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梅の里紀行


今回、大磯、それから小田原の曽我を廻ったのですが、
その曽我を訪ねたときの写真をちらほらと載せてみます。

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小田原市曽我谷津の「宗我神社」。
作家の尾崎一雄は、ここの神主さんの家に生まれたそうです。
曽我の里は、おだやかそうな自然に恵まれたところで、
尾崎一雄はいい環境で育ったんだなあと思いました。
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城前寺にある曽我兄弟のお墓。
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その隣りにある、
兄弟の義父である曽我祐信と、母親満江御前のお墓。
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「曽我物語」の周辺には、“石”がよく登場します。
ヒロイン・虎御前が化したという「虎御石」。
兄・十郎が、恋人である虎御前を忍んだ、
あるいは、十郎亡き後、母である満江御前と虎御前が彼を忍んだという「忍石」。
兄弟が力比べをしたという二宮町・川匂(かわわ)神社の「力石」。
箱根・芦ノ湖の「舟つなぎ石」。
弟・五郎が刀でまっぷたつにしたという岩のある箱根の「割石坂」──などなど。

これもそんな石のひとつ、沓(くつ)石です。
五郎が足を患ってやっと治ったとき、体がなまっていないか力試しをするために
石の上で踏ん張ったところ、石がくぼんで足形がついたといわれています。
城前寺のすぐ近く。
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曽我の里を流れる剣沢川をたどっていくと、弓張りの滝があります。
そこで、近くの山道脇の竹林をボランティアで整備されているという方に会いました。
話をしているうちに、お宅へ車で連れて行ってもらうことに。
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ご自宅の庭のみごとなしだれ梅。
絶景です。
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その方は、趣味で凧を作っていらっしゃるとのこと。
竹を割るところからはじめて、骨を組み立て、自分で絵も描く。
写真に載せられないのが残念ですが、すてきな大凧でした。
お孫さんのために作った凧もよろこばれている様子。
また、横笛や尺八なども器用に自作されていて、
悠々自適を楽しんでいらっしゃる風でした。

その方のお名前が、曽我さん。
およそ800年前、曽我兄弟の義父となった曽我太郎祐信は、温厚で、誠実で、
領民から慕われた人だったと伝えられているそうです。
名前が名前なだけに、
そんなDNAを持っておられるのではないかと思わせられる方でした。

その曽我太郎祐信の供養塔。宝篋印塔(ほうきょういんとう)。
曽我山の山道脇にあります。
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その祐信の奥さんとなった、兄弟の母、満江御前が住んでいたという住居跡。
今は公民館になっています。
兄弟が仇討ちへと出立する別れのとき、満江御前は小袖を贈ります。
その場面の謡曲「小袖曽我」の舞台となったのが、ここだといわれているそうです。
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近くに、満江御前のお墓。
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満江御前のお墓へ寄る途中、梅の木の下に生きもののような物を見つけました。
よく見ると、やつれた犬のようだけど、犬ではない。
じっと動かないまま、こちらをうかがっています。
しばらく互いに顔をぼーっと見合わせたまま、数十秒間、
やっとタヌキだと気がつきました。
「あ。カメラ」
と思ったときには時遅く、しかし彼の方は、あわてるでもなくのそのそと、
近くの物置き場の廃屋のようなところへ消えていきました。

昼間から、梅林の下にタヌキとは…。
タヌキは満江御前の御使いだったのだろうか……。
と、いぶかっていたところ、近くのお店屋さんの話では、
「よく見かけますよ」とのこと。
人間を見ても驚かず、平然と歩いているのだそうです。

そんなタヌキものんびりと暮らす曽我の里。梅の里。
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尾崎一雄にしろ、曽我兄弟にしろ、
いい環境で育ったよなあと、つくづく思ったのでした。

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虎御前をめぐる女性たち──都藍尼


江戸の頃につづられた「東海道名所記」に、
絵解きをした熊野比丘尼を描写するくだりがあります。
そこで「比丘尼」を説明するのに、史上初の比丘尼であり、ブッダの養母であったインドの
喬答弥(きょうどんみ)〈=摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)=マハー・プラジャーパティー〉
から説き起こして、日本の比丘尼の起源をざっと述べています。
その中で、光明皇后が比丘尼となり、「都藍」と呼ばれたとあるのです。

どうやら、この箇所は熊野の「比丘尼縁記」に拠ったらしく、
「比丘尼縁記」にも、光明皇后が尼となり、「とらんニ」となったと書かれています(1)

光明皇后といえば、悲田院の福祉活動など、さまざまな伝説に彩られている方ですが、
「都藍尼」という比丘尼になったという話は、
この記述以外にはあまり見当たらないようです。
仏教に帰依し、法華寺という尼寺を開いたとされる光明皇后が、
比丘尼に関連する有名人として、伝説を加味されて取り上げられたのかもしれません。

ここで注意をひかれるのは、「都藍」という名前です。

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「都藍尼」は、大江匡房「本朝神仙伝」では、
奈良県の吉野山のふもとに住む尼として登場します(2)
同じ話を、柳田國男は「元亨釈書」から紹介しています(3)

彼女は仏法を修行して、仙女のように不老不死を得、数百歳であったといわれます。
その神通力をもって、奈良県の女人禁制である金峯山(きんぷせん)へ登ろうと
足を踏み入れる。
と突然、天変地異に見舞われ、持っていた杖はたちまち大樹となり、
岩は割れ、泉が噴き出します。
そうして、とうとう登ることはかなわなかったというのです。
(別の書では、殺されたともいいます。)

金峰山の一画である山上ヶ岳(大峰山)の山道入口には、
オイトシボ石(なで石)のある龍泉寺がありましたね。

また、「とらん」という比丘尼は、
滋賀県の比叡山延暦寺の「叡山略記」にも顔を出しているそうです。
こちらでは「都蘭之尼」と書かれ、
最澄に恋慕してフラれた仕返しに嘘をつく困り者として登場します。
この話は女人禁制の由来を説明するものでもあるようです。

さらに、役小角(えんのおづぬ)のお母さん。
金峰山で活躍し、龍泉寺を開いたともいわれ、
修験道の開祖といわれる、あの役行者(えんのぎょうじゃ)のお母さんの話です。

彼女は息子に会いに、山上ヶ岳(大峰山)へやって来たのですが、
山へ登ろうとすると大蛇が現われて邪魔をします。
そこで、山道入口の天川村洞川で庵を結んで祈っていると
阿弥陀如来があらわれ、息子の修行の邪魔をしてはいけないとさとされます。
彼女は、その場所より上には踏み込もうとしませんでした。
やがて役小角が山を降りてきて、その場所で会うことがかなう。
その庵を結んだ場所が、現在の「母公堂」で、
女人禁制の結界の境界点となっていました。
(現在は、結界の範囲が変わっているとのこと。)

空海のお母さんにも、高野山(和歌山県)に同じようなエピソードがあります。
その話では、空海に会いにきたお母さんは、女人結界の境界点にあった寺務所に留まり、
そこが後に「慈尊院」となったと語られます。
また、泰澄のお母さんにも、同様のエピソードがあって、
越前・平泉寺(福井県)近くに「七難の岩」があるそうです(4)

その役小角のお母さんの名前が、「白専女」。
「専女(とうめ)」は老女の意で、一般に「しらとうめ」「しらたらめ」などといわれます。
が、「とらめ(刀自女)」という名前も伝えられているというのです(2)

つまり、巫女や比丘尼たち、山に関わる宗教に関連する女性が
「とらん」とか「とらめ」などと呼ばれたらしい。
そして、結界の境界の地点でエピソードを多く残しているらしいのです。

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そうしたエピソードが、石というモチーフを伴って語られることが多いことを
柳田國男が述べています(3)(4)
例のごとく、博覧強記の情報収集力でもって伝承を並べているのですが、
その中から、いくつかかいつまんでメモしてみます。
いずれも、女人禁制の山に女性が登ろうとする話です。

◎「斗宇呂(とうろ)の尼」という者が2人の尼を伴って、
立山(富山県)へ登ろうとしたところ、石になってしまった。
これを「姥石」という。

◎「融(とおる)の尼」は、美女を同席させ、酒を売る商売上手。
(なんだか遊郭を思わせます。)
白山(富山県・岐阜県)の山の上の神社で参詣者を相手に酒を売ろうと登ったところ、
美女が美女坂で「美女石」となり、融の尼は姥坂で「姥石」となる。

◎巫女が登ったところ、「巫女岩」となる。
(新潟県、佐渡島の金北山(きんぽくさん))

◎巫女が犬を連れて登ったところ、巫女が「イタク杉」となり、犬が「犬子石」となる。
(秋田県男鹿市の赤神山(真山・本山・毛無山))
◎守子(モリコ)が登ったところ、「守子石」となる。
(秋田県横手市の保呂羽山)
◎巫女が登って、「一位墓(イチイバカ)」という自然石になる。
(埼玉県秩父郡の両神山)
※「イタク(コ)」「モリコ」「イチ」は、巫女の通称です。

◎比丘尼が登って、「比丘尼石」となる。
(長野県長野市の戸隠山)

これらの話では、巫女や比丘尼という女性の宗教家が、
女人禁制の山に足を踏み入れて石(または樹木など)になったと語られます。
これはつまり、女人禁制の結界の境界点に、
目印となるような特長的な石が置かれているということです。
役小角や空海のお母さんの例では、
「母公堂」や「慈尊院」という建物が、境界のしるしとなっていました。

それが、母親の愛情を語る話であるにしろ、
驕慢を戒められて罰せられる話であるにしろ、
女人禁制であることを説明し、その範囲を知らしめる伝承であるようにも思われます。

巫女や比丘尼は、その結界の境の地点までやってきて、
石の向こうの山頂の方にある社殿や本尊を礼拝したかもしれません。
あるいは、石そのものを祀って礼拝したかもしれません。
そうしてそこから引き返すことになる。
このような行法があったことが、これらの伝承につながったのではないかと
柳田國男はいいます。

また、巫女や比丘尼が、石を運んだということもあるようです。
熊野比丘尼は、熊野の地の小石をご神体として遊行の際に携帯し、
各地へ持ち運んだそうです。
岐阜県郡上市美並町杉原の熊野神社には、
俊応という熊野比丘尼がたもとに入れて運んだ“袂(たもと)石”を
「弥勒石」として祀っています。
が、弥勒石は、人間の背丈ほどもある巨大な自然石。
これはたもとの中の小石が、成長して大きくなったものというのです。
(彼女の杖が杉の木になったともいわれ、現在、天然記念物の巨木になっています。)

虎御石やさざれ石が成長して大きくなったという話も思い出されます。
比丘尼が石をご神体として重んじたということと、
何より石への信仰がこうした伝承を生んだのかもしれません。
比丘尼が運んだ石によってはじまったという神社も少なくないそうです(5)

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そして、このような行法を行う巫女や比丘尼たちは
「とらん」「とらめ」「とうろ」「とおる」などと呼ばれていたわけです。
もしくは、名乗っていた。

柳田國男は、これらの言葉が、古代の「タル」に由来するのではないかという推論を
ちらっと記しています(6)
太陽や吉日のことを「生日足日(いくひのたるひ)」と言ったり、
長野県上田市の生島足島(いくしまたるしま)神社が
「生島大神」と「足島大神」を祀っている、その「足(タル)」と関係があるのではないか
というのです。

また、「タル」は「タラシ」となり、「帯」と書くそうです。
この「足」や「帯」は、大昔の貴人の名前に使われることが多く、
八幡様の元になった御名が「大多羅志女(おおたらしめ)」といい、
この名は、国の神々に多いといいます。
そういえば、神託を伝えるシャーマンでもあった神功皇后が、
「おおたらしひめ」といい、「大帯比売」とも「大足姫」とも表記されていました。

この「タル」「タラシ」が、時代が下るとともに
「トラン」や「トウロ」につながったのではないかと、柳田國男はいうのですが、
素人の筆者にはわかりません。
ただ、「虎(とら)」という名前が、その「とらん」に由来し、
虎が石に化したという伝説の要因になったと考えると、
いろいろなことが符合してくるように思われます。

虎は、熊野系統の箱根権現につながる高麗権現の修験比丘尼という
福田晃さんの説も、なるほどと思われてきます。

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白土三平さんのマンガ「忍者武芸帳」で、主人公・影丸は、
殺されても殺されても、いつのまにかまた生き返っているという不死身の男でした。
というのは、“影丸”とは一族の名前であり、
ひとりが殺されても、また影武者のような別のひとりが“影丸”になるというのです。
同じ作者のマンガ「サスケ」でも、
“猿飛”というのは個人の名ではなく、術の名であり、
その術を継承する一族が“猿飛”と呼ばれているという設定でした。
だから、“猿飛”は、全国に何人もいるというわけです。

