「空間的な表現」は、小さい子どもたちを対象とする「絵本」では、
特にしっかりと配慮されています。

たとえば、右(→)に進む「絵本」において、右を向いている人物は「順勝手」。
物語には、「行って帰ってくる」という構造のものが多いのですが、
その「行く」ときに、主人公は、右(→)を向く「順勝手」で描かれます。
そして「帰る」ときに、主人公は、左(←)を向く「逆勝手」で描かれることが多い。

そして、これら「空間的な表現」とともに、
「順勝手」「逆勝手」は、「心理的な表現」として使われることがあります。
そのとき、上図のような空間象徴が成り立っていると思われることが多いのです。

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もっとも、「順勝手」「逆勝手」という言葉がなくても、
そうした表現は、自然発生的に、無意識的に、幅広く、使われているものです。
たとえば、マンガや、海外の絵本などでも効果的に使われていて、
それが物語をよりおもしろいものに見せています。

だから仮説といっても、「何を今さら」という気もします。
これらメディアに親しんでいる読者(観客)にとっては、当たり前のことかもしれません。
が、改めて、
「順勝手」「逆勝手」の表現の具体例を見ていきたいと思います。

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f0223055_9165091.gif文字を読んでいく先に明日があるのか?


質問です。
次の図形の斜線のラインの(A)と(B)。
イメージとして「上がっている」と感じられるのは、どちらでしょうか?
「下がっている」と感じられるのはどちらでしょうか?

図1
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これは、メディア学のデリック・ドゥ・ケルコフが、その著書「ポストメディア論」(1)の中で
投げかけている質問です。

もしも、(A)のラインが「上がっている」と感じた人。
その人は、アルファベットではない文字を日頃から使い、
読んでいる可能性が高いと、ケルコフはいいます。

同じ横書きでも、ヘブライ文字やアラビア文字は、右から左へ(←)書き表します。
下の図は、ヘブライ文字の「基本母字」といわれる22字の文字を図形に添えたもの。
右の端から「א(アレフ)」「ב(ベート)」「ג(ギーメル)」……
と、読んでいきます。

図2:ケルコフ「ポストメディア論」(1)中の図をもとに作成。
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日頃からヘブライ文字を読み書きして慣れ親しんでいる人は、
右から左へと読んでいくその方向(←)にひっぱられ、
その流れで見れば、(A)の斜線のラインは、上がっているように見えるというわけです。

しかし、英語やフランス語などの文字は、左から右へ(→)と読み進んでいく。
そうしたアルファベットなどに親しんでいる人が
(A)のラインを見れば、下がっていると感じるでしょう。

現代の日本を含めた多くの国では、いろいろなテクノロジーの基礎である科学の
数式や化学式やグラフなどもアルファベットと同じく、左から右へ(→)進みます。
そのグラフでいえば、(A)のラインは「右肩下がり」です。

それとは反対に(B)のラインは「右肩上がり」。
そういうグラフのイメージに慣れている人、
日常的にアルファベットの読み書きをしている人であれば、
下図のように、上がっていると感じるはずです。

図3:ケルコフ「ポストメディア論」(1)中の図をもとに作成。
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ケルコフによれば、世界にいろいろ文字がある中で、
音をあらわす「表音文字」は、横書き──つまり水平に書き記すことになるといいます。
さらに「表音文字」でも、表記するときに母音をあらわす文字があるものは、
右へ書き進めることになる。

アルファベットに代表されるように、
母音を含む表記法では(ただしエトルリア文字は例外)、
文字が並んでいる順番そのままに、逐次、言葉を読み進めていく。
それが人間の左右の脳機能と視覚システムによって、
右へ書き(読み)進めることになるのだというのです。

が、一方、ヘブライ文字やアラビア文字は、表記に母音を含まない子音体系です。
文脈に沿いながら、文字の組み合わせを判断して言葉をくみ取り、読み進める。
すると、左へ書き(読み)進めることになる。

もともと、アルファベットを考案したのは、古代ギリシア人でした。
古代のフェニキア文字を手本にしたといわれていますが、
このフェニキア文字は、左に書き進める文字でした。
フェニキア文字は、母音を含まない文字だったのです。

そこに、古代ギリシア人は母音をあらわす文字を付け加えます。
そして、ギリシア・アルファベットを生み出す。
すると、それまで左に書き進めていたのが、
ギリシア・アルファベットになると、まもなく、右に書き進める文字へ変化したそうです。
以来、アルファベットは母音を含む文字体系となり、
右へ書き進める文字になったのだそうです。


こうした読み書きのシステムは、わたしたちの思考や心理、身体など、
行動全般に影響すると、ケルコフはいいます。

だから、図3の斜線(B)を上がっていると感じたように
「もしそれが左から右へ読み進む性向とともに右の視野へひっぱられる場合、
あなたにとって、行動や時間や現実は左から右へ進むと結論づけてよい」
(1)
というわけです。

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では、日本語はどうでしょう。

音をあらわす「表音文字」は、水平に書かれますが、
形象(かたち)をあらわす絵文字が起源である「表意文字」は、垂直に書かれる。
縦書きです。
エジプトの象形文字や、そして中国の漢字もそうですね。

そして垂直の縦書きのその行の送りは、モンゴル文字などを除いて、
右から左へ(←)進むのが一般的だといいます。

中国の漢字を輸入した日本もそうでした。
漢字にならって、垂直の縦書きで、行送りは右から左へ(←)。

図4
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こうして縦書きの文章を配してみると、斜線(A)は、上がって見えると思います。

やがて日本は、独自の「ひらがな」「かたかな」という「表音文字」を発明します。
が、しかし、その書き方のスタイルは、縦書きの左送りのまま。
漢字と変わらない縦書きという時代がずっと続いていました。

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筆者が昔、東京の浅草を訪れたとき、
「山龍金」と書かれてある看板のようなもの(「山号額」というのだそうです)を見かけて
ひとしきり頭をひねった思い出があります。

山に住む龍が、金を貯め込んだのだろうか。
山の龍をかたどった黄金があるのだろうか……。
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あ、そうか。
昔の字は、右から左へ読むんだっけ。
これは「金龍山・浅草寺」のことなんだと気づいたのは、
だいぶ経ってからのことでした。

が、しかし、それも間違いでした。
昔の字は、右から左へ読むというわけでもなかった。

「山龍金」というのは、実は縦書きなのだそうです。
縦書きで、行の送りが右から左へ(←)進んでいる。
ただしかし、縦に書くスペースが1字分しかないため、
右から左へ(←)書き進める横書きのように見えているだけなのだそうです。

屋名池誠「横書き登場ー日本語表記の現代ー」(2)によると、
日本に「横書き」という発想が生まれたのは、
江戸時代後期に欧米文化である「蘭学」が入ってきてからだといいます。

もともと「表音文字」である「ひらがな」「かたかな」を取り混ぜて使っていた日本語は、
水平の横書きへの対応もしやすかったでしょう。
けれど、右へ書き進めるか、左へ書き進めるかについては、どちらでもよかった。
昔の横書きは、左へ書き進めるというイメージがあるのですが、
実は、右書きと左書き、両方の書き方が存在していたのだそうです。

欧米文化に精通しているようなインテリ層は、欧米語と同じく右への横書きを、
一方、欧米の言葉なんて知らねえやというような庶民層は、
左への横書きをする傾向があったのだとか。

それがやっと第二次大戦後になって、右へ書き進める現在のスタイルに統一される。
それまでは、右に読むか左に読むかで混乱することもあったようです。

下図のように、そしてこのブログのように左から右へ(→)書き(読み)進める「横書き」は、
だから誕生してからまだ半世紀くらいなんですね。
しかし半世紀のあいだに、右への横書きは、わたしたちの生活にだいぶ浸透しているようです。
すると、それはわたしたちの意識の中にも浸透しているのでしょうか?