もしも「都藍」とか「とら」という名が、個人のものではなく、
ある行法に関連した巫女や比丘尼たちの名だとすると、
“虎”が全国に何人いてもおかしくないわけです。

山梨県南アルプス市の芦安安通には、
この地に虎御前が生まれ、没したという伝承があるそうです。
芦安芦倉の伊豆神社には、曽我十郎と虎を祀り、「虎女の鏡石」が伝わっていたのだとか。
伊豆神社は大正時代に倒壊したため、
現在、十郎と虎の木像は、近くの諏訪神社に移されているそうです。

滋賀県の虎御前山(虎姫山)には、
「曽我物語」の虎とは無関係の、虎御前(虎姫)がいます。
彼女はふもとの里の「世々聞(せせらぎ)長者」と結婚するのですが、
顔はへびで、体が人間という子を産んだため、嘆いて淵に身を投げた、
もしくは、へびとなって淵に沈んだといいます。
「さよ姫伝説」の要素と「虎御前」の名前が混ざり合っているような気もします。
これなども、「とら」と呼ばれた女性たちと関係がありそうです。

鹿児島県志布志市の大慈寺の境内には「虎が石」があり、
虎がここへ立ち寄った際に建立したと伝えられているそうです。
イボの治癒に効果があるのだとか。

虎の足跡は、九州にまで及んでいる。
兄弟の没後、虎が箱根で比丘尼となり、
その後、全国を旅して廻るのは、まったく不可能というわけではないのですが、
「とら」という女性たちが全国を巡っていたと考えると、
これらの数々の伝承も自然に思えてきます。

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先日、小林玲子さんの「十界図」の絵解き口演を拝見したとき、
郷土史家であるご主人の小林一郎さんともご一緒に、少しお話しすることが出来ました。
そのとき、ご夫妻が善光寺の近くにお住まいであることを思い出して、
虎御前のことを聞いてみると、虎御前石が近所にあるというのです。

それで帰って調べてみると、以前のブログに書かれていました。
「小林玲子の善光寺表参道日記」
http://blog.livedoor.jp/naganoetokino1/archives/962018.html
http://blog.livedoor.jp/naganoetokino1/archives/981004.html

小林一郎さんによると、「とら」や「とらん」と呼ばれ、
遊行していた女性宗教家が拠点としていたひとつが善光寺だそうで、
そのため、善光寺周辺や、各地の善光寺ゆかりの寺にも、虎の痕跡があるということです。
たとえば、長野県佐久市鳴瀬の時宗寺には、虎御前石、
長野県上水内郡飯綱町芋川の健翁寺には、虎御前の墓があるそうです(7)

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「曽我物語」が物語として成立する以前、
初期の語りは、口寄せによる「死霊語り」だったのではないかといいます。
「小栗判官」の場合もそうでしたが、
無念のまま命を落とした死者の魂の声を、口寄せ巫女が語る。
そうして声を聞いてあげることによって、祟りをなさぬよう、慰める。

現在でもときどき、成仏できない不幸な霊が祟ったために、眠れなくなったり、
体調を崩したりするという“霊障”が、テレビ番組で取り上げられたりしています。
霊能者という人に依頼して、除霊を行ったりする。
昔も、そういうことがあったのでしょう。
不幸な魂が「怨霊」となって、この世に災いをなすと考えた。
そこで「怨霊」が「御霊」と変わるように供養する。
いわゆる「御霊信仰」です。

曽我ブラザーズの弟・「五郎」のネーミングは、
「ごりょう(御霊)」からきたのではないかとする説もあります。
仇討ちを果たした後、20歳そこそこの若さで果てた十郎と五郎は、
悲劇の兄弟として、くりかえし語られたことでしょう。

口寄せ巫女であるイタコに男性の霊がとりつくと、男性言葉と男性の口調になります。
が、若干の不自然さは否めません。
やはり、女性の声で語られるのは、女性の霊である方がしっくり来て、
また、聞く者の心にも響きやすいと思われます。
そこで、兄弟の行動を見守り、兄弟と半ば生活をともにした愛人という存在が、
物語を語るにふさわしい女性としてクローズアップされることになります。

たとえば、こんな想像をしてみます。
霊がとりつくと、口寄せ巫女は、こう語り出したかもしれません。
「ううう……わらわは……、十郎祐成殿と、ひとつ蓮(はちす)の縁を誓い合うたものなり」
そして、
「そう、あの晩は今宵の雨と違(ちご)うて、降る雨は車軸のようであった……」
などと物語ったかもしれません。
つまり、一人称。

物語の骨格が定まってきてからも、一人称で語るスタイルがあったとみられ、
その語りに聴き入った人々は、
十郎の愛人と語り手の女性が同一人物であるように錯覚したと思われます。
物語を管理し、各地へ持ち運んだ語り手が、「とらん」と呼ばれていたとしたら、
十郎の愛人は「とらん」→「とら」ということになっていく。

当時、人が死ぬと、その霊は霊山へ向かうものと考えられていたといいます。
曽我兄弟の霊も、霊山である箱根に向かったと考えられた。
その箱根で「死霊語り」が行われたのではないかと福田晃さんはいうわけです(8)

柳田國男によれば、箱根その他の修験道場では、近代まで巫女は比丘尼であり、
山伏の妻であることも多かった(9)
比丘尼はもちろん仏教の宗教家ではありますが、
箱根の比丘尼は実質的には、歌舞を行ったり、口寄せを行う巫女であったというのです。

その箱根の修験比丘尼、そして箱根に深いつながりのある高麗の修験比丘尼によって、
「死霊語り」が行われ、物語がかもし出されていったのではないか。
というのが、福田晃さんの説です。

やがて物語が成り立って三人称で語られ、虎というキャラクターが定着した後も、
出家して兄弟の菩提を弔うために各地を歩いたという虎は、
各地を歩いて物語を語る巫女や比丘尼と重ね合わされ、
同一視されることがあったかもしれません。

そうして各地に種がまかれ、各地の「虎」伝説が育っていったものと思われます。

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では、「虎御前」は、まったくのフィクションだったのでしょうか?

基本的には史実とされる「吾妻鏡」で語られているように、
19歳で箱根で兄弟の供養をし、出家して、善光寺に参詣したという虎御前は、
語り手であった巫女や比丘尼の投影なのでしょうか?

もっとも、曽我兄弟の仇討ち事件が起こったとされるのが、1193年。
虎が出家したのも、同じ1193年とされます。
が、「吾妻鏡」が編纂された時期は、1290年から1304年のあいだとされ、
事実から記事となるまでに約100年以上のタイムラグがあったということになります。
100年のあいだに、「伝聞」が「伝説」となってもおかしくはありません。
その頃には、物語がある程度、拡散していたとも考えられます。

神奈川県大磯市周辺の伝承によれば、晩年の虎は、
虎が池弁財天のところに「法虎庵」という庵を結んで住んだ。
その法虎庵が、今の延台寺に移されたといわれます。

また一方、仮名本「曽我物語」で語られているように、庵を結んだのは「高麗寺の奥」。
それは高麗山の北のふもとにある高麗寺の末寺の荘厳寺近くであるともいわれます。
荘厳寺には、虎の持念仏であった地蔵が伝えられているそうです。

▼現在の荘厳寺
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荘厳寺は、虎が生まれたともいわれる山下長者の屋敷跡の近所で、
その近くに、晩年を過ごしたといわれる住居の跡があります。
(現在の住所は、平塚市山下。)
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これらの伝承や史跡も、
高麗寺の修験比丘尼で、「とらん」と呼ばれたうちの誰かの投影であると
言えなくもないかもしれません。

しかし、その後の虎を語っていたのは、こうした伝承ばかりではありませんでした。
曽我十郎とのあいだに子どもをもうけたという伝承もあったのです。
そして、福田晃さんが論及しているその伝承の場所は、
道祖神信仰や弁財天とのつながりを示唆するキーワードでもあるようなのでした。
そのキーワードとは……。

「宿河原」です。

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《引用・参考文献》
(1)根井浄・山本殖生編著「熊野比丘尼を絵解く」法蔵館
(2)阿部泰郎「女人禁制と推参」〜大隅和雄・西口順子編「シリーズ女性と仏教・4ー巫女と女神ー」平凡社・所収
(3)柳田國男「妹の力」〜「柳田國男全集・11」ちくま文庫・所収
(4)柳田國男「史料としての伝説」〜「柳田國男全集・4」ちくま文庫・所収
(5)五来重「石の宗教」講談社学術文庫
(6)柳田國男「おとら狐の話」〜「柳田國男全集・6」ちくま文庫・所収
(7)小林一郎「熊野観心十界図の絵解き ー善光寺と熊野を結ぶものー」〜長野郷土史研究会「長野・第268号(2009年の6号)・所収
(8)福田晃「曽我物語の成立」三弥井書店
(9)柳田國男「『イタカ』及び『サンカ』」〜「柳田國男全集・4」ちくま文庫・所収

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化粧坂から高麗山へ


柳田國男は、道祖(さえ)の神を奉ずる人々が、「さよ」姫伝説と関連するのではないかと
いいました(1)
そして全国各地に伝わるそうした伝説の周辺に
「化粧坂(けわいざか・けしょうざか)」という地名が多いことを指摘しています。
祭祀をとり行い、歌舞を演じるときに女性が化粧をしたその印象が、
地名に残っているのではないかというのです。

大磯にも「化粧坂」があります。
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この写真は、「化粧坂」の交差点。
後ろには、高麗(こま)山と、それに連なる八俵山、二子山があり、
山へ登ろうとすると確かに坂になります。
が、現在、周辺には、特筆できるような坂は見当たりません。
当時の地形では坂があったのでしょうか?

「化粧坂」に限らず、坂は、「境(さかい)」の「さか」でもあるともいわれます。
坂や河原は、村や町の境界にあることが多く、それがシンボル化される。
もしかしたら、坂がなくても坂といわれたかもしれません。

「化粧坂」は、境界に位置することが多いと石井進さんはいいます(2)(3)
有名な鎌倉の「化粧坂」を中心に論じて、
はずれの境界であるがゆえに、そこが刑場となり、葬送の場となりやすい。
また、内と外が接する場所でもあるがゆえに、そこに交換が生まれ、商業が栄えやすい。
そして、遊女なども集まりやすいというわけです。

鎌倉の化粧坂の名前の起こりには、
平家の武将の首に化粧を施して首実検をしたといういかにも刑場らしい言い伝えと、
化粧をした遊女たちがたむろしていたからという言い伝えの両方があります。

仮名本「曽我物語」では、曽我ブラザーズの弟である五郎時致(ときむね)の恋人で、
後には出家する「化粧坂の遊君(女)」が登場します。
鎌倉の化粧坂の麓(ふもと)にあったという遊郭の女性でした。

そして一方、大磯の化粧坂にも遊郭があったといい、
ブラザーズの兄・十郎祐成の恋人である虎は、そこの遊女であったともいわれます。
彼女が朝な夕なにお化粧の水に使ったといわれるのが、化粧坂交差点のすぐ近くにあるこの井戸。
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今でもこの井戸の水を使ってお化粧をすれば美人になれるかもしれませんが、
残念なことに埋められています。

ところで、この井戸を説明した立て札に、
このあたりは大磯の中心であったと思われると記されていました。
はて。
境界ではなかったのでしょうか?