図5
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ケルコフが言うように、
文字を書き進める方向が、わたしたちの無意識にも影響しているとしたら……。

すると、心理テストである「バウム・テスト(樹木画テスト)」を提唱したカール・コッホが、
その理論を考える際に、グリュンワルドの空間象徴理論と、
もうひとつ、マックス・パルバーの筆跡心理学を参考にしたということも思い出されてきます。
アルファベットの文字をどう書くかというその筆跡から、
性格や心理状態を分析する。
そこでは当然、左から右の方向へ(→)書き進めることが前提となっています。

また、グリュンワルドが説いた、左下から右上へのびる「生命のライン」は、
人生において“上にアップする”という人々のイメージを具現化したものでした。
それはまさしく図3の(B)のラインと一致します。
というのはつまり、グリュンワルドが行った調査が、
アルファベットを使う文化圏のドイツ人を対象としたものだったからと言えるかもしれません。

するともしも、右から左へ(←)書き進めるヘブライ語に親しんでいる人たちを調査するとしたら、
「生命のライン」は右下から左上へのびる逆向き(図2の(A))となるのでしょうか?

こうしたマックス・パルパーやグリュンワルドの理論を背景とした「バウム・テスト」を、
もしもヘブライ語の文化圏の人が受けた場合、同じような分析結果となるのでしょうか?

日本人ではどうなのでしょう?

日本のバウム・テストでは、左右の解釈にはあまりこだわらない方がいい
という指摘は見受けられますが、
明確な説明は、今のところないように思います。

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ちなみに、右から左への方向(←)を「進む」と感じていたカンディンスキーは、
ロシア出身の画家です。
同じロシア出身でも、シャガールのようにユダヤ系ロシア人であれば、
ヘブライ文字との接触があったかもしれないと思ったのですが、
彼はモスクワ生まれで、父親は東シベリア生まれ。

彼の母語はロシア語で、
彼が学び、幼いときから親しんでいたのは、そのロシア語の文字であるキルリ文字だと思われます。
キリル文字は、左から右へ(→)進む文字。

また、後年、彼が活躍した舞台となったドイツやフランスのアルファベットも、
左から右へ(→)進む。

カンディンスキーについていえば、彼の感覚は、文字を読み書きする方向には関係なさそうです。

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こんな実験の試みがあります。

ニューヨークの写真家であるディヴィッド・B・アイゼンダラス。
彼は、50枚の風景写真を撮影して、
一方はそのままプリントし、もう一方は左右を反転させてプリントしたそうです。
その2枚を1組にして、2枚同時にいろいろな人に見せ、どちらがいいかを選んでもらう。

すると、その風景の構図が左右対称ではない場合、
約75%の人が、左右を反転させた2枚のうち、どちらか一方、
しかも同じ向きのものを選んだといいます。
その約75%は、みんな、アルファベットを読み書きする人々、
つまり、左から右へ(→)読み進む人々だった。

ところが、ヘブライ文字しか読まない人々、つまり、右から左へ(←)読み進む人々に
同じ2枚1組の絵を見せたところ、
アルファベットを読む人々とは反対の方の、
左右が逆転した写真を選んだ確率が高かったというのです(3)

左右に関しての審美的感覚についていえば、
文字を読む方向がもしかしたら影響しているかもしれない可能性があるというわけです。

ただ、この実験を紹介しているマーティン・ガードナーは、
他にもドイツの心理学者が行った似たような実験に言及し、
けれど確かな結論には至っていないと述べています(3)

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が、しかし、ケルコフの論を裏づけるようなこの実験結果が確かだとしたら、
世にある名作も、前回のように左右反転させて見る方が、
文化によっては、感銘の度合いに違いがあるかもしれません。
あるいは解釈のし方も変わってくるかもしれません。

すると、文字の読み方・書き方がわからない非識字者はどうなのでしょう?
また、「右」「左」という言葉さえ持たないメキシコのテネハパ村の人々はどうなのでしょう?
──いろいろと疑問がわいてきます。

第二次大戦後の日本では現在、
図4のように、縦書きで行送りが右から左へ(←)進む読み方と、
図5のように、横書きで左から右へ(→)進む読み方が、両方併存しています。
ひとりの個人が、その場面場面に応じて、両方を使い分け、両方ともに慣れ親しんでいる。

その「どっちもアリ」という曖昧さが、右と左をめぐる日本文化の
一筋縄ではいかない複雑さの要因ともなっているかもしれません。

しかし強いて言えば、世の趨勢は、横書きに傾いているといえるでしょうか。
「本離れ」が言われて久しく、
特に縦書きが中心である書籍や新聞、雑誌などの紙媒体が減っている。
そして若い世代を中心に、
横書きが中心の電子メディアと接する機会が非常に増えています。
(電子書籍などでは縦書き仕様のものもありますが。)

すると、今後、
左から右への方向(→)を「進む」と感じる人が増えるのか。
もしかしたら、
左から右へ(→)ゆるやかに風が吹いていると感じる人が増えたりするのでしょうか?

ふーむ。

風に訊いてみても、わからないかもしれませんね。

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《引用・参考文献》
(1)デリック・ドゥ・ケルコフ、片岡みい子・中澤豊訳「ポストメディア論〜結合知に向けて」NTT出版
(2)屋名池誠「横書き登場ー日本語表記の近代ー」岩波新書
(3)マーティン・ガードナー、坪井忠二・藤井昭彦・小島弘訳「自然界における左と右」紀伊国屋書店

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f0223055_1116031.gif絵の中では、右から左へ風が吹いている?


美術館や展覧会へ行くと、たいてい順路が指定されています。
ひとつの絵をずっと見続けて動かなかったり、
さっきの絵はどうだったっけかなと、気まぐれに後ろへ戻ったり、
あちこちウロウロする筆者のような見方は、やっぱり迷惑でしょう。
きちんと順番通り、観覧者が混乱することなく鑑賞できるよう、道が指し示されているわけです。

その順路は、一般的に、欧米の作品であれば、
絵が展示された壁に沿って右(→)へ進むことになります。
壁に沿いながら室内をぐるっと一周するような構造であれば、だから右回り(時計回り)です。

一方、昔の日本の作品などは、一般的に、
絵が展示された壁に沿って左(←)へ進むことになります。
だからこちらは左回り(反時計回り)となります。

なぜこうした違いがあるのか。
それについては、文字の読み方の方向の違いとして説明されます。

展示される美術品の中には、絵巻物や書とか手紙の類もあったりする。
また、文字の書かれている版画や絵画もあったりします。
そのため、欧米の作品をみるときは、アルファベットを読み進む方向通り、右(→)へ進む。
対して日本の作品をみるときは、
文章を読み進む日本古来の方向(=縦書きの文章の行送りの方向)の通り、左(←)へ進む。
──というわけです。

しかし、文字の書かれていない作品でも、絵をみる視線の移動方向は同じだという話があります。
つまり、欧米では、視線を右(→)へ動かして絵をみる。
日本では、視線を左(←)へ動かして絵をみる。
──というのです。

ただこの場合、眼球運動を測定して分析するような
厳密な注視線の移行というわけではないでしょう。
絵をみるとき、絵を読むときの「癖のようなもの」とでも言えるでしょうか。

欧米の右(→)への方向は、
グリュンワルドら心理学者が「進む」と感じるとする方向でもあります。

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美術史家のハインリヒ・ヴェルフリンという人が、「美術史論考」(1)という著書で、
レンブラントの「三本の木」を取り上げているそうです(2)

▼レンブラント「三本の木」1643年
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これは版画の作品。
つまり、刷ったもの。
原画は、左右反転となるわけです。
しかしレンブラントは、それを計算して、この構図を描いた。
そしてここには、左から右へ(→)流れる視線の動きがはたらいているというのです。