江戸時代の東海道のようすを詳細に記録した「東海道分間延絵図(繪圖)」という
絵地図があります(4)
この絵図には、「傍示杭(ぼうじぐい)」という高さ3mほどの木の杭の位置も記されています。
「傍示杭」は、主に町の境界を示すための目印となっていたものです。

▼「東海道分間延絵図」のスケッチ
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この周辺を見てみると、画面の左側、
大磯宿の境界を示したと思われる「御料傍示杭」があります。
このスケッチでは省きましたが、見切れた左側にはいかにも宿場町らしく、
密集した家々がずらりと並んで描かれています。

そして画面の右側、
高麗寺町の境界を示したと思われる「寺領傍示杭」が、虚空蔵の隣りにあります。
下の写真は、国道1号線の横に今も残っている虚空蔵。
ここには下馬標というしるしも建っていて、
東海道を往来する大名行列は、ここで馬を降りて高麗権現を礼拝したそうです。
昔はここに「傍示杭」が立っていて、高麗寺の領地の境を示していたわけです。

(※絵図では、虚空蔵の見切れた右側にも、町らしい家々が描かれています。)
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この2つの「傍示杭」のはざまのほぼ中間地点に化粧坂があるのです。
つまり、大磯宿の境界と高麗寺町の境界との間、どちらにも属さない境界領域に
化粧坂があったと考えられます。

さらに「絵図」では、化粧坂と記された道のかたわら、
周りに家のない閑散とした場所にぽつりと、「非人小屋」が描かれています。
非人や遊女は、どこにも属さない、境界の住人でした。
江戸の頃には、ここは境界領域だったのでしょう。

では、大磯宿もなかった中世の頃はどうだったのでしょうか?
当時、遊女のいた遊郭は、身分的にも文化的にも格式の高いところで、
地方の豪族なども運営していたといいます。
このあたりに遊郭があったとすると、繁華街のように開けた場所だったかもしれません。
が、栄えた場所ではあったとしても、
町の中心ではなかったように筆者には思われます。

非人や遊女、そしておそらくは、柳田國男が言っていた、
道祖(さえ)の神を奉ずる人々も、この近くに出没したのではないでしょうか。
道祖神は、まさしく「境の神」でした。
境界にいて、外から来る悪霊や邪なものをさえぎることから、
「障(さえ)の神」とも、「塞(さい)の神」とも呼ばれます。
「塞」とは、外敵の侵入を防ぐとりでを意味する言葉です。
だから道祖神の石碑は、村や町の道の境に置かれることが多いのだといいます。

ここを訪ねたときも、道路脇に道祖神を見かけました。

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さてところで、折口信夫は、「曽我物語」は熊野系統の語りに関わりが深いと述べています。
関東においての熊野の中本山とされるのは、箱根と伊豆山。
中でも、箱根に深く関わっているといいます(5)(6)
確かに、弟の五郎は、子どもの頃に僧侶となるべく箱根で修行し、
幼名を箱王(筥王丸)ともいいました。
ワイルドで力持ちであり、それが自慢でもあった五郎の伝説が箱根に残されています。
また、兄弟の没後、虎は箱根で出家します。
兄弟の墓は、小田原の曽我にあったり、各地にあるのですが、箱根にもあります。

福田晃さんは、さらに進んで、
箱根権現とつながりのあった高麗(こま)権現の影響を指摘しています(7)
箱根権現と高麗権現を往来する修験者がいて、
そして巫女、または修験比丘尼がいたというのです。

化粧坂から歩いて4〜5分のところに高来(たかく)神社があります。
ここが昔は、高麗寺の一部でした。
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高麗寺は、朝鮮半島の高句麗から来日して帰化した高麗若光(こまのじゃっこう)に由来するとも
いわれています。
高麗山の南側のふもとから海岸にかけて、現在の唐が原を含む広い地域が
「もろこしが原」と呼ばれていたのも、帰化人が住んでいたからというそうです。

下の写真は、花水川にかかる花水橋からながめた高麗山。
安藤広重「東海道五十三次」の「平塚宿」に描かれた高麗山も、
こちらの方向から描かれたものでしょう。
おわんを伏せたような、まるっこい姿は、ゆったりと穏やかそうな山に見えます。
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▼安藤広重「東海道五十三次〜『平塚宿』」
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ところが、ふもとの高来神社の裏手から登ってみると、これがなかなかにハード。
男道と女道の2つのコースがあって、
女道から行くと、階段もしっかりと設営されていて勾配も比較的ゆるやかなのですが、
男道のコースは、足場も心もとなく、筆者はヒイヒイいってしまいました。
さすがに修験者が登り下りしたという山だけのことはあります。
写真は、頂上近くの石段です。
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とはいうものの、標高168mという、東京スカイツリーより低い山ではあり、
2〜30分ほどで頂上へ。

上宮があったとされる頂上には、今は小さな祠(ほこら)がひっそりとあるだけです。
明治のとき、廃仏毀釈の波にのみこまれ、
特に徳川幕府にゆかりのある権現を祀っているということで、壊されてしまったのです。

【補足】
……と、てっきり思っていたのですが、
コメントで、みちさんにご指摘をいただきました。
明治のときに、山のお堂や塔が壊されたことは事実のようですが、この上宮は残り、
昭和40年代頃まで保存されていたようですね。

現在に伝えられていないのは残念です。
祠の近くで、ヤマガラがしきりに鳴いていました。
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そして高麗寺は廃寺となり、その一部の「高麗(こま・こうらい)神社」が
山のふもとに「高来(たかく)神社」として残り、隣りの慶覚院とともに
いにしえの面影を今に伝えています。
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さて。
福田晃さんがその著書(7)で展開されているのが、
「虎は、箱根とつながる高麗の修験比丘尼だった」説です。

虎は、この今はなき高麗寺にいたかもしれないというのです。

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《引用・参考文献》
(1)柳田國男「妹の力」〜「柳田國男全集・11」ちくま文庫・所収
(2)石井進「石井進著作集・第9巻〜中世都市を語る」岩波書店
(3)石井進「石井進の世界・5〜中世のひろがり」山川出版社
(4)児玉幸多監修「東海道分間延繪圖・第3巻 平塚・大磯・小田原」東京美術
(5)折口信夫「東北文学と民俗学との交渉」〜「折口信夫全集・第16巻」中央公論社
(6)折口信夫「室町時代の文学」〜「折口信夫全集・第12巻」中央公論社
(7)福田晃「曽我物語の成立」三弥井書店
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虎御前をめぐる女性たち──松浦佐用姫

さて、「曽我物語」のクライマックスとなる仇討ちの
“その前夜”ともいうべき場面です。

兄・十郎祐成は、虎を連れて、故郷である小田原の曽我の郷へと戻り、
短い間ですが、二人のときを過ごします。
そして別れの時がやってくる。
すでに死を覚悟している十郎ですから、
その別れは、もう生きては会えないことを意味していました。
人目を忍びながら二人馬を並べて、
山彦山(現・小田原市曽我山=不動山)の峠まで十郎が見送ります。

「遠近(をちこち)のたづきも知らぬ山中に、道もさやかに見え分(わか)ず、
かの松浦佐用姫が領布(ひれ)振る姿は石になる、それは昔の事ぞかし。
今の別れの悲しさに、駒(こま)近々とうち寄せ、
手に手を取り組み、涙に咽(むせ)ぶばかりなり。」
(1)

というところです。
この場面、「遠近の…」の箇所は、「古今和歌集」(巻第一・春哥上)の

「をちこちのたづきも知らぬ山中におぼつかなくも喚子鳥(よぶこどり)かな」(2)

をふまえています。
遠くと近くの見当さえつかない山の中で、心細そうに鳴く喚子鳥よ、といった意味でしょう。

喚(呼)子鳥(よぶこどり)は、山彦を返す鳥であるという伝承もあります。
「山彦山」というこの山の名にひっかけてもいるでしょうか。
実際には、何の鳥なのか、はっきりとはしないものの、
カッコウやヒヨドリではないかともいわれます。

「子を呼ぶ鳥」といって思い出されるのは、カッコウを題材とする昔話。
父親が、死んだ子どもを「かっちょかっちょ」と言って探すうちに鳥になった、
などの話があります。
また、「子が親を呼ぶ」話もあって、
母親を亡くした子どもが、鳥になって「かこう」と鳴いている、
という話もあります(3)

カッコウは唐突に威勢よく鳴く鳥ですが、しずかな山の奥で聞くと、
そんな親子の物語も想像できるような寂寥感があるのでしょう。
なるほど、閑古鳥ともいわれるわけです。

そうした悲話のニュアンスさえ感じられるような、呼子鳥の哀切な鳴き声が、
あるいはこの場面のBGMとなっていたかもしれません。

遠くと近くの見当さえつかない、道さえはっきりとわからない山の中、
(これからどうなるか、明日の道をも知れぬという意味合いもあるでしょうか)
別れのときにあの松浦佐用姫は、領布(ひれ)を振って石になった、それは昔のこと。
今は、馬を近づけて手を取り合い、泣きむせぶばかり。
──というような意味かと思います。

近くには、芭蕉が句を詠んだという六本松の跡があり、
西から鎌倉へ向かう旅人がここを通ったという鎌倉街道の峠です。
人目を忍んだ二人は街道を避けて、
はっきりと道とはわからない道を行ったのかもしれません。

このくだりの佐用姫のイメージからでしょうか、
おそらく十郎と虎が別れたとされる峠の地点に、現在、
「忍(しのぶ)石」といわれる石があります。
後代になって、二人をしのんだ里人が設置したと考えられるそうで、
この石に二人が腰掛けて別れを惜しんだと伝えられています。
現在は、食用のための梅林が近くにあり、農道が走るそのかたわら。
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撮影したときには、呼子鳥のカッコウは鳴いていませんでした。
カラスの声とヒヨドリの声が聞こえましたが、なかなかにぎやかで、
淋しい「おぼつかない」感じではありませんでした。

この忍石は、十郎が力試しの力石として持ち上げたそうで、
その手形(のようなくぼみ)の跡があるとのこと。
よく見ると、確かについているような気がします。
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また、この石は縁結びのご利益があり、意中の人をこよりに書いて結んでおくと
願いがかなう。
──という言い伝えもあるそうなのですが、こよりをどこへ結べばいいのでしょう?
こよりは、石の周りにも見当たりませんでした。
今は、恋心をこよりに託す純情は流行らないのかもしれませんね。
ただ、お賽銭が置かれていたのには、やはり何かしら効験あらたかなのでしょうか。
かわいらしい花も供えられていました。

この「忍石」は、曽我にいた十郎が大磯の虎のもとへ通うことが出来ない夜、
ひとり来て、ここから見渡せる海の漁り火を見ながら、虎を「しのんだ」ともいうそうです。
たしかに、このあたりからは相模湾が遠く望めます。
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あるいは一説には、仇討ちをとげて十郎が死んだ後、
虎と、十郎の母である満江御前がここに腰掛けて、亡き十郎を「しのんだ」ともいいます。
それで、「しのぶ石」というのだと(4)

実は、この「忍石」、もともとは「姥石」と「姫石」の二対あったのだそうで、
それを考えると、後者の説に軍配をあげたくなります。
今この峠にあるのは、大きな姥石の方です。
現在、ふもとの方の城前寺に移されている、小さな方の姫石がこちら。
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お寺には保育園があって、子どもたちが遊んでいたずらしたりするので、
現在は立て札などは立てていないということでした。
立て札がないと、ふつうの石と見分けがつきませんね(笑)。

こちらもやはり「忍石」という名前なのですが、
こちらの方は、十郎と虎が笛を吹いて腰掛けた石だと伝えられています。
ただ、2人が腰掛けるには、少々、サイズが小さめな気がします。

さまざまな言い伝えが付随しているわけですが、
力石、また、峠にあって結びの神でもあるという道祖神的な要素など、
虎御石の伝説と似ているところもあります。
あるいは、伝説化していく過程に、共通するものが反映しているということでしょうか。

そしてここで注目されるのが、松浦佐用姫です。
この場面で、別離に涙する虎は、
別離の悲しみのために石と化する佐用姫と重ねられているのです。

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彼女の伝説をたどると、文字としては「肥前風土記」までさかのぼれるそうです(5)
「肥前風土記」での名前は、「佐用姫」ではなく、「弟日姫子(おとひめこ)」。

時代が「古墳時代」からやがて「飛鳥時代」へ移り変わろうとする537年、
朝廷の命を受けて、大伴磐(いわ)、大伴狭手彦(さでひこ)らが朝鮮半島へ出兵します。
いわば青年将校である狭手彦は、軍を率いて朝鮮へと渡ろうと、
現在の佐賀県唐津市の篠原の村に駐留します。
そこで狭手彦は、弟日姫子と出会い、結ばれる。

※弟日姫子(=松浦佐用姫)は、篠原長者(または笹原長者)の娘で、
内陸の山間部にある現・厳木(きゅうらぎ)町の長者原(ちょうじゃばる)の館で
生まれたという伝承も伝わっています。

狭手彦は、当時は銅でできた鏡をプレゼントします。
が、いよいよ軍が出発する日がきて、別れの時が訪れる。
別れねばならないと頭でわかっていても、後を追おうとしたのでしょうか、
弟日姫子は泣きながら川を渡る。
そのとき、鏡の緒が切れて川に落としてしまいます。

やがてすでに港を離れた船を、せめて見送ろうと小高い山を駆け上り、
船の上の彼に向かって褶(ひれ)を振ります。
そうして遠くなる船の姿が水平線の彼方に消えるまで、
いつまでも、いつまでも、振り続けたということです。
それゆえ、この山は「褶振りの峯」と名付けられたのだと「肥前風土記」は記しています。
現在の鏡山です。

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この褶(ひれ=「領巾」「巾」とも書きます)というのは、
薄い布を使った細長い肩掛け──いわば「ロング・スカーフ」。
一般に女性がまとっていたそうですが、
特に「釆女(うねめ)」と呼ばれる女性たちには欠かせぬもので、
釆女の代名詞のようなアイテムだったそうです(6)
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釆女は、皇族に仕え、食事や雑事の世話をする
メイドさん的な仕事をする官職です。
が、実は、巫女的な職種であったといいます。
彼女たちがふだんから褶(領巾)を身につけて離さなかったのは呪術のためで、
神に供物を捧げたり、皇族に食事を供する上で障りとなるものを予測し、
除去するためだったといいます。
褶(領巾)は、呪術的なパワーをもつアイテムでもあったのです。

「古事記」で、オオクニヌシがピンチに陥ったとき、スセリ姫(須勢理毘売)が助けて手渡したのが、
この褶(ひれ)でした。
褶を3回振ると、獰猛なヘビも、ムカデも、ハチも、みんなおとなしくなる。
折口信夫によれば、褶(領巾)は、霊を呼び迎えるとともに、
邪悪な霊を追いはらうものでした(6)

やがて、一般の成人女性も身につけるようになり、それが盛装となり、
ファッション化していきます。
が、弟日姫子(松浦佐用姫)が褶(領巾)を身につけていたのは、
狭手彦が朝廷の使いであり、彼に仕える釆女の役割を彼女が果たしていたからだと
折口信夫はいいます。

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一途にひたすらに領巾(褶:ひれ)を振り続けた少女のイメージは、
名前を松浦佐用姫と変え、万葉集にも詠まれるようになります。
そして時代が移り変わるにつれて、伝説に次々と尾ヒレがついていくのです。

室町時代になると、佐用姫は、悲しみのあまり石に化すことになります。
連歌の本の「梵灯庵袖下集」に、「船かくれて後やがて石となりぬ」と書かれる。
もともと中国に、夫を慕うあまりに石となった「望夫石」伝説があり、
その影響による発想ではないかといわれます。

それが伝承になると、こうなります。

◎佐用姫は、領巾(ひれ)を振り続けた後、
なおも船を追いかけて、領巾振り山(現・鏡山)からドスンと飛び降りる。
(その飛び降りた足跡のついた岩が、「佐用姫岩」として今も唐津市和多田に残っています。)

◎川をジャブジャブ渡ったので、途中で濡れた衣を乾かす。
(その干した山が、今の衣干山(唐津市西唐津)です。)

◎なおも追いかけ、海岸へと出て、狭手彦の名前を呼び続ける。
(名前を呼び続けたので、この場所が「呼子」という地名になったといわれます。
そこが、現在の唐津市呼子町です。)

◎そうして玄界灘に浮かぶ加部島へと渡り、
そこで7日間泣き続け、石になってしまうことになります。
その石は「望夫石」として、現在も加部島の田島神社に置かれています。


もしも流布本「曽我物語」の作者が当時、こうした伝承を知っていたとしたら、上述の
「遠近(をちこち)のたづきも知らぬ山中に」
の箇所は、「呼子鳥」につなげて「呼子」という場所を想起させるための
一種の枕詞(まくらことば)のような意味合いになってくるかもしれませんね。

そして様々に尾ヒレのついた伝説に影響を与えているのが、あの領巾(ひれ)です。
領巾という呪術的なアイテムをかざして振る
「釆女」という、ほとんど「巫女」のキャラクターとしての佐用姫です。

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「肥前風土記」では、弟日姫子が狭手彦を見送ったその後、「蛇婿入り」話となります。
弟日姫子は、狭手彦に化けたへびに魅入られ、沼に引きずり込まれて命を落とすのです。

これは、「古事記」の三輪山神話で、へび(=オオモノヌシノ神)の花嫁となった
イクタマヨリ姫(活玉依毘売)の話に似ています。
が、彼女は、そうして神の子を生むことで、
神職を奉ずる氏族の祖先になるというハッピーエンドになります。
しかし「日本書紀」の三輪山神話では、やはりへび(=オオモノヌシノ神)の花嫁となった
ヤマトトトビモモソ姫(倭迹迹日百襲毘売)は箸に貫かれて死んでしまう悲劇となります。

昔話では、「蛇婿入り・苧環(おだまき)型」に分類されていて
さまざまなヴァリエーションがあるのですが(7)
この「肥前風土記」や記紀の伝説では、
ひとつには、“神の花嫁”である巫女の運命が語られているように思われます。
“神の花嫁”になることは、名誉なこと。
ですが、神が荒ぶるときには、その身を捧げても鎮めなければなりません。
身を犠牲にすることが、巫女の役割のようにもなっていく。

中世になると、「松浦佐用姫」という個人を離れて、
ある意味、ブランド化した「さよ姫」という名前の女性たちの伝説が各地で生まれます。
柳田國男が列挙しているのですが(8)
たとえば、現在は福島県郡山市日和田町にある蛇骨地蔵堂に伝わる話。

今は水田となってもうありませんが、かつて安積(浅香)沼という沼があり、
そこに大蛇がすんでいました。
この大蛇、実はもともと領主の娘のお姫さま。
家臣の邪しまな横恋慕によって一家を殺されるという目に合い、恨んで大蛇となり、
天変地異をひきおこす。
鎮めるために村人たちは、毎年、人身御供を捧げなければなりませんでした。
そうして32人の娘が犠牲となり、33人目は長者の娘の番となる。
そこで長者は、松浦長者の娘で今は没落した佐用姫を金で買って身代わりにたてます。
人身御供の祭壇へと捧げられた佐用姫が一心に経を唱えていると、
近づいてきた大蛇は、その功徳をもって成仏することになります。

ストーリーとしては、説経節の「まつら長者」とよく似ています。
(説経の方では、龍(大蛇)は、人柱にされた女性が恨みをもったもので、
これまで999人の人身御供の娘を取ったことになったりしています。)

こちらの話では、大蛇(領主の姫)は蛇骨を残して成仏し、
その蛇骨で、32人の犠牲者と大蛇のために33体の観音像を彫る。
それが今も蛇骨地蔵堂に伝わる三十三観音像だと伝えられています。


たとえばまた、現在の福岡県三井郡大刀洗(たちあらい)町の床島堰に伝わる話。

水不足に苦しんだ村人たちは、筑後川に堰を築き、用水路を引く工事に取り組みます。
ところが、工事は困難をきわめ、そこで人柱を立てることになります。
その人柱となって俵につめられ水底に沈められたのが、
9歳の女の子である「おさよ」でした。
沈められたおさよはその後、現われた白髪の老人の手によって生き返ることになります。

「佐用姫」「佐世」「小夜」「さよ」など、表記も呼び方もいろいろですが、
「さよ」という女性が人身御供や人柱になって水に沈むという、伝説のヴァリエーションが
九州から東北まで各地に伝わっているというわけです。

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「さよ」は、高貴な出であったり、長者の娘ともいわれ、
また、遊女であるともいわれます。

世阿弥作の謡曲「松浦」では、名を「小夜姫」という遊女であり、
狭手彦からもらった鏡を抱いて海へ入水自殺をすることになっています。
その小夜姫の幽霊が、諸国行脚の僧に物語を語り伝えるという筋立て。

そもそも朝廷から来た狭手彦の接待をするという“釆女”的な立場は遊女に近く、
また、折口信夫にいわせると、巫女と遊女とは、
それほど遠い関係というわけではなかったようです(9)

巫女は口寄せをして、神語りをするわけですが、その語りから、
物語が生まれ、歌が生まれ、舞が生まれたとする説があります。
歌舞を奉じる巫女が、民間へ下ると、歌舞の芸を売る遊女ともなります。
そして時代とともに、巫女のように口寄せをしたり、神事を行ったり、
遊女のように歌舞を行ったり、物語を語る女性たちが、
各地を歩き、遊行するようになります。

彼女たちは、たとえば水害に苦しむ地域では、水難除けを祈念したり、
橋や灌漑の工事をしている地域では、その安全と成功を祈念して、
神事をとり行ったり、歌舞を奉じて、演じたりもしたことでしょう。
時には、謡曲や説経や伝承に伝えられているような人身御供の物語を演じたかもしれません。
その演じた女性の印象が、各地の「さよ」姫伝説につながったのではないか、
というのが、柳田國男の論です。
彼らは、道祖(さえ)の神を奉る人々でした(8)

高貴の生まれとも、長者の娘とも、遊女ともいわれ、その実、正体は定かでなく、
道祖(さえ)の神信仰ともどこかしら脈略がありそうで、
松浦佐用姫が石になったごとく、自身も石になったといわれる虎御前。

何か、匂いそうな気がしてきます。

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《引用・参考文献》
(1)佐々木信綱・久松潜一・竹田復監修「曾我物語 下」いてふ本刊行会
(2)佐伯梅友校注「古今和歌集」〜「日本古典文学大系8」岩波書店
(3)関敬吾「日本昔話集成・第一部動物昔話」角川書店
(4)立木望隆「城前寺本 曽我兄弟物語」曽我兄弟遺跡保存会
(4)近藤直也「松浦さよ姫伝説の基礎的研究 古代・中世・近世編」岩田書院
(5)佐伯順子「遊女の文化史」中央公論社
(6)折口信夫「宮廷儀礼の民俗学的考察ー釆女を中心としてー」〜「折口信夫全集・第16巻」中央公論社・所収
(7)関敬吾「日本昔話集成 第二部本格昔話」角川書店
(8)柳田國男「妹の力」〜「柳田國男全集11」ちくま文庫・所収
(9)折口信夫「巫女と遊女と」〜「折口信夫全集・第17巻」中央公論社・所収

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石をめぐる5つの伝説


「小栗判官照手姫」の絵解きを聞いて、瞽女が淵を訪ねてみると、
もうひとりのヒロインが気になってきました。
虎御前。
「曽我物語」の主人公、曽我ブラザーズの兄、十郎の恋人です。

「小栗判官」のヒロインの照手姫が、照手といわれた語り手であったように、
「曽我物語」のヒロインの虎御前もまた、物語の語り手であったといいます。

照手姫は、貴族の出とも、横山大膳の娘とも、遊女ともいわれましたが、
虎御前もまた、貴族の落とし胤とも、長者の娘とも、遊女ともいわれます。

そして2人とも、出身は関東、相模の国の東海道沿い。
照手の生まれた藤沢から、虎御前の生まれた大磯までは、
江戸の東海道でいうと、宿場2つめの距離。
今のJR東海道線でいうと、駅4つめの距離です。

「曽我物語」は、曽我ブラザーズが、殺されたお父さんの仇を討つ物語です。
お父さんの名は、河津三郎祐泰(祐重と語る話もあるようです)。
河津三郎は、殺される前、狩り場の余興で、相撲をとりました。
そのとき、元祖「河津掛け」の決め技で勝った相手が、俣野五郎景久。
「平家物語」にも登場する武者です。

花應院や遊行寺周辺の住所である「俣野」は、その俣野五郎が住んだ場所でした。
その子孫には、俣野五郎景平がいて、彼は遊行上人4代目の呑海上人のお兄さん。
呑海上人が俣野に遊行寺を開いたときに助力したといわれています。

つまり、「小栗判官」と「曽我物語」という2つの物語の舞台となった土地は、
ご近所同士で、何かとつながりがあるわけです。

2つの物語は時代も異なり、直接的な関連はないかもしれませんが、
中世の時代が生んだ伝説的なヒロインとして、照手と虎御前の境遇や面影には、
どこか似通っているようなところが見えます。

そこで他日、足を伸ばして、大磯を訪ねてみることにしたのでした。

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江戸の頃、弥次郎兵&北八が、わいわいおしゃべりしながらの「東海道膝栗毛」珍道中、
大磯を通りかかって、北(きた)さんが狂歌を一首。

「此(この)さとの虎は薮にも剛(こう)のもの おもしの石となりし貞節」(1)

当時は、
「野夫(やふ/やぶ)にも功の者」(=田舎者にも手柄を立てるやつがいるもんだ)
という、ことわざみたいな語句があったんだそうです。
それを薮にひそむ虎にひっかけ、
さらに「香の物(漬け物)」と「おもしの石(漬け物石)」にひっかけてる。

この里の虎というのは、田舎者出身にしては、なかなかの女だ。
貞節を誓って、石になってしまったというんだから。──というんですね。
大磯の虎が、恋人・曽我十郎の死を悲しんで石になったという伝説は、
江戸の当時には、観光的な風物にもなっていたようです。

すると弥次さん、返して詠むには、

「去(さり)ながら石になるとは無分別 ひとつの蓮(はちす)のうへにや乗られぬ」(1)

落語家・古今亭志ん生師の「品川心中」で、心中をしようと誓った二人が、

「そうだ、あの世で一緒ンなろう、蓮の葉の上で所帯をもとう」
と、アマガエルみたいな料簡ンなって……。


という場面があります(2)
極楽へいった恋人たちは、睡蓮の葉っぱの上で寄り添うものと相場が決まっていたのでしょう。
せっかくあの世でいっしょになっても、石になったんじゃ蓮の葉に乗れないよというわけです。

そんな弥次さん北さんに詠まれた石がこちら。
小石くらいの石ころなら蓮の葉っぱにも乗っかるでしょうが、
確かにこれほどの大石となると、無分別といわれてもしかたがありません。
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JR大磯駅から徒歩5分くらいにある延台寺に伝わる「虎御石」です。
本来は拝観のみで、撮影は不可なのだそうですが、
お寺の方にご許可をいただきました。