視線を移行させたその先に三本の木があることで、その重要性が正しく認識される。
もしも、この作品の左右が反転していたなら、その意味は弱くなってしまうと
ヴェルフリンはいうそうです。

レンブラントは、この作品制作の1年前に妻を亡くしたそうで、
そうした憂鬱な感じが表れているようだという感想を抱かれる人が多いようです。
が、筆者はそういう感じは受けませんでした。

画面の左上の斜線は、雨だという説もあるようで、
確かに左側の空の大気は、不穏なうねりを見せています。
しかし、右の丘にやや逆光気味に光があたり、三本の木の影が手前に伸びているのを見ると、
これは太陽がゆっくりと右の方向へ傾きかけていく黄昏れ間近の午後か、
あるいは、右の丘の向こうから朝日が昇ってくる早朝のシーンか。
左上の斜線は、雲間から差し込む太陽の光線と陰影の非写実的な表現であるように、
筆者には思われます。
三本の木と丘を照らしている光が美しい。
憂鬱感というよりも、人生の日々の中の1コマであるこの風景を慈しんでいる感じがする。
右を向いて耕作にいそしみ働く農夫の姿も含めた、人生の営みの風景。
死ということを意識するからこそ、その1コマがいとおしくなるのではないでしょうか。
──まあ、これは筆者の勝手な感想です。

では、これが、ヴェルフリンの言うように、左右反転したらどうなるか?

▼レンブラント「三本の木」を左右反転させたもの。
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なるほど、左右反転させた方には、不安定な印象があります。

なぜかオリジナルの方は「開かれている」感じがして、落ち着きと広がりが感じられ、
左右反転の方は「閉じられている」感じがするのは、
つまり、左から右へ(→)視線を移行させて見ているということでしょうか。
視線を左から移そうとすると、すぐ左にある三本の木に吸い寄せられ、
その先の空や風景の広がりをしみじみと味わう前に、そこで目が止まってしまう。

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このヴェルフリンの論考を取り上げている「美術における右と左」(2)の序章は、
共著者である中森義宗・衛藤駿・永井信一三氏の座談会をとりまとめたかたちで構成されています。
その序章では上述のように、絵をみる視線は、
西洋では右へ(→)、古来の日本では左へ(←)移行するとされる。

そしてその習慣は、文字を読み書きする方向などに影響されたためで、
だから第二次大戦後、統計グラフや文字の横書きに慣れている現代は、
左から右へと視線を移す西洋の見方に近いのではないかと述べられています。

確かに、昔から日本では、右から左へ(←)視線を進めるのが一般的でした。
文章が付された絵巻や冊子はもちろん、
しかし文章のない絵画でも、右から左へ(←)。

たとえば、四季をテーマにした屏風図などでも、
春・夏・秋・冬と推移する季節は、右から左へ
「冬←秋←夏←春」
と描かれることが多い。
(といっても、例外はままあるそうですが(3)。)

「美術における右と左」(2)の序章では、
西洋画のヴェルフリンの説とは対照的な、右から左へ(←)視線を移す日本の例として、
葛飾北斎「富嶽三十六景」のひとつ「凱風快晴」が取り上げられています。

▼葛飾北斎「凱風快晴」1831年頃〜「富嶽三十六景」
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ここで強調されているのは裾野の広がりであって、富士山の頂(いただき)ではない。
「右から左へと視線を移行させるのが正しい鑑賞法である」(2)
と述べられています。

しかし筆者は、この説明に少なからず違和感を覚えてしまいました。
どうしても、なだらかな裾野の曲線を左下から右上へとたどっていき、
その彼方に遠くそびえる頂上の赤が、空にくっきりと映えている
その存在感と雄大さに目を奪われてしまう。
これはやはり、筆者が視線を左から右へと(→)移すことが慣習となっているせいでしょうか?

もしも昔の日本人である葛飾北斎が、
右から左へ(←)の視線の動きによって作品を描いている(それが版画であっても)としたら、
左から右へ(→)の視線の動きによって見ている西洋人とは真逆です。
すると西洋人や、そういう見方をする現代の一部の日本人は、
左右が真逆の下図の絵にこそ、北斎の意図をくみとることが出来るのでしょうか?

▼葛飾北斎「凱風快晴」〜「富嶽三十六景」を左右反転させたもの。
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いえ、左右反転の絵だとまったく印象が違って見えるのは、
有名な赤富士(凱風快晴)をあまりにも見慣れているために違和感を感じる
というだけではないように思います。

こちらの左右反転の方は、筆者は個人的には、
ヘリコプターに乗った空撮のアングルで、
嶺の頂(いただき)から裾野を見下ろしてながめているような感じがします。

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ヴェルフリンが、左から右へ(→)の視線の動きを指摘したのに対し、
さらにガフロンは、人が絵画をながめるとき、
左下の手前から右上の奥へ意識を移動させながらみているといいます。
いわゆる「グランス・カーブ理論(glance curve theory)」です。

「グランス・カーブ」〜三浦佳世「知覚と感性の心理学」(4)掲載の図に基づいて作成。
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「左下から右上へ」というこの方向は、グリュンワルドの「生命のライン」を思い起こさせますが、
さらに手前から奥へという、三次元的な要素も加味されています。

視覚には、左にあるものがやや大きく見えるような錯視の傾向があるそうです(=左方過大視)。
だから、三浦佳世さんによると、書道で漢字を書く場合、
左右のバランスをとるために、
右の「つくり」よりも、左の「へん」を、若干小さめに書くといいのだそうです(4)

左にあるものが大きく見えるということは、近くに見えるということです。
そして右にあるものは小さく見え、遠くに見えることになる。

すると、グランス・カーブの曲線の構図を用いた下図(A)と、
それを左右反転させた図(B)。
これをを比べると、どうでしょう?

木の隣りにある家は、図(B)の方がちょっと近いような、
図(A)に比べれば、早くたどり着けそうな感じがするのではないでしょうか。

図(A):三浦佳世「知覚と感性の心理学」(4)掲載の図(Adair & Bartley,1958による)に基づいて作成。
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図(B):同上「知覚と感性の心理学」(4)掲載の図(Adair & Bartley,1958による)に基づいて作成。
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葛飾北斎「凱風快晴」の構図は、グランス・カーブの典型的な軌跡を描いています。

筆者がオリジナルをみたとき、富士山のてっぺんが遠くにあるように感じ、
左右反転のものをみたとき、てっぺんが手前にあるように感じたのには、
こうした視覚の仕組みがあったんですね。

グランス・カーブ理論については、
脳の左右のシステムの機能差によって生じるのではないかという説明がなされています。
が、しかし、文化による違いがあるのではないかと、三浦佳世さんは指摘しています。

文化によっては、グランス・カーブ理論のような見方をしない場合もあるかもしれない。
「正しい鑑賞法」は、右から左へ(←)視線を移行させるものと述べられていた通り、
もしかしたら昔の日本人である北斎は、グランス・カーブのような見方をしないで、
「凱風快晴」を描いたかもしれない可能性もあると思われます。

けれども、グランス・カーブ理論に納得した筆者は、やはり戦後生まれの日本人で、
無意識に左から右へ(→)の見方をしているということなのかもしれません。

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が、しかしながら、たとえば同じく北斎の有名な「神奈川沖浪裏」。

▼葛飾北斎「神奈川沖浪裏」1831年頃〜「富嶽三十六景」
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こちらでは筆者は、右から左へと(←)視線を移してみてしまうのです。

波にもまれ、揺さぶられつつ、左へ走る舟といっしょに、視線を左へ走らせる。
そしてモンスターのように襲い来る大波にぶつかるものの、
しかし柔道の名人にアタックしてもいつの間にかかわされて投げ飛ばされるように、
ふわっと体がくるりと一回転して輪を描く。
そのダイナミックな動きの輪の中に、
水しぶきがスローモーションで飛び散るのがくっきりと見えて、
そして輪の中に小さく富士山がのぞいていることに気づく──といった感じです。