どうやら、この石には、さまざまないわれがあるようです。


その1「石はイケメンが好き」伝説

力石(ちからいし)というのは、力試しをするための大石です。

下の写真は、延台寺からそう遠くない大磯の高来神社の境内にある力石。
大磯海岸の漁師たちが力持ちの名誉をかけて持ち上げようと競ったんだそうです。
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筆者も踏ん張ってみたんですが、数センチずらすのがやっとでした。
こうした力試しは一種のスポーツみたいな楽しみでもあったようで、
全国各地に伝わっています。

ところが、延台寺の虎御石の方は、ひと味違います。
「よき男のあぐれはあがり、あしき男のもつにはあがらずという、
色好みの石也…」
(柳亭種秀「於路加於比(おろかおい)」)
と言われていたのだとか(3)

どんなに怪力であろうと、いい男でなければビクともしない。
たとえ「金と力はなかりけり」でも、色男なら、ひょいひょい持ち上がるというんですね。
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旅人が試しているこの絵では、道端に置いてあることになっています。
形状も違いますね。
画家が、うわさをたよりに想像して描いたか、
あるいは、茶店が客寄せのために置いたにせものがあったのではないかといいます。
お寺の方の話だと、実際の虎御石は移動させるのにもおとな5〜6人がかりだそうです。

石が「色好み」というのは、虎御前が遊女であったことから派生したうわさとも思われます。
が、その起源は、力石に霊力が宿ると考えた古代の人たちの
石占(いしうら)という占いにあるのではないかという説もあります。

柳田國男によると、奈良の大峰山龍泉寺に、「オイトシボ石」というのがあって、
踏みつけてから持つと重くなり、撫でてから持つと軽くなるというそうです(4)
こちらの石は、「いい男」よりもやさしい人が好みのようですね。
現在は「なで石」と呼ばれています。

「オイトシボ」という言葉が何を意味するのか、
大阪・住吉大社の「おいとしぼし社」とも関連がありそうです。
こちらで祀られている石は「重軽(おもかる)石」といい、
昔飛んで来た隕石だという俗説もある。
2回手に持ち、2回目が1回目より軽く感じたら願いがかなうという占いをするそうです。
恋占いとして今も人気なのだとか。

ただ、大磯の虎御石は、いい男の前だと軽くなっちゃうだなんて、
石なのにちょっとかわいく思えてきます。
筆者も撮影のとき、お寺の方の目さえなければ、片手でちょいと持ち上げてみせたんですが。


その2「石は成長して大きくなった」伝説

延台寺に伝わる「虎御石畧縁記」によると(3)
相模の国は淘綾(ゆるぎ)の郷に、名を藤原実基という人が住んでいて、
山下長者と呼ばれていました。
その長者屋敷の跡と伝えられているのが、ここです。
現在は、神奈川県平塚市山下。
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その山下長者、子どもがいなかったため、近くの虎が池弁財天にお参りしたところ、
一個の美しい石を授かり、ほどなくして女の子が生まれます。
「虎」と名付けられたその子が、後の虎御前。

弁財天は、明治の頃まで、現・大磯町東町の池の中島にあったといいます。
今は池も埋め立てられ弁財天もありませんが、その碑が、延台寺の境内に移されています。
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弁財天に授かった石は最初は小さかったそうで、あるいは蓮の葉にも乗ったかもしれません。
ところが不思議なことに、お虎ちゃんの成長とともに
ずんずん大きくなって、今のような大きさになったというのです。

こうした生き石伝説は各地にあるそうで、
たとえば、「君が代」で歌われる「さざれ石」もそのひとつ。
小石=「細(さざれ)石」が、だんだん大きく成長して、
巨大な岩=「巌(いわお)」になると考えられています。
やはり石には霊力があって生きているということなのでしょう。


その3「石が身代わりとなって命を救った」伝説

美しく成長したお虎さんは、歌舞に優れていたため、高貴な人々の宴席に招かれることも多く、
そこで曽我十郎祐成と知り合います。

以上までの経緯を真名本の「曽我物語」では、
◎藤原基成の乳母の子である宮内判官家長と、
平塚宿の遊女・夜叉王との間に生まれた子が虎である。
◎大磯宿の遊郭の主人(=長者)である菊鶴にもらわれ養育された。
──と説明します。
(「長者」は、一般に「富裕者」のことをいいますが、
「撰集抄」などでは遊女の長である女性のことをいっています。
が、遊女の長(おさ)であるということで、遊郭を運営する主人も
長者と呼ばれたようです。)

仮名本(流布本)の「曽我物語」では、単に山下長者の娘であり、遊女であるとし、
藤原実基の「一夜の忘れ形見」としています(5)
いずれにしろ、虎は十郎と恋に落ち、彼の仇討ちの宿望を知ることとなります。

やがて、仇である工藤祐経は、兄弟の不穏な気配を察知して、
十郎が足しげく訪れる山下長者の屋敷へ刺客を放ちます。

闇に乗じて刺客が十郎を弓で射かけ、もうひとりがとどめとばかりに太刀を浴びせかける。
ところが、矢は弾かれ、刀は歯がたたず、驚きあわてた刺客たちは逃げ帰ります。
そして翌朝見ると、十郎の身代わりとなった石には、
矢傷と刃傷の跡が穿たれていた──。
と、「虎御石畧縁記」には記されています(3)

見ると、確かに傷の跡がくっきり。
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ところが、この形、改めて見直してみると、
実は、エロティックなものであることに気がつかされます。


その4「石は陰陽石である」伝説

この石は、陰陽石であるといいます。
すなわち、男根形の石に7つの女性性器がついている。
陽石と陰石が一体となったかたち。
全体は平べったいものなので気づきませんでしたが、
真横から見ると、なるほどです。
ただ、7つというのは無理があるように思え、
筆者には、男女一対のもののように見えました。
陽石のかたちは、天然の自然による造詣のように、
陰石のくぼみは、人工的に彫られたもののように、
素人目には思われました。

▼「虎御石畧縁記」の図を模写
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陰陽石の多くは、道祖神信仰として祀られているものです。
賽の神、塞の神、どうろくじんなどなど、様々な呼び方をされる、
いわゆるサエの神。

ところで、大磯海岸には、セエノ神サンの火祭り、「左義長」が伝わっています。
地方によっては「どんど焼き」とか「三九郎」などとも呼ばれ、
福島や富山では、「サイノカミ」というところもあるように、道祖神のお祭りとされます。
(神奈川県で行われているのは、ここ大磯1カ所だそうです。)

1月14日、浜辺に、天高く立てた竹を中心にしてお正月飾りの門松やワラを積み上げる。
各町内が作る、この塔のような飾り物を「サイト」というそうです。
「サイト」とは、穢れをきよめ、魔をはらう火、「斎灯(さいとう)」のことで、
それが修験道に入って「柴灯」などと書かれるようになったのではないかと
五来重さんはいいます(6)
魔をはらう火。
夜になるとこのサイトに火が放たれ、燃え上がる。
この火で焼いただんごを食べると風邪をひかないのだそうです。

今でも毎年行われている名物行事ですが、簡略化されているとのこと。
戦前はもっと盛んで、祭りは前の年の12月8日から始まったそうです。
子どもたちが「ゴロ石」と呼ばれる石を縄で結んで持ち歩いて町内を回る。
未婚の男女がいる家にくると、
年長の子がそのゴロ石を地面にたたきつけ、
「○○さんにいいお嫁さん(お婿さん)が来るようにっ! 一番息子!」
と叫ぶ。
そして「二番息子」「三番息子」と他の子どもたちが言いはやしたそうです。
そのゴロ石が、陰陽をかたどったものだというのです(7)(8)

もちろん、「虎御石」と「ゴロ石」を単純に結びつけることはできません。
が、「虎御石」は、さまざまに形を変えてきた道祖神信仰のその原始的な部分と
何かしらつながりがあるのではないかとも思われてきます。

※「ゴロ石」は、五輪塔の「五輪石」が起源だという説があります。
形状を見ても、真ん中が少しくびれた短い棒という素朴なもので、
必ずしも陰陽を想起させるものではないように思います。
が、山崎省三さんが書かれていたように、「陰陽をかたどる」という
宗教的な意味合いにつながる要素があるかもしれません。


その5「虎御前が石に変身した」伝説

さてそして、虎御前がこの石になったのだという伝説。
実は、この伝説が伝わるのは、大磯だけではありませんでした。
虎御前は、全国各地に足跡を残し、九州にまで足を運んでいるというのです。
そして、虎が化した石というのが、各地に残されていたりする。

柴又帝釈天の寅は日本中を旅して歩いたものですが、
虎が池弁天の虎もまた、旅して歩いたらしいのです。

はたして、虎御前とは何者だったのか?
謎は、いよいよ深まるのでした。

▼延台寺に伝わる虎の木像
(お寺の方に許可をいただき、撮影させてもらいました)
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《引用・参考文献》
(1)十返舎一九「東海道中膝栗毛」〜中村幸彦校注「日本古典文学全集49」小学館・所収
(2)古今亭志ん生「品川心中」〜飯島友治編「古典落語 志ん生集」ちくま文庫・所収
(3)延台寺護持会編「宮経山延台寺縁起」
(4)柳田國男「巫女考」〜「柳田國男全集11」ちくま文庫・所収
(5)佐々木信綱・久松潜一・竹田復監修「曾我物語 上」いてふ本刊行会
(6)五来重「石の宗教」講談社学術文庫
(7)大磯町編「おおいその歴史」
(8)山崎省三「道祖神は招く」新潮社

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そして物語はつくられた


実は絵解きの当日、始まる時間に遅刻しそうになり、あわててタクシーをつかまえたのでした。
その運転手さんが、やたら地元の歴史にくわしい。
義経伝説や、藤沢宿の遊女を弔ったお寺、化粧地蔵のことなどいろいろ教えてくれながら言うには、
「このあたりは昔から豊かなところでねえー」。

お米もよくとれたんだそうです。
なるほど近くに川があり、水に困らない。
また、川の運んでくる土砂が、肥沃な土地をもたらしていたのでしょう。

「ただ、水害にはずいぶん悩まされたようだね」。

その境川。
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今でこそまっすぐ、護岸工事もきっちり、まわりの用水路も整備されています。
が、昔は蛇行する川がよく氾濫したんだそうです。

そんな1847年、江戸は幕末の頃、ここを訪れた旅の浪人が、
水難を鎮める人柱として、川に身を投げ自殺する。
村人たちは手厚く葬り、水難除けの石仏を建立。
「土手番さま」と呼ばれるその石仏がこちらです。
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その隣りにあるのが、瞽女(ごぜ)が淵の碑。
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1673年。
といいますから、説経の正本「おぐり」が刊行される2年前の江戸時代前期の頃。
川が蛇行して出来た池に、ここを通りかかった瞽女さんが落ちて溺れ死んでしまう。
あわれんだ村人たちは、池を埋め立て、ここを「瞽女が淵」と名付けます。
が、その後も川はたびたび氾濫して地形も変わったようです。

2012年の今年、1月16日の花應院・閻魔祭では、ご住職が今も
瞽女さんとご浪人を手厚くご供養しておられました。

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瞽女は、盲御前(ごぜん)から「ごぜ」と呼ばれるようになった女性の旅芸人。
「耳なし芳一」などで知られる琵琶法師は、琵琶を弾いて物語を語った盲目の僧ですが、
瞽女もまた盲目で、主に三味線を弾きながら唄い、語りました。

盲目であっても、グループで助け合いつつ、年中旅を続ける彼女たちは旅のベテランで、
少々の悪路には慣れていたでしょう。
うかつに水にはまるとは考えにくい。
不幸な事故であったとしても、
そうした水の事故というのは、目の利く周辺の住民のあいだでも、
そうそう珍しいことではなかったのではないでしょうか。
それが、語りぐさとなり地名となり、大正時代にはこの石碑が建てられたのには、
何かしらの理由があったように思います。

不幸な魂がたたりを為して災いをもたらす。
そのため、災難を回避するため、魂を鎮め、慰めようとする。
これは日本の各地の習俗に見られます。
水害にたびたび苦しめられていた村人たちの中にはそうした気持ちもあったでしょう。

また、人柱を志した浪人がわざわざ瞽女が淵を選んで身を投げ、
同じ場所に「土手番さま」と「瞽女が淵碑」が並んでいるというのも
何かしらの脈絡があるようにも思われます。

柳田國男は、道祖(さえ)の神を奉じて、芝居がかって舞いを踊る遊行の巫女が、
人柱となって水難を鎮める「さよ」姫伝説につながったのではないかといいます(1)
もしかしたら、やはり遊行の徒であった瞽女と関連があったりするのでしょうか。

あるいはまた、村人たちの中に、瞽女さんに対する
独特なシンパシーがあったということなのでしょうか。
瞽女が語り唄う物語を村人が歓迎し、時には涙を誘われ、親しんでいた文化があったからこそ、
この事故を語り伝えてきたということもあるかもしれません。

いずれにしろ、当時、瞽女さんたちがこのあたりを往来していたということは確かのようです。
そして彼女たちのレパートリーの中には「小栗判官照手姫」の物語もありました。

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改めて周辺の地図を見直してみると、
関連史跡の多くが、国道1号線、つまり東海道の道沿いにあることに気づきます。
しかも、近くにかまくらみちが通っており、
このあたりは交通の要(かなめ)でした。
旅人が行き交っていた。
その中に瞽女さんの姿もあったのでしょう。
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江戸の頃には、説経などを通して「小栗照手」の物語は人々の中に定着していたと思われます。
むしろ古くさいと思われていたかもしれません。
それがフィクションであっても、物語にまつわる話が伝説化していた。
ここを通る旅人は、この土地に伝わる伝説やうわさも、
旅のみやげ話として方々へ拡散させたことでしょう。

ただしかし、江戸以前、この物語が生まれたと考えられる中世にはまだ、
国道1号線にあたる東海道はありませんでした。

近くを通るかまくらみちを北上すると、
瀬谷(現・横浜市瀬谷区付近)へと至り、
鎌倉街道のひとつともいわれる中原街道にぶつかります。
中世には、この中原街道がメインとして使われていたようです。
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さらに北には、律令時代の東海道が平行して走り、
小高駅(現・川崎市中原区小田中付近)あたりで中原街道とほぼ交わります。
(ここに多摩川を渡るための「丸子の渡し」場があります。)
この古代の東海道の道の先が、
常陸の国の国府(現・茨城県石岡市)へとつながっている。
その国府から筑波山をはさんだ向かい側に、
小栗城のあった小栗村(現・茨城県筑西市小栗)があります。

小間物屋・後藤左衛門は、このルートを行き来して商売をしていたのでしょう。
そして常陸の小栗と、相模の照手の橋渡しをすることになる。
あるいはまた、小栗城の落城後、小栗満重の子、小次郎助重は、このルートをたどって
三河の国へ落ち延びて来たかもしれません。
その途中で、相模の国のこのあたりを通りかかった。

その常陸の国と相模の国が、物語としてどうして結びついたのか?
──国文学・民俗学の福田晃さんが、興味深い説を展開しておられます。

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青森・恐山で有名な東北地方の「イタコ」という巫女の人たちがいます。
「口寄せ」といって、死霊や生霊、ときには神仏の霊を自分の体に乗り移らせて
その霊の言葉を語るものです。

日本では、古くからこうした口寄せが行われてきました。
「古事記」では、シャーマンでもあった神功皇后が、
住吉大神の口寄せをする場面があったりします。
そして時代が下ると、「歩き巫女」「遊行巫女」と呼ばれるような女性たちが、
各地を旅しながら口寄せをしつつ、託宣をしたり、祈ったり、勧進をしたり、
そして芸を披露したりするようになります。

中には、戦場となった場所や、災害の被災地に留まり、
報われなかった死者の魂の声を語り、供養する女性たちもいました。
恨みを残し、不幸な死を迎えた魂たちは、怨霊となってたたりをなし、災いをもたらすため、
慰め、鎮めなければなりませんでした。
「怨霊」を「御霊」へと変える。
いわゆる「御霊信仰」です。

常陸の国の「小栗満重の乱」で、満重らが非業の死をとげたとき、
その死者たちの言葉を語り、その霊を慰めた遊行巫女がいたのではないか。
と、福田晃さんはいいます。
そして死者たちの言葉が、物語化していくようになる。
「平家物語」は、滅亡した平家の霊を慰めるために琵琶法師が語ったものですが、
「小栗判官」の物語もまた、小栗の霊を慰めるために、
巫女が語ったのが始まりではないかというのです。

遊行巫女たちは「照日」「朝日」「万日」、そして「照手」というような呼び方をされました。
その彼女たちが拠点とした場所が、太陽寺の前身になったといいます。
太陽寺は、現在廃寺となっていますが、
茨城県筑西市の小栗城跡の小山からすぐ近くの井出蛯沢にありました。
その小栗の郷は、伊勢神宮領。
伊勢神宮が所有し、管轄していた荘園でした。
巫女たちは、伊勢神宮ゆかりの神明巫女であったのです。

一方、藤沢には、大庭御厨(おおばみくりや)という広大な荘園がありました。
茅ヶ崎市・藤沢市にまたがる広大さで、
遊行寺や花應院周辺の俣野や上野が原もすっぽり含まれています。
大庭御厨には、馬を放牧させて飼う牧(まき)も5〜6カ所あったそうで、
鬼鹿毛山もそのひとつだったかもしれません。
その大庭御厨が、平安末期、鎌倉景政によって寄進された伊勢神宮領だったといいます。
そこにもまた、伊勢神宮ゆかりの神明巫女がいた。
小栗と大庭には連絡があったというわけです。

やがて、藤沢の俣野に時宗の道場が開かれます。
時宗の開祖・一遍は、ブッダと同じく、出家してより後は遊行に生き、
遊行の途で息をひきとり、最後まで寺という定住の地を持ちませんでした。
方々を旅し、善光寺や四天王寺などで修行した後、
熊野本宮で夢のお告げを得て時宗を開いています。

その志しを継いで、後年、呑海上人が俣野に道場を開くわけですが(後の遊行寺)、
だから神仏習合で、熊野権現を奉っている。
そのとき、その地の神明巫女が習合され、
念仏比丘尼と称されるようになったのではないかといいます。
神道ではなく、仏教の呼び名となった。
各地を遊行しながら、戦場や野辺の死者を弔った時宗の徒である「時衆」たちは
遊行巫女に近しい存在であったでしょう。

小栗の物語には、時宗が色濃く反映されています。
主要な脇役のひとりとして遊行上人が登場するだけではありません。
たとえば、小栗が地獄から帰ってきて名付けられた「餓鬼阿弥陀仏」というネーミングも
時宗っぽいのだそうです。
時衆たちも、物語の生成に大きく関わっていたとされます。

小栗の地の神明巫女が語る小栗御霊の話が、大庭の神明巫女に伝えられる。
そしてそれが念仏比丘尼へと受け継がれる。
そこへ、大庭御厨の牧にいた馬(鹿毛)というモチーフがとり入れられる。
そうした「初期の語りを、世間話ふうに事実譚として伝えていた」のが、
あの「鎌倉大草紙」の物語ではなかったか。
というのが、福田晃さんの説です(2)

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そしてさらに、旅をして歩く遊行巫女や、比丘尼、時衆の僧たちによって、
やがては説経師たちによって、物語は各地を運ばれながら発展していきます。

たとえば、相模川に流された照手は、現在の横浜市金沢区・六浦近くの浜に流れ着きます。
ふつうに考えれば、
相模川が注ぎ込む相模湾に面する鎌倉や逗子に漂着してもよさそうなものです。
反対側の東京湾に面する六浦へと至るためには、
三浦半島をぐるっと周回しなければなりません。

まあ、しかし、当時、港として栄え、知名度のあった六浦が物語の舞台となるのは
当然ともいえます。
が、福田晃さんは、照手の物語を伝える六浦の専光寺(千光寺)の存在を指摘しています。
長生院の「小栗小伝」にも、
「此地に日光山専光寺といふ観音の霊場あり」
と、わざわざ紹介されているお寺です。
そこの観音さまが照手を救うことになる(3)
(※「小栗小伝」では、照手は走って逃げた後に追っ手につかまり、
現・横浜市金沢区を流れる侍従川へ投げ込まれ、六浦へ流れ着くことになっています。)

この専光寺は、海難事故などで海岸に流れ着いた死者を弔っていたところで、
ここに死者の声を聞き慰霊する神明巫女、比丘尼が関わっていた。
さらに時宗とも関連があったのではないかと福田晃さんはいいます(2)


また、照手が売られて下働きをする(別の話では遊女となる)美濃の国の
青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓町)。
ここは、歩き巫女ともつながりのある
傀儡子(くぐつ)といわれる旅芸人の伝承が伝えられるところです。
歌舞の芸をして歩いた遊女もここにいました。
後白河院に気に入られた遊女が、この美濃(青墓)に滞在した来歴のあったことが
「梁塵秘抄」に記されたりしています(4)
遊行巫女や遊行僧、遊行比丘尼も、頻繁にこの宿を行き来していたことでしょう。

さらに、土車の小栗を照手が引いて歩いた二人の道行きの終着点、関寺。
ここは、百人一首で、
「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」
とうたわれた逢坂の関にあるお寺です。
歌の作者、蝉丸は、盲目の琵琶法師であり音曲の名人であったとか、
はたまた乞食であったともいわれる人物。
芸の神さまとして蝉丸神社にまつられています。
その蝉丸を慕って、関寺は、旅をして歩く説経師たちの聖地となりました。
遊行の巫女や比丘尼たちも立ち寄ったことでしょう。

つまり、旅をする語り手たちが、当時行き来していた場所や、ゆかりのある場所を舞台として
物語が発展し、つむがれていったと想像されるのです。

※参照:「小栗照手に関する全国伝承マップ」(googleマップ)

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そして、道行きのゴールは、小栗がその湯につかって蘇生した熊野。
京都、大阪から熊野三山へ至る熊野街道は、物語にちなみ、小栗街道といわれました。

熊野権現のお告げによって開かれた時宗の徒である念仏僧や念仏比丘尼にとって、
熊野は当然、関係の深い場所でした。
特に、時宗が熊野の勧進権を独占するようになってからは、
「熊野比丘尼」と呼ばれる女性たちが、勧進をして国々を回るようになります。
その前身は、山伏の妻の巫女か、時衆の比丘尼ではなかったかと
五来重さんは推察しています(5)
遊行の巫女や比丘尼が熊野比丘尼となった。

彼女たちは、勧進──つまり、熊野三山への信仰を勧め、
神社への寄付金を募って、絵解きをしたり、歌を歌ったといいます。
それは同時に、熊野詣(もうで)の観光案内とPRの役目も果たしていました。
熊野比丘尼たちが行った絵解きの中に
「熊野那智参詣曼荼羅」という絵があるのですが、
それはさながら、“熊野参詣のためのガイダンス”というべきものです。
「熊野にはこんな場所がある」「こんなご利益がある」と案内されているうちに
「わたしを熊野へつれてって」と行ってみたくなる。

どんな病気でも熊野の湯で治ってしまうというこの小栗の物語もまた、
観光PRにはうってつけであったでしょう。

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ただ、熊野は峻険な山であり、
軽い物見遊山のノリで気軽に立ち寄れるところではなかったようです。
それでも多くの人々が、熊野を目指しました。
救われると考えたからです。

熊野勧進をするときに時衆がつかったキャッチフレーズは
「不浄をきらわず」
というものだったそうです。
「黒不浄」といわれる死のケガレもきらわない。
「赤不浄」といわれる産褥や月経のケガレ、つまり女性であることもきらわない。
そして、身分が最下層であってもきらわず、
社会的に白眼視されるような病気であってもきらわない。

「小栗判官」と同じ説経のひとつに、「信徳丸」という物語があります。
主人公の信徳丸は、義母に憎まれ呪いをかけられたために、
両目がつぶれて「人のきらいし三病者」となり、家を追い出され捨てられる。
「三病」とは、必ずしもハンセン氏病とは限らないが、
一般にハンセン氏病のことをいう──と、注にあります(6)

しかし、「人のきらいし」病気でも、熊野権現はきらいませんでした。
観音さまが告げていうには、熊野の湯に入れば病気は治る。
そこで信徳丸は、足元もおぼつかない体で熊野を目指します。
ストーリーとしては、結局、信徳丸は熊野には赴きませんでした。
けれど、熊野という地は、半ば死人である小栗を受け入れたように、
どんな病者も受け入れたところであったことがわかります。

五来重さんはこう書かれています。
「おそらくこの小栗街道には数多くの癩者が鼻も耳も頬もくずれおちて、
唇だけはれあがった顔を白布につつんで
ただ一縷(いちる)の熊野権現のすくいを無理にも信じようとしながら、
たどっていたことであろう。
小栗判官のように足腰も糜爛(びらん)し去って躄(いざり)になったものは、
箱に丸太を輪切りにしただけの車輪をつけた土車に乗り、
道行く人に引いてもらうか、自力で下駄をはいた両手で這うように
山坂をこえていったらしい。」
「熊野ではたびたびそのような患者が中辺路をあるいていた記憶を、
老人からきくことができた。」
(5)