これは、あくまでも筆者の個人的な感想なのですが、
つまり、視線の移行の方向は一定ではない。
アイ・キャッチのあるポイントがあれば、まずそこへ視線を走らせる。
そうして絵の構図に導かれるままに、右方向へ目を移したり、左方向へ目を移したりする。
──ような気がするのです。

北斎は他にも、この富士山と波という同じモチーフの絵を描いています。

▼葛飾北斎「海上の不二」1834年頃〜「富嶽百景」
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二つの絵は構図が似ていても、富士山と波の配置は、左右が反対です。
にも関わらず、視線の向きは反対にならず、右から左へ(←)向かうように思われます。

荒々しい波は、右から左へと(←)襲いかかるように押し寄せている。
バラバラと水しぶきのように散らされた千鳥の群れも、
リズミカルな流れをつくりながら、右から左へ(←)飛んでいく。
そうした動きにぐいぐい引っぱられ、わたしたちの視線も右から左へ(←)押し寄せていきます。
そして千鳥が飛んでいく彼方──視線の行き着く先に富士山を発見するわけです。

こうした構図であれば、
左から右へ(→)視線を走らせることに慣れている欧米人であっても、
ごく素直に、右から左へ(←)視線を走らせることになるのではないでしょうか。

絵巻や連作などではない1枚の絵であれば、
絵自体は、鑑賞者に見る方向を強制するわけではありません。
たとえ順路が指定されていたとしても、
右から見ようが、左から見ようが、
「正しい鑑賞法」に必ずしも従う必要はないように思います。
絵のままにながめて、思うままに感じればいい。

ただしかし、そのとき、右にみていくか、あるいは左にみていくかという
心理的な「癖のようなもの」が無意識的にあって、
その影響を受けるようなことが、やっぱり、あるのかもしれないなあとも思われます。

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「上手から下手(右から左)に風がゆるやかに吹いている」という別役実さんは、
舞台だけはなく、絵画の中にもその風を感じていました(5)

たとえば、フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」。

▼フェルメール「窓辺で手紙を読む女」1657年頃
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この女性は、上手(右)から下手(左)へ移動しているわけではない。
が、この瞬間に至る寸前まで、移動してきたことを思わせ、
下手(左)へ「向かう身体」であることをうかがわせると、別役実さんはいいます(5)

視線が移行する方向というわけではないでしょう。
けれど、身体が左を向いていることによって、
さらに画面の右側3分の1ほどを緑のカーテンにおおわれている構図のせいでしょうか、
女性の頭部は画面の中心にありますが、時間が止まったような静けさの中で、
窓の方向──つまり、左へと向かう気配のような何かを、なるほど感じるような気がします。

フェルメールの作品には、
左から光が射しこむ中、人物は左向きにたたずんだり、座っているようなものが多い。
もしかしたら、そうした「癖のようなもの」があり、
別役実さんはそこに共通するものを感じるのかもしれません。

筆者は、左を向いてたたずむこの構図の中に、ひそやかさを感じるように思います。

絵には、緑のカーテンと、それを吊るすためのカーテンポールが描かれています。
これは、部屋を仕切るためのカーテンかと思ったら違うんですね。
フェルメールの暮らしていた17世紀当時のオランダでは、
室内に飾る絵画にほこりをよけるためのカーテンを取り付けていたのだそうです。
それをフェルメールは、「だまし絵」として、絵の中に描き込んだというわけです。

そのカーテンポールの横線と柱や影が、画面の四方を取り囲む枠(わく)のように見えます。
額縁に絵を飾る以前に、額縁の枠がすでに絵の中に描かれていて、
そこに掛けられたカーテンが半ば開かれ、中の絵がのぞけているように見えるのです。