そしてその姿は、「一遍聖絵」の絵巻の中に描かれているというのですが、
なるほど、見ると描かれています。

▼一遍聖絵(一遍上人絵伝)部分
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映画「もののけ姫」の作中、エボシ御前のタタラ場で顔に布を巻き、
「業病」といわれていた人々の姿です。
(もっとも病気ではない非人の人々もこうしたかっこうをしていたといいます。
ただ、非人の中には病気の人も多く、見分けがつけにくいそうです。)

社会からも家族からも疎外されたそうした人々とともに一遍は旅をしました。
そしてそうした人々を、熊野はこころよく受け入れていた。

──リアルだったのです。
小栗判官が地獄から戻って土車に乗って熊野へ旅するという、
おおよそ荒唐無稽と思われたその光景は、実はリアルなものだったのです。

業病の人たちは、人の目に触れぬよう、街道や表通りを避けて旅をしたといいます。
太平洋戦争の頃、四国の山中、人の通らないような険しい山道を、
業病の老婆が旅していたという農民の目撃談を、宮本常一が聞き書きしています(7)
が、あえて人の目にさらされる道を行くことを選ばざるを得なかった人もいるかもしれません。
歩くことが出来ず、土車を使うとすれば、
整備された、けれど人目につく道を行かなければならなかった。

街道を歩き、名もなき道を歩き、熊野へ足を運んだ比丘尼や説経師たちは、
昭和という時代に熊野の老人や四国の農民が目撃して記憶していたように、
そんな光景を、幾度となく目にしていたのではないでしょうか。

社会の底辺にあった彼らの視線は、病者の心情に寄り添っていたかもしれません。
それが、小栗の物語となり、物語る“語り”の表現になった。

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小栗をめぐってつむぎ出されたいくつかの物語は、
その核に史実を持っていたとしても、非現実的なフィクションです。
しかし、物語の中で小栗や照手が直面した試練──
盗賊に殺される。死にかける。
病気にかかってやせ細り、異形のものとなる。歩けなくなる。
いわれのないイジメにあい、折檻される。
人買いに売られる。
重労働で休みなく働かされる。
──これらの苦難は、当時の語り手や、その語りに聴き入った民衆にとって、
心情的にも身近な、非常にリアルなものだったのではないでしょうか。

「照手」と呼ばれた語り手であった巫女が、作中のヒロインとなった。
こうして語り手が物語の登場人物となるパターンは、「曽我物語」などにも見られるものです。
物語が成立してかたちを整え、出来上がってから後の時代になっても、
語り手は、作中人物に自分を投影していたでしょう。

これは、説経の物語に多いのですが、ヒロインは、苦難にめげず、
恋人にひたすらつくし、つくしぬいて、最後には神仏のおかげで救われます。
そんな「照手姫」の物語を切々と語った語り手たちは、自身もまた、
いつか救われることを願っていたのではないでしょうか。

身分低く、時には乞食とさげすまれ、時には盲目や病気といった障害を背負い、
厳しい旅を続けた遊行の巫女や比丘尼、僧や説経師であったら、なおさら、
ヒロインが救われることを切実に願ったに違いありません。

藤沢の瞽女が淵に沈んだ瞽女さんも、
おそらくは、そんなひとりであっただろうと思います。







《引用・参考文献》
(1)柳田國男「妹の力」〜「柳田國男全集・11」ちくま文庫・所収
(2)福田晃「中世語り物文芸・その系譜と展開」三弥井書店
(3)「小栗小伝」(〜小川泰二「我がすむ里」藤沢市文書館蔵に写し書かれたもの)
「白旗神社ホームページ」内・藤沢市史料集2/「我がすむ里・巻の中」のページ
(4)西郷信綱「梁塵秘抄」筑摩書房
(5)五来重「熊野詣 三山信仰と文化」講談社学術文庫
(6)「信徳丸」〜荒木繁・山崎吉左右編注「説経節」東洋文庫・所収
(7)宮本常一「忘れられた日本人」岩波文庫

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物語の伝説を歩いてみる


小栗が地獄から舞い戻ってきた塚(=墓)は、「上野(うわの)が原」にあったと
説経では語られていました。
上野が原は当時、風葬のように死体がそのままにされて置かれているような
荒涼とした場所だったようです。

手元の地図ではわからないのですが、藤沢市今田に、上原というところがあるそうです。
が、今田や西俣野あたりの広い地域を「上野が原」と呼んだという説もあり、
今田からはややずれたその西俣野に、①「小栗塚跡」の碑があります。
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伝説によれば、小栗塚のてっぺんにはくぼみがあった。
不思議なことに、そのくぼみをいくら埋めようと土を盛っても、
いつのまにかまたくぼんでしまったそうです。
埋めた土はどこへ吸い込まれてしまったのか?
くぼみは、地獄に通じていたのでしょうか。

今は、その塚もくぼみもすっかり整地されて、福祉施設が建っており、
その塀の道路脇に碑だけが残されています。
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おそらくはこの場所で、カラスが群れて鳴き騒ぐ中、
塚が四つに割れて小栗が息を吹き返したのでしょう。

土まみれのその体の土ぼこりを小栗がはらったという「土震塚」が
道路をはさんだところにあるというのですが、筆者にはわかりませんでした。

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この近くに花應院、そして小栗が建てたという②閻魔堂の跡があります。
今は花應院におわしますあの閻魔大王像が元いらっしゃったところです。

明治の頃、火災で焼失したというそのお堂の跡は、
今は林に囲まれた小さな敷地になっていて、小栗の墓といわれる石塔もありました。
小栗判官のものといわれる墓は、こちらの他にも全国にいくつかあるようです。
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この西俣野から、境川を渡って今は横浜市戸塚区へ行ったところに、
あの“人喰い馬”鬼鹿毛を飼っていた原があったという④「鬼鹿毛山」があります。
現在は、老人ホームが建っている裏山あたり。
そこには、「鬼鹿毛坂」という坂もあったそうです。

鬼鹿毛は、説経では、
あたりに食った人間の骨や毛が散らばっていたと描写される人喰い馬です。
が、近松門左衛門の浄瑠璃ヴァージョンでは、ずっとソフトナイズされていて、
「人喰い馬」ではあるけれど、三国無双の名馬。
「春は梅花の香をくらい、夏は卯の花あやめ草。
今は折りから秋草の露をそのまま秣(まぐさ)に飼う」
(1)
と、花の香りや露を食する風流ぶりを見せています。
昔は、そんなのどかな草花が咲いていた山だったかもしれません。

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参照:小栗判官照手姫をめぐる藤沢市周辺(googleマップ)

その鬼鹿毛山の南あたり(戸塚区東俣野町)に「殿久保」というところがあり、
横山大膳の住居があったと伝えられています。
毒殺事件の舞台となったところです。
古地図を調べればよかったのですが、筆者は、どのへんがどのあたりなのかわかりませんでした。

※追記:後日、調べてみると、「殿久保」は「戸ノ久保」ともいい、鬼鹿毛山より約400mほど南、
現在は龍長院のあたりだったといいます。

ただ横山大膳は、当時、横山党が本拠地にしていた武蔵の国の横山の庄(現・八王子)に住んでいた
という説もあります。

ちなみに、鬼鹿毛山のあたりは、「ウィトリッヒの森」と呼ばれているそうです。
日本在住のスイス人、ウィトリッヒ氏が所有し、故郷スイスに似た景観を愛していたそうで、
現在、市に寄贈され、市民の森として人々に親しまれているとのことです。

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さて、花應院から境川を下っていくと大鋸(だいぎり)橋(現・遊行寺橋)があり、
遊行寺(清浄光寺)があります。
そしてその門前町として栄え、東海道の宿場町としても栄えた藤沢の宿があります。

遊行寺は、小栗の蘇生にひと役買った「藤沢の御上人」「遊行上人」のお寺。

「遊行上人」といえば時宗の開祖・一遍のことですが、
このお寺の法主(ほっす)も代々「遊行上人」と称されます。
正式な名称は「清浄光寺」。
しかし遊行上人が法主をつとめるお寺ということで、
「遊行寺」という呼び方が浸透しているのだそうです。

「遊行寺」から「小栗塚」までは、だいたい2〜3kmの距離。
上人は、ここから「小栗塚」までテクテク歩いていったのでしょう。

この遊行寺の裏手の方に、⑤長生院(ちょうしょういん)があります。
晩年の照手姫は、小栗が亡くなった後、遊行上人をたよって尼となり、この小院を建てて
小栗と家臣10人の霊をとむらったといわれています。

その境内の庭にあるのが、小栗と10人の家臣(十勇士)の墓。
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照手姫の墓。
筆者が訪ねた1月16日は季節がちょっと早過ぎましたが、
梅が咲くと華やかなんでしょうね。
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鬼鹿毛の墓。
鬼鹿毛は、説経では馬頭観音にまつられたとされています。
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目洗いの池。
地獄から戻ってきた小栗が、ここで目を洗ったそうです。
「古事記」のイザナギは、黄泉から戻って目を洗うと
アマテラス(太陽)やツクヨミ(月)が生まれたものでしたが……。
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ところでこの長生院でも、昭和30年代頃まで、
人が集まると、おばあさんが絵解きをして下さったんだそうです。
絵は、それほど大きくはない白黒の「小栗判官一代記畧圖(略図)」というもの。
が、語られていたストーリーは、花應院のものと一部違っていたようです。
おそらく、江戸時代後期の長生院の住職が記したという
「小栗略縁起」または「小栗小伝」がもとになっているのではないでしょうか。

※《追記》
長生院のおばあさんの絵解きは、
昭和50年(1975年)頃までやっておられたという話もあるようです。
1970〜1971年に小沢昭一さんが現地で録音したという「日本の放浪芸」(4)のCDに、
絵解きをしているおばあさんの声が残されています
(「小栗判官照手姫」──「説く芸と話す芸〜絵解の系譜」に収録)。

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そもそもこの物語は、次の史実がもとになっていると考えられます。

頃は、室町時代中期。
現在の茨城、常陸真壁郡・小栗の領主、小栗満重。
当時、関東の権力者、鎌倉公方・足利持氏に反発して、領地の一部を没収されます。
そこで満重は、1422年(応永29年)、反乱を企て挙兵。
が、しかし、足利持氏の大軍に攻め滅ぼされて、ついには小栗城で自刃します。
これが世にいう「小栗満重の乱」です。

自ら果てた満重には、息子・助重がおりました。
この小栗助重は、現在の愛知、三河の国へ落ち延びて家を再興し、その後、
茨城・太陽寺(現在は廃寺)に、
父と10人の家臣(十勇士)のための供養塔を建立したりしています。

ところが、物語はこれで終わりません。

戦国時代が始まらんとする室町時代の関東の歴史を記した「鎌倉大草紙」に、
「小栗満重の乱」の記述があり、その後の小栗助重の記事が載っています(2)

それによると、小栗城の落城後、満重の息子の小次郎助重は関東に潜伏。
そして相模の国の権現堂というところに宿をとったときのこと。
あたりの盗賊が、金品をねらってワナを仕掛けます。
近隣のきれいどころ(遊女)を集め、宴会を開いてもてなし、
その酒に毒を盛って殺そうというわけです。

そのはかりごとを知った遊女のひとり、「てる姫」は、
お酌をするときに、助重に耳打ちをして狙われていることを知らせます。
そこで助重、酒を飲むふりをして、すきを見て外へ出る。
と、そこにつないであったのが「鹿毛」という暴れ馬。
その鹿毛に乗ってひた走り、藤沢の道場(現在の遊行寺)へ駆け込み、
上人に助けられることになります。

助重の家人と、お酌をした遊女たちは毒殺され、川へ流される。
が、てる姫は酒を口にしなかったので、流された後、川下からはい上がり助かります。

一命をとりとめた助重は、その後、三河へ。
そうして後日、あらためて相模へと戻って盗賊たちを討ち殺し、
助けてくれたてる姫を探し出して褒美を与えたということです。

ここには説経の物語となったその原形があるわけですが、
史実そのものというわけではないでしょう。
史実から物語化していったその萌芽が見られると思われます。

その「鎌倉大草紙」をもとに書かれたのが、「小栗実記」
が、こちらでは、小栗判官と家臣11人が毒殺され、
それを上人が解毒の術で、すぐによみがえらせることになっています。

そしてこの「小栗実記」のストーリーは、前半を「鎌倉大草紙」に拠り、
後半の、照手姫の苦難のくだりや、
小栗が熊野の湯で蘇生するところなどは説経に拠っているようです。
ただ、小栗は毒殺されるのではなく、ふつうに病気にかかって瀕死となります。(3)

また、「鎌倉大草紙」と「小栗実記」では主人公が小栗小次郎助重なのに対し、
「小栗略縁起」では、自刃したはずの父、小栗満重が主人公です。
小栗城落城のとき、満重はからくも生き延びて10人の家臣とともに脱出し、
三河の国をたよって落ち延びたというわけです。

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歴史の事実が人から人へ伝わるうち、
話に尾ヒレがつき、背ビレがつき、物語がさまざまに生まれていったのでしょう。
それが時代の流行に合わせるように、
説経、人形芝居、歌舞伎というメディアに合わせて、さらに色を変えていった。
そして絵解きとなった。

では、どんな人々が語り伝え、物語にしていったのでしょうか?