そして壁の余白がたっぷり過ぎるほどに室内の空間が広く描かれ、
それに比べると女性の姿は小さい。
それが女性のシルエットを際立たせ、また清澄な空気感を感じさせることにもなっているのですが、
女性は、わたしたち見る側の視点からは離れた、やや遠い距離にいるように見えます。

また、テーブルクロスの乱雑さや、無造作に置かれ傾いている皿の果実も、いかにも日常的です。
テーブルを片付けているところなのか、果実を運んで来たところなのか、
家事の途中の合間に手紙を読んでいるという状況が想像できる。

そのため、ちょうど、絵という小窓の枠に切り取られた女性の日常のプライベートな一場面を、
カーテン越しにのぞき見しているような錯覚を感じるのです。

読んでいるのは、もしかしたら恋人からの手紙かもしれない。
しかしその想いはひとり胸に秘め、しずかに、しかし何度も反芻しているように見えます。
その表情からは、手紙がどんな内容なのか、はっきりわかりませんが、
その姿勢にはじっと見入っている熱心さがうかがえる。

女性のそんな素の姿を、思わず目撃してしまったような、
ちょっとドギマギしてしまう感があるように思います。
……あ、いえ、ついつい妄想してしまいました。

それが、右向きであったとしたら、どうなるか?

▼フェルメール「窓辺で手紙を読む女」を左右反転させたもの。
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これは筆者の個人的な感覚なのですが、右を向いた彼女は、
何だかあっけらかんとして、秘密めいたところ、思いつめたところがない。
開放的な、開かれているような印象を受けます。

もしかしたらこれは、グリュンワルドが右への方向を「外向的」として、
左への方向を「内向的」ととらえた象徴図式と関係があるようにも思われます。

フェルメールの描く左向きの女性たちは、左向きに描かれることで、
内省的な、落ち着いた雰囲気が強調され、
その内面がにじみ出るような画面の主役に、よりふさわしくなるのではないか。

左を向いて「手紙を読む」女性は、自分の内なる気持ちと向き合っている。
しかし、表には出さないその内面が、ひそやかな印象につながったのかもしれない。
すると窓ガラスに映った彼女の、自分自身を照射する鏡像も意味をもってくるように思えます。

けれど、彼女が右を向いたとき、かもし出されていたそうした要素がなくなる気がするのです。

そして彼女が右を向いたとき、風向きが変わったように筆者には思えました。
右から左へ(←)ゆるやかに吹いているはずの風に、彼女は逆らうのではなく、
彼女が右を向くとともに、風は左から右へ(→)吹き始めたように思えたのでした。

そう思ってしまった筆者は、感覚が鈍感なだけで、
別役実さんの感性がとらえている流れを感じとることができないのかもしれません。
あるいは、人それぞれに感じ方が違うということなのでしょうか。

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中森義宗さんら三人の方々は、右に見るか、左に見るかという日本人の意識は、
第二次大戦を境に変化したのではないかと指摘していました(2)
それには、文字の横書きという影響も大きいでしょう。

三浦佳世さんもまた、古来、日本で意識や時間の進む向きを左とするのには、
「筆記方向に関係していることは想像に難くない」(3)
と述べています。

だとすると、別役実さんの左へ風が吹いていると感じる感性は、
縦書きの文章に慣れているというようなことに関係してくるのでしょうか?
それとも、関係はないのでしょうか?

文字を読み書きする方向というのが影響するのかどうか?
次に考えてみたいと思います。

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《引用・参考文献》
(1)筆者は未読ですが、ヴェルフリン「美術史論考」は、次の日本語訳が出版されているそうです。
ハインリヒ・ヴェルフリン、中村二柄訳「美術史論考ー既刊と未刊ー」三和書房(1957年刊)
(2)中森義宗・衛藤駿・永井信一「美術における右と左」中央大学出版部
(3)榊原悟「日本絵画の遊び」岩波新書
(4)三浦佳世「知覚と感性の心理学・心理学入門コース1」岩波書店
(5)別役実「別役実の演劇教室ー舞台を遊ぶー」白水社

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