ところで花應院のご住職が話をして下さった中に、
③「瞽女が淵」という場所が話題にのぼりました。
花應院の近所にあるというのです。
そこで、訪ねてみることにしたのでした。

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《引用・参考文献》
(1)近松門左衛門「当流小栗判官」〜近松全集刊行会編「近松全集・第14巻」岩波書店・所収
(2)「鎌倉大草紙」〜近藤圭造編集兼校訂「改定史籍集覧・第5冊通記類」(=明治33年版の近藤瓶城編『史籍集覧』を改定したもの)臨川書店・所収
(3)畠山泰全「小栗実記」〜京都大学文学部国語学国文学研究会室編「京都大学蔵大惣本稀書集成・第5巻軍記」臨川書店・所収
(4)小沢昭一取材・構成「ドキュメント・日本の放浪芸〜小沢昭一が訪ねた道の芸・街の芸」CD7枚組/ビクターエンタテイメント

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いにしえより語られし物語


神奈川は藤沢の、花應院に伝わりますこの「小栗判官照手姫絵巻」、
ご住職が語って下されし文言(もんごん)を、
一言一句、ここへ記したいのはやまやまなれど、
なにせ筆者のポンコツな記憶力。
そこで手元にあります東洋文庫「説経節」(御物絵巻「をくり」を底本とする)(1)
を横目で確かめつつ、
ここへしばし、つづってみたいと思います。
固有名詞などのもろもろも、違っていたならご容赦を。

※参照:「小栗照手に関する全国伝承マップ」(googleマップ)

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そもそもこの物語の発端は、京の都におわします二条大納言兼家さま。
子どもの出来ないことを嘆いて、鞍馬山にお参りして授かったのが、幼名・有若、
頭脳明晰、成績優秀、すくすくと成人し、常陸小栗どのとお成りある。

ところがこの小栗、気に入る女がおらぬと嫁を嫌って独身を通しております。
あるとき、鞍馬に詣でる途中、
一興にと横笛を吹いていたところ、近くの深泥(みぞろ)ヶ池にすむ大蛇、
その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身。
小栗とちぎりを結びます。
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それが都じゅうのうわさとなって、父の兼家さまは大激怒。
小栗は今の茨城、常陸の国へと飛ばされます。
そこで官職を与えられ、判官(はんがん)とお成りある。

さてそこへ、化粧品や薬をセールスして歩く小間物商人、
後藤左衛門が訪ねてまいります。
彼が、評判の美人の話をすると、小栗は、その姿を目にしていないのに一目惚れ。
その美人こそ、武蔵・相模(現・神奈川県)の国の郡代、横山大膳の娘、照手姫、
後藤左衛門は橋渡しとなって、小栗のラブレターを姫に届けます。

下の絵は、その文を姫が読んでいるところ。
撮影の腕が下手くそで、照明が映り込んでしまってスイマセン。
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照手姫も、その文をすっかり気に入り、二人は相思相愛。
ところが、姫の父親の横山大膳は、この結婚に猛反対。
しかし、そのことは表に出さず、三男の三郎がはかりごとを巡らし、
ひそかに小栗を殺そうと企てます。

そんなことともつゆ知らず、十人の家臣と横山家を訪れた小栗。
そこで横山大膳は、馬の鬼鹿毛(おにかげ)に乗ってみよと誘います。
この鬼鹿毛は、小山ほどもあるという暴れ馬。
人間を秣(まぐさ)代わりに食べている人喰い馬で、
これに殺させようというわけです。
ところがこの暴れ馬、今にも小栗を踏みつぶすかと思いきや、
小栗に言葉をかけられた途端、すっかりおとなしく従順となる。
小栗を背中に乗せて、碁盤の上に乗るという曲芸までやってのける。
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腕ではかなわないと踏んだ横山大膳は、三男の三郎に言われるまま、
宴会の酒に毒を盛り、小栗と家臣十人を毒殺します。

これでは都の聞こえが悪いと考えた横山大膳、わが娘照手姫まで殺そうとする。
そこで家来の鬼王・鬼次兄弟に、姫を川に沈めよと言いつけます。
牢輿(ろうごし)という罪人を入れる乗り物に姫を閉じ込め、舟に乗せ、
相模川のおりからが淵へ。

ところが兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。
沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。
かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。
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そうして流れ着いたところが、海の浜。
その浜「ゆきとせが浦」は、現在の横浜市金沢区野島あたりかといいます。

発見した漁師たちは不審に思い、不漁続きはこいつのせいだと打ち叩こうとする。
そこへ割って入ったのが漁民のリーダーである村君の太夫(たゆう)。
太夫は姫を助けて家へ連れ帰ります。
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しかし、それが気にくわないのが太夫の奥さん。
照手姫の白い美肌も気にくわない。
そこで太夫が仕事で留守のあいだ、姫の雪の肌を黒くすすけさせてやろうと、
松葉をくべて煙責め。
けれども、姫は無事に過ごします。
というのも、姫のかげに寄り添っている観音さまのおかげなのでした。
(照手は日光山の申し子ゆえ、本尊の千手観音が護ってくださったといいます。)
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そこでいよいいよ腹を立てた太夫の奥さん、太夫に内緒で、
姫を六浦が浦(現・横浜市金沢区六浦あたり)の人買い商人に売ってしまいます。

姫はその身を売られては買われ、流れ流れてたどり着いたのは、
美濃の国は青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓)の宿屋でした。

その美貌から遊女にさせられそうになるところを病気と偽って、下働き。
今は亡き夫の故国(常陸の国)にちなんで、「常陸小萩」と名を変える。
井戸の水を汲み上げて運んでは、お客の世話やら馬の世話やら、
下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。
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さてところで、もう一方の主人公、夫の小栗がどうしたかといえば……。
この場面は、こちらの絵巻には描かれていませんが、
毒殺された彼は十人の家臣とともに地獄へ下ります。

閻魔大王が裁いて言うには、
「小栗を悪修羅道へ落とすべし、
家臣には罪がないゆえに、娑婆へ生き返らせるべし」。
すると家臣たち、「われらはどうなっても、主の小栗を助けてほしい」と懇願します。
そのこころに感じ入った大王は、十一人を生き返らせようとする。

ところが、小栗は土葬で、家臣は火葬。
家臣は生き返ろうにも体がない。
そこで十人は、そのまま地獄に残り、閻魔大王を補佐する十王となって
末世の衆生のために今もはたらいている──と、説経では伝えています。
地獄の十王は、実は小栗判官の家臣だったんですね。

閻魔大王は、「藤沢の御上人」へと手紙を書き、小栗に付してよみがえらせる。
すると、上野(うわの)が原の小栗塚、かっぱと卒塔婆が倒れたかと思うと、
塚が四方に割れて開き、カラスが群れて騒ぎ立てる。

ちょうど近くを通りかかった藤沢の御上人、何事かとみれば、
そこに変わり果てた小栗の姿を見つけます。
(このくだり、ご住職が語ってくれた話では、「小栗略縁起」と同様に、
上人の夢枕に閻魔大王が立ってメッセージを伝えたということになっています。)

「藤沢の御上人」とは、
藤沢市にある時宗の総本山・遊行寺(清浄光寺)で、代々「遊行上人」と称される法主(ほっす)。
大空上人とも、呑海上人ともいわれます。
また、相模原市にある同じく時宗の当麻道場(無量光寺)の上人(明堂智光)とも混同され、
説経では、「明堂聖(ひじり)」とも言っています。

さて、小栗はといえば、髪はぼうぼう、手足は糸より細く、
腹には毬(まり)をくくりつけたよう。
目も見えず、耳も聞こえず、立つこともできず、あちらこちらを這い回る。
姿が、餓鬼に似ていることから「餓鬼阿弥陀仏(餓鬼阿弥)」と名付けられます。

下は、「餓鬼草紙」の中に描かれた栄養失調の“餓鬼”の姿。
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閻魔大王が御上人宛に書いてよこした文を読めば、
小栗は、熊野の湯の峯の温泉につからせれば、蘇生できるとある。
そこで、御上人、餓鬼阿弥(小栗)を土車に乗せ、土車には綱を付け、
「この者を、一引き引いたは、千僧供養、
二引き引いたは、万僧供養」
と書いた看板を首にぶら下げます。

つまり「供養になるので、どなたか引っぱって車を動かして下さい」
ということですね。

土車とは、土を入れて運ぶ車のようですが、
多くの部分を土でこしらえた車ではないかと折口信夫は言っています(2)
当時は、病気や障害で歩けない人が乞食となり、
こうした車に乗るということがあったようです。
また、癩病の人が乗ることが多かった。
だから後に、「餓鬼阿弥(あみ)」が「餓鬼やみ」と言われ、
「餓鬼病み=癩病」というイメージが出来てしまったということです。

供養を想う善意の人々の手に引かれ引かれつつ、少しずつ、少しずつ、
東海道を西へ上り、熊野を目指す道行きが語られます。

そして青墓の宿へと着いたとき、今は常陸小萩となった照手姫が目をとめる。
餓鬼阿弥が、まさか自分の夫の変わり果てた姿とは気づかぬまま、
しかし気になってしかたがない。
亡き夫の供養のため、家臣10人の供養のためと、
渋る宿の主人に何とか5日間の休暇をもらい、車を引く手伝いをいたします。

女性が付き添うとなれば余計な詮索も受けたくないと、
わざわざ古い烏帽子をかぶって巫女に扮し、もの狂いのフリをして、
引っぱる子どもたちを囃し立てているのが下の絵です。
こちらの絵の餓鬼阿弥は、肉付きがいいですね。病人のイメージでしょうか。
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御物絵巻「をくり」の方では、いかにも「餓鬼阿弥」というネーミングにふさわしい姿で描かれています。
下の絵は、近江の国は逢坂関の東にある関寺まで送り届けた常陸小萩が、またの再会を約束して、
餓鬼阿弥への一文をしたためているところ。
5日の休暇はあっという間で、この後、常陸小萩は、青墓の宿へと急いで引き返します。
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一方、餓鬼阿弥の土車は、人々の善意に引かれるまま、関寺からさらに西へと進み、京都、大阪へ。
そして大阪から熊野へ。
彼が通ったその道は、物語にちなんで「小栗街道」と呼ばれます。
ところがいよいよ熊野へとやって来たものの、峻厳な山道を土車でゆくことは出来ません。
そこで屈強の山伏たちにかついでもらい、とうとう湯の峰の温泉へとたどり着いたのでした。
そうして温泉に浸かること49日。
7日目には両の目が開き、14日目には耳聞こえ、21日目にはものが言えるようになる。
薬湯の効能はもとより、熊野権現のご加護もあったのでしょう、49日目になると、
6尺の偉丈夫、元の小栗へと復活を果たします。

蘇生した彼が最初に向かったのは、実家の京都、二条大納言兼家の屋敷。
しかし、小栗と名乗られても、ゾンビではあるまいし、
まさか死んだはずの息子が訪ねてきたとは信じられず、
「失礼だが、試させてもらうぞ」と兼家は、
障子越しに小栗をめがけて弓をひき、ひょうとぞ放つ。

すると、二条家に代々伝わる「矢取りの術」の秘伝、
幼い頃より教えられ修練してきたその技で、
小栗、一の矢を右手ではったとつかむ。
続いて放たれた二の矢を左手ではったとつかむ。
さらに飛んでくる三の矢を、歯でがちとかみしめ受けとめる。
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この「判官矢取りの段」は、物語のひとつの見せ場ですね。

この技が出来るのは小栗しかおらぬと、兼家は大喜びして勘当を解き、
御門(みかど)からも領地を賜ります。
そして、青墓の宿で働く常陸小萩──照手姫と再会。
横山大膳を討とうと取り囲みますが、姫の言葉で思いとどまり許します。
が、計画の首謀者である三男の三郎は罰して死罪に。

こちらの絵では、三郎に切腹を命じているところでしょうか。
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かくして、京都、常陸、藤沢、青墓、熊野と、各地を結ぶ物語は
大団円を迎えます。
そして物語は、各地に伝説を残しました。

次回、藤沢市周辺の伝説を歩いてみます。

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《参考・引用文献》
(1)荒木繁・山本吉左右編注「小栗判官」「説経節」東洋文庫/平凡社・所収
(2)折口信夫「小栗外伝」「古代研究Ⅰー祭りの発生」中公クラシックス・所収

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